![]() | 物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ) 1,836円 Amazon |
これは5年前に読んでおきたかった。出版されたのが2017年。小説を深く読みたいあらゆる人と、バルトやジュネット を読んでは見たものの「よく名前が言及されるプロップとかロシア・フォルマリスムってなんやねん」と思いながら全体像がつかめなかった全ての人にとって待望の書だろう。
まだ二章の途中だが、まず、第一章の、プロップから始まる物語の構造分析の黎明期、そしてトロドフが「ナラトロジー」という語を提案し、「草花を一つひとつ別々に調べたところで植物学にはならない、文学においても、文学作品を個々に分析するだけじゃなくて、文学作品を成り立たせている「語り」の構造を分析することで、文学を科学しようぜ」という超かっこいい提言までについて振り返りつつまとめておく。
物語論の元祖は1928年、ロシア人のウラジーミル・プロップ『昔話の形態学』にまで遡る。
そこで彼はロシアの昔話を分析し「あらゆる魔法昔話が、その構造の点では単一の類型に属する」と、びっくり仰天の結論に達するのだ。
確かに、物語に登場する「人物」は、毎回名前や性格が違う。しかし、彼らが行う「行為」は全く一緒だというのだ。にわかには信じがたい。もっとも、ここでいう「人物の行為」とは、「物語の筋の展開に直接影響を及ぼす人物の行為」のことだという。それを彼は「機能」と名付ける。
第一の機能から見て行くと、
1、「家族の一人が、家を留守にする」
2、「主人公に禁を課す」
3、「禁が破られる」
これが31続く。
3までなら、日本人にも分かりやすい。鶴の恩返しでも、狂言の「附子」でも、なんらかの「禁止」が与えられ、でも「筋が展開」するために、その禁止が必ず破られる。
でも、プロップの変なところは、31ある機能が、全てその順序の通りに行われるとすることだ。機能8が省略されることはあっても、機能8の後に機能7が語られることはない。
プロップの分析は凄まじく示唆的であるが、「ロシアの魔法昔話」、つまり人物にまだ「個性」がない素朴な物語のみをコーパスとしているため、物語一般に適用させるには、なんらかの応用が必要になる。
もっとも、1928年、ロシア。当然、プロップの分析は日の目を見ることはなかった。この書が本当に注目されたのは、1960年代フランスにおいて。
プロップの発展として、ブレモンとバルトを押さえておく必要がある。
ブレモンはプロップのいう機能「物語の筋を先に進める行動」を
1「行動が起こる前」
2「行動が進行中」
3「行動が終結」
という三段階に分けて考えた。彼がプロップの理論に付け加えたことは、その「行動が起こる前」の段階において、二つの分岐を認めたことだ。ギャルゲーなどをイメージしてみよう。A子とのデートの最中に、B子から電話がかかってくる、その時、「B子からの電話に出る」「B子からの電話に出ない」という風に物語は分岐する。電話を無視すれば「B子ルート」は消え、A子とのエンディングへと突き進む。という風に、プロップのいうような、31の機能を単純に辿るだけではなく、現代的な物語では、「行動の前」において物語が分岐することを示した。つまり物語は、「あったかもしれない物語」を常に排除しながら今の形に形成されたことが分かる。
そしてバルト。彼は物語を「機能」と「指標」の二つの単位から分析する。「機能」はプロップのいう機能、物語の筋を展開させる出来事である。しかしバルトは、ブレモンの示したように「物語の筋を分岐させる(二択を迫る)」ような機能を特別に「枢軸機能体」(あるいは「核」)と呼んだ。
電話が鳴った。シンジはスパゲティーの火を止め、手を拭いた。シンジは受話器を取り上げた。
という文章があるとしよう。「電話が鳴った。」という「二択を迫る」出来事につながる枢軸機能体は「シンジは受話器を取り上げた」になる。間の文章は、「電話をとる」という核に付随して起こる行為である。このような副次的な機能を「触媒」と呼んだ。
バルトのいう「機能」は、「核」「触媒」に二分される。
さらに、「機能」に加えて、彼は「指標」という単位を導入する。指標は、物語の筋とは関係がないが、「人物のキャラクターや雰囲気」などの状況を伝えるものだ。服装や身のこなしなどを表すことで人物を掘り下げる。
言い換えると「機能」は時間的展開があるが、「指標」は大抵、時間的展開のない「静的」な単位だ。
機能(動的)、指標(静的)という二つの組み合わせ。
昔話では桃を川から拾い上げたおばあさんの苦悩や、おじいさんの出自もしれぬ息子に対する葛藤などは描かれないから、プロップの「機能」だけで良かった。心理を描く物語だと、指標の分量がますようだ。
ところが、バルトは枢軸機能体機能と指標が、実際の物語では絡み合っていることを示す。ジェームス・ボンドが「ウイスキーを飲む」時、それは枢軸機能体機能として「待つ」ということを意味し、同時に指標としては「現代性、くつろぎ」を表しているのだと。
バルトはさらに枢軸機能体のまとまりを「シークエンス」と呼んだ。
レストランで食事をとる、という一連のシークエンスは、「注文、受け取り、食事、代金の支払い」などのように細かく分割される。このようにバルトは、シークエンスを「互いに連帯性の関係によって結ばれた核の論理的連続」であり、これを「物語の時間」だとする。
ブレモンに戻ろう。プロップの人物は性格などは関係なく「果たす役割」が大切で「物語の筋を展開」するために必要なものでしかなかった。ブレモンは登場人物をより重視するが、それは「パースペクティブ」の概念を導入したからだ。「誰が見るのか」「物語は誰から語られるのか」ということだ。
桃太郎や鶴の恩返しのような素朴な昔話では、神の視点から物語は語られるから、語り手という問題は存在しなかった。でも、例えばシャーロック・ホームズではホームズの推理は「ワトスン」の視点から見られ、語られる。
この「語り手」の問題は、バルトでも重要だ。彼は登場人物を物語世界の中で「行為」を行う存在としてだけでなく、その物語を「語る」存在としても考える。
この三人がひとまずは、ジュネット という集大成に到達する以前の最重要トリオだが、なぜ1960年代のフランスで急にプロップなどが翻訳されて、立て続けに多くの研究者がこの分野に殺到したのか、ということを理解しておく必要がある。
物語論(ナラトロジー)は、ソシュール(そしてヤコブソン、バンヴェニスト)の言語学の成果と、ロシア・フォルマリスムの二つの根っこを持っている。
ソシュール—ヤコブソン—レヴィ=ストロースという系譜の構造主義の文脈に、ロシア・フォルマリスムが復活し接ぎ木された。
そのロシア・フォルマリスムを紹介したのがトドロフの翻訳集『文学の理論』(1965)。翌年雑誌『コミュニカシオン』が「記号学 物語の構造分析」との特集を組み、そこに序説としてバルトが『物語の構造分析序説』を発表。そこで上で紹介した分析を行った。ちなみにこの論文には、ブレモン、グレマス、エーコ、トドロフ、ジュネット という錚々たるメンバー、彼らがのちに「物語論」をガンガン作っていく。
そんでトドロフが「物語論」ナラトロジーという用語を生み出したのが1969年。そして「構造主義物語論の決定版」とされるジェラール・ジュネット の『物語のディスクール』が1972年に出版される。