黒い雨(新潮文庫)
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「やけど」は、体をつくる細胞のタンパク質が熱によって変化(変性)して機能しなくなり、細胞がこわれる現象のことを言います
暖房器具を使ったり鍋料理を食べたりと、冬場がやけどをしやすい季節と思います
でも、夏場も直射光による日焼けがひどくなりやけどのような症状になることもありますので、注意が必要ですね
「やけど」
自分は広島市出身なので、原爆が落とされた時に、人々が受けた「やけど」に結びつけてしまいます
表皮と真皮までのやけどは、まだ、皮膚に再生能力があるので、傷跡もほとんど残らず治ることがありますが、皮下組織までのやけどとなると再生能力がないので、自然には治らない
原爆が投下された時、広島の人が、ほとんどの人が、恐ろしい程の高温によって、皮下組織までやけどを負ったことと思います
全身の10%以上の皮膚で深いやけどを負うと、命にかかわるとされています
これは広範囲におよぶやけどによって過剰な炎症反応がおき、全身で細胞や臓器の活動に異常が起きるためだと言われています
(科学情報誌ニュートン2016年2月号より)
自分は、被爆者ではありません
しかし、全身の皮膚に深いやけどを負って、生死をさまよったことがありました
それは、2,3歳の頃のこと
母が台所で食事の準備をしているときに、自分はコンロの鍋で煮えたっていた熱湯を首から全身にかぶってしまったのです
全身の何%までのやけどだったかどうか、詳しいことはわかりません
しかし、死にかけたことは間違いないようです
何度も医者を変え、最終的には岡山の名医にであって、一命を取り留めたと聞いています
当然、重度のやけどだったので、皮膚はただれて、首から肩まで、ケロイドができました
まるで、原爆の被爆者のように…
祖父は被爆者、そして、父は原爆投下翌日に広島市内に入市して二次被爆していました
でも、二人ともひどいやけどを負うまでにはならなかったようです(祖父は閃光によって、目をやられ、白内障を発症します)
被爆者でも無い自分が、被爆者のようなケロイドを今でも体に残しています(母は、このことを一生の不覚と思って悔やみ続けています)
もし、自分が女性だったのなら、この体に劣等感を抱いて、結婚をも躊躇したことでしょう
男性だったために、このケロイドには特に手をつけませんでした
成形技術によっては、皮膚移植で綺麗にすることもできたのかもしれませんが、特にそれもしませんでした
周りの人達にはどのように映ったのでしょうか?
自分として気にすることもありませんでした
今では、広島に生まれた人間だから、自分に課せられたものだろうとも思っています
10年前(2015年)の記事をもう一度
「情けは人のためならず」
このことわざは、「なさけを他人に与えれば、めぐりめぐって自分によい報いがあること」を言う事を言っているのだが、理解されているだろうか?
このことわざが、科学的な言葉だと言う記事があったので、興味を持ちました
「「情けは人のためならず」は科学的な言葉(朝日新聞より、2014年6月)」
アメリカの循環器病専門誌「サーキュレーション」の調査によると、楽天的な人は悲観的な人と比べて心臓病の発生率が9%低く、がんなどを含めた総死亡率は14%低いと言うのです
また、イギリスのエクセター大学の研究では
「他人を思いやり、無償で人のために何かをする人は、寿命が延び、身体能力の向上や精神的な健康状態の改善がみられた」
とも言っています
この記事では、オキシトシンの影響ではないかと見ているようです
オキシトシンは病気の感染を予防し、痛みを緩和したり、生きる源になる神経伝達物質
授乳しているときの母親の脳内に分泌されるが、子育ての終わった女性や男性にも分泌されているそうです
記事ではこんなエピソードを紹介しています
「子どもがインフルエンザにかかると、お母さんが子どもにつきっきりで看病するにもかかわらず、なぜか感染率は低い。お父さんが帰宅して子どもの部屋で寝ている子どもに向かって「大丈夫か?」とドアの隙間から声をかけただけで、感染して寝込むケースが多々ある。これはオキシトシン濃度の差ではないかと僕は勝手に思っている」
オキシトシンをドバドバと分泌する方法は?
別名「抱擁ホルモン」ということなので、誰かれかまわず抱きつくという方法も記事では言っているが、そうもいかない
ペットを飼うのがいいと記事では言っています
ペットをなでるだけでもオキシトシンは分泌されるというのです
当然、家族を持った家庭では、十分な抱擁をすることが大切ということなのだろうね
自分はどうだろう?
そして、親は、子供に無償の愛を提供することでも、オキシトシンは分泌されないのだろうか?
すべては、「他人への思いやり」
これが長寿の秘訣?
他人への思いやりを重んじる日本人の平均寿命が世界的に高いのは、これが原因の一つかもしれない
「他人への思いやり」に満ちた世界になってほしいものだ
今日(7月12日)は「ラジオ本放送の日」だそうです
1925(大14)年、東京放送局(現NHK)がラジオの本放送を始めた日にちなんで制定されたそうです
幼い時から、自分はテレビを見て(白黒時代から)育ちました
でも、物心ついた頃、自分は、部屋で、ラジオを良く聞いていました
最初に手にしたのは、祖父が買ってくれた、ゲルマニウムラジオ
電池が必要なく、カーテンレールをアンテナにする非常に原始的なものでした
(ラジオからクリップがついた線が出てました)
ラジオの構成部品だって、数点の簡単なものです
当然、音声増幅力は微力だったので、イヤホンからかすかに聞こえる音を耳を澄ませて聞いてました
(父の形見の電池を使うトランジスターラジオもあったけど、壊れていました)
初めて聞いたのが、萩本欽一さん司会で30分番組だった「欽ちゃんのドンとやってみよう!」
面白かった
それから、ラジカセを祖父に買ってもらい、普通に番組を聞き始めたかなあ
ステレオでは無く、スピーカー一つのモノラル
FM放送もこのラジカセで聞いてました
ソニーのラジカセだったと思います
このころ、全世界の短波放送が聞けるソニーの「スカイセンサー5500」と言うラジオが販売されていて、みんなの注目の的だったなあ
それが、小学校から中学校にかけてだったと思います
中学時代は授業でラジオを作って、聞いてました(次男も同じようなラジオを学校で作ったようです)
そして、高校になっても、ラジカセは健在
深夜番組を聞き始めました
もちろん、広島でも聞くことができた「オールナイト・ニッポン」
(いくつか当時の放送を録音したカセットテープがまだ手元に残っています)
残念ながら1部だけ、3時からは「走れ歌謡曲」と言う番組になってました
オール・ナイト・ニッポンが2部構成になっていることを知りませんでした
この頃から寝不足が始まったかな?
地元広島でも、「柏村武昭のサテライト№1」がローカル的ではあったけど人気番組としてよく聞いていました
公開番組だったので、スタジオにもよく行ったなあ
(放送を録音したカセットテープが手元に残っています)
そして、関東に上京して、学生時代は、自分の小遣い(いや、親のお金が大半だったかな?)で、ステレオラジカセを買って、FM放送を聞きまくり
今では、死語ですが、エアーチェックで映画音楽やいろいろな音楽をカセットテープに録音してばかりしました
(その当時、録音したカセットテープがいまだに500本近く残ってます)
今は、みんなテレビばかりを見る時代になりましたね
耳に入る情報より、目から取得する情報量の方が多いですからね
さすがに、自分も、最近では、ラジオより、テレビでしょうか?
スマホでも、画像放送を見れる世の中ですからね
最近は、パソコンでネット放送を聞くようになりました
たまにパソコン作業をしながら、聞いてます
ながら作業をするには、やっぱり、ラジオがいいですね(かみさんは料理しながらラジオ聞いてます)
そして、2011年3月11日の東日本大震災で、痛感したラジオの大切さ
停電したとき、ラジオからの情報は救いでした
今後も、テレビはドンドン進化して行くでしょうが、ラジオも無くならないと思います
ときにはテレビを消して、音だけを楽しむラジオの魅力を、じっくり味わってみるのもいいかもしれませんね
(去年の記事を引用しました)
昨日(7月10日)は、小説家井伏鱒二(いぶせ ますじ、1898年2月15日~1993年7月10日)の命日
井伏鱒二は、処女作「山椒魚」が有名なのでご存じの方も多いでしょう
でも、自分は最初から最後まで読んだことはありません
自分にとって井伏鱒二とは、広島県出身の小説家ということで、親しみがあります
でもそれだけではありません
昔、広島の学校では、夏休みに被爆体験の本を読ませて、感想文を書かせるという宿題がありました
現在はどうだかわかりません
その被爆体験の本の中に井伏鱒二の本がありました
「黒い雨」
題名を聞いたことがある人はいらっしゃるのではないでしょうか?
黒い雨とは、原爆投下後に起こった雲から、降ってきた放射能を含んだ雨のことを言います
自分の祖父も被爆直後この黒い雨を浴びたと言っておりました
いまだに、この黒い雨が降った地域が問題になっていますね
父は、原爆投下直後、市内を離れていましたので、直爆を受けなかったし、黒い雨は浴びていません
しかし、翌朝、市内に入っていますので、残留放射能の影響は受けたと思います
さて、井伏鱒二は被爆者ではないのですが、被爆という体験をリアルに文学書としてこの「黒い雨」に書き記しました
「一瞬の閃光に街は焼け崩れ、放射能の雨(本の題名である「黒い雨」)のなかを人々はさまよい歩く
原爆の広島、罪なき市民が負わねばならなかった未曾有の惨事を直視し、一被爆者と「黒い雨」にうたれただけで原爆病にむしばまれてゆく姪との忍苦と不安な日常を、無言のいたわりで包みながら、悲劇の実相を人間性の問題として描いている」
(文庫本「黒い雨」より)
この「黒い雨」は今は無きスーちゃんこと田中好子さんが主演で、映画化もされています
田中好子さんのこの映画での熱演は胸打たれる思いがありました
小説「黒い雨」を読む機会があったら読んでみてはどうでしょう
そして、本を読むのが大変であれば、映画「黒い雨」(モノクロ映画、1989年公開)を見てみることをお勧めします
通常兵器と違って核兵器は、その後の影響そして孫子の代までも影響を及ぼすものだということを…
(研究では、被爆は遺伝しないと言われていますが…)
そんな何かを感じでもらえればいいと思います
自分も原爆の傷が遺伝子に入っている世代だから…
「体の中で、戦争は続いているのです」
終戦から今年は80年経つ今だからちょっと興味を持ってほしいのです
好きなヒーローキャラは?
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7月は黒影豹馬・ブラックジャガーの命日
「風雲ライオン丸 全1巻 ロケットノ章 うしおそうじ:作、一峰大二:画」のザグロ編の描写は違った
作画がダイナミックな一峰大二であったせいもあると思うのだが、うしおそうじの企画が、黒影豹馬・ブラックジャガーをこの世から葬り去るような衝撃的なシーンになっている
テレビ版と同じように、通り魔であるザグロを浪人たちが仕留めようとして返り討ちにあいバラバラに惨殺されるところから始まる(テレビ版でも同じようなシーンはある)
そして、謎の男もその状況を見ている(テレビ版ではない)
そして、テレビ版と違って、ブラックジャガーがライオン丸に対して必要以上に立ち合いを挑むところに続く
その場所には、志乃や三吉もいるのだ
さらに謎の男も……(結局、タイガージョージュニアだったけど)
ブラックジャガーが、ザグロの「必殺かぶと割り」により、頭を斬られるのはテレビ版と同じ
しかし、浪人たちをバラバラに惨殺するほどの怪人ザグロは、ブラックジャガーの頭を鉾で真っ二つにするだけでなく、体をバラバラにして、還付無きまでにとどめを刺している
ブラックジャガーは、血だらけでボロボロの肉片となってしまうのが衝撃的
ゴースンやマントルの怪人たちが倒れる時は、斬られるか爆発して粉々になっているので、頭や手足がちぎれてバラバラになって肉片として転がることはない
漫画版「怪傑ライオン丸」でのタイガージョーの場合はライオン丸に抱きかかえられて息絶えているので、五体満足な状態での死だ
でも、これほどむごい死にざまを見せるのはブラックジャガーぐらいだろう
そして、ライオン丸も志乃も三吉もそれを傍観している
ライオン丸はだた「むごい!」とだけ言い、志乃・三吉は強敵のザグロにライオン丸が立ち向かうのを心配するだけである
彼らは、意外にもブラックジャガーの死に冷淡である
(まるで、漫画やテレビの視聴者がそうするように)
テレビ版やサンケイ新聞に掲載された漫画のように、ブラックジャガー(黒影豹馬)の死を悲しむことも無く、墓を作ることも無い
ブラックジャガーのボロボロの亡きがらは、放置され、鳥や野獣に食い荒らされ、雨風にさらされ朽ちてゆくのだろう
それが戦国時代の剣客の定めと言えばそれまでなのだが……
これを実写化すれば、グロテスクなホラーシーンになったことだろう
(全体的に、一峰大二氏の画は、ダイナミックなものが多いので、リアルな実写にするのは難しいかもしれない)
とても、子供たちには見せられないものになる
自分はこの漫画を見てから、テレビ版を見たので、実写場面がどうなるのかハラハラして見てしまったのを覚えている
今、思えば、うしおそうじの豹型獣人がまた世に認められなかったという無念の思いが、サンケイ新聞に掲載された漫画とは違った形で無念さを爆発させて描かせたのかもしれない
(意見には個人差があります)
ただし、このライオン丸シリーズがアニメ化する場合は、一峰大二の世界をそのままリアルに描けるのではないかと思う
最近のアニメは、非常にリアルに残酷なシーンを描いているものが多いと思われる
だから、実写化が難しくても、アニメ化は実現してほしい
そして、改めて黒影豹馬・ブラックジャガーの冥福を祈る
自分の推しのこだわり
(続く)
7月8日?は黒影豹馬・ブラックジャガーの第二の命日
1973年に放映された特撮時代劇「風雲ライオン丸」のサブキャラクターの命日は、先日記事にしたように、1973年6月23日(土曜日)に放映されたテレビ版「風雲ライオン丸」第11話「生きていたタイガージョー!」である
しかし、漫画版は違う
サンケイ新聞に掲載された漫画「風雲ライオン丸」では、1973年7月8日?(日曜日)ごろと思われます
この日は当時のサンケイ新聞を詳しく調べたわけではないので、推測の日です
特に題名はないが、ザグロ・ズク対ライオン丸・豹馬の戦いで、ズクとザグロの術と技にかかり、豹馬はブラックジャガー(漫画ではジャガーマン)に変身することなく殺されてしまう
テレビで、彼が降板になったので、急きょ、作者の若林不二吾(うしおそうじのペンネーム)が豹馬を殺すまでを描くことになってしまったのだろうか?
そのワンシーンが以下
テレビ版では、何も言わずに逝ってしまった黒影豹馬だが、このサンケイ新聞に掲載された漫画「風雲ライオン丸」では、死に際の一言がある
「お……お……、おいら……あ、人生をあまくみた…ム…ム」
たぶん、企画者のうしおそうじ氏は、もっと黒影豹馬・ブラックジャガーの詳しいことを描きたかったのではないかと思って、この言葉を添えたのではないかと思う
豹馬の無念の言葉は、うしおそうじ氏とブラックジャガー製作者の高山良策氏の無念の言葉だったのではないだろうか?
豹シリーズが、豹マン(パイロット版)、ジャガーマン(パイロット版)と続き、ブラックジャガーで3度目の正直だったのだから
その後、シルバージャガーもパイロット版のみで日の目を見ることはなかった
さて、ライオン丸は、テレビ版と同じように、豹馬の死を食い止めることはできなかった
しかし、漫画では豹馬の死を見届けて、すぐさまかたき討ちをすることはできている
そして、豹馬の亡骸を拝むライオン丸
テレビ版と同じように、豹馬の墓も志乃・三吉・獅子丸が作って、悲しんでくれている
と、ここまでは、テレビ版も、この若林不二吾(うしおそうじ)が描いたサンケイ新聞に掲載された漫画「風雲ライオン丸」でも、黒影豹馬・ブラックジャガーは、それなりの死にざまが丁寧に描かれている。
そして、死後も志乃・三吉・獅子丸に丁重に葬らるように描かれている。
しかし、1973年の4月号から10月号の「冒険王」に掲載された一峰大二の作画による「風雲ライオン丸」に登場するブラックジャガー(漫画ではジャガーマン)は違った
たぶん、命日は7月号にあたると思われる
作画がダイナミックな一峰大二氏であったせいもあると思うのだが、うしおそうじの企画が、黒影豹馬・ブラックジャガーをこの世から葬り去るような衝撃的なシーンになっている
自分の推しのこだわり
黒影豹馬・ブラックジャガーの第二の命日(その二)へつづく