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核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

 前史

1945~1949年  1950~1954年  1955~1959年  1960~1964年  1965~1969年  1970~1974年  1975~1979年  1980~1984年  1985~1989年  1990~1994年  1995~1999年  2000~2004年   
2005~2009年  2010~2011年02月    

2011年3月~7月  2011年8月~12月  2012年1月~2月

【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。
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2014-09-01 21:35:00

フクシマの農業と向き合う農学研究――農と言える日本人(野中昌法)、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
農と言える日本人 福島発・農業の復興へ
野中昌法
コモンズ(有機農業選書)
2014年4月

ひとこと感想
著者たちは、何よりも現場を大切にし専門家はあくまでも脇役であるとして福島県内の農業と関わり続けている。地道な情報公開とコミュニケーションすなわち「人の巻き込み」によって、少しずつ明日が切り拓かれつつあることを感じた。

野中昌法(NONAKA Masanori, 1953-  )は、栃木生まれの農学研究者。新潟大学自然科学系教授。有機農業学・土壌環境学専攻。

***

野中は、3.11以降、福島県内にある農家を訪問し、現場の声を直接聞き、農学研究家としてこの地を調査するとともに、その結果に基づいてこの地の農業が復興できるよう、現地の人たちとの「協働」を続けている。

「東日本大震災で亡くなった人たちの思いを後世に「絆(つな)げ」るのが、生き残った私たちの大切な役割である。私たちは忘れない。少なくとも明治時代以降、戦争と広島・長崎の原子爆弾、そして多くの災害や公害で亡くなった人たち、健康に被害を受けた人たちの思いを「絆げ」ていきていることを。」(173ページ)

これが、著者の思いである。

実際にかかわっている場所は、以下である。

相馬市山上
南相馬市原町区、小高区、太田地区
飯舘村
二本松市東和地区
(昭和村)

このなかで特に東和地区がメインとなっている。

相馬市山上では、津波の被害はなかったのだが、地震で農業用水のパイプラインと温湯消毒器が損傷する。また、松川浦では除塩作業を行い水田の作付も行われる。

南相馬市原町区では、セシウム(放射性セシウムのこと、以下同)が当時の基準値(1キロあたり5000ベクレル以下)であったにもかかわらず、市議会が稲の作付中止を全市に適用されたため、作付を行わなかった。

また事故から1カ月後に警戒区域となった小高区では、4月中旬に解除されてから、試験栽培が行われた。避難先で暮らしつつ、日中だけ戻って農作業を行っているのである。

太田地区では2011年に自主的に線量マップを作成、2012年には除染のためにひまわりと菜の花を植える。農地は年を追うごとに線量は下がっているが、水源のダム周辺の集水域の線量がきわめて高いことが調査の結果判明する。

南相馬市全体の人口は、2013年末にはかなり戻っているが、これには線量マップを公開していることも一因になっていると野中は考える。

飯舘村については、少し知られていると思うが、「までい」という言葉を合言葉に稲作だけではなく野菜や牛や花などと複合的に農業経営する努力を積み重ねた結果軌道にのりはじめ、若手の後継者も増えてきた矢先、全村避難となった。

飯舘のなかで、大久保第一集落(飯樋)は事故当初全村避難をしているが、2013年10月から野中らが空間線量の測定を開始し、再生を目指す。

二本松市東和地区は、「いちえふ」から40キロ以上離れているが、事故当時の作物は3月のうちに処分された。また、4月には、また新たに作付する決意をする。それは「食べる」ためではなく「測る」ためである。

一方、しいたけ栽培も盛んだったが、2014年2月になっても制限は解除されないほど、セシウムが高いが、きっぱりと方向転換し、2011年春からブドウの木を植え、ワインづくりを開始する。

また、農地土壌の調査では、以下の結果が得られる。

・セシウムの90%以上は、表土から5センチほどのあいだに集中している
・ただし場所によって線量は大きく異なる(1,000~30,000ベクレル/kg)。
・セシウムは、半分(Cs134)は半減期2.1年、半分(Cs137)は30年

このデータから、2年後以降、順次耕作の再開が可能であり、そのためにきめ細かく線量を測る必要がある。

また、平行して、農家の人たちの外部被曝線量が年間1ミリシーベルト程度に抑えねばならない。

なお、この東和地区はかつては養蚕が盛んだったが1970年代をピークにその後低迷、1980年頃より、出稼ぎではなく農業によって生計がたてられるよう努力が続けられてきた。

ゴルフ場や産廃処理場などの建設には反対し、有機農業に取り組むほか、桑畑をもう一度よみがえらせようとしてきた。

また、新たに農業を行おうという人を支援したり、堆肥づくりに独特の方法を用いたり、「東和げんき野菜」という認定製品の開発も行った。

野中たちは、ここで以下の三点を目標にした。

・線量調査
・セシウムの低減対策
・地域コミュニティの復活

実際には、まず、地域内の6地点を選ぶ。

・馬場
・北作
・五反田
・布沢
・高槻
・問屋

これらは、原発からの距離や気候条件の違い、つまり、降下物の落ち方の違いによって決められた。

またこうした調査などで現地を来訪する人たちのために、「農家民宿」がスタートしている。

独特の郷土料理と酒を提供しており、公式ページには現在7軒ほどがクレジットされている。

なかには「注文のきかねえ料理店」という通称をもつ農家レストラン(正式名称は「季の子工房)もあり、そこには猫がいる。


***

福島県の水田は今や、ゼオライトと塩化カリウムを投入しなければ、作付ができない。

そんななか、有機農業を行ってきた人たちは苦悩する。

稲作を行わなければ補償金が出るため、東和地区では2012年の春には3割が休耕した。

一方有機農業をしている人の一部は、ゼオライトなどを使わずに従来通り堆肥だけで栽培する。

その結果を比較すると、対比もゼオライトもほとんど変わりがないということである。

また、露地栽培されていた野菜については、春野菜は線量が高く出荷停止になるが、夏野菜以降は、検出限界値まで下がる。

ただし、大豆、山菜、野生きのこの一部は、今でも線量が高い。

山菜やきのこはよく知られているが、大豆は、堆肥や肥料を使わない場合が多く、そのためにセシウム吸収の抑制が行われず検出される。大豆がセシウムを吸い込むのを抑える技術が今求められている。

***

本書のなかでもたびたび登場するが、深刻な問題の一つとして、「猜疑心」がある。

野中はある人から、どうせ学者なんて1-2年調査して学会で発表して終わりでしょ、といったような嫌味を言われたようだ。

私のまわりでも、何のためにおまえはここに来たのだ、といったようなよそよそしい対応を受けた人がいる。

これは正直、仕方のないことである。

実際にそういう人たちも、数多く出入りしているのであろうから。

野中は2年すぎてようやく、その人が心を開いてきてくれた、と言うから、かかわったからには2年以上、継続することなのだと思う。

信頼関係は、そう簡単には築けるものではないということを痛感する。

また、この問題と関連するのが、「風評被害」である。

結局、いずれも「情報公開」と「コミュニケーション」が大事だということになる。

「フクシマの現実を首都圏の消費者に「知って」「考えてもらう」だけでなく、福島県内の生産者と消費者の不安の解消を最優先にすることが大切」(131-2ページ)ということのようだ。

「福島の農業を復興するには、多くの人たちと語り、多くの人たちを巻き込みながら、すべてのデータを公開し、情報を発信していくしかない。」(132ページ)

***

有機農業による積み重ねで、わざわざ化学肥料のカリウムを入れなくても、稲わらや堆肥によって作物にセシウムが検出されないという結果が生まれているようだ。

実は野中は、学者であると同時に、有機農業を推進する活動家でもある。

本書に登場する人たちも、そのネットワークが基礎となっている。

***

なお、農学研究においては、すでに1950~60年代に、核実験による放射性降下物がどういった影響を及ぼすのかについて、膨大なデータを残している。

まず、この期間にセシウム(134,137)は、日本全土に約200ベクレル/kg降り注いだ。

3.11前にはセシウム134はなくなったが、137は、まだ20-40ベクレル/kg残っていた。

また、ストロンチウムも200ベクレル/kg蓄積されていた。

セシウムについては、これまでの研究から、以下のような知見が得られている。

・土中に粘土や腐植が多いとセシウムが吸着されやすい
・カリウムが土にあまり含まれていないと作物に吸収されやすい
・マメ科の牧草は、セシウムを吸収しやすい
・露地野菜は葉にセシウムが吸収されやすい
・水はけの悪い水田は、セシウムが土壌の表層に集まりやすい

***

一つだけ、謎がある。

著者紹介に「いち早くブログで情報と分析を発信」と書いているが、そういうブログが見つからない。これは「twitter」の間違いではないだろうか?

***

農業の現場に寄り添った研究が、ここに、ある。



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8月によく読まれたブログ記事5選(核関連)

テーマ:原子力関連言説の変遷
2014年8月によく読まれたブログ記事5選(核関連)


1位 原爆による放射線障害と若き日のブラックジャック――やり残しの家、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11782719601.html

*2014年2月に書いた記事で、急に今月になって多くの方に読まれました。なにか手塚治虫かブラック・ジャック関係で話題になったのでしょうか。


2位 チェ・ゲバラの「原爆の悲劇から立ち直る日本」、を読む 
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11640397065.html

*2013年12月に書いた記事。原爆投下または敗戦に関してテレビか何かでとりあげられたのでしょうか。いずれにせよ、ゲバラは今でも人気が高いですね。


3位 1945年9月20日に発行された「原子爆弾」(武井武夫)の復刻を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11898487513.html

*ようやく2014年8月に書いた記事です。8月6日にアップしたせいでしょうか。あまり知られていないのかもしれません。


4位 OZAKI の 「核」への不安 ――「核」「COOKIE」(尾崎豊)を聴く
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11903889395.html

*尾崎豊と「核」という、なかなか難しいテーマをとりあげました。独特の切迫感があって、今なお不思議な魅力を発揮している人ですね。


5位 原爆=写真論 「網膜の戦争」をめぐって 鈴城雅文、を読む その2
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11903233065.html

*この記事がよく読まれたのは、個人的にはうれしいです。ちょっと斜にかまえた文章ですが、「原爆」に関する「言説」と同じように、「撮影」された写真もまた、さまざまな背景をもっていることに気づかされます。


なお、次点として、

「シュヴァイツアーの三つの理念」
「アインシュタイン、原爆と科学者の責任について語る~平和書簡3より」
「「こころ」を壊す原子力、そして、新たな価値観の創造――原子力帝国(R・ユンク)を読む」
「原爆の開発・投下に歓喜するジャーナリストはジャーナリストなのか 0の暁(W・L・ローレンス)」
「あえてこの日(8.9)に「低線量被曝」を考える――原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ、を読む」

が上位となりました。


以上、8月は古い記事が上位を占め、末永く読まれていることに喜びを覚えました。また、8月はヒロシマ、ナガサキ、敗戦にかかわる「1945」という「とき」に否応なく引き戻される時期であり、今年はそのなかで、どのくらい「フクシマ」と重ね合わせることができるか、試みました。

原子力以外では、「手作り石鹸を使っています――HoaHoaの「猫」バージョンにハマる」が好評だったようです。

個人的には、訃報があったり、飼い猫が体調を大きく崩したり、少し辛い夏となりました。


当ブログの記事をお読みいただいているみなさま、いつもありがとうございます。とても励みになっています。これからも、静かに、しかししっかりと、考察を続けてまいる所存ですので、なにとぞ温かくお見守りくださればと存じます。




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2014-08-31 22:04:00

国連軍に空爆は許されるか――現代を読み解く倫理学(加藤尚武)

テーマ:世界
読んだ本
現代を読み解く倫理学 応用倫理学のすすめII
加藤尚武
丸善ライブラリー
1996年6月

ひとこと感想
アカデミックな場においても常に媚びない発言を行ってきた著者であるが、本書では特に、具体的事件や事象をもとに、自由や生命、環境、戦争の倫理が問われている。

***

本書は、刊行された1996年よりも少し前(1995年)に起こったとてつもない二つの出来事、オウム真理教によるテロ、そして、阪神淡路大震災にかかわる内容が中心となっている。

さらにそこに環境関連のみならず、いじめ、医療、マスコミ、猥褻といった多種多様なテーマが扱われている。

目次
I 現在の倫理学
1 いじめと他者危害の原則
2 インフォームド・コンセントと患者の自己決定権
3 オフレコ破りとTBS問題
4 ワイセツ基準は使えるか
II 宗教の倫理学
5 自由主義の原則と宗教的自己放棄
6 終末論の倫理性
7 宗教法人法のあり方
8 オウム対策の科学者教育
III 災害の倫理学
9 ボランティアに弱い日本
10 日本的災害観のあやまり
IV 環境の倫理学
11 技術と倫理
12 都市は廃棄物になるか
13 環境ラディカリズムと歴史観念論
V 未来の倫理学
14 遺伝子診断と「無知のヴェール」
15 国連軍に空爆は許されるか――戦争倫理学の課題
16 未来の歴史を知ることはできるか

以下では、このなかで、15章「国連軍に空爆は許されるか――戦争倫理学の課題」のみをとりあげる。

***

「戦争倫理学」とは、「戦争をする理由、戦争をやめるべきだとする理由を明らかにする知的作業」(200ページ)である。

ここでは、「戦争」と書いているが、微妙に二つの問題がある。

第一に、通常兵器における戦争、第二に、空爆、原爆投下、核戦争、である。

空爆や原爆投下以前、と、以後、この二つは、「戦争」について考えるさいに、大きな違いを生みだした。

何が違うのか。

まず、端的に「数」である。

数万人があっという間に殺されるというのは、第一次世界大戦以降の話である。

空爆や原爆投下は、殺傷する数を大きく引き上げたのだ。

第二に、その「無差別性」である。

標的は、直接戦争に従事する人、施設、兵器などではなくなった。

もう少し正確に言えば、言い訳として、一応、そういったターゲットを狙ったと説明はされるが、実態は異なる。

この第二について、きわめて深刻なのは、一般市民、非戦闘員と言われている人たちが、あたりまえに相手の攻撃を受けるようになったことである。

ところでしばしば、私たちは「ヒロシマ」「ナガサキ」を慮るあまり、最初の空爆がいつ、どこで行われたのかを失念することがある。

思いだそう。

1937年、スペインのゲルニカをドイツ(ナチス)が攻撃したのが、最初である。

そう、あのピカソが描いた作品のタイトルの、あの場所だ。

2014年を生きる私たちには、もはや「空爆」が当たり前になってしまっているが、ピカソは、最初の空爆という悲劇を目に前にして、あの作品を描かざるをえなかった。

しかも、このとき、今思えば驚嘆以外のなにものでもないが、なんと当時の米大統領ルーズベルトは、市民を巻き添えにする無差別大量殺害は、たとえ戦争であっても許されない、と厳しく訴えたのである。

また、国際法の上では、非戦闘員の殺戮は許されていないのに、その後、数多くの空爆が行われ、そして、現在もまた繰り返されている。

一体どこで、空爆は「許される」ようになったのだろうか。

今や、国連軍が空爆を行う時代である。

加藤は、ここでまず、国連軍に対して、次のような位置づけが望ましいと主張する。

「国連軍の方針として「たとえ平和の達成にとって有効であっても空爆をしない」という原則を立てるべきではないだろうか。」(205ページ)

確かに「平和」を誰もが望んでいるとしても、その手段として「空爆」を選ぶ、という人が必ずこの世には存在する。

その場合、「空爆」すなわち非戦闘民の殺戮はやめてもらいたい、と願うことも同じくらい重要なのだ、ということである。

しかも、国連軍というのは、すなわち、「自国」を守ることを目的としていない場合が多々ある。

加藤は、ここで興味深い論点を提出する。

これまでの「戦争」の議論は、自国を自国軍が守る、ということを自明としてきた。

しかし、国連軍にみられるように、他国の平和のために戦闘を行う、という場合がある。

「「自衛のためでなく、他国の平和のためであるなら戦闘行為は許される」という立場」(208ページ)が、世界から戦争をなくしてゆくうえでの、重要な転換点ではないか、と加藤は考えているようである。

こうした考えと、絶対的平和主義は、おそらく対立する。

日本国においては、少なくともこれまで(つまり20世紀後半頃)、実は、次のような戦争倫理を形成していたことになる。

1)自分たちから他国を攻撃することはない
2)他国の平和のために、協力する (どこまで?)
3)他国から攻撃された場合には、もっぱら防衛を行う (どこまで?)

すなわち、私たちは、単純に「戦争の放棄」こそ日本国憲法の真髄であるとして、それ以上の検討をしないようにしてきた。

すなわち「絶対的平和主義」を崇高な理念としてきた。

しかし、実際に侵略された場合に私たちはどうするのか、ということに対して、たとえばの話、国連軍による防衛を選択する、ということを加藤は選択肢と考えてみる必要がある、と考えているように思われる。

逆に、もし戦争をしたい人たちがいるならば、「自国のため」ではなく、「他国のため」の戦争に、個人的に参加する、つまり、傭兵としてかかわる、という選択肢をとればよい、ということになる。

さて、そう考えると、上記のやり方が気に入らないと思う人は、何を求めているかというと、「自国のために戦争がしたい」ということになる。

これは、明らかな矛盾である。

「戦争」とは、「平和」を目指すための戦闘である。

「自国のために戦争がしたい」という人は、心の底のどこかで、「国のために自分の命を捧げたい」または、そこまでゆかなくとも、「国のために役に立ちたい」と思っているのではないだろうか。

もしそうであるとすれば、それは「戦争」でなくてもかまわないのではないか。

ボランティアや社会貢献活動に励むだけでは、駄目なのだろうか。

それとも単に、理由をつけて、自らの「攻撃欲」や「破壊欲」を満たしたいということなのだろうか。

戦争の問題は、考えれば考えるほど、分からなくなる。




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2014-08-31 21:11:00

「原子爆弾解体新書」(U2)、を聴く

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
聴いたアルバム
How to Dismantle an Atomic Bomb 
邦題:原子爆弾解体新書)
U2 (アイルランド)
ユニバーサル
アルバムタイトル
2004年11月

ひとこと感想
原爆を解体する方法、すなわち、原爆のない世界をつくる方法、それは「愛」ということになる。だがこの「愛」とは一体何を指すのだろう。自分とそのパートナーとの関係なのだろうか。「神」への「畏怖」なのだろうか。「国家」や「民族」なのか「人類」なのか。それとも、シュヴァイツアーのような「生きもの」すべてに対する「思いやり」なのだろうか。

***

アルバムは、iPodのCM楽曲として使われた「Vertigo」ではじまり、全体的にクオリティの高いつくりとなっている。

昨日記事を書いた「アンフォーゲッタブル・ファイアー」と同じく、なかなか歌詞の意味をとるのが難しい。

何度か聴いても、今ひとつ、しっくりこない。

ただ、一曲だけ、少しだけ、コメントしておきたい。

***

当初は収録されず、後に日英のボーナストラックのなかに「Fast Cars」という曲がある。

曲調はインド風であり、歌詞は語呂合わせが多く、全体として、かなりラフなつくりとなっている。

この曲の中に「原爆解体・・・」という文言が登場している。

2番の歌詞は、こんな感じである。

どこにも行くつもりはない
自分がいるところに、たくさんの楽しみがある
砂漠にいるのは、原爆を解体するため
チャンネルをホップに合わせて見てるのさ
ストックをチェックして
デトックスをやっちゃって
君のものならなんでも欲しいよ
もし原爆を止められたなら、君は何がほしい?

この意訳もかなりいい加減な超訳であるが、正直、何を言っているのか、ほとんど理解できない。

こうして比べてみると、「アンフォーゲッタブル・ファイアー」の方が、意味と光景がはっきりしているように思えてくるから、不思議だ。



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2014-08-30 21:27:00

原爆の火と「忘れがたき炎」(U2)

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
聴いた曲
焔 The Unforgettable Fire
U2 (アイルランド)
楽曲・アルバムのタイトル
1994年10月

ひとこと感想
聴けば聴くほど、いろいろと考えさせられる歌詞。ただ、本当のところはよく分からない。ただ、エピソードから類推すると、やはり、原爆被害の光景が曲から浮かび上がってくる。

***

U2の4枚目のアルバム The Unforgettable Fireの4曲目。

Wikipediaによれば、このタイトルは、シカゴにある「平和博物館」で見た、被爆者たちが描いた絵画に衝撃を受けたことから、同じ題名をつけた曲をつくり、アルバムのタイトルにもしたという。

この博物館は、芸術家のマーク・ロゴビンが1974年に原案を思いつき、多くの人の協力で
1981年に設立。

たとえば、スティービー・ワンダーやオノ・ヨーコ、ピート・シガーなど、ミュージシャン、アーティストが参加している。

キング牧師の写真、ジョーン・バイエズの詩、ジョン・レノンのギターなどを収めていた。

1982年7月にはロゴビンは広島を
訪れ、「被爆者が描いた「原爆の絵」の原画50点を選ぶ。8月6日から約4カ月間展示へ 」(ヒロシマ平和メディアセンターより)。

「原爆の絵」は、正確には
「市民が描いた原爆の絵」であり、1974,75年に収集されたものである。

「50枚」がどの作品なのかは定かではないが、「平和データベース」で「炎」で検索してみると、300点以上もの作品が抽出される。

ボノたちが観たのは、この作品群であろうと推測される。

「アンフォーゲッタブル・ファイアー」を邦題は一文字で「焔」としているが、私は「忘れがたき炎」とした。

この「平和博物館」は、長期にわたって運営に苦しみ、運営責任者を変えたり、移転などを試みるが、抜本的な解決にならず、残念なことに現在では、閉鎖されている。

***

歌詞は、ちょっと私には難しすぎて、うまく理解できないが、どことなく悲しげで、切ない。

ただ、何らかの「別れ」をうたっていることは、確かだ。

これを恋愛の一光景(別れの場面)として聞くこともできるかもしれない。

しかし、ひとたびこの曲が、「ヒロシマ」「ナガサキ」とかかわりあうことを知ると、その「意味合い」が一変しそうである。

とりわけ、以下のところが、印象深い。

ウォークオンバイ、ウォークオンスルー、ウォークティルユーラン、アンド、ドントルックバック、フォー ヒアアイアム(こう書いても、著作権法にふれるのだろうか?)

「ユー」が誰なのかは、よく分からないが、少なくとも「自分」にとって大切な人で、その人が最初は自分のそば
(=バイ)歩き、それから、自分から離れて(スルー)、そしてさらに、自分はここにとどまるが、振り向かずに相手を走らせる、といったプロセスは、とても生々しい光景を思い描いてしまう。

また、全体に「哀切」感がただようのは、以下のような語彙が最初から並ぶからである。

凍てついた
冷えた水が
流れる
金銀に光る街灯
夜の帳に現れる
炭のように黒い眼差し

これが、2番になると、逆に派手な光景が対置される。これは「ヒロシマ」「ナガサキ」から離れて、自分の置かれている状況を語っているのかもしれない

カーニバル
車輪が跳ね、極彩色が駆け回る
酒に溺れ
皮膚を突き刺す
赤ワイン
側にいるのに
カラカラと、干からびた土地にいるようだ

一緒に歩いてきたが
私を置いて歩いてくれ
あまりにも酷くて
愛にしがみつくこともできない

こうした、二つの「光景」を並べながら、以下では、いずれにもつながるような内容になっているようであるが、私には、さらに、「3.11」の情景が浮かびあがってきて、しかたがない。

そばにいてくれ
今は
嘘でもいいから
今夜そばに
もう望むべくもないが
分かってほしい
どうか、連れていってほしい
あのまちへ
ふるさとへ、もう一度

山なみが崩れ落ち、海の藻屑となろうとも、
涙は見せない
泣いてなんかいない

そばにいてくれ
今は
嘘でもいいから
きっとずっと
変わらない愛がある
もしそう信じているなら
すべて大丈夫さ

・・・と進み、最後が、ドントプッシュトゥーファー、ドントプッシュトゥーファー、トゥナイト、トゥナイト、となる。

いろいろと理解の仕方がありそうであるが、私は、このように、アンフォーゲッタブル・ファイアーを聴いた。


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2014-08-29 22:42:00

原発を支える技術的理性への批判――「3.11」後の技術と人間(杉田聡)、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
「3.11」後の技術と人間 技術的理性への問い
杉田聡
世界思想社
2014年3月

ひとこと感想

原発を特別なものとして考えず、自動車と同様に、功利的で利己的な「技術的理性」によって支えられた技術ととらえ、これに対して人格主義的な非技術的理性を育てることを訴える。

杉田聡(SUGITA Satoshi, 1953-  )は、埼玉生まれの哲学研究者。帯広畜産大学教授。

***

東電が悪い、政府が悪い、御用学者が悪い、とあれこれ言われても結局のところ「責任」や「原因」がつきつめられないまま、「事故」だから仕方がないとでも言いたげに、忘却されようとする風潮がある。

杉田はこうした流れに抗い、問題の核心を突きとめようとする。

その核心に置かれたのが、「技術的理性」という概念である。

この「技術的理性」という概念は、ホルクハイマーの「道具的理性」とは異なる文脈で使用している、と杉田は断り書きを入れている。

着想はむしろ、カントの「技術的=実践的理性」から得た、と述べている(9ページ)。

それはさておき、危険な技術は何も原発だけではなく、自動車がもっとも顕著な日常化した危険技術だと著者はみなし、自動車を受け入れている社会がそうした「技術的理性」に支えられている以上、原発も受け入れられてきたのだ、と考えている。

逆に言えば、自動車も含めて「技術的理性」に対してどのような「新たな理性」を提示してゆけるか(すなわち、対抗してゆけるか)が、とても大事なところだということになる。


ところで、なぜ自動車か。

「それは、市民が日常的に手にしうる技術のうち、ほとんど唯一と言ってよいほど、利用者の住まいの外部で用いられ、しかも他者にきわめて大きな負荷を与える技術だからである。」(7ページ)

なお、ここで言われている「技術理性」は、「科学技術」のみならず、「政治技術」を含むことに注意しよう。

組み立てられた可視的な「モノ」と、その「モノ」が社会のなかでどういったふるまいをしているのかといった両面を含めて「技術」と呼んでいるのである。

本書では、この技術的理性の特質が、7点、挙げられる(1章)。

これらが、「3.11」原発事故にどう関係しているのかを説明し(2章)、最後に、技術的理性を超える可能性が探られる(3章)。

***

技術的理性の7つの特質

1)目的と適合性

技術的理性は、目的に対する手段の発見に関心をもつ。手段の「善さ」は問われず、効率性などの理由で選ばれる。

「原発は電力獲得にとって最も効率的な手段であるとして、それがもたらしうる帰結の是非を問わない。」(19ページ)

つまり原発は、電力獲得が「目的」であるはずだが、実際には原発が「最も効率的」とはなっていない。

むしろ別の目的があり、たとえば己の権力の獲得のためであったり、最も儲かるからであったり、最先端の技術であるという理由からであったりするが、杉田はそのうち、特に「権力獲得」が最大の目的となっていると考える。

この「権力獲得」のために1)電力資本の経営者と技術者、2)官僚、3)政治家、4)科学者、5)メディア関係者、の
「権力ペンタゴン」が形成されているということになる。

2)自然の支配

技術的理性は、生きものや環境を含めた「自然」を、「有用性」の見地からとらえ、技術を通して支配・制御することができると過信する。全能感。

しかし現実には、地震や津波の発生についても予防できないし、原発も事故が起こると容易に制御ができないことを、まざまざと見せつけられた。

とりわけ「核分裂」の制御を十分に果たすには、まだ、あまりにも私たちは知識も経験も浅いはずなのだが、それでいながら、一度使えると思ったものは、そのリスクを後回しにして、ともかく使ってみるというきわめて楽観的な態度がここには見られる。

しかも、こうした原発が、よりによって地震や津波が多い国にあるということ自体、私たちの間違った「全能感」ではないだろうか。

3)人間の支配

技術的理性は、「人間」に対しても「自然」と同じようにとらえ、「人間」に対しては「政治技術」(杉田はこれを「ポリテクニック」という造語をあてている)によって支配・統治できるという前提をもつ。

とりわけ、官僚制と資本という二つの技術が活用され、その両面から、本来の意味での人間(つまり、あるということ、意思をもつということ)に対して無関心となる傾向にある。

ここでの事例は直接「人間の支配」とは結びつかないかもしれないが、原発事故に対して、人間ができることは、もっとあったのではないか、ということである。

もちろん、原発事故は数が少なく、先例や経験の蓄積がきわめて少ない。

だが逆に言えば、少ないからこそ、私たちはチェルノブイリやスリーマイル、さらに言えば、東海村臨界事故などから、多くを学ばねばならないのである。

しかも、もう少し小規模な事故であれば、幾度となく起こってきたにもかかわらずそうした経験が生かされていないように見える(つまり、少なくとも外部には伝わりにくく、秘密主義に陥りやすい)のは、原発技術の安全性を一方でアピールしてきてしまったからではなかったのか。

事故は起こらない、安全だ、ということをマスメディアや直接的な広報(というより宣伝、プロパガンダ)を通じて訴えてきたことが、悪循環を生みだしているようである。

また、「人間の支配」という意味では、原発を稼働させ、事故を起こし、安定させ、廃炉にする過程において、あまりにも過酷な労働が行われている、ということも指摘しておかねばならない。

4)技術信仰・技術万能主義

科学者や技術者、言うなれば「専門家」が技術に対して絶対的な信頼を置いているだけでなく、一般市民もまた、原発による電気を利用しているかぎりは、同じような意識を共有している。

ただし、「真」の意味での技術主義は、失敗やトラブル、事故などがひとたび起これば、その原因を徹底的に追求し、少なくとも技術的には二度と起こらないような対策を行ってゆくところであるが、なぜか原発は、事故を隠蔽することが、ある種の本質となっている。

杉田も驚いているように、原発においては、技術的理性さえも、通用していない、という可能性も考えてみなくてはならない。

また、原発事故が通常の事故と、致命的に異なるのは、通常の事故の大半が、起こってしまったあとは、収束させるのが容易であるのに比して、原発事故が、むしろ、収束そのものが困難をきわめるということである。

「停める、冷やす、閉じ込める」という三原則は、確かに誰にでも理解できるが、理解できても、そのときの原発の状態が正確に把握できなければ対応もままならないというのは、すなわち、私たちは、原発をまったく制御できていないということである。

このことに、もっと真摯に向き合わねばならない。

5)価値中立性への妄信

技術的理性は、ある「技術」に何か問題が起これば、それは「技術」の欠陥のためであって、それにかかわった「人間」に責任はない、という考えを生みだしている。

技術自体に価値観や政治性が内包されているという見解をもとうとしない傾向にある結果、権威主義、集権・半民主主義、秘密主義が幅を利かす。


ここで、恐ろしいことが起こる。

私たち(市民)の生命が軽視されることである。

しかもここには、いくつかの層に分かれており、一見何のことかわかりにくくさせている。

大雑把に言えばう4つのごまかしがある。

現場で働く作業員のことを、はじめから考慮しているようには思えないこと、そして、原発をあえて人口が集中していないところに立地すること、第三に、立地した地域の周辺さえも事故が起これば影響があるのに、まったく考慮に入れられていないこと、さらに、世界中に放射能を撒き散らしても、明確な責任が問われないと思い込んでいること、である。

6)数量的世界と計算可能性

技術的理性は、世界を数量的表現で理解することで、数量化できないものを見ようとしなくなる。

そして、科学的データに不当に固執し、それ以外の可能性などを除外し「想定外」という一言で片づけてしまう。

たとえば、津波への対応は「5.7メートル」でいい、と決めつけたのは何故だったのか。

これまでのデータに基づいて決めた、という言葉は、一見、きちんと考えた末のもののように聞こえるが、貞観地震や慶長三陸津波、明治三陸津波、昭和三陸津波が、科学的に数値化できないという理由で「データ」から外されている。

また、リスク評価を確率論的に行うことも、安全神話を支えるのに役立っただけで、たとえ「万が一」にでも起こったときに、どういう対応をすればよいのか、といった対策が軽視され、「何もしない」「何も考えない」ことを推奨することにしかならなかった。

7)行為の射程・帰結への無関心

技術的理性は、技術的改良や発明の影響の拡大に対して、ほとんど関心を寄せない。

唖然とするのは、10万年も先まで統御しなければならないようなものを生みだすことに、無頓着であることだ。

私たちは常にどういう判断を下すかといえば、自分が責任をもてるかどうかではないだろうか。

語弊があるかもしれないが、自分で責任をとれるならば、ある程度のことは、無茶をしても許容されることもある。

しかし私たちは、20世紀に入ってから、そういった「責任」を問うことをやめてしまっているように、私には思える。



以上、杉田によって挙げられた7点の特質は、素晴らしくよくまとまったものであり、技術的理性がどういうものであるのかが、よく理解できる。


***

それでは、こうした技術的理性をよいものとして生きているこの時代から脱却するには(または、次の可能性をつくりだすには)、どういったことが必要であろうか。

これを杉田は「技術に関する規範理論」(147ページ)と呼び、第一に行為の倫理性の問題、第二に、法・制度の問題とする。

技術に対する「規範」について、言いかえれば「正義」(正しさ)について、杉田は、どういう提示をしているのか、そのまま引用する。

技術(の成果)の使用は、もしそれが他者の人権を侵害する現実の可能性がある場合には、個人によるものであれ集団によるものであれ、他者の合意をえないかぎり、かつ人権侵害を防止する手立てがとられないかぎり、合理化されない/正しくない。」(149ページ)

杉田はここでは「人間」の問題に限定しているため「人権」という言葉を使っているが、「生きもの」全体に対する顧慮ももちろん前提となっていることを書き添えておく。

「人権侵害」のなかでも、特に、「生命に対する危害」がもっとも問題にされなければならない、と杉田は考える。

もっと言えば、
「生命に対する危害」とは、自らに対する危害ではなく、「他者」に対して加えられる危害、である。

この「他者」のなかに、子どもや、未来に生きる人たち、が含まれている。

また、杉田はこの「
他者の人権を侵害する」という部分を「他者の健康を害する」と読み替えてもいる。

これは、言うなれば「死者」の数ばかりを気にする論客に対して、死に至らずとも、「健康」を害することを問題視すべきだということか。

さらに、
他者の人権を侵害する」は、「他者の固有の権利を侵害する」とも、言い換えられる。

これは「人権」というものが、誰に対しても共通の権利であるの対し、それ以外にモ顧慮しなければならない「権利」があるからである。

たとえば、子どもが野外や公園で遊ぶ権利。これは、今までそれほど重視される機会はなかったが、3.11以後、重大な「権利」であると認識されるに至ったものである。

続いて、「
現実の可能性」と言っているのは、実際に起こったことだけではなく、起こりうることにも適用しようとしているからであるが、これをどうやって決められるのか、難しい問題を含んでいるように思われる。

たとえば杉田は、次のように述べる。

「技術(の成果)の使用は、もしそれが他者に危害を及ぼさないような手立てがとられたとしても、危害をさけるための不当な心労・負担・出費を他者に強いる場合には、合理化されない/正しくない。」(155ページ)

「不当に」という例として、関東圏の電力を供給する東電の原発が福島県にある場合、福島県民に与えてきた不安と心労を挙げている。

***

上記の記述が、「~するな」という、ある種の制限、制約を訴えているが、さらに、積極的に「~すべき」「~であるべき」という原理をも杉田は提示する。

つまり、科学技術は「人類の幸福を実現する」ことが最終目的であるので、次のように述べられる。

「技術(の成果)の使用は、一部の人に重大な不幸(人権侵害)を決してもたらさずに、人類の幸福を実現するかぎりにおいて合理化できる/正しい。」(161ページ)

ここでは、まず、「最大多数の最大幸福」という功利主義的な考えが批判されている。

「総和」だけでは片付かない、ということだ。

個々の人々がおかれている状況を注視する場合、たとえ「総和」が大きくなろうとも、あまりにもひどい状態にある人がいるのであれば、それは「善い」とは言えない。

とりわけ「総和」は一般的に「日本人」とか「人類」といったカテゴリーで語られるが、そこには常に「社会的弱者」が軽視される傾向にある。

つまり、「人類」という言葉を使うよりは、「社会的弱者」にとって「善い」ものであるべきだ、というのが、積極的な原理となる。

こうした注釈は、理解できる。ただし、次の説明はどうであろうか。

これまで「技術の使用」について述べてきたのだが、ここで、「技術の開発」についてもふれている。

「技術(の成果)の開発は、一部の人に重大な不幸(人権侵害)を決してもたらさずに、人類の幸福を実現する蓋然性が高い場合にのみ合理化できる/正しい。」(165ページ)

要するに杉田は、人類にとって「善」ではない技術は開発すべきではない、と主張しているのである。

まさしく意見が分かれるのは、この点であろう。

原発は世のため人のためとなる、と考えている人がいる一方で、原発は世のためにも人のためにもならない、と考えている人がいる。

いずれかが正しい、と、誰がジャッジできるだろうか。

私に言えるのは、もっと消極的なことである。

「害」となりうる可能性は、できうるかぎり検討し、慎重に対応してゆくべき、ということであって、「合理化できない」「正しくない」という評価づけには、多くの困難を伴いそうである。

***

続いて、技術的理性の変革可能性、について論じられる。

それは、きわめて簡潔である。

非技術主義的な行為を繰り返し行ってゆけば、おのずと、技術的理性は変わりうる、というものだ。

以下、抽象的であるが、冒頭に記された技術的理性の7つの特質と対置されつつ、挙げられている。

1)責任をとること、他者に応答すること

当然ここで言われている「他者」は、社会的弱者、であり、声なき声を聞く、ということになる。

2)自然を共存・相互行為の相手として考えること

ここではハーバーマスの考えが参照されているが、シュヴァイツアーの言う「生命への畏敬」とも近いものであろう。

3)人間を目的とみなし、対話による相互了解を行うこと

ここでは「インフォームド・コンセント」という言葉が用いられているが、これは一人の人間が医療処置を受けるにあたって、医師が納得できる説明を行う義務、として現在一般化している。

杉田は、ここで太陽光発電について、次のように説明している。

「太陽光発電は、原発とまったく逆に、地域的にもまた権力の点でも、分権的な社会関係と調和的であり、かつそれを可能にする発電法である。」(185ページ)

確かに原発と比べれば、そう言いたくもなるが、はたして太陽光発電は、それほど全面的に肯定的にとらえられるのだろうか、もう少しその根拠を本書は説明すべきように思われる。

本書では、原発についても、太陽光発電についても、「技術」としての内実が十分に検討されていないので、これ以上の検討ができないのである。

4)技術による失敗や限界を前提とすること

(ここでは、もう一点、技術への財政配分に関する議論が展開されている。)

5)技術の政治性を極小化、無化すること

現行の技術を正当化せずに、異なる技術の採用を実行するか、もしくは、現行の技術のシステムやデザインを変革する。

6)数値化できない価値を重視すること

とりわけ、人権、もっと言えば社会的弱者へのまなざしが強調され、暮らしを変えることが目指される。

7)遠隔的で不特定の他者に対しても常に配慮すること

これは、私が今まで「遠-他者」として検討してきたものと重なるが、そういう他者に負の影響を与えないようにするのは、そう簡単な話ではない。

「理念」としては、理解できるが、一つひとつの事柄に対する丁寧な検証がもう少しほしいところである。

***

いくつか注文はあるものの、私たちは「核」ならびに「原発」を問うことにあまりに集中しすぎたということを、本書は反省させてくれる。

「原発」を「技術」として冷静にとらえ、自動車などの「技術」と共通した「技術的理性」に支えられてきたという「視点」は、かなり大切なものであると、私は思う。


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盲導犬の虐待に胸を痛める――心理学者ウィリアム・シュテルンについてのメモ

テーマ:哲学・思想
以下は、あまりにも悲しいニュースをみて、思ったことを、きわめて間接的に考察したものである。

盲導犬を虐待するような者は、決して、許されない。

それ以上のことを言うと、憎しみと悲しみで、どうにかなってしまうので、差し控える。

・・・ほんとうに、辛い。

***

2014年8月29日付記
標題の「胸を痛める」は、通常なら「心を痛める」または「胸が痛い」と言うべきところですが、あまりに動揺していて、こうした言い回しになりました。
ご了承ください。


***

まず、ウィリアム・シュテルンという人物について、説明させてほしい。

ウィリアム・シュテルン
(William Stern、1871.04.29-1938.03.27)は、IQという概念を提唱したことで知られる心理学者である。息子の一人が、あの、原爆批判を続けた哲学者、ギュンター・アンダースである。

ただし、この名前、日本語版ウィキペディアをみると、次のように記述されている。

「正式名Luis William Stern(ルイス・ウィリアム・シュテルン)のファーストネーム"Luis"は初期に"L."と記す以外にはほとんど使わず、親戚からもらった名かもしれないセカンドネーム"William"を個人名として使ったが、ドイツにおいても通常のドイツ語名"Wilhelm"ではなく英語名"William"である。」

この内容に関する典拠かどうか定かではないが、
以下の書籍がウィキペディアの記事における「典拠」として挙げられている。

 大山正・梅本堯夫(編) 心理学史への招待 第11章 個人差と個性の研究 11.3.1 シュテルンの差異心理学と人格主義心理学 Box 11.6 ウィリアム・シュテルン, p171, サイエンス社, 1994

他方、英語版Wikipediaでは、"born Wilhelm Louis Stern"とあり、典拠として、
James T. Lamiell, Beyond Individual and Group Differences: Human Individuality, Scientific Psychology, and William Stern's Critical Personalism, SAGE Publications, 2003.07.が挙げられている。

ちなみにドイツ語版Wikipediaでも、"
geboren als Wilhelm Louis Stern”とある。

つまり、独英版においては、もともとの名前が「ヴィルヘルム(またはウィルヘルム)」であったとされている。

一方、唯一邦訳されたものとして、以下のものがあり、ここでは「
ヰルヤム・シュテルン」とある。

 人格学概論 ヰルヤム・シュテルン 渡辺徹訳 中興館 1931年

この本の原著タイトルは不明だが、少なくとも本書が刊行された1931年には、
ヰルヤムすなわち、「ウィリアム」とされていたことが伺える。

ただし、
ウィキペディアにおけるこの訳者、渡辺徹についての記述には、こうある。

「1912年にドイツの心理学者ヴィルヘルム・シュテルンの人格学を日本に紹介した」(参照: 末永俊郎編『講座心理学 1 歴史と動向』東京大学出版会 1971)

さらに、シュヴァイツアーの「文化と倫理」(Kulture und Ethik, 1923)のなかで、シュテルンが登場するが、ここでも「ヴィルヘルム」となっている。

しかも文献にも、こうある。

 Wilhelm Stern, Grundlegung der Ethik als positiver Wissenschaft, 1897.

「ヴィルヘルム」になっているのである。

これらの情報をまとめてみる。

少なくとも1987年、1912年の時点では「ウィルヘルム」を使っていたが、その後、1920年代前後のどこかのタイミングで「ウィリアム」に変わった、と考えられる。

つまり、日本語版のウィキペディアの記述は完全には正しいとは言えず、一部誤謬が混ざっているということである。

***

それはさておき、ウィリアム(以下では彼のことを「ウィリアム」と表記する)は、一般的に「心理学」者として知られている。

妻クララ(旧姓・ジョセフィー)も心理学者であり、この二人のあいだには、ヒルデ、ギュンター(後にアンダースを名乗る)、エヴァ、という三人の子どもがいるが、この子どもたちを題材に
(=実験材料として)、児童心理学、発達心理学の書籍を何冊か出している。

また、同時代を生きたフロイトやユングとも何度かやりとりがあるが、最終的には、対立的関係となった。

今の学問的な位置づけから言えば、ウィリアムは、いわゆる認知心理学とか児童心理学とか、そういった領域の先駆者の一人としてとらえられるが、その息子の一人、ギュンターの思想をみると、あまりそういった印象をもてない。

むしろ、シュテルン親子は、人間のありようについて、できうるかぎり、微細にとらえようとしたのではないか、と考えられるのである。

それゆえ、ウィリアムは、単なる(というと語弊があるが)、心理学者という枠にとどまらず、哲学者であった、と言うことができる。

***

その証拠に、前述した、シュヴァイツアーの本におけるウィリアムの紹介は、心理学者としてではなく、哲学者として言及している。

 Albert Schweitzer, Kultur und Ethik, Kulturphilosophie Zeiter Teil, 1923.
 文化と倫理(文化哲学 第二部 シュヴァイツアー著作集 第七巻、氷上英廣訳
 白水社 1957年2月

シュヴァイツアーはウィリアムについて、あまり注目されていないが、「倫理の発生学的成立」(251ページ)に関する研究を行っている研究者、ととらえている。

「道徳的なものの本質は、生命へのあらゆる有害な干渉に抵抗することによって、生命を維持しようとする本能である。」(251ページ)

こう書くと、ある個体は、自分の生命を維持することに第一の目的がある以上、利他的ではなく利己的にふるまう、ということになる。

一切の他の「生命」は
「有害な干渉」とみなされるのではないか、と思ってしまう。

ところが、そうではなく、「利己的」であるからこそ、自らの生命を維持したいからこそ、「他者」すなわち他なる生きものの助けを必要とするのである。

これをウィリアムは「協同性」とみなしている。

「他者」とは、必ずしも「敵対」するものではなく、共通の利害をもつこともある。

すなわちここには、俗流的な進化論的思考である「弱肉強食」という概念よりも、一歩ふみこんだ「他者」概念を提起していると考えられる。

個体は、自らの命を維持してゆくために、どうしても、他者の手を借りざるをえない、というものである。

それゆえこれは、ヘーゲルが常に「他者」を「自己」の否定とみなしたような発想とも少し異なる視点を提示している、とも言える。

ヘーゲルの「主と奴との弁証法」は基本的にエゴイズムに端を発する。

相手は、敵対するか、否定することが大前提である。

ちなみにシュヴァイツアーは「共通の利害」について、「自然の暴威」を挙げているが、そればかりではないだろう。

「共同の危難」を前にした場合、それまで敵対していた者どうしも、互いに助け合うことになると考えられており、これが、ヘーゲルのような思考と決定的に異なるところである。

「すべての倫理は、共同経験された生存の脅威の観念によって決定された生の肯定である。」(252ページ)

進化論が協同性を論じるときは、単に同種の生きものの結びつきだけに注目し、結果的に「畜群本能」を説明するばかりである。

だがウィリアムが述べているのは、「同種」ではなく、「あらゆる生きもの」がある種の連帯性をもちうる、ということである。

それゆえ、「倫理」をヘーゲルが「人倫」と述べたような形で、「人間」に固有のもの、とみなすことは、ウィリアムにはない。

「倫理は単に人間のみに固有のものではない。」(252ページ)

その根底は「自己保存の本能」からはじまったことであるとしても、私たち、すなわち、あらゆる生きものは、他者(同じ種にかげらず、他の生きものもすべて含む)のために何かをする、ということを本質とする。

言いかえれば、本当に必要とならないかぎり、「他者(しつこく書くが他の生命を含む)に危害を加えてはならない」というのが、あらゆる生きものの「掟」なのである。

同時代の多くの哲学者が、「人間」にとっての「倫理」を考察したにとどまっていたなかで、ウィリアムは、「生きもの」としての「倫理」にまで考えを進めていた点が、大きく異なる。

ウィリアムが積極的な意味で、こうしたことを述べているのに対して、消極的(受動的)な意味で論じたのがショーペンハウアーだったと、シュヴァイツアーはみなしている。

***

ところでシュヴァイツアーにとっては、二つの倫理の併存が、基本である。

1)自己完成
2)献身

1)については、カント、フィヒテ、ニーチェが能動的な自己完成の倫理を展開した、とみなしている。

古くは、ゾロアスター、ユダヤの預言者、楊子などの中国の思想家などもこの系譜に連なる。

また、インド哲学とショーペンハウアーは「受動性」を前提とした自己完成の倫理もまた、評価する。

***

はっきりとシュヴァイツアーは、「動物実験」について、次のように述べている。

「動物に手術あるいは薬物を試み、あるいは病毒を接種して、その得た結果によって人間に救いをもたらそうとする人々は、かれらの残酷行為が価値ある目的を追求するということで、全般的に安心することは決して許されない。人類のためにかかる犠牲を一動物に課するという必然性が果たしてあるかどうかを、個々のケースについて、考慮した上でなければならぬ。」(323ページ)

もちろん、盲導犬に対する虐待は、この動物実験」以上に、その人間の単なるエゴに基づいているだけに、まったく情状酌量の余地はない。

ほんとうに、悲しむべきことだ。


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2014-08-27 21:43:00

現代における平和の問題(A・シュヴァイツアー)を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ講演録
現代における平和の問題
ノーベル平和賞にさいして講演 1954年11月4日、オスロ―にて
アルベルト・シュヴァイツアー
手塚富雄訳

所収
シュヴァイツアー著作集 第6巻
白水社
1957年7月

Das Problem des Friedens in der heutigen Welt
Albert Schweitzer
1955

ひとこと感想
順番がひっくり返ったが、2日前に書いたシュヴァイツアーの三つの理念のうち、最初の「平和」に焦点をあてた講演。とても真っ当な考えでほっとする。それにしてもなぜ、シュヴァイツアーの評価がこれほどまでに低いのだろう。

***

エリザベス・アンスコム、トーマス・ネーゲル、ジョン・ロールズといった英米の20世紀哲学者たちは、原爆投下が道徳的に「悪」であるという議論を行っている。

その前提として、彼らは、その無差別な大量殺戮を挙げている。

もう少し正確に言えば、非戦闘員を多く含む地域への攻撃は、道徳的に「悪」である、ということになる。

すなわち、ヒロシマ、ナガサキのみならず、それ以前の各地に対して行われた焼夷弾による空爆も、同じ次元で非難される。

それに対してシュヴァイツアーは、異なる見方をしている。

まず、この「非戦闘員」への攻撃についてであるが、アンスコムらの議論では、特にその「起源」が述べられず、ある種の永遠性、普遍性をもった道徳原理とみなされている。

私たちはこの「原理」「原則」すなわち、非戦闘員に攻撃を加えてはならない、負傷者は手当てをしなければならない、手当てをする人たちを攻撃してはならない、捕虜を人道的に扱う、といった考え方が、どこに由来するのかを確かめておかねばならない。

それは、1864年のジュネーヴ条約にさかのぼる。

赤十字の尽力により、国際的な取り決めがつくられた。

まず最初は、怪我人や病人には手当てをすること、捕虜は人道的に扱うこと、そして「非戦闘員」(civilian persons)にも十分の配慮が行われること、これらについてのConventionである。

この流れはその後も改良が重ねられ、現在も世界中で受け入れられている(一部の国では、コンベンション、プロトコルの一部を受け入れていない場合もある)。

これに対してシュヴァイツアーは、次のように評価している。

「それらによって重大な進歩が達成され、それにつづいた諸戦争において何十万の人々が益をうけることになったのであります。」(185ページ)

しかし、ここには保留点もあることを、シュヴァイツアーは見逃さない。

「近代の殺戮破壊の手段の発達と共に無際限に増大した戦争の禍とくらべますなら、それも僅かなものにすぎず、そもそも、人道化などという言葉が使えたものではなかったのであります。」(同)

シュヴァイツアーはそれまでの戦争が決して全面肯定できるわけではないが、プラス面として評価できる面もなくはなかった、と考える。

ところが第一次世界大戦以降は、あまりにも被害が大きすぎた。

こうした協定は決して悪いものではないが、全体的に起こっている出来事からみると、協定自体の意味が失われている。

原子爆弾によって都市の全域が住民と共に無に帰し、焼夷弾によって人間が燃えるたいまつとなってしまう」(189ページ)

明らかに、ドレスデンへの英国と米国の空爆、米国の日本各地への焼夷弾空襲、広島と長崎への原爆投下などを彼は想定している。

原爆については、次のようにも書かれている。

もともとの「知識」としては、最大の「進歩」としてとらえられている。

「最後にさらに進んだ発見として現れたのは、原子の核分裂の際に放射される巨大な力とその利用についての知識であります。」
(188-189ページ)

それに対して、戦後に行われてゆく「核実験」にシュヴァイツアーは関心を向ける。

「しかし、まもなく明らかとなったのでありますが、この方式によって完成された爆弾の破壊力は測り難い程度にすすみ、すでに大きい規模にまで発展しつつあるその実験そのものが、人類を破局に導きその存続を危うくするかも知れないのであります。」(190ページ)

こうした彼の論理でゆけば、原発もまた、「万が一」事故が被った時の致命的な影響の仕方は、十分「核実験」と同じ水準をもつと考えられる。こうも言っているからだ。

「いまや初めて、われわれの存在を脅かす恐怖がわれわれの前にその全貌をあらわしました。」(190ページ)

すなわち、「
われわれの存在を脅かす恐怖」をもたらす「技術」に対する、批判的な目が、ここには現れている。

そして、問題なのは、「私たち」がこうした「技術」に対して「非人間」となっているということだ、と指摘されている。

「非人間」とは、原爆投下や焼夷弾投下に対して、「傍観」という態度をとったことである。

戦争を終わらせた、真珠湾攻撃の報復、戦後体制におけるソ連への牽制として必要、などなど、いろいろな説明がなされる。

その「言い訳」は、結局は「戦争」だから、というものだったが、シュヴァイツアーはそれがはたして、正しかったのか、と問うている。

これに対して、今、「人間」はどうあらねばならないか。

「この意欲と期待の目標となることはただ一つ、われわれが新しい精神によって、より高い理性――われわれをしてわれわれが用いうる力の厭うべき濫用を捨てさせる理性――を獲得することであります。」(190ページ)

われわれが用いうる力の厭うべき濫用を捨てさせる」という、とても抽象的な言い回しではあるが、イリイチが提示した「上限を見極めて線を引く」というオルタナティブ論と似通ったものであるように受けとめてみた。

そして、ここで言う「より高い理性」の一歩手前にある、こうした事態を「傍観」できる理性こそ、ホルクハイマーが「道具的理性」と呼んだものであろう。

***

ところで、私たちにはよくわからないが、シュヴァイツアーの歴史感覚からすると、第一次世界大戦は、「最後の戦争」という意識が当時強かったという。

「戦争のない時代の到来のために闘うのだという確信をいだいて、当時多くの勇敢な兵士が戦場に向かったのであります。」(186ページ)

前述したように、無数の人が命を落としたのは、「最後」という意識があってのことであり、その先には、もう「戦争」がない、という「理想」のもとに闘われたというイメージのようである。

そして第二次世界大戦は、そのままずるずると進んだ感がある。

もしかすると、当時の多くの人たちは、もう戦争はやめよう、という気持ちになったのかもしれないが、歴史的には、その後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争など、幾多の戦争が起こってきたのか、数え上げることもできないほどである。

確かに、核兵器の実戦使用はされていないが、およそ「人道的」とは思えないことが繰り返し起こっている。

これは逆に、核兵器の使用(もちろん化学兵器の使用も)さえなければ、あとは何をやってもよい、という事態になっているのではないかという不安を抱く。

少なくとも、平和憲法をもち、直接的な武力行使を行ってこなかった国で生活している者としては(そして、たとえ、米国の庇護のもとにいたとしても)、シュヴァイツアーと近い視線で、世界の情勢をみることができるはずだと思うのだが、実際は、次第に異なる様相をもちはじめている。

***

後半ではシュヴァイツアーは、戦争に対する倫理的検討を行い平和を追求した思想家、哲学者たちをふりかえる。

まず、エラスムスの「平和の嘆き」(1517年)が挙げられる。

ここでは「平和」が「語り手」として登場して、人びとに平和のあり方を説教しているようである。

続いては、ご存じ、カント「永久平和論」(1795)ほか。

シュヴァイツアーはカントをよく読んだ人間だが、ここでは厳しい意見が出ている。

カントは平和というものを倫理的必然とはみなさなかったとする。

国際連盟に対して倫理的根拠を持ち出すことなく、あくまでもこれから長い時間をかけて完成されてゆくであろう「法」が実行される場とみなしていた。

こうした、仲裁機能をもたせた国際機関というカントの発想は、17世紀のフランス、アンリ4世の大臣だったシェリーに起源がある。

また、18世紀には、カステル・ド・サン=ピエール「キリスト教君主間における永遠平和案」が登場するが、この考えをカントは、ルソーの「新エロイーズ」にある要約を読んで知っていただろうとシュヴァイツアーは推測する。

さらに、戦争の被害を受ける「諸国民」が戦争を望んでいるはずがなく、戦争は常に為政者が仕掛けるものだ、という前提がカントにあるが「つねに変わりやすく、熱狂に動かされて正しい理性からはずれ、必要な責任感を十分にもたない」(197ページ)ということも多々ありうる、とシュヴァイツアーはとらえている。

カントよりもシュヴァイツアーは現実主義的なのである

特に注意を呼びかけているのは、ナショナリズムである。

「素朴な民族主義が、彼らの所有する唯一の理想となるという危険」(197ページ)「によって、いくたの地域で、これまで保たれていた平和が危機にさらされました」(198ページ)。

***

実際に、国際連盟も国際連合も、平和そのものを実現する機関とはならなかった、とシュヴァイツアーは結論づけている。

ただし、国際連盟が、戦争により国籍を失った人たちへの代用旅券の発行をおこなったり、国際連合においても避難者や追放者へのケアを行ったりと、大きな役割を果たした点については、高く評価する。

すなわち、シュヴァイツアーは、カントとは異なり、また、国際連盟や国際連合のような法的機関によるのではなく、倫理的精神によって平和をうちたてねばならない、と考えるのである。

「精神」によって人類は中世の迷妄から脱出し、それが再び力を失い「科学技術崇拝」に陥ったのであって、再び「精神」を取り戻せば、「再び奇蹟」(194ページ)が起こるかもしれない、と期待されている。

そしてこの「倫理」の根拠には、「同情」があるのだが、当然、どのような民族であっても、すべての人類はみな平等であるということに基づいている。

いや、さらにもう一歩、シュヴァイツアーは踏み込んでいる。

「ただ人間に対してだけでなく、生きとし生けるあらゆる生物に向けられる」(195ページ)

これが「生命への畏敬」というシュヴァイツアーの考えである。

大前提に「非-利己主義」があるように思える。

もっと言えば「献身の倫理」である。

*ここからは、「人間の思想の発展と倫理の問題」(LE PROBLÈME DE L'ÉTHIQUE DANS L'ÉVOLUTION DE LA PENSÉE HUMAINE, 1952.10、国松孝二訳より引用)

「献身の倫理はこれを徹底的につきつめて行くと、もはや私たちが人間だけを対象にすることを許さないのであって、私たちによって運命を左右させる一切の生きものに対しても、同じような態度をとることを要求する。」(167-168ページ)

こうした考えは、すでに人間中心主義にはいないし、ある教義や主義主張を繰り返しているようなたぐいのものでもない。

シュヴァイツアーの「経験知」のようなものであろう。

「無垢のままの感受性を持っている人間ならば、あらゆる生きものにあわれみを持つのを、きわめて自然のことだと思うだろう。だのに、なぜ哲学は、そうした生きものに対する私たちの態度が哲学の説く倫理の重要な部分をなしているということをみとめるのに、いつまでもためらっているのであろうか?」(168ページ)

こうして、はっきりと、「生きもの」すべてに対する平等観を提示する西洋の思想家も珍しい。

もちろん、それは思想や哲学の問題であるのみならず、私たちの日常や生活の問題であり、また、だからこそ一筋縄ではゆかず、さまざまな葛藤が現れるのは明らかである。

しかし少なくとも大事なのは、「人間」だけが偉いといったようなことを「自明」のこととしないことであり、少しでも改善することが、私たちができることであるだろう。

すなわち、「人間中心主義」も「ナショナリズム」も、結局のところ、エゴイズムに行き着くのである。

***

さて、こうしたシュヴァイツアーの考え方には、とりあえず、二つの課題がある。

第一に、科学技術に対して私たちは、本当に、何らかの「制限」ができるのか、という問題である。核兵器や原発のみならず、科学技術はひとたび実現されると、人間による歯止めが利かないのではないか、と懸念される。これは、応用倫理のみならず、科学技術社会論(STS)においても、今後検討されるべき主題である。

第二に、法によってではなく倫理において戦争がなくなるという考えは、ただの理想でしかないのではないか、という危惧である。シュヴァイツアーは科学技術だけでなく、人類の英知や精神も「進歩」するものだと考えているが、私にはそうした見解をとることは難しい。努力が無駄だとは言わないが、そうした意識にのみ頼りきれるとは思えない。



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2014-08-26 19:22:00

喪に服す

テーマ:世界
とても、大切な人を喪った。

私が子どもの頃、私の母を支えてくれた人。

私にとって、・・・ いや、うまく言葉が出ない。

今日は。

ただ、本人には、伝えることのできなかった、感謝の気持ちを、この、インターネットという海原に、静かに、沈めておきたい。


いままで、ずっとお世話になりっぱなしで、ほんとうに、ごめんなさい。

恩返しを、いつか、したかったんです。

でも、間に合いませんでした。

・・・こういうのは、辛いです。

せめて、一言だけ、耳を傾けていただけませんでしょうか。


ただ、ただ、感謝しています。

ありがとうございました。

どうぞ、心安らかに、おやすみください。





2014-08-25 21:21:32

シュヴァイツアーの三つの理念

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ論考
文化の頽廃と再建
アルベルト・シュヴァイツアー
国松孝二訳

シュバイツアー著作集 第6巻
白水社

Verfall und Wiederaufbau der Kultur: Kulturphilosophie, erster Teil
Albert Schwitzer
1923

ひとこと感想
少し前まではあたりまえのようなことを訴えていたように感じたが、今やそうした「倫理」を一貫性のあるものとして打ち出した、稀有な人物に思える。思ったほどに説教くさくなく、ある意味ではキリスト教の考えを逸脱しているかもしれない。

***

私なりに、21世紀の今、シュヴァイツアーの思想から何が得られるのか、考えてみた。

大きくまとめると、以下の三つの考えをもっている、と言える。

・平和への願い
・平等への願い
・生命への畏敬

平和に対しては、倫理として、人間どうしが殺傷しあうことをやめよう、と訴えている。この考えを拡張させると、人類全体に「恐怖」を与え続ける「核実験」や「原発」もまた、受け入れられないものとなる。

次に、平等に対しては、人種などに起因する差別意識をなくそう、と訴えている。この考えを拡張させると、性別やその他の属性などに起因する差別や、社会的立場を利用した嫌がらせなどもまた、受け入れられないものとなる。

さらに第三の生命への畏敬であるが、これは上記の二点が、最終的には「人類」や「人間」といった枠組みにとどまらず、「生きとし生けるもの」すべてに適用されるべきだというものである。動物愛護に反した行動や食肉、さらには実験用モルモットに至るまで、受け入れられない方向性をもつ。

もちろんこれらは、いずれも「未-実現」のものばかりであるが、少なくとも彼が訴えたときから100年近くたった今でも、「理念」として、私たちも掲げ続けるべきではないか、とあらためて思うのであった。

何よりも、これら三つのテーマは、私が長年のあいだ抱き続けてきた(内在的な)「課題」でもあり、それらをすべて包含して語り続けてきたシュヴァイツアーに、あらためて、「最良の知識人」としての像をみるのである。

いや、逆なのかもしれない。

いろいろなことがありすぎて、私たちはしばしば混乱してきたが、原点に帰れば、彼の言うことが、「典型的」もしくは「常識的」「良識的」「標準的」な、理想主義者の考えなのであった。

ある種、当たり前すぎて面白みがない、という人もいるかもしれないが、これを「当たり前」に受け入れてくれる人は、それで、まったくかまわないのだ。

ところが、私はむしろ、こうした考えに全面的に対立する考え(そして人)が、思った以上に世にある(いる)という驚きである。

まず、「平和」について驚くのは、隣国に対して好戦的な発言をする人間、「戦争しかない」と叫ぶ人間が、それなりにいる、ということだ。

しかもそれが「平和」にいることがまるで「悪」であるかのようにとらえられたりする。

個人レベルの場合、たとえ自分や家族など近親者に何か危害が加えられたとしても、そこで、同じことを仕返す人は、あまりいない。

法に訴え、法によって裁かれることを望むはずだ。

もちろんこれは「防衛」という次元とは異なる話であり、「戦争」として考えてほしい。

また、差別の問題については、もっと深刻であり、国連の
人種差別撤廃委員会の対日審査会合で出ているように、近年、ヘイトスピーチなどの暴力行為がさもあたりまえのように行われている。

国連で言われていることが至極まっとうであると思うのだが、なんとなくそれを黙認する空気もあったりするのは、なぜなのだろうか。

これについては、あとで、ナショナリズムの問題として、もう少しふれる。

第三の、あらゆる生命への畏敬であるが、これも、さも当然と思っていたら、平然と自分の子どもや家族、さらには他の人間、そしてさらには犬や猫にまで、暴力をふるったり殺傷してもかまわない、と思っている人が、それなりにいる。

たとえば、野良猫に対して不凍液を混ぜたごはんをあげて殺傷しても法にはふれない、と嘯く人たちがいる(「埠頭駅」「定食」「猫」などで検索してみてください)。

地域猫やTNR活動をしている人たちのことを「愛誤」と揶揄し、憎しみをこめて攻撃をする人たちがいる。

その人たちなりの「理屈」や「言い分」があり、それを全面否定するつもりはないが、手段や考え方、表現の仕方などをみていると、少なくとも社会的に許容されがたいものだと、私は思うのだが、その人たちはそう思っていない。

私たちはよく「社会」や「世界」というが、自分がわかる「社会」や「世界」というのは、実はそのうちの、ほんの一部にすぎない。

しかも、基本的に人は、自分が気に入らないもの、嫌なもの、否定的にとらえているものから、なるべく遠ざかって生きようとするから、自分のまわりには、必然的に自分と近いものが多くなる。

そうすると、その「外側」にさまざまな価値観や考え方があったとしても、なるべく見ないふりをして、やりすごそうとする。

わざわざ自分の嫌なものに囲まれたがる人など、そう多くいるとは思えない。

やや話が逸れるかもしれないが、たとえば、夜に何台かのバイクで10代と思われる少年たちが大きな音をたてて走り回っていることがあるが、私たちはそれがたとえ迷惑だと感じても、通り過ぎるだけであれば、「うるさいな!」と苛立っても、それ以上に何か考えたり行動することはない。

やりすごすだろう。

そういうものだ。

しかしこれが、毎日続き、しかも長い時間近くで騒音をたてられたら、黙っていられなくなる。

ネットの情報は、それに近い。

言い方は悪いが、世の中はままならず、いろいろとかかわりたくないことも多い。

だが、避けて通れなくなると、何らかの対応をすることになる。

マスメディアは、戦時中の翼賛体制を除けば、これまで、基本的にはこうしたシュヴァイツアー的倫理を共有し、これを「社会的良心」と考え、そうした共通のフィルターによって報道されてきた。

ところが今では、平然と、極論を「自説」として叫ぶところが増えた。そしてそれはこれまでのメディアだけではなく、むしろネットにおいて余計に、これまで起こらなかったことが、起こるようになった。

「私たち」というくくりが「自分」とそれに近い考えをもっている人で構成されていると思っていたのが、実は、かなり多様であり、時には対立する場合も少なからずある、ということに気づかされるのである。

言ってみれば、自分とはまったくかけ離れた考えをもっている人たちの集まっている集会に、間違って参加してしまったとき、私たちはかなり、つらい思いをするであろう。

ネットで起こる出来事は、そうしたものに近い。

検索した結果表示されるものが、必ずしも自分と同じ「世界」にいない場合がある。

しかも、それが、不快であったり、恐怖を催したり、目をそむけたくなったり、することもある。

そういう場合、できるだけ何事もなかったかのように、その場を去ろうとするが、場合によっては、うまくゆかないこともある。

相手を非難したり攻撃するようなことを書きむようなことを、しないとは、かぎらない。

***

少し、整理しよう。

これらシュヴァイツアー的倫理に対立する世間の言動に共通するのは、何か。

それは、ある種の「非寛容」であり、「排他性」であり、「利己主義」かつ、他者との共存意識の希薄さである。

たとえ、自分たちが「正しい」と心の底で思っていても、それを口に出すということが、これまであまりなかったということなのだろうか。

インターネットによって、私たちは、見たくも、聞きたくもない、そういう言動にもかかわってしまうために、心がくるしいのだろうか。

だが、もしそうだとしても、少なくともその人たちの「本音」は、こうしたシュヴァイツアー的精神とは反目するにもかかわらず、はっきりと、自信を持って「正しい」と考えられている。

この落差は、一体何なのであろうか。

***

さて、シュヴァイツアー自身に語らせよう。

すでに「平和」や「畏敬」については、当ブログで書いたので、今回は、平等への障壁となると考えられるものとしての「ナショナリズム」に絞ってみる。

***

シュヴァイツアーはなにも「ナショナリズム」全般を非難しているのではない。

「ナショナリズムとは何であるか? それは卑しい熱狂的な愛国主義のことであって、高貴で健全な愛国主義とくらべると、正常な確信に対する妄想のようなものである。」(249ページ)

まず、前提として、「国民国家」が正当なものととらえられたのは、それほど古い話ではない、ということを確認しておかねばならない。

シュヴァイツアーはフィヒテをもちだす。すなわち、19世紀初頭を起点とするのである。

フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」は、決してナショナリズム発揚の思想ではない。

諸個人の文化(人間的成長)が高まるようにするうえで、国民国家というまとまり方が便利で都合がよい、とするものである。

「愛国主義の礼賛それ自体は野蛮と見なされるべきであり、それが必然的に無意味な戦争をひきおこす」(250ページ)

しかし実際のところシュヴァイツアーの目から見ても、こうした「理想」は破綻した。

二つの世界大戦、そしてその後の冷戦という名の厳しい均衡。長年にわたって、マイナスに作用し、結果的に国民国家は、文化を彫琢するというよりも疲弊させ破壊され、結果的には「没落」していった。

「ナショナリズムの性格は、利己的であると同時熱狂的であって、その説く現実政治は、個々の領土経済上の利害問題を過度に重大視した上に、これをドグマ化し、観念化し、国民の情熱によって裏打ちしようとするのである。」(251-252ページ)

こういうシュヴァイツアーの発言を読むと、まるで彼が21世紀の日本をみているかのように思えるのは、私だけだろうか。





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