これは待望の本、ようやくこういうのが出てくれた。
大学での文学理論ってめちゃくちゃ「難しそう」なんだよね。バルト、ジュネット 、クリステヴァ、間テクスト性、プロレプス、アナレプスに作者の死。
何から勉強したらいいのか、わからない、先輩に相談しても、「はい、これ」ってジュネットのFigure IIIを差し出される(なんで、3巻目なんだよ!)こういう経験を文学部に入った学部生は皆経験してきたはずだ。
その一方で、文学理論ってすごい軽蔑もされる。「今更ナラトロジーもないよね」「パランプセストとかよく分かってないのに使うとバカがバレるよ」なんてことを言う人もいるものだから「はて、文学理論ってのはどうやら昔の流行で、今は流行ってないんだな」なんて勘違いしちゃう人もいるのだ(僕のことです)。そうして、ずっと後になってから、「あああ、ちゃんと文学理論勉強しないと!!!」と焦って、いろいろフランス語での教科書を買って勉強するハメになるのだ。
だから、高校から大学への接続で、こう言う風に「現代文の読解、から文学批評へ」と言う感じで文学理論を紹介する教科書があるとすごい楽だ。今までもなかったわけではない、テリー・イーグルトンのとかピーター・バリーのとか。でも、たいがい、英米人の書いた教科書の翻訳なんだよね。入門書にしては難しいし、できれば日本人によって書かれたものがいい(一冊目は何事もそうだろう)。
数年前にでた橋本陽介の『物語論 基礎と応用』はマイベストだ。あれで、ようやくジュネットが分かるようになった。何事もそうだけど、大枠が示された上で、自分でちゃんと勉強するのと、全体像が見えずにチマチマ原典を読むのとでは理解度が段違いなのだ。
この小林の「感想文から文学批評へ」は、ナラトロジーに絞った橋本本とは違い、文学理論全部の全体像を見せることが主眼。そのため、個々の構造主義批評とかは、う〜ん説明が足りないなあと思わないでもない(何と言ってもジュネットの名前が出ないのだ!)。そういう意味で、この本は得意不得意が割とはっきりしている。とにかく、単純明快に、6つの文学批評の型とその相互の対立関係を示す!これが目的。個々の内容については自分でもっと勉強しよう。
ただだからこそ、へえそうなんだ!と思うことがとても多かった。例えば、バフチンってロシア・フォルマリスムの一人で、構造主義批評に影響を与えた、って思っていたけれども、ここではイデオロギー批評の章で紹介されており、ソシュール言語学批判者なんだよね。いわく、ソシュール言語学=構造主義批評は、言語のルールばかりに関心を持ち、言語が社会的状況と結びついていることに無関心だったと。そしてイデオロギー批評(マルクス主義批評、フェミニズム批評、ポスト・コロニアル批評)のように、文学作品から複数の声(ポリフォニー)をすくい出そうという手法に繋がると。
読者論の章は、本当に勉強になった。ガダマーの「地平」、ヤウスの「期待の地平」は面白い(期待の地平ってよく聞くけど、誰がどういう経緯で提唱ってよく知らなかったな)。人は文学作品を手に取るとき、ある一定の「期待の地平」を持って読み始めるんだよね。例えば、コナンの28巻を読むときは、そこで殺人事件が起こり小学生が事件を解決することを、ヒカルの碁を読むときには、少年が幽霊と会話しながらプロ棋士を目指して奮闘することを、それぞれ期待するわけだ。そこで、コナンくんが急に幽霊と話し出したり、ヒカルが殺人事件に遭遇してしまったら困る。だから基本的には「期待の地平」は守られる。でもヤウスにとって、読者の期待の地平を破らない作品は文学的価値の低い「娯楽小説」なんだ(ここでさっき東野圭吾を例にあげようとしたけど、怒られるかもしれないのでやめておいた)。
じゃあヤウスの考える文学的価値の高い作品は何なのか。もちろん読者の「期待の地平」を裏切る作品だ。「ごんぎつね」では、ひとりになった兵十を心配して、あとウナギを取ってしまったことを反省して、ゴンは毎日こっそりと贈り物を届ける。いつか、その思いが通じて、兵十はゴンを許すんだろうな。こういう「期待の地平」を小学生は持つであろう。ところが児童文学の常識を「ごんぎつね」は裏切る。ゴンの思いは理解されず、兵十はゴンを火縄銃で撃ち殺してしまう・・・小学生は物語には予定調和を裏切るものがあることをこれで知る。
でも、この「期待の地平」による文学的価値の判定は、かなり大きな問題を孕んでいる。(以下は本書とは全く関連のない妄想です)そのジャンルの定石を踏み外しさえすれば、オリジナリティーがあるし、文学的に価値がある・・・となりかねないのだ。例えば、日本ではデスゲームもの、異世界転生もの、ゾンビもの、こういったジャンルの一つが当たれば雨後の筍のように後続が出てくる、という文化的状況にある。でも、その雨後の筍、それぞれが「俺はこのジャンルが金太郎飴であることを皮肉っているんだぜ」的なメタな自意識を持っているのが厄介なところ。そうするとどうなるか、期待の地平を裏切っているつもりが、そのジャンルの内部でますます自閉的な回路を構成し、自己盗用の永久機関が出来上がるのだ。だから読者(観客)は、「はい、ではこの作品は、どういう風に期待の地平を裏切るのでしょうか、へえなるほどねえ、そうきたかあ」となってしまうのだ。それの何が問題なのか?それはコミュニケーションとして発展性がない。そういうメタな「期待の地平」を共有している同質的なオタクにしか、その作品の勘所が掴めないのだ。
「新感染」(ゾンビ)にしても「イカ・ゲーム」(デスゲーム)にしても、日本ではあんな緊迫感は出せない。日本ではやはり、三次元(現実社会)と二次元(フィクション)があまりにも別次元で、無関係な発展を遂げてしまったのだ。ひょっとしたら、バトル・ロワイヤルの頃は、あれに何らかのリアリティーがあったのかもしれないが。