みなさんこんばんは。

最近「にんじんなどを千切りにできるピーラー」なる存在を知って、早速購入しようと思っている管理人です。スライサーでやるとね、指がゴリっていくんですよ。ゴリってね。

 

 さて、本日の本は『無名の順礼者』という本です。

あるロシア人のクリスチャン(ロシア正教の信者ということですね)が書いた順礼の記録なのですが、友人に勧められたので読んでみました。今回はあまりキリスト教に興味がない人にとってはつまらないかもしれません。

 

 キリスト教の信仰の基本は祈りにあります。私もキリスト教系の学校にいっておりましたので、祈った事はあります。聖書に「絶えず祈りなさい」と書いてあるんですね。でもね、これよく考えてみてください。「絶えず祈りなさい」無理でしょ。人は仕事もすれば食事もするしへべれけに酔っぱらいもします。そんな中常に祈るなんて無理!無理でしょ!どうやってやんのさ!!と疑問を持った順礼者がいたんですね。彼は長い順礼の旅の中で、「絶えず祈る」とは具体的にどうすればなし得るのか、ということを実践的に学んで行きます。

 

 旅の中でこの順礼者は『イエスへの祈り』という祈り方を知ります。これは「主イエス・キリスト、私を憐れんでください」という文言を繰り返し繰り返し唱えるというとても分かりやすい祈りです。しかしながらこの祈り、1日に1万回唱えろとかいう無茶ぶりをされるんですね。その時点で私なんかは「無理!!無理!!」と思うんですけれども、この手記を書いたロシア人は真面目だからやっちゃうんですね。すごい。

 

 1万回祈れなんて言われたら多くの人はこう考えると思います。「形式的に1万回となえるよりは、心を込めて1回祈った方がいい」。確かに私もそう思います。手記のなかにもそういって反論する人物が出てきます。しかし、それを聞いて修道士が言う事には「量は質をうみだす(どん!)」だそうです。確かに、一流のスポーツ選手なんかはそれこそ飽きるほど基礎的な練習を重ねて上達すると言います。最初はわけがわからないまま唱えていても、いつか祈りの本質というものが見えて来るのかもしれません。

 

 この本の良いところは「自分一人で完全な信仰を得るのは無理だ!!」と言ってくれているところにあると思います。私たちは人間です。特に私なんて駄目人間です。禁欲的な祈りの生活どころか、朝ちゃんと起きるのさえままなりません。神様のことを常に思う生活なんてはっきりいって無理です!!でも、この本は、それは当たり前だと言ってくれているんです。それができないから、私たちは神様にお縋りして、「私を憐れんでください」と祈るのですというのです。これに関してはええ事言うなと思いました。

 

 この本の悪い点は、「この祈りをすれば奇跡おきるうううう!!」って盲信しちゃってるところかな。狂信一歩手前というか。なんでもかんでも祈りの御陰にするのは分別のある大人としてどうかと思い、ちょっと引いてしまった……。

 

 キリスト教に興味がなくても、信仰というものの持つパワーを知るにはよい本かもしれません。また、普段は知り得ない順礼者や修道士の心のうちを垣間みれる面白い本だと思いました。