太田家は、その後数十年にわたりヤマトの平和を維持し、太田遺跡は拡大を続けた。

 

モモソ姫が亡くなった時、太田家は出雲地方から古墳造りの技術者を呼んだ。

そして、太田遺跡の端の大市(おおいち)に、モモソ姫の円墳を築き始めた。

その古墳は、地名に因んで「大市墓」〔桜井市箸中〕と呼ばれた。

 

 

大市墓〔桜井市箸中〕

 

 

 

この古墳造りの様子が『日本書紀』に書かれている。

 

是墓者 日也人作 夜也神作

故運大坂山石而造 則自山至于墓

人民相踵 以手遞傳而運焉。

 

この墓は 昼は人が作り 夜は神が作りました

大坂山〔奈良県北葛城郡二上山の北側の山〕の石を運んで作りました

山から墓に至る人民が並んで列を作って手から手へと手渡しに運びました。

 

 

時人歌之曰

 

世の人は歌を歌いました 

 

飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢

多誤辭珥固佐縻 

固辭介氐務介茂

 

大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を 
手遞傳(てごし)に越さば 
越しかてむかも

 

大坂山の石を麓から頂上まで どんどんと持って行った大量の石

手渡しにどんどん持っていったから

いつかは山をすっかり持って行けるだろう

 

 

この文により出雲式の古墳造りは、人が列を作って並び、石を手渡しに運ぶやり方であったことがわかる。

 

その方法は非常に効率的で、みるみるうちに大円墳がが出来上がった。

遠くから古墳の工事を眺めていた人々は、作業が速く進む理由がわからず「夜は神様が造っているのだろう」と噂しあった。

 

『播磨国風土記』の揖保(いいぼ)郡の立野(たつの)にも、出雲式の古墳造りについて記されている。

 

 

 

『播磨国風土記』揖保郡の立野

 

 

 

立野(たちの)

立野と名付けられた所以は、昔 土師弩美宿祢(はじののみのすくね)が出雲国に往来した時に、日下部野(くさかべの)に宿泊したが、病に罹って死んでしまった。

その時、出雲国の人がやって来て連なって立ち、礫石を運び伝えて川上に墓を作った。

故に立野と名付けられた。

その墓屋は出雲墓屋(いずものはかや)という。

 

この記事の弩美〔富〕宿祢は、3世紀前半の東出雲王家の当主であった。

彼は出雲王国が滅亡した後、「野見宿祢(のみのすくね)」と名前を変えた。

彼は垂仁〔イクメ〕大王の命令で、ヒボコの子孫のタジマ勢〔但馬守(たじまもり)〕を大和から追い払ったが、その恨みを受けて立野〔兵庫県たつの市〕で毒殺された。

その地に彼の古墳が造られた。

彼の子孫の一人は、のちに土師(はじ)氏を名乗り、出雲式の古墳造りの方法を受け継いだ。

右差し 立つ野

 

 

 

 

 

 

モモソ姫の大市墓は、土師氏の時代より古い時代に造られた。

しかし、古墳の造り方は土師氏のやり方と同じだったので、大市古墳は「土師墓」と呼ばれるようになった。

 

モモソ姫の跡を継いだのは、やはり太田家出身の姫巫女であったらしい。

『日本書紀』には、倭迹々姫命(やまとととひめのみこと)という名の姫巫女が登場する。

 

是後 倭迹々日百襲姫命 爲大物主神之妻

然其神常晝不見而夜來矣

倭迹々姫命語夫曰。

 

倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は大物主神(おおものぬしのかみ)の妻となりました

しかし その神は常に昼は見えず 夜しか現れませんでした

倭迹々姫命(やまとととひめのみこと)は夫(せな)に語って言いました。 
 

君常晝不見者 分明不得視其尊顏

願暫留之 

明旦仰欲覲美麗之威儀。

 

あなたさまは 常に昼は見えないので ハッキリとその尊顔(みかお)を見る事ができません

お願いしますから もう少しゆっくりしてください

明日の朝に美麗(うるわ)しい威儀(みすがた)を見たいと思います。

 

記紀では、このトト姫とモモソ姫の名を合わせて「倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ〔び〕・ももそひめのみこと)」という一人の姫巫女の名を作った。

その名の中には登美家の「トビ」も含まれており、この時代の姫巫女が登美家〔太田家〕出身であることを示す傍証となっている。

 

トト姫の名前からは「ホト」を連想させられる。

『日本書紀』では、その「ホト」と「土師墓」の言葉を使って、大市古墳の被葬者が箸でホトを突いて死ぬという話を作った。

それで「箸墓」という奇妙な名前で呼ばれるようになったと説明している。

 

爰倭迹々姫命 心裏密異之

待明以見櫛笥 遂有美麗小蛇

其長大如衣紐 則驚之叫啼

時大神有恥、忽化人形。

 

倭迹々姫命(やまとととひめのみこと)は心の裏(うち)で密かに怪しんでいました

夜が明けるのを待って 櫛笥(くしげ)を見ると とても美麗(うるわし)い小蛇(こおろち)がいました
その長さと太さは下衣の紐のようで それで驚いて叫びました

大神は恥ずかしく思い すぐに人の形になりました。
 

謂其妻曰 汝不忍 令羞吾 

吾還令羞汝。

 

お前 我慢出来ずにわたしに恥をかかせた 

わたしも山に還って お前に恥をかかせよう。

 

仍踐大虛 登于御諸山

爰倭迹々姫命 仰見而悔之急居〔急居、此云菟岐于〕

則箸撞陰而薨

乃葬於大市

故時人號其墓謂箸墓也。

 

それで大空を踏んで 御諸山(みもろやま)に登りました 
倭迹々姫命は仰ぎ見て後悔して ドスンと座りました

それで箸で陰(ほと=女性器)をついて亡くなりました
それで大市〔奈良県桜井市北部〕に葬りました

世の人はその墓を箸墓(はしのはか)と名付けました。

 

記紀の作者は、大市円墳をトト姫の墓と見せかけたかったらしい。

その理由の一つは、大君家に対してモモソ姫の権威を低く見せる目的があった。

もう一つの理由は、記紀が作られた時代は男性優位の社会になりつつあったので、女性優位の社会であったことを隠すためと思われる。

 

大市古墳から見つかった土器に付着した炭化物を、放射性炭素年代測定法で調査したところ、A.D.240〜260年という結果が得られた。

土器は古墳ができた後に持ち込まれたので、古墳はそれ以前に築造されたことになる。

 

大市古墳は、現在は方突円墳〔前方後円墳〕の形だが、寛政3年〔1791〕に刊行された『大和名所図会』には、五段築成の円墳であるように描かれた。

 

 

 

大市古墳〔大和名所図会〕

 

 

 

この絵図は、南西方向から北東方向に向かって描かれ、もし現在のように南西方向に伸びる方突部があれば、絵師が方突部の存在に気付かないことはあり得ない。

ところが、方突部らしきものは全く描かれていない。

先入観なしに素直にこの絵図を見れば、大市古墳は江戸中期までは円墳の形をしていた、と考えるのが自然だ。

 

同じ『大和名所図会』では、今の垂仁陵は方突円墳の姿に描かれており、大市古墳はそれとは異なる形状をしていた。

 

 

垂仁天皇陵(寶來山)〔大和名所図会〕

 

 

 

垂仁天皇陵は前方後円墳〔墳丘長227m〕で、東側から眺めた古墳の姿は端正にかたどられ、墳丘と同心を成すように鍵穴型の周濠が巡らされている。
この絵図では、前方後円墳に見えないが、中央やや左上に「寶來山」(ほうらいやま)と記され、左上には引用であることを明記して「垂仁天皇陵字宝來山といふ」と書かれている。

 

同じ頃の天明5年〔1785〕に刊行された河村秀根の『日本書紀』の注釈書・『書紀集解』にも、大市古墳は円形の丘であったことが記録されている。

 

安政4年〔1847〕に谷森善臣が大市古墳を実見し、「めぐりの堀は皆埋みて田になしたる」と記録しているので、この時には古墳の周囲に現在のような大池は無かったことになる。

 

文久2年〔1862〕から行われた文久の修陵で、江戸幕府が天皇家の古墳をつくり変えており、大市円墳もその対象であった可能性がある。

その頃の『文久山陵図草稿』に描かれた大市古墳は、現在と同じように古墳と大池が接して描かれている。

つまり、谷森善臣の記録のあと、数年の内に大池の形が変わったことになる。

この地方では、農業用のため池が多く必要とされたため、大池が拡張された可能性がある。

その時に、4段の方突部が追加で築成された可能性もある。

 

 

 

箸墓古墳〔桜井市観光協会公式HP〕

 

 

 

 

近年の考古学的な研究においては、中村一郎氏と笠野毅氏が大市古墳の土器の出土状況について、『大市墓の出土品』という記事で報告している。

それによると、方突部と円墳部では出土品の種類に大きな違いがあり、方突部の方はもっぱら土師器の壺で占められていて、唯一の例外である特殊器台形の埴輪片も小さな破片にすぎず、しかも地表下10cmほどの表土層中からの出土で、二次的な移動による混入が疑われるという。

 

また、方突部頂上の地表下約20cmのあたりに粗い葦石(ふきいし)状の石があり、その上と下は柔らかい灰黒色の土であったという。

古墳は、通常土をつき固めて造られたので、柔らかい土があるという話には違和感がある。

 

一方、大市古墳の主要部である円墳部は、古代のままの姿である可能性が高い。

そこからは特殊器台形の埴輪片や壺形埴輪片が出土し、その出土状況から古墳が造られた時代のものと考えられるという。

このことから太田遺跡の他の古墳と同じように、吉備式の古墳造りの影響を受けていることがわかる。

 

また末永雅雄氏の『古墳の航空大観』によると、特に円墳部頂の葦石は割石をもって厚く重ね、ほとんど石塚のような景観を呈し、樹木の生育さえも困難と思われたという。

この記事により、円墳部がこの古墳の中で最も特別な場所であったことがわかる。

 

その円墳部の直径は150mにおよび、それまでの古墳に比べ急激に大型化している。

これは、その古墳が造られた時代に社会情勢が大きく変化し、長期にわたる平和が訪れ、築造にかかる資金が潤沢に得られたことを示している。

 

当時は、政治を担当する大君よりも、祭祀を担当する姫巫女の方が実力が上であった。

その姫巫女の中で、最も実力があったのはモモソ姫であった。

つまり大市円墳は、大和に長期的な平和をもたらし、多くの豪族の支持を集めたモモソ姫にこそ、ふさわしい古墳であると言える。

 

今のいわゆる崇神陵と景行陵は、太田王家の古墳である可能性が大きい。

 

いわゆる前方後円墳という言葉は、幕末にできた。

古くは「双子塚」と呼ばれていた。

幕末の前方後円墳の言葉に合わせて、天皇陵が前方後円墳に改造された。

 

古い双子塚はどこが前方かは決まっていなかった。

例えば応仁陵は円墳の方に神社があり、円墳が前として拝まれていた。

 

いわゆる前方後円墳の言葉は不正確であるので、方突円墳と呼ぶのが学問的だ。

 

さぼ