(速報)大国主再生の琉球の旅 〜 そして、東京 待っていたのは傘の神!? | かんながら

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1日早くでれば喜界島まで行けるのはわかっていた。

でもぐずぐずしている間にタイミングを逃した。

 

で、翌日は荒天。

フェリーは初便から予定通り欠航。

 

「来週は晴れるから観光しよう?」

って気遣ってもらったけど、どうしても長居していると根が生えてしまいそうな気がする。

 

 

もちろん許される場所でだったら望むところだけど、ここはあくまでも一時的な場所だと知っている。

 

乗合船が出たら島を出ますって突然いって港に送ってもらう。

先のことは決めてない。

バスで街まで1時間半、空港まで2時間半。

移動しながら考えたらいいって思ってとりあえず荷物をつめて出発。

 

 

喜界島に寄って帰ろうと思ったが、よりによって喜界島便は2便とも欠航で、かつ鹿児島行きも満席か欠航。

 

残すは東京に帰るか、福岡か関空。

 

そこで屋久島の治療師に電話。

「今どこ?」

「福岡」

「あれ、大阪って言ってなかったっけ」

「2月に延期」

 

ってところで残るは東京か福岡。

 

「東京に帰れたら東京に帰る。ダメだったら福岡行くかも」

福岡便は鹿児島空港からの機材を利用するらしいので、こちらに着陸できなければアウト。

 

2泊名瀬ですれば、船で移動もできると思ったが、動けるうちに動かないと、動けなくなるのが離島。

 

 

結局東京便も45分遅れの出発。

 

 

 

洗い清められた東京。

なんだろ、やっぱり東京好きなんだってかんじる。

人の気配を感じる場所。

 

 

白山のサルタヒコから、何度目かの絶交宣言をくらい、またしても「異邦人」と思い知らされる。
そんなことはわかってはいる。
そもそも、美志摩かな以前に、わたしは写真塾の師匠だった広告写真の仕事をしていた写真家の先生の命名で、「ジプシー」って呼ばれてた。
それはもう25年くらい前のできごと。
それから、わたしは中東で優雅に暮らせただろう縁談を蹴ってアフリカ放浪の旅にでる。
 
なんていうか、わたし今までずっとそういう「玉の輿」案件あっさり蹴ってたんだな。
よほどの苦労好き?
やっぱり立派な人よりやさしい人が好き。
お金は自分でも稼げるもん。
 
そこいらが男って言われる所以かな。
この間島の姉さんにも言われたし、「君は女なんだよ」とか「君の力はホトの力」って言ってた伊勢平氏おじさんですら「おまえは女じゃないな」って言われてるからね。
 
 
そうなの、もともと「家を継ぐため」の要員だったんだから。
祖父が亡くなって、母が嫁いで家を断絶するまでずっと「家を継ぐ」って言われ続けてきたからね。
 
 
なんでもう跡形もなく家も財産もないのに?って思ってたけど、
それも伊勢平氏おじさんがおばあさまから言われていたっていう「家を再興するんだよ」と一緒ってことなんだろうな。
 

 

あまりにもあれこれ言われると、人間とはどうせわかりあえない、ってあきらめてる私も心折れそうになる。

そんなときには、「神は幻想」って人間離れした感性の持ち主と交流したくなる。

 

ふと最近のやりとりを振り返ってみると見覚えのある写真が。

 

ヨギの治療師が送ってきた写真をわたしはスルーしていた。

 

自分の写真を送り返してきた、と思ってよくみていなかった。

 

しかしなんと、それは別のお寺のものであった。

しかもわたしは高知の金剛福寺のもので真言宗だった(代々木の街から、土佐・阿波へ 〜その2 梅の山内氏が支えた三つ柏のサダ山の寺)が、こちらは浄土宗のお寺のものだ。

 

 

 

清岸寺(幡ヶ谷原町八〇三番地)
浄土宗、小石川伝通院末、
龍池山不断院と号す。もと寶池山と号し、代々木山谷にあつた。開山専蓮社覚誉呑了。寛永元年建立、呑了は、石州津和野の人で、正保四年十二月十五日に寂した。明治四十年寺域が、代々木練兵場に編入せられ、旧法界寺跡の現在の場所に移り、落成したのは、同四十二年九月である。本堂に龍池山の額を掲げた。龍の字は文字の代りに、左甚五郎の作と称する木彫の龍を用い、釘打にしてあつた。屡々抜出したので、釘付にしたという。この龍は、古来雨請いに験があるといわれ、炎旱の折には、村民等、境内の池辺に、額のまゝ持出して、数回水を灑ぐ時、必ず夕立があつた、幡ヶ谷に移転の地も、二回雨乞いをしたということである。

 

龍池山か。

龍は木彫で作って釘打ちにしてあった。

そして抜け出した、か。

 

ということは、龍は打ち付けて動けないようにしてあったってことだよね。

 

 

なんだか成田山でみた金網でぐるぐる巻きにされても飛び出すっていう倶利伽羅不動に似ている。

倶利伽羅不動は、黒い龍だったっけ。サンスクリット語で。

津和野に縁のある人が、持っていた寺域。

津和野といえば、山口。

 

そこの黒い龍。

 

たしかに大山寺では、金龍の子どもである鯉が飼われていたよ(コマはぐるぐる回るが吉 〜伊勢原で再び会った太田道灌)。

倶利伽羅不動がいるっていう池に、金龍大権現って札があって、鯉が飼われていた。

 

そして、そのあと、恋から愛に変わったら、金龍の子どもは飛び立つって伊勢平氏おじさんに言った気がする。

 

 

 

瘡守稲荷
本堂の前に鎮座した。正しくは一老稲荷大明神という。もと法界寺の境内に勧請したのを、法界寺廃絶の後、本寺に移した。腫物に靈驗ありと称せられて、信仰するもの多く、祈願の際には、土の団子を神前に供え全快すれば、真の団子を供える。これが為に、明治の末年まで、境内に一軒の団子屋があつた。最近までも、常に、小皿に盛った土の団子が、数箇供せられていた。団子に用いる土は、必ず境外のものを使用したという。
境内、山門に近く「台暦運乗靈位」と彫した石碑がある。寺の過去帳によれば、戸田侯内青木団八の墓であつた。正徳四年十二月歿す、平常歯痛の為めに苦しんだので、その後、歯痛のあるものがいつとなし参詣して、祈願するようになつたと伝えられている。参詣するものは、奉納の柳楊子一本を借用して帰り、全快の時には、更に新らしい楊子一本を添えて、返納するという。最近までも、平常十本内外の楊子が供えてあつたから、多少の参詣者があつたのであろう。

 

 

もともと代々木練兵場のあった、山谷地区にあった?

って大山講のあったエリアである。つい先頃この辺の人からもお誘いがあった(代々木青山 今昔 〜ふたつの「きりとおし坂」

大山石尊大権現の石碑のあるところ(大山石尊大権現〜クリスマスのしるし?)。

そもそももうひとりの伊勢平氏筋の人とはじめて会った日に、偶然そこにはじめて行っている。

 

出来過ぎ感満載である。

 

 

雨乞いに験があるらしいから、「雨降山」ってことで、大山と、まさに完全な一致である。

大山はもともとは白山信仰の山だった、っていうしね。

 

 

しかも。

 

そのお寺の移転先にうつされたという瘡守稲荷。

瘡って「かさぶた」のことで、「かさ」じゃん。

傘。

アフリだ!!

 

 

たしかこのあいだ、名護のMichikoちゃんに連れていってもらった「スムチナ御嶽」(大国主再生の琉球の旅 〜 デジャヴ)。

金真物(キンマムン)があらわれるときに立つといわれる涼傘がたつ、と言われるってMichiko ちゃんはいっていたけど。

 

 

そのほかにも、疱瘡にご利益があるといえば、「天満宮」(天神祭は亀戸へ 〜真っ赤なウソが出すものは牛頭天王と、馬頭観音 〜夏至直前・祇園祭に出るものは 鶴と亀?瀬織津姫はカーリー神!? ”祇園精舎の鐘の声”こたえ(仮))。

 

最初に気づいたのは、地元渋谷にある北谷稲荷の天満宮(令和3年元旦 コロナ渦の渋谷の街のリアル)。

 

 

 

なんで疱瘡?って思ったのが最初。

今なら、傘(アフリ)で、梅(熊野=琉球)かって思うけどね。

 

何より一番大きなシンボルは、あかべこには疱瘡の印があるってことかな。

 

牛頭天王?スサノオ。祇園。

祇園精舎の鐘の声といえば、平家物語!!

 

天満宮(菅原道真)

疱瘡

牛頭天王

琉球

平家

祇園精舎

スサノオ

会津

 

 

この辺みんななにかで繋がっているみたいよ??

 

 

 

そしてね、瘡守稲荷。

 

 

 

何か聞いたことがあるなって調べたら、あるじゃない。

「笠森稲荷」「瘡守稲荷」。

しかもひとつは、ヨギの治療師の拠点じゃん!?

武蔵村山にいた陰陽師の記録「指田日記」の引用が載っている。

 

 

そこにある「土の団子」と「米の団子」のエピソード。

 

まんまなんですけど?

このカレンダーの清岸寺にあるという「瘡守稲荷」は。

 

しかも、これは谷中につながっているみたい。

 

 

谷中といえば、伊勢平氏おじさんを連れていかねばとなぜか思って、「お寿司を奢る」を餌に連れていった千駄木の諏訪神社(島巫女仲間に支えられ 〜伊雑宮と八ヶ岳 その2洗脳と日本人 〜 ひみつと、ひふみと、諏訪の神)のお膝元じゃん!?

 

 

あのとき「変なのがいた!!」ってものすごい勢いで怒られて、あれから伊勢平氏おじさんと一緒にどこかに行くってことがなくなったわけだけど、今思えば、全部伊勢平氏おじさんとの縁は「諏訪の神様」だった。

出会いの最初から。

そもそも本人も「最後は諏訪」って連呼していたしね。

 

 

もう一人の維盛の子孫も「僕らをひきあわせたのは諏訪の神様」と言っていたし、夫人とのご縁も「諏訪」だったと言っていた。

 

よくわかんないけど、平家は、諏訪の神様の取り継ぎで、島の女と結ばれるみたい。

 

 

 

それにしても、ヨギの治療師は、たんに、わたしがブログに載せたカレンダーが自分の治療院に飾ってあったから送ってきたのだと思われるが、まさかここまで彼自身の地域にドンピシャで、わたしが回らされている大山石尊大権現〜白山〜倶利伽羅〜諏訪〜沖縄〜陸軍〜代々木練兵場というエリアの情報を掘り起こすヒントを繰り出してしまったなんて思っていないだろう。

 

 

なんと言っても彼はわたしのことを「神様に振り回されている」って言っているくらいだからね。

 

 

 

 

わたしと伊勢平氏おじさんの共通のテーマはこれだった。

 

 

 

 

傘と、大山と、白山と、諏訪。

そしてなぜか遠いところでつながっている「沖縄」の存在。

 

 

そこにある、「神」の名の下に暴走してしまうわたしたちの弱さ。

神を動かす「聞得大王」(大国主再生の琉球の旅 〜徳之島編 生きた人を祀った神を支えていたものは)。

 

 

 

そろそろ今までを治めてきた神々は眠りにつく。
 
 
 
 
神の座のとりあいはもういいんじゃない?
 
 
そのための、帝王学。
 
 
わたしは、海に降りたよ。
サンタマリアの島、加計呂麻の海に。
 
マリアは、きっと神の母だと思うよ。
宮古島のマムヤも、喜界島のむちゃかなも美人は流されて、最後は身を投げる(殺される)。
 
しあわせになるには不美人の方がいいらしい。
 
 
もちろんわたしが、幸が薄いのは、美人だから!
 

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