リビングストーン教会主日礼拝2017.6.25
聖書本文:ルカによる福音書7:36-50
主題:どちらが多くイエスを愛するだろうか?

どういう心でシモンはイエスを家に招いたのか?
今日の本文は、あるファリサイ派の一人であるシモンと呼ばれる人物が、イエスを自分の家に前にて食事をした時に起きた出来事です。今まで人を家に招いたことはありますか?

ファリサイ派の一人として、世間をにぎわせるイエスがどのような人であるのかを知りたかった。
彼が本当の預言者であるのか、救い主であるのか。

当時の中近東では、人々を家に招くときに、
・香油を髪の毛に塗ってあげる
・桶に水を汲んで、足を洗ってあげる。
・歓迎のあいさつとして、口づけをする。
が習慣でした。しかし今日の本文を見ると、シモンはイエスに対してこれらを一切していないことがわかります。

突然、現れた一人の女性
その人はおそらく売春婦であろうと推測される。
その人がしたことは、ファイサイ人のシモンが一切しなかったことでした。
それは
38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
ことでした。実は、それはファリサイ人のシモンが当然、イエスを招待する時にやるべきことでありました。

それに対して、シモンの反応を見ることができます。
39イエスを招待したファリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人が分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
それは明らかな嫌悪感でした。

借金を帳消しにされた人の例え話。
41イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンである。42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」43シモンは、「帳消しにしてやった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
イエスは非常に分かりやすい例え話をシモンに語りました。
500デナリオンは20か月分の給料。50デナリオンは2か月分の給料にあたります。

罪深い女は多く赦された人
47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。

ここで、私達は、何が神の前に進み出る礼拝なのかを考えてみましょう。
何がクリスチャンの礼拝なのか?それは聖い、道徳的な行いをしながら、敬虔に神の前に近づくことか?それとも、神の赦しと愛に感謝して、情熱と愛をもって神の前に進み出ることでしょうか?
私達はどのような心で神の前に進み出ていますか?

神はなぜ私達を赦されるのか?それは目的ではなく、手段にすぎない。
二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。(42節)
イエス様の質問は、そもそも不思議ではないでしょうか?この例え話は、金貸しが、二人の人に金を貸した話です。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオン。しかし、二人とも返済不能になる。これは現実でもよくある話です。いわゆる借金地獄です。それでもうどうしようもないので、金を貸した人に「助けて下さい」と泣きすがります。そういう時に、今の日本で、仕方がないから「帳消しにしてあげる」という事はあるでしょうか?現代の日本では、恐らく借りた当人が、『破産申請』をしに行くでしょう。それは、今日の本文でいう借金帳消しとは違います。しかし、古代のイスラエルにおいては、そもそも旧約聖書で「ヨベルの年」という制度があり、50年に一度、人々が背負っている借金を帳消しにするという律法があるので、金貸しが借金を帳消しにしてあげることはあり得ないことではありません。しかし、最も不思議なのは最後のイエス様の質問です。
二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。(42節)
借金が帳消しにされることがあり得るとして、その後に借りた人が貸した人を愛するなんてことがあり得るでしょうか?もし借金地獄に苦しむ人がいて、金貸しが帳消しにしてあげたところで、感謝はすると思います。心から金貸しにお礼は言うでしょう。しかし、もし私が金を借りた人ならば、『もう二度とサラ金に行くことはないし、金貸しにも会うことはないし、ようやく自由になれる』と喜ぶでしょう。しかし、イエス様がこの例え話をする時に、むしろこの出来事を通して、金貸しと金を借りた人との、『愛の関係』が始まることを示唆しているのです。現実の世界において、借金取りと金を借りた人が互いに愛し合うようになることはあり得ないでしょう。しかし、これは、神と私達の間に起こりうることを表しています。それは、つまり、

私達は返せない負債を抱えている存在です。そもそも、私達は神から恵みとして、命を頂いているのではないでしょうか?私達の命は、私達が作り出したのでしょうか?それは不可能です。命は、神から恵みとして頂いたものです。それは、神の栄光のために、正しく、意味ある方法で生きるべき命でした。しかし、全ての人間は与えられた命を、神のためではなく、自分の利益と欲望の為に用いていることを、聖書は常に語っています。だからこそ、私達は与えられた命さえも、神の前に十分な形でお返しできない、むしろ数多くの罪を犯し、神に対して損害を与えていることが、私達の置かれた状況です。
しかし、神は私達の罪という借金を帳消しにして下さいます。それは、究極的には、イエス様が十字架において、私達の全ての罪という負債を背負い、私達の罪の罰を完全に受けることで、ご自分の命をもって、私達の全ての借金を肩代わりされたことを意味しています。イエス様の命の価値により、私達の罪という負債は償われました。
その事実を悟り、理解し、信じるようになる人は、ただイエス様の犠牲に感謝することに留まらず、私の為に死なれ、復活されたイエス様を愛するようになることを願っておられます。