東京リビングストーン教会主日礼拝2017.4.23

聖書本文:ルカによる福音書6:17-26
主題:逆転された神の王国

17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

こんにちは。先週は恵みの中でイースター礼拝を捧げられて感謝します。イエス様の復活は、先週の日曜日で終わる一年に一度のイベントではありません。イエス様は復活され、今も、常に、私達と共におられます。それ故に、私達は毎日、「復活の信仰」をもって生きる事を主は願われています。私達は救われたクリスチャンとして、いかに生きるべきでしょうか?または、もし、私達がイエスの救いを得ることが出来るなら、私達はどのような新しい生き方をすることができるようになるでしょうか?今日の本文はそれに対する一つの答えです。『復活の信仰』、それは罪と死を乗り越えた新しい生き方です。死という不可能を乗り越え、可能にさせる力強い生き方です。それは私達の生き方を変革します。この世の価値観をひっくり返す力があります。事実、初代教会のクリスチャン達は、世界をひっくり返す勢いで広がっていきました。そのような生き方、価値観の根底にあるテーマが今日の本文にあります。それは、「ひっくり返された王国」として表現されています。

今日の本文はマタイによる福音書5章の山上の説教に見られる「八つの祝福」の短いバージョンだと言う事ができます。今日の本文はマタイの山の上に対して「平地の説教」と呼ばれている。山上の説教より簡略化されていますが、「幸い」と「不幸」を対比させていることに特徴があります。それは幸いな者は「貧しく」、「飢え」ていて、「悲しみ」に満ち、人々に憎まれる「憎まれる」のに対して、不幸な者は「富んでいて」、「満腹」になり、「笑い」に満ち、人々に「褒められる」のだ言います。もう一度言います。幸いな者は「貧しく」、「飢え」ていて、「悲しみ」に満ち、人々に憎まれる「憎まれる」のに対して、不幸な者は「富んでいて」、「満腹」になり、「笑い」に満ち、人々に「褒められる」のだ言います。逆じゃないでしょうか?なぜ、貧乏で、お腹を空かせて、悲しみ、人に憎まれるのが幸せでしょうか?なぜ、金持ちで、一杯食べて、笑いながら、人には褒められるのが不幸ですか?あり得ないことです。全く逆転した価値観をイエスは語っています。

しかし、それこそまさに、今日のメッセージの主題である「ひっくり返された王国」の価値観です。先ほど言ったように、なぜ初代のクリスチャン、初代教会は世界をひっくり返したのでしょうか?それは彼らのの価値観・考え方がひっくり返っていたからです。彼らの価値観、世界の見方、考え方、行動パターンが世の中と正反対の逆転したものだったからこそ、世界をその通りに逆転させたのです。そのひっくり返った価値観、世界観、行動パターンこそが今日の本文です。その思想と価値観はイエスを通して語られました。

イエスは今日の本文を山から下りた場所で語り、マタイの5章では山の上で語りました。両方とも山と関連づけられています。なぜ、山で人々に語ったのか?その当時、社会に革命を起こそうとするゲリラ達は、山に隠れました。そして山の中で革命の計画を立て、山を下りて計画を実行したのです。ある意味、イエスとその弟子達は神の王国の革命軍である、という事ができます。そして、イエスは山の上で、山を下りて、自分がこの世の王国ではない、神の王国の真の王として、自らのビジョンとポリシー、公約をそこにいた人々に語ったのです。つまり、この本文はイエスの王としての就任演説だと言う事ができます。

就任演説》
私達はこの世界で、国家のトップが就任演説を通して、自分のビジョンを現し、人々に未来を約束するのを見る事ができます。今年1月にアメリカ大統領に就任したトランプ大統領の就任演説のポイントは何だか分かりますでしょうか?〝Make America Great Again″私はアメリカをもう一度、偉大にする。これがトランプの宣言であり、約束です。彼はその約束を実行しようと今、様々な形で行動しています。シリアを攻撃し、今まさに北朝鮮を攻撃しようとしているかもしれません。いずれにせよ、彼は自らの就任演説を行動に移そうとしているのです。

《就任演説であり、To do listではない》
今日の本文、幸いと不幸の個所は、イエスの王としての、就任演説です。今日の本文を見ながら注意すべき事があります。この教えは、イエスの私達に対する「To do list」ではありません。このようにしたら、あなたは祝福される、ああしたら、あなたは不幸になる、というものではありません。私達が幸せになるためのルールではないし、私達が不幸にならない為の警告でもありません。これは、イエスが私達をこのようにして下さるという「公約」です。イエスが世界の価値観をこのように逆転させるであろうという宣言であり、約束であります。

イエスの就任演説たるこの説教を皆さんはどのように聞きますか?もし大統領として、このような演説をしたら、人々はショックを受けて、すぐさま大統領をクビにしたことでしょう。
今日の本文の価値観はそのように、あり得ない価値観です。世の中と正反対の価値観です。それを私達に要求するのではなく、イエスがそれを成し遂げると言う宣言であることを心の留めるべきです。


貧しい者は幸いである。

まず、20節~23節を注目しましょう。

6:20さて、イエスは目を上げ弟子達を見て言われた。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである。21今飢えている人々は幸いである、あなた方は満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなた方は笑うようになる。22人々に憎まれる時、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなた方は幸いである。23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

この世の中には多くの幸せの基準がある。それは時代により、国により様々だと思います。ある社会では男性の地位が上であるし、別の社会では女性の地位が上です。ある国ではもてなしを受ける時、最後まで食べる事が礼儀であるし、別の国では、少しだけ残すことが礼儀正しいという国もあります。ある国は資本主義国家、ある国は社会主義国家、ある国は独裁者の支配する国であり、その制度と価値観も色々です。

しかし、今日の本文20-23節を見てみましょう。いつの国、時代において、この本文の内容を進んで受け入れた国や民族があるでしょうか?ないと思います。それはこの世のあらゆる国家や民族の考えに相反するものです。正反対であり、逆さまです。
この世の基準が本文に出て来ます。それは、要約すれば、豊かさ、慰め、成功、そして人の評価です。私達はこれらをもって幸せな人生を定義しようとしていないでしょうか?イエスは私の考えは正反対だと言いました。

豊かさvs貧しさ&満腹vs飢え
そこには多くの貧しい人々がいたであろうと思われます。そこには多くの飢えている人々、悲しむ人々がいたでしょう。そこにはユダヤだけでなく、ティルスやシドンも言及されているので、異邦人も含まれていただろう。
最初の二つの幸せは貧しさと飢えです。それに対する不幸は豊かさと満腹です。
:世の中は豊かさこそ幸福であり、貧しさこそ不幸の源だと言います。しかし、イエスは豊かさこそ不幸であり、貧しさこそ祝福だと言います。何を意味するのでしょうか?
貧しさとは、単なる経済的な困難をいう事ではありません。自分自身に何かが欠けている。欠落状態とそれを公に認めている事こそ、貧しさの意味であり、それが全ての祝福を受ける源です。むしろ、自分には何も欠けていない。自分は豊かで、今のままで十分だという人々こそ、神の迫りくる裁きに気を配るべきです。
新約聖書のヨハネの黙示録3章には、小アジアにあるラオディキア教会がイエス様から直接叱られる裁きが出来ます。

黙示録3:17あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。 3:18そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。 

ラオディキア教会は黙示録においてイエス様から厳しく叱られました。その原因は、「偽りの豊かさ」と「偽りの満足」であると言えます。ラオディキアは繁栄した都市で、多くの金持ちが住んでいました。更に、服を作ることでも有名な町でした。日本で言うユニクロ発祥の地のようなものでしょう。更に、この都市は目薬でも有名な町でした。つまり、ラオディキアの町は経済的な豊かさ、物質的な豊かさ、健康という豊かさも提供できる町でした。しかし、イエス様はこの町のクリスチャンに対して、このように警告します。この世の金ではなく、火で精錬された金をイエスから買いなさい。服で有名な町でありながら、あなたは実は裸なので、白い衣を買い、目薬で有名な町であっても、あなたは霊的に目が見えていない。霊的な目薬をイエスから買いなさい。これがイエス様の警告でした。

イエス様はこのようにして、私達の豊かさと満足は、実はうそ偽りであることを明らかにして下さいます。そして、本当の豊かさと満足は、イエス様の元にあると諭しています。今日の本文はもちろん、ラオディキア教会の聖徒に対するメッセージです。人々はクリスチャンでありながらも、偽りの豊かさに満足してしまうものです。そして、知らない間に神を慕い求めなくなります。

それならば、ノンクリスチャンであるならば、言うまでもない事です。こう考えてみると、私達がノンクリスチャンの時に、自分自身が惨めな罪人、何もない虚しい存在であることを気付くことができるのは、神の恵み以外の何物でもないと言う事ができます。神の恵みと啓示なしには、自分の惨めさに気付くことはできないからです。そして、私達がクリスチャンであったとしても、今日のラオディキア教会の人々のように、常に偽りの豊かさに満足する私達がいます。だからこそ、私達は常に神の前に悔い改めることが必要です。

黙示録3:19わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 

私達一人一人はクリスチャンになっても偽りの豊かさで満足しようとする者です。ならばイエスを信じる前はなおさら頑なでした。それなら、私達が神の前で貧しくなり、ただ信仰と恵みで救いを受けたのは、神の驚くべき御業です。その事に感謝しつつ、私達はキリストにおいて豊かになるよりは、自分の満足の為に豊かになることがあまりにも多いです。それを日々悔い改める私達になりましょう。


笑いと悲しみの逆転

次の二つの幸いは「悲しみと憎まれる」ことです。それに対する不幸は「笑いと人々の称賛」です。

成功(笑い)vs悲しみ&褒められるvs憎まれる》
この二つの要素に関しては、私達の社会での実際的な状況と関係があると言えます。
ある人々は社会的に成功し、人々から認められ、笑いながら生きるでしょう。他方で、自分の罪や弱さに悲しむ人々がいます。また神の前で正しく生きようとする故に、憎まれる人々もいます。これらは、私達と世の中との関係だと言う事ができます。それは、この世の王国と神の王国とのギャップであるとも言えます。

その為には、まず、今私達が置かれている状況、私達が属している、この世の王国と神の王国について知らなければなりません。

《この世界には、二つの王国がある。「世の王国」と「神の王国」である。》
コロサイ1:13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
Colossians 1:13 For he has rescued us from the dominion of darkness and brought us into the kingdom of the Son he loves,
しかし、これこそが神の国の全く新しい判断基準を語っている。それは完全に価値基準の逆転した、「逆さまの王国」です。
それは、イエス様は貧しさや悲しみ、飢えを肯定しているのではない。この世の貧しさ、悲しみ、飢えは人間の罪から来ていることを聖書は語っている。そして、世の終わりに完成する神の国には、悲しみも貧しさも飢えもないことを黙示録は約束している。

ローマ13:12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 

さて、質問です。パウロが語る時間帯は、朝でしょうか?それとも夜でしょうか?答えは両方です。この時は朝でもあるし、夜でもあるのです。確かに夜は過ぎ去ろうとしています。しかし、夜の暗がりはまだ残っています。それでも、光の量は少しずつ増していて、徐々に明るくなろうとしています。完全な日の出と太陽の光はまだです。しかし、確かに明るくなろうとしているのです。これが、朝であり、夜である時間、いわゆる「暁」と言えるでしょう。これが今、私達が置かれている霊的な環境です。「Already but not yet」の時代です。
つまり、パウロはこの世には既に神の王国は始まっているが、未だに世の王国は残っていることを意味します。つまり、私達クリスチャンは世の国と神の国の影響力に挟まれて生きているということです。
それゆえに、私達は神の王国の基準で生きようとする時に、世の人が笑う時に、クリスチャンは悲しみ、世の人々が褒めらえる時に、クリスチャンは憎まれることがあり得るのです。これは、私達が社会人として世に遣わされる時に、大きな課題になります。私達も世で苦難を受けるだろうと、イエス様は約束しているからです。
しかし、そのような中でも、主は悲しむ人、見下げられる人々に対する憐れみを捨てない、恵みと憐れみの王である事を聖書は約束しています。特にルカによる福音書がそれを語っています。

《マグニフィカートの逆転現象》

私達はルカによる福音書には多くの「人々」が出てくるのを見る事ができます。女性の名前も最も多く出てくる。そこには、イエスは多くの見下げられている人々、苦しみ、悲しみ、陰に隠れている人々に対して愛の目を注いでいたイエス様の姿をルカは注目している。そのような人々の悲しい運命は、イエスによって逆転されるであろうということである。その事について、ルカは1章のマリアの賛歌「マグニフィカート」で大胆に述べている。そこには多くの逆転現象がみられる。

46そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、 47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、 49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 53飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
特に51節、52節はまさにイエス様が今日の本文で約束した逆転現象について語っています。
この約束はいつのものなのでしょうか?今すでになのか?それとも未だに、これからでしょうか?答えは両方であると言えます。今日の本文を見てみれば、「今」という言葉が4回出てきます。今飢えている人は満たされ、今満腹の人は飢えるようになるとイエス様は語ります。それはいつでしょうか?世の終わりの審判の時でしょうか?もしそうならば、私達は一体どれほど忍耐強く待たなければならないでしょうか?

共産主義の思想家であるカール・マルクスはこの御言葉に関してこのように意見しました。“ああ、まさにこの本文こそ私がキリスト教に対して忌み嫌っている事そのものである。クリスチャンという哀れな人々よ、一生苦しみの中で忍耐しなければならないのか。不当な差別や不平等をありのままに受けて、貧しい思いをし、それで死んで天国で美味しいパイを沢山食べることができるそうだ。”これがマルクスの「天における報い」の概念でした。しかし、聖書が本当に語ることはそうではありません。もう一度、22節、23節をお読みしましょう。

22人々に憎まれる時、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなた方は幸いである。23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。

「その日には」喜び踊りなさい。
その日はいつですか?世の終わりの審判の日、イエスの再臨の日でしょうか?いいえ、違います。まさに「追い出され、罵られ、汚名を着せられた時」です。それは遠い未来の時ではありません。まさにその時、「今」という時です。一体、追い出され、罵られ、汚名を着せられる時に、喜び踊ることができるでしょうか?聖書にはそのようにした人の名が記されています。使徒言行録7章に出てくるステファノ執事です。彼は使徒ではなく、執事でした。
彼は人々の前で大胆に福音を語り、迫害され、石で撃ち殺されました。しかし、ステファノが追い出され、罵られ、汚名を着せられている時に彼はこう叫びました。

使徒言行録7:55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、 56「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 

ステファノは自分自身が天におられるイエスと共にいるのを見ました。それゆえに、彼は喜びで満たされました。
私達はもちろん、ステファノのように偉大な殉教を遂げることはないでしょう。しかし、私達とステファノの共通点があります。それは私達の立ち位置です。私達は今、どこにいるでしょうか?もちろん、この地上にいます。しかし、私達の命はどこにあるのかを聖書は語っています。

コロサイ3:3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 

私達の命も、ステファノの命も、キリストと共に神の内に隠されています。だから、私達の立ち位置は実はこの世ではなく、神の御国であります。だからこそ、この世の価値観、この世の力から自由になれます。そして、私達は自由な者として、カール・マルクスが指摘したように、世の中の不義や不平等と戦うべきです。それが、神の国を本国とするクリスチャンの歩むべき道だと信じます。イエス様は決して、私達が天国に召され、世の終わりまで待たれるお方ではありません。私達はそれを主の御言葉から確信することができる。
イエス様は会堂で御言葉を語るように依頼されました。その時、

ルカ4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 

イエス様はイザヤ書61章を読みながら、このように語りました。

イザヤ61:1主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 

そこには自由と解放がもたらされ、良い知らせが告げられるとあります。それは、世の終わり、審判の時ではありません。イエス様がその場におられる「今日、今」であります。