今日は、昨日紹介した、ジェームズ・バーバウアーの「生死の彼岸」を訳してみる。全文は難しいので、最終章だけとする。

訳した文章
Beyond Life and Death: On Foucault's Post-Auschuwitz Ethic
by James W. Bernauer
(第3章)

所収
Michel Foucault Philosopher
F. Ewalt(dir.)
Harvester
1992 (orig. 1989)


アウシュヴィッツへの旅


フーコーが何を遺したのかは、未来の世代の読者によって判ぜられるものとは言え、彼の思想は少なくとも現存する私たちにとっては、歴史や政治、倫理なしに思考するということを、一層困難にさせたことは間違いない。

いわば、たえず「レスポンス」(=応答、責任)が要請されているのである。

本論考では、フーコーの述べる倫理の全般的な説明をするのではなく、ただ一つの方向性だけを示すにとどめたい。

彼は、つねに現在史を問い続けていたなかで、『性の歴史』第1巻の第5章では、まさしく「ナチの時代」の分析を行った。

一般的な印象としても、専門家のあいだの議論においても、ナチのふるまいや言い方の残虐さ、容赦のなさは、道徳心の放棄であるかのようにとらえられる場合が多い。

おそらくその典型が、ジョージ・スタイナーである。

スタイナーこそ、こうした見方をもっとも大勢の人たちに広めている人物である。

ヒトラーはかつて「良心とはユダヤ的発明だ」と述べたことがあるが、この言及を根拠にスタイナーは、ユダヤ人絶滅(ショアー)について次のように説明する。
  
聖書に基づいた一神教や、イエスの倫理的な教え、そして、マルクスのメシアを待ち望むような社会主義といった、ユダヤ人が
西洋文化に教え込んだ「良心」という心の支えを、完膚無きまでに消し去ろうとしたのだ、と。
  
この解釈は、ナチズムが新たな行動典範として「不道徳さ」を称揚したのだ、と理解する。
  
こういった類の分析は、私たち自身が、こうしたナチの暗黒王国と道徳に近親性を持っているかもしれないという不安をかき消そうとしてはいないだろうか。
  
もし、このナチ暗黒王国の血塗られた行いが、彼らの不道徳さをさらけ出しているというのなら、私たちは、自分たちがはたして本当に善意の共和国にいる住人であるのかどうか、きわめて厳密なかたちで示し出さねばならない。
  
立ち向かっていかねばならないのは、絶滅収容所に連れてこられたユダヤ人が、所員から聞かされた言葉
「ここには何故、などない」(Hier ist keine warum)に対してではない。
  
ナチズムを一つの倫理として理解し、問い質すことである。


このことに立ち向かうべきである。

そうした追及の義務こそ、フーコーの仕事が現在生きる私たちに遺したものの一つなのだ。


このように、フーコーの倫理へのアプローチは、こうした前代未聞の悪事にかかわった多くの人びとが、何らかの道徳的な範疇において自分たちを納得させていたということを真剣にとりあげようとするものである。

ヒトラーは、ゲルマン民族だけが、道徳的な掟を行動指針にした、と何度も何度も語っている。

自分たちが道徳的に優れているということを自ら宣言したもっともよく知られている例は、おそらく、1943年10月4日にポーランドのポズナンでSSの幹部たちに向けた、ハインリッヒ・ヒムラーの演説である。
    
 *訳注 → こちらで肉声が聞けます。
    
ヒムラーは、何ら包み隠すことなく、ジェノサイドを行う栄誉について語っている。
    
「諸君だって分からない者などいないであろう。100の死体が、500の死体が、いや、1000の死体があちこちにあるのが、何を意味しているのかを。」
    
だが、続けて彼は、こうも言う。
    
「たじろがないこと、そして、人間的な弱さを捨て去り、みっともないまねをしないこと。これこそが、我々を強くするのだ、」
    
ヒムラーは親衛隊の徳性を、
「忠誠心」「忠実」「勇敢」「誠実」――こうした言葉を使って称賛し、この徳性を支えに品位を保ち続けるよう、語りかけ続ける。
      
何百万人ものユダヤ人をこの世から亡きものにしてしまうことに対して、ヒムラーは、事もなげに、
      
「我々の内面性、魂、性格、いずれにおいても、恥ずべきものなど、まったくない」
      
と言明する。
      
一般的には、こうした強面の道徳的発言をすることに対しては、自分が置かれている状況に適応するための自己防衛機制というように、心理学的に説明されることだろう。
      
フーコーの仕事が示したのは、こうした解釈をはっきりと問題視することであり、将来における研究や理解の妨げとなるということである。
      
ナチズムは、「ニヒリズム」として理解してはならない。確信的な「倫理」として考察せねばならないのである。
      
私は、このはっきりとした「倫理」について、フーコーの仕事のなかから、ただ一つのアプローチだけを、具体例として、ここで説明しておきたい。
      
      
・・・時間切れ。続きは、明日、または、いずれ。
      
      
      
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9月11日。

ちょうど、この1年半前の3.11、そして、もっと遡って、11年前の2001年の9.11、このふたつの「11」のことを思い出さざるをえない。

そして同時に、私は、1945年に広島、長崎で起こった出来事、さらには、それより少し前にヨーロッパで起こった出来事、この四つの出来事を、思い出しつつ、書かざるをえない。

出発点は、ホロコースト、ショアー、ジェノサイド、さまざまな言い換えによって呼ばれている、あの出来事、である。

アウシュヴィッツとは、ヒロシマ(ナガサキ)とは、一体、何だったのか。この問いを手がかりにしつつ、そこにフクシマを重ねるときに、何が見えてくるか、とりわけ、米国で起こった同時多発テロとは何だったのか、これらを多層的に考えてみたい。

アウシュヴィッツは、いかにして、可能となったのか。そして、ヒロシマは、いかにして、可能となったのか。

第一に、これは、確実に科学技術力において、可能となった、ということができる。


ヒトラーによるユダヤ人に対する蛮行には、
ヨーロッパに張りめぐらされた鉄道網とツウィクロンBが、米軍による日本の2カ所の地方都市への攻撃には、B-29と原子爆弾が、不可欠だった。

しかし、それだけではない。


ここに、科学的なテクノロジーだけではなく、政治経済的なテクノロジー(もしくは権力テクノロジー)も加わらねばならない。


正常なものと異常なものを区分し、異常なものを1カ所にまとめ監視し矯正をはかる近代の監獄や学校、病院、兵舎といった空間を構成する手法、


生物種として「人間」を規定し、同じ種の「人間」を各地より集め、効率よく殺戮したナチスの手法、


戦争を終わらせるためという理由で、核分裂反応を利用した爆弾を投下し、戦闘員か非戦闘員かの区別なく、「無差別に=均等に」その一帯を破壊する手法、


これらは、まったくもって、同じテクノロジーなのである。


フクシマも同様である。


高度な力でお湯を沸かす施設と、それを間接的に監視・管理する装置が不可欠で、あった。


そして、安全でクリーンなエネルギーを生み出し、しかも地元の活性化に役立つということで設置されたものの、シビアアクシデントの事態を想定しておらず、事故が発生すると、避難区域や危険区域を生み出し何十年ものあいだそこで生活できなくなるような施設を運営する手法であった。


こうした事態を、
フーコーは、「セクシュアリテの歴史」の第1巻第5章で、「ビオ・プヴォワール」と呼び、「生きさせておくか死の中へと排除する権力」とみなしている。


・生きさせておく
・死の中へと排除する


この「生きさせておく」か「死の中へと排除する」の、いずれか一方だけではないところが、この権力の重要なところである。


そして、この権力は、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、フクシマというある出来事、ある記憶、ある場所に極限されて行使されたのではなく、くまなく私たちの「生」に対して行使されており、私たちは、終始、この選択肢の前に立たされているのである。フーコーは言う。


「核兵器下の状況は、今日、このプロセスの到達点に位する。一つの国民全員を死にさらすという権力は、もう一つの国民に生存し続けることを保証する権力の裏側に他ならない。」(「性の歴史」第1巻、174ページ)


要するに、自分たちが「ビオ・プヴォワール」を基盤においた世界で生き続けようとするならば、第一に、「敵対国」(もしくは敵対化させた人種や民族)をジェノサイド可能であるという力をもたねばならない、ということである。


もしくは、自分たちをジェノサイドの対象とされたくなければ、
「ビオ・プヴォワール」の統治下において生かし続けられる道を選べ、ということである。


人々は、知らぬ間にこの選択肢の前に立たされ、否応なく「生かされる」ことになる。


「核抑止力」は、同時に、こうした私たちの生存の仕方にも影響し、一般的には「自由」と呼ばれるものにたいする、大きな抑止力となっている。


この選択肢が、もっとも鮮明に、そしてむしろその境界線がもっともあいまいになったのが、原発事故である。


今までも、これからも、放射能の影響が不可視であることは変わらないが、事故のあと、この「ビオ・プヴォワール」というものが、私たちの生や社会に張りめぐらされていたことを、私たちははっきりと可知化したのだ。



ところで、話は少し、遡る。
19世紀初頭を生きたドイツの哲学者ヘーゲルは、ここで言うビオ・プヴォワールとは少々、別のものを描いている。


有名な「主と奴の弁証法」である。


ヘーゲルの場合、「主」は、「奴」を殺そうと思えばいつでも殺せる。「奴」を完全に支配している。しかし「奴」を殺すことは「延期」したうえで、生かしたままにしておく。生きさせたままにしておくことにより、自分を「主」と承認する「対象」を獲得できる。


つまり、自分が「主」であり続けるためには、「主」は、「奴」を生かすことが必要なのである。


ここには、奇妙な転倒が発生している。


「主」はすでに「主」として自立しているのではなく、「奴」があってはじめて「主」でいられることになってしまう。


「奴」なくしては、「奴」の承認なくしては、「主」たりえない。


このとき、「奴」の側では、自らを縛りつける「主」よりも上位に立とうとさまざまな努力を行い、立場の逆転を狙っている。


つまり、主と奴は、相互転換が可能なのである。


むしろこの相互転換の可能性が、人類の歴史をつくってきたとヘーゲルはみなす。


そして、これはマルクスに継承され「階級闘争」という考えを生むに至る。

フーコーはこれを「君主はそこでは生に対するその権利を、ただ殺す権利を機能させることによって行使するか、あるいはそれを控えるかである」(172ページ)として、自殺こそが、こうした君主の権利を奪うものだと位置づけている。


とりわけ、マルクスの時代には、すでにベンサムのパノプティコン(一望監視装置)は草案されていたわけであるが、マルクスの目は、むしろ、旧来のもののように見えたこの「主と奴の弁証法」が、新たに社会的に生み出されつつあった、資本家と労働者の対立という現実のほうに向いた。


これが初期資本主義社会における本質的社会問題であると考えたから、マルクスは、階級闘争を、自らの理論と実践の主題としたのであろう。


しかしその後、着実に、パノプティコンは社会を覆いはじめ、世界各地に行き渡ってゆく。これは単に「施設」の問題ではなく、科学技術の活用と統治手法の活用があってはじめて実現したことであった。


そのなかで、階級闘争としての「主と奴の弁証法」もしくは「階級闘争」は消滅したわけではないが、多層的に、ビオ・プヴォワールが浸透していったと言える。


現在も、「格差社会」と言われているように、「階級社会」ではない。


この「格差社会」という言葉には、おそらく、二つの意味が隠されている、と考えられる。


第一に、「階級」というほどの格差ではないと思っていること、第二に、たとえ「富裕層」であれ、「貧困層」であれ、今や、本質的には「対立」しているのではなく、つまり、「主と奴の弁証法」的関係ではなく、いずれも、「核兵器」や「原発事故」のような「統治性」のなかで、「生きたままにさせられている」にすぎない、と考えられているからである。


話を戻そう。


遠回りになったが、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、フクシマは、ビオ・プヴォワールというフーコーの概念によって、ある共通点をもつ事象としてとらえることができるようになった。


そして、それだけでなく、なぜ、かくもこれらの出来事が、私たちの心を揺さぶるのかといえば、私たち一人ひとりの「生」というもの、そして、その全体性としての「社会」(=人口)というものが、これらの出来事と同じ原理で機能しているからであることが、明らかにされた。



では、ニューヨーク多発テロ事件は、一体何であったのだろうか。


確かに、そこには、科学技術の結果としての、大型旅客機や高層ビル、そして瞬時に世界中に映像を配信できる通信衛星やテレビ受像機などが、かかわっている。


しかし、政治経済的なテクノロジーとしては、どうだろうか。


逆説的であるが、ビオ・プヴォワールの特性は、不可視性にあるが、同時に、可視的でもある。


アウシュヴィッツは、多くの証拠が隠滅されたが、どうしても消しがたいものが数多く残された。それらは主に写真でも見られるが、その全体像はとても可視化しうるものではない。何よりもヒトラーという一人の人物だけにこの全容の責任を負わせることができない。SSだけでも、軍隊だけでも、ドイツ人だけでもない。協力したポーランド人もいる。それゆえ、クロード・ランズマンの「ショアー」のような映画作品が、もっともその出来事に肉薄することになる。


ヒロシマの場合、キノコ雲、損壊した建物、変わり果てた姿の被害者といった可視的なものは多々あるが、その被害の全体像は、可視化が困難である。言い方を代えれば、想像するのが困難である。B29や原爆そのものは、あくまでもこの出来事の象徴であるし、原爆を生みだした科学者や技術者、投下したパイロット、命令を下した米大統領でさえも、ある一部を構成するにすぎない。


フクシマにおいてはさらに、この不可視性が拡張される。可視的な地震や津波の被害と対照的に、建屋の水素爆発をのぞけば、大部分は、測定された数値において、私たちはその「危険性」を察知し、避難したり、食品を選択したり、日常に怯えることになる。そこには、ほとんど可視性がない。放射能に対する症状さえ、あいまいである。


ニューヨークを襲った同時多発テロはどうであろうか。


可視的にみえる、それもそのはずである。まるで、ハリウッド映画の一シーンのように、旅客機がビルに衝突し、そのビルが崩れ落ちていったのだから。


では、9.11だけ、この系列に含まれないのであろうか。


いや、そんなことはない。私は当時書いた。この「テロ」が見せたのは、目の前のショッキングな映像だけではなく、私たちの日常とは、こうした出来事に連結しうる他者とともにある、ということ、である。


ボードリヤールも指摘しているように、このテロは、戦場において起こるのではなく、私たちの「日常」において、突発的に起こるものなのであり、それゆえに彼は「透きとおった」悪、と呼んだ。


このことをもって、不可視性と言えるのではないだろうか。



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おまけ

かつて、数人の仲間と一緒に「最後のフーコー」という本を訳した。

最後のフーコー/ミシェル フーコー
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バーナウアーとはその後ボストンで一度だけお会いした。とても慎み深く、穏やかな人だった。


しかし、彼の研究テーマは、フーコー、アレント、ファシズム、ホロコーストである。
  


人間は、なぜ、ファシズムやホロコーストのようなことができてしまうのか。

なぜ、集団(国家)において、無差別に多くの人びとを殺戮することが可能なのか。
  


彼の問いは、彼の佇まいとは裏腹に、強烈なものであった。
  


しかし同時に、「最後のフーコー」に収められている彼の論考も、一見、それほど強烈なものではない。直情的に、何かを非難しているのではなく、問題を見極めようと、ていねいにテキストを読解することを心がける、それが、彼の流儀だ。
  


バーナウアーは、1989年にフーコーセンター主催、フランソワ・エヴァルトの呼びかけで行われた研究会議Michel Foucault philosopheに参加した際に、「生死の彼岸――フーコーによるポスト・アウシュヴィッツの倫理について」というテーマで発表を行った。
  


おそらく、バーナウアーが言いたいことは、今日書いたブログとそのタイトルにすべてこめられていると思う。


読んだ本
原発危機 官邸からの証言
福山哲郎
ちくま新書
2012年8月

ひとことコメント
何が正しいのか、正しかったのか、どうすべきだったのか、唯一の答えなどない。しかし、それぞれの立場の言い分をきちんと聞くことは重要である。官邸の言い分は本書でよく分かった。あとは、斑目、寺沢、各氏と東電の側の言い分(特に武黒)をきちんと聞きたい。


事故当時、内閣官房副長官だった著者の福山氏は、「官邸」の側の一人として、緊迫した日々をすごした。そのときの模様について、議事録がない、という批判も出ているが、彼が書きとめていたノートをもとに、何が起こったのかをふりかったのが、本書である。

最大の論点は、おそらく東電側が「撤退」を申し入れたのに対して、管総理(当時)が怒鳴り散らしたと言われている出来事であろう。

この件に象徴されることとして、福山は、何が問題だったのかを明言している。

まず、ここでやりとりしているのは、二つの組織である。

 官邸 - 東電

しかし、実際には、もう少し複雑で、福島の現場(吉田所長)、東電本店(幹部)、東電から出向している武黒、という三つの存在がある。

つまり、こうである。

 官邸(含:武黒) - 東電本店(幹部) - 現場(吉田所長)

ちなみに、「官邸」とは、主に、以下の人物が含まれている。

 管(総理)
 枝野(官房長官)
 福山(副官房長官)
 細野(補佐官)
 寺田(補佐官)
 海江田(経産大臣)
 斑目(原子力安全委員会・委員長)
 寺坂(原子力安全・保安院・院長)
 武黒(東電) + 補佐役

当初は、官邸(武黒を除く。斑目、寺坂は知っていたのだろうか?)は、東電本店と現場がビデオ会議ができる状態にあることを知らずにいた。つまり、「現場」の様子がまったく把握できず、すべて、東電本店を通じて確認していた。

また、官邸は、東電とのやりとりを、専門家である、斑目、寺坂(そして窓口の武黒)の意見や判断をもとにして、行っている。つまり、東電からみれば、斑目や寺坂の主張も「官邸」であり、さらに言えば窓口の武黒が何かを東電本店に伝える場合、武黒も「官邸」なのである。

本書を読まずしても、「原子力安全・保安院」そして「原子力安全委員会」というものが、なんら機能しなかったことを、私たちはよく知っているが、本書を読んでいると、この二つの組織とその代表者に対しては、言いえぬ怒りが湧いてくる。

あなた方は、何のために、そこにいたのですか、と。

一方で、私たちが記憶している官邸への非難の数々があった。そのうち、たとえば、炉心溶融の疑いがもたれてから緊急事態宣言が出るまでのあいだに、党首会談に管が向かったことで遅れた、というものがあった。

これにたいしては、要するに、即断即決するための情報が十分ではなく、少し情報を集める時間を必要としたのであり、野党党首には当時の事態を説明して5分で切り上げてきた、と福山は述べている。

寺坂(保安院院長)は、管に「要領を得ない説明」(28ページ)しか提供できなかったと福山は書いている。

また、最初に、電源車の確保を必要とした際に、官邸がつきっきりで対応にあたったのが、震災全体の救援活動などに悪い影響を及ぼしたという批判も当時あった。


これについても同様に、保安院が経産省を通じて手配すべきところを、「保安院にはこの非常時に臨んで、自ら積極的に事に当たろうという姿勢は見られなかった」(34ページ)ようだ。

保安院がまったく機能しないために、官邸がやるしかなかった、ということになる。

間接的な言い方だが、次のようにも述べている。

「この事態下に地蔵のように動かない居合わせた技術系トップたちの有様に、「国としてどうなのかとぞっとした」(36ページ、下村内閣審議官のツイートより)

もちろん「地蔵のように動かない」のは、寺坂、斑目、(そして武黒)のことである。

彼らは専門家としての役割と責任があって、そこにいたのではなかったのか? 私は愕然とする。


ところで先日私は、科学技術というものの、その発見と応用の歴史に対して、皮肉をこめて感嘆してみた。

こうした記述を読むと、本当に悲しくなる。この人たちは、一体何のために、そこにいたのか。何のために「専門家」という肩書と収入を保持していると思っていたのだろうか。とりあえず、金(=報酬)返せ、の世界である。

しかもこの電源車は、接続プラグのスペックがあわないなどの理由で、まったく使えなかった。官邸は、東電の依頼を受けて全国から電源車を集めたが、それはまったく無意味になってしまう。

そうこうしているうちに電源喪失からかなり時間が経過し、危険な状態になることが予想されるに至る。

官邸では、斑目がベントの必要性を説明する。しかし福島の事態がどういう結果をもたらしうるのかを寺坂も斑目も十分に答えられない。つまり、責任をもって予測できない。

「しかし、明瞭な答えは返ってこなかった。私たちはいらついた。」(45ページ)

そしていつのまにか、寺坂がいなくなり、かわりに、保安院から平岡次長がやってきて、ベントの説明を行う。これに対して、東電の状況を確認したうえで、武黒は、「2時間で可能」と述べる。整理するとこうなる。

斑目 ベントの必要性を主張
平岡 炉心溶融までのプロセスを説明
武黒 東電にたいしてベント実行の確認

3人の専門家は、こうした行為を行った。これを受けて、このあと枝野の記者会見が行われ、そこで私たち国民は、原発が相当深刻な状況に陥っていることを知る。

しかもこの間に、長野で震度6弱の地震が起こる。東北だけではない。他にもまだ起こるのだろうか。対応する側は、与えられたことだけではなく起こりうることも想定しつつ判断をしている。福山は、このときがもっとも、強い「危機感」をおぼえたという。

1時間後には現地とも連絡がとれ、事態がある程度見通しがみえたところで、すでにベントの時間がすぎていることを思い出し、福山は武黒に確認をする。

その答えは、「まだ終わっていません」だった。

そのあとの会議で、斑目に爆発の可能性を尋ねても、のらりくらり。こんな状態で大丈夫か。

「(可能性は)ゼロではない」といったあいまいな答えがかえってくるばかりだった。」(57ページ)

万事がこの調子である。そこで、ついに福山は、こう、結論づける。

「「彼らの言葉を全面的に信用すれば、重大な判断を誤ることになる」と考えるようになった」(61ページ)

こう思った瞬間にチームワークは破綻である。ゲームオーバー。


さて、先ほど、「官邸」がやりとりしている相手を、「東電本店」(東電幹部)と書いたが、実は、この時点までは、勝俣会長、清水社長は、本店には入っていなったのである。一体どういう組織なのだろうか。

また、この時点で、ようやく、最初に書いた構図に、官邸は気づき、直接「現場」とコンタクトをとろうとしはじめる。

 官邸(含:武黒) - 東電本店(幹部、しかも会長、社長はいなかった) - 現場(吉田所長)

これが、もっとも当時マスコミが騒いだ、管の現地視察の発端である。私たちが分かるのは、いかに官邸が、武黒と、東電本店という二重のバイアスを経ることに、辟易したか、である。

これは、現場の状況や判断が官邸に入る場合と、逆に、官邸からのメッセージが現場に伝わる場合において、発生していたわけである。

このあとも、原発から白煙があがり、その後水素爆発を起こした際も、斑目は何も対応できずに、「あいまいな推測に終始」(74ページ)しかできなかった。

斑目の認識では、原発で水素爆発は起こらない、と考えられていた。しかし、あっけなく現実は悲惨な状況に至っている。斑目は、一体どういう専門性を担っていたというのだろうか。

あのときの記者会見、私は今でも覚えている。

枝野は「何らかの爆発的事象があった」と述べた。

東電も、斑目、保安院もみな、何ら情報が出せないなか、枝野は、苦肉の策で「事象」という言葉を使った。これがかえって、何かを隠していたと疑われることになる。

私も、何かある、と思った。何かを隠している、と思った。こうして、ふたをあけてみたら、隠すものさえなく、事態を把握できていなかったということを知り、より一層絶望的な気分になる。

そのあとの、海水注入の実施に対しても、マスコミなどで「官邸」が一時中断させた、という批判があったことについても、福山は釈明する。先ほどの構図による弊害が表れていた、というのである。

大事なのは、ここで言う「官邸」は、武黒の指示だった、ということである。保安院、安全委員会はさておき、武黒の指示は、東電の指示であろう。何たることだとう。

ただし、あえて公平に言えば、東電側にも、言い訳があるはずである。

是非とも私としては、武黒の弁明も伺いたい。

一人ひとり、あのとき誰が、どういう思いでいたのか、それを本人たちは、釈明してよい。

私は一人の説明だけを聞きたいわけではない。


言い忘れたが、この原発事故は、チェルノブイリよりも深刻なのは、単なる結果ではなく、1機だけではなく、同時多発的に起こったことにおいて、未曾有であったことだ。このことは、忘れてはならない。人が誰も死んでいないから大丈夫などと言う人間は、このことを是非、思いだすべきである。一基の対処だけでも大変なのに、本当によくあのくらいで食い止められたものだと思う。

もちろん、あのとき、専門家であったとしても、判断はとても困難であったことだろう。その苦労はねぎらいたい。しかし、だからこそ、だからこそ、専門家が、ふんばるのはそこだったのではないだろうか。


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原子力発電所の事故に対して、私たちが何とも言えない困惑を抱くのは、何と言ってもその「不可視性」ゆえである。

何も、東電や保安院、官僚、政治家たちだけではない、あらゆる人が、この「不可視性」に翻弄される。

目に見えず、「実体」がよく分からない対象。「対象」と呼ぶことさえも困難なもの。

とりあえず私たちはそれを「放射能」と呼ぶことで、「対象」化させ、(少しだけ)安心する。

ガイガーカウンターやシンチレーションカウンターにおいて「数値」としてのみ、出現するその「姿」。

いや、数字でしか現れない「対象」を、私たちは「対象」と呼んでよいものだろうか。

どうしても西洋哲学を学んできた人間にとって、「対象」とは、基本的に、可視化されたものだと思ってしまう。

それは、17世紀にルネ・デカルトが、全面的な懐疑のはてに見出した「私が思考している」という事実、もしくは、「思考する我」が「在る」という発見に由来する。

「思考する我」が「在る」ことが確かであるからこそ、これを「主体」と呼び、この「主体」によって、さまざまな「対象」を観察することができる。

科学者は、自然などの「対象」を観察して、その様子を把握し、その結果を応用して、さまざまな技術的発明を生み出してきた。

たとえば、顕微鏡でのぞいて見出される微生物は、裸眼では確認できないかもしれない。しかし、それらは確かにそこに「在る」と私たちは確信できる。それは、生きものとして、形あるものとして判断され、疑問の余地はない。

また、天体望遠鏡でのぞいて見出される、はるか彼方の恒星は、もちろんこれも裸眼ではただの「星」にしか見えない。しかし、それらもおそらく太陽と同じようにそこに「在る」と私たちは考えることができる。それは、天体として、形あるものとして判断され、疑問の余地はない。

しかしこれがもう一段奥にまで入ると、どうであろうか。

細胞レベルにおいても、それが「在る」と言うだろうか。さらには、それを構成する分子、原子レベルにおいても、「在る」という言葉が使えるだろうか。

天体においても同様である。太陽系程度の星の集合体であればまだ「在る」と言えるが、星雲に至っては、「在る」と言い切れるだろうか。

こうしたことは、その「対象」そのものの曖昧さではなく、その「対象」をとらえようとする「主体」と「対象」との距離感と可視性に由来するように思われる。

スケールをそこに持ち込めなくなっている。

こういうとき、よく等身大という言葉を使うが、要するに「主体」が「可視化=可知化」できない「対象」は、「対象」としての意味をなさなくなるのである。

おそらくそうした考えが、私たちの日常を支えている。

自然科学が、驚異的であるのは、こうした
可知性という、人間の知性の基本的な枠組みを突き破って、不可視なもの、不可知なものであっても、実際に「技術化」し、すんなりと生活のなかに内化させてきたからである。

これが哲学や人文諸科学であれば、単に「抽象度」が高い、という話であるが、自然科学がはたしたことは、抽象度が高く、かつ、その抽象性が、現実的な「威力」や「効果」をもってきたのである。

20世紀の自然科学は、本当に、凄まじい。

もちろんここで言っているのは、原子力発電のことでだけではない。DNAも、電波も、光も、その他さまざまな自然科学的「対象」の発見と技術的活用はいずれも、大いなる不思議さに包まれている。

とりわけ、今の私が見出しているなかで、もっとも抽象性が高く、もっとも見事だと思うのは、「波動」という観念である。

もっとも可視的に言えば、「波」である。

電波であり、電磁波であり、放射線である。

「波」とは、物質を最小化していった先に、何があるのか、という問いに答えるものである。

古代ギリシア以来、哲学は物質の根源、
最小単位を「アトム」と呼んできた。

しかしこの「アトム」は、元素から分子、そして「原子」の発見までが同じ抽象度であったとしても、それ以降、原子核や電子、陽子、中性子といった「ヌクレア」の領域に至り、さらなる
抽象度に入っていった、と言える。

つまり、「粒子」の彼方には、「波動」があるのである。

力であり、エネルギーであり、軌跡、痕跡、である。

そう考えると、デモクリトス(古代ギリシア哲学)からデカルト(近代哲学)に至って形成されてきた、哲学の認識の次元は、その先も、あまり大きな変化はない。つまり、「波動」をとらえられていない。

これは、哲学が、人間という「主体」をなくしては語れない(語りたくない)というジレンマからやってきていると思われる。

一方自然科学者は、「存在」よりも、数式においてのみ現れる「対象」を探究しようとする。

つまり、「存在」を問うこと、このことをやめないかぎり、「波動」には行きつかないのである。

しかし、哲学は「存在」を問うことを、やめることはできない。おそらくそれは、「哲学」の「終焉」を意味するからだ。

もちろん、ライプニッツの「モナド」、フロイトの「リビドー」、メルロ=ポンティの「間主観性」、フーコーの「知/力」、ドゥルーズの「器官なき身体」、こうした概念は、この「終焉」に向けての蠢きであるかもしれず、まったくそうした気配がないわけではない。

また、カッシーラがこうした自然科学の認識の変化を
「実体」概念から「関数」概念への移行としてとらえているように、自然科学で起こっていることを、まったく分かっていないわけでもない。

しかし、にもかからわず、「波動」の哲学は、生まれ、育つのであろうか。

それともすでに、私のような人間は廃れ、いつのまにか、「存在」よりも「波動」を注視するような「哲学」が支持されているのかもしれない。

いや、それはすでに「哲学」と呼ばない。もしかすると、たとえばここ数年、学生のなかに「スピリチュアル」なものを重視する人たちがいたが、この「スピリチュアル」とは、まさしく「波動」の思考が生みだした結果なのであろうか・・・


原子力発電所の事故は、こうして、自然科学に疎い私たちにさえ、あらためて、さまざまな本質的な問いをつきつけるのである。

存在を問う以上、哲学は波動を問えないのかもしれない。しかし、原発事故を問うためには波動をも問わねばならない。


量子力学 (1) (物理学大系―基礎物理篇)/朝永 振一郎
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量子力学の哲学――非実在性・非局所性・粒子と波の二重性 (講談社現代新書)/森田 邦久
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電気通信関連の仕事をしていた亡き義父の蔵書から、興味深い冊子が出てきた。

読んだ冊子
無線春秋――若き日のことども 第2集
春秋会
1988年4月

奥付をみると、春秋会というのは、「電波技術協会」という組織にかかわる、電気通信関連の仕事をしている人たちの親睦会の名称のようである。

網島毅という人が書いている「序」によれば、この会は大正期より創設されたとのこと。執筆者もその頃の思い出を書かれていたり、玉音放送の準備をした話とか、パレスチナゲリラに監禁されたとか、テレビ放送開始についてとか、会員の方の仕事にまつわる秘話集、エピソード集のような感じと言えばよいであろうか。

詳しいことは分からないが、執筆している人たちは、郵政、NTT、KDD、NHKなどに所属していたようで、少し読んでみると、いくつか、興味深い内容があった。

「戦後の無線の思い出、特に正力旋風とマイクロ波」林新二
「越中島の頃」浅野俊夫

いずれも、正力松太郎、にかかわる記述である。

正力と言えば、中曽根康弘と並んで、原発を日本に積極的に導入した張本人の1人として、「悪名」高い。

しかし彼の「業績」は、それだけではなかった。電気通信関連においても、「活躍」していたのだった。

1954年、正力は、「マウンテントップ方式によるマイクロ波回線計画」というものを、提案した。

「論旨は、米国から1000万ドル相当の機材の貸与を受け、国内でそれと同額の工事費を使い、都合2000万ドル相当額の費用でマイクロ回線網を日本国内に行き渡らせることができる、いわゆるマウンテントップ方式を実現させたいということであった。」

Wikipediaによれば、正力は、1945年にA級戦犯として巣鴨拘置所に収容され、1946年1月には公職追放、1947年9月に不起訴、釈放され、1950年には読売新聞を株式会社化し、1952年には日本テレビをたちあげ社長となり翌年1953年8月には本放送を開始させている。

浅野氏によれば正力と面談した際、彼は「今まで手掛けた事業は、野球、TVほかすべてが成功しているので、このマイクロ波通信計画も成功は間違いない」と豪語したようである。

ラジオやテレビ、電話など、公衆電気通信事業は、
今でこそ、海外の企業も参入できるようになったが、1985年4月に施行された電気通信事業法による通信業の自由化以前は、電電公社やNHKがそうであったように、逓信省以来「国営」「国策」が基本だった。

そういった状況において、正力は、一私企業である日本テレビの社長として、国に対して、米国の資本も使いつつ、通信網の利用をセールスしたのであった。

今ならば、それほど違和感がないかもしれないが、1950年代において、当時の電電公社の人びとなどにとってみれば、正力が持ち込んだ案件は、まさしく「黒船」であり、多くの人が反対したようである。

これは後に、「正力マイクロ波事件」と呼ばれることになる。

Wikipediaにも詳しくは書かれていないが、正力がこの話をしたのは、実は、防衛庁だったのだ。

浅野氏は、この防衛庁において、当時、通信を担当していたのである。

正力がどういう理由で自分たちが使うマイクロ回線網を国にも使わせようとしたのか、どのくらい米国からの提案があったのか、詳しいことは闇のなかであるが、少なくとも、正力は、防衛庁の防衛通信にも、この米国産の機器を使ってほしいとセールスをしたことは間違いない。

浅野氏によれば、当時の防衛庁長官である山本氏が正力と学友で、しかも剣道部仲間だということで、この正力案に賛同を示していた。

しかし、通信担当の浅野氏は、電波監理局の意向をふまえて、この案に反対であったようだ。

山本長官は通信には明るくなく、通信の問題は浅野氏が、責任をもって対応することとなって、正力に面談を求め意向を確認したところ、冒頭の文章のような提案を受けたという。

逆に、林氏は、「正力さんの構想の着眼点の偉大さと抜群の政治力、には敬意を表した」とむしろ、先見の明を高く評価している。そして、実際にこの「旋風」を逆利用して「塞栓事業の電電公社に始めて現れた競争として、電電の関係者はこれを上手に利用して、全国マイクロ網の建設を促進したのである。昭和33年田中角栄郵政大臣のテレビ局大量免許が更に促進剤となって、日本のマイクロ波技術の躍進、テレビ産業の発展へとつながり、日本のエレクトロニクス発展の端緒となった」と言う。

つまり、電電公社側からみれば、正力はよそもので、たとえ、新聞、テレビに影響力があっても、自分たちの砦に入りこませたくない、という思いだったようにも受け取れる。

結果的には、この計画は、正力の思惑通りには行かなかった。

「衆参両院の委員会の決議などもあり実現しなかった」と浅野氏は書いている。

その背景には、どうやら「怪文書」というものが出回ったようで、以下のような趣旨であったことが、当時の国会の議事録から分かる。

・この計画は、日本テレビの赤字経営に資本を補填するためのものだ
・この通信網は、在留米軍のために役立てられるものだ
・この計画が通ると、言論界も、軍事も、政権も、正力の掌中に収まってしまう

第018回国会 電気通信委員会 第4号
昭和二十八年十二月七日(月曜日)

とりわけ最後のところが、多くの人が、おそれたのではないかと思う。しかしうわべは、二番目の問題とからみ、通信に関するインフラを外国に依存したくないということを前面に出している。

こうした、通信をめぐる正力のやり方をふりかえってみると、その後、彼が日本に原発をもちこんだやり方もほぼ同じような流れにあることが分かる。

しかも、彼はその頃には、「政治」への介入ができるように、国会議員になっている。通信での失敗を生かしたというようにとらえることができる。

さらに、興味深いのは、正力は、この「マウンテントップ方式マイクロ波通信網」にしても「原発」にしても、技術的なことは、一切理解していないという点である。

にもかかわらず、強引すぎるくらいに「セールス」していたのは、どういった意欲であったのだろうか。

彼がCIAの工作員であったことは、すでによく知られているが、実際のところ、何を工作していたのだろうか。単純に、たとえば、「マウンテントップ方式のマイクロ波通信網」や「原発」を日本に導入することが、米国の利益になることだった、というだけで片付くはずがない。

あらためて、この国の「戦後」が問われる。


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読んだ本
事物の本性について
ルクレティウス
岩田一義、藤沢令夫訳

所収
ウェルギリウス ルクレティウス 世界古典文学全集 第21巻
泉井久之助、岩田一義、藤沢令夫訳
筑摩書房
1965年

ひとことコメント
表題にもあるとおり、ルクレティウス(そしてエピクロス)のアトム論は、単に物質の原理を語るような宇宙観で終わらずに、そこに人間観が入っている。私たちの社会にあるアトムを利用した発電所には、人間観があるのだろうか。

****

よく知られているように、古代ローマの哲学者であるルクレティウスは、古代ギリシアの哲学者であるエピクロスのアトム論を近世に継承する媒体役となった。

ルクレティウスが「事物の本性について」で展開する内容、とりわけアトム論がどこまでエピクロスと同一なのか、気になるところであるが、一般的には両者は、ほぼ同一、もしくは同一の方向性をもったものだと言われている。

ただ、もっと大きな違いは、記述の仕方であろうと思われる。エピクロスの書いたものを私はよく知らないので、単純な比較はできないが、少なくとも、ルクレティウスの記述は、プラトンの対話編やアリストテレスの形而上学のような体裁ではなく、叙事詩のような体裁をもっている。

宇宙がどのような原理でつくられ、そういった構造や本性を持っているのかを、ルクレティウスは、説明するのでも、論証するのでもなく、歌いあげているのである。

まず、「無」ということが否定される。何もないところからは、何もうまれないからである。これを根本的な原則として、アトムと空虚という二つから世界は構成されているとする。つまり、通常私たちが言う「無」とは、「空虚」ということになる。アトム論と言った場合、そうしても「有」だけに目が言ってしまうが、正確には、「有」と有のない状態である「空虚」の二つが根本原理であるということを、忘れてはならない。

この、「アトム」と「空虚」という二つの根本原理を出発点にして、そこからあらゆるものが発生する。ルクレティウスは、生命や精神、感覚として世界や天空地上のさまざまな現象について述べている。

しかも同時に、ここでは、重要なこととして、ただ宇宙論的な「説明」を行っているのではなく、そこに人間観というべきものが含まれている。

「それゆえ精神のこの恐怖と暗黒を追いはらうものは、
 太陽の光線でも白日のきらめく矢でもなくて、
 ただ自然の形象と理法でなければならない。」
 (1巻146-8、ほか3カ所で繰り返される)

つまり、ルクレティウスは、エピクロスの考えを踏襲し、心の安定した状態すなわちアタラクシアをつくりだすうえで、宇宙や自然の神秘を明らかにしておくことが、重要だ、ととらえたのだった。

言わば、アトム論とは、世界の基本単位としての「アトム」と「虚空」をうちたてるだけでなく、自分たちが生きてゆくうえでの「足場」となるものであり、心の支えでもあったのだ。

以下、いくつか、ルクレティウスの「アトム」にかかわる文章を抜き出してみよう。

第1巻 56行~61行
「その根源から自然は万物を生み、育て、太らせ、
その根源へと自然は、事物が滅びるにあたってこれを分解する。
その根源を私たちは、これから展開しようとする教えの中で、
物の素材とか生成の元とか物の種子とか呼び、
そのものをまた基体物体と名づける習わしである。
なぜならこれらのものを元にして万物は生じるのだから。」

196行~198行
「それゆえ元素もなしに物が存在できると考えるよりも、
言葉に字母があるように、多数の物に
共通な多くの物体があると考える方がまさっている。」

215行~216行
「これにくわえて、自然は各々の物をその元素に再び
分解するだけで、物を消滅させて無に返すことはない。」

418行~421行
「全自然は、それだけで独立にあるものとしては、二つのものから
なりたっている。すなわち、一つは物体、非当は虚空であり、
前者は後者の中に置かれ、そこにおいて様々に運動する。」

480行~481行
「物体のうちで、そのあるものは物の元素(アトム)であり、
他のものは元素の結合によって構成されたものである。」

ここには単なる物質観があるのではなく、宇宙観や死生観がある。「無」や「消滅」ということは、本当はなく、ただ、元素に分解され、また別の形をとってこの世に存在するという考えである。もちろん、キリスト教的な死生観とも全く異なるので、この後、こうしたルクレティウスの思想は封印されることになる。

私たちが「原子」「アトム」と呼ぶとき、いつのまにか「物体」というものを想定しているが、少なくとも古代ギリシアにおいては「アトム」という「名詞」が存在しなかったことには、注意を向けるべきだろう。これは私の学生から教わったのだが、たとえばわずかな断片緑として残っているデモクリトスの記述には、「アトモン」という形容詞があるばかりで、「不-可分の」様子があるだけなのである。

しかしルクレティウスはこれを「名詞化」しているのである。といっても「アトム」という語を用いているわけではない。先ほど引用した文章にあった「元素」や「アトム」というのは、プリモルディア、プリンキピア、セミナ・エレメンタ、マテリーズ、コルポラ、コルポラ・プリマ、ゲニタリア・コルポラといった多様な語彙が用いられているのである。

いずれにせよ、ラテン語のこれらの語彙においてイメージされているのは、物質、物体であり、細かな「粒」であるが、現代物理学は実はこのアトム論を一歩進み出て、量子力学に至っている。

すでに「原子核」と「電子」の「存在」、さらには、原子核内の陽子と中性子の「存在」を見出しつつも、それを単に「粒子」とのみみなさず、同時に「波動」ととらえることができた時点で、原子エネルギーの解放が可能となったのであるから、きわめて厳密に言えば、古代ギリシアから古代ローマ時代まで継承されてきたアトム論は、すでに乗り越えられているという言い方ができるかもしれない。

しかしまた、先ほど述べたように、アトムを名詞ととらず「不可分割なるもの」すなわちアトモンとして考え続けてきたことから言えば、ようやく2000年以上の時を経て、アトム論が「論」ではなく、「技術」として、介入しうる対象となったとも言えるだろう。

しかし、万物の根源には、こうした「アトム」だけではなく、「虚空」も併存していることを、忘れてはならない。

この場合、「虚空」とは、二進法における「0」もしくは電源で言うところの「オフ」であるかもしれないが、そうではないのかもしれない。

たとえば、すさまじいエネルギーが隠されていたウラニウムやプルトニウムのアトムが、私たちに、絶対的な「無」や「死」をもたらしたのは、この「虚空」のためだったのではないだろうか。




物の本質について (岩波文庫 青 605-1)/ルクレーティウス

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ルクレティウスのテキストにおける物理学の誕生 (叢書・ウニベルシタス)/ミッシェル セール
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読んだ本
アインシュタイン平和書簡3
ネーサン、ノーデン編
金子敏男訳
みすず書房
1977年2月

ひとこと感想
アインシュタインは最後まで自らの戦闘的平和主義を変えなかった。偉大な物理学者が、不幸にも緊迫した国際「政治」問題をかかえてしまったが、彼の選んだ道は、決して誤りだったわけではないだろう。むしろ周囲の人間が過剰に彼に期待しすぎたのであり、依存しすぎであったのではないか。

******

以前書いたように、アインシュタインは、1922年に船で日本を訪れた。とてもよい印象をもったようだ。

また、雑誌「改造」の出版記念号(1934年)には、1922年に出会った誰かがかかわっていたのだろうか、挨拶文を送っている。

そのあと、アジア情勢があやしくなってゆくなかで、アインシュタインは、ヒトラーが行っていることと同じ方向を感じとり、やや非難がましいような残念なような口調で、日本の軍事行動に対して嫌悪感を表していた。

そして、1945年、広島に原爆が落とされたことを知ったとき、「ああ、なんという・・・」とただ呻くことしかできなかった、と言われている。

その後、原爆投下について、何らかの発言があるかと思いきや、本書のなかでなかなか登場してこなかったのだが、第3巻の後半において、ほぼ1章の半分ほどが、原爆ならびに日本にかんする発言(書簡)が集められていた。

1947年3月、来日時の船中で病気になったときに助けられた三宅医師の墓碑銘をドイツ語で贈った。

1947年6月、同じく来日時の通訳を務めた稲垣氏に手紙を書いている。その一節にこうある。

「攻撃兵器の信じ難い発展の結果生まれた危険が、責任ある人々の本質的な変革をもたらしてもよかろうと、考えてもよいかに思われました。しかしこのような希望は、当にならぬことが証明されたのです。」(680ページ)

かたい訳である。つまり、原爆が実際に使えるようになったとしても、それを実際に使用するというようなことは、起こりえない、と彼は信じていた、ということであろう。

よく言えば、人間の理性を期待していた、ということであるが、やはり基本的に彼は、楽天的にものごとを考える傾向があるように、私には見える。

そのあと、1948年に、新春の挨拶文が朝日新聞に掲載されるが、ここでは、世界政府の必要性については述べられているが、それ以上ふみこんでいない。

この時期はまだGHQ統治下にあるので、原爆投下に関して米国を非難するような内容を書いたとしても、削除されるか不掲載になったので、自粛したのかもしれない。

このような「沈黙」を破ったのは、先述の雑誌「改造」である。「改造」の編集長である原勝氏は、ようやく国内で原爆に関する情報解禁がなされたあとの1952年9月15日にアインシュタインにかなり厳しい内容の手紙を送っている。

その最大のものは、以下の一文である。

「あなたは何故、原子爆弾の凄まじい破壊力を十分に御存知でありながら、その製造に協力なさったのですか。」(681ページ)

アインシュタインはおそらく受け取ってその日のうちに返事を書いたと思われる。日付は、9月20日となっている。その内容を要約すると以下のようになる(翻訳がかたすぎるので、引用しない)。

・原爆製造に関して自分が加担したのは、
原爆製造の実験を試みるべきだという内容の、大統領への手紙への署名だけである

・原爆製造が、人類にとって大変な脅威であることは、十分に理解していた

・しかし当時ドイツの動向を考えると、彼らより先に原爆を製造するということは、ほかに代えがたい選択肢だったと考える

・もし次の大きな戦争が起こってしまったら、それは全面殺戮になる可能性が高い

・この動きには、徹底して反対をすべきである

・その見本は、ガンジーである

この返事に対して、翻訳を担当していた篠原正瑛氏は、強く反発をする。

アインシュタインが大統領への手紙に署名したのは、単にドイツの脅威だけではなく、ユダヤ人を差別し迫害するナチスへの復讐なのではないか、という考えである。

1953年1月5日付けで篠原から送られてきた手紙に、2月22日、アインシュタインは返事を書く。

ここでは、あらためて、当時から変わらない自分の考えを述べている。

平和主義とは、無条件のものではなく、暴力に対してやむを得なく暴力で対抗せざるをえないときがある、という類のものだ、というのが、アインシュタインの考えである。

「私の見解では、暴力を用いうることが必要となる条件があるのです。その場合がおとずれるのは、私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺害することである場合です。しかし他のいかなる場合にも、国の間の紛争の危機に際して、暴力の使用を、私は不正であり有害であると思います。」(683ページ)

[訳が少々おかしい。
半ばの文章は、「私の敵が、私と私の家族を殺害しようとする場合は、無条件に暴力を用いるでしょう」という意味あいであろう。]

篠原氏は、さらに6月18日に反論を書いている。彼は問題は、その原爆が広島と長崎に落とされたという事実に基づいている。原爆の使用を結局はアインシュタインは受け入れていたのではないか、と考えたのだ。

これに対して6月23日アインシュタインの返事はこうである。この文がもっともはっきりと彼の考えを述べているように思われる。

「あらゆる場合に私は暴力に反対します。但し、敵対者が生命の抹殺を自己目的として意図している場合は、別です。日本に対する原子爆弾の利用を、私は常に有罪だと判定しています。しかし私はこの宿命的な決定を阻止すべく殆ど何事もできませんでした――日本人の朝鮮や中国での行為に対して、あなたが責任があるとされうるのと同じ程に、少ししかできなかったのです。
 ドイツ人に対する原爆の使用を、是認するというようなことを、私は主張したことはありません。しかしヒトラー治下のドイツだけがこの武器を所有することは、無条件に阻止しなければならないと、私は信じていました。」
(684-685ページ)
 
責任。科学者の責任。アインシュタインという偉大なる物理学者の、原爆製造ならびにその被害に対する責任。

アインシュタインは、自分自身の「責任」というものを、そのようには考えていなかった。

むしろ彼の「責任」は、ドイツのみが原爆を所持するような現実を阻止することにあった。

この「ずれ」こそが、議論すべき焦点であろう。

アインシュタインからみれば、自分が米国による原爆製造ならびにその原爆による実際的な無差別殺戮の実行に責任をとる必要があるのならば、あなたがた日本人もまた、アジア諸国に行った蛮行への責任をとらねばならない、ということにならないか、と言いたそうである。

もちろんこれは「原爆の父」というイメージをもつアインシュタインだからこそ、問われる問いであって、米国市民、日本国市民のだれもが同じようには責任は問われえないのだが、どうも、アインシュタインの意識においては、自分が何を求められているのかについて、無頓着であるようにも思える。

ちなみにこのアインシュタインの手紙の末尾の「追伸」には、やや強い口調で次のように書き添えられている。

「他人とその行為については、十分の情報を入手されて後、始めて意見を形成されるよう、努力なさるべきでありましょう。」(685ページ)

私たちの意識のなかでは、アインシュタインは、理論的に原爆の原理にかかわる部分の解明をしただけでなく、実際の原爆製造に対しても、大統領への助言に賛同するなど、一定程度以上の寄与をした、と理解されているが、彼にとっては、後者は、自分がしたことは正当であって、実際に開発や投下に対しては、別の人間たちの責任である、という思いにあるのだ。

全面的に彼だけを非難することには、何の意味もないことは確かである。しかし、この点は、かなりこだわっておくことは、大切なことだ。

確かに私たちは、過剰に彼に期待しすぎている。

「天才」であるにもかかわらず、こんなことでいいのか、
と私たちは彼に問いかけ、彼ならば、人間離れした発想や行動をとってくれるのではないか、と期待してしまっている。

これは、よくない。

1人の人間に責任をおしつけて、そうすることで安心してしまい、他のことをみないようにしているのかもしれない。

彼の考え抜いたうえでの、解決策、つまり、すでに生み出されてしまったものとしての原爆をかかえた世界で、どうやってこの原爆による被害を出さないようにするのか、は、世界政府の樹立とそこでの管理、ということであった。

彼の生涯は、ほぼこの考えにおいて一貫している。

このことに、敬意を表するほかない。

だから、聞くべきことは、そうした直接的で非難めいた内容ではなく、たとえば次のような前提である。すなわち、科学技術がもたらす負の部分に対する責任は、科学者による理論的発見にも及ぶのでしょうか、どうお考えでしょう、アインシュタインさん、といった具合であろうか。

おそらく彼は、「科学者は、そうした責任は負いません」というに違いない(もっと厳密に言えば、科学者だけが負うものではありません、ということである)。

これは、吉本隆明が言う、科学技術の発展は誰も止められない、という「信念」と相通じている。

科学によって生み出された被害や失敗などは、どういった責任=対応をとればよいのか。吉本の言うような、ただ、「科学技術の問題は科学技術で解決するほかない」ということだけでよいのか。

私たちの心根には、おそらく科学技術への憎悪がある。それは認めよう。しかしその「嫌悪」と、アインシュタインや吉本のような「好意」は、ほぼ同じ程度に、素朴な心情にすぎないようにも思える。

つまり、科学技術主義においても、嫌悪派と同じくらい、ただそう思っているにすぎない、「信念」のようなものでしかないのではないか。

信念は理屈ではないので、議論がしにくい。

むしろ異なる信念どうしは、厳しく対立したまま、和解や妥協点などを探るのが困難である。

こうした場合、ここで再び「異人歓待論」を持ち出せば、こうした「信念」の対立が生まれたとき、力にまかせて相手を屈服させるなどして自分の「信念」の側に引き入れるのではなく、対立したまま、対立することを前提にしつつも、他者を招き入れる、そうした共生の可能性を探る、というのが、今私に言える方向性のすべてである。

アインシュタインや吉本といった、信念の異なる他者を、批判も否定もせずに、そのものとして、全面的に受け入れ、そのうえで、他者とともに生きることを模索することになるだろう。

なお、1955年3月19日、亡くなる1か月前にフランスのジュール・イサックが再び、科学的発見の責任について問いかけている。

「あなたは、あの時原子爆弾の開発を、予見しなければならなかった筈だと、考えておられます。しかしそれは可能ではなかったのです。その訳は「連鎖反応」開発の可能性は実験上の事実に基づいており、当時予感できなかったのです。」(721ページ)

そして、よく知られているように、彼の最後の署名、最後の手紙は、1955年4月11日付けでバートランド・ラッセルに宛てられた、科学者たちによる原爆反対声明、への賛同を示したものだった。
いわゆる「ラッセル=アインシュタイン宣言」である。

彼亡きあとも、彼の署名は核兵器に対する「否」を訴える運動の推進力となっていった。

今、アインシュタインの「志」は、その「魂」は、どこに鎮座しているのであろうか。


相対性理論 (岩波文庫)/A. アインシュタイン
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読んだ本
アインシュタイン 平和書簡3
ネーサン、ノーデン編
金子敏男訳
みすず書房
1977年2月

ひとこと感想
ようやく3巻読み切った。3巻には訳者あとがきで「正誤表」を入れたとあるが、本書にはなかった。またこれまでの索引が3巻にまとめて付されているのも不便きわまりない。肝心な内容については、明日あらためて書く。今日は、本書の出版社に対する感想である。一体誰を読者「層」として想定したのか、本書の裏表紙にある紹介文を読解してた。
とても大切な内容をもつすばらしい本だと思うが、みすず書房が訴えるような意図には大いなる違和感をもつ本である。


平和書簡の第3巻は、年代としては、1948~55年まで、すなわち亡くなるところまでをたどっている。

確かに、こうしてみると、1914年、つまり、第一次世界大戦から第二次世界大戦を経て、戦後も原水爆禁止運動を支えるなど、一貫して、戦争を拒み、平和を望んでいたアインシュタインの「思い」は、熱く、そして、強い意志に支えられたものだったことがわかる。

その執念は、並ではない。

世の中から戦争がなくなったわけではないし、核兵器が廃絶されたわけでもないが、少なくともアインシュタインは、人類が、原爆のようなすさまじい破壊力をもち無差別にその空間とその存在物に致命的なダメージを与える武器を平然と使おうとするということは、とても愚かしいことなのだ、というメッセージを遺したと思う。

自然科学者の「良心」というのか、それとも、これが「思想」というのか、私にはまだよくわかっていないが、ここまで積極的に社会的な活動に、自らの科学的(理論的)探究と同じように携わってきた科学者は、それだけで、珍しい。

しかし、本書の裏側にある本書の紹介文を読んで、大きく困惑した。

「本書はわが国の平和に関心のある、あらゆる階層の人びとの必読書といえよう。」

違和感を抱いたのは2つある。「わが国」と「あらゆる階層」である。

「わが国の平和に関心のある」という最初の語彙をたどると「わが国の」というのが「平和」にかかっているように読める。しかし、そのあと「人びと」という名詞が来ているので、「わが国の人びと」とかかるようにも読める。あえて二重化させているようにも思えるが、少なくとも「わが国の平和」という言い方は、本書で展開されたアインシュタインの平和観とは相容れないことを指摘したい。

彼が主張した「平和」とは「国家」内の平和ではない。インター・ナショナルつまり、国際的な平和であり、かつ、国家間における平和である。

「平和」とは、国内において生じるものではなく、国家間の争いがないという事態においてはじめて獲得されるものである。

そう考えると、この文章は、おそらく、わが国の人びと」ということを言いたかったのだろう、と譲歩的に理解しておくことも可能ではある。


しかし、もう一点、看過できない問題がある。

この、「わが国の人びと」というのが、実は、「
わが国のあらゆる階層の人びと」なのである。

なぜここに「階層」が出てくるのだろうか。

私が読んだかぎりでは、この本のなかでは、「階層」にかかわる論議は一切ない。

アインシュタインは、何らかの階層に関する意識をもって「平和」に言及したことは、一度たりともない。

にもかかわらず、ここに「階層」を持ち出すのは、完全に出版社側の「意図」であろう。

ではなぜ、みすず書房(の本書を担当した編集もしくは営業の人(たち))は、ここに「階層」という言葉を挿入したのだろうか。

もしくは「階層」という言葉を入れることによって、どういった読者に読んでほしいと思ったのであろうか。

たとえば、ここに、「あらゆる階級の人びと」と書かれていたら、どうであろうか。この場合、すぐに想定できるのは、マルクス主義を信奉している場合や組合活動などで「階級闘争」を日常的に行っている場合である。

「わが国」の「平和」は、「あらゆる階層」において求められている、と、この文章を書いた人は思ったのだろうか。

この場合の「階層」は、「階級」ほどはっきりとした対立構造はもたないものの、何らかの差異をもった社会的集団が、この国には存在し、それは単に「資本家」と「労働者」といった二極対立ではなく、何層かに分かれるような集団であり、そういった人びとに、それぞれの立場をこえて、本書を読んでほしい、そういう思いが、この一文にはこめられているように思われる。

だが、やはり、しっくりこない。

この「階層」とは、たとえば、富裕層、貧困層、中間大衆層という三つの層を指していると考えてみても、あえてなぜ、こうした三層に向けて本書を読むことを勧めるのか、私には理解しかねる。

私なら本書を読んでほしい、と思うのは、まさしく私のような、あまり自然科学になじみのない人間に対して、である。したがって、先ほどの言いまわしは、私ならば、「理工系のみならず、人文社会系の人にも是非とも読んでほしい」ということを想定して書くことになるだろう。

しかし、ちょっと待て。

むしろ、アインシュタインの相対性理論や核物理学、さらには原子力工学などに従事している自然科学者・技術者にこそ、本書を読んでほしい、と「みすず書房」は思ったのだろうか。

これをもって「あらゆる階層」という言葉を使ったのだろうか。

また、もう一つの解釈の可能性がある。

確かに出版界には、「広く読者層を得たい」という言葉がよく用いられる。したがってここで言う「あらゆる階層」というのは「さまざまな読者層」ということを言いたかった、という解釈である。

だが、「さまざまな読者層」とは、具体的には、どういう「層」が想定されているのだろう。

これはおそらく、三つか四つくらいに分けられるもので、研究者や教師、出版界の人など「本を専門的に読む人」と、ふだんまったく本を読まず何か特別なことがあれば年に何冊かは買うという「まったく本を読まない人」は、すぐにカテゴライズできる。

あと、本書の場合は「アインシュタイン」「平和」「物理学」「戦争反対」などのキーワードで本を買う、自然科学系の人か、平和にかかわる社会的活動を行っているか強くこのテーマに関心のある人、こうした、本書の主題とかかわる人、も第三の「層」とみなすこともできよう。

あとは、「中間層」として、ちょっときっかけがあれば、少し硬めの本でも買う意欲のある人を想定してもよいのかもしれない。

たとえば、とりあえず、芥川賞作家の本は一度は買って読んでみる、とか、本屋の平台に高く積まれていたり、ベストセラーにランクインした本は気にする、といったような人。

1)本を専門的に読む人
2)まったく本を読まない人
3)本書の主題とかかわる人
4)中間層

仮説的に、この4つの「層」を、ここでいう「あらゆる階層」と考えてみると、おそらく、みすず書房の方々は、3)ならびに4)の人に、是非とも読んでほしい、と願って「あらゆる階層」と書いたのであろうか。

しかし、それでもなお、疑問は残る。ここには「あらゆる階層の人びと」に本書を読んでほしい、という、ささやかな願望が書かれているのではなく、「必読書」というように、強く迫っている。

要するに、本書を読まずして、「平和」は語れない、アインシュタインや物理学を学んだことにはならない、といったような、気持ちがあふれ出ている。

そこまでの本だろうか、と私は問いたい。「必読書」というのは、まだよい。だが「あらゆる階層の人びとの必読書」というのは、どういった権利があって主張しているのか、私は知りたい。

私は、本書は、あらゆる階層の人びとの必読書、ではない、と思う。

とても大切な内容をもつすばらしい本だと思うが、みすず書房が訴えるような意図には大いなる違和感をもつ本である。

ついつい裏表紙の文章が気になってしまって、本文についてふれることができなかったので、明日あらためて、「広島」やラッセルとの平和運動についてはふれたい。

アインシュタイン平和書簡 3/アルベルト・アインシュタイン

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1930年代から1940年代に入っても、アインシュタインは、基本的な自らの思想的スタンスを変えなかった。

つまり、ファシズムに対しては武力で対抗するほかない、ということだった。

根底には、兵役拒否に基づく反戦行動が世界を平和にする、と考えていたアインシュタインであったが、ヒトラーによる暴挙を目の当たりにして、その考えを変え、兵器をもって戦うべきことを訴えかけた。

また、こうした国際紛争を解決するには、米ソの加盟を前提とした国際機関が必要であることを、たえず主張していた。

アインシュタインは世界中から届く、無名の人たちの手紙を読み、返事として、上記のような内容をくりかえしくりかえし書いた。

今読んでいる「アインシュタイン平和書簡2」は、「平和書簡」と銘うたれていることからも分かるとおり、彼の「平和」に関する言及を中心に文章が構成されている。

そのなかで、とりわけ注意を惹くのは、

第8章 原子時代の誕生 1939-1940
第11章 原子兵器の脅威 1945

である。第8章については、昨日ふれたので、今日は、第11章を中心に考えてみたい。

まずアインシュタインは、自らが当時の大統領に進言したことにより広島、長崎に原爆が投下された、ということについては、多くを語っていない。

むしろ戦後どのように原子エネルギーの研究開発を進めてゆくべきか、にもっとも関心が高かったようにみえる。また、そのための国際機関の創設であった。

「原子エネルギーの解放は、新しい問題を創造した訳ではない。・・・戦争が起こるのは確かだということである。このことは、原子爆弾が造られる以前にも、本当のことであった。変ったのは、戦争の破壊性である。
 ・・・原子爆弾の秘密は世界政府に寄与すべきものである。・・・合衆国と大英国は原子爆弾の秘密を握っており、ソ連邦はそうではないのだから、両国は、計画されている世界政府の憲法草案の準備を公表するに当たって、ソ連邦を招待すべきである。」(409ページ)

これが前半部分の基本的な主張である。そしてこのあと、が重要である。

「私は私自身を原子エネルギー解放の父だとは、考えていない。それにおける私の役割は、全く間接のものであった。事実私は、私の生涯のうちに原子エネルギーが解放されるとは予想しなかった。理論上可能だと考えたにすぎなかった。」(411-412ページ)

この一文から考えられることは、二つある。

1)アインシュタインは、理論にしか興味がない
2)アインシュタインは、理論的発見と、技術的実用は、別のものだと考えている

しかし彼は、政治的実践として、

1)イスラエルの建国
2)世界政府の樹立

を、この時点で願い、さまざまな活動をしている。どうもこの感覚が、私にとってはよくわからない。やはり私にとってアインシュタインは「異人」なのだろうか。

なおこの文章の末尾のほうに、次のようなくだりがある。

「原子エネルギーの解放はなされうるし、疑いもなくなされるだろうが、それによる人類にとっての大きな恵み、これは暫くの間やって来ないかもしれない。」(413ページ)

そう、アインシュタインは、本当に技術的活用には関心がないのであろう。原子力発電のことは、一切ふれられていないのである(もちろんまだこの時点では実用化には至っていないとしても)。

私たちの感覚でいえば、アインシュタインほどの人間であれば、たやすく原子力発電という形での、原子エネルギーの利用について、ある程度想像ができたと思うのだが、どうもそうではないようだ。

しかし同時に、こういう読み方もできる。アインシュタインは、1945年12月10日に、ニューヨークで開催されたノーベル生誕記念晩餐会で次のような発言をしている。

「科学者として、これらの武器によって創り出された危険に対して、われわれは警告を止めてはなりません。」(417ページ)

どうしてここまで言っておきながら、自らの科学的探究の結果発見されたものに対して、十分な注意を払う、という意識をもたないのだろう。私にはわからない。

生み出されてしまってからでは、遅すぎるのではないか。

さらに続けて、こう言う。

「われわれは人類の敵が最初にこの新兵器を完成するのを防ぐため、その創造を支援しました。ナチスの知性にこの兵器が与えられたら、云うべからざる破壊と世界中の全国民の奴隷化をもたらしたでもありましょう。」(417ページ)

広島、長崎の悲劇については、直接的には、語らない。それが、何であったのか、を。文中から読みとれるのは、ナチスほどではないにせよ、非戦闘員が多く住まうかの地への「云うべからざる破壊」が米国によって行われ、その結果、日本中の「全国民の奴隷化をもたらした」のではないか、ということをアインシュタインは何ら気にしていない、ということである。

唯一本書で登場するのは、それから約1年ほどして、ニューヨークタイムズ日曜版のインタビューのなかである。

「広島に対する空襲以前に、指導的な物理学者たちは陸軍省に、無防備の婦人や子供に対してかの爆弾を用いないよう、勧告しました。あの戦争は、それがなくても勝ち得たでしょう。」(451ページ)

自分たちはすべきことは、した、という認識のようである。


以上、第2巻もまた、空振りに終わってしまったようだ。

第3巻には、私と同じような疑問を抱いた人物がいる。次回は、その箇所を中心に検討しようと思う。


なお、前回、書き忘れたが、本書は誤植がいくつかあり気になる。

冒頭の2行目にいきなり句点が2つ打たれている。

「台頭は、、アインシュタインの生活に・・・」

前後に何度も出てくる「ボーア」の名前が1カ所だけ「ボア」になっている(343ページ)

「最も注目すべき貢献をしている一人であるボアに伝えられた。ボーアはすぐさま・・・」

413ページでは「元素」を「原素」としてもいる。

また、翻訳も硬く、直訳調であり、少々苛立たせられる。

「運輸と通信のかかる著しい発展の結果、必然のこととなった利益を確保する為、民主主義の土台に立って組織された一連合体です。」(373ページ)

「大量殺戮用に原子エネルギーを用いることが成功して、突然世界には一つの新しい問題が提起された。この問題に充満している恐るべき内容は、アインシュタインに、人類を破壊と絶命より護る戦後の闘争に当面して、最も活発なある役割を担わせるに至った。」

高校生の英文和訳のような感じである。


***

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アインシュタイン平和書簡 2/アルベルト・アインシュタイン

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読んだ本
アインシュタイン 平和書簡
ネーサン、ノーデン編
金子敏男訳
みすず書房
1975年12月

アインシュタインは長らくのあいだ、「兵役を拒否する」という戦略で、世界の平和を夢みていた。

しかしその夢はヒトラーによって打ち砕かれた。

暴力的に隣国を侵略しようと虎視眈々と狙い、ユダヤ人をしめつけはじめた1933年、アインシュタインはそれまでの自分の考えを翻し、ベルギーやフランスはヒトラーの暴力に対抗すべく兵役は必要だという考えを示した。

「今日の状況下では、私がベルギー人であったら、兵役を拒否せず、ヨーロッパ文明を保持するという意味で、喜んで引き受けるでしょう。」(279ページ)

もちろん「兵役拒否」は完全に放棄したわけではない。一時的な措置とだという。

またここで新たにアインシュタインは、国際警察のような組織の必要性を訴えはじめる。つまり彼の反戦、平和思想は、たとえばガンジーの「非暴力」「不服従」とは異なり、「力」による体制の維持を認めている。

当時の非武装的平和主義者とのあいだで、こうした意見の相違が生まれる。

また、ロマン・ロランもまた、アインシュタインの「転向」に失望した一人であった。

「アインシュタインの知性は、自然科学の領域では天才的であるが、それ以外の一切においては、きわめて脆弱で曖昧、一貫性のないものであることは、私には余りにも明瞭である。」(283ページ)

このあと、1939年までアインシュタインは、「平和や自由はかちとらねばならない」という意識のもとで、数々の書簡を残し、講演原稿を作成し、雑誌や新聞に寄稿する。

ヒトラーによる暴挙に対して、いかにふるまうか、というのは、歴史的な難題であり、今の私たちに当時の彼らの考えや行動を断罪する資格はない。

ヒトラーという物質が吐きだすエネルギーを他の物質に影響させないためには、もっと大きなエネルギーをぶつけるほか、方法はない、と考えるのは、唯一の選択肢であったのかどうか、私にはわからない。

しかしアインシュタインは少なくとも歴史のうねりのなかで、ヒトラーの蛮行に対抗するための、さらなる「力」が必要だ、という意識があったことは疑いえない。

歴史上の表現では、ヒトラーが原爆を使う前になんとかしなければならない、ということであるが、実際に何とかする、というのは、つまり、ドイツに原爆を落とすという可能性も含まれていたように思う。アインシュタインの脳裏にそんな考えがなかったのだろうか。

当の本人は、実際に原子核からエネルギーをとりだすということが、すぐさま可能だとは思っていなかったようなのだ。

なんという楽天家であろうか。

そんな彼がついに現実と向き合ったのは、1939年の初夏。レオ・シラードが彼に原子爆弾の製造に関して相談をもちかけたときだった。

シラードがもっとも懸念したのは、ベルギーが領土としているコンゴには大量のウランがあり、それをヒトラーが狙うかもしれない、ということだった。アインシュタインはベルギーの女王と親しい間柄であるので、このことを進言せねば、とシラードは考えたようだ。

この会合にはもう一人、物理学者が参加している。ユージン・ウィグナーである。彼は同時に、そのコンゴのウランを米国に輸入すべきだと提案した。

また、シラードはたまたまの縁で、
フランクリン・D・ルーズベルトと近しい経済学者アレクサンダー・ザックスにこの話を相談している。ザックスはアインシュタインの手紙をベルギーではなくルーズベルトに送るべきだと考えた。

シラードはこの意見を受け入れ、アインシュタインと会い、大統領に渡す手紙を口頭でドイツ語訳して伝えている。このときの文章をアインシュタインは書きとめている。またその後文章は少しずつ修正されてゆく。

本書ではいくつかのドラフトが掲載されている。

よく知られているように、原爆製造が現実的に可能であること、ドイツも関心をもっているに違いないこと、が書かれている。

実際に大統領の手元にこの手紙が届くには、およそ1ヶ月ほどの間隔があったようだが、それでも大統領はザックスから話をきくやいなや、委員会をたちあげる。

こうして米国は、原爆を製造する道に一気に突入する。

もちろんこれが、アインシュタイン一人によるものではないことは確かであるし、実際それ以降彼は何らかの協力はしたものの、直接的にこの原爆製造のプロジェクト内で活動をしていたわけではなかった。

だが、先述したように、少なくとも彼は、こうした流れに、何ら異論をもっていなかった、ということが重要である。

またしても愚痴になってしまうが、このあと、実はシラードでさえも、この原爆製造プロジェクトの情報が十分に得られなくなる。つまり、軍事機密化したのだ。

その後は、知っての通り、1945年8月に実際に広島と長崎に投下されるに至るが、この1940年からの5年間については、また明日、続きを書きたいと思う。


***

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