1867年5月に京都の小松帯刀寓居〔京都市上京区〕で締結された薩土討幕盟約を、後藤象二郎と板垣退助が土佐に帰って前藩主に報告した。

すると山内容堂は、後藤や板垣を怒鳴りつけた。

「幕府によって生かされてきた我らが、薩長にそそのかされて、親である幕府を倒すとは何事か」と。

 

 

 

小松帯刀寓居跡〔京都市上京区〕

 

 

 

後藤は長崎に行き、坂本と前後策を話し合った。

そこで幕府と雄藩が妥協できるような、今後の政権作りを考えた。

 

二人は上京するために6月に「夕顔」という船に乗った。

後藤は新政権の基本をまとめ「船中八策」を坂本に書かせた。

 

要点は、次のようなものである。

 

天下の政権を朝廷に返還する〔政令は朝廷から発する〕

・・・新たに平等かつ対等な友好条約を結ぶべし

古来の法律を改正し、新たな世の中にふさわしい憲法を選定すべし・・・

 

この案で後藤は徳川家と討幕藩を融和させ、国内革新を回避させようとした。

この案を持って二人は、京都の吉田屋で薩摩藩の代表と会合した。

 

この土佐藩の変節に、西郷と大久保は激怒した。

藩主の親族・小松帯刀は、むしろ革新回避を喜び、後藤の案を承認した。

西郷は不機嫌であった。

「飼い犬に、手を噛まれたごと気持ちごわす」と龍馬らに対する不満を、富村雄に語った。

「何か手を打たねばならぬ」と。

 

7月に薩摩藩士たちは、商人の服装をして、伊勢参りに出かけた。

神宮で天皇家の繁栄と、討幕の成功を祈った。

そして神宮のお札を、大量に戴いた。

 

徳川家発祥の地・三河国吉田の町に行った。

風の吹く夜を選んで、火の見矢倉や大木に上って、神宮お札とお陰まいりをすすめる紙をばらまいた。

村雄も、一緒に行き手伝った。

 

後藤象二郎らが9月7日に西郷に会いに来て「新官制擬定書」を見せた。

 

それには関白として三条実美の名が書かれていた。

 

議奏として島津久光・毛利敬親・松平春岳・岩倉具視らの名があり、参議として小松・西郷・大久保・木戸・後藤の名があった。

 

この擬定書は、予想の案に過ぎなかった。

薩摩藩主が土佐藩主とともに、大政奉還建白書を提出することを後藤が求めた。

しかし、それは大名中心の古い形であるので、西郷は拒否した。

 

長州軍内部には、この際に東征して関ヶ原合戦で失った領地を占領しようという動きがあった。

西郷は、それを止めさせようと考えた。

 

10月18日に西郷は、長州藩に村雄と一緒に行き藩主と会った。

毛利大名は、沈黙のあと西郷の要請を受け入れた。

 

つまり関ヶ原のあと毎年の元日に、家老が「今年こそ領地復活の戦いをやりましょう」という慣習が続いたが、266年ぶりに終わりを遂げた。

 

 

当時、長州藩は朝敵扱いを受けていた。

それを朝廷が取り消すことに、西郷が努力することになった。

西郷たちは大政復古の議事を企画していたが、京都の人々が長州を嫌っていたので、一時的に長州の新政府参加を控えてもらい、その後に討幕軍に参加することを求めた。

長州藩主は、その話も了解した。

このとき長州に行く前に、西郷たちは伏見の船宿に泊まった。

伏見は京都と淀川航路の中継地であった。

そこで仲間に「ええじゃないか」の踊りを流行させた。

その文句は、次のようなものであった。

 

ええじゃないか ええじゃないか ええじゃないか

くさいものには 紙をはれ

やぶれたら またはれ ええじゃないか

百姓も酒を飲め ええじゃないか・・・

 

 

 

「ええじゃないか」騒動に興じる人々

 

 

 

大阪でも、お札を降らせた。

そして庶民の踊り騒ぎで、新時代を望む民衆のエネルギーを発散させた。

大阪城にいる徳川軍に、時代の変化を感じさせる目的があった。

 

この「ええじゃないか」の民衆踊りの行列と騒ぎは、王政復古の大号令発布の日まで続けられた。

 

10月3日、土佐藩前藩主・山内容堂は、坂本の名を伏せるよう求め、参議の後藤象二郎を通じて幕府へ大政奉還の建白書を提出させた。

土佐藩主は、坂本龍馬を嫌っていた。

 

上京して二条城に入った将軍・徳川慶喜の前で、土佐藩の後藤象二郎が幕府要人に、建白書内容を説明した。

 

 

 

大政奉還の相談

 

 

 

上座に将軍が着座している。

左下で話すのが象二郎であり、その上方に老中・板倉がいて、その右に大老・酒井が座っている。

象二郎は徳川慶喜がリーダーになる、と説明した。

 

慶喜はいわゆる「船中八策」に、興味を示したという。

慶喜は開明的思想の持ち主であり、西洋式政治の知識があった、という。

討幕的な考えの水戸藩の出身であったからである。

 

 

 

徳川幕府将軍慶喜

 

 

 

自己の利益しか考えない公家たちよりも、考えは新しかった。

だから幕藩体制を変え、社会を新しくすることに理解があった。

 

大政奉還を受け入れ、みずから大阪城を脱出したのは、日本を新しい社会に変えるよう奨めた勝海舟の求めによる行動であった。

 

1868年10月13日、徳川慶喜は在京諸藩の重臣を二条城に集め、大政奉還の実否を諮問した。

賛否両論であった。

 

会議では、賛否は将軍に一任された。

迷っていた将軍に、残っていた薩摩藩の小松帯刀は、念を入れて大政奉還の利点を説いた。

翌14日、徳川慶喜は、大政奉還を朝廷に奏上した。

 

さぼ