三条実美ら五卿が太宰府に移る時に、長州の三田尻にいた土佐藩の浪士たちが一緒に付いて行った。
その隊長が中岡慎太郎であった。
中岡は大庄屋に生まれ、土佐勤王党にはいり、土佐藩士となった。
中岡慎太郎
中岡は長州と薩摩を和解させ、両者を討幕のため連合させるつもりだ、と筑前藩志士に語ったという。
そして五卿の待遇改善を、薩摩の西郷に求めた。
西郷はそれに応じ、兵力を派遣し護衛にあたった。
西郷は脱藩していた高杉晋作の罪を、許すよう長州藩主に頼んだ。
その結果、高杉は許されて長州に帰った。
長州は萩政庁で、俗論派が政権を掌握していた。
そして奇兵隊を、解散させようとしていた。
高杉は怒って伊藤博文らとともに挙兵し、下関の奉行所〔長州藩〕を襲った。
また三田尻の海軍局の、藩船を3隻うばった。
高杉晋作
1865年1月に下関に向かった俗論派の藩兵1,000人は、200人の奇兵隊に敗れた。
藩主・毛利敬親は政権を、正義派と称する奇兵隊たちに引き渡し、山口の新しい政庁に移った。
下関は、長府藩50,000石の領地であった。
その下関奉行所を高杉が襲ったので、長府藩が怒った。
高杉の暗殺を謀った。
命が狙われていると聞き、高杉は大阪に逃げ隠れた。
幕府は長州再征討を計画し、準備を始めた。
それに対して中岡は、三条たち五卿と在京の岩倉具視を和解させ、討幕派として結合させた。
中岡慎太郎は長州を守るために、討幕派の中心人物が必要だ、と考えた。
そのためには池田屋事件以後、行方不明の桂小五郎〔逃げの小五郎〕が最適だと考え、探しはじめた。
桂は、中級武士の出身であった。
松下村塾で学んだあと、下田で造船術を学び、蘭学も学ぶという勉強家であった。
京都藩邸の留守役で池田屋事件に関係したが、難を逃れた。
長州軍反攻のときも、いつの間にか姿をくらました。
国境を越えるとき調べられるので、長州まで帰らずに、但馬国の北端・城崎温泉に隠れた。
温泉町は外来客が多いので、地元の人に怪しまれなかった。
中岡慎太郎も長州軍反攻に参加した一員であったので、隠れ場所の見当をつけ、城崎温泉で桂小五郎を見つけ、連れ帰った。
桂は4月に国に帰って、藩命で木戸と苗字を変えた。
彼はすぐに活動を開始した。
大阪に逃げていた高杉が下関に帰れるように、桂は骨を折った。
桂小五郎〔木戸孝允〕(左)と吉川監物〔周防国岩国領主〕
翌月〔1865年〕に幕府は第二次長州征討を発表し、和歌山藩主を征長総督に任命した。
徳川家では、フランスの軍事顧問を江戸に招いて、フランス式の陸軍を養成していた。
その徳川家直属の陸軍が、東海道を大阪城に向かって進軍を始めた。
東海道の三島大社付近を進軍する徳川軍の様子を、浮世絵が描いている。
徳川軍の服装は西洋式で、背嚢を背負っている。
しかし鉄兜はなく、靴もない。
中途半端である。
後ろを行く上官たちは、うつむいて歩いている。
分からないように、上官を細い杖を突いた老爺に見せて、古い考えの軍人であることを示している。
二代歌川広重〔末広五十三次〕
長州は急いで武器を購入しなければ、ならなかった。
中岡は長州正義派の中心人物となった木戸に武器を買わせようと考え、武器商人・坂本龍馬を呼び、下関で交渉をさせた。
しかし新武装は高価で、長州は必要な費用が不足した。
中岡は薩摩藩に借りることを考え、薩摩に行き家老になっていた西郷に頼んだ。
西郷はミニエー銃を主とする4,000挺の新式洋銃を、亀山社中から薩摩藩名義で買う約束をした。
それを長州藩に渡すから、社中の船は長州に運べば良い、と言った。
伊藤博文と井上馨が受け取りに、長崎まで来るということも決められた。
西郷が上京するとき、下関で木戸孝允に会ってくれ、と中岡が申し入れた。
薩長が仲直りをして、討幕同盟を結んで欲しい、と言った。
その案に西郷は基本的に同意し、中岡も同じ船に乗った。
中岡は下関で西郷を降ろし、すぐに木戸に合わせようと考えたが、西郷は大久保に至急あう必要がある、と断った。
「中岡は急に、土佐犬のように怒り出した」と西郷は、冨村雄〔旧東出雲王家の直系子孫〕に語った。
中岡は、焦っていたらしい。
この件について、西郷が悪いように言う人がいる。
当時の長州では、薩摩を憎んでいる者が多かった。
藩士・品川弥二郎は、「薩族壊奸」の字を左右の下駄に書いて、踏みつけて歩いていた。
「薩摩人が下関に来るならば、関門海峡を三途の川と思うべし」と豪語する長州藩士たちが多かった、という。
西郷は「下関で降りるのは、無謀なことでごわす」と、村雄に語った。
西郷とて早く、長州と手を結びたかった。
しかし命を捨てる訳には行かなかった。
西郷は言った、「四民平等の世を実現するまで、おいどんは犬死にする訳にはいかん。臆病と言われてん良か」と。
討幕派の命が、暗殺の危険にさらされた時期があった。
幸運にも、その時かれは2回、島流しに遭い結果的に命を繋いだ。
討幕派僧侶・月照と海に入水したが、奇跡的に助けられた。
それで、残りの人生は余りものと軽んじたかと言うと、逆であった。
後になるほど、残りの人生を惜しんだ。
これは桂小五郎も、同じだった。
「逃げの小五郎」と言われても、悪口に耐え、命を惜しんだ。
それは理想実現のための、強烈な覚悟から来ている。
「死んでなるものか。俺がやらなくちゃ、明治維新は達成されぬ」。
つまり、「武士道とは、死ぬことと覚えたり」の葉隠れ思想は、小物の正義と考えていた。
長州藩士の薩摩への恨みと殺気に対し、まず武器を送り気持ちを和らげてから、薩長同盟を結ぶ計画を、西郷は持っていた。
そのころ坂本は討幕派の振りをして、西郷たちと交わっていた。
勝海舟は西洋の共和政治を理想と考えていた。
そして議会政治と憲法制定などの知識を、龍馬に教えた。
その結果、龍馬は日本では公武合体による、大名共和政治が良いと考えていた。
この時点で、坂本は西郷と目的を異にしていた。
しかし商人としての利益のために、西郷の討幕主義にも調子を合わせて、薩長同盟運動にも顔を出した。
薩長同盟が商売になると考えると、首を突っ込んだ。
坂本龍馬が、その風采の格好よさから維新の志士と思う若者がいるらしい。
しかし、龍馬は偽物で、薩長同盟の真の功労者は中岡慎太郎であった。
中岡は風采が悪いので、損をしている。
龍馬は姉の乙女に、面白い手紙を沢山送っている。
この記録の所為で、龍馬が話題に上るのかもしれない。
長州は亀山社中から、4,000挺の洋銃と甲鉄艦を受け取った。
そのお礼に、500石の米を船に乗せ、薩摩へ送るように木戸は坂本に指示した。
それを聞いた西郷は、戦争前の長州から受け取ることはできないと、断った。
坂本はその米を一時預かると長州に伝え、米を売り払った。
その代金を龍馬は長州にも薩摩にも渡さず、自分の懐に入れた。
1866年1月に、中岡は西郷に木戸と会うことを求めた。
西郷は安全な場所として、京都の薩摩藩邸で会うことを了承した。
木戸は品川弥二郎を連れてやって来た。
木戸と西郷・大久保は数回、話し合ったが、両者の仲直りはできなかった。
長州藩と薩摩藩の対立は、両者とも相手がずるいのが原因だと考えていたから、両者の不仲は10数日過ぎても解消しなかった。
中岡と商人・坂本が両藩の感情を責め説得し、小松邸で1月21日に薩長連合の攻守同盟が結ばれた。
さぼ