読んだ本
アインシュタイン平和書簡1
ネーサン、ノーデン編
金子敏男訳
みすず書房
1974年12月

Einstein On Peace
Otto Nathan and Heinz Norden (eds)
1960 Copyright
1968 Publication

一言コメント
1914~33年に書かれた書簡を中心にアインシュタインの平和への言動を追いかけている。数多くの手紙を書き、数多くの政治文書に署名し、一貫して戦争に反対し続けた軌跡をたどることができる。
ただ、思想的深みを見出すのは困難であり、かつ、事実関係がとらえにくい。引用(注)と本文とのリンク、年表の併載などの工夫があれば、より読みやすくなったと思われる。

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本書は、書簡をもとにした、アインシュタインの平和的言動を読む本であり、1914年から1933年までで構成されている。

とりわけ著名な人物として言えば、ロマン・ロランとジクムント・フロイトとのやりとりが収められている。また、国際連盟の知的協力委員会におけるキュリー夫人やフランスの哲学者ベルクソンとのやりとりなども含まれている。さらに「はしがき」は、平和運動の「盟友」である哲学者バートランド・ラッセルによって書かれている。

第1巻の構成は、以下のとおり。

1 1914-18 戦争の実体
2 1919-27 ドイツにおける革命・希望と幻滅
3 1922-27 国際協力と国際連盟
4 1928-31 戦争反対の抵抗1
5 1931-32 戦争反対の抵抗2
6 1932-33 ドイツにおけるファシズム前段


本書は、「平和」がテーマである。しかし当初、私はこの中から、一つのことだけを取り出したいと思った。つまり、「核物理学」と「原爆」の関係についての、彼の見解である。

できることなら核エネルギーを人間が利用することについて、すなわち、単に学問的な発見の次元においてではなく、科学技術として「核エネルギー」についてどういった考えをもっていたのかを知りたいと思い、本書を手にとった。

しかし、第1巻は、そういった内容はない。第2巻と3巻においては、こうした私の興味にかかわる内容が展開されることだろう。それらは後日読み、またあらためて書くことにするとして、今回は、では、アインシュタインは「平和」について、どういった考えをもっていたのか、少しまとめておきたい。

本書を読むと、アインシュタインが、いかにたえず国際平和を望み、少なからずそうした運動にもかかわってかかわってきたのか、その足跡を追うことができる。それは確かであるが、実は、彼が一体どういった「思想」をいだいて、そうした言動を続けてきたのかは、
あまりよく分からない。

わずかに見出されるのは、次の二点であろう。

まず、人間同士が殺し合う戦争に反対している。戦争は、学問や芸術などの文化を破壊するものだ、ということである。

そして、戦争と同時に嫌悪されたのは、偏狭な民族主義、そして、国家主義である。
自然科学研究の本質は、国家の思惑を超越したところにあり、国際的な協力体制なくして研究はありえないということ、である。、

「私の意見では、知識人が国際和平と人間の兄弟愛を、最高に進めうるのは、科学上の貢献と芸術的成果による方法であります。創造的な仕事は、人間を個人的で利己的な国家の目的を越えて、高くひき上げます。ものごとを考えるすべての人間が、共通の問題と熱望とに全力を注ぐなら、畢竟、あらゆる国々の学者、芸術家を結びつけることになる友情の意識を、創造することになります。」(47ページ)

大半の科学者たちが政治的発言を避けるなかで、アインシュタインのこうした率直な言動は、突出しており、良くも悪くも世界的に知られることとなった。その結果、彼の人生は、純粋な物理学研究のみならず、各国の知識人や活動家とのやりとりにもかなりの労力が割かれることとなった。

1920年に入ると、非難や中傷、恐喝、迫害、生命への危害のおそれなどが増し、ドイツでは安心して暮らせなくなってゆく。

彼の協力者とともに模索したのは、米国への移住であった。実際の移住は1933年になるが、当時、ヨーロッパが国家間の醜い争いをしているのを目撃したアインシュタインにとっては、米国は、希望の国と映ったようだ。

「国際主義については、アメリカは諸国のうちで、最も進歩しています。国際的「精神」とよばれるべきものを持っています。」(51ページ)

上記の文章は米国の夕刊紙とのインタビューであり、若干の社交辞令が含まれているとしても、その当時においては、半分以上は偽らざる気持ちだったに違いない。

ただ、そうした米国でさえも「言語」の壁によって、同じような問題が生じうることも、もちろん認識はしていた。コレージュ・ド・フランスの招きでパリを訪問した際(1922年3月*)の講演緑では、アインシュタインはこう語った。


「機会がありさえすれば、異なった言語を話し、異なった政治的、文化的見解を持っている人々は、お互いに国境を越えて意志の伝達を計ることが重要だと、私は考えます。」(59ページ)

*大江健三郎「治療塔」に「100年前の出来事」として、このアインシュタインの話が出てくる。つまり、治療塔は2022年頃の話という設定なのである。

国際的であるということは、必然的に、平和的になりうるというのが、彼の信念であったようだ。

こうした言動が、特にドイツ国内の国粋主義者たちに反感を抱かせた。しかし彼は、ひるむことなく積極的に政治的文書に署名し、政治集会などにも参加していたようである。

しかしアインシュタインのこうした平和主義、国際主義とは、一体どういった思いから生まれたものなのだろうか。あまり参照できるものがないのだが、たとえば1922年に平和運動便覧には次のように書かれている。

「自然科学者は、平和主義者の目的を受け容れ易い。それは彼が扱っている対象が、普遍的性格のものであること、したがって国際協力に依存していることに理由がある。」(63ページ)

逆に読めば、人間は、言語や習慣、文化など、国よって異なるものをつくりあげてきたが、自然科学はそういったものに煩わされることのないものである、それゆえ、自然科学を愛するということは、必然的に国際主義、平和主義に至る、ということになるだろうか。

つまり、アインシュタインの場合、自然科学を純粋に追求することが、そのまま、平和の希求とつながっているということである。

また、1922年に国際連盟が知的協力委員会(後のユネスコ)を設立し、キュリー夫人、ベルクソンとともにアインシュタインを招聘する。一度は辞退したものの1924年には委員となる。ここでも彼は、国境をこえた科学者間の相互交流を主張した。しかし残念ながら本書では、
自然科学にも深い造詣のあったベルクソンや、事務次長を務めていた新渡戸稲造とのやりとりについては、ふれられていない。

なお、彼の平和運動は、一つの明確な「行動」を伴っていた。兵役の拒否である。1928年にこう書いている。

「戦争参加一切拒否の国際運動は、この時代の最も希望にみちた進歩の一つだと、私は信じます。思慮深い、善意で良心的な人間は誰しも、理由のいかんをとわず一切の戦争に参加せず、また直接間接のいかなる支持も与えないという、おごそかにして無条件の義務を、平和時には自らに課すべきであります。」(100ページ)

さらに、
1929年に、科学と戦争との関係について、少し、感情ではなく、ロジックのようなものを次のように述べている。

「科学の発展を阻止するという考え方はあり得ないから、残る唯一のものは戦争それ自体をなくすということである。」(103ページ)

戦争が悲惨になってゆくのは近代科学兵器が用いられるようになったからだが、かといって科学の進歩を止めることはできない。だから、戦争をしないようにできる道を探る、というのが、アインシュタインのとった選択肢だった。

しかし、科学の進展を止めることができない、と断言しておきながら、なぜ、戦争はなくすことができる、と考えたのか、私にはよく理解できない。

この二つの行いは、いずれも、阻止するのは困難なのではないだろうか。

「唯一の有効な行動は、戦争の防止のために働くことである。武装による安全を求めることの無益さを、公然と非難すること、国際正義の早期定立は、人類死活の問題であるという確信を、全身全霊をもって声明することである。」(104ページ)

いずれにせよ、アインシュタインは、素朴に、兵役を拒否することを訴え続けることになる。

これはこれで、一貫した考え方なのかもしれない。しかし、彼の物理学において達成された「高み」と、この単純な反戦への「思い」は、あまりうまく接合しない。つまり、力を持ちにくい。

「私の平和主義は一種本能的な感情です。私を占有している一つの感情なのです。他の人間を殺害することを考えるのは、私にとって忌まわしいことです。私の態度は知的な理論の結果ではなくて、あらゆる種類の残酷さと憎しみに対する、深い反感に由来するものです。」(108ページ)

このように、アインシュタインが署名した数多くの文書が引用されているのだが、実際のアインシュタインの「思想」というものが、最後まで(1933年に至るまで)見出しにくかった。

とりわけこれが顕著なのが、フロイトとのやりとりである。

フロイトは1929年に手紙の中でアインシュタインに会ったときの印象を書いている。

「私の著作の内容に対する理解を欠いているため、やっと私の文体を誉めるということになるのです。」(207ページ)

明らかにフロイトはアインシュタインの知性を疑っている。実際、おそらくこの時点では十分にアインシュタインはフロイトの思想を読み込んでいなかったのではなかろうか。一歩、理解を示したような文章は、
1932年になってからである。

「あなたは否定の余地なきほど明確に、戦闘的にして破壊的な本能が、愛情及び生命欲といかに不可分に、人間の心の中で結びついているかを、示されました。」(208ページ)

しかし、それでも、フロイトには不満で、長い説明を行った手紙を送っている。フロイトからみれば、「戦争」のない社会、というのは想像困難であるが、強いて言えば「文化」によってそういった「本能的衝動」を抑圧することは可能であろう、しかし、こうした人間の本能に関する分析はあなたの反戦の考え方には、あまり役に立たないのではないか、と
言っているようである。アインシュタインは何を思ったのであろうか。その返事は、再び、社交辞令の域を出るものではなかった。

しかもこのやりとりは、ドイツ語と英語で刊行されるが、わずか2000部しか刷られず、反響もそれほど大きなものではなかった。

すでにヒトラーが政権をとっているさなかであったこともあろうが、あまりかみ合っていないこの交換書簡が、大きな役割を果たせなかった根本的な理由は、むしろアインシュタインの、決定的な人文社会科学に対する無理解にあったように思える。

原爆や原発もそうだが、戦争の問題についても、ある一部の専門的な知識だけでは全体像が見えるものではない。あの、アインシュタインをもってしても、総合的な知性というのか、他領域の知識人との対話が十分になしえなかったことは、痛恨の極みである。

なお、アインシュタインの日本観について、最後にふれておこう。訪日の思いを手紙に1923年、こう書いている。

「日本は不思議な所です。優雅な生活様式、すべてに対する生き生きとした興味、芸術心、良識をともなった知的な純朴さ――絵のような国に住む美しい国民です。」(65ページ)

これは明らかにお世辞fであろう。そのような言及はさておき、もう一点、1925年、国際情勢について米新聞のインタビューでは次のように述べている。

「日本は今、安全弁を欠いたボイラーみたいなものです。」(85ページ)

当時の日本の軍拡路線をふまえて危惧を述べているのであるが、同時に、
何やら、原発事故を想起させるような発言でもある。もっとも「安全弁」はなかったわけではなく、むしろ、実際に効果的に使うことができなかった、と言うべきかもしれない。

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