続・答えあわせの東京さんぽ(会社員時代編) 〜思い出の地をもう一度 本郷・湯島・箭弓稲荷神社 | かんながら

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旅の記録です

そして、その旅のトリは、皇居の楠木正成像だった。
 
平将門。平将門といえば、房総平氏。房総平氏とくれば、埼玉県東松山市にある箭弓(やきゅう)稲荷神社。
昨日の地震は房総平氏の障りでも書いていたけど、不思議な流れでその存在を知ることになったその神社、箭弓(やきゅう)稲荷神社は、保食神が狐に乗って弓を持つ武神として描かれている不思議な場所。
その保食神こそが、房総平氏の将門の孫にあたる平忠常を討った 源頼信 に味方したってことになっている。
 
源頼信っていうのは河内源氏なんだ。
当時は無知すぎてそこまでの情報は処理し切れていなかった。
河内にも源氏がいたのか。
 
理解するまで何度も形や難易度を上げて出てくることは、人生の問題と同じ。
 
 

 

 

今日はネジバナが咲いていたよ。

 

 

 

何度も「箭弓稲荷神社」ってメッセージが来るけど、決め手にかけると思って、山にいてできていなかった仕事をしながらそっとしておいた。

が、しかし。

 

食器を洗おうとしたら、うん?水が出ない。

トイレを掃除しようと水を流したら、なんか様子がおかしい。

 

ぎょ!断水だった!!!

昨日まで山にいたのですっかり忘れてたのである。

 

ということで、来た。

湯島にある箭弓稲荷神社。

 

行く前に見たときには、湯島のしか出なかったのに、なぜか今google検索したら複数あるのはなぜ。

これはまた別の機会に確かめねばならぬというサインなのか。

 

 

湯島の駅を降りて、湯島天神方面に向かう途中。

 

湯島は、ヤマトと卑弥呼と沖縄と 〜伊江島の神様が宇宙人ヒロをとおして25年かけて伝えてきたこと、に書いた、伊江島への旅のあと最初の離婚後、決まった東京での仕事の場所である。

 

そうだ、思い起こせば、このときわたしは住まい探しで、「始発駅でないと絶対無理」ってことで沿線の代々木上原に決めたのだった。

はっきり言って東京には当時なんの思い入れもなかったし、知らない場所だったから正直どこでもよかった。

でも不思議なことに代々木上原を選び、”地を這う蚯蚓(みみず)のように” 〜あのとき、蚯蚓を選んだくくりの力〜白山菊理媛神で書いたように、その後2番目のダンナとなってくれる人と出会ったのはそこに住んでいたときだった。そしてその彼は、わたしの部屋に来るときには、古くは「白山御殿」と呼ばれていた、代々木八幡宮になぜか参拝していたらしい。

 

ちなみにその部屋に住んでいるときは、よく週末の朝思い立って東北新幹線に飛び乗り、一人で八幡平にもよくいった。泊まったのは松川温泉。そしておもしろいことにSarah(サラ)さんも松川温泉に行ったことがあるという。

 

 

そういう意味では、まさに「25年がかりの再試験」である。

伊江島、久高島からの、代々木八幡宮。そして上野、湯島、そして本郷。

 

 

箭弓稲荷神社には2本の銀杏の木が植えられていた。稲荷社に銀杏の木があることはよくあることでもある。

お詣りは済ませた。昼ごはんまではちょっと時間があるし、どうしようかな。

 

それにしても見慣れた光景。

そうここは、蓮の花で書いたように、わたしが会社員時代、泣きながら通った道である。

本郷三丁目にあった会社。

昼休み、ふと手にした本で、わたしの人生は大きく変わった。

ビジネス本を読みながら、なんとか前を向いて1日1日をやり過ごして生きていたころ。

 

本はそれだけの影響力があった。よくも悪くも。

 

あの当時は一度も行ったことがなかった湯島天神に行ってみよう。

 

 

通り道にあったビル「イヤサカ」。

ここってそうやって「アゲ」る場所だったんだろうな。

代々木に行かされてから感じるようになった元・遊郭っぽいエネルギー。

内藤新宿という場所を知ってから、やたらその匂いに敏感になった気がする。

 

 

 

するとあった。聖天さん。

「聖天は娘の拝む神でなし」

川柳にそう歌われる理由は、聖天さんの御本尊が、ガネーシャ神で象頭人身で男女2体の像が抱擁している像だから。

ここのがどうなのかは分からないけど、歓喜天は子宝とか、男女のまぐわいを連想させる神様であることは間違いない。

 

 

一応、ここは亀のいる放生池と水琴窟が有名みたい。

髪がサラサラになる湧水と書かれていた。

 

 

 

そして湯島天神。なんとも不思議な作り。
本殿裏にも賽銭箱があったり(氷川神社の弁天島の祠もそうだったけど)、なんか作りがシンプルでないというか。
人の意図を感じる配置。

 

 

裏に戸隠神社。

戸隠もわたしにとっては馴染みの場所である。

最初に行ったのは、もう35年も前になるのか。思えば毎回目的は違うけど、そういえばずっと通い続けている。

 

そういえばこの間伊勢平氏おじさんが「うまい蕎麦が食べたい」というから、「戸隠に行けば美味しい蕎麦屋ありますよ」って言ったら、「行こう」って言って驚いた。

ちなみに昨年も提案したが、メッセージが来なかった所には行かないとかあれこれ言っていた。

 

ただし、彼はしょっちゅう気分が変わるのでもう予定には入れていない。

今回も山から帰った日に、わたしの部屋でポルターガイストさながらのあれこれが起きたので、あちらにもきっと起きたであろう。

そういうことが起きたら、わたしとの関係を突然絶つという行動に出る。

わたしが何かするわけでも、わたしに何かが憑いているわけでもないのは、わかるらしいのだが、「キミを通してくる」からだそうだ。

 

霊障(みたいなもの)が出たからっていきなり絶交とかやめてほしい。

こちらにだって身体を維持するための最低限の自尊心は備わっているのだ。

 

 

 

通りがかった「ステーキしのだ」。

箭弓稲荷神社に来たのだから、やはり直会は「しのだ」であろう。

 

「しのだの森のうらみ葛の葉」が、最近来てるから。

いなり寿司は、「しのだ」っていうのだ。それもうがふくさんたちが教えてくれたこと。

 

 

春日局像。でもなんで?春日通りだけどね。

そもそも、何した人?大奥にいた?くらいしか分からない。

 

 

 

帰り道を探してたら、なぜか東大に迷い込んだ。

ここの木はケヤキ。わたしの街の表参道と同じ。

 

 

 

なんか入り込んだら、絶対ここには何かがある!!って感じた。

お地場をつくっているのであろう。
 

出口を探しながら、ふらっと迷い込んだ所に池がある。

 

そうだよ、東大は加賀藩(石川県)の土地だったのだ。

加賀藩といえば、元は福井県(越前)だった白山を、明治時代に、石川県になぜかしちゃった(できちゃった)のである。

白山ひめ神社は、石川県の金沢にあるが、白山はもともと3馬場あって、加賀(石川県)、美濃(岐阜県)、越前(ふくいけん)からの登山道があり、「福井県」の山であった。

 

しかも、わたしが大好きな石徹白(いとしろ)の大杉のある白山中居(ちゅうきょ)神社も、元は福井県だったが今は岐阜県になっている。

石徹白(いとしろ)も不思議な土地で、わたしは久高島繋がりのある方とそこで別の形でつながっている。

 

なんだかんだで、白山もわたしにとっては重要箇所のようである。

そしてそれにふさわしいレベルの高い案内人たちも配置されている。

あとはそこを辿っていくだけだ。

 

 

 

 

なんか書いてある。分からないけど。

大日如来とか出てるから、どう配置したとかかな。まあ、普通になんとなくつくったわけではなさそう。

木の植え方とかも、特徴あるし、池もなんかが埋まってそうなお地場を感じる。

 

 

 

 

銀杏の大木。

そしてやっと出口発見して駅に向かうべく根津神社へ。

日本武尊が千駄木に創祀、とある。

そして社殿を作ったのは、お江戸を作った太田道灌。

 

 

 

 

 

 

 

 

乙女稲荷神社は、ちょっと古墳っぽい。

 

 

 

 

 

 

 

なんか色々あったのよ。境内に。

太田道灌、こちらは摂津源氏。

大阪なのか。この人も。

 

摂津といえば、旧字体は耳3つ。三嶋溝咋。三島の神のお膝元。

 

 

いくつもりはなかったのに、自転車で護国寺に運ばれてしまう。

なんなんだろう。駅に行って、家に帰りたいんだけど。

 

これが、部屋に戻って、なにわの審神者に指摘されるんだけど、「遣われる」ってやつみたいで。

そうなの、本当は、湯島天神終えて、直会して帰るつもりだったのに、なんか東大に迷い込んで堂々巡りに入った気がしてて、「なんか変!」って思った。

 

上がらない。完結しない。

なんか同じところをぐるぐる回される、嫌な感じではあった。

これがお江戸の計算し尽くされたお地場なのか。だったらある意味すごい。

そしてそんな簡単には、ひらけない。

 

 

護国寺。

中に入るのは初めてだ。

でも特別な思いの入り混じる場所でもある。

 

 

 

護国寺は、時々しろくまさんのバイクで通る場所だった。

 

まだ付き合い始める前に、仕事の悩み相談を受けたことがある。

彼は文を読む仕事だったけど、内容によってはその影響を受けてしんどそうであった。

本やネット、文章にはそこに関わる人のエネルギーがこもっている。

だから、その意識や波動の影響はよくも悪くも当然受ける。

 

「無理してしなくていいんじゃない?」

 

そして、その仕事は彼は降りたのだけど、わたしと結婚してからは、また「生活のため」にきつい仕事を受けるようになった。


 

 

 

 

護国寺に仕事にきたら、有名だという豆大福を買ってくれた。

でも、仕事を終えて帰ってきたら余裕がなくて、豆大福はぺたんこになってた。

 

わたしは時間と空間をワープする 〜聖徳太子はなぜ消えたのかでも書いたけど、何かの情景をその場所にワープでもしたかのようにありありと思い出す特殊能力があって、豆大福のあの日のこともあのときどんな鞄を持っていて、彼がどんな顔をしていて、そんな匂いがして、ってそのまんま流れ込んでくる。

だから彼と一緒に行った場所に行くと当時そのままの感情や体験が蘇ってくる。そして、もう彼はいないんだなって思い知らされる。

 

でもわたしにとっては東京中が全部そうだ。

彼の運転するバイクのうしろにいて、どこにいくのも一緒だったから。

朝起きて、眠るまで、ずっと一緒で、そうでないのは、彼が外の仕事や用で出かける月のほんの数回だけだった。

 

ずっと一緒にいたら煮詰まるって言うけど、わたしは一度もそんなことはなかった。

わたしは祖父が死んでからは、ずっと一人で、ご飯も一人で作って一人で食べて、学校や塾以外、人と一緒にいたことがなかったが、本当は寂しがり屋だったんだと思う。それを察して、しろくまさんはいつも一緒にいてくれた。

彼は普通の育ちをしてきた人だったから、ストレスだったかもしれないが。

 

そういう人だったのだ。

 

 

 

この光景、まだ昇華し切れていないけど、もう手放せるような気がする。

亡くなったしろくまさんも、わたしも、人生が、本によって大きく影響を受けた。

 

彼をのせた寝台車が、あの日ここに停った。

わたしはその車のつくりから、ふと目をあげたらこの景色が飛び込んできて、これは彼の意思でこの道を選んで、わたしに見せるために、ここに停めたのだと直感した。

あまりに突然なことで、車に乗っている間、俯いて泣いてばかりで、見た景色など何一つないというのに。

そして、わたし自身は、一度もここにはきたことがなかったというのに。

 

 
いたたまれなくなってカテドラルに向かう。
東京カテドラル聖マリア大聖堂。
 
ここにも洗礼を受ける前に何度もきた。
ルルドの洞窟と同じ大きさのレプリカがある。
 
ここにきた途端、ルルドに行った日のことがありありと思い出されて、フランスのあの場所に連れられた。
ルルドにはふたりで何度も行った。
 
最初に行ったのはいつだったろう。
うっかりエールフランスでルルドに行こうとして、ドメスティックの空港に向かうバスが渋滞して、乗り継ぎ便に乗りおくれて、「飛行機は明日」とかあっさり言われて、交渉して真夜中に別の空港から車で向かったりとか。
 
沐浴したり、軍人が集まるキャンドル行列に入ったり、滞在中ずっと、早朝のミサに通ったこともある。
わたしの洗礼名の「Garacia」の「Angelus(お告げの祈り)」はここで覚えた。
 
二人で歩いたカミーノ・デ・サンチアゴ巡礼の旅も、私たちの旅のスタートはルルドだった。
美味しいビストロでごはんを食べて、フランスっていいね。ワインもチーズもパンも料理も全部美味しい。移住するならフランスいいかも、ってフランス語ちっとも喋れないのにそんなことを言ってみたりとか。
 
楽しかったな。
あの時の様子がありありと蘇る。
でももう一緒に美味しいねってワインを奪い合って飲むことももうできない。
 
(ピエタ像:東京カテドラル聖マリア大聖堂のパンフレットより)
 
彼が大好きだったマリアさま。
 
 
「マリアさまは、悲しみの人です。」
昔オルガンコンサートでここにきた時、神父さまは言った。
子を喪うことは、何よりもつらい。生まれるときから、「御心のままに」と全てを受け入れて生み育ててこられた。
 
わざわざマリアさまの月の5月を帰天の日に選ぶくらいだものね。
 
今は、悩みごとも愚痴もマリアさまにやさしく聞いてもらっているだろうか。
あの世には愚痴も泣き言もないのは知っているけど。
 
 
30日は、わたしの誕生日でもあり、大日如来のご縁日。
絶対忘れないよ、あなたが残してくれたメッセージだから。
わたし、生むよ。川口さんのいう「あと2、3人は生める」の覚悟ができた。

 

わたしは、悲しみを超えて、すべてのことを光としてみられるようになる。
そして、光を自我で遮って、影を作らないようにする。
神さまの世界には光と影などないのだから。
 
 
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