但馬の軍勢は、宍禾の郡〔宍粟地方〕に進撃した。

その地方は、播磨の中でも、最も鉄が採れる所であった。

ヒボコ勢は鉄が欲しかったらしい。

 

『播磨国風土記』宍禾郡・敷草の村〔宍粟市千草町〕には、次のように書かれている。

 

 

 

『播磨国風土記』宍禾郡・敷草の村の項

 

 

敷草村(しきくさのむら)。

敷草を以って神座とした。

故に敷草という。

この村には山がある。

・・・また、鐵(まかね=鉄)が産出する。

 

この地は宍粟地方で最も豊富な砂鉄の産地であった。

砂鉄を採るために、古代から高羅(こうら)や天児屋の尾根付近で鉄穴流しが行われた。

鉄穴流しの前は、野ダタラが行われていた。

風土記には、砂鉄を出すとは書かないで「鉄を出す」と記すのは、当時は野ダタラにより、製鉄が行われていたことを示している。

 

この地の製鉄の歴史は古い。

西河内(にしごうち)の谷間で田を造成中に、地下30センチから弥生〔吉野ヶ里〕土器の破片が現れた。

同じ地層で、野ダタラ跡が発見された。

これは少なくとも弥生〔吉野ヶ里〕時代以前にこの地方で製鉄が行われていたことを示している。

 

この地方で造られた鉄は、後世に千種(ちぐさ)鋼と呼ばれた。

それは備前長船(おさふね)〔岡山県瀬戸内市長船〕の刀工たちにより、最良の素材として使われた。

 

伊和の北方に御方(みかた)〔兵庫県宍粟市一宮町三方〕という場所がある。

そこの金内川流域も、鉄の産地であった。

『播磨国風土記』の宍禾郡(しさはのこほり)御方の里に書かれている。

 

 

『播磨国風土記』宍禾郡・御方の里の項

 

 

 

大内川(おほうちがは)、小内川(こうちがは)、金内川(かなうちがは)。

大きいものを大内と称し、小さいものを小内と称し、鐵(まかね=鉄)を産出するものを金内(かねうち)と称する。

 

『播磨国風土記』宍禾郡・川音村と高屋の里に、ヒボコの記事がある。

 

 

『播磨国風土記』宍禾郡・川音村と高屋の里の項

 

 

川音村(かはとのむら)。

〔川音と名付けられた所以は〕天日槍命(あめのひぼこ)が この村に宿泊した時に「川の音がとても高いな」と言った。

故に川音村という。

 

高家里(たかやのさと)。

高家と名付けられた所以は、天日槍命(あめのひぼこ)が「この村は他の村よりも高さが勝っているな」と言った。

故に高家という。

 

その近くの奪谷でも、出雲軍とヒボコ勢の戦いがあったことを、風土記は述べる。

 

 

 

『播磨国風土記』宍禾郡・奪谷の項

 

 

 

奪谷(うばひだに)。

葦原志許乎命(あしはらのしこを=大名持)と天日槍命(あめのひぼこ)の2神が この谷を奪い合った。

故に奪谷という。

ここで奪い合ったために、この谷は〔谷の地形を変形させるほどの〕曲がった葛のような形になっている。

 

奪谷は、今の一宮町染河内地区あるいは山崎断層のことを言ったともいわれている。

 

 

山崎断層の横ずれで3つの尾根が分断された図

 

 

 

 

 

 

風土記の地名由来記事は、地名起源説としては全部が正しい訳ではない。

しかし、その話に使われた事件は史実を反映している。

大名持〔出雲主王〕とヒボコが土地占めのために、争った話も書かれている。

 

『播磨国風土記』宍禾郡・波加の村にも、争いがあったことが記録されている。

 

 

 

『播磨国風土記』宍禾郡・波加の村の項

 

 

 

波加村(はかのむら)。

国を治めようとした時、天日槍命が先に此処に到り、伊和大神が後で到った。

ここで大神は大変怪しんで「はからずも先を越されたか?」と言った。

故に波加村という。

 

すなわち、ヒボコ勢が先手を打って進撃し、防備を固めた。

後手に回った出雲軍は、領地を回復できなかった。

その結果、ヒボコ勢により播磨は占領された。

 

韓国内では戦乱が多かったので、ヒボコの子孫の集団は、巧みな戦術の知識を受け継いでいた。

それに対し平和な列島に住んでいた出雲軍は、実戦の経験がなかった。

このためヒボコ勢に占領され、出雲軍は余儀なく退却した。


ヒボコ勢に播磨領を奪われたことで、出雲王家は大きな反省を求められた。

そこで、出雲王国の建て直しを考えることになった。

 

出雲王国と大和王国の中間にヒボコ勢の国ができたので、出雲と大和の交流は分断された。

出雲・大和連立王国の時代には、両国のシンボルは同じ銅鐸であった。

銅鐸を神器として使ったのは、出雲の方が古かった。

しかし、のちには近畿産の銅鐸を、出雲産の鉄器と交換するようになった。

 

伝承によると、出雲で採れる良質の砂鉄や鉄製品は、各地から求められた。

出雲は「鉄器の国」と言われていた。

豪族たちが最も欲しがった鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。

 

それは、ウメガイと呼ばれた。

銅は鉄ほど固くないので、武器には使えなかった。

それで、槍の先につけるウメガイが求められた。

それは、削って木製品を作るための日用道具としても使われた。

鉄器は貴重なので、豪族か特別な人しか使えなかった。

庶民はまだ石器を使っていた。

だから、当時は金石併用時代であった。

 

ウメガイは貴重なので神器にもなった。

神器として使うために、石製のウメガイも作られた。

後者が近畿地方で、多く出土している。

 

 

石製のウメガイ〔河南町宝ヶ峰遺跡〕

 

 

 

東出雲王家・富家では、銅鐸の代わりに、ウメガイに似た銅剣を新しいシンボルとすることに決めた。

銅鐸は幸の神の女神の御神体であったのに対し、銅剣は男神の御神体とされた。

 

吉野ヶ里遺跡で出土する銅剣は、中細形銅剣B類と呼ばれている。

富家では、これを真似て中細形銅剣C類を造ったと考えられる。

それが、いわゆる出雲形銅剣と呼ばれるものである。

 

富家が出雲独特の形の銅剣を作ったのは、物部王国や大和王国に対する対抗心の表れでもある。

大和と出雲の王国の連立はこのとき終わりを告げた。

 

斐川町の神庭斎谷(かんばさいだに)遺跡〔荒神谷遺跡〕からは、この出雲形銅剣が多数出土した。

ここは富家の遺跡であると伝承されていた。

この遺跡からは、北九州で多く出土する銅矛も出土した。

このことから、富家は北九州の物部王国とも付き合いがあったものと考えられる。

 

出雲王家はその銅矛を親族の宗像家を通じて、鉄器と引き換えに入手したらしい。

銅剣はその銅矛に似せたものであった。

銅剣をシンボルにしたことは、出雲王国が物部王国の父系社会の影響を受けた結果である、と言うこともできる。

 

その神庭西谷の一番奥の北斜面に、16本の銅矛が埋納された。

銅矛の埋納は、物部王国との絶交の意味があったかもしれない。

古い青銅器を埋納した神庭は、新しい神器の銅剣を造る場所としても最高である。

 

出雲形銅剣は、物部王国の技術者を出雲に連れてきたか、物部王国から技術を教えて貰い、出雲で作られたものと考えられる。

おそらく多くの古い銅鐸を融かし、その素材の青銅を使って、多くの出雲形銅剣が作られたであろう。

 

荒神谷遺跡『調査既報』の地形測量図には、斜面の埋納地の谷底に印があり、そこの焼土は煉瓦状に固く焼き締まっており、鮮明な赤色を帯びていた、と報告されている。

 

 

銅剣・銅矛(矢印)と大型炉跡(○印)〔荒神谷遺跡調査報告書〕

 

 

 

 

 

 

 

 

原島礼二教授は「そこで強力な千度以上の火が、繰り返し焚かれた」と書いている。

それが正しいならば、そこに大型の坩堝(るつぼ)が造られ、吹子(ふいご)の風による炭火の高温で、多くの古い青銅器が同時に融かされた。

 

出雲人は几帳面なので、大型の坩堝の炉は、きれいに片付けたことだろう。

焼けた地面の上に何も残っていなかった。

おそらく、そこで融かされた青銅を素材として、多くの出雲型銅剣が造られたであろう。

しかし、銅剣の材料の銅は、出雲産も使われた可能性もある。

 

なぜならば島根半島には、銅山が多い。

北山産地の竜山では、自然銅が露出していた、と古老は伝えている。

この場合は、青銅に混ぜる錫と鉛は、中国産を使ったのかもしれない。

 

また出雲では、銅剣の鋳型は出土していない。

宍道湖の南方〔松江市西部〕には、来待(きまち)石という岩が産出する。

これは砂岩で削りやすいので、鋳型を作る細工がしやすい。

また岩の中に微小な隙間があるので、融けた金属のもつガスが抜けて、銅器の出来具合が良いという。

 

来待石の採石場には、屑石はまったくない。

なぜなら来待石を粉にすると、良質の釉薬ができるので、かけらも残さずに陶器製造に使われる。

石州瓦の赤色の釉薬は、これが使われている。

 

銅剣作りの鋳型の使い古しも、残らず釉薬として使われたと思われる。

だから、出雲からは鋳型は出土しない。

そのことが、出雲で銅器が作られなかった根拠にはならない。

 

一方の西出雲王家・郷戸家では、銅鐸祭祀を続けることにした。

神庭斎谷遺跡と同じ頃の加茂岩倉遺跡〔島根県雲南市加茂岩倉〕は、郷戸家の遺跡であると伝承されていた。

そこからは、銅鐸が多数発見されたが、銅剣や銅矛は出土しなかった。

郷戸家は穏和な性格で、大和王国との関係を続けたいと考えたらしい。

 

しかし、出雲王国の半分が大和王国とは別の銅器をシンボルとしたことで、両王国の連立の時代は終わった。

 

さぼ