読んだ論考
もう一つのメディアとしての博覧会――原子力平和利用博の受容
吉見俊哉

所収
土屋・吉見(編)
占領する眼・占領する声
CIE/USIS映画とVOAラジオ
東京大学出版会
2012年7月

先日ブログに書いた、同じ著者、吉見俊哉の、ちくま新書「夢の原子力」は2012年8月10日発行であった。こちらは2012年7月31日である。ほとんど同時に出されている。

新書では書かれなかった細やかな情報が得られるのではないかと期待して読んだところ、すぐさま、以下のことに気づいた。

この論考は、実は、新書の第II章の内容とほぼ同一である。

にもかかわらず、どこにもクレジットがなかった。

たとえば、書籍版では、こう書いている。

「正力松太郎を社主とする読売新聞社は、1954年8月に新宿の伊勢丹百貨店で「だれにもわかる原子力展」を開催し、翌年5月には、原子力潜水艦を建造したゼネラル・ダイナミクス社社長らを招いて日比谷公会堂で「原子力平和利用大講演会」を開催した。」(293ページ)

これと新書の、次の文章を比較してみよう。

「正 力は、1954年8月には新宿の伊勢丹百貨店で「だれにもわかる原子力展」を開催し、翌年5月には、原子力潜水艦を建造したゼネラル・ダイナミクス社社長 のホプキンスらを招いて日比谷公会堂で「原子力平和利用大講演会」を開催し、この戦略の日本側の窓口となっていた。」(122-123ページ)

この二つの文章を、まったく別の文章と思う人は、まずいないであろう。

このあとも、ほぼ同一の内容が続く。一部削除や加筆もあるが、誰が読んでも、元は同じテキストであると感じるくらいに、違いは少ない。

書籍のほうは、おそらく校閲はあるものの、ほとんど編集者とのやりとりがない、と想定しうる。その一方で、新書収録の際には、編集者とのやりとりが多いにあったと思われる。


そもそも、こうした、重複した内容を掲載する場合、できることなら、初出なり、なんらかの断り書きがあってほしいものである。それが、読む側に対する敬意というものであろう。

内容的にはとてもすぐれたものなのに、こうした本の作り方は、読者からみると、残念に思ってしまう。

しかし、ここで書きたいのは、そういったことではない。もっと本質的なことである。

私がここで問いたいのは、吉見が、東大出版会の本と新書で、
「被爆」と「被曝」の使い分けについて、大きく変えていることである。

これは、原爆や原発を考えるうえでの根幹にかかわってくる。

吉見がどのようにこの二つの語彙を用いたのかを見直すことは、誤植とか校正の次元ではなく、私たちが、被爆や被曝とどうかかわって生きてゆくのか、どう考えてゆくのか、その一つの方向性を示しているように思われる。

ただ、勝手に推測すると、編集サイドから「ここはすべて「被」で行きましょうよ」などと促され、その結果、同意して、「被」を「被に」変えるか削除したのではないか、と思われる。

きっかけはここでは問わない。両者の異同が、結果として、何を語っているのかを、私たちはしっかりと見届ける必要がある。

***

書籍に収録されている論考をベースにして、以下、差異をみてみる。

前段が書籍版で、後段が新書版である。「被爆」の「」には青色をつけた。「被曝」の「」には赤色をつけた。

「平和記念館(第二会場)が当てられていく。こうして開館したばかりの施設での原爆資料展示は、博覧会会期中、近隣の公民館に一時的に移され、本来の展示場所から排除されることになった。」(300ページ))
 ↓

「平和記念館(第二会場)が当てられていく。のシンボル的空間での開催である。こうして開館したばかりのこれらの施設での原爆資料展示は、博覧会会期中、近くの基町の公民館に一時的に移されることになった。文字通り、原子力の「被」の展示は、原子力の「未来」の展示に取って代わられたのである。」(148ページ)

上記については、おそらくこの二カ所は加筆されたものと推測される。いずれも「爆」の文字を使用している。これらは、ヒロシマ・ナガサキに対して「被爆」という表記をしている。これはごく一般的な用法である。

「原爆資料の移転についても、無数の被者たちの神聖なる遺品を含む展示品が」「なぜそれを被者救済の福祉予算に使わないのか」(301ページ)
 ↓
(削除)

上記は、まるごとその行が削除されている。以下しばらく、いくつか「爆」の字が両方で使用されている箇所が続く。
変更なしか削除なので、特にコメントは入れない。

「被体験の原子力平和利用への取り込みは」
(302ページ)
  ↓

「被体験の原子力平和利用への取り込みは」(149ページ)

「広島と長崎の被者を巻き込み」(302ページ)
 ↓
(削除)

「被経験の悲惨さと原子力の平和利用がもたらす夢」
(303ページ)
 ↓

「被経験の悲惨さと原子力の平和利用がもたらす夢」(152ページ)

「被直後の広島市街」
(303ページ)
 ↓
「被直後の広島市街」
(152ページ)


「被直後の降雨状態」
(303ページ)
 ↓

「被直後の降雨状態」(152ページ)

「被時の写真や模型」
(303ページ)
 ↓

「被時の写真や模型」(152ページ)

「被体験と平和利用」(303ページ)
 ↓

「被体験と平和利用」(152ページ)

ここまでは元の文が「」であったが、以下は書籍版では「」のものが登場する。ただしこの三カ所、新書版では削除されている。これも行ごとの削除であり、特に内容的な変化は見られない。

「被経験の恐怖から取り組みが立ち遅れている。」
(305ページ)
 ↓
(削除)

「広島、長崎での被」(305ページ)
 ↓
(削除)

「核兵器による被と電線への感電はまったく別次元の事柄である。」(306ページ)

 ↓
(削除)

注目は、以下である。

書籍版は、はっきりと「」と「」を区別していると思われる箇所である。書籍版では、第五福竜丸の事故に対しては「被
」を用い、ヒロシマとナガサキには「被」を使っている。しかし新書の方は、「被」を文中に一切使用していないのである。すべて「被」に変えられているのだ(もしくは削除された)。

「1950年代の原子力平和利用キャンペーンが戦後日本社会にもたらした影響には、この国特有の文脈において考えるべきことも多く存在した。キャンペーンが本格化する直前には、ビキニ環礁での水爆実験により、第五福竜丸の被事故が生じていた。
この事故により、日本人の間には広島と長崎での被の記憶(311ページ)

「50年代半ばの日本では、一方でビキニ環礁での第五福竜丸の被から始まった原水爆禁止運動、他方では中曾根康弘らによって主導された原子力関連予算と原子力三法による原子力政策の推進が、ほぼ同時並行で対抗的に亢進していた。」(192ページ)


また、下記は、書籍版では「被」が使われていなかったところを、新書ではあえて新たに
「被」へと書き直された場合である。ここでは、第五福竜丸事件に対して「被」が用いられている。

第五福竜丸事件の直後」(312ページ)

第五福竜丸被の直後」(193ページ)

そして、最後。ここでも第五福竜丸は「被」から「被」へと書き換えられている。

「広島・長崎から約10年で第五福竜丸がまたしても被し」(312ページ)

「広島・長崎から約10年で第五福竜丸がまたしても被し」(193ページ)


この最後の文は、ヒロシマ、ナガサキと第五福竜丸を
同じものとして扱っているので、「またしても」という言葉が使われている。はたして、この両者は同じものだろうか。他の個所でも、二つの原爆被害と第五福竜丸事件を、同じ言葉でくくることができるかどうか、これは重要な問いであるが、書籍版でも新書版でもそれは説明されていない。

それどころか、吉見は、書籍版では、被と被を分けて使用していた。分けているにもかかわらず「またしても」と言って両者を同一のものとみなした。ここには矛盾がある(もしくは、この矛盾があったために、新書版ではすべて「被」を使うことで矛盾を解消したと解釈することも可能である)。

つまり、この二つのテクストのあいだにおいて、
と被は混乱したまま使用されている、と考えられる。

もっとも致命的なのは、新書のほうのあとがきである。こうある。

「な ぜ、広島と長崎、ビキニ環礁と三度も被
を重ねてきた国が、世界第三位の原発大国になったのかという問いがあるが、むしろであったが故に・・・だか ら福島の事故による放射能被害が広がったとき、「これは四度目の被だ」と思ったのは私だけだったろうか。」(295-296ページ)

フクシマまで「被
」とされてしまっている。

フクシマに対して、「四度目の被と思ったのは、おそらく吉見、ただ一人である(もしくは、編集者を含めても二人である)。

ヒロシマ、ナガサキ、とは、意図的に原子力を暴発させた「原爆」による米国の攻撃(がもたらした事象)である。これらは「被」であったであろう。

第五福竜丸事件とは、意図的に原子力を暴発させた「実験」に巻き込まれた被害である。これは、「被」もしくは「被」であったであろう

そして、フクシマとは、大きな地震と津波の影響で「想定外」に電源喪失し原子炉が制御できなくなったことによってもたらされた被害である。これは、どう考えても「被」である。

「被」と「被」は、使い分けねばならない。それが基本である。これを一緒にしてしまうと、おかしなことになる。

第五福竜丸事件に対しては、水爆実験による爆撃の影響であるから「被」という言葉を使用することも可能である。ただ、そうした説明は加えるべきだろう。

だ が、フクシマに「被爆」という言葉を使うのは、どういう意図があってのことだろうか。

「被」という言葉に、原発事故による被害を指す意味など、ないはずだ。「被」は狭く、放射能に身体が曝されることであるから、フクシマの場合には用 いられうるが、ヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸事件は、すべての症状が「放射能」の影響とは特定しがたい、とされている。
もちろん「被」の被害がないわけではないが総括的に「被」と言い切ることが難しい。だから「被」を用いる、というのが筋ではないだろうか。

一緒にしうるとすれば、それは「原子力」や「核エネルギー」による「被害」という表現になるはずである。

これを混同するということこそ、戦後の言説史における最大の課題ではないだろうか。


吉見の新書版におけるテキストから伺えるのは、戦後史を連続したものととらえ、出発であるヒロシマ、ナガサキから、第五福竜丸、そして、フクシマを同質のものとして理解しようという意識である。「四度目の被爆」という言葉は、それを言い表している。

すぐに問うてみたいのは、ヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸が、米国によって被ったもの、であるのに、対して、フクシマは少なくともそうであるとは言い切れないはずである。

確かに「夢の原子力」で描かれているように「原発」もまた、米国の国際戦略のなかで日本に導入された、という経緯は確実にある。だからこれをも「米国によって被ったもの」とみなしたい気持ちは、分からないではない。

しかし、原発は、それだけでは済まされない。つまり、米国による文化的圧力の典型としてだけみては、ならない。

原発には、核物理学者たちの、原子力工学研究者たちの、夢も含まれていたであろうし、過疎化し運営もままならない地方行政が賭けた、夢も含まれていた。そして、政治家である中曾根康弘や、実業家であり政治家にもなった正力松太郎を通じて表出された「私たちの願望や夢」も含まれていたはずだ。要するに、私たちは、米国に無理やりそそのかされてではなく、自ら選択し、
希望を託して、原発とともに生きてきたのではないか。

それをどこかで、他者のせいにする言説にすりかわる、そのさまを、まざまざとこの両者のテキストの差異にみることができたのだった。

こうして、吉見のテキスト自体が、「核言説の歴史」における一級の史料となるのである。


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夢の原子力: Atoms for Dream (ちくま新書 971)/吉見 俊哉
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*以下は、勝手な創作です。問題提起として読んでいただければ幸いです。

プ ねえ、ソクラテス。ちょっと話をしてもいいかい。

ソ おおプラトンくんか。もちろん、いいとも。しかし君は、いつもぼくの対話をまとめてくれているが、きみ自身が登場してくるなんて、ずいぶんと珍しいことだね。

プ そりゃそうですよ。だってこの対話は、私が書き残したものではなく、勝手に後世の人が創作したものですから。今から2500年くらいあとの時代で、ニホンとかいう国の人が、なんでも、著作権法が改正されることについて考えていたら、ふと私たちのことを思い出したということで、私たちが呼び出されたようです。

ソ ほほう。ぼくたちは、人気者なのだね。

プ 最近日本という国では、インターネットというものが流行しているそうです。インターネットというのは、目に見えない波の力で音や文字や、さらにはたとえばこうした私たちの対話のさまを記録して、それを別の時間に別の場所でも見ることができるそうです。

ソ ぼくらの時代にはないことだらけで面食らうね。しかしせっかくぼくらを使って何かを言いたいようだから、そのへんの時代考証は大目にみて、ニホンで使っている言葉、たとえば、動画とか、ダウンロードとか、そういったことについては、ぼくらも知っているという前提で話を進めようよ。だから、本題に入ってもかまわないよ。

プ それは有難い。あなたがそんな気遣いをされるなんて、思ってもみませんでした。

ソ つまり、あれだね。2012年10月1日に日本では、改正された著作権法が施行されるけれど、人々がいろいろと不安に思っているということだね。

プ その通りです、ソクラテス。

ソ だが、わたしが知っているところはそれほど多くないし、いつもの流儀で、人に語らせてあげ足をとるほうが性に合っている。プラトンくん、ちょっと説明してもらえないかな。

プ ええ、もちろんですとも、ソクラテス。簡単に言ってしまえば、今回の改正は、楽曲や映像などを商品として販売している人たちが、自分たちの利益を損なう行為をやめさせることが目的です。これまでもDVDというパッケージで販売していた楽曲や映像作品の複製を勝手につくって売り、もうけていた人たちは罰せられました。また、複製をつくるためには特殊な装置を解除させなければなりませんが、こうした解除する仕組みをつくったり、その仕組みを人に提供することも、罰せられました。

ソ それは、リッピングとかいうやつだね。最近では略して「リップ」とか言っているようだが、なかなかおもしろい話じゃないか。

プ そうです、ソクラテス。これは「イデア論」と私が呼んでいる問題です。そして、それはつまり、あなたが2500年前に執拗に議論していたことです。この議論が、今もまだ続いているのです。

ソ あの頃のぼくらは、単純に、自分の心に描いている像と、実像とのあいだの関係だけを問えばよかった。しかし今は、かなり複雑だね。だって、ぼくらの議論は、「実像」から複製されたものが出発点だったけれども、歌や劇を記録したDVDとやら、そして、インターネットで誰もが視聴できるようになっているものにしても、それらは、すでに「実像」ではない。

プ 私たちの時代には、せいぜい、自分の記憶や、文字に書き残した書き物、それくらいしか「複製」というものが存在しなかったのに、平成の日本では、複製だらけなのです。

ソ それで、問題はどこにあると思うかね。

プ ちょっと書いている人間の時間があまりないようなので、この先、大雑把になってしまいますが、おゆるしください、ソクラテス。世間では、この違法ダウンロードについて、大騒ぎしているわけです。たとえば、YouTubeとかニコニコ動画という「広場」(アゴラ)があって、そこにはたくさんの人が自由に出入りしています。ある人は自分で作った音楽や芝居や記録を公開しています。ある人は、そうしたもの、これをこの時代では「コンテンツ」と言いますが、コンテンツを視聴しています。しかし、なかには、人が商売のために作ったコンテンツを無断で公開する人もいます。これもはっきりと違法とされています。しかし、これまでは、視聴している人たちにはあまり関係のない話だと思われたのが、今回の改正では、視聴は問題ないが、そうした商売のために作られたコンテンツを「ダウンロード」することを違法、と言い出したのです。

ソ ははは、悪法も法なり、と言ったのはぼくだが、要するにこれまでは大目にみていたが、厳しく取り締まるという意思表示がなされたということだね。

プ そのとおりです、ソクラテス。それで問題なのは、インターネットとやらにある映画や音楽が、商売目的で公開されているのかどうか、視聴する側に分かるかどうか、ということなのです。

ソ たとえば、この文章は君が書いたものではないことは、誰にでも明らかだ。しかし、ぼくらは、ぼくらが許しているわけでもないのに、こうして対話を行っている。コピーとは、こういうようなことがある。

プ 私としては当時、イデアというおおもとがあり、それを実際にこの世にあるものは複製化されて存在していると考えたのです。後世でもよく例にとりあげられたように、手書きでかいた三角形はこの世に無数にありますが、それらを「三角形」として理解できるのは、私たちが「三角形」というものがどういうものかを知っているという前提が必要です。こうした「三角形」のイデアは、多くの人が共有しているものです。このようなイデア論の延長線で、この違法ダウンロードの問題をあなたと議論したいのです。

ソ イデア論、それはきみの説だね。ぼくは思うに、そんなめんどうな話ではなく、いやいや現実をこえた超越的な何かがまったくないと言いたいわけじゃなくて、こういう話にイデア論とかは不要ではないだろうか。ごくごく単純に考えてみたまえ、プラトン。要するに、お金儲けをしたい人たちの邪魔を
、不当にしてはいけないということではないのかね。

プ 相変わらず、元も子もないですね、ソクラテス。しかし、その通りです。もう少しやさしく言えば、著作権者の権利を正当に守るための策ということです。

ソ 今までは、DVDとやらの複製の勝手な販売やその複製を可能にする装置をつくったりばらまいたりする人を取り締まるだけだったのが、それだけでは改善されず、次の段階として、インターネットの違法公開とその手段に対する制限をかけた。そして今回は、第三弾として、エンド・ユーザーと呼ばれる受け手に対しても厳しく監視の目を光らせる、と言っているのであろう。

プ そうです、ソクラテス。今回の改正の重要な点は、インターネット上に公開されているものは、視聴は問題ないが、その「複製物」を所有してはならない、と言っていることです。

ソ それは、劇場で映画を見るのはいいが、それを撮影して持ち帰ってはいけない、ということと同じになるだろうか。

プ 若干違います。私たちの時代とは違って、日本では「デジタル」なコンテンツが中心なのです。「デジタル」は複製しても元の「オリジナル」とまったく変わらないのです。

ソ では、きみが言っていた「イデア」と「実像」との違いは、デジタルのなかでは、ないということになるね。

プ そうです。だから著作権者たちは困っているのです。「オリジナル」の意思とは無関係に「複製=オリジナル」があちこちに存在することになります。

ソ しかし、それはデジタルとかインターネットとか、そういうものが社会の中心にある場合、避けられない事態であるように思うが、プラトンくん、どうだろうか。

プ そうかもしれません。実際、こうした私たちの議論をふまえて、のちに、ボードリヤールという人とドゥルーズという人は、もう、オリジナルとコピーの話ではなくなって、シミュラークルの時代だ、とか、始点も終点もないリゾームなどと、説明をしています。

ソ そうだったね、プラトン。もう ぼくらの出番ではないのかもしれないね。デジタルやインターネットとやらが暮らしの中心にあるというのは、ぼくらにはまったく想像できなかったからね。

プ 話を戻しますが、今回の改正で厄介なのは、自分でお金を出して所有したDVDなども、「リップ」してはいけない、ということなのです。それがたとえ私的利用であっても、複製を禁止する装置を解除することを許さなくしてしまったのです。はたしてこれは、法として適切でしょうか。だって、人に迷惑をかけないかぎりは何をしてもかまわない、というのが、確かミルとかいう人がまとめた、「近代」における個人の「自由」の定義です。これをふみこえると、すでに「法」や「自由」の整合性が失われてきているように見えます。

ソ だとしたら、ここでの問題は、二つに尽きる。一つは、・・・

プ ああ、時間切れですね、ソクラテス。本当はもう少し議論したいところですが、ここで一度終わりにしましょう。

ソ そうだ、最後に、なぜここで違法ダウンロードの話が出てきたかということだが、下記の本をぜひ、読んでみてほしいものだ
。ねえ、プラトンくん。
DVDテクニック事典―「動画圧縮」と「バックアップ」を極める! (I・O BOOKS)/瀧本 往人
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プ きっと下記の本もいっしょに読むと、より一層いいのかもしれませんね。この本の第1章は、ソクラテス、あなたからはじまっていますし。
哲学で自分をつくる 19人の哲学者の方法/瀧本 往人
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瀧本 しかし今回のこの「法」からのメッセージは、むしろ、大容量データのダウンロードによるトラフィック負荷の回避とも考えられると思いますよ、ソクラテス、プラトン。


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*以下のリストは、吉見俊哉「夢の原子力」(ちくま新書、2012年8月)で言及された楽曲に若干気づいたものを追加したものである。まだまだたくさんの楽曲があるので、いずれ、追加したいと思う。「核の言説史」と併せて参照いただければ幸いである。


▼1945年
When The Atom Bomb Fell, Karl and Harty 米・楽曲(カントリー) 

▼1946年
Atomic Cocktail, Slim Gaillard 米・楽曲(ジャズ) 詞・曲:スリム・ゲイラード 1945年12月録音 アトミック・カクテル スリム・ゲイラード 

Atomic Power, The Buchanan Brothers 米・楽曲(カントリー) 
アトミック・パワー ブキャナン・ブラザーズ 3月

Atomic Blues, Mannish Boys 米・楽曲(ブルース)

▼1947年
Golden Gate Quartet, Atom And Evil 米・楽曲(ゴスペル)

Bikini Blues, Dexter Gordon 米・楽曲(ジャズ)

Hiroshima, Albert Ammons 米・楽曲(ブギウギ) 彼は偶然にも、1936年に「ナガサキ」という曲も発表している。

▼1948年
Atom Bomb Baby, Dude Martin and His Roundup Gang 米・楽曲(ポップ)

▼1949年

▼1950年
Atomic Baby, Amos Milburn 米・楽曲(ブルース)

Atomic Telephone, The Spirit Of Memphis Quartet 米・楽曲(ゴスペル)

Old Man Atom (Talking Atomic Blues), Sons Of The Pioneers 米・楽曲(ブルース)

▼1951年
When They Drop The Atomic Bomb, Jackie Doll and his Pickled Peppers 米・楽曲(カントリー)

▼1952年
Great Atomic Power, The Louvin Brothers 米・楽曲(カントリー)

Rock H-Bomb Rock, H-Bomb Ferguson 米・楽曲(ロック)

The Song Of The Atom Bomb, Dexter Logan and Darrell Edwards 米・楽曲(詳細は不明)

▼1953年
Atomic Baby, Linda Hayes with The Red Callender Sextette 米・楽曲(R&B)

Atomic Love, Little Caesar and the Red Callender Sextette 米・楽曲(詳細は不明)

Atomic Sermon, Billy Hughes and his Rhythm Buckeroo 米・楽曲(カントリー)

▼1954年
The Hydrogen Bomb, Al Rogers 米・楽曲(カントリー)

▼1955年
Uranium Fever, Elton Britt 米・楽曲(カントリー)

Uranium Blues, Loy Clingman 米・楽曲(カントリー)

▼1956年
B. Bomb Baby, The Jewels 米・楽曲(R&B)

▼1957年
Atom Bomb Baby, The Five Stars 米・楽曲(R&B)

Fujiyama Mama, Wanda Jackson 米・楽曲(R&B)

▼1958年
フジヤマ・ママ 雪村いづみ 邦・楽曲(R&B) 元曲:Fujiyama Mama, Wanda Jackson

Uranium Rock, Warren Smith 米・楽曲(R&B)

▼1959年
Rock'n Roll Atom, Red McCoy with the Sons of the Soil 米・楽曲(R&B)

▼1960年
Radioactive Mama, Sheldon Allman 米・楽曲(R&B)

▼1961年
A Mushroom Cloud, Sammy Salvo 米・楽曲(ゴスペル)

▼1978年
フジヤマ・ママ 細野晴臣 邦・楽曲(?) アルバム「はらいそ」収録、訳詞:井田誠一、補作詞:細野晴臣


*1936年に下記の楽曲があるが、どうして、このタイトルがつけられたのだろうか。
Nagasaki, Albert Ammons Rhythm Kings 米・楽曲(ブギウギ)

ひとこと感想
吉見俊哉の「夢の原子力」を読んでいる。今日は、第III章までやってきた。ようやく、全体像がみえた。。。

これまで、論点が1950年代前後に集中していたため、今一つ作者の言いたいことを理解しきれずにいたようだ。第III章、もしくは終章を読んで、ずいぶんとすっきりした。

序章で言われていた「日本の諸地域、諸階層、諸世代、異なるジェンダーの人々からみたときに、いかなる夢、すなわち「アトムズ・フォー・ドリーム」として経験されたのか」(39ページ)というのは、正直、「本書の問い」とは違う、と思う。出版社側の宣伝文句にすぎない、と思った方がよい(もちろん吉見もそれにのったわけだが)。

確かに、第II章においては、このことがある程度意識されているが、結論においては、そうした「経験」の多様性は捨象されて、一つの抽象的なイメージに焦点が当てられている。

序章で宣言した「問い」が十分に問われなかったことは問題が残るが、それ以上に、こうした抽象化は、とても興味深い。

大雑把な構図を描けば、こうなるであろう(以下、吉見の文章にあまり沿わず、思うがままに書いて見る)。

まず、本書は、「原子力」というものの「マス・イメージ」を明快に描き出した(その多様性は最終的には止揚された)。

方法論としては、さまざまなメディア(=多様な声、語り)、すなわち、新聞、映画、博覧会、音楽、アンケート調査の結果、ポスター、その他において、どういった描かれ方をしていたのかを分析するものであった。

1945年に、原子力は、明らかに、「軍事利用としての原子力」として、位置づけられた。しかしそれをその後米国は、「平和利用としての原子力」をさまざまなかたちで宣伝することによって、その「恐怖」のイメージを「夢」に転換させていった。

その「夢」の代表が、原発だった。

 原爆=恐怖 ←→ 原発=夢

という対立図式を作動させて、原子力を「夢」として展開したのが、とりわけ1950年代の「アトムズ・フォー・ドリーム」PRだった。

本来、原子力とは、恐怖と夢という二面性が緊張関係をもって併存していなければならなかった。少なくとも科学者はそうあり続けてほしかった(今の科学者は、夢だけを語るか恐怖だけを語るか、いずれかに完全に分裂してしまっている)。

にもかかわらず、私たちは、ひたすら原子力の夢だけを膨らませ、どんどん膨張させた。

そして同時に、原子力の恐怖の方は、どんどんと収縮させてゆき、ほとんどないものとして扱っていった(もちろんなくなるわけではない)。

はじめは「恐怖」の象徴として「ゴジラ」なども描かれるが、またたくまに風化する。

他方で、「夢」の象徴としての「アトム」は、鉄腕アトムのみならず、音楽や映画、博覧会などを通じて、そのバリエーションが、次々に産出されていった(末尾にリスト化しておいた)。

こういったメディア操作を行ったのは、まぎれもなく、おおもとは米国である。


と、ここまでは、ある程度、誰もが描いている構図だと思われる。

しかし、吉見は、もう一歩先へ進む。


1970年以降、これまでの、こうした文化的な「体制」に変化が生じる。吉見はその象徴を「宇宙戦艦ヤマト」(1974年~)にみる。

1970年代前半まで 


  原爆=恐怖 ←→ 原発=夢
   (収縮)        (膨張) ←米国の力

だったのが、「夢」さえも、消えてしまったのである(膨張しすぎて、弾けたと言った方が説明としては分かりやすいかもしれない)。

もちろんこの間にも、多数の「ヒロシマ」「ナガサキ」を描く小説、映画、マンガ、評論はあったし、原水爆禁止運動もあった。しかし、それらの力を飲み込むほど、夢としての原子力の表象の力は強かったのである。

そしれこれが、1970年代後半以降には、

  原爆=恐怖 ←→ 原発=夢
   (内面化)      (空洞化) 

と変化してゆく。それはまるで両者が綱引きをしているようである。夢が空洞化すると、恐怖も表出のしようがなく、内側にこもってしまう。

米国からの圧力的な形での「原発=夢」は、日常の風景と化し、原発は、各地に建設された。実際に日々の電気を使い続けている私たちには、原発は、不可視でもあるがゆえに、「夢」として描くものでさえなくなった、と言えるだろう。「あたりまえ」化した。

原発は現実にあり作動しているにもかかわらず、「虚構」化していった。

私たちは、原発が必ずしも「夢」ではないことに、うすうす気づいていたのであろう。それでも夢を見続けねばならない以上、原発に対しては「安全」だと言い続けて行かねばならない。しかし、本当は違うのではないか、という恐怖心が、外化されることを抑圧され、つまり、社会表象としての直接性を奪われて、内側において葛藤することになる。

もちろん、スリーマイル(1979年)やチェルノブイリ(1986年)の事故などもあったが、その恐怖は、直接的には作用せず、過去の「被爆」の記憶とともに外化することなく、より一層内面化していった。

この感覚を表象する代表的作品が、1982年に書かれはじめた「AKIRA」であり「ナウシカ」である。

AKIRAは、まさしくこの空洞化した社会のなかで、個人の内面から破裂をし、爆破する。つまり、原発も原爆も、社会的表象ではなく、自己そのもののありようとしてとらえられたということであり、しかも、その自己は、この制御し難いものを抱え込み切れずに自滅してしまうのだ。

「ナウシカ」は、こうした「AKIRA」の物語の、あとの歴史を現在の地点で反省的に読み換えたもの、とみなすことが可能だ。

崩壊した社会、崩壊した自己を再び「充実した身体」(byドゥルーズ)へと組み換えるうえで、既存の倫理や正義などを寄せ集めてかろうじて、自らの力で、この汚れた世界で「生きる」ことを選択し、血を流しながら戦い、この二項対立に縛られた社会を「解放」しようとしたのであろう。


そして、1995年。ちょうど戦後50年。

二つの悲劇が起こる。

阪神・淡路大震災、そして、オウム真理教による地下鉄サリン事件である。

前者は自然災害であったが同時に、戦後の都市計画の脆弱性の露呈でもあった(実際に私の友人は近くの風呂屋の煙突の倒壊によって斃れた)。また、対応にままならない政治経済の脆弱性までもがくっきりと表れてしまった。

後者は、これらの脆弱性につけこんだ犯罪であった。こうして、私たちの社会が、とんでもなく空洞化たことに気づかされたのだった。

このあとに代表されるのは、「エヴァ」である。「エヴァ」こそ、完全にこうした「社会」なるものを一切描かず、ただただ個人の内面にこれまでの過去の「罪」をつきつけた作品の代表である。

言ってみれば、私たちの戦後とは、原子力の力によって外部の力で開始され、その恐怖を夢に転換し、原子力の力によってなんとかやってきたつもりだったが、もうもたなくなった、ということであろう。

それは、「社会」だけでなく、「個人」も、崩壊させた。

こうしたことは、もうしばらく前より、私たちは、気づいていたのであろう。しかし、本当の意味で、それが「現実」であることを身を持って知ったのは、やはり、3.11以降である。

3.11は、確かに、その意味で、近代社会、というものを、吹き飛ばしてしまった。そして同時に、「戦後」というものが、何も終わっていないどころか、まだ、何もはじまっていなかった、ということをあらわにしたのでは、ないだろうか。

つまり、私たちは今、本当の意味で、夢から、醒めてしまったのだ。。。

映画マトリクスの(そして、ボードリヤールの)有名なセリフがこだまする。

「現実の砂漠へようこそ」


・・・と書いてみて、これが、吉見の言いたかったことかどうかも、若干あやしくなってしまった。正確には吉見の書いたものに触発されて、リライトされた「夢の原子力論」である。

正確な内容を知りたい方は是非元の本をお読みください。

なお、気づいて見たら、大澤真幸が、「夢より深い覚醒へ」という本を出していることを、今知った。

もしかすると、本書で描かれているような「原子力の夢」から醒めたとところから、本当の「戦後」がはじまる、と、大澤も言いたいのではないか、と予感する。近いうちに読んでみたい。


読んだ本
夢の原子力――Atoms for Dream
吉見俊哉
ちくま新書
2012年8月

目次
序章 放射能の雨 アメリカの傘
第I章 電力という夢――革命と資本のあいだ
第II章 原爆から原子力博へ
第III章 ゴジラの戦後 アトムの未来
終章 原子力という冷戦の夢



【音楽】
1946年 アトミック・カクテル スリム・ゲイラード
1946年 アトミック・パワー The Buchanan Brother
1946年 原爆ブルース
1946年 原爆が落ちたとき
1947年 アトムと悪魔
1947年 ビキニ
1948年 原爆ベイビー(Atom Bomb Baby) デュード・マーティン
1950年 アトミック・ベイビー エイモス・ミルバーン
1950年 アトミック・テレホン
1951年 奴らが原爆を落とすとき ジャッキー・ドール
1952年 偉大なる原子力
1952年 水爆ロック
1952年 原爆の歌
1953年 アトミック・ベイビー
1953年 アトミック・ラブ
1953年 アトミック説教
1954年 水爆
1955年 ウラニウム・フィーバー エルトン・ブリット
1955年 ウラニウム・ブルース
1956年 B爆弾ベイビー
1957年 原爆ベイビー ファイブ・スターズ
1957年 Fujiyama Mama  Wanda Jackson
1958年 フジヤマ・ママ 雪村いづみ
1958年 ウラニウム・ロック
1959年 ロックンロール・アトム
1960年 放射能ママ シェルダン・オールマン
1961年 キノコ雲
(1978年 フジヤマ・ママ 細野晴臣(アルバム「はらいそ」収録))

【映画】
1951年 遊星よりの物体X
1951年 地球の静止する日 ロバート・ワイズ:監督
1953年 原子怪獣現わる(The Beast from 2000 Fathoms) レイ・ハウゼン:監督
1954年 放射能X(Them) 
1954年 ゴジラ 本多猪四郎:監督
1955年 ゴジラの逆襲 本多猪四郎:監督
1956年 空の大怪獣ラドン 本多猪四郎:監督
1957年 地球防衛軍 本多猪四郎:監督
1957年 戦慄!プルトニウム人間(The Amazing Colossal Man) バート・I・ゴードン:監督
1958年 大怪獣バラン 本多猪四郎:監督
1958円 美女と液体人間 本多猪四郎:監督
1959年 水爆と深海の怪物(It came from beneath the Sea)
1959年 宇宙大戦争 本多猪四郎:監督
1959年 渚にて スタンリー・クレーマー:監督
1959年 二十四時間の情事 アラン・レネ:監督
1961年 モスラ 本多猪四郎:監督
1962年 キングコング対ゴジラ 本多猪四郎:監督
1963年 マタンゴ 本多猪四郎:監督
1964年 モスラ対ゴジラ 本多猪四郎:監督
1965年 フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン) 本多猪四郎:監督

1949年 東京アトミックショウ 日劇小劇場
1951年 アトミックガールズ結成 松竹系

1963年 アストロボーイとして鉄腕アトムが米NBCで放映

1947年 アトミックのおぼん 雑誌連載開始
1961年 アトミックのおぼん 東宝映画 水谷良恵:主演
1964年 アトミックのおぼん テレビドラマ 越路吹雪:主演 日本テレビ

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)/大澤 真幸
¥861
Amazon.co.jp
さて、吉見俊哉は、この本「夢の原子力」で、何を伝えようとしているのであろうか。

第II章をみてみる。

彼の原発に対する理解は、シンプルである。

原爆被害をもたらした日本に対して、米国は、原発を推進させることによって、上塗りしたということが基本になっている。

「アイゼンハウアー大統領のアトムズ・フォー・ピース政策には、豊かな生活をもたらす安価な新エネルギーの開発と供与というだけではない、特別な政治的含意があった。それは、広島、長崎の忘却、より正確にはその意味の転換である。」(122ページ)

この動きを推進する役目をはたしたのが、読売新聞と正力松太郎である(もちろんこれは国内の話で、実はもっと「グローバルな地政学」(168ページ)が根底に存在したと吉見はとらえている)。

ここで、吉見は、原子力関係の展覧会の分析に入る。

関連する展覧会のさきがけは、1949年、銀座松屋で開催された「ウラニウム公開展」で、これは「CIEの指導で企画された広報事業」のようだが、詳細は不明とのこと。

このあとに、1954年8月、新宿伊勢丹で「だれにでもわかる原子力展」、続いて、1955年5月、日比谷公会堂で「原子力平和利用大講演会」が開催されるが、いずれも読売新聞が仕掛けたものである。

特に後者は、東京以外にも進出しており、1957年8月まで、名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台、水戸、岡山、高岡でも行われる。

一通り主要都市を回っているようにみえるが、二つの例外がある。高岡と水戸である。高岡は、正力の出身地であるからなんとなく察することができるが、水戸はどういう経緯であったのか。これを吉見は東海村の原子炉建設との並行関係があったと指摘する。なるほど、納得。しかし、広島で行われて、長崎で行われなかったのはどうしてだろうか。福岡で開催したからそれでいいということなのであろうか。これには吉見は答えていない。

それはさておき、実際の展覧会の内容や出口で行われたアンケート調査の結果、識者によるコメント、読売新聞(東京)や中日新聞(名古屋)、朝日新聞(京都、大阪)、西日本新聞(福岡)、北海道新聞(札幌)、河北新聞(仙台)、中国新聞(広島)の記事などをもとに、当時の様子や人々の反応を吉見は概観する。

おもしろいのは、朝日新聞主催の展覧会に対しては、当時の識者(梅棹忠夫など)もやや批判的なコメントを載せていたことである。

広島の場合、わざわざできたばかりの平和記念資料館と平和祈念館に展示されていた原爆資料が、この展覧会の会期中、基町の公民館に移管されたという。この空間的なすりかえは、象徴的で、言説において行われた「原爆被害」から「原子力の平和利用」へのすりかえを想起させるものだ。

この展覧会を通じて各マスコミは、一つのレトリックを成熟させていった、と吉見はみている。それは、一言で言えば、「過去のことにこだわっていると、成長に乗り遅れる」というレトリックである。

レトリックとは、つまり、飛躍した論理をもった説得話法ということである。

原爆による被害の実態や原因、そして、歴史的、政治的意味などを深く掘り下げようとせずに、「水に流して」、未来に向けて、他国に追いつくために、他国が進めている原子力の夢に自分たちも乗らねばならない。そう国民の多くは感じたのではないか、というのが吉見の見解である。

いつまでも原爆のことにこだわっていることは、「遅れている」とみなされたのだ。

「割り切り」が必要で、原爆のことと、原子力の平和利用とは切り離し、科学的、客観的にものごとをとらえるべきだ、というレトリック。これは今から見れば、「割り切り」の「道理」ではなく、適当、曖昧ということのようにも感じられるが、当時は立派に機能していたのである。

なお、広島では1958年4月に、広島復興大展覧会が開かれ、ここでも再び「原子力科学館」が建てられ、人気を博したという。

吉見はこれを広島に対する国と米国による歴史の塗り変え、つまり「原爆被害」の都市を「平和」を願う都市にしてしまうプロモーションの一環ととらえている。これはこれで頷けるが、もう一つ、吉見は書いていない重要なことがある。それは、広島における放射能の実際の影響とその理解である。

いくつかの原爆の影響による放射能被害の実態調査の結果をみると、広島、長崎においては、それほど放射能の長期的な影響がみられなかった。いや、正確に言えば放射能の影響を受けた人たちは、一方では即死に近い状態ですぐに亡くなられたか、もしくは、しばらくしてから発病し亡くなられたのだが、いずれもそれが「放射能」の影響だったということが、はっきりと示されなかったのである。ただ、水や大気、植物などの環境に対する影響が、思った以上に少なかったのである。これは、爆風の影響で地上よりも上空に飛ばされたと説明されている。もちろん環境中の放射能は、当日からおよそ1ヶ月ほどのあいだは、かなり数値が高かったが、その後の影響をみると、現在のフクシマの事故の方が圧倒的に高いのである。

つまり、当時の原爆被害は、破壊力の高い「爆弾」によるものではあったが、放射能被害に対する意識がきわめて薄かった。

これを私は、「被爆」と「被曝」という言葉で理解する。つまり、ヒロシマ、ナガサキは「被曝」ではなく、「被爆」とみなされた、ということである。単純に言えば、被曝を被爆と書くことで、放射能被害は隠蔽されるのだ。吉見は、本書では、「被爆」という言葉を使って、ヒロシマ、ナガサキを語り、しかも、第五福竜丸事件やフクシマでさえも、3度目、4度目の「被爆」と呼んでいる。少なくともフクシマに使うべきは「被曝」であって「被爆」ではないのではないだろうか。これは、吉見の無意識的な誤認のように思われる。

なお、同時代に国外でも多数の「原子力博覧会」が行われたそうである。30カ国以上、数千万人が入場した。つまり国内のみならず、米国は国際戦略として、このプロモーションを大々的に展開したということに気づかされる。こうした吉見の行き届いた遠近法は、大変有難い。

(つまらない指摘であるが、169ページに、ドイツでの巡回先が記載されているが、以下が正しいのではないだろうか。コローニュ → ケルン、 ボーカム → ボーフム、シュツトガルト → シュツトガルトもしくはシュトゥットガルト

この博覧会では、アニメ映画「A is for Atom」を上映していたという。吉見は土田由香のデータを引用して、「原子力に関するUSIS映画は1959年までに50本以上が製作され、33カ国に翻訳されて80カ国で上映されたという。日本で59年までに公開されたのはこのうちの約20本で、その公開が集中したのは55年から56年にかけて、つまり原子力博と同じ時期」」(175ページ)だという。

この土田の論文はおもしろそうである。機会があったら読んでみたい(吉見編『占領する眼・占領する声』東京大学出版会、2012年)。また吉見が引用する、吉原順平『日本短編映像史』岩波書店、2011年、吉見他編『岩波映画の1億フレーム』東京大学出版会、2012年など、も興味深い。

1957年に、「日本原子力研究所 第1部」という記録映画がつくられた。製作は、新理研映画というから、あの「理研」のメンバーと何らかのかかわりがあるのであろう。1960年には第2部、1961年には第3部がつくられるなど、記録映画に目を向けたのは、大変に興味深い。なぜならば、記録映画は、商業的な記録に残らず、ひっそりと、学校の体育館や町の公民館などで上映されたからである。その数、その影響は、決して無視できるものではない。

これらの映像に対して吉見が抱いた感想は、「これらの記録映画が、原発を巨大ダムと同じような視点で捉えて」(182ページ)いるというもの。妥当であろうけれども、可能性として、壮大な自然と巨大技術の格闘をアナロジーに映像化されているのは、製作側が同じようなシナリオ、演出をもとにして双方を製作したからのようにも思える。どうなのだろう。

さて、まとめに入る。

吉見がこの章で強調するのは、1950年代における原発推進の重要なPRメディアは、原子力博、と、記録映画、だということである。

確かに私たちは、原子力に関する言説を追いかけるとき、どうしても「書かれたもの」しかも、歴史的にすでに正統づけられているもの、特に、文学や絵画を中心に扱い、その周辺に、映画やマンガ、音楽といった「作品」の分析を行うことに専心してしまう。

ここで吉見が訴えていることは、「社会」への影響という意味で、実は、こうした芸術作品として一般的に定着したものよりも、PRメディアとして、PRイベントとしてその当時にその空間、言説に占めていた「力」として、博覧会や記録映画という、逆にあまり「歴史」的に記録に残りにくいものこそ、重要な意味をもっているということであった。

そうなのだ。1953年のアトムズ・フォー・ピースは、こうした宣伝広報のあとに、やってくるのである。

しかも、先ほど提起した問い(原爆被害の記憶がなぜ簡単に原子力の平和利用に結びついたのかの次に、重要な問いがもう一つある。それは、第五福竜丸事件の影響である。

第五福竜丸事件については、明らかに「放射能」の影響、しかもそれが人体のみならず、マグロその他の食料にまで深刻な影響をもたらすことを、まざまざと世間に伝えた。それゆえ、大きな市民運動が展開され、さらに、ヒロシマ、ナガサキの問題をよみがえらせ原水爆禁止運動が起こるのだが、それでもなお、これらの問題が
、「核の平和利用」とは異なるものとして、あくまでも「核の軍事利用」の負の影響ととらえられた理由がはっきりしない。

しかも、吉見も指摘するように、この時期の、原水爆禁止運動は、基本的に米ソ対立を前提として形成されており、原水爆禁止を訴えることとソ連を支持することが、結果的に連接されていたところがあったことは否めない。

だが、保守陣営がそのようにして「反核」が「党派性」に集約されたことは、それは「党」としての社会党なり共産党のとりこみであったとしても、原水爆禁止に対する感覚が、広く支持されなかったわけではない。むしろ、保守陣営であっても、基本的には、共通の思いがあったことが当時のアンケート調査の結果が示している。

しかし問題なのは、先述したように、なぜ、「軍事利用」に対してこれほどまでに過敏に反応しておきながら、原発には「無関心」だったのか、である。

吉見は言う。

「戦後日本では、この原子力の両義性が、「原子力平和利用」と「原水爆禁止」を共に支持する世論のなかで曖昧化され、二つの異なる「原子力/核」へと分離していくのである。」(194ページ)

もちろん、原爆と原発はさまざまな意味において、異なる。しかし、大事なのは、双方の共通点であり、それは、すさまじい力をもっているということと、放射能の影響は深刻でありながらまだ十分に私たちはそれに対処できるだけの知恵がないということである。このことを忘却するような原発の反対も推進も、あってはならない、と私は思う。

以上、第二章の内容をもとにコメントを書いてみたが、あらためて思ったのは、カルチュラルスタディーズは、コンテクストを重視するあまり、概念や語彙にあまり注意を払わない傾向があるのではないか、ということである。被爆と被曝のちがい、地名表記の誤りなど、気になる点がいくつかあった。どうもフーコーの歴史分析を学んだ人間からすると、ここに大きな違和感を抱いてしまう。


第3章は、また、明日。


読んだ本

夢の原子力――Atoms for Dream
吉見俊哉
ちくま新書
2012年8月


目次
序章 放射能の雨 アメリカの傘
第I章 電力という夢――革命と資本のあいだ
第II章 原爆から原子力博へ
第III章 ゴジラの戦後 アトムの未来
終章 原子力という冷戦の夢


占領する眼・占領する声: CIE/USIS映画とVOAラジオ/著者不明
¥5,670
Amazon.co.jp
読んだ本
夢の原子力――Atoms for Dream
吉見俊哉
ちくま新書
2012年8月

ひとこと感想
「原子力」をテーマに、カルチュラルスタディーズ(戦後政治文化史)を展開。類書が多いなかで際立った特徴は、米国メディアでとりあげられた「アトム」のあり方に焦点をあてている点、原爆以前の電気の表象を集めている点、原子力博を詳細に追いかけている点。

目次
序章 放射能の雨 アメリカの傘
第I章 電力という夢――革命と資本のあいだ
第II章 原爆から原子力博へ
第III章 ゴジラの戦後 アトムの未来
終章 原子力という冷戦の夢

よく知られているように、米国は、世界で最初に原爆を製造し、実際に2発、東アジアの島国にある地方都市に投下し、その威力を試した。

1945年8月のことだった。

戦闘員であるなしといった区別を一切問わずに、二つの地方都市を壊滅させた。

このことは、世界史的にみて、大変大きな出来事であることは疑いない。

1930年代から1940年代においてヒトラー率いるナチによって行われたユダヤ人に対する行いに匹敵する(いや、いずれも比較できるものではないが)出来事である。

そう、私たちは、原爆によって、これまでにない殺戮の姿を垣間見た。

それゆえ、その後、長きにわたって、原爆に対する厳しい態度をとり続けてきた。

しかし同時に、私たちは同じ「原子力」でありながら、原子力発電所に対しては、積極的に受け入れ、それを「糧」として「戦後」を歩んできた。

もっと分かりやすいスローガンは、
「原子力の平和利用 Atoms for Peace」である。

原子力の軍事利用の結果、敗戦となった国に、こうした言葉を投げかけるのは、どう考えても、戦略であって、「やさしさ」や「気づかい」であるはずがないのは確かである。

さまざまな思惑があったことが、判明している。

しかし、それでも、私たちは、この提案を拒絶はしなかった。むしろ、積極的に受け入れた。吉見も書いているように、米国からのこうした「圧力」がなかったとしても、科学者たちやその他の人びとは、1945年後において、原子力の可能性を、さまざまな見地から描いていた。

極端に言えば、たとえ、ヒロシマ、ナガサキ、さらには、第五福竜丸の被曝事故が起こったか否かにかかわらず、原子力開発は、この国においても、戦後進められていたはずである。

しかしこれらの出来事があったがゆえに、私たちは、いっそう複雑な心境で、原子力にかかわる事象と向かいあわざるをえないのである。

このねじれた態度こそ、「戦後」にとって本質的なものであるだろう。

こうしたねじれが生成され維持されてきた過程や動機なぢについては、すでに当ブログでも何度も書いてきたし、山本昭宏をはじめ、多くの論者によって描かれ続けてきた。

本書もまた、そうした問いを共有したものである。

吉見は、主に、以下の三つのトピックを本署で扱っている。

・18世紀以降の欧米ならびに日本における「電気」「電力」の表象史
・戦後に開催された原子力博の実態分析
・ゴジラとアトムの表象史(アトムは鉄腕アトムにかぎらない)

それぞれに、読みどころがある。、

最初の「電気」「電力」については、私も今、その原理から学び直しているところであるが、原子力を考える際には、やはり重要なテーマであると思う。吉見はこう言う。

「原子力の平和利用という、無色透明化された抽象イメージを、もっとも完璧に体現していたのは、電力である。」(39ページ)

つまり、原発を受け入れる、ということは、突然戦後にやってきたのではなく、電気を使った機器が社会や生活を彩り、電力が社会の重要なインフラとなったプロセスが先行して存在していたということが、重要である。

電力なくしては生きてゆけぬ社会にとって、原子力とは、不可避的であり、かつ、魅力的な選択肢であったことは、間違いない。

なぜ、原発を受け入れてきたのか、という問いに対して、ここで、「電力」の誘惑に負けたのだ、と答えておくことができるだろう。

さらにこれに、吉見は、この「電力」の誘惑だけではなく、加えて、「米国」によるさまざまな統治性を見ている。

つまり吉見は「戦後」とは、「戦争」の後の時代のことであるが、「戦勝国による統治」は、これまで脈々と続いているという現実を強調しているのである。

もちろん、米国による統治術の一つとして「原子力の平和利用」をとらえるのは重要ではあるが、それだけでは、半分しか物を言っていないに等しい。

吉見も述べているように、内発的な動機もまた、あったのであり、むしろこちらの方が、もっと分析すべきように思うが、吉見はとりあえずこの部分は保留して、本論に入ってゆく。

電気の章は、前半は欧米における歴史的変遷をたどっている。もちろんこの内容も興味深いが、ここでは省略する。後半では日露戦争以降の歴史を掘り起こしている。

1900年代に入ってから、それまでの小さな電力会社は、次第に統合され、大きな力を持ってゆく。

なんと現・関西電力(当時・大同電力」は福沢諭吉の娘婿の会社だったという。しかも設立したのは諭吉である。もちろん諭吉は、電力会社だけでなく、「紡績や鉄鋼、ガス、鉄道に手を広げていた」(109ページ)実業家である。

日本のみならず、よく知られているようにレーニンが共産主義の実現に電化が不可欠であると訴えた(第8回全ロシア・ソヴェト大会)ように、どの国においても、「電力・電化」の推進を重視していた。そしてこの流れはやむことなく、戦後にもつながっている、というのが吉見の主張であるが、いささかこの章は、散漫な印象をぬぐえない。

続いて、第II章だが、これは明日に続きということにしたい。


(なお、先日翻訳していたバーナウアーの論考であるが、これも近いうちに続きを行いたいと思います。)

夢の原子力: Atoms for Dream (ちくま新書 971)/吉見 俊哉
¥945
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我が家のネコは、雑種でトラ、名前も虎之助、今年11歳くらいである。

外には一切出さないので、すっかりとのんびり屋になったが、子猫のときは地域猫だったため、やんちゃでひどかった。

ごはんをあげると、かわりに、ネズミの死体がベッドの下にあったり、あちこちの猫とケンカしたり、外に出さなくなってからも、何度か自分で重い戸を開けて脱走したり、てんやわんやである。

しかし今では、かなり、おっとりである。

一つだけ変ったのは、1歳の頃は、口内炎がひどくて、食事もろくにできず、鳴き声さえも出さなかったのが、歯の手術をしたあとは、おなかがすいたら大声で鳴き、とにかくがつがつ食べるという猫になってしまった。

ほぼ10年近く食べ続けていた一つが、カルカンのレトルトだったのだが、急に食べなくなったのが約1ヶ月くらい前のことだった。

最初は食べるのだが、次第にスピードが落ち、途中で人の顔をじっと見るのである。

最初は何のことか分からず、あれこれと試してみたのだが、カルカンを残すので、えい、といつもと違うメーカーのものを出してみた。

そしたら、いままでどおり、がつがつ食べるようになったのだ。

猫、不思議である。

突然嫌になってしまったようだった。

今食べているのは、これです↓
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近所に、老いたレトリバーがいる家がある。

最初に会ったときは、とても元気そうで、手はなめるし、尻尾はふりまくるし、駆け回るし、大変なものだった。

それが、あるときからいなくなってしまった。

数カ月して、その家の門のなかをのぞくと、久しぶりにいるではないか。おお!と思って、おいでおいでをしても、何だか元気がないし、顔の表情が以前とは全然違う。???病気になってしまったのか、と心配していた。

また、しばらくすると、その家の人と思しき女性が、レトリバーを連れて散歩をしていた。やっぱり元気なんだ、よかった、と思った。

ところが、またまたしばらくしてから、その女性とワンちゃんとを見かけたのだが、どうも、ワンちゃんが、やはり以前とは雰囲気が違う。

同じレトリバーで、老いているのは一緒だが、このあいだのワンちゃんと模様がかなり違っている。

そこで、ようやく、はたと気づいた。

その家はおそらく、盲導犬のつとめをはたしたワンちゃんの面倒をみるボランティアをしているのだ。

老い先短いワンちゃんを看取るボランティア。

こうして私は、盲導犬に、少し関心をもつようになった。


そして、先日、スーパーのイオンに行ったら、何気なく、盲導犬のことを知ってもらうための小さなイベントが行われていた。

いろいろとはじめて知ったことがあった。

そういうことを知らずにいた自分を恥じた。

そして、盲導犬の生き方の美しさを、しみじみと感じた。


街中や電車の中で、ときどき、盲導犬を見かける。

ついつい、けなげに働いているその姿に、熱い視線を投げたり、よしよし、となでてあげたり、あげくのはてには、ご褒美、と何か食べ物をあげてしまう人もいるかもしれない。

だが、盲導犬に会っても、触ったり、目をみたり、何かをあげたりしてはいけないそうなのだ。

彼らは、一生懸命に仕事をしているが、そういったことをされると気が散ってしまい、注意力が弱まり、一緒にいる人に迷惑がかかることがありうる。気づかなかった。。。

私は盲導犬は万能かとばかり思っていたが、実は、覚えるべき行動は三つしかない。介助する人の左を歩き、1)曲がり角、2)障害物、3)段差、に注意を差し向けること。こんなシンプルなのか、と驚くが、実際に、目的地までの道のりについては、人間のほうが覚えていなければならない。つまり、ワンちゃんが道を覚えているわけではなかったのだ。

生まれてすこしたって、ワンちゃんは、遊びながら仕事を覚える。

スキンシップをしながら、遊びながら、楽しみながら、学習する。

大事なことは、名前を呼ぶこと。呼ばれると、いつもいいことがある。ご褒美をあげる。ほめてあげる。この繰り返しによって、自分の名前が快い記憶と重なっている。

これは、とても大事なことではないだろうか。

思うに、人間の子どもの場合も一緒で、名前を呼ばれる、ということは、叱られる、怒られる、嫌なことをされる、ということと結びついている人もいるかもしれない。

我が家のネコなど、「虎之助」という名前なので、叱るときは「トラ!」と言ってしまう。これがちょうど「こら!」と近いせいもあり、名前は、必ずしも「快」だけではなく「不快」とも結びついてしまっているような気がする。気をつけよう。

名前と快とを結びつけることの次に、行っていたのが、褒める、ということで、つまり、正当に評価してあげて、その際に、同時にスキンシップを重視していた。

盲導犬がきちんと仕事をこなすことができるのは、こうした、しっかりとしたトレーニングの結果なのだった。

私たちの言語は、ウィトゲンシュタインが悩んだように、単純な指示のためだけに用いられているわけではない。

無意味さとか、矛盾とか、あいまいさとか、いろいろな要素を含みこみつつも、結局のところ、話し相手との「言語ゲーム」を楽しむことが目的なのである。

これはこれでおもしろいが、数少ない命令言語だけでやりとりをするというのも、何やら興味深い。

なお、ワンちゃんがいても、目の不自由な方がとても不安になるのが、信号待ちとだそうだ。信号の色をワンちゃんは認識できない。

人の動きで止まったり、歩いたりするそうなのだが、信号無視の人もいるので、やはり危険である。

音の出ない信号機のところにおられたら、「青です」「赤です」と声で教えてほしいとのこと。

また、道順などは、ワンちゃんではなく人の側が覚えていなくてはならないのだが、ときどき間違えてしまうこともあるようだ。

もし道端で立ち止まっている姿をみかけたら、ぜひ、一声かけてください、というお願いがあった。

ついついワンちゃんにばかり目が行きがちであるが、必ずしも万能ではないようである。これからは、人間の方にも注意を向け、困っていることがないかどうか、声をかけることにしたい。


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アウシュヴィッツ、ヒロシマ(ナガサキ)、9.11、3.11。

この四つの「出来事」を束ねて思考する一つの可能性は、フーコーの提示した「バイオ・パワー」概念にある。しかもこの概念のもっている重要な意味は、上記の四つの「出来事」を「非日常」とし、それ以外の毎日を「日常」と区別することを無意味化させている点である。

すなわち、私たちの日常は、毎日がアウシュヴィッツであり、毎日がヒロシマ(ナガサキ)であり、毎日が9.11であり、毎日が3.11である。「である」が断定的すぎるようであれば、少なくとも、そう「ありうる」、もしくは、あたかもそうであるかのように過ぎる、と言ってもよい。

バイオ・パワーとは、本来的には、これらの「出来事」のような非日常ではなく、日常をふつうに構成するためのテクノロジーである。その目的は、機能性であり、効率性であり、経済性であり、かつ、、顧客に提供するのは(基本的には)、快適性であり、清潔さであり、満足度である。

それゆえ、バイオ・パワーの「バイオ」とは「生命」や「動物」「生物」というよりは「生態」に近い。「人間」的次元(すなわちフーコーの言う近代的な認識論的な枠組みとして)ではなく、「生態」的な次元ではたらいている「力」のことである。「パワー」も、「権力」という言葉を使いにくい。「物理的」な「力」ではないが、はっきりとした一方向に、上から下へとやってくるあの「権力」ではない。むしろ、放射線や電波のような、不可視に拡散しており、場所によって濃淡があったり、いつまでも消えて無くならなかったり、ある一定量に達すると急に発病や死に至ることもあるという、「微視」物理学的な「力」である。

映画「ショアー」でもとりあげられていたが、「アウシュヴィッツ」で言えば、アイヒマンがヨーロッパの鉄道網をこつこつと調べ、見事なまでに整然と各地にユダヤ人たちを絶滅収容所に運んだテクノロジーである。

私たちの時代の「権力」概念が変わったというのは、まさにこうしたところである。アイヒマンが極悪非道の人間ではなく、小役人のような気質で、与えられたことを勤勉に遂行していた人間であったことが、戦後のニュルンベルク裁判などで衝撃をもたらしたが、ナチの倫理とは、そういうものである。責任者や犯人、動機、意図。その他近代的な法概念ではくくるのが難しい事態にある。

今では
「バイオ・パワー」は、都市計画、建築設計、商品のデザイン、こうしたことを、当たり前に、支えている。「バイオ・パワー」は日常においては、単純に「悪」と決めつけられない。東浩紀氏が「バイオ・パワー」を見事に「環境管理型権力」と言い換えたように、何ともあやふやであいまいなものであり、私たちはその大半を、とりあえずやりすごせば、それでいい、と思っているようなものである。

しかし、フーコーがおもしろく、かつ、疑問を残した点は、こうしたバイオ・パワーが、かつての権力にとって代わられたとは言っていない点である。

かつての権力、それは「ディシプリン」権力に代表される。

1970年代から90年代くらいまでは、もう一方の「個別」に(主に身体に向けて)作用する「ディシプリン・パワー」の方にばかり目が向いていたのは、バイオ・パワーのテクノロジーがまだ成熟していなかったせいもあるが、同時に、当時の「権力」論が、どうしても、従来型の権力は抑圧するもので、自分は無理やり権力者によって何かを「させられている」という事態を招いているという発想から抜け出せなかったことの方が理由としては大きい。

しかし2011年3月11日以降、今や、完全にバイオ・パワーの時代である。

こうした時代認識は、割合、納得がゆくのではないだろうか。

しかし、今一つすっきりしないのは、バイオ・パワーのなかで生きる際に問われる「倫理」である。

ディシプリン・パワーを支えてきた「倫理」もしくは「権力」の発生は、ヘーゲルの主と奴の弁証法の記述によって正確に表現されている。主人は、奴隷を殺さずに生かしたままにすることによって自分を主人として認めてもらう。この場合、「死なせる」という選択肢を主が握ったうえで、実際には「生きるままにしておく」という点が重要である。

これに端を発して、近代市民社会の倫理は構成されていると言ってよいであろう。

これに対して、バイオ・パワーの場合は、基本が「生きさせること」にある。そして、それが不可能になったとき、「死へと除去」される。

テクノロジーとしては、私たちは、今なお、この二つ、つまり、ディシプリン・パワーとバイオ・パワーの両者が作用している世界に生きている。

そのなかで、ディシプリン・パワーは明らかに非難の対象となっている。とりわけ管理教育批判というものは、この典型例となるであろう。ディシプリン・パワーは押しつけの「道徳」を提供するばかりで、それ自身が否定的な扱いを受けてきた。

しかし他方では、
基本が「生きさせること」にあるバイオ・パワーが、さまざまな局面で倫理を形成していたことに気づく。

犯罪において死刑が廃止される傾向にあるのは、「人道的見地」(=倫理)においてではなく、「生かしたままにする」という倫理観があっての話である。医者の使命が「延命」にあり「尊厳死」をなかなか認めないのも「モラル」の問題ではなく、
「生かしたままにする」という倫理においてである。学校がいじめを苦に自殺する子どもののことに、きちんとかかわることができないのは、自分たちの使命が「生かしたままにしておく」ことだからである。

よく誤解されるが、絶滅収容所でさえも、労働可能なユダヤ人は「生かしたまま」にされていたのである。そして、労働が不可能になった時点ではじめて「死のなかに廃棄」されたのだ。

この両者の大きな違いは、「死」である。バイオ・パワーでは、「死」が軽視されている。もしくは、ないものとして扱われている。「死」は、その人の生き方や他者との関係のとり結び方と深くかかわっている。

しかしバイオ・パワーでおおわれているような場所や制度、空間、施設などにおいても、倫理は、微妙なものとなる。

バイオパワーは、「主」と「奴」の関係を前提としない。強いて言えば、自分たち(たとえば消費者、クライアント、コンシューマー、カスタマー、ユーザー、市民と言われる)の方が「主」に近い立場にいる。にもかかわらず、「主」であろうとしない。「主」であることの「責任」を放棄しているとも言えるし、「主」であることの「権力」を放棄しているとも言える。

いずれにせよ、私たちは「主」を殺した。失った。自分たちの手で、殺した。

では、私たちは、「主」から、「権力」から、自由になったのか?

いや、違う。

いっそう、「不自由」になり、いっそう、「抑圧」(言い知れぬ不安感)に悩まされているのではないだろうか。

決定的に異なるのは、その原因が「主」にないということが分かってしまったことだ。

原因は「バイオ」「生態」「環境」にある。

今の私たちは、主や他者によってではなく、自ら不自由になり、自ら抑圧されるよう、努力をする傾向にある。

そして、最初に話は戻るが、主と奴の弁証法とは、言い換えれば、市民社会を根底で支えるものであり、他者を承認することによってはじめて自己のアイデンティティが形成されるという意味では、「自我」(ヘーゲルなら自己意識)にとってなくてはならない契機である。

「主」を失った私たちは、すなわち、自分たちのことを承認してくれる「他者」をも失うことになる。

それとも、すでにそうした「他者」との相互承認のプロセスに入ることを断念し、ひきこもることを選択しはじめているのだろうか。だが、そこには倫理はないように思える。かといって、ニーチェがあいまいに示したような「超人」という一つの「倫理」もしくは「主人道徳」が成立するようには、私には思えない。

バイオ・パワーにおける「倫理」とは、何であろうか。

残念ながら、バイオエシックス(生命倫理)においては、単に先端テクノロジーの生命への介入の限度の策定などを目的としており、バイオ・パワーにおける倫理といった問いを問うことができないのが現状である。

私は、主なのだろうか、それとも、奴なのだろうか。そう問うこと自体が、もうできなくなっているのだろうか。



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思考の前提
フーコーが遺した重要な概念の一つである「バイオ・パワー」。もちろん、バイオのパワーと言っても、洗剤の話ではない。私たちの生存、社会、の話である。フーコーは1975年に『監獄の誕生』において一望監視装置とともに「ディシプリン(
調教=訓育)・パワー」を強調したが、それからわずか1年後に『性の歴史』においては、人口まるごとを生物学対象としてとりあつかうことを「バイオ・パワー」とみなした。この両者は相関しており、『言葉と物』(1966年)において述べられた、私たちは近代において「人間」となった、というフーコーの言い分を補強するものである。

ところが当時、フーコーのこうした「パワー」論は、「権力」論という文脈において議論されたため、「ディシプリン・パワー」が管理社会批判として活用される一方で、「バイオ・パワー」については、十分な展開がなかった。それが1990年代頃より、
「ディシプリン・パワー」よりもむしろリアリティのある概念として、にわかに「バイオ・パワー」に注目が集まっている。

しかし、これを言うならば、むしろ私たちにとっては、「バイオ・パワー」ではなく、「アトム・パワー
」なのではないか、というのが、私の言い分である。

戦後以来、原爆被害、原発事故被害を経験してきた私たちが問うとすれば、「アトム」の「パワー」なのではないか。身体を不可視に貫き、遺伝子レベルにまで影響を及ぼす「アトム」の「パワー」は、「バイオ」以上に、私たちの日常、社会、倫理などに大きな影響を与えているはずである。もし与えてこなかったとすれば、それは、何らかの「操作」がなされてきたからではなかろうか。かつての「原爆」における「アトム」の「パワー」は、本来の「アトム」とみなされず、「アクシデント」として片づけられ、その後の「平和的利用」として「アトム」をオブラートに包みこみ、かろうじてうまくやってきたのが、戦後だったのではなかろうか。

2011年3月11日。その日を境に、この神話は幻想となった。私たちは、ようやく「アトム」の「パワー」というものを目の当たりにした。それは、単に強い放射能を浴びると即死するというだけのことではない。自分たちが「アトム」の「パワー」という現実に生きていることを知ることとなったのである。不可視であり、無臭であり、不可触であるにもかかわらず、拡散ははてしなく地球全体を覆い、その影響は世界史の次元をこえ、人類史、地球史において考察せねばならぬほど長期にわたる。この事実のなか、私たちは、そして私たちの子孫は、生きることになる。これは、一過性のものではない。日常として、暮らしとして、生活として、毎日続くことである。そしてそれこそが、この「バイオ・パワー」の特性なのである。

にもかかわらず、一部の知識人、政治家、マスコミ、そしてSNSなどに書き込みをする人たちは、この重大な変化、転換を、真剣に考えようとせずに、事故の収束、事態の安定化などをいともたやすく語りはじめている。

だが、忘れてはならない。「アトム」の「パワー」が張りめぐらされている時代は、今はじまったばかりであることを。安心したい気持ち、元の日常に戻りたい気持ちは、分からないでもないが、もうかつてのような安心は帰ってこないということを、もう元の日常には戻れないということを、私たちは、一時たりとも忘れてはならないのである。それだけが、私たちができる、この事故に対する責任のとり方である。

そう考えつつ、「バイオ・パワー」を読んでいると、奇妙なことに気づく。

むしろ、欧米人たちは、これを「アウシュヴィッツ」へと引き寄せる傾向にあるのである。もちろんフーコー自身がナチズムならびにヒトラーについて言及もしている(
『性の歴史』第1巻188ページ)ので、それが誤りだとは言わないが、同時にフーコー自身が、「核兵器下の状況」(174ページ)についてもふれているということは、きわめて重要である。一体どうして、こうした強調点の移行、もしくは、一部の忘却を招いているのであろうか。そう思いつつ、今一度、フーコーとナチズム、もしくはナチの純潔という倫理とは一体どういうもので、それが「バイオ・パワー」とどうつながっているのかを確かめるべく、バーナウアーの論考「生死の彼岸――ポスト・アウシュヴィッツの倫理」を読んでいる次第である。

昨日の概要

バーナウアーのフーコー論である「生死の彼岸」という論考を翻訳。ナチの蛮行をニヒリズムや道徳破壊ととらえずに、一つの倫理として把握することが重要である。それは私たちも彼らと同じ倫理を共有しているからである。一例としてヒムラーの有名な演説をとりあげる。

(以下、昨日のつづき)

ナチの時代を理解するにはさまざまな困難さがつきまとうが、そのうちの一つとして、彼らの暴力的な行為が、ヒトラー以前のドイツ文化における道徳や宗教の伝統と、どういった関連性をもつのか、という問いにはなかなか答えられない。

両者には根源的な不連続性がある、と主張する研究者もいれば、この関係に一定程度以上の連続性をみる場合もある。私としては、いずれかという判断をここでするのは避けたい。

しかし、彼らの倫理を問おうとするフーコーの分析が、少なくとも、ナチズム初期における宗教的(伝統的)倫理から、キリスト教を脱したナチの倫理への転換における具体的な特徴のいくつかを明らかにしてゆくうえで、かなり本質的な貢献をするであろう。

先述したヒムラーのケースについては、あくまでも一例にすぎないが、こうした事例は非常に重要な意味をもっていると私は考える。

ヒムラーの倫理を下支えしていたもの、それは、生存闘争(der Kampf auf Leben und Tod)である。この考えは、一方では、北方人種(ノルディック)の血の優越性を強調し、もう一方では、劣勢人種の死すべき宿命を語るものであり、この両者が巧みに結びついている。

生存闘争は、どの民族が生き延びるか、どの民族が死に絶えるのか、その淘汰が目的である。ヒムラーはこうも言っている。

「我々には道徳的な権利がある。我が民族に対する義務がある。それは、我々を滅ぼそうとする民族を滅ぼす、ということである。」

国家社会主義が理性に傅いたものであらねばならない、それゆえ理性こそが、最後の言葉である、というヒトラーの要求をふまえつつ、ヒムラーは、人種理論などで行き渡っている自然史的法則に絶対的に服従したのである。

国家社会主義の倫理とは、応用生物学の一形態とみなされる。

ヒムラーの倫理の禁欲性は、
義務と服従を旗印にした、整然たる規律をもった親衛隊の編制にだけあったのではない。むしろ、虐殺行為というものが、自分たちの生物学的な意味での「生命」を向上させるための道徳的命法だったという点にこそある。

ある民族が優生学(eugenics)によって優秀性を認められたということは、他の(劣った)民族を安楽死(euthanasia)させてやらねばならない、という(道徳的)義務をももつということである。

ナチの反ユダヤ主義はすべて、歴史、生命の復活、死の克服のための、生物学的純潔化を徹底させるという目的を達成するためのものだった。


ナチ以前の宗教的、人道的価値観が、ナチの倫理の一部に含みこまれているとはいえ、大きな違いとして、一点だけ指摘しておきたい。それは、この倫理の「目的」(テロス)、つまり、生命を純潔にしたいという熱意である。

もちろんこの熱意には、さまざまな宗教的な意味づけがなされている。

ヒムラーがまだ若かりし頃に書いた
日記には、この、宗教的純潔の理想が人種の純化というナチの使命に転換した跡がある。

フーコーの研究からみれば驚くことではないが、ヒムラーがこうした転換をすることになったのは、セクシュアリティーに対する葛藤が原因である。

道徳的掟と倫理的要請との次元の違いもしくはその移行にかんする私たちの問いに再びもどるならば、フーコーによって私たちは、ここに、一貫した自己に対する関係性の様式を構成するさまをみることができるし、また、ヒムラーの性格に刻印された道徳的任務というものを把握することもできる。たとえ、言明された道徳的原則の水準において総体的な転換があったとしてもである。

確かにヒムラーは、宗教的な確信を失ったことによって、カトリックにおける性の純潔に対する教えとの長い葛藤を終えた。

その終焉は、道徳的理想を人種的プログラムへ移行させる、単なるはじまりだった。そしてまた、このはじまりは、表向きの原則が理解をこえて変化したとしても揺るぎない倫理の様式を生み出しもした。

救済か破滅か、その分岐点が、かつては、ヒムラーのセクシュアリティーとの葛藤の物語であったとするならば、彼がその後に夢中になったのは、人種の純潔か、退廃か、の二択であっただろう。

(つづく)


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