そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ

いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。(タイトルは、ジャック・デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』より。)

核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

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【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。
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読んだ本
隠されたヒバクシャ 検証=裁きなきビキニ水爆被災 
前田哲男監修 
グローバルヒバクシャ研究会 編著
(高橋博子、竹峰誠一郎、中原聖乃)
凱風社
2005.06

ひとこと感想

400ページ以上あるが
丁寧に作られた本でカラー写真もある。

高橋は、1969年兵庫県生まれ。同志社大学文学研究科博士後期課程修了。専攻はアメリカ史。広島市立大学広島平和研究所助手。現在、日本平和学会の分科会「グローバルヒバクシャ」共同代表、第五福竜丸平和協会専門委員、広島平和記念資料館資料調査会委員を務める。

***

1954年3月に
マーシャル諸島で炸裂した水爆。それは第五福竜丸のみならず、多くのマグロ漁船、そして、島民たちに被害をもたらした。本書では、住民の証言や米公文書の分析、見舞金がもたらした社会的影響の調査などを通じて、「ヒバク」被害の実態を再検証する。


目次
第1章 ビキニ水爆被災の今日的意味 前田
第2章 第五福竜丸被災とアメリカ政府の対応 高橋
第3章 塗り変えられる被災地図 竹峰
第4章 ヒバクは人間に何をもたらすのか 竹峰
第5章 挑戦するロンゲラップの人びと 中原
座談会 ビキニ水爆被災 過去に問い、未来につなげる 
監修者の辞
編著者の辞
コラム
資料
文献案内
索引

すみません、今日も時間がとれず、内容についてご紹介できません。お許しのほどを。




隠されたヒバクシャ―検証=裁きなきビキニ水爆被災/凱風社
¥3,240
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読んだ本
畸形のシンボリズム
寺山修司
白水社
1993年2月

(「新劇」に1978年より連載されていたが、病状悪化により中断、その後亡くなった後に
単行本として刊行される)

寺山修司がフーコーとの対談を実現させているのは周知のとおりであるが、本書でもフーコーの名前は、至るところに登場する。

フーコーの『言葉と物』の「序」の一節を引用する。

1-1-1
「ボルヘスがその列挙によって味わわせる異常さは、それとは反対に、出会いの共通の空間そのものが、そこでは崩壊していることに由来している。」(フーコー、14-15ページ)

これに対して寺山は、江戸川乱歩の「一寸法師」をボルヘスの代わりに入れこみ、次のように書きかえる。

1-1-2
「ミシェル・フーコーならば、次のように書くだろう。「人間の腕を大切そうに抱えた一寸法師と、小林紋三とが出会うべき共通の空間はすでに崩壊している筈である。」」(寺山、19ページ)

寺山は以降、翻訳本を頼りにしつつも、自身の想像の世界にフーコーの文章を引き寄せて、一見もっともらしい(というのは「現実」的というよりは「空想」的)不思議な言葉の世界を紡ぎ出している。

多くの書き手が、ある文章の一部を引用しつつ、その内容を自らの文章としてまとめてゆくという手法をとる。すなわち、引用のみならずその前後もまた、元の引用者の前後の文章のコンテクストやタームに依拠している場合があるが、寺山はそれとは気づかせないように、さりげなく、他者(ここではフーコー)の言葉を自らの文章や文脈へと巧みに取り込んでいるのである。

以下、こうした手法によって書かれた文章と元の文章とを対比させてみる。

1-2-1
不可能であるのは、物の隣接関係ではなく、物を隣りあわせることをゆるすそのものなのだ。
」(フーコー)

1-2-2
不可能であるのは、両者の隣接関係ではなく、彼らが隣接することをゆるす基盤そのものなのだ。」(寺山)

「座」が「基盤」に置き換えられているが、こうした言い換えをしたという感じは、寺山の文章からは感じとれない。あくまでも寺山が先に引用したフーコーの文章からインスパイアされたかのように、寺山自体の文章としてつづられているところに特徴がある。

1-3-1
「ボルヘスは、この不可能の地図にどのような形象をもつけ加えてはいない。」(フーコー)

1-3-2
「ここに於ける浅草は、もはや不可能の地図、不思議の下町だということに気づかなければならない。」(寺山)

ボルヘスの幻想の世界が、江戸川乱歩の幻想の世界(=浅草)へと置き換えられるとともに、「不思議の下町」という、フーコーにはない、新たな「形象」を寺山は付け加えているのである。

1-4-1
つまり彼は、諸存在の並置されうる場所、無言の地盤を省いてしまっているわけだ。」(フーコー)

1-4-2
つまり諸存在の併置されうる基盤をまず省き、」(寺山)

フーコーが「場所」「地盤」という言葉を使っているところで寺山は「基盤」という言葉を使っている。いずれにせよ、いくつかの物事がなぜか同じ「場所」「基盤」に据えられることがあるわけだが、その際に、なぜ「併置」されているのか、その「根拠」を明示しないままに、自明であるかのように、議論は進む。以下、コメントは省略して、両者が重なる箇所を列挙しておく。

1-5-1
「遠ざけられているのは、一言で言えば、かの有名な「手術台(ターブル・ドペラシオン)」にほかならない。台(ターブル)――それこそ、そのうえで、ひととき、いや、おそらくは永遠に、こうもり傘がミシンと出会う場所だ。」(フーコー)

1-5-2
「その上で、かのミシンと蝙蝠傘とが出会った手術台』にも匹敵する『台(ターブル)』を」(寺山)

1-6-1
秩序づけ、分類しなければならない。それこそ、言語が開闢以来空間と交叉しあってきたところだからである。」
(フーコー)

1-6-2
「そしてもうひとつ、秩序づけ、分類、それぞれの相似と相違とを指示する名による区わけ、諸存在にたいするこのような操作(オペラシオン)を思考にゆるす表(タブロー)――それこそ、言語(ランガージュ)が、開闢以来、空間と交叉しあうところである。」(寺山)

1-7-1
「それは、おびただしい可能な秩序の諸断片を、法則も幾何学もない、≪混在的なもの(エテロクリット)≫の次元で、きらめかせる混乱とでも言おうか。」(フーコー、16ページ)


1-7-2
「「おびただしい秩序の諸断片を、法則も幾何学もない、きらめく混乱の中」に誘いこむ〈混在郷〉だったということになるのである。」(寺山、20ページ)


ここまでが、最初の「出会い」である。言ってみれば、寺山は乱歩の世界をフーコーから読み解こうとしたのである。しかし正直に言えば、フーコーがもどかしく語ろうとしていた世界は、むしろ、寺山によって剽窃された言説においてこそ、広がりが見られるように、私には思われる、

寺山の「まなざし」はおそらくフーコーときわめて近い「基盤」において作動していたのではないかと思わせられるのである。

***

続いて、第二の出会いは『監獄の誕生』である。最初は「引用」のかたちでフーコーの文章が登場する。

2-1-1
ラ・メトリーの「人間=機械論」は、・・・」「つまり、有用な身体と理解可能な身体。そうはいっても双方の領域のあいだには、重なり合う点がいくつかある。」(142ページ)

2-1-2
ラ・メトリーの「人間=機械論」では、有用な身体と、理解可能な身体が対比されている。」
(30ページ)

先ほどと同様に、これはフーコーの考えたこととしてではなく、寺山の地の文として展開されている。以下、コメントを控えて、併記だけしておく。

2-2-1
「・・・技術=政治の領域。」「
ラ・メトリーの「人間=機械論」は、精神の唯物論的還元であると同時に、訓育(ドレッサージュ)の一般理論であって、それらの立場の中心には、分析可能な身体へ操作可能な身体をむすびつける、≪従順≫の概念がひろくゆきわたっている。」

2-2-2
「たとえば、従順技術=政治の領域に属する一寸法師の身体は、「精神の唯物論的還元であると同時に、訓育の一般理論でもある」(ミシェル・フーコー)の応用によって、分析可能な肉体と、操作可能な肉体とを結びつけるのである。」

2-3-1
服従させうる、役立たせうる、つくり替えて完成させうる身体こそが、従順なのである。」

2-3-2
服従させうる、役立たせうる、つくり替えて完成させうるものとして、一寸法師およびホルンクルスの身体が記述されてきた、という事実は、彼らを主人公として語られてきた「物語」の性格によってもあきらかである。」

さて、どうであろう。二人の決定的な違い、それは、こういうことではないだろうか。

フーコーは「見られる」側に立っていたが、寺山は「見る側」に立っていた。だが、いずれにせよ、この二人には、きわめて近しい「感性」が流れていた。

すみません、時間切れです。いずれまた、もう少し寺山とフーコーとの出会いについては検討したいと思います。


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読んだ本

近代政治哲学 自然・主権・行政
國分功一郎
ちくま新書
2015.04

ひとこと感想
「自然状態」という不思議な前提をたてることによって、人がいっしょに集まって生きるうえでの約束事(社会契約)やその担い手(主権)とその代行者(行政)との関係の前提をふりかえることができる。

***

ここには7人の政治哲学者が登場する。

ボダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カント、である。

タイトルにあるように、「近代」となっているが、もう少し細かく言えば、「近代」社会のフレームを形成した哲学者たち、という言い方ができる。

ここに、何が欠けているのか、何があってほしいのかを考えるだけで、この本の特徴が現れるが、それはさておき、この7人について、それぞれ、本書ではどのようにとらえているのか。

***

ジャン・ボダン

・近代国家体制の構想の出発点に位置づけられる
・絶対主義を擁護し、その延長線上で「主権」概念を生み出す
・主権は元々、君主に対する反抗を押さえつけるためのもの
・主権は、戦争と立法の権利からはじまった
・主権を国王とし、その適応範囲としての「臣民」と「領土」が確定された

***

トマス・ホッブズ

・自然状態として、人間は誰もがそれほど変わらないという前提からはじまった
・それほど変わらないから人間同士、争い(戦争状態)を生む
・自分の力を自分に使うことができるという「自然権」を打ち出した
・自然権とは、人間の自由という事実そのものを指す
・自然権を放棄し譲渡する契約が社会契約説であり、契約によって国家が生まれる
・国家は内乱や内戦を避けるために必要とされた

***

スピノザ

・ホッブズの政治哲学に依拠しつつ、そのロジックを使って別の結論を引き出した
・自然権を法則・規則として定義する
・自由には必ず制約や条件があり、それをどう実現(発揮)できるかが大事
・ホッブズの「恐怖」(暴力)による相手への約束(支配、命令)は有効であるという見方は、スピノザによってそういう約束が嫌であれば逃げてかまわないという結論を導出している
・自然状態では義務は前提にならない
・自然権は行使を自制することはできるが、放棄は原理上できない
・契約とはある時点においてなされた一回性、唯一性のものではなく、社会で生きている以上、その都度、再確認されていることとみなす
・自由はかちとるものではなく担うものである(これは奴隷状態などを想定していない?)
・人はなぜか自由より隷従を選ぶのはなぜか。不安や恐怖が原因。どうとりのぞけるか → 認識によって

ロック
・根拠が問われずに述べられたもので、哲学ではなく主張である
・自然状態の説明は虚偽
・何を正当化するのかばかりが考えられている
・労働こそ所有権を保証するという当時の感情にこたえたにすぎない
・たてまえとして立法を優位に置くが実質的には行政に権力を集中させており、これが現代の国家の姿を驚くほど似通っている
・抵抗とは自然権ではなく、自然権行使の自制が解かれているということである

ルソー
・自然状態論、社会契約論、主権理論を整備
・所有がない状態つまり自然状態では支配-被支配関係はなく平和な状態である
・自然状態でも自己愛はある。が社会状態では利己愛が生まれる(他人との比較で生まれるもの)
・ホッブズの自然状態はこの利己愛の社会状態のこと
・契約は人々が自分自身に対して行うものである
・政治体の力の基礎(=民衆の力の集合)とその発生を問題にしている
・一般意志という謎めいた概念を提起した
・一般意志、立法者は、いわば、外部からの者、すぐれた者などが想定されている
・一般意志は個別的な問題には判断を下させない
・一般意志は法(憲法)であり、それぞれの法律を見張っている(特殊意志、全体意志と対立する)
・一般意志は、主権の限界を明確化している

ヒューム
・「社会契約を支える諸概念の全体を浮き彫りにする」(177ページ)
・人はそれほど利己的ではないという前提をもつ
・日常経験と社会契約論は乖離している
・エゴイズムではなく共感こそが人間の本性である
・共感は「社会的な結びつきにとって障害になる」(182ページ)
・なぜなら共感は一部の自分に近い人に対してしかなされないから(共感は偏っている)
・慣習(convention)(黙約)が社会に共有されれば共感の偏りが解消できる
・社会の起源は法による禁止を出発点にするのではなく、共有を前提にする
・黙約のルールを一般規則と呼び、主にこれは所有制度を指す
・社会契約説がたてたスタート地点よりも前段階として、黙約の形成という時間のかかる家庭を導入した(時間、歴史の概念の導入)

カント
・ヒュームが過去に向かって考察しているとすれば、カントは未来に向かって考察している
・進歩は人類の必然だが、それは本意ではなく、嫌々している
・動物性(自然)とは異なる能力=理性をもってしまっている
・理性をもつ以上、その掟に従うべく運命づけられている(自然がそうであるように)
・理性の法則(掟)による世界は究極的には世界平和を実現することを運命づけられている
・だが個体としての人間がそれを容易に実現できるわけではない。つまり、理想の実現は類として目指さざるをえない
・社会契約は事実として確認されるものではない。つまり、理想界の事象である
・ただしこの言い方は逆に言えば「社会契約という名の理念が実在性をもつ」(213ページ)とみなしていることになる

***

以上、あくまでも人物に即して、今の私たちにとっての「社会」を支える理念について、探り返すという作業を行っており、一見地味な作業に見えるが、これはきわめて重要な作業である。このことを見失ってはならない。

最終的に私たちは何を相互に容認して「社会」を形成しているのか、そして一体何を望んで他者と同じ社会に生きるという覚悟を決めているのか、その点を本書から見直すことができるであろう。

近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)/筑摩書房
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読んだ本

原発 決めるのは誰か 
吉岡斉、寿楽浩太、宮台真司、杉田敦 
岩波ブックレット 
2015.05

ひとこと感想
タイトルは、
一部の「誰か」で決めるべきものではない、という意味なのであれば分からないではないが、私の読後感とは少しずれている。「原発」を「決める」とはどういうことかを、「誰か」の前にもう一度見直すべきだ、ということではないだろうか。寿楽と宮台の部分が特に本書では学ぶものが多かった。

***

本書は3部構成になっており、吉岡斉と寿楽浩太の論考、そして、4人の討論が含まれている。

杉田と宮台は、ともに「みんなで決めよう「原発」国民投票」と言う市民運動の共同代表であることから本書は、その運動と密接に関連していることが想像できる。

***

原発政策はなぜ変えられないのか
吉岡斉

「いまの原子力政策の流れは、2011年3月以前の状態に可能な限り「原状復帰」することを目指すというもの」(4ページ)

また、戦後のエネルギー政策には、内容上の大きな変化はあったが「政策決定のあり方」については、変わらずに来た。

「通産省→経産省」特に資源エネルギー庁と電力会社・電事連がおおもとということになる。

その中で原子力は格別に国から庇護されてきたことは、すでに多くの人の知るところである。

そして現在、原発を再稼働させる利点とは何かをまとめている。

・既設炉のコスト優位
・安定供給
・ガス排出量

ただし、いずれも強く言うほどには利は少ないとしている。他方で課題点は多々指摘されている。

・過酷事故
・放射能の後始末
・軍事転用
・立地
・経済コスト
・後始末のコスト

結論としては、それほどメリットがあるわけでもないのに政府が(過)保護している、それが原発の立ち位置ということになる。

国からの過保護(支援)は多岐にわたる。

・立地自治体への交付金
・研究開発費
・安全保安コスト
・損害賠償
・バックエンドコスト
・電力自由化抑制

こうした分析から、直ちに原発すべてを廃炉にすることがベターではあるが、いくつかの新しい原発は当面は動かすというやり方が現実的だとする。

2010年の時点での政策の特徴は次のようにまとめている。

・国内から海外輸出へ
・核燃料事業の行き詰まり
・高速増殖炉サイクル開発路線の推進

3.11後にはこうしたやり方に大きな転換があった。

「民主党政権は、将来原発をどうするかということを、国民の意見を取り入れて、官邸主導で決めようとしました。」(19ページ)

「これまでの原子力政策の決め方からすれば、およそ考えられないような民主的なプロセスを経て出されたものでした。」(同)

多くの「国民」の声は、原発に対して否定的であり、過半数を超える人たちは少なくとも将来的には原発利用をしない方向性を望んでいることが確認され、それに基づいた政策を打ち出そうとしていた。

ところが具体化や法制化が進まないなかで再び自民党政権に戻ると、こうした変更は何もなかったかのようにふるまう。

ここで大事なのは政党の違いではなく、政策を生み出す「主権」の問題ではないだろうか。

「国民を無視した旧態依然の官庁主導の政策決定の仕組み」(20ページ)に戻してしまったことが問題であり、そのことについては、一切の釈明もないのである。

また、原発事故に対する反省ならびに教訓をまったく活かしていないという点も驚くべきことである。

とりわけ、事故時における避難や防災について十分な計画や対策が講じられていないこと、特に原発のある自治体というよりはその近辺10~20キロ圏内の自治体の立場がふまえられていないままというのは、あまりにもお粗末ではないだろうか。

また、環境への影響、もっと言えば、自治体や土地、環境への影響力の大きさ、破壊力の深刻さに対して、何ら考えようとしていないのは、一体なぜなのだろうか。

***

どの価値を大事にしたいかという議論から始める
寿楽浩太

科学技術社会論(STS)については、単に原子力工学の知見を社会に受け入れてもらうのではなく、社会と専門家(原子力ムラ)との意識のずれをはっきりさせることとしている。

その見地から、政策決定に求められること、前提を次のように整理している。

・正当性 (専門知)
・正統性 (民主主義)

科学技術の近年の政策決定においては、テクノクラシーを肯定的にとらえる傾向にあった。

それは科学技術が価値中立であるとともに、正しさや答えは最初から決まっており間違えるはずがないという「信念」に基づいている。

「テクノクラシーは社会的な意思決定の過程、あるいは意思決定そのものを脱政治化する」(30ページ)

しかし、薬害、公害、地球環境問題がそうであるように、単なる副作用にとどまらない根源的な問題としてとらえられるようになってきた。

テクノクラシーへの疑問や批判が高まるなか、意思決定については「民主化」を進めようという方向が模索された。

「社会的な意思決定プロセスに、いろいろな人々を関与させるという「(市民)参加」を推進する」(33ページ9というやり方である。

ただしここでも課題はまだ残る。ポピュリズムの愚というやつだ。多数決や民主的意思決定はときに間違いが発生するというものである。

確かに、一時的な熱狂や勢いは、それ自体が危険性をもっていることは、すでに歴史が証明しているところである(が、ここで、討議もしくは熟議民主主義という概念が提起されるのである)。

いずれにせよ、一般市民は専門家のような知識や経験に基づいた議論や判断にそのまま参加することが求められているのではない。

そこで問われるのは、「どのような世界に生きたいか」という「世界観」「価値観」とみる。

そしてこの検討は、楽しい選択ではなく、どちらにもマイナスがあるが強いて言えばどちらがよりましなのか、ということを基本とする点に特徴がある。

つまり、単に「専門家」から「市民」が議論を取り戻すというのではなく、「意思決定の筋道の組み立てを変える」(42ページ)が求められており、具体的には、ムラの内部に囲い込まれた専門家を市民の側に取り戻すことだ、としている。

具体的には、原子力規制委員会の人ややり方が悪いという非難は、当面の影響は与えるとしても、あくまでも「規制」は「利用」が前提となっているものなので、長期的には方針や方向性には影響をもたらさない。

確率が低いか高いかではなく、もし起こってしまった場合に取り返しがつかなくなる、すなわち、これまで住んでいた土地が住めなくなる、土地が、環境が、生活が、自分たちから奪われることにたいして、容認できるのか、できないのか、それが問われているのである。

つまり、寿楽は吉岡のような原発「批判」の目線では、十分ではないということを指摘しているのである。

「もしも原子力に別の大きな意義、市場でやりとりされるような経済的な価値とは別の価値を認める人がいれば、その人は、政府が支援をして、市場競争から守ってでも使うべきだと言うでしょう。」(46ページ)

むしろ、社会のデザインとして、集権的な社会制度を求めるのか、それとも分散的な制度や市場を求めるのか、そうした選択肢について考えていったほうがよいのではないかということである。

***

いま、必要な議論は何か 「原発推進」対「原発反対」を超えて
吉岡斉、寿楽浩太、宮台真司、杉田敦 

宮台は、これまでの認識としての「脱社会化」という考えをここでは「社会に必要な「我々の価値」を決定しようとしても、それができないという状況になっている」(49ページ)と説明している。

そして、サンデルを「絶望の思想家」「ニヒリスト」と呼んでいる。つまり「この社会はそういう感情や倫理や価値を共有する「我々」を取り戻すことはできない、と既に確信している」(51ページ)からである。

宮台はこうしたサンデルの「絶望」や「確信」を否定的にとらえ、ローティーのように「価値は埋め込め」「感情教育を進めよう」という議論を支持する。

「感情教育」という言葉は、正直、以前からあまり好意的にとらえていない私であるが、ここで宮台が言いたいことは分かる。

当然の軋轢や葛藤は当面は増えるであろうけれども、まずは意見の異なる者どうしが同じ場所で生活し、考えを重ね合わせて、「感情の共通の地平を作り出す」(同)ことを目指そうとしているのである。

福島県内で原発の話ができない、これこそが、まさに問題だ、と宮台は言う。もちろん自分や家族、知人の誰かが原発や関連企業とかかわっているため、うかつに話すと「人間関係」を崩壊させてしまうことをおそれ、話題にしないのだ。

実際これは、あちこちで語られている。たとえば漫画「いちえふ」(竜田一人)においても、この話題が避けられており、自分もそういうことを直接的に話すのは好ましくない、という書き方をしていた。

「若い人たちは、価値を持つことで人間関係上の適応ができなくなることを恐れています。だから、価値なんか持たずに周りに合わせていればいいと思っているのです。」(52ページ)

この言葉、昨今の学生と接していると、ひしひしと感じる部分である。

しかし宮台は、こうした同町圧力のある「ムラ」的意識は、「昔から」
(いつから?)あまり変わっていない」(53ページ)という。

これを受けて杉田は、これまでの議論は、少しずつではあったが、推進側でもさまざまな意見があり、再処理路線など、個別案件では単純な推進・反対の二項対立ではなく、両者がある程度納得できる問題点に対する取り組みが可能になりつつあったとふりかえる。

ところが、過酷事故が起こったことによって再び元に戻ってしまった。

「フクシマ事故が原子力ムラの壁に穴をあけて、対話を促進するのではなく、より閉鎖的にさせてしまった面が多分にあると思います。」(54ページ)

ただし、一部の技術者や専門家でも、違う動きをはじめた人たちはいるので、そういう人たちの可能性を引き出したいとしている。

杉田は、寿楽のリスク・コミュニケーションの矮小化について、もう一度強調する。

原発だけでなく、安全保障、憲法、金融、いずれの面においても、専門家主義の傾向がみられることに反発している。

これに対して寿楽は、やや諫めるような感じで「北風と太陽」のように、推進する人たちとの接し方も考え直すべきだとしている。

「彼らの尊厳を尊重しながら、やり方や努力の方向をより私たち市民が望むように変えてもらう方法を考えないとなりません。」(56ページ)

寿楽は、実際に原子力専門家の内部に入り、少しでも変わっていってもらえるような努力をしているようだ。

「原子力を専攻する学生や若手の研究者と話をしても、こちらが思っている以上に「いままで違うこと、人と違うことをやってはいけない」という意識が強いことがいつも気になっています。」(58ページ)

原子力ムラのエンジニアのメンタリティは、通常のものと少し違うのではないか、という問いを提起している。

すでに老朽化しつつある技術を死守することよりも、最新の技術に置き換えてゆこうとすることこそ、エンジニアのメンタリティではないのか、ということである。

こうしたエンジニアのメンタリティを変えてゆくことも宮台の言う「感情教育」に含まれるだろう、というのが寿楽の考えである。

これを受けて宮台は、実際のECRRについて言及する。

「IAEAが何か基準を出すと、ECRRが「それはおかしい」と直ちに対抗的な議論をして市民たちが参加します。、これは単に敵と味方というよりも、科学者から見た場合に内集団の外に包括集団があって、そこで生きていけるということを示しているのです。」(61ページ)

双方向のコミュニケーションがとれることが、とにかく、必須なのだ。つまり、「批判」や「非難」「主張」ではなく、「対話」である。

「口幅ったい言い方ですが、「どうしたらもっといい世の中になるか」という文脈で話し合おうとしているのだ、そのことは意見や立場が違ったとしても共有していますよ、ということは、まずはお互いに確認し、相手を尊重しなければならない」(68 ページ)

また、お互いの視点や言葉などの違いは確実にあるので、その両者を取り結ぶ役割の人が大事になってくる。




原発 決めるのは誰か (岩波ブックレット)/岩波書店
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読んだ本
電力と震災 東北「復興」電力物語 
町田徹 
日経BPマーケティング 
2014.02

ひとこと感想
東北電力ヨイショの本とばかり思って読んだが違った。まず、東電と東北電力は違うというのが最大の主張。女川原発の実績から、極端な話、もし福島第一が東北電力が建造していれば、あのような事故は起こらなかったのではないだろうか、と考えさせられた。もしそうであれば、少なくとも私たちは原発と良い関係が保てたかもしれない。

***

以前より、実は、白洲次郎が東北電力の会長だったことが気になっていた。

彼は一体、東北電力に何をもたらしたのか。

白洲の住んでいた居宅は現在、「武相荘」として一般開放されており、彼らの暮らしの雰囲気を窺い知ることができるが、それはまさしく、英国紳士(ジェントリー)を髣髴とさせるものだった(といっても本当の英国紳士の暮らしを知っているわけではないが)。

彼の本も何冊か読んだ。しかし東北電力とのかかわりについてはほとんど言及がない。さて、本書はどうであろうか。

まず、本の表紙と中表紙が、まさしく白洲次郎に焦点をあてている。両手をポケットにつっこんで颯爽と先頭を歩く白洲。防寒具を着て数名とどこかの家の前で記念撮影をしている白洲。

本書は、東電が世間から非難にさらされているなか、東北電力は東電とは違うということを訴えたいようだ。

確かに、電事連をはじめ、他の電力会社はみな東電の手下のように受け止められており、それぞれの違いについて理解しようという風潮ではないのは確かである。

そもそも、東京電力が東電となるのに対して、東北電力は東電とはならない(なれない)。一体どういった略称となるのであろうか。

ちなみに、北海道電力が北電であるから、東北電力は、もう、東北電とまでしか略せない運命にある(ちなみに北陸電力は、現地では北電とも呼ばれるが、混同しないように陸電と略されている)。

そのためなのか、それ以外の理由なのか、現地では「電力」もしくは「電力さん」と呼ばれる。東電や北電よりも、むしろグレードが高い感じである。

***

白洲次郎(東北電力初代会長)のほか、もう一人、内ケ崎
贇五郎(初代社長)の二人こそが、東北電力の祖である。

「二人が中心となって育んだDNAは、東日本大震災との困難な闘いを支える原動力になった。」(2ページ)

ちなみに、白洲と同時期に九電会長に収まったのは、麻生太賀吉(麻生太郎の父)であった。

そして町田は、電力会社がすべて東電と同じようにみられていることに対して反発し、次のように述べている。

「電力会社の中には東京電力と似たような体質の会社があるかもしれないが、こと東北電力に関しては、そうした見方は的外れと言わざるを得ない。」(3ページ)

こうした発言は、興味深い。町田は、東北電力に対しては、高く評価しているが、その一方で「かもしれない」と言いながら、まず、東電に対しては擁護をしていないこと、そして、東電だけでなく、電力会社の中にはあまり評価できないところもあるということを仄めかしているのである。

なんというのか、とにかく、東北電力=善、という前提で語られるのである。別に東北電力=悪、と言いたいのではない。

だが、あまりにも対象を絶対肯定しすぎると、ポリティクスとしては、無批判的、無思慮的な印象が強まり、信憑性が落ちる。

その一方で、白洲に対する世間の過剰な評価に対しては警戒している。

「通説は、さすがに白洲を持ち上げすぎだと思う。」(132ページ)

「実際の白洲は、門外漢が電力会社の経営に無用な口出しをするべきではないと、かなり自重していたように思われる。」(同)

***

だが、女川原発に限って言えば、
もう一人、功労者がいる。基本設計にかかわった平井弥之助である。

彼が
過去の事例にをふまえて15メートルの高台に立地することを主張したのである。また社内でもこの意見に賛同したという。

「女川原発は、1995年に2号機の営業運転を開始したが、その設置許可申請に、向けた調査で、想定する津波の高さをそれまでの約3.1メートルから同9.1メートルに引き上げた。地質調査で貞観地震の実態が浮き彫りになったためで、東北電力は1990年にこの事実を論文にまとめて発表している。」(254ページ)

ではなぜ、東電は???????

***

女川原発には、13メートルの高さの波があの日、押し寄せた。にもかかわらず、ここでは、大きな被害はなかった。

原子炉建屋は海抜14.8メートルのところにあり、同じ高さの防潮堤も備えていた。この防潮堤をあえてつくったのは、引き潮対策である。

「原発を設計する段階で、津波による大きな事故の芽を摘んであったと断じてよい。」(54ページ)

つまり、福島第一が女川と同じくらいにしっかりと津波対策をしていれば、こうした事態には陥らなかったということを、町田は暗に指摘しているのである。

確かに女川原発は、無事であった。だが、この津波は無慈悲にも町役場に近い高台にあった社員の共同住宅をも襲い、16名の命が奪われた。

***

もちろんこれは、あくまでも「ないものねだり」であるが、ここまでしっかりしていた東北電力であれば、その管区内にあった東電の原発ならびに東電との関係においても、何かできたのではないかと思ってしまうことだろう。

当時、
福島第一は電源車を必要としていたが、その手配は東電ではなく官邸から行われていた。

実際に官邸からは、東北電力にも電源車の手配を依頼するが、それは本店ではなく福島支店にであった。

そうした指示系統の混乱があったにもかかわらず、福島県内にある10台の電源車のうち、4台をただちに現地に向かわせた。

到着は午後11時頃で、東電の電源車よりも早かった。だが敷地内には瓦礫が散乱し原子炉には近づけず、社員たちは敷地内に電源車を残し避難した。

また、東北電力内部での会議における話題についても町田はふれている。

3月12日の朝の会議にふだんは参加しない会長の高橋が本人の意思で出席し、東電の様子を「事象」として、すなわち、自重しながらも事態の深刻さについて情報共有を行った。

一方、同時刻には火力原子力本部長代理、梅田が女川に向けて食料や物資を詰め込みヘリで移動するところだった。

***

東電と東北電力との関係性については、戦後にまで遡る。GHQマッカーサーの介入によって半ば強引にそれまでの日発一社体制であった電力会社を各地で分割した、

ところがこの分割は単純ではなく、東北電力の管内であっても東電がそのときから入り込んでいた。

「首都圏向けの電力の供給力の確保を優先したからだ。これにより、東北電力は、猪苗代湖周辺の電源をごっそり東京電力に奪われてしまった。発電した電力をその地で給配電するという「属地主義」の原則に従えば、これはかなり理不尽な話である。」」(109ページ)

***

東北電力は、東電に対して、非常に微妙な力学のなかにあった。

「業界全体の問題、電力の相互融通、そして原子力発電の問題などを巡って、決して東京電力の川上に立とうとしない」(262ページ)

***

こういう本を読めば読むほど、一体、どうして、東電はあれほどまでにぐずぐずとした対応をしていたのか、その内容が問われる。

これはあくまでも仮説的な選択肢であるが、東電には原発は任せられないとしても、やむなく稼働するのであれば、東北電力に委譲して行ってほしいと思うことだろう。

実際、町田は、次のように、あるとき、新潟県知事の泉田に質問したという。

「仮に東京電力がこの原発(=柏崎刈羽)を東北電力あたりに売却して、東北電力が運転するということにしたら、あなたは再稼働に同意しやすくなるのではありませんか」(292ページ)

これに対して泉田はこう答えたという。

「そのシナリオは、私が心の中で唯一、早期の再稼働を認めてもよいと考えているものですよ」(同)

しかも泉田はこのことを東北電力の海輪に「直接催促」したという。

***

町田は最後に、もう一歩踏み込んで、原発の現状や
今後のあり方にたいして次のように説明している。

・原発がなければ電気が不足するという議論は虚構だった
・しかし即時原発ゼロも現実的な選択肢ではない

・原発の安全性は、運転する会社や人々によって大きく異なる

・多くの専門家は、本当のこと(上述のような話)を決して公言しない
・マスコミの記者や幹部も社論に縛られて率直な発言をしない

・安全を確認できない原発についてはどうするのか、政府は名言していない
・敦賀原発は活断層の存在が明確であるにもかかわらず抵抗を続けているが、これに対しても政府は処分を放置している
・営業年月の長いもの、人口集中地に近いなどの原発は、直ちに廃炉にすべき(福島第二、東海第二など)

こうした原発廃炉問題については、経営を著しく逼迫する恐れがあるとして保留にしているという意見があるのに対して、町田は、英国による手法であるNDA(英国原子力廃止機関)の日本版の設置を解決策として見込んでいる。

すべての廃炉原発を一手に担う機関を別途立ち上げようというものである。



電力と震災 東北「復興」電力物語/日経BP社
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読んだ冊子

電力と震災 東北「復興」電力物語 特別版
町田徹
日経BPマーケティング
2015.02

ひとこと感想

どうしても福島第一原発にばかり目が向くが、女川原発の被災をはじめ、「3.11」は、東北各地の発電所に被害をもたらした。この冊子が作成された意図は今ひとつはっきりしないが、カラー写真で、各地の発電所や工事復旧作業などの様子をダイジェストで窺い知れる。

***

東北電力の「復興」の様子を伝える冊子である。

文章が2ページ、写真が15ページ、奥付が1ページ、という構成。

文章には次のようなタイトルがある。

 試練から四年、苦闘の真っ只中に

2014年7月に、町田は、原発取材の合間を縫って、仙台市宮城野区にある、新仙台火力発電所に行った。

「3.11」では、かなり老朽化が進んでいたこの発電所に、震度6弱の揺れと、恐ろしく高い波とが襲いかかった。

その結果、一部が倒壊と水没の被害を受けた。

場合によってはここを廃棄して、新たな発電所を建設するという選択肢もあったが、東北電力は復旧を選んだ。

営業の再開は2011年12月。わずか9か月である。

そして2014年には、すでに、最新のコンバインドサイクル方式に移行する工事を進めていた。

町田は「建屋の屋上から敷地内の鳥瞰」(1ページ)と書いているから、東北電力への取材として公式に内部に入っているようだ。

1日現地に滞在し、翌日には女川原発に行く。

女川は震災直後に一度防潮堤のかさ上げ工事を行ったが、さらに二度目の工事を開始している。

ここでも公式の取材を行ったようだ。

だが、町田とは何者か。

「経済ジャーナリスト」となっている。以前は日経新聞社におり、ワシントン特派員など、そのあと雑誌編集者。そして2004年に独立となっている。

どういった理由でこうした写真を中心とした冊子を刊行したのであろうか。きわめて異例な体裁であるように思われる。

明日は、この「特別編」に対する本編についてとりあげる。

***

写真は全部で43枚。

とりあげられている対象を追ってみよう。

・原町火力発電所
南相馬市にある。津波の被害を受けた。写真には、2階の部分まで破壊が進んだ大きな建物が写し出されている。また、事務本館を大写しにした写真では、1,2階の窓ガラスもすべて壊されている姿。

・仙台火力発電所
宮城郡七ヶ浜町にある。室内の写真では、天井の断熱材が見えている。

・新仙台火力発電所
仙台市宮城野区にある。写真では、土に埋まっているはずの部分があらわになっているようであるが、一体何を撮っているのか、ちょっとわからない。

・総電鉄塔
南相馬市にある。津波で倒壊した写真。これはいつのものなのであろうか、クレジットがないのでわからない。

・電柱
気仙沼市。線が絡みついた無残な姿。

・火力技術訓練センター

宮城郡七ヶ浜町にある。津波で1階部分の壁がかなり破壊されている。

・宮古営業所
室内の様子。いつの写真なのであろう。

・女川町
瓦礫が連なる町の光景。

・体育館
キャプションには女川原発が被災者に避難所として受けれたとある。原発サイト内に体育館が併設されているのである。

・東北電力本店非常災害対策本部
多くの人が写ってるが、社長と会長がどこにいるのかのも、キャプションに書かれている。テレビモニターがいくつか並べられている写真もある。

・石巻営業所
地図になにか書き込んでいる。

・新潟
東北電力は新潟にも支店をもつ。「第7陣分任」と背中に書かれた人物が写っている。

・車
中部電力復旧班と書かれている。

・打ち合わせ風景
各地から集まった応援隊との打ち合わせ。

・工事風景
女川町。電柱を建てている。
釜石市。まだ瓦礫が残る中で電柱は復旧している。

・仙台港変電所
宮城野区。山形市から運んできた変電設備を設置している。

・大船渡営業所
仮設営業所。

・ホワイトボード
場所は不明。「作業員たちの食料配分を検討する」というキャプションがある。

・工事風景
気仙沼市。「人の手で部材を運び工事を進めた」とキャプションがある。

・仙台火力発電所4号機
復旧を進めている写真と、営業員店再開を果たした時の記念写真。

・原町火力発電所
パノラマ写真で全体を見渡せるようになっている。2011年3月12日、7月15日、2012年1月4日、2012年5月29日、7月31日、2013年2月13日。

・豪雨
宮下発電所(大沼郡三島町)
新郷発電所(喜多方市)
山郷ダム(喜多方市)
伊南川は通電所(大沼郡金山町)
湯之谷発電(魚沼市)
本名ダム(大沼郡金山町)

・女川原発
2014年12月4日の時点での防潮堤の工事風景

・配電線復旧工事
2013年8月25日の時点での配電線復旧工事の風景

・工事風景
場所不明






電力と震災 東北「復興」電力物語 特別版/日経BP社
¥270
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たくさんの形も色も異なる椅子が並んでいる。これが世の中というものだろう。


読んだ本

実録FUKUSHIMA アメリカも震撼させた核災害 
デイビッド・ロックバウム、エドウィン・ライマン、スーザン・Q.ストラナハン、憂慮する科学者同盟
水田賢政訳


ロックバウムは、憂慮する科学者同盟核安全プロジェクト長。
ライマンは、憂慮する科学者同盟グローバル・セキュリティ・プログラム研究主幹。 
岩波書店 
2015.10

ひとこと感想

原発事故から10日間、米国がどのようにこの原子力災害に対応したのかを再現。当時の模様を再現する書籍はいくtかあり、読んできたが、いずれを読んでも、やはり、嫌なものである。こうした出来事は二度とおこってほしくないと願うばかりである。

***

「機能しなくなった原子力発電所のなかでどのように事態が悪化していったかの詳細な説明と、東京の政府官庁やアメリカの緊急司令センターで起こった出来事の話が織り合わさっている。そして、アメリカや日本の国民を守る責任を負った人々が、どのようにして、不意の、ときに手も足も出ない事態に直面したかを明らかにしている。」(ixページ)

米原子力規制委員会(NRC)の動向が語られる。

1999年JCO臨界事故後に出された「ネイチャー」の痛切な批判は、当時の原子力安全委員会に向けられたが、それは結局その後改善されなかった。

あらためて、1号機の水素爆発によってそれまで行ってきた作業が水の泡になったことが、痛い。もう一息で海水注入のライン構築ができる寸前だった。

NRCは、在日米人たちの安全の確保のための指針を示すよう期待された、と本書には書かれている。具体的な数字は、兵士38,000人、その家族43,000人、軍職員5,000人、計86,000人がおり、その他、大使館員、ビジネスマン、学生、旅行者など合わせると、16万人としている。

NRCもまた、SPEEDIのようなシミュレーションシステムを持っていた(RASCAL)が、実際の線量が分からないため、苦慮していた。1号機の格納容器が完全に破損して炉心が著しく損傷していたという仮説をたてて、80キロ地点を安全とみなした。

ここは私が理解していたことと異なっている。米国は、炉心溶融のためというよりも、燃料プールに水がないことを懸念して80キロを設定したと思っていた。

実際、途中より4号機のプールの水について、まったく注意が払われていなかったからこそ、突然不安が高まった。

それはさておき、NRCも当初はシミュレーション結果や米国までの放射性物質の飛来の可能性などについて、発言を避けていた。また、日本の原発事故に対してもコメントを自粛した。

「プレスリリースでは、アメリカ国民を安心させようとする一方で、NRCは日本の原子炉の時々刻々の推移に論評はしない」と言い切った。」(81ページ)

3月14日、米国では、原子力空母ロナルド・レーガン号にて放射線検知の報告がある。福島第一から180キロ離れていたが、通常の2.5倍の値を記録する。

米大使館のルースは在日米人たちの福利の責任を負っている以上、もっと正確な情報がほしかったが、なかなか政府からは出てこなかった。

当初は全面的に援助を断った日本政府だが、態度を軟化させ受け入れを行ったことは、あまり報道されなかったように記憶する。だが同時に、その後空中モニタリングを米国側が行ったことが知られている。

また、その後、横須賀の海軍基地の将官から0.015ミリシーベルト毎時の線量測定報告があった。

これは顕著に高い数値ではないが、平時の2倍近くあり、少なくとも事故地から300キロ離れていても風向き次第で、はっきりと数値が上がるほどに、原発の防御力は落ちていることがわかる。

当時の米人たちも、関東一円までもが危険な状態となりつつあるというおそれを抱き、
一種のパニックとなっている。

NRCのカストは東京までのフライトのあいだに、過酷事故のシミュレーション論文を読んでいたが、まさしく次のように感じた。

「カストは、そうしたシミュレーションが福島で起こっている現実の状況とほぼ一致していることに驚いた。」(112ページ)

この間もルースは在日米人に避難勧告をすべきかどうか、葛藤を続けていた。

当時の危機的な綱渡りの状況のなか、もう一歩悪い方に行ってしまえば、その時点で、80キロ圏外への避難が必要であるとホワイトハウスとヤツコは確認する。

ここで決定的な認識の違いがある。

米側は4号機のプールの破壊状況について、かなりネガティブにとらえていた。が、日本側は1枚の写真に水が映っていたことを拠り所に、まだ大丈夫ととらえていた。

「決定的な証拠はまだなかった。最終的には日本の当局が正しかったことになるかもしれないが、4号機に接近して真相を知ることができるようになるまでには、何日もかかるだろう。」(118ページ)

結果的に米国側は一度、プールの水が干上がっていることを「前提」としつつ、80キロ避難を勧告したが、その後、日本政府からこの件について照会があり、干上がっていないことは認める、だが、安全であるとは言えないという理由から、勧告の撤回はしなかった。

その後、一般的には米国側が日本政府の事故対応の本気を確認したと言われる、ヘリからの海水散布については、本書ではわずか3行、事実だけが書かれて終わっている。むしろそのとき、同時に米側も〈ポンプ設備の設置などを行っていたことに焦点があてられている。

そしてそのあと、例の「キリン」も投入によって、事態はやっと、高緊張次元から降り立って行った。

この頃の政府や東電、原子力安全・保安院などからの記者会見の内容に対するコメント。

「人々を安心させる言葉と、発電所で起きていることに関するいらだたしいほど漠然とした説明とが、支離滅裂に入り交じっていた。ときには相矛盾する情報が提供されることもあった。」(135ページ)

米側のその後の動向としては、3月17日にオバマが「アメリカに有害なレベルの放射性物質は到達しないと予想している」と公言した。

***

事態を追いかけるのはこのくらいにして、あとは、いくつかトピックをランダムにとりあげる。

米国においても、この「フクシマ」は「国内」の問題として、あらためて原発は本当に安全なのか再検討が行われた。

「フクシマ」と同じことはありえないとしても、TMIを超える事故もしくはさまざまな要因によって引き起こされる炉心溶融はありえる、というのが結論となる。

また、かつてのリスク分析、例の、隕石にあたる確率ほどしか過酷事故は起こらないというものに対するNRCの反論が書かれている。

配管の破断などの内部の出来事に関しては、ある程度確率論的な検証は意味があるが、天災や飛行機衝突事故などの要因は不確定要素が強く、それをかけあわせてしまうと、ほとんど事故は起こりえないような確率にしかならない。

「リスク評価をおこなった専門家は、外部事象を取り扱えなかったせいで、計算した原子力事故のリスクにとてつもなく大きな不確定性が含まれてしまったことを認めず、ときに、まるで重要な証拠がないのに判決を下すかのように、そのような事象の可能性は存在しないと偽った。」(256ページ)

***

マークI型の格納容器の強度に関する懸念も述べられている。国内でも何人かの研究者は検討を続けているが、すっかり「原発」は「安全」と言い続ける専門家の声のほうが大きいのが「原子力ムラ」である。そして米国でも同じように、これまで検討はなされたものの、最終的には次のような結論がNRCのパネルディスカッションで出された。

「マークI沸騰水型原子炉で長時間の全電源喪失が起こるなど、原子力発電所でたとえ過酷事故が起こっても、それほどひどい事態にはならないだろう」(273ページ)

これが、なんと、2011年3月10日、なのである。

***

「福島第一原発を支配していた安全哲学と規制プロセスは、アメリカを含め各国に存在するものと基本的には変わらなかった。」(333ページ)

事故調のなかでも、日本の「文化」的問題という言い方をして、事故というよりも原発の科学技術としての問題点に迫ろうとする調査がなかったのは、今でも納得がゆかない。

「世界中の原子炉が抱える脆弱性」(333ページ)こそ、問題にしなければならなかったのではないだろうか。

そして問題なのは、もし稼働させるとすれば、どのくらいのことをすれば安全と言えるのか、または、何をやっても本当に安全とは言えないのかどうか、である。

たとえば、ベントにフィルターをつけることは、私たちの目からは当然の処置だと思うが、こうしたことが「当然」とならないところが、原発の世界の厄介さである。

そしてもう一つ、事故が起こったときに、本当に深刻な事態に陥るのは、近隣の住民であり、自然環境である。その「犠牲」を許容できる「論理」や「理念」など、本当にあるのかどうか、きわめて疑わしい。

一方で事故の原因や経緯の正確な把握は、今後の大きな課題であるが、それとともに、感情的、短期的な判断ではなく、長期的な判断として、原発の安全性や有効性にかんする検討も、続けてゆくべきだと思うのである。


目次       
1  2011年3月11日 「これまで考えたことのなかった事態」
2 2011年3月12日「本当にひどいことになるかもしれない」
3 2011年3月12日から14日「いったいどうなってるんだ!」
4 2011年3月15日から18日「一層悪くなっていくと思います」
5 幕間――答を探す「県民の不安や怒りは極限に達している」
6 2011年3月19日から20日「最悪のケースを教えてくれ」
7 もう一つの三月、もう一つの国、もう一つの炉心溶融
8 2011年3月21日から12月「安全確保という考え方だけでは律することができない」
9 不合理な保証
10 「この会議は非公開ですよね?」
11 2012年「本当に大丈夫なのか。きちんと国民に説明すべきである」
12 あっという間にしぼんでいく機会
付録 福島の事後分析 何が起こったのか?


実録 FUKUSHIMA――アメリカも震撼させた核災害/岩波書店
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石、草花。



2016年1月によく読まれた記事(核関連)

1位 「青い光」(斉藤和義)とJCO臨界事故
2014-07-05 22:05:00
http: //ameblo.jp/ohjing/entry-11888941505.html

なぜか1月も2015年12月に引き続き、斉藤和義ブームでした。この楽曲が巧いのは本来可視化されにくい核エネルギーに対して「青い光」という、視覚に訴える表現をしているとことですね。

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2位 核分裂の発見は誰がしたのか~原爆が生み出されるまで~プルトニウム(バーンシュタイン)を読む
2012-06-18 11:45:08
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11277934273.html

こちらも12月に引き続き2位でした。原爆の開発史は数多く刊行されていますが、物理学史を丁寧に、しかも、従来の説とは異なることを主張しているところが本書のおもしろいところです。

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3位 赤塚不二夫による被爆をめぐる物語~点平とねえちゃん 1960.08
016-01-03 21:33:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12111499944.html

今なお多くの人に赤塚不二夫とその作品が愛され続けているのは、「天才バカボン」などの代表作だけでなく、こうした作品を読むことで、より一層理解できるような気がします。水木しげるもそうですが、最近は国民的作家と言えば、小説家よりも圧倒的に漫画家ですね。

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4位 息子はなぜ白血病で死んだのか 嶋橋美智子 技術と人間 1999.02
2016-01-24 22:00:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12120684603.html

浜岡原発で核計装班として働いていた方が10年ほどで白血病で亡くなり、没後に母親が、
藤田祐幸や海渡雄一の協力を得てかなり短期間に労災認定をかちとりました。原発被曝による影響が認められた数少ない実例です。

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5位 私たちは、原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。ロッキング・オン 2011
2016-01-25 22:06:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12121248444.html

渋谷陽一らがインタビュー・編集した本。さすがに迫力があり、人選も素晴らしいです。田中三彦の「原発は社会が求めているのではなく人間が求めている」という言葉が特に響きました。人間的欲望としての核エネルギー利用。日本の経済や政治において不可欠とか、科学技術は不可逆だとか、そういうことよりも以前に「欲望」としてとらえると、端的に、「アメリカ」という「他者」を欲望しているということになるかもしれません。

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***

その他

哲学者たちは「動物」をどのように理解してきたのか――動物たちの沈黙
2016-01-23 21:35:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12117375217.html

動物には心があるの? 人間と動物とはどうちがうの? フォントネ 2006
2016-01-17 21:26:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12115457910.html

江の島のネコたちが消えた・・・
2013-03-25 12:25:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11496426924.html

最近、人間と動物との違い、言い換えれば、私たちは「動物」をどうとらえているのかに、関心があります。これは言いかえれば「人間」をどうとらえ、どうありたいか、という問いでもあります。

***
当ブログの記事をお読みいただいているみなさま、いつもありがとうございます。とても励みになっています。これからも、静かに、しかししっかりと、考察を続けてまいる所存ですので、なにとぞ温かくお見守りくださればと存じます。


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コージーコーナーは、ただでさえ懐に優しいが、この日はまた、格別であった。



たまには、日常ネタ、お許しください。

本日、お昼ご飯の代わりに、銀座コージーコーナーにて、あれこれ買ったのだが、なんだか妙に得した気分であるので報告したい。

まず、1月31日は、なんたら感謝祭ということで、いつもより10パーセントオフだった。


イチゴのショート 379円
プリンフルーツケーキ 379円
スイートポテト 116円 × 2
贅沢エクレアビター 136円
エクレアいちご 136円

計6点で、1,242円。 これは元々、1,380円であったから、138円分、得したことになる。

小さな幸せ、である。

ということで話が終わるわけではない。

この「感謝祭」は、1,000円以上買った客、先着50名に、特製のハンドタオルを提供していた。


運よく、先着に入ったおかげで、このハンドタオルをいただいた。

ざっくりではあるが、このハンドタオル、買おうと思えば、400円くらいはするのではないだろうか。

1,380円に対して、先ほどの138円と合わせて、538円、得したといえるだろう。

つまり、1,380円出さなければならないところ、842円で済んだ、ともいえる。

いやいや、まだ終わりではない。

この日はたまたま、このお店だけではなく、界隈の店も含めて、モール全体で、500円で1回くじが引けたのである。

つまり、今回私は、2回くじを引いた。

はずれは、ポケットティッシュ、あたりは、そのモールのお買物券(200円)である。

前の人は2回福引を回して、白玉が2つ、つまり、ポケットティッシュを2つもらって去っていった。

さて、私の番だが、何も考えずにくるりと福引のハンドルを1回し、そしてもう1回し。

いずれも出てきたのは、緑色の玉。

すなわち、200円の商品券×2、計400円分が当たったのである。


すると、先ほどの計算の続きで言うと、

1,380円に対して、先ほどの538円と合わせて、938円、得したといえる。

つまり、1,380円出さなければならないところ、442円で済んだ、ともいえる。

というか、これでこのモールは売上がたつのであろうか。

ちょっと心配になった。


ごちそうさまでした。



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雨に煙る送電鉄塔。


読んだ本

大震災に学ぶ社会科学 第3巻 福島原発事故と複合リスク・ガバナンス
村松岐夫、恒川惠市監修
城山英明編
東洋経済新報社
2015.10

ひとこと感想
前半は原発(事故)におけるリスク・ガバナンス、後半はそこから波及した食品安全問題などを論じする。要は、原発事故前、当時、その後、この事態にさまざまな関係者(組織)がどういった対応をし、どこに問題点があったのかを総合的に明らかにしようとしている。

村松は、学術システム研究センター相談役、日本学士院会員、京都大学名誉教授。常川は、政策研究大学院大学特別教授、東京大学名誉教授。城山は、東京大学公共政策大学院院長。

***

1 はじめに:リスク・ガバナンスの課題
谷口武俊、城山英明

総合工学の代表格である原発技術の利用にあたっての社会的な安全確保活動を、リスク・ガバナンスという枠組みでとらえ、事故前。事故時、事故後の姿を事例分析などを通じて考察。

リスク・ガバナンス
「リスクに関する社会的判断という機能のための仕組みや具体的制度を設計し、様々な分野の専門家、様々なレベルの政府、様々な団体や市民といった多様なアクターが連携、分担、対立し、技術と社会の境界に存在する諸リスク問題に対処していくこと」(3ページ)

***

第1部 原子力発電技術におけるリスク・ガバナンス 

2 原子力発電技術の導入・普及 
加治木紳哉、谷口武俊

電気事業者の組織的能力を、技術キャッチアップとマネジメントシステムの点から検証する。

技術導入に関しては、経済性や安全性、技術的課題について十分な検討を行い、運用経験を学ぶという機会を逃したまま、原発の大量導入に至った。

マネジメントについては、外に開いたコミュニケーションという要素が欠けていた。

***

3 事故前の原子力安全規制
城山英明、平野琢、奥村裕一

規制機関の組織的能力について、シビアアクシデント対策を考察。原子力安全規制文化とその改革の試みについて、地震・津波の安全規制に関するプレアセスメント及びコミュニケーションの問題を検討。

国内のシビアアクシデントの規制の高度化は、思うように進まなかった。

特に1990年代以降は、安全に関する研究予算が減少し、人員も減らされて行った。

***

4 事故前の立地地域における関係構築とコミュニケーション
菅原慎悦、土屋智子

アクター・ネットワークについて、原子力安全協定の運用、コミュニケーション活動を事例として、立地自治体と電気事業者の関係性、地域住民と原子力業界の関係性について検討。

***

5 危機時のガバナンス
土屋智子、菅原慎悦、谷口武俊

事故時や事故後のリスク・コミュニケーションの状況と問題点を洗い出す。国が十分に避難指示や線量の情報提示を行えなかったこと、原子力安全委員会が機能しなかったこと、SPEEDIが活用されなかったこと、また、意思決定にSPEEDIに依存しすぎた体制を構築していたことなどを論ずる。

電気事業者の組織的能力について、事故対応の問題を検討。福島第二所長の対応をとりあげる。

***

6 事故後の原子力発電技術ガバナンス
城山英明、菅原慎悦、土屋智子、寿楽浩太

福島原発事故後の規制改革、原子力防災制度改革をとりあげる。また、事故後のリスクコミュニケーションについても受けての不安や情報ニーズに十分にこたえていないという指摘がある。ほか、電気事業者の組織的能力について、事故後のオンサイト管理の問題を検討。

***

7 原子力発電技術ガバナンスの課題
寿楽浩太、谷口武俊、土屋智子

リスク・ガバナンスが循環的なプロセスであることに伴う課題として、事故調査委と社会的学習について論じる。また社会的風土に関連して、技術リスク・ガバナンスに陰に陽に作用する一般市民及び専門家の科学技術に対する意識の変化について考察する。

また、これまでの個別の考察をふまえて、概括的な欠陥分析を行う。

原発事故は「偶然の自然災害に端を発する孤発的な事象と捉えるべきではないこと、「想定外」への対応における限界という言い方で実際に発生した様々な問題を度外視するべきではないこと」(191ページ)が指摘された。

事故調査委員会の検証は十分ではなく、原子力規制改革や事業者の安全向上対策に限定的な影響しかもたらさなかった。

政府事故調
原因究明を優先したが責任追及を目的としないことにより、秘密主義に陥った

国会事故調
公開主義を優先したが、限定的なものにとどまり、検証可能性が不十分となり、文化論に陥った

民間事故調
調査の独立性を強調したが、調査の制約も多かった

専門家や一般市民は事故後も
科学技術にたいして期待は持続しているものの、
その制御可能性や科学者への信頼に関する疑義が生じている。特に、一般市民においてそれは顕著である。

***

第2部 他分野におけるリスク・ガバナンスと分野間相互関係 

8 食品中の放射性物質をめぐる問題の経緯とそのガバナンス
松尾真紀子

原発事故が引き起こした食品安全問題について、放射線防護の分野が緊急時には柔軟な対応をするのと食い違いが見られ混乱を招いた。そもそも基準値がなく、もともと低線量被曝については確かなことが言えないため、分野や専門家によって判断の違いがみられ、それを受け取る一般市民は極端な安全重視にふれることとなった。

***

以下は、原発事故のみならず、震災全般にかかわる議論であり、ここでは省略する。

9 震災への医療の対応と中長期的課題
田城孝雄、畑中綾子

10 交通システムの復旧・復興
本田利器、加藤浩徳、村上裕一

11 金銭面での東日本大震災への対応
三國谷勝範

12おわりに:複合リスク・ガバナンスと危機管理・システム移行・官民関係
城山英明

***

非常に、客観性の高い内容であるが、同時に、用語も含めて非常に硬い内容でもあり、どこまで有用性があるのか判断しにくい。

そもそも本書は何を目的としているのかと言えば、主に、各界のリーダーや官僚が全体を見渡したうえで自分が言うべきこと、すべきこと、
の確認や、誰(何)にどのような指示を出すべきかなどの参考になるようなもの、である。

もちろん重要な研究であることは言うまでもないが、自分との距離もかなりあると感じさせられるものでもあった。

個人的には、福島第一と第二の事故対応の過程を比較することは、もっと行われてもいいと思っている。もちろん、決していずれかが正しいと言いたいのではなく、単一の事項を追いかけると、そのコンテクストに埋没するおそれがあるが、対比することによって、さまざまな可能性とさまざまな限界が的確につかめるようになると思うのである。


大震災に学ぶ社会科学 第3巻 福島原発事故と複合リスク・ガバナンス/東洋経済新報社
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