糞ニートだった管理人は最近アルバイトを始めました。
1日4時間勤務で週5日、というシフトなので、
「社会復帰にはちょうどいいや〜」と思っていたのですが、
なんと残業が4時間つくんですよね。
普通に8時間勤務ですよ。しかも間に休憩ないんですよ。
とんだ社会勉強をさせられています。
さて、本日の本は三浦綾子さん『塩狩峠』です。
「泣ける小説」としてそこそこ有名なようですし、
クリスチャンの方は一度は名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。
士族の家に生まれた永野信夫は、厳格な祖母に育てられる。祖母は大のキリスト教嫌いで、クリスチャンだった信夫の母を追い出してしまった。その祖母が亡くなり、信夫はクリスチャンである母、父、妹とともに過ごすことになる。
信夫の妹の待子と、信夫の友人の吉川の妹・ふじ子は仲がよい。遊ぶうちに、ふじ子のことが気にかかり始める信夫は、吉川の暮らす北海道へ赴き、鉄道員として働く。そんな日々の仲で、信夫はふじ子のことが好きなのだと自覚し始める。しかし、ふじ子は祖母や自分自身が忌み嫌っていたキリスト教徒であった。
私は昭和の終わりの新興宗教に敏感だった世代に生まれているので、なんとなく宗教に対してアレルギーがある人の気持ちはわかります。「日本にはやおろずの神様がいるのになんでよその神様を拝まなきゃいけないのか」「それは子どもを捨ててまで貫かなければならないのか。それは薄情ではないのか」という考えは、至極もっともであると思います。信仰とは強さであると同時に、枷でもあるのだなぁと思いました。
この物語の根幹部分である信夫の死は、もちろんイエスの死を意識して書かれているのだと思います。イエスの死の前、弟子たちはイエスがおやりになることが全く理解できず、不満を持っていました。それは、信夫が助けてやった三掘の姿と重なります。イエスの劇的な死によって、まるで雷に撃たれたように信仰の炎が燃え上がった弟子の姿は、その後に改心した三掘の姿そのものです。著者は、信夫の死によって、再び現代にイエスの物語を復活させたかったのだなと思いました。
この物語で一番心をうたれたのは「善きサマリア人のたとえ」です。旅の途中でボロボロになった人を、サマリア人だけが助けた〜というおなじみのお話なのですが、私はいままで、自分はサマリア人でありたいと思ってこの箇所を読んでいました。聖書の示す内容も「困っている人に手を差し伸べれば、その人の友人となれる」みたいな、助ける人の立場のことを書いているのかと思いました。しかし、この聖書で私たちの立ち位置はあくまでも死にかけで助けを求める旅人である、とこの小説は言うのですね。あぁ、そうか、と。なんて自分は驕っていたのだろうと、猛省をいたしました。
クリスチャンにとっては必読の書かもしれません。宗教アレルギーのある人には、ちょっと信夫の信仰が気持ち悪いと思うかもしれません。しかし、芯を持って生きた男の話は、宗教関係なく、胸を打たれるものがあるはずです。クリスマス前に一読してみてはいかがでしょうか。