出雲・大和両王国の連立時代が終わりを告げたA.D.2世紀前半、九州の物部王国のシンボルは、大型化した銅矛であった。
その出土範囲は、九州は筑紫全域から、壱岐、対馬、豊前、国東半島にまで及び、さらに四国の伊予や土佐西部まで広がっている。
その広大な範囲が、物部王国の勢力範囲であった。
銅剣・銅矛・銅戈と銅鐸文化圏
A.D.2世紀中頃〔後漢・桓霊時代〕筑後平野では、饒速日(にぎはやひ)から5、6代目に彦渚武(ひこなぎさたけ)王がいた。
王の御子に彦五瀬(ひこいつせ)がいた。
彼は弟の宇摩志麻遅(うましまじ)や一族の者たちと協議して、物部王国の遷都の計画をたて、好機を狙っていた。
その時やっと、葛城王国が内乱状態になった、との知らせを受けた。
それで、いよいよ進軍することを決め、作戦を練った。
このとき瀬戸内海を通ったと、記紀に作為の記述がある。
しかし、それは息長帯姫(おきながたらしひめ:神功皇后)軍東征の戦記の借用だ、と伝えられる。
もし、物部軍の大軍船が瀬戸内海を通るならば、攻撃を受ける危険性が大きかった。
瀬戸内方面には吉備王国が勢力を広めていて、瀬戸内海は吉備王国の領海であった。
ここに侵入すると、物部軍には損害が出る。
それでは、大和方面での上陸戦を行う余力がなくなる。
一方、四国の南海を通るのは自由であった。
その方が速く、大和方面に達することができる。
だから南九州へ向けて、出発することになった。
軍勢は船団を組み、有明海を出航した。
途中で、肥後国の球磨(くま)川の河口に停泊した。
その球磨川流域で、若い兵士を沢山集めた。
彼らは久米(くめ)の子と呼ばれたが、白兵戦が上手だったと言われる。
その金石併用武器の戦さの歌が、古事記に書かれている。
みつみつし 久米の子らが こぶ束大刀(つかたち)
石鎚持ち いま撃たば 良らし
勢い盛んな久米の子らが、柄頭(つかかしら)が槌の形の大刀や
石鎚の大刀を持って、今撃つのが良いぞ
また「神武紀元年」に、「道臣(みちのおみ)命が、大来目部(おおくめべ)を師(ひき)いて・・大来目を、畝傍山の西の川辺の地に居(はべ)らせた。いまの久米村という名は、これによる」と書かれている。
この文には、出雲王族の道臣の名前が借用されている。
物部勢は、そのあと串木野(くしきの)にも立ち寄ったらしい。
照島〔いちき串木野市〕に徐福が上陸したという伝説があり、島陰に秦波止(しんばと)という船溜りがある。
近くの冠岳(かんむりだけ)や、少し離れた紫尾(しび)山にも徐福伝説が残っている。
これは有名人仮託話〔誰か有名人の話にしてしまう〕で、物部勢がこの付近に一時滞在したことを示している。
冠岳と徐福石像〔冠岳展望公園:いちき串木野市〕
物部勢の船団はさらに進んで、薩摩半島の笠沙(かささ)の入江に停泊した。
ここでは、薩摩隼人を兵士として集めた。
この史実の影響により古事記には、「笠沙の岬を真(ま)き通って・・・」の文句が記されている。
昔は中国は唐(から)と呼ばれていた。
秦の出身者が多い物部勢が上陸した所には、唐の字が当てられ唐仁原(とうじんばら)の地名が残っている。
船が群がった岬には、唐ノ岬の地名がついた。
笠沙には、秦(はた)族が酒〔焼酎〕造りの技術を教えたとの伝承がある。
その技術を身につけた村人は、現在でも冬には杜氏(とうじ)となり、各県の酒工場へと出稼ぎに出る習慣がある。
鮫島吉廣著『焼酎 一酔千楽』によると、薩摩にはツブロ式と呼ばれる奇妙な形の蒸留器が普及しており、同じ蒸留器は福建省の徐家村にあるという。
徐家村は、代々酒造りに長けたところとして知られ、村人全員が徐の姓を持ち、徐福の末裔だという。
この蒸留器がいつ薩摩に伝来したかわからないが、徐福一族と薩摩を結びつける話ではある。
秦族は山辺を鍬で打ち開き、田を作った。
そこが「打ち山田」と呼ばれ、内山田〔鹿児島県南さつま市加世田内山田〕の地名が出来たらしい。
その地から熊野に進み、さらに伊勢に住んだ秦族が、薩摩半島のその地名にちなみ、宇治山田(うじやまだ)の地名を付けたという話もある。
薩摩半島には、稲作は秦族が伝えたとの伝承がある。
内山田〔鹿児島県南さつま市加世田内山田〕
当時の隼人は、今の沖縄人に似ていて、陽気であった。
月夜には、村の広場で歌い踊る習性があった。
近畿に住んだ時は、隼人は宮中警護の役を与えられた。
夜、互いに連絡するときには、犬に似せて遠吠えを交わしたと言われる。
また、儀式の際は、揃いの演舞を見せた。
鹿児島県の隼人駅前には、奈良市の平城宮跡より出土した、古代在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の盾が展示されている。
隼人の盾〔鹿児島県 隼人駅前〕
太安万侶は、古事記に史実の例え話を書いている。
薩摩半島の東シナ海沿岸中部に、阿多(あた)の地名がある。
火能邇邇芸(ほのににぎ)〔火明邇芸速日(ほあかりにぎはやひ)〕命は、その地の大山津身の娘をめとった。
古事記は、彼女を阿多都(あたつ)姫と書いている。
父の名の大山津身は、中国地方最高峰の大山〔神名備〕を意味する。
それは火の神であり、出雲では久那斗(くなと)大神のことだと言われる。
これは出雲系豪族である宗像(むなかた)家の「阿(吾)多片隅(あたかたす)命」を例えている。
火明邇芸速日命は出雲系の宗像家血筋の娘〔高照姫と市杵(いちき)島姫〕をめとり、香語山(かごやま)と彦穂穂手見(ひこほほでみ)をもうけた。
阿多都姫〔一身兼両人〕は、またの名は木花佐久夜姫(このはなさくやひめ)と言う。
姫は火明邇芸速日〔一身兼両名〕の息子・火照(ほでり)命と、火遠理(ほおり)命を生んだ。
火照は兄の香語山〔かごやま:海部氏の祖〕を例え、火遠理は弟の彦穂穂出見〔ほほでみ:物部氏の祖〕を例えている。
この話は、海部氏と物部氏の祖と宗像家の姫との関係を暗示している。
火照は海幸彦と名付けられ、火遠理は山幸彦に例えられた。
そして竜宮に行った山幸彦は、海神に貰った二つの玉の力により、兄を破る話になる。
これは後に大和で、先住の海幸彦の政権を、熊野に上陸した山幸彦の勢力が追い払う史実を、暗示している。
次に海神の娘〔海の女神・宗像家の姫〕である豊玉姫が、火遠理の御子・彦渚武を産む話がある。
産む時にワニの姿に変わったという。
それは彼女が、ワニ〔竜の化身〕を信仰する出雲族の娘であることを示す。
彦渚武は豊玉姫の妹・玉依姫(たまよりひめ)を娶り、彦五瀬や宇摩志麻遅〔磐余彦(いわれひこ)命〕をもうけた話になっている。
いよいよ、第一次物部東征の開始、すなわち彦五瀬ひきいる大船団が、東に進む日がきた。
すべての軍勢が笠沙の湾に集結したあと、東へ向かった。
佐多岬〔鹿児島県〕と足摺岬〔高知県〕を過ぎ、土佐国の南岸へ進んだ。
高知県高岡郡窪川町の高岡神社には、物部王国のシンボルの銅矛が5本残されており、今でもそれらを高く担いで村々を回る祭りがある。
この祭りは、この付近に物部勢の一部が住んだ可能性がある。
弥生時代の銅矛〔高岡神社〕
物部勢の大船団は、土佐湾で一休みすることになった。
大波を避けるため大船団は川を逆上り、川岸で数日を過ごした。
その地には「物部(ものべ)」の地名がつき、川の名前も「物部川」となった。
物部川の上流にも物部村という地名があり、ここに物部勢の一部が移住した可能性がある。
彼らは、兵士として強制的に連れて来られたが、戦いを好まず逃げ出した人々であったかもしれない。
彼らはその土地に住む出雲族と混血し、平和に暮らすようになったと考えられる。
物部王国のシンボルは大型銅矛であったが、移住に際してシンボルを銅鏡に変えることが決定された。
物部勢の中には、その鏡を持ってそのまま土佐に住み着いた人々がいたらしく、香美(かみ)や香我美(かがみ)の地名が残っている。
物部村〔物部川上流:香美市〕
末久儀運著『物部氏の伝承と土佐物部氏』には、それらの地名の由来について、次のように書かれている。
・・・「物部」という地名は、もとは「もののべ」であったといわれる。
土佐に移住してきた物部氏がこの地で栄え、物部の地名が生まれ、そのそばを流れる川を「もののべ川」と名づけたものである。
それがいつしか略されて「ものべ」となり「ものべ川」となったものである。
郡の名である「香美」も、もとは香美と書いて「かがみ」と読んでいたのであるが、いつのまにかこれも略されて「かみ」となったのである・・・
ところで「物部」の「部」とは、大王に仕える職業集団を意味する言葉であり、物部勢の軍事担当者が大王から「物部」の氏を与えられたのは、第二次東征のあとであった。
それまで彼らは、兵を意味する「もののふ」と呼ばれていて、第一次東征のころ土佐に住み着いた場所の地名も、もとは「もののふ村」や「もののふ川」であったと考えられる。
やがて、第二次東征のあとに物部氏にちなんで「もののふ」の地名が「物部」に変わったらしい。
また土佐は、物部系の銅矛と出雲・大和連合系の銅鐸の両方が出土する地である。
例えば物部川右岸の田村遺跡〔高知県南国市〕からも、銅矛と銅鐸の両方が出土した。
この地は、物部系と出雲・大和連合系の中間に位置しており、どちらの勢力とも友好的に付き合うのが自然の流れなので、物部勢がこの地に停泊して休んだのも、土地の人に攻められる心配が少なかったためであると考えられる。
さぼ