古墳は、一般には3世紀中頃に大和で初めて造られたとされている。

しかし史実では、2世紀後半に吉備国に造られた楯築古墳〔倉敷市日畑西山〕が、最初の古墳であった。

右差し 吉備発祥の道教式古墳

 

 

 

楯築遺跡〔岡山県倉敷市矢部〕

 

 

 

 

当時、権力者は先祖の墓をつくる習慣があった。

楯築古墳は、その形の持つ意味やつくられた時期を考えると、吉備津彦兄弟が、父君フトニ〔孝霊〕大王のためにつくった可能性が大きい。

フトニ大王の小さい墳墓はすでに伯耆地方につくられていたが、あとで遺体が吉備国に移されたものと考えられる。

 

この古墳の埋葬部からは、歯の一部が見つかっている。

遺体は木棺に納められ、当時の貴重品であった大量の朱が棺の底に敷かれていた。

また副葬品として豊富な量の玉類と、当時としては大型の鉄剣が見つかったことから、埋葬された人物が絶大な政治的権力を有していたことがわかる。

 

楯築遺跡は、中心は直径約40メートルの円墳であるが、そこから二方向にそれぞれ約20メートルの長方形の突出があった。

これは双方突出円墳と呼ばれており、道教の思想の影響を受けているものと考えられる。

 

 

 

墳丘復元想定図

 

 

 

道教では、海中の蓬莱島〔古代の和国〕に仙人が住む、との考えがあった。

和国には芽葺きの円形の竪穴式住居があり、突出した出入り口があるので、上から見ると壺の形をしていた。

その中に長寿の老人が住んでいたので、和国に来た支那人がその老人を仙人であると考えたらしい。

古代の和国では半年を1年と数えていたので、支那人が和国の老人の年齢を聞いて、非常に長寿であると勘違いしたのかもしれない。

その話が道教に取り入れられ「仙人は蓮の壺に住む」という説明が行われた。

その話がさらに変化して、壺には複数の口があると考えられるようになった。

 

支那・山東省の沂南(ぎなん)武氏墓の墓門には、道教の思想が描かれている。

 

 

 

沂南武氏 墓門の発掘調査〔支那・山東省〕

 

 

 

そこには仙人の王として、左のコンロン山上には西王母が、右の蓬莱山上には東王父が描かれている。

 

 

 

沂南画像石墓発掘報告書

 

 

 

二つの聖山は壺の形をしている。

その壺には、三つの口がある。

 

 

 

 

西王母(右)と東王父(左)〔日本財団図書館〕

 

 

 

 

フトニ大王の父君・オシヒト〔孝安〕大王が支那に渡ったときに、その壺の絵を直接目にしたのかもしれない。

楯築王陵は、この壺の形を真似したらしい。

三つの口を二つにして、円墳の両側から突出させた形となっている。

この古墳が、のちの方突円墳〔前方後円墳〕の先駆けであった。

つまり、方突円墳も道教の思想でつくられたものであった。

そのことを示すように後世の方突円墳には、蓬莱山古墳と呼ばれるものもある。

 

この古墳は「円」の部分が子宮で「方」の部分が産道を表すという意味もあるらしい。

つまり、被葬者がまた生まれ変わることを願ってつくられたものということになる。

 

楯築王陵の円墳の頂上中央部には5個の大岩があり、中央の岩の周りに4個の岩が東西南北方向に配置されている。

 

 

 

楯築王陵の円墳の頂上中央部

 

 

 

道教では「中央の嵩山(すうざん)と、その東西南北の山を合わせた所に神仙が住む」という考えがあり、その聖山を岩で示したものである可能性が高い。

ちなみに、松江市上東川津町にも嵩山があり、その山頂には布自伎美(ふじきみ)神社が鎮座する。

そこは、『私製出雲風土記』にも書かれている古い社である。

「フジキミ」とは「不死君」であり、道教の仙人のことを示す。

つまり、この山の名は道教の思想によって名づけられたことがわかる。

 

 

 

嵩山〔松江市上東川津町〕

 

 

 

 

あるいは楯築王陵の東西南北の岩には、それぞれ古代支那の四神である青龍〔東〕・白虎〔西〕・朱雀〔南〕・玄武〔北〕が祀られたものかもしれない。

中心の岩には現在は石祠が据えられており、以前はそこに通称「亀石」と呼ばれる御神体石が存在した。

その御神体石は、すぐ近くの楯築神社に移されて祀られている。

 

その石は、大きさが約90cm四方、厚さが約30cmで、奇妙な模様が刻まれている。

長円形の窪みの中に一本の線が描かれている。

その長円形の回りを、うねるように帯状の模様が取り囲んでいる。

これらの模様は、弧帯文(こたいもん)と呼ばれている。

 

この古墳の被葬者の棺桶の上からは、御神体石と同じ模様の約8分の1の石が、バラバラに壊された状態で見つかっている。

 

またこの古墳からは、特殊器台と呼ばれる土器の破片が見つかっている。

それには、やはり弧帯文が刻まれていた。

 

 

 

楯築墳丘墓 弧帯石

 

 

 

 

この特殊器台は、沂南画像石墓(ぎなんがぞうせきぼ)に描かれた壺の中で、長方形突出部の形を真似して作られたものと考えられる。

同じ場所からは、脚付き壺が数10個見つかったが、その壺の上部も筒状になっていた。

 

特殊器台に乗せられた特殊壺も出土した。

この壺には食べ物が入れられ、器台に乗せられて古墳に供えられたものと考えられる。

 

楯築王陵の特殊器台には弧帯文はなかったが、次の時代の特殊器台には、弧帯文が描かれた。

特殊器台は、弧帯の模様が少しずつ変化しながら使われ、最後は円筒埴輪に発展した。

 

 

 

楯築弥生墳丘墓〔想像図〕と特殊器台

 

 

 

 

 

楯築王陵の葬儀に参列した豪族たちは、郷里に帰ると同じような方突円墳を造った。

そのため、最も古い時代の方突円墳は吉備地方や四国に存在する。

 

兵庫県たつの市の養久山(やくやま)古墳群には、楯築王陵と同じく二方向に方突部がある5号墳や、一方向の方突部を持つ1号墳がある。

 

 

 

養久山1号墳〔兵庫県たつの市揖保川町〕

 

 

 

 

一方向の方突部を持つ方突円墳は、数多くつくられた。

阿波地方では、積石塚と呼ばれる形式の萩原1、2号墳〔徳島県鳴門市〕がつくられた。

萩原古墳から近い黒谷川郡頭(くろだにがわこうず)遺跡〔徳島県板野郡板野町〕や矢野遺跡〔徳島市国府町〕では、弧帯文の描かれた土器が出土しており、阿波地方が吉備国とつながりがあったことがわかる。

 

吉備国の楯築王陵は日本の古墳の元であり、磯城大君家の最初の古墳でもあった。

そのため古墳の発祥地は、吉備国であると言うことができる。

ところが、その古代史上重要な楯築古墳の一方の突出部は、大変残念はことに団地造成のために壊された。

 

さぼ