読んだ本
事物の本性について
ルクレティウス
岩田一義、藤沢令夫訳

所収
ウェルギリウス ルクレティウス 世界古典文学全集 第21巻
泉井久之助、岩田一義、藤沢令夫訳
筑摩書房
1965年

ひとことコメント
表題にもあるとおり、ルクレティウス(そしてエピクロス)のアトム論は、単に物質の原理を語るような宇宙観で終わらずに、そこに人間観が入っている。私たちの社会にあるアトムを利用した発電所には、人間観があるのだろうか。

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よく知られているように、古代ローマの哲学者であるルクレティウスは、古代ギリシアの哲学者であるエピクロスのアトム論を近世に継承する媒体役となった。

ルクレティウスが「事物の本性について」で展開する内容、とりわけアトム論がどこまでエピクロスと同一なのか、気になるところであるが、一般的には両者は、ほぼ同一、もしくは同一の方向性をもったものだと言われている。

ただ、もっと大きな違いは、記述の仕方であろうと思われる。エピクロスの書いたものを私はよく知らないので、単純な比較はできないが、少なくとも、ルクレティウスの記述は、プラトンの対話編やアリストテレスの形而上学のような体裁ではなく、叙事詩のような体裁をもっている。

宇宙がどのような原理でつくられ、そういった構造や本性を持っているのかを、ルクレティウスは、説明するのでも、論証するのでもなく、歌いあげているのである。

まず、「無」ということが否定される。何もないところからは、何もうまれないからである。これを根本的な原則として、アトムと空虚という二つから世界は構成されているとする。つまり、通常私たちが言う「無」とは、「空虚」ということになる。アトム論と言った場合、そうしても「有」だけに目が言ってしまうが、正確には、「有」と有のない状態である「空虚」の二つが根本原理であるということを、忘れてはならない。

この、「アトム」と「空虚」という二つの根本原理を出発点にして、そこからあらゆるものが発生する。ルクレティウスは、生命や精神、感覚として世界や天空地上のさまざまな現象について述べている。

しかも同時に、ここでは、重要なこととして、ただ宇宙論的な「説明」を行っているのではなく、そこに人間観というべきものが含まれている。

「それゆえ精神のこの恐怖と暗黒を追いはらうものは、
 太陽の光線でも白日のきらめく矢でもなくて、
 ただ自然の形象と理法でなければならない。」
 (1巻146-8、ほか3カ所で繰り返される)

つまり、ルクレティウスは、エピクロスの考えを踏襲し、心の安定した状態すなわちアタラクシアをつくりだすうえで、宇宙や自然の神秘を明らかにしておくことが、重要だ、ととらえたのだった。

言わば、アトム論とは、世界の基本単位としての「アトム」と「虚空」をうちたてるだけでなく、自分たちが生きてゆくうえでの「足場」となるものであり、心の支えでもあったのだ。

以下、いくつか、ルクレティウスの「アトム」にかかわる文章を抜き出してみよう。

第1巻 56行~61行
「その根源から自然は万物を生み、育て、太らせ、
その根源へと自然は、事物が滅びるにあたってこれを分解する。
その根源を私たちは、これから展開しようとする教えの中で、
物の素材とか生成の元とか物の種子とか呼び、
そのものをまた基体物体と名づける習わしである。
なぜならこれらのものを元にして万物は生じるのだから。」

196行~198行
「それゆえ元素もなしに物が存在できると考えるよりも、
言葉に字母があるように、多数の物に
共通な多くの物体があると考える方がまさっている。」

215行~216行
「これにくわえて、自然は各々の物をその元素に再び
分解するだけで、物を消滅させて無に返すことはない。」

418行~421行
「全自然は、それだけで独立にあるものとしては、二つのものから
なりたっている。すなわち、一つは物体、非当は虚空であり、
前者は後者の中に置かれ、そこにおいて様々に運動する。」

480行~481行
「物体のうちで、そのあるものは物の元素(アトム)であり、
他のものは元素の結合によって構成されたものである。」

ここには単なる物質観があるのではなく、宇宙観や死生観がある。「無」や「消滅」ということは、本当はなく、ただ、元素に分解され、また別の形をとってこの世に存在するという考えである。もちろん、キリスト教的な死生観とも全く異なるので、この後、こうしたルクレティウスの思想は封印されることになる。

私たちが「原子」「アトム」と呼ぶとき、いつのまにか「物体」というものを想定しているが、少なくとも古代ギリシアにおいては「アトム」という「名詞」が存在しなかったことには、注意を向けるべきだろう。これは私の学生から教わったのだが、たとえばわずかな断片緑として残っているデモクリトスの記述には、「アトモン」という形容詞があるばかりで、「不-可分の」様子があるだけなのである。

しかしルクレティウスはこれを「名詞化」しているのである。といっても「アトム」という語を用いているわけではない。先ほど引用した文章にあった「元素」や「アトム」というのは、プリモルディア、プリンキピア、セミナ・エレメンタ、マテリーズ、コルポラ、コルポラ・プリマ、ゲニタリア・コルポラといった多様な語彙が用いられているのである。

いずれにせよ、ラテン語のこれらの語彙においてイメージされているのは、物質、物体であり、細かな「粒」であるが、現代物理学は実はこのアトム論を一歩進み出て、量子力学に至っている。

すでに「原子核」と「電子」の「存在」、さらには、原子核内の陽子と中性子の「存在」を見出しつつも、それを単に「粒子」とのみみなさず、同時に「波動」ととらえることができた時点で、原子エネルギーの解放が可能となったのであるから、きわめて厳密に言えば、古代ギリシアから古代ローマ時代まで継承されてきたアトム論は、すでに乗り越えられているという言い方ができるかもしれない。

しかしまた、先ほど述べたように、アトムを名詞ととらず「不可分割なるもの」すなわちアトモンとして考え続けてきたことから言えば、ようやく2000年以上の時を経て、アトム論が「論」ではなく、「技術」として、介入しうる対象となったとも言えるだろう。

しかし、万物の根源には、こうした「アトム」だけではなく、「虚空」も併存していることを、忘れてはならない。

この場合、「虚空」とは、二進法における「0」もしくは電源で言うところの「オフ」であるかもしれないが、そうではないのかもしれない。

たとえば、すさまじいエネルギーが隠されていたウラニウムやプルトニウムのアトムが、私たちに、絶対的な「無」や「死」をもたらしたのは、この「虚空」のためだったのではないだろうか。




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