徳川慶喜の大政奉還を知った坂本は「よくぞ断じ給えるかな!慶喜公の心中、察するに余りあり。この命、誓って慶喜公のために捧げよう」と言って涙ぐんだという。

 

そして龍馬は、援助した薩摩の討幕派を裏切り、後藤らの徳川中心の新官制案の実現に動きはじめ、松平春嶽ら徳川派の大名に、兵器を売る話を夢中で持ちかけていた。

 

勤王の志士たちも、龍馬と似たような考えを持つ者が多かった。

公家たちは階級変化を望まず、この辺で徳川家と妥協したがった。

三条実美や岩倉具視も同じであった。

 

長州の勤王の志士・木戸孝允らも、大名の毛利敬親の考えにあわせようと考えた。

徳川家が弱体化し天皇が上位になればそれで良く、維新を終わらせる考えの者が多かった。

 

11月15日に京都の近江屋で、討幕派に加わるよう中岡慎太郎が坂本龍馬を説得していた。

そのとき何者かにより両者は斬られ、重傷を負った。

その夜中に龍馬は息絶え、中岡は2日後に死亡した。

 

 

 

近江屋跡〔京都・河原町通〕

 

 

 

この犯人については、諸説がある。

中でも可能性の大きいのは、幕府の見回り組である。

後に明治新政府に、見回り組の今井信郎が龍馬の暗殺を自首した。

それに対し、西郷が刑罰を軽減したという。

 

今井信郎は、仲間7人で襲ったという。

それを頼んだ上の人がいた。

それは2人が死んで、利益を得た人である。

すなわち土佐藩の後藤が藩主の依頼を取り次いだ、と噂された。

 

そのあと海援隊と陸援隊は後藤の指揮下に入り、土佐藩から経営的援助を受けることになった。

陸援隊の板垣は離れて、迅衝(じんしょう)隊を作った。

一方土佐藩主は、新政府内で良い地位を占めた。

 

さぼ