但馬北部を奪われたヒボコ勢は、播磨へ侵攻せざるを得なくなった。
ヒボコの子孫率いる軍勢が、播磨国境をこえて侵入した。
古代の播磨は出雲王国領であった。
『播磨国風土記』揖保の郡には、大名持と少名彦の記事がある。
『播磨国風土記』揖保の郡
稲種山(いなだねやま)。
大汝命〔大名持〕と少日子根命〔少名彦〕の二柱の神が神前郡(かむさきのこほり)の埴岡里(はにをかのさと)の生野之岑〔峰〕(いくののみね)に居た時に、この山を望んで「あの山は稲種を置くのが良いだろう」と言い、稲種を持って遣わせて この山に積ませた。〔あるいは〕山の形が稲積(いなづみ)に似ていた。
故に稲種山と名付けられることになった。
ヒボコ集団は、丸山川の沼地開拓で苦労した。
その結果、出雲王に恨みを持ち続けていた。
その恨みの気持ちが、播磨侵攻の原因の一つでもあった。
この時の戦いの様子が『播磨国風土記』には多く記録されている。
『播磨国風土記』神前の郡には、戦闘が開始された時のヒボコ勢の様子が、次のように書かれている。
『播磨国風土記』神前の郡・八千軍の項
八千軍(やちぐさ)という所以は、天日桙命(あめのひぼこのみこと)の軍に八千人の兵が居たからである。
故に八千軍野という。
この文の通りだとすると、八千人というのは当時ではものすごい大軍である。
誇張があるかもしれないが、但馬勢の意気込みの強さが感じられる。
八千軍野は、中国自動車道の福崎インターのすぐ南のあたりにあり、今は地名が八千草〔福崎町〕に変わっている。
八千草〔兵庫県神崎郡福崎町 春日山山頂より〕
そのさらに南方に粳岡(ぬかおか)という場所がある。
そこの戦闘の様子も『播磨国風土記』に記録されている。
『播磨国風土記』神前の郡・粳岡の項
粳岡は、伊和大神と天日桙命の2神が互いに軍を起こして戦った時、大神の軍は集まって稲を舂いた。
すると、その糠が集まって丘のようになり、その丘を墓と呼んだり、城牟禮山(きむれやま)と呼んだりした。
また、ある人が言うには、城を掘った所を品太天皇(応神天皇)の御世に百済から渡来した人々が城を造って住み、その子孫らが川邊里の三家人(みやけのひと)で夜代(ヤシロ)らなのだという。
突然のヒボコ勢の侵攻に、出雲軍は後退を余儀なくされた。
粳岡で勝利したヒボコ勢は、一旦舟で播磨灘に出たあと西に進み、揖保川の河口〔宇頭〕から川を逆上って進軍しようとしたのかもしれない。
『播磨国風土記』の揖保の郡・粒丘(いひぼをか)に次のような記事がある。
『播磨国風土記』の揖保の郡・粒丘の項
粒丘(いひぼをか)。
粒丘と名付けられた所以は、天日槍命(あめのひぼこ)が韓国から渡来して宇頭川の辺に到り、ここで宿を乞うたところ、葦原志舉乎命(あしはらのしこを)は「汝は国主であるから、我が宿を与えよう」と言って海中に案内した。
この時、客神(まらひとのかみ=ヒボコ)は剣で海水をかき回して宿とした。
すると、客神の行いを見た主神(あるじのかみ=シコヲ)は〔ヒボコの武勇の盛んなことを〕畏れて、先に国を治めようと思い、国を巡って粒丘に到り、ここで湌(みをし=食事)をした。
その時に口から米粒が落ちたので、粒丘と名付けられた。
この丘には小石があるが、皆 米粒によく似ている。
粒丘は中臣の地にあり、丘の上に中臣粒太神をまつる社があるという。
粒丘〔兵庫県たつの市揖保町〕
その近くの佐比岡(さひおか)について『播磨国風土記』に次のような記事がある。
『播磨国風土記』の揖保の郡・佐比岡の項
・・・出雲国の人々は、この岡で佐比(さひ=鋤のような農具)を作って祭りを行った。
・・・また、佐比を作って祭を行った場所は佐比岡と呼ばれている。
佐比岡は、作用岡〔揖保郡太子町〕と呼ばれている。
佐比は、鉄のサビにも通じる。
これは出雲人が古くから製鉄を行い、鋤(すき)を作ったことを示している。
鋤は、豊作を祈るための神器として使われた。
古代人が銅器を神器としたのと同じく、そのころ貴重品でだった鉄器も神器として神社に捧げる習慣があったことがわかる。
ヒボコ勢は、この鉄資源を欲しがっていたらしい。
さぼ