ポール・アンカ
ニール・セダカ
この二人のポップ・スターは、1950年代後半のライバルでした。
カナダはオタワから出たポール・アンカが自作の「ダイアナ」でメジャー・デビューしたのが1956年、15歳(!)のときです。
ポール・アンカ「ダイアナ」当時のテレビ映像
この曲は翌年にはアメリカでNO.1ヒットとなり、いきなり世界のアイドル・スターとなりました。
その後も「君はわが運命」「マイ・ホーム・タウン」「Put Your Hand On My Shoulder」「しのび泣く時」など自作曲ヒットを連発。シンガー・ソングライターのはしりでした。
一方、ニール・セダカはNYの出身。最初のヒット曲「恋の日記」は後の1959年ですが、その前にコニー・フランシスに「間抜けなキューピット」友人のハワード・グリーンフィールドとともに作っています。以来、2人は作家チームとして大活躍します。最初から「作家」としての活動も行っているのがニール・セダカの強みでしょうか。
1959年に発売された大ヒット曲、ニール・セダカの「オー、キャロル」当時のテレビ映像
この曲は、ガール・フレンドのキャロル・キングさんに捧げた曲であることは有名ですね。
日本ではこのあたりのポップスを日本語に翻案したカバー・ポップス黄金時代が到来します。フジテレビの洋楽ヒット番組「ザ・ヒットパレード」が始まったのが1959年、昭和だと34年です。ちょうど映画「三丁目の夕陽」の時代背景にシンクロします。
ニール・セダカにはポップな曲も多くあります。こんな曲「Calendar Girl」も大好きでした。
YouTubeには、そのほかニール・セダカの映像がたくさんアップされています。
ニール・セダカHappy Birthday Sweet Sixteeny⇒
すてきな16才
ニール・セダカ Got a One Way Ticket To The Blues⇒
恋の片道切符
ニール・セダカ The Diary⇒
恋の日記
ニール・セダカStupit Cupid⇒
間抜けなキューピット
ニール・セダカはグリーンフィールドとコンビでアルドン・ミュージックという音楽出版社で作品作りを続けています。
この出版社を始め、たくさんの音楽出版社が入っていたのがNYのブリル・ビルディングで、アメリカ音楽業界を支えた≪ティン・パン・アレイ≫の象徴的存在だといわれいました。いまから10年ほどまえでしょうか、この時代、音楽出版社での作品作りに励む若者たちの映画「グレイス・オヴ・マイ・ハート」が日本でも公開され、観にいきました。
その時代には、キャロル・キングも売れっ子作家として、ジェリー・ゴフィンとのコンビで、ニール・セダカ同様、多くのヒット曲(「ロコモーション」など)を量産しています。そもそも音楽出版社が作曲家・作詞家を抱えて曲をストックし、ミュージカルのプロデューサーたちに売り込むビジネス・モデルは19世紀からアメリカでは始まっていました。
ニール・セダカは1970年代に入ってもこんなヒット曲を生んでいます。
ニール・セダカ「ラフター・イン・ザ・レイン」
一方、ポール・アンカは’60年代は歌手として低迷したことは前回のブログで述べたとおりです。ところが、1969年にフレンチ・ポップス「コム・ダビチュード」を英訳詞をつけて御大フランク・シナトラに捧げて、大成功を収めたました。さらに最近にいたっても「ポール・アンカ/ロック・スウィングス」というロック名曲カバー・アルバムを出して、現役バリバリで歌の実力のほどを聴かせてくれています。
ニルヴァーナ、ボン・ジョビ、REM,オアシス、またヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」まで見事に歌っています。この7月で68歳になるそうです。ロックを歌うポール・アンカはこんな感じです↓
ポール・アンカの「Smells Like Teen Spirit」(ニルヴァーナ)
*次のネタは、再度シナトラ御大の「マイ・ウェイ」話に戻りましょうか。ちょっとロック話に流れて生きたい気持ちもありますが・・・。
ニール・セダカ
この二人のポップ・スターは、1950年代後半のライバルでした。
カナダはオタワから出たポール・アンカが自作の「ダイアナ」でメジャー・デビューしたのが1956年、15歳(!)のときです。
ポール・アンカ「ダイアナ」当時のテレビ映像
この曲は翌年にはアメリカでNO.1ヒットとなり、いきなり世界のアイドル・スターとなりました。
その後も「君はわが運命」「マイ・ホーム・タウン」「Put Your Hand On My Shoulder」「しのび泣く時」など自作曲ヒットを連発。シンガー・ソングライターのはしりでした。
一方、ニール・セダカはNYの出身。最初のヒット曲「恋の日記」は後の1959年ですが、その前にコニー・フランシスに「間抜けなキューピット」友人のハワード・グリーンフィールドとともに作っています。以来、2人は作家チームとして大活躍します。最初から「作家」としての活動も行っているのがニール・セダカの強みでしょうか。
1959年に発売された大ヒット曲、ニール・セダカの「オー、キャロル」当時のテレビ映像
この曲は、ガール・フレンドのキャロル・キングさんに捧げた曲であることは有名ですね。
日本ではこのあたりのポップスを日本語に翻案したカバー・ポップス黄金時代が到来します。フジテレビの洋楽ヒット番組「ザ・ヒットパレード」が始まったのが1959年、昭和だと34年です。ちょうど映画「三丁目の夕陽」の時代背景にシンクロします。
ニール・セダカにはポップな曲も多くあります。こんな曲「Calendar Girl」も大好きでした。
YouTubeには、そのほかニール・セダカの映像がたくさんアップされています。
ニール・セダカHappy Birthday Sweet Sixteeny⇒
すてきな16才
ニール・セダカ Got a One Way Ticket To The Blues⇒
恋の片道切符
ニール・セダカ The Diary⇒
恋の日記
ニール・セダカStupit Cupid⇒
間抜けなキューピット
ニール・セダカはグリーンフィールドとコンビでアルドン・ミュージックという音楽出版社で作品作りを続けています。
この出版社を始め、たくさんの音楽出版社が入っていたのがNYのブリル・ビルディングで、アメリカ音楽業界を支えた≪ティン・パン・アレイ≫の象徴的存在だといわれいました。いまから10年ほどまえでしょうか、この時代、音楽出版社での作品作りに励む若者たちの映画「グレイス・オヴ・マイ・ハート」が日本でも公開され、観にいきました。
その時代には、キャロル・キングも売れっ子作家として、ジェリー・ゴフィンとのコンビで、ニール・セダカ同様、多くのヒット曲(「ロコモーション」など)を量産しています。そもそも音楽出版社が作曲家・作詞家を抱えて曲をストックし、ミュージカルのプロデューサーたちに売り込むビジネス・モデルは19世紀からアメリカでは始まっていました。
ニール・セダカは1970年代に入ってもこんなヒット曲を生んでいます。
ニール・セダカ「ラフター・イン・ザ・レイン」
一方、ポール・アンカは’60年代は歌手として低迷したことは前回のブログで述べたとおりです。ところが、1969年にフレンチ・ポップス「コム・ダビチュード」を英訳詞をつけて御大フランク・シナトラに捧げて、大成功を収めたました。さらに最近にいたっても「ポール・アンカ/ロック・スウィングス」というロック名曲カバー・アルバムを出して、現役バリバリで歌の実力のほどを聴かせてくれています。
ニルヴァーナ、ボン・ジョビ、REM,オアシス、またヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」まで見事に歌っています。この7月で68歳になるそうです。ロックを歌うポール・アンカはこんな感じです↓
ポール・アンカの「Smells Like Teen Spirit」(ニルヴァーナ)
*次のネタは、再度シナトラ御大の「マイ・ウェイ」話に戻りましょうか。ちょっとロック話に流れて生きたい気持ちもありますが・・・。