2世紀後半にキビ王国には、楯築古墳〔倉敷市日畑西山〕が造られた。

これは時期的に、キビツ彦の古墳である可能性が大きい。

 

 

楯築遺跡遠景 丘陵の右側頂上部に墳丘墓がある

 

 

 

 

 

楯築古墳は、奇妙な形をしている。

中心は直径40メートルの円墳であるが、2方向に約20メートルずつの長方形の突出があった。

これは双方突出円墳と呼ばれる。

 

 

楯築古墳

 

 

 

 

これは道教の考えにより、造られていた。

道教は「鬼道」とも呼ばれ、その教団・太平道が、後漢の184年に「黄巾の乱」を起こしたことが知られている。

 

しかし道教の起源は古い。

老子の考えも、道教的だと言われる。

その考えの特色には、仙人崇拝と北極星礼拝がある。

 

この教えは道士・徐福が、初めて和国に伝えた。

それで和国の各地の丘に「仙」の字のつく地名がついたことが知られている。

 

道教の羽のある仙人を描いた武氏祠(ぶしし)画像石がある。

 

 

 

武氏祠(ぶしし)画像石の西王母・東王父

 

 

 

仙人の王が、左のコンロン山上の西王母であり、右の蓬莱山上の東王父である。

オシヒト大王が107年に後漢の都を訪れた際に、この画像を見たか、その絵の写しを手に入れて形を教えたらしい。

 

大王の孫にあたるキビツ彦は、この絵に似た形の古墳を造るように遺言した、と考えられる。

 

西王母の下に、白虎がいる。

楯築古墳は、壷の形を円墳で示したらしい。

その壷には、3つの口がある。

その口を2つにして、円墳の両脇に突出させた。

 

その形をした古墳が、楯築古墳すなわち二方突出円墳であった。

古墳の頂上には、5つの岩が立てられている。

4つは、中心の岩の東西南北にある。

 

東西南北の岩には、それぞれ東竜と西虎・南朱雀・北亀の禽獣神が祭られたらしい。

 

 

 

楯築古墳の頂上

 

 

 

古墳の横に楯築神社があるが、そこの御神体石〔縦90、横92、厚さ30センチ〕には、奇妙な模様が刻まれている。

 

 

楯築神社

 

 

 

 

円形の窪みの中にカマボコ型の出っ張りがある。

その円形の周りを、Sの模様に帯が巻かれている。

 

 

楯築遺跡内に保存されている弧帯文石

 

 

 

 

ここの首長の棺桶の上にも、同じ模様の8分の1の御神体石があった。

それらの模様は、弧帯文と呼ばれている。

 

この古墳には、特殊器台と呼ばれるものの破片が見つかった。

それは武氏祠画像石で、西王母が乗っている壷から突出した長方形部分の形にソックリである。

つまり長方形突出部分を筒にしたものが、特殊器台に発展した。

 

 

特殊器台〔楯築遺跡出土〕

 

 

 

 

当時は古墳の上で埋葬と葬儀が行われ、そこに特殊器台が置かれていた。

その同じ場所に、脚付き壷が数10個見つかった。

 

その壷の上部は、筒状になっていた。

この筒突出壷を横から見た形に似せて、方突円墳〔前方後円墳〕が造られた。

 

楯築古墳の葬儀に参列した豪族たちは、郷里に帰って方突円墳を築いた。

そのため方突円墳で最も古いものは、キビ地方や四国に見られる。

 

楯築古墳の特殊器台には、弧帯文が刻まれていた。

その器台に乗せられた特殊壷も出土した。

これには食べ物が入れられ、特殊器台に乗せられて古墳に供えられた、と考えられる。

 

 

 

楯築遺跡の出土品

 

 

 

 

キビ国で次にできる古墳にも、特殊器台が使われた。

円筒形の器台は同じであるが、弧帯の文様は、少しずつ変化している。


 

 

 

円筒埴輪のルーツ〔特殊器台の変遷〕

 

 

 

 

 

それが向木見型や宮山型・都月型に変わった後に、特殊器台は円筒埴輪に発展し固定化した。

 

 

 

円筒埴輪〔宮内庁〕

 

 

 

 

この楯築古墳と同じ形の双方突出円墳は、ごく少ない。

養久山5号墳と櫛山古墳ぐらいのものである。

後者は奈良県天理市柳本にあるが、4世紀の築造である。

 

 

櫛山古墳〔奈良県天理市柳本〕のレーザー測量による古墳の形

 

 

 

 

それに対し、突出が1つの古墳が多く出現した。

その形がいわゆる方突円墳〔前方後円墳〕である。

この形としては、萩原1号墳や養久山1号墳がある。

 

 

 

面影もない萩原1号墳〔徳島県鳴門市〕初期の前方後円墳

 

 

 

 

 

養久山1号墳〔兵庫県たつの市〕

 

 

 

ところで出雲市大社町に、鹿蔵山遺跡がある。

それは9世紀前後の遺跡であるが、そこから多口壷の破片が発掘された。

復元すると、それは口が5つある三角形で、真ん中の口が高くなっている。

 

 

 

多口壷復元品〔鹿蔵山遺跡〕

 

 

 

 

これに似た形の多面鼓土器が、出雲各地の古い古墳から出土している。

それは口に皮を張って使う、古代インドの多面鼓だと言われてきた。

 

これは中国の多口壷の影響だ、とも考えられる。

そう考えると、道教の影響だ、ということになる。

中国とインドの両者の関係も問題となる。

 

多口壷の回りの4つの形式化した古墳が、四隅突出古墳となる。

真ん中の大口1つの形を採用したのが、方突円墳だということになる。

 

この形の古墳の意味は、円の部分が子宮らしい。

だから被葬者が生まれ変わることを、願って造ったものらしい。

「方」の部分は、産道らしい。

 

円を子宮と考えて、方突円墳に別名を付けるならば、「下筒中腹円墳」ということになる。

竪穴古墳では、古墳上で葬儀が行われた。

 

横穴古墳では、穴口で葬儀があった。

だから方形部は「前」ではない。

「前方」は誤りだから「前方後円墳」の名称は変えるのが望ましい。

 

この楯築遺跡の重要性は、これが日本の古墳の元を造ったことである。

日本の古墳の形は、道教の影響でできた。

また埴輪にも、道教の影響がある。

 

それを最初に表したものが、楯築古墳であった。

だから古墳の発祥地は、吉備国だと言っても過言ではない。

 

その重要な楯築古墳の2突出部の一部が、団地造成のために壊されたのは、古代文化史上、まことに残念なことである。

 

 

さぼ