東京リビングストーン教会説教

主題:成し遂げられた!

 

次に、2番目の叫びはイエス様が息を引き取られる直前の叫びでありました。50節をお読みしましょう。

50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

イエス様がこの時、具体的に何を大声で叫んだのかは、マタイによる福音書には書いてありません。しかし、この叫びがどういう内容であったのかは、51、52節を読むことを通して理解することができます。

 

51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 

 

イエス様が大声で何かを叫び、息を引き取った時に、驚くべきことが起こりました。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。死者の復活がその後に続きますが、今日注目したいのは、この神殿での出来事です。神殿は、神が臨在される場所であり、神聖な場所です。それはつまり、神と罪ある人間を隔てる場所だと言えます。

 

エゼキエル書42:20彼は四方を測ったが、外壁は全体を囲んでおり、その長さは五百アンマ、幅も五百アンマであった。それは、聖なるものを俗なるものから区別するためであった。 

エルサレムの神殿は、一番外側が「異邦人の庭」、その次に「婦人の庭」、「イスラエル人の庭」、そして「聖所」があり、その「聖所」の一番奥が「至聖所」になります。つまり、異邦人は「異邦人の庭」まで、婦人は「婦人の庭」まで、イスラエル男性は「イスラエル人の庭」まで入ることができるけれども、それ以上先に進むことは許されませんでした。イスラエルの祭司は聖所に入ることはできましたが、一番奥の至聖所に入れるのは、一年に一度、大祭司だけが大贖罪日のみ、入ることができたのです。このようにして、誰も神の臨在する至聖所には入れませんでした。大祭司は、イスラエル民族全体の罪の贖いの為に、小羊の血を流して、犠牲の捧げものを捧げて至聖所に入ります。しかし、もしその大祭司が十分に罪から清められていないならば、至聖所に入るやいなや、大祭司は神に打たれて死ぬようになります。それほどまでに、神がおられる至聖所は聖なる場所であり、一切の罪を受け入れない神聖な場所でした。そこに入るには、必ず小羊の犠牲が必要でした。その聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が完全に裂けたというのは、何を意味するでしょうか?神と人を隔てる根本的な問題、「罪」の贖いの御業が「成し遂げられた」ことを意味します。だからこそ、私達は50節のイエスの叫びは、ヨハネによる福音書19:30だと考えることができます。

 

ヨハネ19:30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 

 

イエス様の十字架の死により、神と人との隔たりはなくなりました。実にイエスこそが、長い間イスラエル民族の間で捧げられていた小羊の犠牲の本体であり、世の罪を取り除く神の小羊でした。このようにして、罪の贖いが成し遂げられました。これが、イエスが死の際に語ったもう一つの言葉でもあります。それは先ほど話した仏陀の言葉とどれほど違うでしょうか?

 

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの出来事は過ぎ去るものである。怠ることなく修行に励み、あなたの救いを成し遂げなさい』と。」

 

仏陀は弟子たちに命じました。怠ることなく修行を『成し遂げなさい』。しかし、イエスは「私が既に救いを『成し遂げた』」と言いました。もし、イエスがご自分の死に際して、仏陀と同じように、「私は世を去っていく、救いはあなたが努力して成し遂げなさい」と言われたなら、どうでしょうか?私達は絶望の中に突き落とされるでしょう。しかし、イエスは十字架で救いを「成し遂げて」下さいました。イエスは弟子たちに囲まれて、尊敬されて死を迎えませんでした。むしろ弟子たちに裏切られ、神に見捨てられました。しかし、その死の最後に「怠ることなく救いを自分で成し遂げなさい」とは言われませんでした。「これで救いが成し遂げられた」と仰って下さいました。その証拠が、神殿の垂れ幕が避けたということです。

 

ヘブライ人への手紙10:19-20にそのことが語られています。

ヘブライ10:19それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。20イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。 

 

このようにして、救いの道を開いて下さった主イエスに感謝しましょう。私達は何の為に生きていますか?自分の救いを自分で成し遂げる為に生きていますか?それとも、既に成し遂げられた救いに感謝し、喜びながら生きていますか?もし、私がキリストの弟子ではなく、ブッダの弟子で、このように言われたとしたら、どうでしょうか?もはや、私達は仏陀の言葉のように、救いを「成し遂げる」為に神に従う必要はありません。私達は救いを成し遂げる為に努力してはいけません。イエスを通して救いが「既に」成し遂げられたので、神に従うのです。更には、救いの喜びと感謝の中で神に従うのです。これがクリスチャン生活であることを私は神に感謝します。

本当にこの人は神の子であった。

 

最後に、暗闇における3つ目の声は、イエスの声ではありませんでした。人々の声です。特に、ローマの百人隊長の声です。

 

54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 

 

ローマ人はイエスを直接的に十字架に釘付け、イエスの死を確認した人々です。しかし、イエスの十字架の死を目撃し、彼らは意外にも「本当に、この人は神の子であった」と言いました。彼らは本来、神の言葉を知らない人々です。律法も知らず、ユダヤ教の礼拝にも参加したことのない人々でしょう。それだけでなく、神の子であるイエスを直接的に十字架にかけた人々です。ある意味、イスラエルの神から最も遠い所にいる人々です。最も神から見放され、神に裁かれるべき存在だったはずです。しかし、彼らがイエスについて「本当に神の子であった」と信仰告白しています。彼らが救われたのは、まさに神の恵みの故でした。世の中には、そのような事が度々起こります。イエスを十字架に付けた異邦人であるローマ人たち、そしてその近くにはイエスを信じた女性たちがいました。そこには最も神に近い存在であった祭司達や、イスラエル人男性の名前はありません。ここには女性と異邦人たちの名が記されています。彼らこそ、「本当に、イエスは神の子であった」と告白したのです。最も神から遠く離れていると思われていた人々が、十字架を通して、最も神に近づけられました。これが神の恵みです。神の恵みは、神の前で相応しいと思われる人々を神に近づけるよりは、神の前で最も相応しくないように思える人々を神の近づけるのです。そのような神の恵みにより、私達は救われたでしょうか?そのような神の恵みのみに頼り、今日も神に近くいるでしょうか?

 

有名な神学者であるジョン・ストットは、

「イエスの十字架は私達の為になされた出来事である前に、十字架は私達の手による出来事である」

Before we can begin to see the cross as something done for us (leading to faith and worship), we have to see it as something done by us (leading us to repentance). 

 

と言いました。十字架の死は、私達の為に示された最高の愛の表現です。しかし、その前に、十字架の死は、イエスに対する、私達の手による最悪の罪の表現です。私達は十字架を通して、私自身の手による罪を悟り、悔い改めながら、同時に、私のために身代わりに死なれたイエス様の犠牲の死を思う時に、神の前にひれ伏すしかありません。十字架を通して示された、人間の罪と神の愛こそが、福音のメッセージであり、イエスが成し遂げた救いであると信じます。ダビデがイエスの十字架の苦難を預言した詩編22編はこのようにして終わります。

 

詩編22:30命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 31,32子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

 

神の子であるイエスが、父なる神に見捨てられたのは、私達が二度と主から見捨てられない神の子になるためです。イエスが神に拒まれたのは、私達が神に受け入れられるようになる為であり、イエスが呪われた十字架の死刑を受けたことで、私達は罪の呪いから解放されたことを感謝します。それこそが、詩編22編31節に示された、成し遂げられた恵みの御業であります。私達はこの偉大な救いの御業を、文字通り民の末に語り告げる者になりましょう。それは、あらゆる人々に十字架の救いの恵みを告げ知らせることです。今年の受難週が、多くの人々とイエスが成し遂げた恵みの救いを分かち合い、復活の栄光と勝利に期待して歩む私達になりましょう。