土佐藩士・中岡慎太郎と商人・坂本龍馬が両藩の感情を責め説得し、京都の小松邸で1866年1月21日に薩長連合の攻守同盟が結ばれた翌日に幕府は、長州藩の封地10万石を削り、藩主を隠居させるという処分案を奏請し、朝廷から長州再討の勅許を得た。

 

1866年6月5日に幕府は諸藩に、進撃を命じた。

薩摩藩と芸州藩が出兵を辞退した。

長州では、この戦いを四境戦争と呼んでいる。

 

長州の大島口と石州口・芸州口・小倉口の4箇所の国境で戦闘が始まった。

長州軍の兵士は4,000人足らずであったが、武器は命中率の良い西洋式銃だった。

 

対する幕府軍は100,000人の大群であったが、武器は旧式の火縄銃が多かった。

幕府軍は、連戦連敗となった。

 

 

 

四境戦争

 

 

 

長州海軍総督に任命された高杉晋作は、軍艦1隻で幕府軍艦に夜襲をかけ、大活躍した。

その前から、彼は肺結核を病んでいた。

 

小倉城に籠城する幕府軍を攻撃し、敗走する敵兵と炎上する城を見届けたあと、おびただしい血を吐いて倒れた。

 

萩藩の藩論が2つに分かれて対立する中、野村望東尼(ぼうとうに)は九州へ脱出してきた高杉晋作を潜伏させ、晋作が病の床につくと、晋作の愛人・おうのと共に晋作を看病した。

 

晋作が「おもしろき 事もなき世に おもしろく」と詠むと、望東尼が続けて「住みなすものは 心なりけり」と詠んだ。


 

 

野村望東尼〔東行庵 蔵/下関市立東行記念館 寄託〕

 

 

 

晋作の最期を看取った望東尼は、晋作に歌を贈った。

 

惜しからぬ 命長かれ 桜花

雲居に咲かす 春ぞ待つべき

 

1866年に、晋作29年の若い命は、桜を待たずに散ってしまった。

四境戦争〔幕長戦争〕を勝利に導いた英雄・高杉晋作の墓は萩の町に、寂しく残っている。

 

連戦連勝の長州軍の中で7月に、藩の領地外に打って出て、関ヶ原以前の藩の領地を獲得しようとの動きが始まった。

 

それを聞き西郷は、芸州藩の西境を守るために、薩摩藩兵を送った。

「維新戦争は、時代の逆戻りではない。新しい社会作りを、しなくてはならない」それが西郷の考えであった。

 

このような戦況の中で、大阪城に出陣していた将軍・家茂が没し、慶喜が後継ぎとなった。

安芸の宮島で、講和が結ばれることになったが、幕府側では長州兵に撃たれるのを恐れ、休戦交渉役のなり手がいなかった。

 

そこで勝海舟が引き受けることになり、彼は一人で8月に宮島に行った。

まだ幕府軍が残っていて不安を感じている長州代表・広沢真臣(さねおみ)に対し、勝は幕府軍がすぐ撤退することを約束した。

 

 

 

広沢真臣

 

 

 

同じように長州軍にも、国境からすぐ撤退するよう、勝は求めた。

つまり長州藩が、領地を獲得しないことが決められた。

9月に休戦協定が結ばれ、海舟はこの功績で、後に陸軍総督に任命されることになる。

 

1866年末に孝明天皇が没し、16歳の明治天皇が後を継いだ。

これを機会に朝廷では、討幕派の岩倉具視が勢力を伸ばすことになった。

 

長州藩では討幕戦に備えて、藩政の大改革が進んだ。

四境戦争中に、長州藩の実権が「有司」の実務役人に、集中した。

「用談役」として木戸孝允が、彼らを支配した。

 

足軽や手子・中間らの下級武士が、槍と刀を捨てた。

大村益次郎を中心として、装条銃隊〔ライフル銃隊〕と大砲隊に編成された。

一方で上級武士たちは「散兵」とされ、補助軍に編入された。

つまり、藩内の武士の階層が逆転となった。

 

 

 

大村益次郎〔国立国会図書館〕

 

 

 

このとき以来、長州の木戸は勿論薩摩藩の西郷や大久保・土佐藩の中岡・板垣退助が、大名政権を望む藩主から離れ、自立を求めて動き始めた。

 

毛利藩主・敬親は、偉かった。

彼は吉田松陰を、陰ながら大切に扱った。

松陰を獄から出し、松下村塾で教育できるように仕向けた。

 

自分は政策を示さなかったけれども、各々の時期に藩士の政策の最適なものを選んで、その部下に藩政を任せた。

 

そして自分は、長州藩の良い象徴となった。

彼は日本の新しい社会の進むべき未来を、理解していたのであろう、その結果、長州藩はその後も、新しい日本の主役を務め続けることになる。

 

 

 

毛利敬親

 

 

 

毛利敬親と正反対の人が、土佐藩士・山内容堂であった。

彼は新時代の平等社会を嫌い自分が大名であり続け、しかもリーダーになろうと考えた。

 

第一次幕長戦争の後、武市半平太ら討幕派志士を処刑した。

後藤象二郎は商人・坂本龍馬を、公議政体派に引き入れた。

この時点で龍馬は、西郷たち討幕派を裏切ったことになる。

彼は維新を、逆向きに止めようとした。

 

 

 

山内容堂

 

 

 

坂本は後藤に頼まれて亀山社中を、公議政体派〔大名会議政体派〕を援護する海援隊に変えた。

 

中岡と後藤と板垣退助は、5月に京都の西郷に会いに来て、討幕に対する薩土軍事盟約を提案した。

西郷は山内容堂の反動精神を知っていたから、土佐藩との同盟ではなく「土佐の有司との同盟」と考え、軽く応じた。

 

中岡は新たに芸州を引き入れて、陸援隊を京都に組織した。

9月に西郷は新たに芸州を引き入れて、薩摩と長州・芸州の3藩の討幕挙兵密約を結んだ。

 

さぼ