飛鳥時代はまだ「天皇」の称号はなく、「大君(おおぎみ)」と呼ばれていた。
同時代の『隋書』に「阿輩雞彌(あはけみ=おおぎみ)」と書かれている。
開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思北孤
號阿輩雞彌 遣使詣闕。
西暦600年 倭王の姓はアメ 名は多利思比弧(たりしひこ)が
大王(おおぎみ)と名乗り 使者を〔文帝のもとに〕派遣してきた。
倭王の名前は多利思比弧とあるが、当時の天皇〔大王〕は推古女帝(在位:592年~628年)だった。
この男性名「多利思比孤」は、尾治大王を示している。
炊屋姫太后〔推古女帝〕の時期に、隋の使節を迎えるために、立派な建物を見せたいとの考えもあり、四天王寺が港の近くに建立された、と言われる。
その計画が動き出した。
607年の7月に、大礼の位の小野臣妹子が大王の命令により、隋国に派遣された。
これが、いわゆる遣隋使であった。
この時、多利思比弧(たりしひこ)〔帯彦・尾治大王〕が煬帝(ようてい)にあてた手紙が『隋書』に書かれている。
日出ずる所の天子が、書を日没する所の天子に送る。
ツツガ虫病〔風土病〕に罹ってはいないか・・・・
この書を見て、帝は不愉快になり、外相に言った。
「蛮夷の国書には、無礼な言葉がある。今後は倭国の国書は見せるな」と。
この国書を聖徳太子が書いた、と記載した教科書があるが、607年は上宮太子が斑鳩に引退した後であるから、太子が書いた可能性はない。
出雲の旧家によると、古代日本では紀元前7世紀頃に、出雲族による広域の統一国・出雲王国が成立した。
その王国は二王家制で、東出雲王家・富家〔向家〕と西出雲王家・郷戸(ごうど)家〔現・神門家〕が交代で主王・大名持(おおなもち)と副王・少名彦(すくなひこ)になった。
8代目の主王は郷戸家の八千矛(やちほこ)〔大国主〕で、その時の副王は富家の八重波津身〔事代主〕であった。
紀元前220年頃〔出雲王国8代主王・八千矛、副王・八重波津身の時期〕、中国から徐福(じょふく)率いる集団が少なくとも2回渡来した。
徐福は丹波では彦火明(ひこほあかり)を名乗り、北九州では饒速日(にぎはやひ)と名乗った。
その子孫が丹波・海部(あまべ)家と北九州・物部(もののべ)家となった。
紀元前2世紀に、出雲族は大和〔奈良盆地〕へ進出し、そこを支配地とした。
そこに海部家も合流した。
両者は協調して大和政権をつくり、海部家の海〔天〕村雲(あめのむらくも)が初代大君になった。
その頃、天村雲の異母弟・高倉下(たかくらじ)は紀国〔和歌山県〕へ移住し、紀国造の祖となった。
彼は、徐福が中国から持参した樹種を多く植えた。
それでその国は木の国〔紀の国〕と呼ばれた。
紀国造家からは、のちに武内宿祢(たけしうちのすくね)が出た。
その後時代を経て、海王朝から出雲系の磯城王朝へ政権が移り、大和は出雲系豪族が支配するようになった。
1世紀頃〔11代目出雲王国大名持・速瓮之建沢谷地乃身(はやみかのたけさわやじのみ)の時期〕、朝鮮半島から辰国の王子・ヒボコ率いる集団が渡来し、円山川流域〔豊岡盆地付近〕を開拓した。
その後、ヒボコ勢は強大になり、但馬国と丹波国に勢力を広めた。
大和で主導権を失った海部家は、出身国・丹波に戻ろうと考えたが、その地方ではヒボコ勢の勢いが強くなっており、帰ることができなかった。
それで琵琶湖畔を通って、不破の関の東に住みついた。
海部家は大和の高尾張村にいたので、尾張家とも呼ばれた。
それで、移住先の国も尾張国と呼ばれた。
尾張家は伊勢湾沿岸に住みつき、後に熱田神宮〔名古屋市〕を建てた。
尾張家は、初代大君・村雲が出雲王家分家・登美家から貰った銅剣を保有していた。
それを熱田神宮に納めて、宝剣として尊重した。
それは「村雲の剣」と呼ばれた。
海部家は丹波国の地が忘れられず、その地に住むヒボコ勢を追い払い、丹波国造になった。
さらに但馬国のヒボコ勢も追い出し、但馬国造も兼ねた。
やむなくヒボコ勢は、出雲王国領・ハリマ〔播磨〕を占拠した。
2世紀に九州の物部勢が大和へ東征すると〔第1次物部東征〕、大和の磯城王家に動揺が生じ、皇太子の大彦とその息子の武沼川別(たけぬなかわわけ)はそれぞれ北陸と東海地方へ移動し、クナト国〔いわゆるクナ国〕をつくった。
クナト国は、出雲王国のアラハバキ信仰が盛んに行われたので、「アラハバキ王国」とも呼ばれた。
アラハバキの「アラ」は、恐ろしい竜神を意味する「荒神」の「荒」であった。
「ハバ」は大蛇の古語で、ワラの竜神が巻きつく神木のことを「ハバキ」と言った。
大彦は、大和では東出雲王家にちなんで「富(とみ)彦」を名乗っていたが、富家から「富」の字を使うことを禁止されたため、次の本拠地・伊賀の阿閇(あへ)の地名にちなんで「阿部家」を名乗るようになった。
その後、磯城王家の別の皇子であったフトニが孝霊大君となったが、物部勢との争いを避けるため、大和を離れる決心をした。
そして、息子の吉備津彦・若建(わかたけ)吉備津彦兄弟に播磨のヒボコ勢を攻撃させた。
ヒボコ集団は散り散りとなり、一部は琵琶湖・東岸の坂田へ移住した。
孝霊大君は、さらに出雲王国領の吉備国を占領させ、そこに移住して吉備王国をつくった。
孝霊大君は息子たちとともに鉄資源を求めて日本海側の出雲王国の本拠地を攻めた後、孝霊山の麓で余生を送り、そこで亡くなった。
そして、吉備の楯築王陵〔倉敷市〕に葬られた。
この墓は、中国の宗教の影響を受けた最初の「道教式古墳」であった。
その墓の中心は円墳であるが、そこから二方向に長方形の突出があり、双方突出円墳と呼ばれている。
道教では「海中の蓬莱島〔古代の和国〕に仙人が住む」との考えがあった。
蓬莱島は壺の形をしていて、複数の口があると考えられていた。
その口が、楯築古墳では二方向の長方形の突出部となった。
後には突出部が一つに簡略化され、いわゆる前方後円墳〔方突円墳〕が流行するようになった。
つまり楯築王陵が、以後の古墳の規範となったようだ。
また楯築王陵には、特殊器台が置かれた。
それが、後の時代に円筒埴輪に変わり、古墳の周りに並べられる習慣となった。
また、首に大きな曲玉を下げた人形土製品も出土した。
それは、後に古墳に飾られる人物埴輪の先駆けであった可能性がある。
曲玉は古くは「瓊(に)」と呼ばれたので、孝霊大君の名の「フトニ」とは「大きな勾玉を持つ御方」を意味しているかもしれない。
そう考えれば、楯築王陵から出土した人形土製品は、孝霊王君自身の姿をかたどったものである可能性が高い。
第1次物部東征の後、大和は一時的に物部勢の武力に屈したかのように見られた。
しかし、2世紀末に、富家分家・太田家〔登美家〕のモモソ姫が物部勢よりも多くの人望を集め、一時的に平和な時代を築いた。
モモソ姫は、三輪山の太陽神を信仰していた。
大神(おおみわ)神社〔桜井市〕の神主・太田タネヒコは、モモソ姫の人気を利用して大君に就任し、三輪大君と呼ばれた。
物部勢は大和における主導権を失い、大半は九州へ帰って行った。
やがて、3世紀に宇佐神宮〔宇佐市〕の月神を旗印に第2次物部東征が起こり、物部勢が大和の出雲系豪族を武力で圧倒した。
そして物部王のイクメが垂仁大君になり、大和で物部王朝が成立した。
垂仁大君の異母兄弟の豊来入彦(とよきいりひこ)〔宇佐神宮の姫巫女・豊玉姫の王子〕は、大君との勢力争いに敗れ、一時尾張から三河付近に駐留したので、そこの地名には豊明や豊川、豊橋など「豊」の字が多い。
その後、豊来入彦率いる豊国軍は、出雲軍に追われて、上ツ毛国に住んだ。
日立国の豊里に、猿島(さしま)の地名がある。
『日本書紀』に、彦狭島王の記事がある。
五十五年春二月戊子朔壬辰
以彦狹嶋王 拜 東山道十五國 都督
是豐城命之孫也。
景行天皇五五年二月壬辰条
彦狭嶋王を以て東山道十五国の都督に拝した
これは豊来入彦の子孫である。
この記事により、豊国軍が日立国に来たことがわかる。
豊国軍は、上毛野(かみつけの)国〔群馬県〕と下毛野(しもつけの)国〔栃木県〕に本拠地を移した。
上毛野国へ行った人々は、さらに北の沼田方面に向かった。
沼田の北に、月夜野(つきよの)の地名がある。
豊国人は、月夜に月神を祭る習慣があった。
それは「豊の宴」と呼ばれた。
豊来入彦の子孫の彦狭島王〔彦狭島〕は、上毛野国の国造になった。
それで、上毛野国の赤城神社〔前橋市三夜沢町〕と、二宮赤城神社〔前橋市二之宮町〕には、豊来入彦が祀られた。
赤城神社〔前橋市三夜沢町〕
地元では赤城神社はもとは元三夜沢の「御殿」という所にあり、豊来入彦が東国を鎮定し、そこに永く居住したと伝えられている。
近くの近戸神社〔前橋市粕川町〕も豊国人ゆかりの社で豊来入彦が祀られ、その社がある「月田」という地名も、宇佐神宮の月神にちなんだ名前らしい。
上毛野国や下毛野国に住んだ豊国軍の兵士の一部は、故郷の九州に帰った。
九州の豊前国では、その里帰りした人々が住んだ地域に、上毛郡や下毛郡の名がついている。
豊来入彦が垂仁大君との勢力争いに敗れた頃、その妹の豊来入姫は、丹波国から伊勢国・椿大神社〔鈴鹿市〕へ逃れ、その地で垂仁大君の刺客に暗殺された。
その屋敷跡には、椿岸神社〔椿大神社境内〕が建てられた。
第2次物部東征の時、物部氏の一派は安芸国〔広島県〕より北上し、出雲王国を攻めた。
その家は、安芸国から北上したので「秋上(あきあげ)家」と呼ばれた。
そして出雲王国を滅亡させ、東出雲王家の王宮の神魂神社〔松江市〕を奪った。
神魂神社の千木(ちぎ)の上側は、もとは出雲式の縦削ぎであったが、秋上家が所有するようになると、九州式の横削ぎに変えられた。
千木の下側は、出雲式の縦削ぎのまま残された。
神魂神社の千木〔松江市大庭町〕
さぼ