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核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

 前史

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2005~2009年  2010~2011年02月    

2011年3月~7月  2011年8月~12月  2012年1月~2月

【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。
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2014-12-17 22:03:00

原爆症(郷地秀夫)、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
「原爆症」 罪なき人の灯を継いで
郷地秀夫
かもがわ出版
2007年5月

ひとこと感想
郷地はとても誠実な医者で、被爆者の心に親身に寄り添い、原爆症をめぐる訴訟で勝訴した。そうしたことが本書からは理解できた。ただ、それは情緒としては共感できたけれども、本人のいう「実相」を客観的に伝えるという面では成功していない。


 ▼以前書いた
郷地秀夫の本に関するブログ記事
 被爆者医療から見た原発事故(郷地秀夫)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11953923970.html

***

ディスクールの次元からみれば、国内における原爆被害に関しては、何よりも「体験」が重視されることと、平和を希求することが基本線を形成している。

バタイユのように、ヒロシマに人間の可能性をみたり、
ジェイムズのように、大地震に恍惚となったり、そうした表現の多様性は、なかなか目にすることがない。

本書もそういう意味では、既成の言説コードに沿ったものということができる。

だが、一点注意しなければならないのは、時代の流れによって、体験というものが、直接的なものではなく、被爆者の思いの伝承へと移行していることである。

「しかし、私はあえて語る。被曝を語る。医師として30年間あまり、被爆者に寄り添い、被爆者を診てきたものとして、医者であるが故に、だれにも言わなかった、言えなかったその人立ちの心の奥底から出てくる叫びを聴いた者として、その心と身体に刻み込まれてきた原爆の傷を看続けた者として。」(4ページ)

この場合、「患者を診る」とは、単に、「病」を「診察」し「治療」する、ということでは、なく、どのような「病」なのか、どのように向かい合えばよいのか、あらゆることが不明瞭である事態に陥った人たちに、手を差し伸べること、なのであろう。

***

冒頭から、驚くようなことが書かれている。

「JAMAの2006年3月の論文に被爆者の44.8%に何らかの甲状腺障害があると報告されたため、初めて希望者に甲状腺エコー検査を行った。350人の被爆者が検査を受けられ、その内7人に甲状腺癌が見つかった。そのことは癌と診断された被爆者の方はもとより、私にとっても少なからぬ衝撃であった。」(9ページ)

当然、3.11を経たあとでこのくだりを読めば、ヨウ素131の影響が60年後にもあるのか、と「衝撃」を受けるところである。

だが、郷地は、このように書きながらも、甲状腺癌と放射線との関係については言及せず、次の話題に移ってしまう。この軽い扱いに、私は戸惑う。

「しかし、今、そのこととは違った重みの衝撃を、私はこの目の前の被爆者から受けている」(同)と、原爆投下から4日経って広島市内に入った女性が、同じく60年経った今、子宮頸癌を発症した、その苦悩を郷地に語ったさまに話は転じてしまうのである。

甲状腺癌の発症とはまた異なる「重みの衝撃」に郷地が目を向けるのは、言うなれば、前者が放射線障害との関連性が明白であるものであるが、後者はそうではなく、広い意味で「原爆症」としてとらえようとしているからにほかならない。

本書の「要」とも言える問題が、ここで語られていることに、気づく。

郷地は、法律(被爆者援護法)などが定める「原爆症」が、放射線に起因する傷病に限られていることに不満があり、「原爆に被曝してなった病気や障害」とみなすのである。

さらに
被爆者援護法の運用にあたっては、たとえば原爆投下時に広島や長崎市内にいなかった人は除外(=二号被曝)されるといったように、適応範囲が限られており、26万人の被爆者のうち、2,255人しか認定されていない。

チェルノブイリ原発事故の影響のデータから考えれば、1週間以内に被曝地に入った場合なら、十分放射線の影響を受ける可能性がある、と考えるのが妥当だと思われるが、原爆による放射線の影響は、かなり小さく見積もられたままであるので、こうした反論が受け入れられずにいる。

だが郷地にとっては、目の前の患者の「病」のみならず「苦悩」をもくみとって、その傷を癒すことが、責務となっている。

彼ら、彼女らの声を、その心を受けとめようとしている。

「私たちは今、その人達から、原爆のなんたるかを、原爆症のなんたるかを学び、引継ぎ、伝えていかねばならない。」(13ページ)

もちろん彼は医者であるから「原爆被害の実相を医学的立場から正確に記述し、残し、伝えていく」(14ページ)ことを課題として、本書を刊行したのである。

***

だが、私が一通り読んだ率直な感想を言えば、本書は、「
原爆被害の実相を医学的立場から正確に記述」という側面よりも、もっと感情的なものが先立ち「これではいけない」という強い使命感に駆られて訴えかけたものして受けとめられた。

もう少し慎重に言えば、郷地は、「
原爆被害の実相を医学的立場から正確に」理解したうえで、本書では、世の中のおかしさを衝くことに主眼を置いた、ということになる。

また、さらに言えば、郷地は「原爆症」をめぐる訴訟にかかわっており、その「勝訴」した内容をあらためて世に問うのが、本書の意義となっていると思われる。

***

本書から伺うことのできる「事実」、すなわち郷地が
「原爆被害の実相を医学的立場から正確に記述し、残し、伝えていく」(14ページ)としている部分に焦点をあててみよう。

・原爆放射線の被害は2020年頃に最大になる

これは、放影研が2000年に発表した内容。2000年代以降、毎年1,000人ほどが死亡している。これが2020年がピークで1,200人ほどとなり、そこをすぎると減少してゆくと考えられている。また、癌死は1960年代より上昇し2020年には年間40人近くにのぼると予想されている。

逆に言うと、2020年以降は、急激に被曝体験をした生存者がこの世から少なくなっていってしまうのである。

・原爆については1945年12月末までに発生したものを「原爆急性障害」と呼ぶ

ここはおおよそ既知の内容なので省略。

・原爆症とは、複合障害である

以下のものを「要因j」として挙げているが、これは、一般的に共通見解がもたらされているわけではなく、郷地が独自にうちたてたものである。

物理的要因として
・電離放射線
・非電離放射線
・爆風
・熱線

環境的要因として
・家庭環境
・地域環境
・衛生環境
・経済環境
・社会環境

当初、1950年代の学術研究会議・原子爆弾災害調査特別委員会では、
「原子爆弾症」を、原爆によって生じた総合的な障害をすべて含むものとしてとらえていた。

それが1995年に制定された被爆者救護法では「電離放射線」による障害に絞られたことを郷地は批判する。

はたしてこうした内容だけで、
原爆被害の実相を医学的立場から正確に記述」と呼べるのか、かなり心もとない。

むしろそれ以外の、患者たちとのやりとりなどの方が、より一層読者に響く内容となっている。

そうしたギャップは、「本」の意図からすると、少々、納得がゆかないが、それはここではあまり強く言わない。

それよりも、一点、気になる指摘がある。

ロバート・リフトンの仕事に対して、である。

「被爆者の持つ心の問題を体系的に分析研究した初めての本」(43ページ)と一定程度の評価はするが、大きな欠点があるという。

書かれている内容が散漫なため、どこに問題があるかはっきりとしない。こう書かれている。

「リフトンには基本的な視点が抜けている。被爆者の多くが罪の意識を持ったのは事実だ。しかし、それこそは人間であるがゆえの苦悩であり、極限の中でも、人間であり続けていた証に他ならない。彼らは失して罪人ではない。・・・もう一度、言おう。被爆者は「罪なき人たちなのである」。」(46ページ)

リフトンが~と述べているが、~は~ととらえられているので~である、といったような書き方であれば、言っていることが分かるのだが、ここではそういう箇所が省かれている。

つまり、リフトンの本を読んですぐにこの箇所を読まなければ、郷地の言っていることがよく分からないのである。

ここは、とても残念な書き方をしている。

 ▼リフトンについては、私の記事を参照
 Death in Life ヒロシマを生き抜く(R・J・リフトン)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11543912722.html

それはさておき、本書は、書き手の意図は裏切っているものの、むしろ、原爆症の訴訟についての、証人側の思いをこめたもの、というのには、とてもふさわしいものである。

たとえば、1985年から2004年まで、毎年原爆症と認定される人数は、ほぼ2,000人あたりで変化がない。

つまりこれは、「定数」(もしくは予算)に合わせて、認定の人数を調整しているという意図が見え隠れする、といった指摘は、なるほど、と思わせられた。

また、郷地は、永井隆のような、原爆投下を神の摂理ととらえることに納得がゆかないと明言する。

本書のサブタイトルにあるとおり、彼らは「罪なき人」である、というのが、郷地の一貫した被爆生存者への理解の仕方である。

私はこうした「罪」の有無で「人」をみることができない。

「罪がある」とみなすのも、「罪がない」とみなすのも、言い方を変えれば、同じように「罪」という絶対的基準を前提にしている点においては、同じことではないか、と思ってしまう。

もちろん、原爆で犠牲になった人たちは、直接的に罪があるわけではない。

だが、「戦争」時においては、そう簡単に「罪がない」と言い切ることも困難になってしまう。

だから私は、「罪」という言葉をこうした事態に使いたくない。

そう、考えるのである。


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図説 放射線学入門 基礎から学ぶ緊急被曝ガイド(岡崎龍史)、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
図説 放射線学入門 基礎から学ぶ緊急被曝ガイド
岡崎龍史
医療科学社
2012年1月

ひとこと感想
内容はしっかりとしていてとても良いのだが、
パワポファイルをそのまま本にした感じの体裁なので、どことなく資料集のように読んでしまう。つまり、データを読むための本となっている。データから考えることは大事だが、もう少し丁寧につくってもよかったのではないか。(数値の誤植もあったし)

岡崎龍史(OKAZAKI Ryuji)は、産業医科大学産業生態科学研究所放射線健康医学教授。ここは、facebookによれば、
福島原発事故による従業員の健康支援ならびに低線量放射線影響を研究していくために作られた研究室とのこと。

***

本書は、産業医科大学のホームページで公開している内容をもとに加筆したもの。ちょっと安易な本づくりなのが残念である。

目次
1 放射線の基礎
2 日常で見られる放射線被曝
3 福島第一原発事故の概要
4 リスク
5 マウスを用いた実験結果と疫学研究
6 まとめ

***

「放射線を正しく理解するのは、難しい。放射線に必要な知識は物理学に始まり、化学および生物学といった広い分野にわたる。」(「はじめに」より)

さらに、放射線の種類によって作用が異なり、いろいろな単位が用いられていて複雑になっており、数値も、一方ではマイクロ、一方ではテラと、幅が大きい。

原爆被害を受け多くの生存者のその後の経過をみなけらばならなかったにもかかわらず、また、世界でも有数の原発稼働国であったにもかかわらず、私たちは、まともに、原子力と向き合わず、それでいながら、さまざまな「言説」の闘争にのめりこんできた。

国内の医学部医学科は80を数えるというのに、そのなかで放射線基礎医学を口座にもつのは8校しかない。つまり、1割である。

***

以下、本書で述べられている内容を、世間の「誤解」という形で、まとめておく。

誤解その1
 放射線は、電磁波だけでない

電磁波に加えて、粒子(線)もある。つまり、X線やγ線が電磁波であるのに対して、α線やβ線、中性子線、陽子線は、小さな粒なのである。

誤解その2
 放射能漏れ、という言葉はおかしい

放射「能」という「能力」が漏れることはない。「飛ぶ」ものとしては、放射線と、放射性物質がある。放射線が飛ぶ、というのは、X線やγ線が放射性物質から出ているということである。この線が皮膚にあたると、外部被曝を起こす。他方、放射性物質を体内に摂取した場合、α線やβ線による内部被曝を起こす。

誤解その3
 癌治療で放射線を使用した場合、年間で5ミリシーベルトもの被曝があるが、大丈夫なのか
 
 ラムサールやガラバリなど地域によっては年間10ミリ、5.5ミリシーベルトの被曝地域があるが、その地域で癌が格別多く発生しているわけではない。また、原爆被爆者12万人のデータにおいては、1回の被曝で100ミリシーベルト以下であれば、ガン発症などの害は確認されていない。もっともはっきりしているのは、1シーベルト以上であり、その場合、将来癌を発症し死に至る率が5パーセント上昇する。

誤解その4 
 放射性物質のなかには、半減期が長いものもあるので、いつまでも不安だ

福島第一原発事故によって放出された放射性物質は、ヨウ素131など、半減期の短いものが多く、3ヶ月もすれば、大半は放射性物質ではなくなっている。セシウムは地中に入っているので土を掘り返さないかぎりは影響がない(土を掘り返す農業の場合、どういう影響があるのだろうか)。また、プルトニウムやストロンチウムは生成量が少なく、原子炉直近以外では影響は少ない。

誤解その5 
 事故が起こる前にも、避難シミュレーションはされていた

SPEEDIのデータの公開、非公開以前に、2005年度原子力安全基盤機構の報告書には、原発事故が起こったときの、放射性物質の放出量や風向きなどのをシミュレーションしていた。年間風向出現頻度のグラフをみると、今回のように飯舘村の方向がもっとも確率が高く、次が西方向、そして、東南の海方向となっており、飯舘は、最初から注意すべき場所だったことがわかる。だが、いずれにせよ、実際の事故のときには、こうした蓄積は、まったく活かされなかった。

誤解その6
 放射線被曝のリスク評価は、嗜好品と比較しても意味がない

リスク評価とは、むしろ逆で、土俵が異なるものと比較することによってその程度を推し量るものである。とはいえ、日常における自然放射線被曝が8日命を縮める野に対して1日20本の喫煙は2,370日も縮める、と聞くと、あまりにも煙草の害が怖すぎて、一体なぜこのようなものを放置して吸わせているのか、むしろそちらの対策を講じじるべきだと考えてしまう。ただこの放射線リスクには、こうした自然放射線と医療用X線の照射しか対比されておらず、たとえば、チェルノブイリ事故の影響による被曝のリスクなどにおいては、一体どれほどなのかを知りたいところである。ただ、これがよく分からない。

「教訓 1シーベルトを被曝して死に至るがんが発生する率は、運転中に携帯メールを打って事故に遭う危険度と同じ程度のリスク」(105ページ)

これは、それなりの率で起こりうる、というように私は理解するが、どうなのだろう?

誤解その7
 100ミリシーベルトという線引きは本当に正しいのか

1)γ線400日間連続照射実験
 年間、20ミリシーベルトの場合、寿命短縮や癌の増加は見られない

2)妊娠マウスにX線照射した胎児への影響実験
 2グレイの照射は大きな影響があり、着床前期では出生児死、器官形成期には奇形発生、新生児死亡が増加する

3)人間の疫学研究とマウスの実験研究
 人間の胎児には、100ミリシーベルト以上の被曝で何らかの症状が出る

上記のようなデータを出しながら、著者は、次のようにまとめる。

「10~100ミリシーベルトの間は、不確定不確実領域であることは事実です。化学的なデータを実験で示すのは、実に難しいことです。」(116ページ)

一度に100ミリシーベルトの被曝では0.5%の確率で致死癌になると言えるが、10ミリシーベルトの場合は、公式な見解をもたない。

ただし、年間10ミリシーベルトの被曝で暮らしているラムサールの人びとには、癌の発生率が増えるなどの影響が出ていない。


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2014-12-15 22:02:00

3.11とリスク社会論

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
当ブログではこれまで、主にリスク社会論としては、ウールリヒ・ベックをとりあげてきた。

 富の生産からリスクの生産への変化、「危険社会」ベック、を読む(1)
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11317227389.html

 本格的な「原発社会」の到来としての脱原発化~危険社会、ベックを読む(2)
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11318101598.html

 リスク化する日本社会(ベック)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11580513443.html

一方で、ミシェル・フーコーの「バイオパワー」論にはふれてきたが、フランソワ・エヴァルドについて言及する機会は、なかなかなかった。

以下は、
荻野昌弘、蘭信三編著『3・11以前の社会学 阪神・淡路大震災から東日本大震災へ』(生活書院、2014年5月)に収録されている、三上剛史の「リスク社会と社会学」に基づいて、エヴァルトの福祉国家論を抽出しておく。

***

エヴァルドの「福祉国家」もまた、ベック「危険国家」と同じく、チェルノブイリ原発事故のあとに刊行された。

社会保険の整備の経緯をたどりながら、「近代国民国家が連帯の契機としてリスクをいかに処理してきたか」(246ページ)を論じている。

またこれはイアン・ハッキング「偶然を飼い慣らす」(1990年)の語彙であるが、いかにリスクを「買い慣らす」か、すなわち、「社会的連帯の契機として利用してきたか」(247ページ)が論じられる。

エヴァルドが着目するのは、国家から、すなわち「上」から降りてくるような危機管理ではなく、「社会的なもの」(le social)、すなわち「ソーシャルなもの」の次元をいかに確保し、いかに機能させるか、である。

これは、言ってみれば、これまで「市民活動」「ボランティア」「NPO」といった言葉で論じられ、実践されてきた領域のことである。

もちろん川上は知らないであろうけれども、こうした「保険」分析は、すでにイリイチが「医療ネメシス」(1976年)のなかで、いや、もっと遡れば、1971年に書かれたドラフト「政治的転換」のなかで展開されている。

だが、エヴァルトの議論のおもしろいところは、こうした「保険」制度が、社会の紐帯装置として作動し、誰もがその枠組みのなかに引き込まれ、運命共同体となることが指摘されている点にある。

立場も条件も異なる各個人をすべて、「一国民」としてカウントし、同時に、経済状態をもとに徴収と分配に格差をつけるこの仕組み。

私が理解するかぎりでは、20世紀末に、この国では、さまざまなことが「改革」と称されて実行されてきたが、本当の「核心」は、「国民皆保険」の解体にあったはずである。

というよりも、実際に、制度上は維持運営され続けてはいるものの、実質上、機能不全を起こしていることは自明である。

また、これまでも、公害や薬害、疫病、マルウェア、そして原発事故、すなわち、ボードリヤールが「透明な悪」と喝破した一連の出来事は、「保険」などで対応できないリスクでもある。

それゆえ「シンボリック」ではなく、「ディアボリック」が重視されることになる。

***

ちなみに三上は、ベックの論に対して、ギデンズの「再帰的近代」という視点や。ルーマンの「リスクの社会学」への言及が乏しいことを問題視している。

ここでは特にルーマンの「ディアボリック」という概念の再考を要請している。

すなわち「ディアボリック」とは、「シンボリック」に対置され、「分離と個別化を生む契機」(251ページ)という意味合いである。

「シンボリック」が「分離したものの結合」(250ページ)であることから、社会においては、この両者、「ディアボリック」と「シンボリック」という二つの相互作用が生じていると考えるのが無難であるが、にもかかわらず、近代の学問、特に社会学は、「シンボリック」に焦点をあてる傾向が強かった。

「ディアボリック」なものは、フーコーが展開したような問題領域と重なり、死、病、異常、逸脱といった「異常」なものとみなされ、「悪魔払祓い」される。

要するに、「他なるもの」と「同一なるもの」とフーコーが「言葉と物」において指摘していたものが、「ディアボリック」と「シンボリック」ということになる。

にもかかわらず、パーソンズ流の社会学が典型例であるように、社会システムがあたかもシンボリックなものによって統合されているという見地のみに光をあててきたきらいがある。



3.11以前の社会学―阪神・淡路大震災から東日本大震災へ/生活書院
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2014-12-14 22:01:00

3・11以前の社会学 阪神・淡路大震災から東日本大震災へ(荻野・蘭編)、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
3・11以前の社会学 阪神・淡路大震災から東日本大震災へ
荻野昌弘、蘭信三編著
生活書院
2014年5月

ひとこと感想
関西または、阪神・淡路大震災から「3.11」をとらえた本。
死、社会の老朽化、ボランティア、社会的弱者、外国人、女性、記憶などがテーマとなっている。結局私たちは、以前の惨事を何ら糧にしておらず、同じような過ちを犯しているようである。

***

11人の書き手による書籍である。

タイトル、サブタイトルにあるとおり、「3.11」を主題とし、「社会学」という学知よりアプローチしている。

特徴は二点あり、これまたた、タイトル、サブタイトルにあるとおり、「3.11」に対して「以前」という制限をつけていることが珍しく、1995年の阪神・淡路大震災との対比によって「3.11」をとらえようとしていることである。

著者11人のうち7人が関西の大学所属であり、分かりやすく言えば、「関西」側からみた「東日本大震災」とみなすこともできそうである。

また、もう一つの特徴は、「3.11」を、死、社会の老朽化、ボランティア、社会的弱者、外国人、女性、記憶、といった見地からとらえようとしている点である。

大半は類書である程度知見を得ていたが、このなかでは、女性に関する論考は、正直、衝撃を受けた。

避難所の「負」の側面を垣間見た。

***

目次
序 災害の社会学をめざして 荻野昌弘
1 彷徨える魂の行方 災害死の再定位と”過剰な”コミュニティ 金菱清
2 広域システム災害 阪神から東北、そして首都・東京へ 山下俊介
3 災害ボランティア 助け合いの新たな仕組みの可能性と課題 菅麿志保
コラム 普通の固有な人としての「災害弱者」 支援と制度化のあいだで 三井さよ
4 多文化共生 1・17で芽ばえた意識は3・11で根づくのか 吉富志津代
5 東日本大震災と外国人 マイノリティの解放をめぐる認識の衝突 金明秀
コラム 災害と女性の人権 阪神・淡路大震災の経験は活かされたのか? 正井禮子
6 災害の記憶 写真・保存・時間 今井信雄
7 リスク社会と社会学の問い 「フクシマ」という問題 三上剛史
結びにかえて 蘭信三

***

ネットには、見たくなくても、検索などで、様変わりした死体その他、さまざまな
「特異」なものと遭遇する。

そのなかで、東日本大震災の津波による死者の画像は、めったなことではみつからない。

他の場合、画像検索していると、必ずと言ってよいほど、無残な画像に遭遇する。

ネットに画像をアップしている多くの人の、ある種の自己検閲性が働いたものと想像される。

画像や動画では見ることのできない光景、それは、遺体の捜索からはじまり、対面、一時埋葬、火葬といった一連の「喪」にかかわる営みである。

3月の東北でさえ、数日もたつと、遺体は腐敗が進行する。

もちろんそこには、腐臭もつきまとう。

こうした「喪」については、阪神・淡路大震災のあとも、防災行政の重要事項とはなりきれていない。

また、さらに言えば、身近な人の遺体(たとえ一部であったとしても)が見つからず、「行方不明」のままということも少なくない。

こうした対象を金菱は「彷徨える魂」と呼び、コミュニティがその魂を鎮めようといかなることを行っているのかを、名取市の仮設住宅を例にして探っている。

一般的な鎮魂としての葬儀や慰霊祭は、あくまでも「彼岸」にたっているが、行方不明者はある意味では「中間項」であり、その場合、個々の弔いや伝統的な宗教的儀礼ではなく、コミュニティによる向き合い、すなわり、「過剰なコミュニティ」が装置として作動している、と金菱は考える。

具体的には、1)被災者の、被災者による、被災者のための被災地ツアー、2)自治会主催の慰霊祭、3)自治会主催の居酒屋、が実行され、「鎮魂」とともに、生存者たちの自殺や孤独死、アルコール中毒症などの防止が目指された。

***

1995年と比べると2011年は、民間の支援活動が、しっかりと作動したと、山下は指摘している。

「95年当時は非常に限られた領域のものでしかなかったボランティア・NPO・市民活動が、震災をきっかけに大きく展開したことになる。」(69ページ)

しかし内実は、個人レベルでの活動よりも政府や大企業に従属するような傾向が強くみられた。

「システムが大きくなったことで、その資源が95年のような個人発ではもはやなく、公共発や企業発、経済界発へと切りかわっている」(70ページ)

その結果、ある種のパターナリズムや惰性化が起こった。

「「過去に学ぶ」システム化を通じて、活動が効率化・高度化し、威力を発揮したが、他方で、各現場の独自性や現場の中から生まれる創発作用が非常に乏しい災害救援活動ともなった」(71ページ)

そのなかでもとびきり深刻なのは、支援の長期化の弊害である。

特に、原発事故の影響は、不可避的に長期化をもたらし、これまでの震災とは大きく異なっている。

もう一つ、別の問題として、メディアが無意図的に一定の方向性を誘導し現実をつくっていくような動きと、もう一つ、これは水俣病ほかの公害発生時から問われ続けていることであるが、十分な健康調査がなされていなかったり、土地の汚染状況についても大雑把な測定しかしていないということが課題となっている。

だが、山下が指摘するように、「広域システム災害」が起こったときは、本来、根本的な見直しを可能とするはずなのに、むしろ人々は逆行する傾向にある。

「衝撃の大きさからむしろ、現実には人々のさらなるシステム依存・従属につながる動きの方が強くなっている」(81ページ)

ここから逃れるためには、やはり、「人々のつながりの再生、ネットワークづくり、コミュニティの再建」(同)に向かうほかないのである。

***

震災遺構について、ダークツーリズムの問題と連なるが、モノを遺すことには、犠牲者への「哀悼」の意を表するとともに、災害や惨劇が起こったことをモノを通じて「記憶」に残そうとするものである。

阪神・淡路大震災のあとつくられた、モニュメントや博物館には、こうしたコンセプトをもつものが多い。

***

最後に、どうでもよいことかもしれないが、本文に「3・11」が登場するたびに、「11」が横になったり縦になったりしており、少々見苦しい。著者や編集の校正が不十分だった印象を受け、それがとても残念だった。

***

私は、阪神・淡路大震災では、友を一人喪った。そのとき、十分に「震災」をめぐって、十分な問いかけができず、その後、生きる道を迷走した。

原発事故以後、私は、ともかく、このブログにて、原発、原爆、原子力、そして「3.11」に関することを、考え続けることにして、今に至っている。



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2014-12-13 19:00:01

猫、猫、猫・・・、そして、花

テーマ:猫・犬・動物・植物
*本日も、外出が長引き、記事を書くことができません。お詫びに、花束と、猫グッズ写真をアップします。

いろいろと勢ぞろいしました。


情熱の赤でまとめられた花束。


そして、猫グッズたち。

???なんだか、分かりにくい。やはり、一つ一つ、ご紹介しよう。

最初に、猫ミニ風呂敷。背中を見せた猫たち。濱模様?

続いて、旅猫(?)のイラスト付ブックカバー。麻でできています。


そして、猫柄、これも後ろ姿を見せた猫たちが描かれた湯呑茶碗。

こちらは、黒目がなんとも愛嬌のある猫ケータイストラップ。


そして、最後に、ネクタイピン、猫マーク付。




思いがけなかった。

驚いた。


感謝、感謝、である。





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2014-12-12 22:25:00

地域からの思想(玉野井芳郎)、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
地域からの思想
玉野井芳郎
沖縄タイムス社
1982年11月

ひとこと感想
カール・ポランニーやイバン・イリイチに触発されて、玉野井は、既存の経済学の領域から逸脱し、非経済の領域の重要性を訴えたが、脱経済化の可能性については、十分に展開しないままこの世から去ってしまった。本書もまた、とても中途半端な内容で、指摘しているポイントはきわめて重大な内容を含んでいるが、内実が描かれていないので、読んでいて不満が高まった。

***

玉野井芳郎(TAMANOI Yoshiro, 1918-1985)は、山口県出身の経済学者。東大教授、沖縄国際大教授を歴任。

***

(以下、敬称略で書くが、なんとなく、違和感がある。本当は「玉野井さん」と書くべきかもしれない。だが、これまで、吉本隆明も含めて、さんづけを基本的にしてこなかったので、ここでも失礼ながら呼び捨てにさせていただく)

玉野井のことを知ったのは、忘れもしない、私が大学に入って間もない頃、カール・ポランニーやイバン・イリイチの翻訳者としてだった。

正直、あまり良い印象がなかったのは、私の恩師がいつも悪口を言っていたからだ。

玉野井には、直接お会いしたことがないので(1985年に亡くなった)、当人のお人柄などはよく分からないが、翻訳に関しては、いくつか気になる点があった。

とりわけ、イリイチの「ジェンダー」については、たとえば、元々ないサブタイトルに「女と男の世界」とつけていた。

あえて「男と女」ではなく「女と男」としたのが、玉野井なのか、岩波の側の意向なのか、それはよく分からない。

しかし、この「ジェンダー」は、「女と男の世界」を描いたものではなく、あくまでも「経済」というものが日常生活にどのような影響を及ぼしているのかを探ったものである。

そして、うまく言葉にできない領域に対して、「バナキュラーな価値」や「ジェンダー」という「痕跡」という言葉を用いて、なんとか拾い上げようとしているのであって、そうした「女と男の世界」を実体化しているわけではない。

「経済活動」に巻き込まれてゆくとき、私たちは、「賃労働者」、「無賃家事労働者」と規定され、そのうえで、育児も、炊事洗濯も、介護も、「サービス労働」として「経済化」する。

実際、その後、国内では、上野千鶴子をはじめ、イリイチを過去の男女分業を理想化するようなジェンダー論者とみなし非難が起こるとともに、逆に、保守系の論者がイリイチを支持してしまい、すでにイリイチが問題化したことを受けとめる以前に、そうしたイデオロギー論争の道具として取り扱われることになってゆく。

こうした奇妙な誤解を生んだのが、すべて翻訳のせい、玉野井のせい、というわけではないが、このサブタイトルに象徴されるように、誤ったコンテクストの形成に加担したということからは免れえない。

このとき、私の恩師は、こうした危うさに直観的に反応し、フロイト、ラカン、吉本隆明、シクスー、チョドロウ、その他、精神分析や社会学におけるジェンダー論を考究し、こうした歪みを補正しようと試みたが、その後の経緯をみてのとおり、後の祭りだった。

ただ私は、この「ジェンダー」という領域に対して、何か語るべきものがうまく見出せなかった。

それは、フーコーの「性の歴史」も同様である。

すなわち「ジェンダー」や「性」や「愛」は、擁護されるための「主題」ではなく、現在を問ううえでの、避けるべきではない「急所」のようなものであり、決して失われ、復古すべき価値観ではない。

それゆえ、こうした経緯のなかで、玉野井は、せっかく経済学を専門としていたにもかかわらず、イリイチの「シャドウ・ワーク」や「ジェンダー」のもつ潜在力を十分には弾き出すことができなかったのである。

ただ、実際に私の卒業論文は、こうした「在野」の思想家であるイリイチと、同じく「在野」の思想家である吉本隆明との、比較研究を行ってみたものの、うまく対象化できず、結局私はその後、ヘーゲル、マルクス、ハイデガー、カント、ニーチェ、など、一通り、哲学者たちの言説を追いかけることになる。

そして、今だから言えることとしては、やはり当時のイリイチの挑発は、結果的に「復古論者」「保守反動」といったような汚名をイリイチに与えることになるが、私の恩師の予感が的中し、
恩師はイリイチを起点に語ることをやめたのだが、それは確かに正解だったと思う。

ただ私はと言えば、どうも踏ん切りがつかず、今日もまた、「地域」と「価値」の問題を、イリイチから考えているところなのである。

宮崎駿のエコロジー的思想が、ときに危ういのと同様に、「生命」や「性」「愛」といった本源的な領域について語ることは、常に、誤解や混乱と隣り合わせになってしまうものだと痛感する。

***

それはさておき、本書を私は、「地域」、そして、「地域」と「核」との関連性について、玉野井がどういった言及をしているのかに焦点をあてて読もうと考えた。

本書は、新聞や雑誌への投稿、講演録を中心に、短い文章、全24編とまえがきから構成されている。

ちょど玉野井が東大から沖縄国際大に移った頃にあたり、内容も、沖縄に関連することが多い。

また、後半は、玉城哲、栗本慎一郎、庄幸司朗豊平良顕、大城立裕、喜納昌吉らとの
対談集となっている。

***

本書のなかで「核」に関連するものとしては、冒頭の「生命の尊厳と平和憲法」(朝日新聞の論壇、1981年5月5日)がある。

1981年に起こった敦賀原発内の作業員被曝に関するニュースへのコメントである。

この「原子力労災」に対して、「原発内作業の下請け構造の実態についての情報不足」(6ページ)を嘆いているものの、玉野井にこの問題の予備知識があるわけではないので、印象論に終始している。

「放射性廃物」について、今後の見通しが明らかにされないまま、国策だからと言って原子力政策を推進する姿勢に疑義を提出している。

だが、その先、議論は、もう、原子力から離れ、「政策」論となる。

「最近、国家の上からの政策が、人間の尊厳と背馳するのではないかと危惧されるケースが多くなっている。」(7ページ)

「人間を殺す武器に頼って国家を守るという考え」や「西側と同盟して集団的自衛権を考える」といった方向性ではなく、「生命の尊厳」「いのち」を尊重することが国の政策を「貫く」べきだ、というのが、玉野井の主張である(8ページ)。

「不幸にして人類史上最初の"被爆国"となったわが日本の"特権"となったわが日本の"特権"は、特権につきものの責任、すなわち人間的責任のk表徴にこそあることが銘記されねばならない。」(9ページ)

***

次に「地域」に関連する言及をみておこう。これは、いくつかに分かれている。

沖縄の「デンサー節」や「てんさぐの花」などが、「学校教育という枠を超えた地域の教育のひとつの素材」であり、「無限の広がりをもっており、そのなkで地域の生き生きとした文化が育ってゆく」(26ページ)

「住生活と住環境が立派であるということは、地域に定住する人々にとって誇りある"地域の富"を目に見える形で示すもの」(29ページ)

青森に対して「緑と水と風邪と海を踏まえた見事な"地域の富"がこの地につくられてゆくことを心より期待」(32ページ)する。

「地域主義」の最大の課題は「食事文化」であり、地域ごとに食事の個性差がある。

「地域主義はエコロジーを基礎にしている」もので、「人間と自然との共生の原理もとづいて主張される」(48ページ)

「「水と土」を基礎にした生活空間、あるいは生態的生活空間というふうなものを念頭において、地域に住む人間の生活のあり方、もうひとつの豊かさを、新たな豊かさというものを考えていく、という運動」(49ページ)として、地域主義は考えられている。

そしてこの運動が、地域住民によって「内発的」に切り拓かれることを玉野井は期待する。

しかしここには一つの大きな課題がある。地域の閉鎖性である。

目指すべきは「開かれた地域主義」で、そのためには、「地域の文化をよその文化と比較する」(56ページ)ことであり、「地域間情報交流」の活発化が望まれる。

私の知っているかぎり、この「地域間交流」がもっともこの「地域主義」の困難な障壁になっているように思われる。

つまり、どうしても閉じていってしまい、最後は孤立化するのである。

ネットワーク化、つなぐ、大事なのは、このことだ。

「文明とくらべて、地域の文化は非常に個性的なものです。地域の平和もきわめて個性的です。画一的な文明の便利さを享受しながら同時にそれに地域が埋没しないように、つまり良い面をとって悪い面は捨ててゆける地域の文化という存在がたいへん重要だと思います。」(57ページ)

こうして、玉野井の主張を一言でまとめると、「開かれた内発的地域主義」ということになる。

また、その基盤には「水土」が置かれている。

これは、言い換えとしては、「津波、地震」とも言える。

そう考えると、やはりここには、「台風」と「火山噴火」とを含めて、「風火水土」としたくなる。

私たちは、「風火水土」に脅かされて生きているが、同時にこれらの恵みによって豊かさを享受しているのである。




地域からの思索 (1982年)/沖縄タイムス社
¥2,052
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2014-12-11 23:42:00

札幌市北区~石狩方面のお店

テーマ:世界
本日、ちょっといろいろあり、ブログ記事が書けないので、このあいだ、ちょっと用事があり、札幌に行ってきたとき、遊ぶヒマはなかったものの、途中車で通ったところにあったお店等の画像撮ったので、以下、並べてみる。

まず、ガトーキングダム(茨戸)の看板。


変なお店。


北海道らしい商店街。


「黒ねこ」って、どこがなのだろうか? 黒ねこ食堂。


次は、パンダ。これもどこが、パンダ食堂。


これは、どこをどうみてもFUJIYA。


これは、東区? 丘珠? 浜冷ラーメン・


ひまわり団地のメインストリートにある喫茶トリム。


???何の店か忘れました。

風力発電の風車を発見。

最後に、母校。



札幌本 (エイムック 2652)/エイ出版社
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2014-12-10 22:16:00

3・11後を生きるきみたちへ(たくきよしみつ)、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
3・11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ
たくきよしみつ
岩波ジュニア新書
2012年4月

ひとこと感想

以前読んだ「裸のフクシマ」とほば同じような内容であった。だが、こちらの方が整理されており、全体的に読みやすかった。また、後半、著者による明快な指摘があり、私もうなずいた。

 生々しい「3.11」当時の記憶――裸のフクシマ(たくき よしみつ)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11922366012.html

***

1 あの日、何がおきたのか
2 日本は放射能汚染国家になった
3 壊されたコミュニティ
4 原子力の正体
5 放射能よりも怖いもの
6 エネルギー問題の嘘と真実
7 3・11以後の日本を生きる

***

前著「裸のフクシマ」から半年後に本書が刊行されていることからも推察されるように、大半は、内容が重なっている。

では、どちらかだけを読むとすれば、どちらを選ぶかと言えば、これからここでとりあげる「
3・11後を生きるきみたちへ」である。

「ジュニア新書」だからといって、成人が読んではならないということは、まったくない。

むしろこのジュニア新書は、どの本も大変読みやすく、それでいて内容がしっかりとしたものが多い。

しかも、本書のほうが、最終部において、原発事故を「総括」しており、全体像をつかまえやすくなっており、その意味でも、こちらの本を勧めたい。

逆に、感想はほとんど前回書いてしまったので、ここでは、「はじめに」と「最終章」に絞って、コメントをしようと思う。

なおカバー写真以外の写真は、著者の撮影によるものである。

***

「ジュニア新書」ということもあり。「大人」から「子ども」たちへのメッセージ、ということなのであろう。

「はじめに」には、なんとかして負の連鎖をくいとめたい、せめて次の世代の人たちにはよく考えて判断してほしい、という、切実な願いがこめられている。

「これだけたいへんな負の遺産を背負いこむとわかっていたのに、なぜ、この国は、原子力発電を推し進めてきたのでしょうか。まちがった「国策」を、私たちはなぜ止められなかったのでしょうか。
 このことを今しっかりと理解しておかないと、人間はまた同じ過ちをくりかえします。」(ixページ)

たくきはこの問題の根底には「人間の欲と弱さ」(xページ)があるとする。

欲と弱さを捨て去ることは、人間にはできないとしても、「この問題にきちんと向きあわず、都合のいい言いわけをくりかえしながら大人になっていくと、やりなおしはどんどん難しくなります。最後には、何が問題だったのかも忘れてしまいます。」(xページ)と警告を放っている。

***

最終章、すなわち「第7章」は、冒頭で、2014年に起こった原発事故から数年たった現在において、たくきは、第二次世界大戦の頃と「同じような空気が流れて」(195ページ)いると、とらえる。

それは、政府や官僚、専門家、そして大企業、さらには、メディアが「大きなウソ」を「ウソ」ではないかのように語るのに対して、私たちは、そのことをある程度わかっているのに、その「ウソ」に対して、特に向かい合うことなく、やりすごそうとしている、という事態だからだ、とたくきは述べる。

すなわち、世間では「原子力神話」といわれているものである。

「神話」が難しいのは、それを「信じている」人にとっては、その呪縛のなかにいるため、たとえ問題が起こっても、何があっても、簡単には、その神話が紡いでいる物語の外側に出られないからである。

よく言われるように、私たちは、「無宗教」だとか、「無神論者」だとか、言っているが、それは、「宗教」というものを、かつてのようなものしかない、と思い込んでいるからであって、実は、私たちの日常の大半は「神話」によって支えられていると言っても過言ではない。

そして、その最たるものが、科学技術への信奉であり、さらにその中心にあるのが、原子力発電である。

だが、戦時中と比べれば、まだ、全然、楽観的になれる、そう、たくきは述べる。

爆弾が空から降ってくる、国策に異議をとなえると拷問を受ける、ということは、少なくとも、ない。

また、インターネットや出版その他、メディアにも多様性があり、情報統制によって、まったく何が起こっているのかが分からない、ということは現在では決して起こらない。

仕事を失っても、飢えや寒さで死ぬことは、めったにない。

「私がここまで書いてきた悲劇や不条理への嘆きや怒りも、そうした枠内のことです。そう考えれば、すこしは気が楽になりませんか?」(196-197ページ)

そのうえで、たくきは、「子ども」たちに向けて、教訓を伝えようとしている。

「いついかなるときでも、自分の命は自分でまもりぬけ」(197ページ)

この言葉は、一件、ありきたりにみえるが、実はそうではない。

極めて難しいのだ。

特に、他人がしていることをみて、自分と異なる場合、である。

具体的には、福島県では、遠くに逃げる人、一度避難して戻った人、最初から逃げなかった人、いろいろな人がいる。

そうした「違い」は単純に「多様性」として相互に受け入れられるものではなく、むしろ、「憎しみ」に近い感情を抱きあうことにもなっている。

しかし、たくきは、そうしたいがみ合いはよせ、と訴えたいのだ。

「生き方のちがいを批判しあうより、自分の生き方に自信をもち、生きぬくこと。」(200ページ)

自分もそうだが、どうしても、自分と違う考え、好み、行動、その他、なんでも、自分と違うと、人は「動揺」する。

自分が間違っているのか、相手がおかしいのか、いずれかだと考え、相手を信じれば、自分が不安になり、自分を信じれば相手を批判してしまうのが、人間だ。

でも、そうではなく、まず、自分の「したいこと」をはっきりとさせ、実際に活動し、そのことをもとに生きてゆくこと。

これは、ある意味では、かつてサルトルが訴えた「実存」のあり方である。

自分は最初から決まったものではなく、自分でつくりあげるものだ。

そして、それをつくりあげるには、他者や世界とのかかわりが不可欠。

さらに、そのつくりあげた自分に対して、きちんと責任をもつこと。

これが「実存」だとすれば、たくきがここで訴えているのも、まさにこのことだ。

ただ、興味深いことに、たくきは、こう言いながら、そのあとに、石原慎太郎のことを非難している。

当時、都知事であった石原は産経新聞に「原発に関するセンチメントの愚」という文章を発表しているが、そこでは、以下のような文章が含まれていた。

「人間だけがもつ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが、実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない」

「豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は社会全体にとって危険なものでしかない」

たくきは、この考えに二つのい「まちがい」があると指摘する。

1)原子力は「英知の所産」「人知の所産」などと呼べるものではない(205ページ)

放射性廃棄物を出しておきながらそれを処理する技術がないにもかかわらず原発を稼働させていることは、「英知の欠落」であり、「野蛮な行為」だ、とたくきは述べる。

2)「豊かな生活」の考え方が、固定観念にとらわれていて、多様性をもつことができない

私たちの「幸福」が高度経済成長においてのみ実現するという妄執にとらわれている、とたくきはみなすのである。

そのうえで、たくきは、室田武や槌田敦らからエントロピー理論などを学び、「適正規模」という考え方を、提示する。

すなわち、無限に巨大化することは、どんな生きものでも、社会でも、ありえない、といいうことである。

これもまた、無限成長の神話、として、1970年代頃から長らく語り継がれてきているものであるが、いまなお、この呪縛から逃れることが困難になっている。

話はもどって、たくきは、石原が思い描いていることは「英知」ではない、として、次のように述べる。

「本当の「英知」とは、わかっていることを素直に見つめ、嘘をつかず、最善をつくすことだ」(209ページ)

これもかなり抽象的ではあるが、次のように、たくきは、「わたしたちがわかっていること」を説明する。

1)地球という環境は、固定された、一定の規模のものであり、膨張・成長はしない

2)現代人は地球環境にたまっていた地下資源というおいしい貯金を見つけ、使いつづけている

3)地下資源はやがて枯渇する。そのとき現代の石油文明は維持できなくなり、地球環境が支えられている人口も激減する (210ページ)

これは、目を背けることのできない「現実」「事実」「わかっていること」であり、これを認めたうえで、「今をどう生きるべきか」を永久寝ければならない、とたくきは述べる。

1)同時代を生きる人やあらゆる生物に、なるべく迷惑や負担をかけないように生きたい(210ページ)

2)しかし、自分の一度しかない人生は精一杯楽しく、幸福に生きぬきたい(211ページ)

この1)と2)のバランスをとることが大切だ、とたくきは強調する。

ここでおもいしろい説明をたくきはする。

この1)のことを考えると、人は、どうしても「~するな」「~を我慢しろ」といった、ネガティブな「命令」を実行しようとするが、そうしてはならない、とする。

そうではなく、何をもって幸せとするか、それを考えてみて、「価値観の転換」をしよう、というのである。

そのキーワードの一つが「田舎暮らし」であり、もっと言えば「田舎で起業」である。

もう少し「田舎暮らし」の人が増えれば、良い方向に社会が変わっていくのではないか、とたくきは、結んでいる。

以上、本書は、大枠において、賛同できることが非常に多かった。


3・11後を生きるきみたちへ――福島からのメッセージ (岩波ジュニア新書)/岩波書店
¥886
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2014-12-09 22:00:00

【昨夜よりスパムブログ扱いで非表示→先ほど復旧】 ネグリVSサルトル、ハイデガー

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
*昨日、18時より、当ブログは一時、非表示となった。
今朝、アメーバに問い合わせたところ、
以下のような返事が来た。


「ご迷惑をおかけしており申し訳ございません。
お問い合わせいただきました件ですが、
Amebaではシステムによるブログスパム検知を行っております。

この度お客様のブログにつきましては、
システムの誤検知により、非表示となっておりました。

お客様にはご迷惑をおかけし、大変申し訳ございませんでした。

尚、現在は当社にて復旧させていただおります。
恐れ入りますが、ご確認いただきますようお願いいたします。」

なんと、「スパム」扱いされていたのだった。

哀しい。

おそらくリンクとか引用とか、何か誤検知される理由があったと想像
される。

だが、こうして無事に復活できたので、今は、ただこの復旧を喜びたい。

早いうちにデータのバックアップをとっておくことにしよう。
***

読んだ本

ネグリ、日本と向き合う
アントニオ・ネグリ、市田良彦、伊藤守、上野千鶴子、大澤真幸、姜尚中、白井聡、毛利嘉孝
三浦信孝訳
NHK出版新書
201年3月

***

昨日書いた続きで、サルトル、ハイデガーへの言及について、とりあげてみる。

***

1945年から1970年代までの「国家」は、ネグリによれば、「原子国家(アトミック・ステート)」の時代である。

「原子国家」とは、「テクノロジーによる統治形態の名を借りて資本主義を正当化し、核技術を極端にまで押し進め、安全を脅かす核攻撃能力を蓄積する国家」(179ページ)のことである。

すなわちこの時期においては、「原子国家」に、「原子力発電所」ではなく、あくまでも「核兵器」にかかわるものである。

この時期において、サルトルは、次のようにネグリによって意味づけられる。

「サルトルら実存主義の哲学者たち」は、「核武装によって国家を「核の権力」として再定義する動きに対し広範な批判」(178ページ)をした。

言葉遣いが難しいが、要するに、この時期の「国家」の必然性は、核の脅威からどう逃れるかという前提があり、米国を支持する国家であれば、資本主義国家として正当化され、ソ連を支持する国家であれば、社会主義国家として正当化された、ということに対して、サルトルらが批判を行った、という内容であるにすぎない。

次の言いまわしも異様に分かりにくいが、それほど意味のあることを述べているようには見えない。

「暗雲立ちこめる空の下で、まっとうな生のあり方とは、技術による支配からいかに自由であるかによって定義されると人々は考えた。」(178ページ)

核開発に代表される科学技術を通じて形成される支配状況に対して、サルトルらが批判的であった、ということを述べているのであろうか。

***

続いてハイデガーが登場する。

ハイデガーは、「こうしたポストモダンのカタストロフィーの観念の基底にあり、その言葉がしばしばファシズムの色合いをおびた哲学者」(179ページ)とみなされている。

「こうした」というのは、上記のように、核戦争がいつ起こるのかわからないような不安のなかで生きるような状況のことであろう。

 

ネグリの理解では、ハイデガーは、「核の時代」において、国家が不可避的に「原子国家」となることが「不可逆的」であり、「宿命」である。

さらに言えば、ハイデガーのこうした分析は、「権力の弁明」(179ページ)であることが明らかである、とみなされる。

しかもハイデガーは当初は異なる知見を提示してたにもかかわらず、結局は、この問題を投げ出してしまっている、とネグリはとらえる。

「ハイデガーは最初こそ、技術のヘゲモニーと無現の拡張性の問題を強調したが、その技術批判の言説はたちまち、技術の表現を資本の表現へと還元する「命令」についての言説に従属してしまうからである。」(179ページ)

すなわち、ネグリは、あくまでも「技術」は、権力や体制に迎合するばかりのものではなく、さまざまな可能性を拓くだけの力能をもっているが、ふだんはあっという間に、技術を崇拝し、あたかももっとも客観的でもっとも万能であるものであるかのようにとり扱われるが、常に、「資本」の論理との接着が危ぶまれるものでもあるのだ。

 

ネグリの議論は、すなわち、あくまでもベースに、国家、権力、資本、などが、あり、そこに技術として、原子力(ここでは核兵器)が加わって、こうした世界を再強化しているにすぎない、というものであるだろう。

 

だが、原子力への欲望は、常に「国家」を経由しなければならないわけではない、ということも、私たちは理解せねばならない。

 

なぜならば、原子力がもたらす「効果」は、すでに「国家」を超えているからである。もっと言えば、対立する「国家」間の境界線を無意味かする、という意味で、きわめて「超-国家」的、もしくは、地球的課題なのである。




ネグリ、日本と向き合う (NHK出版新書 430)/NHK出版
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2014-12-08 22:23:00

3.11とネグリ――ネグリ、日本と向き合う、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
ネグリ、日本と向き合う
アントニオ・ネグリ、市田良彦、伊藤守、上野千鶴子、大澤真幸、姜尚中、白井聡、毛利嘉孝
三浦信孝訳
NHK出版新書
201年3月

ひとこと感想
ネグリ。なんだろうか。どうも、ピンとこない。いや、ピントは合っている。だが、読んでいて面白くない。なぜだろう。

***

アントニオ・ネグリの現在 伊藤守

ネグリ入門に最適な文章である。2013年4月80歳で日本初来日に至るまでの紆余曲折とテーマ。プロフィール。グローバル権力とマルチチュードの説明。本書の構成。

グローバリゼーションの地政学 ネグリ

グローバル化した世界の地政学的な変化の動態について問われる。特に欧州の危機、ラテンアメリカの変化、そして第三に、米国の衰退と中国の台頭による東アジアの変容について論じられ、マルチチュードとコモンの可能性が示唆される。

東アジアの「冷戦」と「熱戦」 姜尚中

中韓日の共存のありかたについて、また、北朝鮮と米国との核戦争の危険性について、EUやラテンアメリカのような地域間の結びつきの強化とは異なり、各国がナショナリズム「発情期」となっている。

東アジアのナショナリズムとリージョナリズム ネグリ×姜尚中

地域統合(リージョナリズム)についてはネグリは推進派、東アジア共同体の可能性についてもネグリは肯定的にとらえる。そして、原子力国家については、ネグリは近代的な国家形態、国民国家のバリエーションとみなす。これは「核」が刑罰の執行等以上の「暴力」だからである。また、民主主義と原子力国家は両立しないと考える。


3・11後の日本におけるマルチチュードと権力 ネグリ

伊藤豊雄の「みんなの家」に言及し、原発事故に対して、「原子力国家」という言葉を使いながら、産業政策の側面、物質的な機構の維持の側面、テクノクラート組織やメディアの問題などを多層的に論じる。

「社会的なもの」の行方 市田良彦

街頭デモが「社会的なもの」の領域としてどこまで前に進めるか。特に、デモは市民の一つの理性的な政治行動でありながら、その内部に暴力を内包しており、容易くそれはそうしたものに転じている危険性に満ちている。それはまた、ネットの「炎上」や学校での「いじめ」のような「暴力」でもある。

日本のマルチチュード 上野千鶴子

女性が既存の従属から解放されたえで、介護や育児などのケアを「社会的なもの」として位置づけることの重要性を主張。社会的弱者の「コモン」(共)を形成することにおいてネグリに共感を示す。ただしこの主張自体は、原発事故とは直接かかわりがない。

 3・11以降の反原発運動にみる政治と文化 毛利嘉孝

かつてのポストモダン思想の紹介は、政治を抜いたものだったと批判。反原発の街頭デモの系譜を2000年頃の若者たちの政治文化、そして、ニューウェーブと呼ばれる反原発運動の二つにみる。指導者がないからこそこうした運動が協力だというネグリ&ハート『叛逆』の言葉を引用する。さらに1980年代の反原発運動にも言及する。宝島、ミューじっ・マガジンといった雑誌が反原発を掲げたこと、アトミック・カフェなどの音楽フェスの成功。また、1988年の原発止めよう!一万人集会。これらが当時ニューウェーブと呼ばれた。


アベノミクスと『風立ちぬ』―日本から帰って考えたいくつかのこと ネグリ

安倍政権の動向が元来日本がもっているポテンシャルを生かさずに、むしろ、悪しき状態をもたらしていると指摘。



「原子力―主権国家体制」の行方 白井聡

核兵器と原発を主権国家を支える基軸ととらえ、主権国家が衰退するなか、不可避的に原発は事故を起こす。

絶対的民主主義への道はどこに? 大澤真幸

資本主義を支える宗教性を明らかにし内部から突き崩そうとする。


***

ネグリの議論には、二つの要素がある。一つは、現在性の高い抽象的な「概念」である。もう一つは、現在性の高い具体的な「現状認識」である。

概念は、もちろん、マルチチュード、コモン、帝国、といった言葉を指す。

そして、「現状認識」は、イタリア国内、EU、アフリカ、ラテンアメリカ、アジア、それぞれの状況をよく読みとっているという意味である。

それゆえ、ネグリは魅力的であるだろう。けれども私には、今一つ、しっくりこない。

いずれも彼のオリジナルではなく、デリダやフーコー、ドゥルーズ、ボードリヤールらが指摘していたことと、それほど大きな違いを感じないのだ。

また、こういう言い方をすると誤解を招くかもしれないが、ネグリの考察には、空間的、歴史的な広がりがある一方で、哲学的深度が今ひとつ測れないのである。

本書では、とりわけその傾向が強く、ここに登場するのは、スピノザ、フーコー、ドゥルーズ、ハイデガー、サルトルあたりであるが、いずれも、通り一辺倒の理解にとどまっているようにしか思えないのである。



ネグリ、日本と向き合う (NHK出版新書 430)/NHK出版
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