島巫女仲間に支えられ 〜伊雑宮と八ヶ岳 その2  | かんながら

かんながら

旅の記録です

 

駅に着いたら、タクシーが待っていた。
JRグループでは最高地点の駅。
空に一番近い駅の町には、宇宙電波観測所なるものがある。
 
 
「鍵は開けとくから」
そういっていたが、到着したら、鍵どころかドア全開にしてあった。
 
そしておじさんはすでに飲んだくれて眠ってた。

 

 

そして翌朝。

 

秩父の山並みも、赤岳も、マゼンダに染まる。

 

いつもの祝詞と君が代奉納。

 

 

 

龍の雲が出てきた!

あの山の上にあるという「実国固遠都御祖大神」。

その向こうの伊勢・伊雑

 
 

あの赤岳山頂に祀られているらしい「とおつみおやのかみ」。

あくまでも、わたしにはそう読める、「実国固遠都御祖大神」

松原湖観光案内所の資料によると、松原湖畔にあるという「大成宮」。

 

 

わたしはレンタカーを借りてひとりで行くつもりだったが、珍しく(というかこんなことは初めてである)「(外出から帰ったら)送っていこうか」と言われた。

確かに遠い。私の使っているカーシェアの一番近くのステーションまで行くのに、最寄りの駅まで送ってもらったと仮定しても片道2時間近くかかる。

 
 
しかし、おじさんは、外出から帰ってくるといつも暑くて体力が消耗するからか、機嫌が悪い。
 
案の定、「何分ぐらいかかるの」と言われて嫌な予感。
観光案内所に電話して、三寅(さんいん)剣の展示場所、観光案内所の開館時間、ざっとお宮を回ったときの所要時間等を確認。
 
ひとりだったらこんなこと確認しなくて行き当たりばったりでいいのだが。
気楽なのは、おじさんはそれらを「みたい」と思っていないことか。
 
 
観光案内所で三寅剣をみる。
レプリカではあるがなかなか面白い。
 
星座が刻まれていたり、珍しい作り。
 
そして、ここになんと「石上神宮」の文字が。
 
日本古代の刀剣の中に剣名を象嵌した例は、奈良県石上神宮の「七支刀」と、「三虎剣」の2例だけである、とある。
 
なんと、こんなところに石上。
 
御柱祭で使う鏡などの祭祀具もあったり。
観光案内所で聞いたところによると、ここでも御柱祭がされているらしい。
本当はゆっくり見たいが、おじさんを待たせているのでそういうわけにもいかない。
そしていざ湖畔の神社巡りに出発。
 
 

松原湖には、諏訪神社上社・下社がある。
ここに(ミシャグチ神と天神とそして蝉 〜諏訪から安曇野へ天神さんに連れられて)で、諏訪神社上社前宮で汲んできたお水を奉納。
 
 
光が降りてきた。
 
 
松原湖には七不思議があるという。
人里離れた山深いところに突如現れる湖。
ここは溜池ぐらいの大きさである。
 
呉越同舟 はメッセージ? 〜余呉湖 東寺への旅)で訪れた余呉湖に規模は違うが似てなくもない。
そして、山の上に突如現れる溜池のある集落や牧場といえば、阿波でも見たことがある。
渡来人の痕跡のある場所によく見る風景だ。
なんとなく、静かな整った、美しさがある場所。
 
 
そして、この目で確かめて置きたかった大成宮(万世太平弥栄神社〕。
 

結局石碑しか見つけられず。
観光案内所に電話して聞いてみるも「わからない」とのこと。
販売している冊子に出ているが、写真だけ。
地図はGoogleMapとも違っていて、地図通りの場所に行くと民家になる。
 
しかもおじさん、すでに疲れてて機嫌も最悪に。
 
 
「どこなんだよっ」
 
「(地図を指して)ここなんですけど、どこだと思います?」
 
「知るかっ!!」
 
「・・・。」
 
観光案内所が(販売している冊子に出しておきながら)わからないって言っているんだからしょうがないじゃない。
いわゆる「呼ばれてない」ってやつだ。
 
 
しろくまさんと、沖縄のとある聖地に行ったとき(案内板はない)、くまさんについていったら迷子になり、「あなたがこうだと思っている方についていく」と言った途端に道が見えたことがある。
 
逆もある。
 
その場の主導が誰にあるかは、結構大事だ。
私の神事なのに、私は完全に神様ではなく、おじさんの機嫌の方に引っ張られてたのだ。
 
しっかりしないと。
やはり、ひとりにされたのには意味があったと思う。
 
祭神は観光案内所の資料によると、実国固遠都御祖大神、いざなぎ、いざなみの命、とある。
 
 
帰り道、
「王道を行きなさい」とか、すごく説教される。
つまり、私が地方でよくいく山の中に人知れずあるような神社はいくな、ということらしい。
 
 
私は、そういう場所こそ何があったのか、自分の目で確かめ、聞いておきたい、と思っているのだ。
 
 
一宮みたいなところは、皆がこぞっていくのだし、資料もたくさんあるのだから、今さらわざわざ私のような人間が行く必要ないではないか。
 
 
私は、誰もいかないところで退屈して待っている、みんなが知らない場所や神様に会いに行くのが好きなのだ。
だから、アフリカやらシベリアやらドゴン族の村やら、世界の最果てとか、秘境というところに出かけるのである。
 
 
 
そういえば、諏訪神社といえば、昨年、しろくまさんの遺品整理をしていたら、寿司屋のガイドブックが出てきて、それに掲載されていた穴子寿司が有名な谷中の寿司屋にひとりで行った。するとその日はたまたま、西日暮里の諏訪神社の祭りの日だったのだ。
 
そして諏訪神社に行ったのだが、なぜかおじさんを連れて来ないといけないような気がして、「寿司を奢る」という名目で連れて行ったが、(お参りを強制したわけでもないのに)「社殿の奥に変なものがいた!あんなところに連れていくとは」みたいにひどく怒られたことがあった。
 
そして「どこでもお詣りしていいって訳じゃないのだ!!」みたいに怒鳴っていたことを思い出す。
 
 
私は、不浄なものは見えない。
ちょっと疲れる場所みたいなものはあるが、それは、自分が疲れているからそういう波動と同調するだけと考えているので、自分が塩やヒーリングで浄化するなりすれば、自分自身の気づいてない不浄に気付いて禊もできて一石二鳥と考える。
 
でもおじさんは、自分の意識とは関係なく、「外の世界」に不浄なものがあると思っている。だから極力つかないようにしていて、巫女体質の家族に障りがあると真っ先に私を疑う。
私もあまりにしつこく言われるので、自分の周りのしかるべき人たちに聞いてみた。
「何も憑いてない」とみんないう。でも、それを言っても信じないので一度は答えたがそれ以上の議論はしないことにしている。
 
おじさんは一応自分でも調べる力があるらしく、私になにか憑いているのではないと思うらしいのだが、すると今度は「あなたを通して来る」と私が媒介になっていると主張する。
 
 
でも私の答えは、決まっている。
なにわの審神者(さにわ)も、丹後の神人も、白山のサルタヒコも、菊理媛神おばちゃまも同じことを言っていた。
 
 
「自分に関係のないものはこない」
これが波動の法則なのである。
 
 
法則には例外はないのである。
 
自分の意識が向く、ということは自分の意識が同調しているということなのだ。
 
 
諏訪神社。
なんかあるんだろうな。
 
最後は「諏訪」だと言っていたのは伊勢平氏おじさんである。
 
 
帰りの車の中でも、ダメおし。
「(家族に障りがこないように)なんとかできるだろ、キミの能力があれば」
 
・・・・。
 
「私の念が飛んでます?(ないよ)」
 
「とにかくキミを通して来るのだから」
 
私がやってることならおさめられるが、私がやってないものを私がおさめるなんてやりたくもない。
飛ばしてる人に余計なことをするなと怒られるではないか。
だいたい、私は何も困っていないのだ。
 
 
「君に憑いてるキツネじゃないのか」
 
「キツネだとしてもそれは、私の眷属ではなくて、宇迦之御魂の御眷属ですから、私のいうことは聞きません」
 
「神様にお願いして、やめさせるように言いなさい!」
 
「私は神様を使役するなどというような、恐れ多いことはしません!」
 
 
「私といなかった(バっくれていた)時はなかったんですか」
「なかった。例の怪我だけ。」
正月に同じ目に遭っていたあれか。
 
 
「家長なのだから、(家族を)守らねばならんのだよ」
「家長なんだったら、家を治めればいいじゃないですか。何をいちいちうろたえてるんです?」
 
 
私の周りの人たちをみくびるほどに、名だたる霊能者や古神道関係者を知っているらしいが、「自分に縁のないものはこない」くらいの簡単なことをアドバイスできる人もいないのか。
まあ、そういえば、おじさんは「わかってない!」と怒って2度と来ないであろうから商売にならないであろう。だから口をつぐむのか。
 
 
でも、確かに。
 
思い返せば、私も山から帰ったら、あった。
掃除機がいきなりバタン!と倒れたり、派手な物音を立てて何かが落ちてきたり。
 
でも私はせいぜい塩で清めてお香をたくとかそれくらいでそれ以上に意識を向けたらそれにエネルギーを与えることになるからスルーしているのだ。
そうするとだいたい収まっていく。
 
「心当たりあるだろう。キミならわかるだろう」
と、問われて、はたと思い当たった。
 
私と一緒にいなければ、障りが起きないというのは、私と一緒にいるのを嫌がる存在があるってことだ。
確かにおじさんといると、知らなくてもいいようなことをいろいろ知るからそれを阻むものはありそうである。
 
でも、おじさんは「そんな大きなものじゃなくて、大したことのないレベル」だという。
 
 
 
だとしたら。
 
「おじさんの元カノは今幸せなんですか?」
 
次に起こること 〜神事は真剣勝負に書いたが、「病気」っておじさんに言わしめるくらいの状態だったそうだから、恨みもあるであろう。お気の毒に。
おじさんは、自分がそうしたという自覚がないらしいが、「サーダカで薄情」な私ですら、昨年それなりに傷ついたのだから、普通の人がこの人とまともに関わったらもれなく「病む」と思われる。
 
「同じ結果を繰り返すというのは、相手の問題ではないのでは・・・」と言ったら、想定どおり火に油であった、あれである。
 
そのほかにも霊能者に好かれるとか自慢しているが、そういう人たちが嫉妬したらどうなるかとかわからないのか。
見えないものを見る力がある人たちは、思いの力が強いのだ。
生き霊とは、生きている人たちの念である。
この世の障りの多くはそれである。
 
人の思いというのは、それだけのすごいエネルギーなのだ。
だから、大事に使わねばならぬ。
 
 
「元カノと女性霊能者」
私の読みはそのくらいである。
だいたい、私がおじさんが「すごい能力」と絶賛する女性霊能者に嫉妬しているとおじさんはいうが、私は霊能者に嫉妬しない。
私は霊能はないと思っているし、霊の声は聞きたくないのである。
 
「神の声は、うちなる自己より出(いず)る」というのが私の考えである。
 
 
それにもともとすべての人が自分に見えて、恋愛感情は乏しいのに、おじさんに振り回されるなどという失態を今年もやる気はない。
 
それにしても。
 
いくら「レッスン」って言っても、自分をこれだけ拒絶する相手に自分がオープンであり続けるのってしんどいな。
だから言った。
 
「オープンであり続ける、って心の体力いるんですよ」
 
ちょっとは通じたのか。
 
いや、通じてないな。
別れ際、「また、いつかね」と言っていたから。
 

まあ、おじさんは東京にいると都市の不安のエネルギーをもろに受けて挙動不審になる。
でも少しは「障りは元カノ(か、おじさんに惚れている霊能者)ではないのか」という指摘にはハッとすることがあったようだから、対処するのであろう。彼は祓いは得意である。

さて、これからどうなるんだろう。いよいよ、私は20年前に示されていたもうひとつの印の方にとりあえず進むのである。
 

 

(関連記事)

島巫女仲間に支えられ 〜伊雑宮と八ヶ岳 その1

呉越同舟 はメッセージ? 〜余呉湖 東寺への旅

次に起こること 〜神事は真剣勝負

やり直しの旅  〜伊勢平氏おじさんと白山ひめ