読んだ論考
東日本大震災における災害廃棄物の受け入れに関する影響要因分析

石村雄一、竹内憲司

廃棄物資源循環学会論文誌 Vol.27, pp7-15

2016.05

 

「3.11」の災害廃棄物。それは、巨大地震と大津波によってもたらされたものである。

 

そのなかでも、岩手県と宮城県の災害廃棄物の一部については、他の都道府県で処理するという方針を、環境省が決めた。

 

しかしその後、受け入れ態勢は難航を極めた。

 

「多くの自治体が広域処理に対して消極的であった一方で、受け入れへの意向を示したり、実際に受け入れを行った自治体が存在する。」(8ページ)

 

災害廃棄物の受け入れた自治体が、どうして受け入れたのか、また、受けれなかった自治体は、どうして受け入れなかったのか、その「理由」を本論考は探っている。

この受け入れは、近隣区域ではないため「広域処理」という言葉が用いられている。つまり、広域処理が進んだ理由、広域処理が進まなかった理由を探っているのである。

 

・広域処理を促進した要因

・広域処理の妨げとなった要因

 

言い方を変えれば、東日本大震災において発生した災害廃棄物の処理について、各地がどのように受け入れていったのか、その濃淡が発生した理由(影響)を分析しているということになる。

 

なお、「東日本大震災によって発生した災害廃棄物受け入れ自治体におけるリスクコミュニケーションに焦点を当てた研究」(9ページ)や風評被害に関する研究はいくつかあるが、「自治体による災害廃棄物の受け入れに焦点を当てた実証研究はほとんどない」(同)のが現状のようである。その意味では本論考は貴重な内容を含んでいることになる。

 

具体的には、2つの分析を行っている。
 

1)マスコミ報道内容などの調査
2)統計分析

 

1)については、2011年3月から2014年3月までの「主要新聞各紙」に掲載された記事のうち、「広域処理」「災害廃棄物」「がれき」「受入れ」「賛成」「反対」といったキーワードをもとに検索して、自治体や住民の反応が記載されている記事を探し出している。

 

2)の統計分析の方は、被災地(岩手県、宮城県、福島県)と東京23区を除いた全国1,592の市町村の横断面データ(ある時点における場所や集団別などを記録した複数の項目を集めたデータ)を作成している。また、当時において受け入れに積極的であった市町村は167あったが、そのうちの多数、すなわち120市町村は東日本に集中していたため、東日本に限定したモデルも検討を行っている。

 

分析の方法論としては、「ロジットモデル」(順序プロビットモデル)が使用されており、1)ロジットモデルによる分析結果、と、2)順序ロジットモデルによる分析結果、の2通りが示されている。

 

2つの説明変数がある。
 

1 被説明変数y(災害廃棄物について)
・受入れを検討している
・受け入れを表明している
・受け入れに関する試験処理を行っている
・受け入れを実施している

これらについては「1」を、それ以外には「0」

 

2 説明変数X(自治体の広域処理受け入れを促す要因として)

 

・住民理解

・利他的動機(被災地復興に対する) → 受け入れに積極的

・1人あたりの義援金額(1,000円単位)

→東日本の自治体を扱ったモデルでは1%水準で有意

・ボランティア活動への参加率(パーセント)
→ すべてのモデルにおいて1%水準で有意
 

・放射性物質に対する不安 → 受け入れに消極的

・農業従事者の人口割合(パーセント)

→ 全てのモデルにおいて1%水準で負の有意

・15歳以下の人口割合(パーセント)

→ 全てのモデルにおいて有意ではない

・人口密度(人/100km2)

→ 全てのモデルにおいて有意ではないが、係数の符号は負

・福島第一原発からの距離(100km)
→ 日本全体のモデルで負の有意

 

・政策的要因

・防災対策 → 受け入れに積極的

・行政間の連携 → 受け入れに積極的

・原発の立地(立地=1、それ以外=0)

→ 全てのモデルにおいて1%水準で有意**

・広域処理に対する当道府県の意向(受入=1、それ以外=0)

→ 全てのモデルにおいて負の影響***

・一般廃棄物の焼却処理における広域処理の実施(実施=1、それ以外=0)

→ 全てのモデルにおいて有意ではないが、係数の符号は正

 

・設備的要因

・焼却処理施設

・残余能力(10トン/年)

・日本全体のモデルにおいて1%水準で有意(符号は正)、東日本では有意ではない

・最終処分場
・残余容量(10トン)

・全てのモデルにおいて有意ではないが、係数の符号は正

 

→ 「福島第一原子力発電所から遠い自治体ほど受け入れに消極的であることがわかった。被災地から遠い自治体ほど、事態の深刻さに関する認識の不足や放射性物質のリスクに関する理解の不足があると解釈できる。」(13ページ)

 

** → 「原子力発電所が立地している自治体は、自らの自治体で将来類似した事態が発生した際に、他の自治体に災害廃棄物を受け入れてもらいやすくするために、今回の地震で派生した災害廃棄物の受け入れに積極的になる可能性がある。」(13ページ)

 

*** → 都道府県と市町村とでは、意向が反転する傾向にある。「主に制具との調整を行う都道府県と、住民に近い立場である市町村自治体との間の連携不足が原因の一つと考えられる。」(13ページ)

 

以上の分析のまとめとして、利他的動機や互恵的動機は受け入れを促進している一方で、「災害廃棄物の汚染可能性に関する懸念が受け入れを阻害している」(14ページ)とする。

 

「住民による被災地への支援が大きい自治体ほど災害廃棄物の受け入れに積極的であることや、放射性物質のリスクに対する懸念が広域処理にとって大きな障害となっている可能性を示唆する結果が得られた。」(14ページ)

 

***

 

私なりのこの問題に対する見解は、すでに当ブログで書いた。
 

原発事故とフーコー

http://ameblo.jp/ohjing/entry-10970444609.html

 

しかしその後、実際の「広域処理」は困難をきわめた。その理由は、おおよそ、誰もが漠然とは考えていたが、本研究のように、いくつかの可能性を定量化しつつ同じ尺度で比較検討し、とりわけどこに要因があったのかをつかみだそうとする手法は、とても貴重なものである。

 

この問題は、どうしても心情的、感情的な議論にしかならないなかで、「現実」をしっかりと多くの人に示してくれるという意味でも、意味のある研究であるように思われる。

 

「被災地から遠い距離の自治体への要請にあたっては、住民に対するより積極的な情報公開と丁寧なリスクコミュニケーションが重要である。」(14ページ)

 

そう本論考は結論づけている。

 

 

 

 

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読んだ本

元原発技術者が伝えたいほんとうの怖さ
小倉志郎
彩流社
2014.07

 

ひとこと感想

著者は福島第一のポンプ部の設計などもしたことがある技術者。彼をしても、一体何が起こったのか説明ができないのが原発事故、という言葉に説得力がある。本書は事故のことをふりかえりつつ、原発の危険性を心情的に問う内容。巻末の資料には、原発が武力攻撃を受けたらどうなるのかを検証した過去の論考がある。ここでは特に使用済み核燃料の危険性が強調されている。

 

著者は1941年東京生まれ。慶応義塾大学工学部卒、同大学院修士課程機械工学専攻修了。日本原子力事業(株)入社。2002年定年退職。2011年に東電福島第一原発大震災が発生して以後、原発の基本的な構造や本質的危険性についての講演会等を行っている。原子力市民委員会等メンバー。

 

***

 

著者は日本原子力事業株式会社に入社し、35年間原発の仕事に携わった。福島第一原発については、1,2,3,5,6号機の建設にかかわっており、「3.11」の事故については、さまざまな理由で、大きな衝撃を受けている。

 

もう少し細かく言えば、1,2,6号機は米GEの購入仕様書に基づき、各種ポンプの「購入技術」(単に購入するのではなく、内容をチェックしたり実際に使えるものとして確認するという意味か?)を担当している。また、3.5号機のポンプも2号機のコピーとなっているというから、少なくともポンプまわりについては、4号機以外は、彼が担当し、しかもほぼ同じ仕様だったことがわかる。

 

世間では「冷却用ポンプ」と呼ばれたが、これは正確には「非常用炉心冷却系ポンプ」だそうだが著者としてみれば自分が担当したこのポンプが動かなかったことにたいして、何らかのはっきりとした原因を解明したいところだが、原発(の事故)とはそれを許さないものだ、とみなす。

 

「原発のほんとうの怖さとは、原発の建設に携わった私自身にとっても複雑過ぎて全貌がわからないこと」(7ページ)

 

これは著者のみならず「世界中をさがしても」こうした技術者はいない、と著者は断言している。

ましてや、現場に携わっていない「研究者」に何がわかるのか、という気持ちが著者にはあるようだ。

 

原発にかぎらず、また、科学技術によって設計されたものだけでなく、現代の「メガマシン」というものは、「誰か」一人によってどうにかなるものではないことは自明である。はたしてこれは原発のみにかぎったことなのかどうか、著者はもう一歩その先を問うてもよいよかったのではないか。

 

もちろん、「原発の複雑さ」にかぎって言えば、著者の技術者の「限界」論は、十分に説得力がある。

 

ただしその一方で著者は、「放射能」についても本書のもう一つの主題としている。

 

正直言うと、原発の技術者だからといって、必ずしも「放射能」のことをよくわかっているわけではないということが痛感させられた。ただし、そもそも「放射能」のことを「よくわかる」ということが、現時点ではきわめて困難なことである以上、著者自身の問題ではないこともまた、強調しておかなければならないが。

 

実際、著者は次のように告白している。

 

「私がその放射性の高い物質(これを単に「放射能」と世間では呼んでいる)の存在こそが原発の危険性の源だと気がついたのは恥ずかしいことに、原子力産業に就職してから15-16年経って自らが放射能汚染管理区域内で日常業務に携わるようになってからだ」(32-33ページ)

 

さらに低線量被曝の健康被害については次の文献の影響を強く受けていると述べている。

 

死に至る虚構――国家による低線量放射線の隠蔽 Jay M. Gould & Benjamin A. Goldman、肥田舜太郎、齋藤紀訳、PKO法「雑則」を広める会、1994年

 

放射線の衝撃――低線量放射線の人間への影響 Donnell W. Boardman 肥田舜太郎訳、PKO法「雑則」を広める会、1994年

 

この二つの論文は、原爆症認定申請却下処分取消への訴訟において「証拠」として提出されたものである。

 

以下の二点について公に認められたために、上記の論文は画期的なものだと著者はみなしている。

 

1)内部被曝の健康への影響が認められた
2)低線量被曝の健康への影響が認められた

 

ほか、著者は崎山比早子の説明を直接受けている。

 

「1年間に自分の身体の約60兆個の細胞の核を平均的に1本ずつ放射線が通る」のが「1ミリシーベルト/1年」のイメージと考えている。そのうえで「無視できない量」ととらえている。

 

問題は「無視できる」かどうかではなく、「健康」への影響があるかどうかである。

 

残念ながら著者はこの考察をこれ以上先には進めない。

 

端的に(言うなれば「感覚的に」)「1ミリシーベルト/年」以下でも「怖い」と述べるにとどめている。

 

このあたり、著者が「元原発技術者」であるのであれば、もう一歩踏み込んだ検証と記述を期待してしまう。

 

なお著者は35年間働いたすえに「原発をやめる100の理由」という本を読むことも勧めている。そこから著者は以下の5点が「とくに重要」と考えピックアップしている。

 

ほか、著者は崎山比早子から直接説明を受けている。

 

「1年間に自分の身体の約60兆個の細胞の核を平均的に1本ずつ放射線が通る」のが「1ミリシーベルト/年」のイメージと考えている。そのうえで「無視できない」量ととらえている。

 

問題は「無視できる:かどうかではなく、「健康」への影響があるかどうかである。残念ながら著者はこの考察をこれ以上先に進めていない。

 

端的に(要するに感覚的に)「1ミリシーベルト/年」以下でも「怖い」と言っているにすぎなくなってしまう。

 

なお著者は35年間働いたその結果として、「原発をやめる100の理由」という本を読むことを勧めている。そこから著者は以下の5点が「とくに重要」と考えピックアップしている。

 

1)重大事故の可能性

2)運転中の低レベル放射線の放出

3)運転にかかわる作業員の被曝

4)使用済核燃料(高レベル放射性物質)の生成

5)原発から出た放射性物質の安全な保管、処分技術の不確定

 

もう一点。

 

著者は2007年に「山田太郎」のペンネームで同人誌「リプレーザ」No.3に「原発を並べて自衛戦争はできない」という論考を書いている。

 

この中で武力攻撃(戦争など)が起こったときのことをいろいろと想定している。たとえば「崩壊した炉心が原子炉内に残る水と反応して、水蒸気爆発をすれば、原子炉の破裂という事態にもなりかねない」(178ページ)といった具合にである。

 

そうでなくても冷却については大半の設備が建屋の外に(しかも剥き出しで)置かれている。

 

これに対して著者は「武力攻撃を受けたら、ほぼ確実に原発の原子炉の冷却ができなくなる」(179ページ)とみなし「どういう事態に発展するかは未知の世界」と述べる。

 

しかもまた、使用済核燃料がプールにあることも指摘している。こちらも深刻で最終処分の流れがつくれないまま、使用済核燃料が増えてゆくため、当初の設計から少しずつ間隔を縮めてゆき、収納量を増やすという苦肉の策をとったという。

 

こちらも攻撃を受けたら何が起こるかわからない。

 

なお、内部被曝について基礎的な参考分として挙げているのは、以下である(人物表記だけなのをお許しください)。

 

肥田&鎌仲(2005)

グロイブ&スターングラス(2011)

中川保雄(2011)

矢ケ崎&守田(2012)

市民と科学者の内部被曝問題研究会(2012)

西尾正道(2012)

核戦争防止国際医師会議ドイツ支部(2012)

チェルノブイリ被害の全貌(2013)

ゴフマン(2011)

名取春彦(2013)

ほか

 

 

 

 

目次      
1 元原発技術者が言える原発の危険性
3・11事故発生時、なにを思ったか?
自分の過去の仕事
私の認識の変化 ほか


2 事故のあとだからこそ言えること
科学・技術を超えた問題
事故の原因―天災か人災か?
同じ事故が柏崎で起きていたら? ほか


資料
「原発を並べて自衛戦争はできない」
紙芝居『ちいさなせかいのおはなし』
内部被ばくについて基礎知識を得るための参考書の紹介)

 

原発は、ほんとうにとんでもない怪物だ。あの複雑怪奇な原発の構造を理解しているエンジニアは世界にひとりもいない…。複雑過ぎて危険すぎる「原発の仕組み」を元原発技術者が全告白。

 

 

  

 

 

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「教養と看護」というサイトがある。

http://jnapcdc.com/LA/
 

日本看護協会出版会の特設サイトである。

 

ここで、「魂の世話(ケア) 古今の哲学者たちのはなし」というタイトルで連載を行っている。

 

今回、第4回がアップされた。ヘーゲルである。せっかくなので、これまでの記事も一挙リンクを貼っておこう。

 

 

第4回:[近代哲学3]人間が営んできた文化や歴史へのまなざし~ヘーゲル
http://jnapcdc.com/LA/takimoto_04/

第3回[近代哲学2]実体のないものに心を寄せる人間の不思議さ〜カント

http://jnapcdc.com/LA/takimoto_03/
 

第2回:[近代哲学1]我思う故に我あり~デカルト
http://jnapcdc.com/LA/takimoto_02/index.html

第1回:[古代哲学]対話と問い〜ソクラテス
http://jnapcdc.com/LA/takimoto_01/takimoto_01.html

イントロ:哲学はキライですか?

http://jnapcdc.com/LA/takimoto_01/takimoto_intro.html
 

自己紹介と、この連載について。

http://jnapcdc.com/LA/takimoto_01/index.html

 

 


 

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日本看護協会出版会の特設サイトである。

 

ここで、「魂の世話(ケア) 古今の哲学者たちのはなし」というタイトルで連載を行っている。

 

今回、第4回がアップされた。ヘーゲルである。せっかくなので、これまでの記事も一挙リンクを貼っておこう。

 

 

第4回:[近代哲学3]人間が営んできた文化や歴史へのまなざし~ヘーゲル
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第2回:[近代哲学1]我思う故に我あり~デカルト
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イントロ:哲学はキライですか?

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自己紹介と、この連載について。

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読んだ本

いちから聞きたい放射線のほんとう いま知っておきたい22の話
菊池誠、小峰公子、おかざき真里(絵とマンガ)
筑摩書房
2014.03

 

ひとこと感想

失礼ながら、一見おちゃらけた本に見えた。ミュージシャンが共著者であることや、漫画が入っていることも、その理由である。だが意外なことに本書は、かなり丁寧に「放射線」について説明を行っている。私としてはかなり納得できる内容であり、お勧めしたい本である。

 

菊池は、大阪大学サイバーメディアセンター教授。物理学者。専門は計算物理学、統計物理学。ニセ科学問題に関する著述・講演や電子楽器テルミンの演奏も行っている。著書に「信じぬ者は救われる」などがある。
小峰は、作詩家、ミュージシャン。1991年karakというユニットでデビュー。吉良知彦率いるzabadakとはデビュー当時から活動を共にし、約30作に及ぶアルバムの主な作詩とヴォーカルを担当。TVCMは200曲以上、アニメやゲーム、演劇作品、幼児番組への作品提供も多数。

 

***

 

専門用語や専門的話法を避けて、それでいながら科学的な知見をふまえて、ていねいに、かつ、力強く語る。

 

共著者の一人小峰が素朴な質問をすると、それに物理学者の菊池が次のような説明を行う。

 

「放射性物質は、皮膚から染み込んだりしない。γ線はからだやモノの中までぴゅんぴゅん入ってくるけど、それがからだの中に残るわけじゃないし、もちろん、うつったりしない」(131ページ)

 

こうした説明がなされる。

 

こういう本に、「3.11」直後に出会えていれば、かなり冷静にもの後が考えられたと思う。

 

その後2,000件以上の核言説にふれて、ようやく自分なりに「核」への見通しがたったが、おそらく本書はそうした2,000件にふれなくても、十分に、自分が暮らしていく上での指針を提供してくれる。

 

菊池がもう少し詳しく放射線について知りたい人のために、次の本を勧めている。

 

 

 

 

 

 

放射線のリスクを今、どう考えればいいのか。そもそも放射線とは何か。放射線のしくみから、からだに与える影響まで、今こそ知っておくべき22の話題を、数式を使わずにわかりやすく解説する。

 

読んだ本

西村幸夫都市論ノート 景観・まちづくり・都市デザイン
西村幸夫
鹿島出版会
200.07

 

ひとこと感想

「都市デザイン」の難しさの根源は、なんといっても「利権」に左右されるからではないか。言ってみれば「暮らす」ことを主眼とするのではなく収益をあげるシステム開発のような位置づけで都市計画が進められることにある。著者自身が述べているように、「都市」に限定することはできず、農村や近辺の地域社会とのつながりをどうしてゆくのか、そこにこそこれからの「都市デザイン」の可能性はあるのではないだろうか。

 

本書は筆者がおもにここ三、四年、雑誌や機関誌等に寄稿してきた文章のうち、副題にあ
るように景観・まちづくり・都市デザインに関連したものを集めたものである。と「はしがき」は始まっている。

さらに「どちらかというと恵まれない立場や弱い立場にいる人々の側に立って発言」(iiiページ)してきたという。

 

・古いもの ⇔ 新しいもの

・アジア ⇔ 先進国

・住民サイド ⇔ 国家権力

・町場の庶民 ⇔ 大企業

 

そして今後は、「子どもたち」「女性」「高齢者」の視点からものを見ていくことも実践しなければならないとする。

 

第1部では、1)都市の側からデザインや景観を考える、2)丸の内、3)アジア都市、について論じられている。

単なる「建物」の建築から「都市」のデザインについて考えようとしている。海外の例をみつつ、国内のこれまでの在り方をふりかえる。

 

・都市の不燃化

・土地利用の高度化

・居住環境の整備

・公共施設の整備

 

日本の都市「再」開発はこれら4点が主な目的となってきた。一言でまとめると「公共的色彩が強い」(6ページ)ということになる。

 

さまざまな事例をふりかえりながら、「斬新」な試みもあったものの、総じて言えば「再開発プロジェクト自体の越え難い限界」(12ページ)を示していると考える。

 

・土地の権利者の目がテナントの入居にのみ行ってしまい、広く外部や都市を構想するということに至りにくい

 

・スクラップアンドビルド方式のため、保全や修復といったこれまでのストックを活用することが困難である

 

・法的規制によって計画の幅をつくりにくい

 

ごくあたりまえのこととは思うのだが、建築家が少しでも都市から建築を眺めるように求める提言として読める。

 

そして、いきなりコンセプトとして斬新なものを打ち立てるというよりは、「再開発」のなかに「保全」や「修復」を組み込むことによって、漸進的融合を目指そうというのが西村の実践的態度である。

 

それが「町並み景観」の重視ということになる。「町並み」という、単体の建物ではなく、複数の建築物によって成立する「像」を適正にさせようという魂胆である。

 

この「像」こそ「パブリックなるもの」(21ページ)である。すなわち「住民」をはじめとして、「みんな」のための設計論こそ「町並み景観」の議論なのである。

 

単に古いものはよくて、新しいものがダメ、というのではない。「みんな」が納得できる町づくり、建築家や土地所有者だけが勝手に何かをするのではなく、都市空間の設計の共有化がめざされなければならないということである。

 

さらにこの「町並み」もしくは「歴史的環境保全」のステージの先にあるのは、「風景計画」である。つまり、建築物だけで形成されるものではなく、その土地のありよう、生活のありようをふまえた公共性を実現させようとするものであろう。

 

ただしここでも一度にラディカルな転換が行われるのではなく、地道かつ多くの人が納得できるところからの改善である。

 

まずは、建築物の高さの規制が何よりも進められた。ほかにも都市景観に関しては基本計画が各都市において立てられているが、課題はある。たとえば、「都市」に限定されて、その周辺の地域への配慮がない。これは西村がバンコクの学生との対話からも確信したことである。

ほか、セットバックを十分にとっていくこと、シンボルとしての意味合いを考えることなど。

 

***

 

第2部では、各地のまちづくりの具体的な試みを紹介する。

 

土地のアイデンティティの確認、それが地域づくりの出発点である。なかでも「建造物」「町並み」「歴史景観」は重要であると考える。

 

つまり「景観」こそ、その都市をイメージする際に重要かつ決定的な要素となる。

 

また現実的な問題として人口減少を西村は想定しており、これを必然のものとしてとりこんでいない都市計画は評価されない。

 

具体的な都市イメージの構築を優先事項とすべきだということである。そこには近代都市に対する批判的な視点があり、西村はそれを「文明批評としての歴史景観」(81ページ)と呼んでいる。

 

ただしこれも、単なる観光資源と考えてうちたてられるものではなく、地域住民の暮らしや考え方が連動していなければ意味をもたない。一言でまとめれば「住みやすさ」に「歴史景観」が貢献しなければならないのである。

 

またもう一点、「歴史景観」だからといって、何も過去のものばかりで構成しなければならないとはかぎらず、新たなテクノロジーや素材なども活用すべきだとする。

 

あと、「まちづくり」「地域創生」の議論に必ず登場する言葉「よそ者、馬鹿者、…」の話がある。

 

ここでは「ヨソモノ」「バカモノ」「スグレモノ」となっている。今では「スグレモノ」すなわち専門家や大学の教員は外されて、「ワカモノ」となっているとことが興味深い。

 

「地域の弱点だと考えられていることをかえって地域の資産だと考えられるような、まちづくりの新たな方策を考えることが求められている。」(89ページ)

 

そのために「ヨソモノ」「バカモノ」「スグレモノ」を活用すべきなのである。

 

ほか、地域の「ライフスタイル」たとえば「田舎暮らし」を可視化させること。

 

工夫の実例としては「水辺」をいかしたまちづくりがいくつか挙げられている。

 

***

 

第3部では、歴史的環境保全をテーマとしている。

 

神社や寺、そして城、こうした歴史的建築物は、当たり前のように「保存」の対象となってきたきらいがある。

 

ほか、史蹟、名勝、天然記念物、文化財、風致、美観など、「保存」されるべきものの範囲は広がっていった。今なら「世界遺産」争奪戦か。

かつて「宝さがし」という「運動」にかかわっていた身としては、これらはすべて外的要因から地域の文化資産を可視化したものにすぎない。

 

内発的発展論ではないが、住民にとっての「価値」や「意味」というものを、細かく、かつ、具体的に、一つひとつていねいにとりあげてゆく工程も大事なのではないだろうか。

 

***

 

目次      
第1部 景観・都市デザインを考える
 風景計画へ
 都心・丸の内の景観から
 アジア都市へ
第2部 まちづくりを工夫する
第3部 町並み・歴史的環境を保全する

 

 

 

 

 

 

読んだ本
再生可能エネルギーと地域再生
諸富徹 編著

日本評論社
2015.10

 

ひとこと感想

「地域社会」の自立や今後の生き残りにおいてエネルギー(電力)問題は避けて通れない。だがこれまで国内では主要9電力会社(プラス沖縄電力)が国策と結びついてエネルギー問題にかかわってきた。しかし21世紀において情報インフラがグリッドネットワーク化されるなかで、不可避的に電力もグリッド化されることは不可避であることは自明である。とはいえ現実的にはなかなかさまざまなしがらみがあり簡単ではない。本書はこのための道筋をしっかりと作りだそうと、関連事例をとりあげて探っているものととらえることができる。


編著者は、1968年生まれ。京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。現在、京都大学大学院経済学研究科教授。専攻は財政学、環境経済学。NIRA大来政策研究賞、日本地方財政学会佐藤賞、国際公共経済学会賞受賞。著書に『環境税の理論と実際』など。

***

 

原発事故がもたらした大きなインパクトの一つに「エネルギー」問題があることは疑いない。

 

阪神淡路大震災においては「インフラ」という言葉に注目が集まったが、そのインフラのなかでも「電気」の供給こそ、産業社会においては最大の要であったのだ。

 

とりわけ中央集権的体制のシンボルともいえる原発が各地域、各国家にもたらす負の影響の大きさを知ってしまうと、各地域の「自立」をもたらすための第一の課題は、自前でエネルギーを持つことだと言わずにおれない。

 

本書はそうしった前提に立って「再生エネルギー」の地域社会における活用の途を模索している。

 

原点に立ちかえると本書はきわめてシンプルだ。

 

「その地域の住民が、地域にあるものを用いて所得と雇用を創出し、それを地域に再投資していくことで持続可能な発展の途を追求していく」(217ページ)のである。

 

簡単に言えば、地域社会レベルのスケールで発電事業をうまく経済的に回すことで地域経済がうまく行くようにする、ということだ。

 

ただし、よくわからないのは、これが「地域再生のための主体形成はどうあるべきか」とまとめられていることである。

 

これまでの開発思想が「公共事業をはじめとする大規模プロジェクトを外部から呼び込み、地域に波及効果をもたらすことで地域を発展させる」(218ページ)ものだったことは、よく分かる。そして、その代わりに今、外部にあまり頼ることなく、内部のものを活かし、内発的(または自律的に)地域再生に取り組むのは当然と思えるが、これを「主体形成」の問題と考えてよいのものななかどうか、少し躊躇われる。

 

「主体」という概念に固執してしまうと、コミュニティのよさが損なわれてしまうように思えてならない。

 

また、本書の面白さは、何よりも、再生可能エネルギーを地球全体の課題としてではなく、小さな地域のためにもメリットが高いとみなしている点であろう。

 

「地域賦存資源である再エネを活かして電気や熱を生み出し、それらを自給して石油を置き換えるだけで、実質的な所得増が生まれるのである。」(218ページ)

 

原材料や資材、そして中間財などを地域内でできるだけ調達して、小さくとも「産業コンプレックス」を創出し、資金が地域内で循環出来ることが目指され、同時にその資金も信金や地銀がかかわることが望ましい。つまり、実質的な所得の増加を目指すだけでなく、売電収入や関連産業の連載による地域の雇用、所得の増加、そして、農業や観光にまで波及効果や相互作用がもたらされるようにしたい、ということである。

 

本書ではこれをテーマにしつつ、実際に何をなすべきなのか、他国との比較からも検討していることは、各章のサブタイトルを見てのとおりである。

 

***

 

「地域経済」(の活性化)にとって「再生可能エネルギー」がどういった意味をもつのか、佐無田(1章)は次のように整理している。

 

1)移入代替効果

2)波及効果

3)移出産業化

 

更に第4点目として、4)再生可能エネルギーの導入を通じた「主体形成効果」を挙げている。

前述したが、この「主体形成」はどういう意味があるのか、もう少し考えてみる。

 

経済学のディスクールにおいては地域経済の「内発的発展と呼ばれてきたものと関連していることが理解できる。

 

これは経済学のぎりぎりのところでの「概念化」であり、かなり際どい。

 

場合によってはすでに経済学ではないという見方もされるかもしれない。だが、少なくとも昨今の、とりわけ「地域経済」を考える際には不可欠な概念となっている感がある。

 

だが佐無田も指摘しているように、「エネルギー」の問題は国家と国際政治(経済)抜きにはありえず、とりわけ、あたかも第二の「貨幣」であるかのようにふるまってきた「石油」と「原子力」の「魔力」には、とうてい小さな自治体は自立的であろうとしても、対抗できる可能性はきわめて小さい。

 

地域の「主体化」というのは、言うのは簡単であり、さまざまな、こうした前提をふまえたうえで検証してゆくことがもっとも、大事であるように思われる。


ほか、佐無田の目に狂いがないと思われるのは、いわゆる「持続的発展」すなわちsustainable developmentという語に対して、あえて注記を入れて、これまで20世紀のwelfare stateと違って、これは「次世代に何を残すか」という時間軸を加えた発展観が提起されている」(270ページ)と指摘していることである。

 

「倫理」の問題も同様である。これまでは非常にあいまいであった世代間の倫理がここまでシビアに問われるようになったのは、自分たち人間の所業が単に目の前のものを加工、破壊しているだけでなく、その影響が何世代にもわたって及ぶのだということに自覚的になったからである。

 

そしてそのきっかけは原爆や放射能被害であり、DNA操作ほか、科学技術の影響力の根源性においてであった。

 

もう一点、エネルギー問題が今、転換期にあるのは、インターネットが暮らしのインフラの中心に据えられつつあることが大きい。

 

即ち、ネットは今、物理的な近隣との接続を束ねるだけのものではなく、まさしくWebとしての世界的なネットワークを稼働させている。

 

電力は今は物理的に有線であるとしても、情報がそうであるようにいずれは「無線」化される可能性がある。

 

少なくともニーズやデマンドはこの「無線」が形成するエピステーメーにおいて今後成立してゆくことだろう。

 

***

 

このように、第2章まではおもしろかったが、第3章の、「観光地」の凋落を食い止める一つの手掛かりとして「再生可能エネルギー」を活用するというのは、今一つしっくりこない。

 

議論をまったく逆方向から、すなわち、観光地というものがいかにして再生可能エネルギーの可能性を切り拓けるのか、それを考えていってほしい。

本来観光(ツーリズム)は「無駄」なものであり「余剰」であり「過剰」である。

 

「節電」や「被災」をはじめ、世の中が不安になれば、観光は衰える。

 

観光が盛んであるということは、ある種の安定や明るさがある場合が多いのではないのか。

 

その観光の場所にあって、基盤となる電力をどのように用意するのかということは、新たなポリシーを生み出す可能性があるように思われる。

 

ダークツーリズムもその一つであり、ネガティブな過去の遺構を訪ねることで、歴史や文化、生活などを見つめ直す機会にしようとする。


過剰、祝祭、明るさ、蕩尽、消費、…これらが従来の観光の基本軸であったとすれば、

 

不足、荘厳、暗さ、節制、学び、…といった要素において行われるのがダークツーリズムであり、再エネは十分にこのコンテクストに溶け込むはずだ。

 

***

 

続いて、公共交通システムの再構築は正面からこの問題に一石を投じている(4章)。

 

「観光地」もまたしかりで、まずこの公共交通システムを低炭素型にするなどが検討されてよい。

ところで、「地域産業連関分析」が盛んになっているようだが、批判的な目もある(5章)。代わりに提示されているのは、「バリューチェーン分析を用いた地域付加価値の分析」(126ページ)である。

 

精度の高い国家、都道府県、政令指定都市レベルは良いとして、市町村レベルでは「その制度が粗くなってしまう、という課題がある」(128ページ)と、思わず誤植するほどの「精度」であることを暗に示している。

 

また基本票は国レベルのものであり、これを地域へとブレイクダウンするあいだいに時間がたってしまいデータが古くなってしまうのである。

 

また、再エネ関連が海外からの原料調達が多いことから、評価に注意しなければならない(これはウランと原発の関係もしかりである。原子力を国産に準じさせるという発想はある意味野心的だが、それはコンセンサスがとられなければかえってネガティブなものになってしまう)…とよく読んでみればこの章はあくまでも再エネ事業に限定してどう評価を行うのかという問題を扱っている。むしろ本章によて産業連関分析を使った研究が総覧できる点がメリットであるとも言える。

 

***

 

第2部は、政策、ガバナンスに関連した議論が展開されている。

 

まず、再エネが石油、ガス、原子力と違って地域ごとの取り組みが多様であることと、アクターも多種にわたり積極的であることが強調されている。

 

だからこそ利害調整や合意形成をどのように進めるのかが課題となる。こうした視点からすると、これまでの枯渇エネルギーの場合は国家主導であり、一方再エネは地域の再生や地域間の交流などが「社会的な価値」として提起されることに大きな意義があるように思われる。

 

そもそもこれまでは負の社会的価値を「社会的費用」として批判的にとらえられてきたが、これを「創造」の点から描く要が再エネであるということだ。

 

言うなれば、公害や汚染問題などから議論を展開してきた社会的費用論を、より一層ポジティブに、社会的な価値の創造の見地から描き直すということでもある。

 

いずれにせよこの社会的価値とは、言い換えれば、一般的な経済的価値ではなく、多くの人による「合意形成」の結果である。これを客観的に定量的に評価しようというのだから、大変な困難につきあたる。

 

実例としてはこうしたガバナンスとアクターたちの知識や情報をつなげる役割を飯田市の場合、公民館がになったということを、第6章では強調している。

 

第7章は、要約することを避け、1点だけ、その内容のもつ意味を示しておこうと思う。

 

「今後、わが国においても再編が進む、電気。ガス事業の自由化は、熱事業も加えて、エネルギー部門における公益事業に自治体が再参入する、千載一遇のチャンスが訪れているといっても過言ではない」(186ページ)

 

戦後70年にわたって電力は、中央集権的なシステムとして役立てられてきたが、今後の地域創生を主体としていく国のあり方からすると、きっぱりと(できるだけはやく)体制を変えてゆくことが望まれるだろう。

 

***

目次
 

序章 再生可能エネルギーで地域再生を可能にする
諸富徹

第1部 地域における持続可能な発展の実現と再生可能エネルギー

 

1 エネルギー転換と地域経済 国際比較の視点から
佐無田光


2 地域の電気事業と地域の持続性 桂川流域の電源開発とオーストリアの電力システムから考える

小林久


3 再生可能エネルギーは観光地の再生を実現しうるか? 静岡県東伊豆地域の事例検討

太田隆之


4 低炭素型公共交通システムの構築と地域再生 群馬県桐生市の取り組みから

門野圭司


5 再生可能エネルギーが日本の地域にもたらす経済効果 電源毎の産業連鎖分析を用いた試算モデル

ラウパッハ スミヤ・ヨーク、中山琢夫、諸富徹

 


第2部 地域主導型再生可能エネルギーのための政策手段とガバナンス

 

6 再生可能エネルギーの地域ガバナンス 長野県飯田市を事例として

八木信一


7 地域分散型再生可能エネルギー促進のための自治体の役割 ドイツにおける自治体公社による配電網の再公有化を中心に

中山琢夫


8 地域エネルギー政策としての地方炭素税 米国ボルダー市を事例に

川勝健志


要約と結論、そして今後の研究へ向けての展望

諸富徹

 

 

 


再生可能エネルギーの拡大は、地域に所得と雇用をもたらし、地域の持続可能な発展へと
結びついてゆくのか。本書は、地域再生の問題に、再生可能エネルギーの視点から迫った
ユニークな研究書。

 

 

 

読んだ(?)本
ゲーム理論の応用
今井晴雄、岡田章 編著
勁草書房
2005.06

ゲーム理論というと、条件反射的に「囚人のジレンマ」しか思い出せない水準で本書を読むと、正直、何のことやらまったくさっぱりわからない。

 

しかしなぜか惹かれるゲーム理論。

 

不可思議な人間関係、さらには社会紛争、さらにさらには生物社会における葛藤、対立、競争などを解明するうえで、数理的に分析が行えるということで、きわめて特権的な位置にあるように思われる。

 

しかも本書は、冒頭に表記したように、現実社会の生々しい課題に対して、これまでの言説とはまったくことなる道を切り拓いている。これは驚きではないか?

 

本書の前半には、市場経済の分析へのゲーム理論の応用が並ぶ。
 

オークション理論:生きた理論を目指して 西村直子
混合寡占市場の分析とゲーム理論 松村敏弘
スピルオーバーと技術開発競争 青木玲子
2人交渉ゲーム:非協力ゲームアプローチによる定式化について 神戸伸輔

 

それぞれ、オークション、混合河川市場、技術開発競争、交渉といったテーマが扱われているが、これらについては、ここでこれ以上とりあげる余裕はない。

 

後半の5つの論考も、私には重い。社会問題がグローバル化するなかで、より一層各国の対立や意見の一致の困難さがあるなかで、ゲーム理論が国際誠意経済学にどういった形で切り込めるのかがよくわかる論考が並んでいるようである。


自由貿易協定ネットワークゲーム 古沢泰治
地球温暖化問題における効率・衡平・交渉 蓼沼宏一
環境経済学への応用:国際環境協定とその設計 今井晴雄
国際協定遵守問題のゲーム理論的分析:多元化した国際システムの軍備管理協定の事例
鈴木基史
データ検証問題とゲーム理論:核不拡散条約の事例 岡田章

 

自由貿易協定、地球温暖化、京都議定書をはじめとした国際環境協定、国際軍事管理協定、核不拡散条約、と、いずれもシビアなテーマがとりあげられている。

 

***

 

今井の「環境経済学への応用」は、ゲーム理論を環境経済学に応用する試みである。特に、国際環境協定という協調制度の設計のあり方について検討されている。

 

まず、国際環境協定というものの特徴が簡単にまとめられている。

 

・問題ごとに多くの協定がつくられてきた

・国連が協定の支えとして機能してきた

・新たな協定は古い協定の反省点がふまえられてきた

・理想的な協定は実現していない

・ただ乗りやアウトサイダーであることによる利益を享受する国が存在する

環境問題に関する国際的な協定の歴史的経緯がまとめられている。

 

1960年代 2国間での協定が行われる

1971年 国際的な環境協定が結ばれる(干潟政策、ラムサール条約)

1973年 国際的な環境協定が結ばれる(希少生物種保護、ワシントン条約)
1987年 国内経済活動に対する直接的な規制を含んだ協定(モントリオール議定書)
1992年 温室効果ガスの排出規制のための政策を要請する(国連気候変動枠組条約)

1995年 上記の第一回締結国会合(COP1)
1996年 COP2

1997年 COP3(京都議定書)

1998年 COP4
2005年 京都議定書発効

こうした流れのなかで、特に京都議定書の「京都メカニズム」である「排出量取引(Emissions Trading)について「制度設計」という見地から考察する。

 

他国での排出量削減量を自国の排出削減としてカウントできる、という仕組みである。

 

この「取引」こそ、ゲーム理論にかかわるところであり、あらためて見直してみると、非常に興味深い。

 

これは呼び名は2つある。

 

1)共同実施(Joint Implement)

ホスト国が先進国や旧社会主義国の場合
 

2)クリーン開発メカニズム(Development mechanism)

途上国の場合

 

・・・とここまでは数式なしに説明されているので、ある程度話は分かるのだが、このあとは、国際環境協定に参加するインセンティブと協定の安定性について論じている。

 

第一のパターンは、協定に参加するかしないかは、各国の自由であり、どこが参加しどこが参加しないかは、やってみないとわからない、というものである。もちろん参加したいという国に対して拒否する権利はない。これを「オープンメンバーシップのルール」というようだ。この自由参加型場合、どうやら、少なくとも4カ国以上となれば、有効性を発揮するようだ(第二のパターン以降は省略)。

 

後半は、京都議定書のうちのクリーン開発メカニズム(CDM)を題材に、制度設計上の問題点が挙げられている。

 

CDMは、前述したように途上国の排出削減量を使うことによって、先進国が割り当て排出量を超えて排出することを許す制度である。つまり、自国内ではどうにもならないことでも、他国における排出量の削減に寄与できれば、その分を自国の削減とみなしてもらえるというものである。

 

大雑把に書けば、簡単なことにように見えるかもしれないが、このことをきちんと数理的に導き出すのは大変な作業である。

特に、この方式を採用した場合とそうではない場合との違いを計算するのが難儀であるようだ。

 

***

 

岡田の「データ検証問題とゲーム理論」は、「ならずもの国家」など、核兵器をもちたい国に対してIAEAがどこまで抑止力になりうるのか、NPTを締結している国が虚偽の報告をしていなかどうかを探る場合に、ゲーム理論が力を発揮すると述べられている。

 

あらためて、原子力に関する補償措置実施体制がまとめられている。

 

大きく分けると二つの体制が併存している。

 

1)IAEA(国際原子力機関)

・直接的な国際査察

・国内査察に対する文科省からの報告

 

2)二国間協定縮約国(米英仏加豪中)

・移転通告と確認(文科省)

 

NPTについては本論考執筆時においても今も、非締結国であるインド、パキスタン、イスラエルの3か国の存在、ならびに北朝鮮とイラクの動向が課題である。

 

以下、数式による説明は省略。

 

 

 

 

『ゲーム理論の新展開』に続くゲーム理論の最新の研究成果。応用研究の現状と可能性をオークション・寡占市場・技術開発競争・交渉・国際政治経済学(貿易・環境・国際協定・核査察等)でいかに応用されているかを中心に幅広い読者にコンパクトに解説する。

 

読んだ本

社会資本論 改訂版

宮本憲一

有斐閣ブックス

1976.01

(1967.10初版)

 

「本書の初版の構想をさいしょにつくったのは、1961年であるが、出版することができたのは67年のことだった」(349ページ)

 

初版と改訂版の違いについては、初版の第4章「日本の社会的費用」が全面的に削除されている。この点については宮本の他著「日本の都市問題」「日本の環境問題」を参照するよう勧められている。

 

初版の第5章は改訂版では4章となるとともに、「社会資本充実政策批判」の部分が削除され、新たに第5章として「転換期の戦後日本資本主義と福祉・環境政策」が加えられた。

 

大きな変更は上記の2点で、他、細かな修正がある。

 

***

 

 

本書で言われている「社会資本」とは「生産資本」と対置される「社会的間接資本」のことである。

 

「その結果としておこる損失を社会的費用としてとらえている」(2ページ)

 

戦後日本の経済政策、特に1950年代後半以降は、「所得倍増計画」が掲げられたが、その目的は「社会資本」の充実だった。

 

特にどのような分野に必要とされたのか。

 

・都市更新

・道路、航空機の改善

・自然資源の発展と保全

・保健・教育および社会福祉などの社会サービスの水準の向上

 

興味深いのは、1970年前後における社会科学言説が、現在とかなり異なっているという点である。

 

都市の「更新」、道路と航空機の「改善」という言い回しは、今なら違和感を覚える。「保健・教育」という言葉の並びもそうだ。

 

他方で、関心の中心がそれほど異なっていないと感じさせるのは、「社会資本の充実」よりも「人類の共通の事業は環境保全である」(4ページ)とする点である。

 

その起点は、1972年6月のストックホルム人間環境会議(第1回)とされている。そう、今からもう、40年以上前のことであり、現在でもなお、この問題が解決されたわけでも、改善されたわけでもないのは周知のことである。

 

しかもこの人間環境会議は、欧米諸国や日本などを中心にしたものであり、言わば、加害者による自己批判といえるもので、この主張を簡単には中国やインドなどの「後進国」は聞くことはできない。

 

「日本が原発をやめても中国など他国はそうではない」というレトリックは、これとまったく同じ構造をもっている。

 

社会資本概念は、こうした「環境問題」と地続きであることが強調される。

 

***

 

「ここでは、研究の対象を、主として資本主義社会の社会的一般労働手段と社会的共同消費手段に限定することにする。ここでいう社会的ということばは、所有が社会化(株式会社あるいは国家の所有のように社会化されたもの)されているという所有形態を意味する。一般的労働手段あるいは共同消費手段というのは、それぞれの労働過程と消費過程における質料的な形態を特徴づけた概念である。」 (10ページ)

 

「社会資本」については、すでに古典とされる著書がある。A・O・ハーシュマン「経済発展の戦略」(原著は1958年刊行)である。

 

ここでは「社会的間接資本」(Social Overhead Capital)という言葉が用いられている。

 

運輸、動力、灌漑、治水組織、法、教育、衛生、通信、水道などなど。今ならば一言で「社会インフラ」と言えるものに近い。

 

が、漠然ととらえるうえで、大きくは困らないが、学問的に検討すると、さまざまな問題点が発生している。つまり「社会資本」にはさまざまなものが含まれ、経済理論においては、以下のような矛盾のなかにある。

 

1)私的所有か公有か

2)循環か非循環か

3)生産手段か消費手段か

4)軍事的、政治的か、非軍事的、非政治的か

5)国際的性格をもつか、持たないか

 

そのうえで、本書では、以下のように限定を行っている。

 

「主として資本主義社会の社会的一般労働手段と社会的共同消費手段に限定する」(10ページ)

 

なお「社会的」というのは、「所有が社会化されているという所有形態をいみする」(10ページ)。

 

以上でよくわかるように、ブルデューやパットナムが言うような「社会(関係)資本)」とはまったく異なるのが「社会(的間接)資本」である。

 

歴史的な流れから言えば、1950年代後半から1960年代にかけて「社会(的間接)資本」論が先に展開され、その後1970年代から80年代にかけて「社会(関係)資本」論が議論されたと言える。

 

本書のような「社会(的間接)資本」論を問う意味というのは、前述したように「社会的費用」言い換えれば「外部不経済」の問題化にある。

 

経済学の外側にいる場合、たとえばイリイチは以下の3つの環境の問題の2番目と「社会資本」は関連していると思われる。

 

1)自然環境

2)社会環境

3)文化環境

 

きわめてわかりやすく言えば、社会資本論は、これまでのような、自然物の加工による生産物に基づいた経済活動だけでは、私たちの「暮らし」の「エコノミー」はとらえられないとして、第一に、社会インフラの重要性を強調するとともに、第二に、その負の側面である公害や労働条件の悪化などを改善もしくは優越性を訴えるのである。

 

もう一点、社会資本論が目指しているのは、「国家」もしくは「国民」という枠組みを前提とした「経済」に対して、「地域」をむしろ主体としている点である。

 

結局のところ、歴史的にみて、資本主義を標榜しようと社会主義を標榜しようと、近代国家は「地域」よりも「国家」を優先してきた。

 

「わが国の地域開発の目的は、おそるべき経済主義である」(286ページ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 



読んだ本

流動化する民主主義 先進8カ国におけるソーシャル・キャピタル
ロバート・D.パットナム 編著
猪口孝 訳
ミネルヴァ書房
2013.07


Democracies in Flux: the Evolution of Social Capital in Contemporary Society
Robert David Putnam

Oxford University Press

2002

 

ひとこと感想
さまざまな人々が自発的に集まり何らかの目的をもって活動を続けてゆくことが、民主主義の成熟、すなわち他者の多様性を認め合い、複数主義を打ち出した地域社会の創出のみなもとである、というのがパットナムの見解であり、本書はそれを実際の8ヵ国に落とし込んで実証しようとしている。当然次のステップとして「文化」と「政治」が射程に入ってくる。
 

パットナムは1941年生まれ。ハーバード大学公共政策教授。市民的関与のサグアロ・セミナーの創設者。

猪口は1944年生まれ。東京大学名誉教授。上智大学、東京大学、中央大学で教鞭を執る。そのほかにも世界中の多くの大学で客員教授を務め、95-97年国連大学本部で上級副学長として勤務する傍ら、国連事務次長補を務める。2009年より新潟県立大学学長。

 

***

 

本書は「過去50年間に市民社会の性格はどのように変貌したのか、また、その理由は何か」(1ページ)をテーマに「先進民主主義8ヶ国」すなわち、オーストラリア、フランス、ドイツ、英国、日本、スペイン、スウェーデン、米国の場合について、統計的データに基づいて現状と分析が述べられている。当然、キーワードはソーシャル・キャピタルすなわち社会関係資本である。

 

序章でパットナムは「社会関係資本」概念の変遷をたどっている。

 

1950年代 ジョン・シーリー(カナダ)

1960年代 ジェーン・ジェイコブズ(米)

1970年代 グレン・C・ルアリー
1980年代 ピエール・ブルデュー(フランス)

1984年 エッケハルト・シェーリヒト(ドイツ)

1980年代 ジェームズ・S・コールマン

 

論文の数は1970年代に急増、社会学、政治学は言うに及ばず、経済学、公衆衛生学、都市計画学、犯罪学、建築学、社会心理学など広範囲で用いられている。

 

さて、なぜこの概念が重要なのか。

 

「地域社会の問題の市民の積極的な参画が民主主義自体にとって不可欠」(4ページ)と考えられているからである。

 

社会関係資本は、個人化レベルでは就職や人生における豊かさの鍵であることは言うまでもない。だが、そればかりでなく、社会(地域)の「公共財」としても機能するのである

 

もちろんこうした「公共財」は必ずしもポジティブな価値だけをもつわけではない。以下、4つの分類基準が提起されている。

 

・公式/非公式

・太い/細い

・内向的/外向的

・橋渡し型/接合型

 

つまり、量的な評価のみならず質的な評価も必要である。何よりも社会学の基本的な歴史認識には、近代化、工業化(産業化)、都市化が地域社会の「絆」を衰退させた、とみなしている。

例えば日本においては、1)過去50年間、民主主義体制が続いたが、これは社会関係資本の増加をもたらしてきた、2)数世紀前と比べるとそれは「集団主義」から「個人主義」的になってきた、といえる。

 

***

 

社会関係資本とは何か、もう一度、整理をしておこう。

 

「様々な社会的ネットワークと、それらに関わる相互依存の規模」(1ページ)

 

「社会的な単位を構成する個々人や家族間の善意、仲間意識、同情、社会的交わり」(2ページ)

 

これは要するに、日本の民俗学ではしばしば言及されてきた「寄合」や「講」などと連なっているということである。

 

ハンファンによれば「ある特定の地域社会の住民たちが互いに懇意になり娯楽、社会的な交流、個人的な楽しみのために時折寄り集まる習慣」(2ページ)であるからだ。

 

ちなみに本書におけるブルデューの説明としては「多かれ少なかれ制度化された相互交流や面識の関係の持続的なネットワークの所有――言い換えれば、ある集団のメンバーであること――に結びついた、現実のあるいは潜在的な資源の総体」(3ページ)とある。

 

これは以下が出典となっている。


Bourdieu, P. (1983) “Ökonomisches Kapital, kulturelles Kapital, soziales Kapital,” in Soziale Ungleichheiten (Soziale Welt, Sonderheft 2), edited by Reinhard Kreckel. Goettingen: Otto Schartz & Co.. 1983. pp. 183-98.
 

Bourdieu, P. (1986) The forms of capital, tr. by Richard Nice,  In J. Richardson (Ed.) , Handbook of Theory and Research for the Sociology of Education (New York, Greenwood), 241-258.
 

これまでの説明は、ある程度の普遍性があるとみられるのだが、問題はその内実と量的比較の可能性である。

第一に内実はきわめて多様で、それぞれの地域社会に独自の形態がありうる。そして第二に、量化というのは結局は資本という概念を使う以上既存の経済の領域に少なくとも一石を投ずるつもりがあるわけだし、そういった期待があるからこそ、この概念は世界的に起爆剤として作動しているように思われる。

 

英国――研究者はどういった「内実」「に焦点をあてているのか、ボランティア組織、教育や階級の影響、政府の影響、TVの影響

USA――結社(所属組織)、サークル、倶楽部、組合、愛好会、ボランティア、宗教団体

フランス――教会から結社へ

ドイツ――社会関係資本

スペイン――シビル

(以下省略)

 

*1点気になるのは、他者への「信頼」に関する注目が高いことである。これは「社会関係資本」がどれだけ「有効」に作動しているのかを明示しなければならないという「都合」によるのではないかと思う。つまり、この概念の正当性に関する議論ではないだろうか。この部分はなかなか関心を持ちにくかった。

 

***
 

目次      
序章 社会関係資本とは何か ロバート・D.パットナム、クリスティン・A.ゴス
第1章 イギリス―政府の役割と社会関係資本の分配 ピーター・A.ホール
第2章 アメリカ合衆国―特権を持つ者と周辺化される者の橋渡し? ロバート・ウスナウ
第3章 アメリカ合衆国―会員組織から提唱集団へ シーダ・スコッチポル
第4章 フランス―新旧の市民的・社会的結束 ジャン=ピエール・ウォルム
第5章 ドイツ―社会関係資本の衰退? クラウス・オッフェ、ズザンネ・フュックス
第6章 スペイン―内戦から市民社会へ ヴィクトル・ペレス=ディアス
第7章 スウェーデン―社会民主主義国家における社会関係資本 ボー・ロートシュタイン
第8章 オーストラリア―幸運な国をつくる イヴァ・コックス
第9章 日本―社会関係資本の基盤拡充 猪口孝
終章 拡大する不平等 ロバート・D.パットナム

 

過去50年間に市民社会の性格はどのように変化したのか、またその要因は何か。本書では、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、スペイン、スウェーデン、オーストラリア、日本という八カ国を取り上げ、現代の脱工業化社会において社会関係資本がどう変化しつつあるのかを論じる。第二次世界大戦終結後から20世紀末までの期間にわたる、初の定量的・定性的な検証の成果。