教育とは何か (岩波新書)/岩波書店

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 最近周りが出産ラッシュということもあり、子供が成長する・教育をつけるとはどういうことなのだろうということに興味があります。管理人です。本人に出産予定どころか男の影すらないのが痛いところ。バレンタインデー?なんじゃそりゃ!!私は家で豚足料理作ってたよ!!!チョコの売り上げに貢献などしてやるものか!!!

 本日の本は大田尭(たかし)さん『教育とは何か』です。1990年の本ですので、ちょうどゆとり教育が浸透した頃でしょうか。少し古い本なのですが、古代から脈々と続いてきた教育というものを的確に捉えたいい本だと感じました。

■そもそもの教育とは?

 今の時代、教育というと学校でいっせいに授業を受けているアレや、両親がお金を出して塾に行かせているアレみたいに、家庭と学校だけで完結しているもの、という印象が強いのではないでしょうか。しかし、古くから子供の誕生とその成長はその家庭のみの財産ではなく、地域や、さらには国全体の財産であり関与するところだったようです。地域ぐるみで子供が一人前になるサポートをいろいろとしてきたんですね。
 当時でいうところの「テスト」は子どもの序列付けをしたり、成績をつけるためのものではなく、一人前の大人になることを皆に要求するものだったのですね。コメニウスでいうところの「すべてのものに、すべてを」つまり、すべての人に等しく教育を施し、すべての人に大人として成長してほしいという根源的な願いがあったわけですね。

■目的意識性

 夏目漱石が『行人』の中で「自分のしている事が、自分の目的(エンド)となっていないほど苦しいことはない」と言っているようですが、本当にこれはそうだなぁと思います。よほど従順で、勉強すること自体が好きな子で無い限り、「学びなさい」といったところで子どもにはまったく響かないのですね。著者も「人間は、その人がかわるのを助けることは出来ても、かえることはできない」と言っています。人を説得によって自分の思うままに成長させようとするのは、無理な話なんですね。
 「生きる力」が必要とされる時代だといわれていますが、この生きる力は結局はこの目的意識性なのかもしれません。目的意識を持つということは、端的に言えば自分のめあてやたくらみといった設計図を頭の中でこしらえ、それを実行に移す能力を養うことにつながるからです。

 なぜ現代においてこのような目的意識が希薄になったかというと、科学技術の進歩によって人が道具や他者に依存するようになったからではないかと筆者は説いています。今私達はスーパーや電話、インターネットがないと満足に食べ物を調達することもできません。自分の手で何かを作ったり、成し遂げたりという体験をあまりしていないんですね。自分の意図を自分の力でやり遂げて、自分の地位や役割を認識する機会が減ってしまっているんです。この考察は確かにそうかもしれないなと思いました。

■教育の自由化とは

 大人たちはややもすると子どもに対して、自分の理想的な人間像を子ども達に押し付けようとしてしまいます。しかし、先ほども言ったように子ども達は自ら「変わる」ことは出来ても、大人達が思い通りに「変える」ことはできないのですね。子どもは多かれ少なかれ特性を持って生まれてきます。スポーツの出来る子、勉強のできる子、障害のある子……その子どもたちに対してあたかも「完璧な人間」というものがいて、それに対して○○が足りていないとするような教育はまったく意味が無いというのですね。そうではなく、一人ひとりが自己の特性を伸ばして生きていけるように、先生や親だけではなくいろんな人が教育に自由に携わって、皆で子どもの成長を見守っていきましょうというのが真の教育の自由化なのですね。
 決して学校を「自由に選ぶ」ことが教育の自由化ではないんです。


 「あー、教育とは確かにこう有るべきかも知れない。理想では」という印象。難しいとは思うけれど。もっといろんな人が教育に関わる機会が増えればいいのになぁとは確かに思います。
 科学技術の発展で便利に、効率的になった代償に、達成感や「なぜ?」を問う内発的な生きる動機が希薄化したという考察には大変納得。私も大きくなるまで親におんぶにだっこされていた世代なので耳が痛いぜ……。親が受験のホテルの手続きをしているところをぼーっと待っている学生って、自分は違ったけれど、よく見る光景かもしれないと思った。子どもは自分の人生を生きていないような気がしますね。