そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ

いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。(タイトルは、ジャック・デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』より。)

核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

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2005~2009年  2010~2011年02月    

2011年3月~7月  2011年8月~12月  2012年1月~2月

【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。
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テーマ:
読んだちらし
宇宙大戦争
池辺良、安斎郷子、
土屋嘉男、伊藤久哉、野村浩三、村上冬樹、高田稔、千田是也、他:出演
本多猪四郎:監督
円谷英二:

特撮監督
TOHO SCOPE、総天然色
東宝 製作・配給
1959年12月封切


1年ぶりの特撮シリーズは、前作「地球防衛軍」の方向性を引継いだもの。

こちらで、少し映像が見られます。

しかし前作はまだ、地球への侵略の大義名分が、自分の星が核兵器によって滅びたため、というものがあったが、本作ではまったく姿を消してしまっている。

本作で、原子力についてふれられるのは、わずか、月へのロケット「スピップ」機が原子力で動いているということになっているばかりである。

タイトルの「宇宙」とはかなり大袈裟で、要するに月面ということ。ただし、月の裏側であり、その頃には神秘性があったのである。


当時まだ人類は月着陸を果たしておらず、「原子力」によってようやく最初の偉業を達成する、という位置づけである(本作の舞台は、1965年、となっている)。

よって、以下は、まったく核言説の内面とは無関係であるが、重要なのは、「核の平和利用」の一形態として、月面着陸ロケットの動力に利用されているということである。

知ってのとおり、原子力を動力としたものは潜水艦や「むつ」などの船以外、実用化されていないが、気持ち的には、科学の進歩に対して、宇宙へ向かうロケットと、原子力とは、同じベクトルを向いていたということになる。

また、表象として言えば、本作でも、あくまでも「敵」は「宇宙人」(ナタール人)であり、日本を中心に各国の科学者が集まり英知を結集して地球を「防衛」することを目指している。



しかも、この宇宙人、まるで小熊ちゃん、という風体で、どうみてもかわいらしく、凶暴感がない。


当時、冷戦構造のなかで、「敵」を地球の外側に見立てることは、ある意味、空虚な「平和」願望ではあるが、あえて深読みするなら、米ソ対立といった愚かしいことをやめて、せめて、「地球は一つ」としてまとまってほしいという、カント的な世界平和の恒久化を理想として掲げる戦後の人々の意識を反映していると言えるかもしれない。

***


ちなみに本作には、「怪獣」系が登場しない。脚色に使われている小道具は、ロケット、円盤、宇宙服、といったところ。

「武器」としては、「冷却線」と「熱線砲」が主役である。

ナタール人は冷却線を使って、「物体を冷却して無重力にする」のだが、なぜ「冷却」して「無重力」になるのか、非常に興味がわくところである。

一方地球防衛軍側は、対抗手段として「熱線砲」を開発している。一体これも、どういった原理の武器であるのかは、まったく分からない。


もう一点、注目したいのは、ナタール人のもう一つの「武器」として、肉体に金属片を埋め込んで、電波指令で操る、というものがある。

これはかなり高度な技術である。

「金属片」としかちらしには書いていないが、要するにICチップとアンテナとベースバンドを組み合わせたもの、つまりWi-Fiのような通信機能をもつことであろうことは想像に難くない。

だが問題は、この通信機器が人間の意識までコントロールできるようにするには、単純に肉体に埋め込まれただけでは無理であり、大脳生理学や生化学、人間工学などの英知を結集して、辛うじて可能性はありそうだとしか言えないもので、半ば、架空のものにしても、度がすぎると私は思う。

そうであるならば、むしろ、催眠光線程度で良かったように思われる。妙に、ハイテクとローテクが混在化している。

あえてあともう一点だけ述べておけば、「宇宙」や「宇宙人」に対する「われわれ」すなわち「地球人」、地球は一つ、といったようなメッセージがこめられているとしても、その代表的な施設としての「宇宙科学センター」が東京にあること、このセンターによって生み出されたスピップ機の翼には「日の丸」らしき紋様と、「JSF]という文字が刻まれていること。


これほどに、本作は「日本映画」であるのだが、その後、米国などでも公開されたようであるが、どれだけ受け入れられたのかは不明である。




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昨年末に我が家にやってきたネコ、ゆいた。

おそらくそろそろ生まれてから半年くらいになろうとしている。

はじめは手のひらに乗ってしまうようなサイズだったのに、気づいてみればもう、3キロ台で、それなりの重さになってきた。

やんちゃ盛りで、馬のように室内を駆け回り、あちこちに身体をぶつけても臆することなく突進する。

そんな、ゆいた、であるが、このあいだふと、音がすると思ってふりかえると、ゆいた、が、私の歯ブラシをベッドのうえに「獲物」としてもってきていたのだった。


そのまま取り戻して、元の場所に持って行こうかと思ったのだが、ちょっと手が離せなくてそのままにしていた。


すると、どうも、歯ブラシのブラシの部分に興味を示し、かじりはじめ、いわば、ブラッシングをするような形になったのだった。



人間がやるようにはきれいに磨けてはいないが、それでも、少しは綺麗になったかもしれない。


人間の歯ブラシや歯磨き粉がネコに良いとは思えないので、別のものの方がよいのかもしれないが、ともあれ、、ゆいたは、歯ブラシや歯磨き粉に拒絶反応はない、ということが判明した。

昨年まで我が家にいた虎之助は、若くして口内炎がひどく、歯槽膿漏にもなっていた。

そのため、妻が、若いうちから歯のケアができた方がよいのではないか、と、いたく、ゆいたのことを心配していた。

だが、その日、自主的に、ゆいたは、歯のケアができたのだ。

(シャカシャカ)

そして、ひとしきりブラッシングすると、満足したのか、あとはリラックスムードで爆睡に入った、ゆいたであった。


(カメラを向けると、起きてしまった・・・)


▼これまでの「ゆいた」記事

仔猫が我が家にやってきて、もうすぐ50日(ゆいた のこと)
http://ameblo.jp/ohjing/theme-10011708170.html

仔猫から、食べ物をもらう――ゆいた(生後約4カ月)の生態記録
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11982413263.html

本棚から落ちるネコ
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11975474068.html

はっぴい、ニャー、いニャー
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11971959979.html

病院へ、はじめて行く、ゆいた(ネコ、生後約3ヶ月)
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11969813713.html

ネコに名をつけるということ~ゆいた~
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11968057775.html

我が家にやってきた、ニューフェイス猫
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11967325327.html



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読んだ漫画
第17話 二つの顔を持つ男
いちえふ 福島第一原子力発電所労働記
週刊モーニング No.17 2015年4月9日号
講談社
2015年3月26日発売

ひとこと感想
なんと今回は20ページ。描かれているのが作業現場での模様ではないにもかかわらず、現場の大変さが伝わってきた。いつ自分が現場に戻れるかわからず、呼び出された場合は明日来い、という理不尽さ。「仕事」として原発下請け作業員を選ぶことの困難さは、被曝以前に、こうした不安定さ、なのかもしれない。

***

前回に引き続き、「1Fを離れ、竜田一人しばしの東京漫画生活。今回は後編。」(82ページ)という位置づけである。

現場のことを読みたい、と思った人は、肩すかしであるが、やむを得ない、という事情がよく分かるのが、今回の内容となっている。

考えてみれば、この作品は、現在進行形であるだけでなく、いくつもの課題をクリアしなければ、長期にわたって「連載」とはならない、ということを、ついつい失念してしまう。

第一に、実際に現場で働くことができる、ということ。

第二に、現場の人がこういう漫画を描いていることに難色を示す人が増えない、ということ、

第三に、一度ならず、継続して仕事ができるように、現場にしっかりとなじんでいること。

第四に、規定被曝線量を越えた後、再び現場に戻ることが可能であるように、諸条件を維持しておくこと。

第五に、掲載する媒体が、イレギュラーで連載ができなくなることがあっても末永くかかわろうとすること。

第六に、描いている本人が、こうしたやり方、生き方を嫌にならずに続けられること。

ふと思いつくことだけを数え上げてもこれくらいになる。

現場に入りながらその内部の様子を描き続けることが、これほどまでに困難なことであることは、読み手にはなかなか伝わらない。

これまでの原発潜入ルポとの決定的な違いは、彼がもはや、漫画家というスタンスではなく、原発作業員として生きることに比重を置いているから実現しているのである。

いろいろと言いたいことをこれまで書いてきたが、こうしたことが維持されたうえで、本作を読めることには、素直に作者やモーニング編集部、講談社に感謝したい。

そのうえで、苦言を呈したいときには、そうするということにしたい。

***

さて、本題(本編の内容)である。

再び、取材の模様である。

最初は、講談社から出ている写真週刊誌。

その編集者は、モーニングの担当編集者と同期ということだそうである(ここまでネタバレさせなくても良いと思うが・・・正直すぎる)。

そして、竜田は、名刺をつくっていない。

顔を公開するのは、今後働くことを考えるとやめておくべきだということで、竜田は、表題にあるように「二つの顔を持つ男」のことを思いだす。

ミルマスカラスの弟、ドスカラス、である。

ウノ、ドス、トレス、クワトロ、・・・、ミル、と言えば、そう、ルチャりブレ。

覆面を用意したのだ。

ウルティモ・ドラゴン =竜 =竜田、も候補に入っていたが、ウルティモ = 究極、というのは「畏れ多い」(83ページ)と、リスペクトが感じられる。

さらには、(スーパー)ストロングマシーンのマスクも。

これは、「数多くの作業員の一員って事で・・・あーでも最初期のデザインがないな・・・}と、妙なこだわりがあるようだ。

これは、どうやら「ユーモア」のようだ。

当初から、うまく私がなじめずにいたのは、こうした「ユーモア感覚」だったのではないか。

いたく真面目に書いている、とばかり思っているので、今回のようになじみあるプロレスの話題であると、どこに目を付けているのかわかったが、ギターをもった渡り鳥とか、そういうのが、どういう理由でどのような気持ちで描いているのか、なかなかつかめないでいたのである。

作業員と漫画家という「二つの顔」、そこで、ドス・カラスなのだ。

ただ、編集者が「一気にアホな絵になりますねー」(86ページ)と言っているように、「いちえふ」のインタビューで写真週刊誌に、ドスカラスは、やはり、ないであろう。

案の定、誌面には「首から下だけ」となったようである。

だが、これが竜田の「ルチャ・リブレ」(自由なる闘い)だそうである(そう、ユーモアなのだ)。

時系列がこんがらがるが、連載開始までに一度働いたあと、線量の影響で、一度職場から離れている。

予定ではもう少し早くに戻れそうだったのが、タイミング悪く、一度、竜田の方から「断り」を入れたため、なかなか次のオーダーが入らず、焦る。

「第1作の掲載以来東京電力や関連企業に正体がバレていないか内心ビクビクものだった」(87ページ)

確かに、これがもし、トヨタの乗車組み立て工場で働いている日常を漫画にする、という場合、正社員であれば、やらないし、やれないであろう。

当然、この漫画が、現職の東電社員によって描かれていた、となると、社内では問題になるであろう。

下請け作業員として職場への仁義を踏み越えて内部事情を描いているという自責の念は常に心の中にあった」(90ページ)

逆に言えば、いくつもの下請け会社を経て現場に入っているということ自体が、こうした作品を生みだすためには好都合、という言い方もできる。

ただ、編集部には匿名での警告電話が入ったようである(内容は作品をご覧ください)。

そうなると、確かに連載というのは、書き手にとっても、編集・出版サイドにとっても、非常にリスクの高い仕事だと言える。

このあたり、竜田も編集者も、非常に飄然としているので(表向きかもしれないが)、私たちには分かりにくいが、大変な試みをしている、ということは、今回の作品でよく理解できた。

最初に伝えておいてもよかったのではないか、と思うのは、次のセリフである。

「取材というより、単純にあの場所でまた働きたいという気持ちですね――自分ではもう漫画家というより作業員という意識の方が強いので」(91ページ)

これだけ強い「思い」を抱いていても、現場からの連絡は、非常に不安定だ。

いつ正式に入れるか分からない職場。それが、いちえふ、であるということを、ひしひしと感じる。

こういった仕事の仕方は、家族や生活のことを考えれば、かなり大変なことであろう。

それがもっとも、原発作業員として働くことの困難さではないだろうか。







週刊モーニング 2015年 4/9 号 [雑誌]/講談社
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読んだ本
世界史の中のフクシマ ナガサキから世界へ
陣野俊一
河出ブックス
2011年12月

ひとこと感想
はじめて読む著者だが、おもしろかった。第1章は、ナガサキにまつわる永井隆と山田かんとの「言説分析」が行いつつ「祈り」と「怒り」という二分法に還元してはならないとする点に共鳴した。しかも永井と山下俊一とを重ね合わせるという試みは、何か腑に落ちる点があった。ただ欲を言えば、「底辺」や「抑圧」にばかり拘るのは、言説分析としては、もう一歩足りないのではないか。

陣野俊一(JINNO Shunichi, 1961-  )は、長崎生まれの文芸・音楽批評家。

***

「はじめに」において陣野は、「しばらくはアナロジー(類推)の質に注意する必要がある」(5ページ)と書いている。

「今の状況を説明できる参照枠が欲しくなった、人は必ず過去をふりかえる」からである。

「大地震」については、かつて、敗戦後の焼け野原で堀田善衛が鴨長明を参照枠にし「方丈記私記」を書いた。

これが再び脚光を浴びたり、寺田寅彦や吉村昭の「三陸海岸大津波」が読まれたりした。

しかし、原発事故にはどのような参照枠があるのか。

数値をもって語る以外に、何ができるのか。陣野は自問する。

そこで見出したのが、次のような参照枠であった。

ナガサキに原爆が投下されたあとの言説空間を、福島との比較の参照枠として用いるころはできないか」(6ページ)

大事なのは、ここではまだ「フクシマ」ではなく「福島」であることだ。

もちろん、厳密に言えば「フクシマ」は決して「福島」ではないのだが、陣野が言いたいのは、そういうことではないので、ここでは保留しておく。

陣野によれば、ナガサキを代表する、永井隆と山田かんという二人の言説の対立軸は「じつは現在のフクシマにまで伸びている線とも交錯する」(7ページ)と考えられている。これが第1章「ナガサキから」。

また、原発をめぐる小説についても「原発の文学史」として形成すべきであり、これまでの「核をめぐる小説」(7ページ)の分析を本書で行うと同時に、この系譜に福島県出身の作家、古川日出男の「聖家族」「馬たちよ、それでも光は無垢で」を位置づけようとしている。これが第2章「フクシマへ」。

さらに第3章は「言葉なき人の声を代弁する」は、ヒップホップのリリックに着目し、福島出身のラッパー、狐火とのインタビュー。

そして第4章「尊厳を傷つけられた人々」は、「2011年の春、中東から起こった一連の出来事の中に、フクシマを位置づけてみる」(10ページ)試みである。

***

陣野の永井隆の「言説」理解は、こうである。

「これは「原子爆弾の結果についての医学面からの記録」なのだろうか、という疑念だ。医学書として記録を残しておきたいという欲求と、作家のごとき物語への傾斜を両面含んでいる文章にしか思えない。」(18ページ)

そう言えば、今から20年ほど前、とある医者が私にたいして、こう言ったことを思いだす。

「哲学とか社会学というのは、要するに、文学ということだよね」

すなわち、医学の言説とは明らかに異なっているということを強調していた。

そんな彼の書いた文章がはたして「文学」の要素が含まれていなかったのかどうか、そういった感性と、おそらくここで陣野が問題にしていることは関連しているであろう。

永井の「長崎の鐘」には「原子病」や「原子病療法」の章においては、「医学サイドからの冷静な分析的書法が見えるものの、他の箇所のベースになっているのは、基本的に永井本人の経験である。」(18ページ)

これまでも「原爆文学」という「カテゴリー」のなかで、永井隆はさまざまな評価を受けてきたが、それは、「文学か否か」という線引きのための議論であったとも言える。

それに対して陣野がここで問いかけているのは、どういった評価がなされてきたのか、である。

たとえば、1965年刊行の「昭和戦争文学全集」第13巻に「長崎の鐘」が収められているが、これは「文学」として認めている、ということになるし、2011年刊行の「戦争×文学 ヒロシマ・ナガサキ」には収録されていないのは、記録またはえっせいととらえている、ということになる。

また、永井の作品の「魔力」もしくは「呪文」について、陣野は次のように、とらえる。

「いささか無防備に科学への憧憬と宗教的情熱を統合した書物である。」(25ページ)

この「魔力」は多くの人を惹きつけ、たとえば、「放射能」と「信仰」との一致を言いだす人(徳川夢声)などもいた。

しかし、それだけではない。例の、原爆を神の試練ととらえ、むしろ「感謝」すべきだという「浦上燔祭説」である。

ここで陣野は本島等による永井擁護の文章をひき、次のように考える。

「永井隆の「原爆は神のみ摂理、神の恵み、神に感謝」という言葉は、もともと浦上のカトリック信徒へ向けて発せられた言葉だった。いわばそれは内部の言葉である。だが、やや無防備なその言葉たちは、外部へと拡散した。」(34ページ)

続けて陣野は、対比的に、山田かんを持ち出す。

しかも、彼の詩作ではなく、評論に着目する。

「原爆直後の永井隆を中心とした言説の編成に対して、強い批判を加えている」(36-37ページ)のが、「長崎・詩と詩人たち 反原爆表現の系譜」である。

「永井隆」的言説編成、つまり、永井個人よりもそのまわり、「「永井隆」という名前の周辺で生起していた、編成された言説」(41ページ)は、「宗教的美意識」に支えられているため、山田は、それとは無関係のものを探し、たとえば、八木重吉の作品を挙げる。

山田の視点が明確さは、次の文章にも現れている。

「被爆を民衆への挑戦として、詩表現のなかに取り込みはじめたのは、この街のエセ文化人ではなく、労働する階級からであり、貧困と痛苦にさいなまれる下層の階級にとってこそ、その告発が可能であった。」(45ページ)(井上光晴編集の雑誌「辺境」のヒロシマ・ナガサキ原爆詩集の解説より)

それが「似非」かどうかの判断は、実は本当に難しく、さらにそこに「階級」の問題、もしくは「文化資本」の問題が関係してくると、端的に、「立場」や「視点」(パースペクティブ)の違いとも言いたくなってしまうが、
「似非」にまみれて「本物」がないがしろにされるのは嫌だ、という言いたいことは分からないではない。

よって、しばしば、永井を「祈り」のシンボルとし、さらには、山田を「怒り」のシンボル、否、偶像に仕立て上げてきたことにたいして、陣野は疑問視する。

「そもそも「祈り」と「怒り」はどうしてきれいに二分することができるだろうか。二分されなければならないのか。」(47ページ)

これは、分かるのだが、同時に陣野は、次のようにも述べている。

支配的な言説に対して、それが抑圧する声の存在を粘り強く指摘し続けることが重要である。」(48ページ)

上記の二分法への疑念の説明と、こうした「支配-被支配」の構図の正当化とは、陣野のなかではごく自然に同じ水準で語られているが、私からみると、まったく別のことを語っている。

私は前者には与するが、後者には同意しない。

後者は、部分的には正しいが、総体的には、結局は、二項対立を生みだしてしまうものであり、さらに言えば、そうした対立構図の再生産を手助けすることになってしまっている。

もっと言ってしまえば、私たちは、支配的な言説のみならず、被支配的な言説に対しても、常に、違和感を抱きながら、同時に、それらが問題としている共通の基盤を探り当ててゆかねばならないのである。

すなわち、今までも述べてきたように、スイシンであれハンタイであれ、いずれかが支配的な言説になっていようと、事態は変わらない。

スイシンとハンタイがともにつくりあげてきた、この、70年にわたる「原爆=原発」言説の構図総体と、私たちは、向き合わねばならないのだ。

陣野は、「社会の底辺」への拘りがある。

「「切羽詰まった思いを共有できる言葉」を吐き続けている詩人を探しに出かけることにしよう。」(52ページ)

また、確かに興味深いのは、山下俊一が、長崎大学医学部におり、被爆2世でクリスチャンであり、そこに、永井隆の「反復」をみていることである。

そのことは、心情としては、分かる。

だが「言説」とは、「底辺」からのみ、とらえられるものではないのではないか。

強いて言えば、底辺のみならず、さまざまな内部、さまざまな斜線、破線、断片をとらえ、かつ、ときには境界線や外部にさえも立つ必要があるのではないだろうか。

(ここまでが、第1章の内容である。第2章は、またあらためてとりあげたい。)


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読んだ論考
マーシャル諸島ヒバクシャから観た世界――アイルック環礁の調査から
竹峰誠一郎

所収

社会科学を再構築する 地域平和と内発的発展
西川潤他編
明石書店
2007年1月

ひとこと感想
現場の声をひろうというのは、とても大切なことだが、放射線障害については、まず数値として提示できなければ、因果関係や症状などを問えない。本論考を読んで痛切に感じるのはこのことである。

***

竹峰誠一郎(TAKEMINE Seiichiro, 1977-  )は、当時、早稲田大学大学院博士課程在籍、現在、明星大学准教授。

本論考が収録されている書籍の中表紙には、「西川潤+早稲田大学・大学院 西川ゼミ記念論文集」と記されている。

タイトルの「社会科学を再構築する」というのは、西川潤が36年間、早稲田で教えてきた全体を表わすための言葉として使用されている。

そしてサブタイトルの「地域平和と内発的発展」とはその「再構築」のためのキーワードということになる。

本論考はその意味では、マーシャル諸島のアイルック環礁における「平和」をテーマにしている、という言い方もできるだろう。

それまで日本統治にあったこの地が、戦後「平和」をとり戻したかと思いきや、米軍の核実験によってその生活の根底を揺さぶられ続けてきたなかで、彼らが「平和」であるということはどういうことなのか、をこの論者は問うべくフィールドワークを続けているのではないか、と勝手ながら想像する。

そして、その際に、「外因」的な形ではなく、自発的、自立的に自分たちの日々の暮らしを形成するためには「ヒバクシャ」であることと向き合い、この課題を内発的に克服するほかない、ということが、「内発的発展」という言葉とつながっているのであろう。

社会科学は、近年ではかなり様変わりをしているが、20世紀後半における社会科学とは、第一に、マルクスの影響を抜きには語れない。

もちろん西川もその影響のなかにいるが、それまでの型通りの、経済的、物質的基盤の変化によって政治的、社会的現実も変わってゆくとした、下部構造主義、経済優先主義の呪縛から逃れようというのが、「再構築」を目指す前提にあったのである。


(赤字部分、追記しました)

***

1954年3月1日
朝6時45分に米国がマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験(ブラボー)を開始した。

本論考はビキニの爆心地から東南525キロ離れたところにある、アイルック(Ailuk)
環礁が調査地となっている。

アイルックには、当時、401人が暮らしていた。

米政府は、1986年になってから、マーシャル諸島共和国に対して、かつて、核被災が発生したことを認めている。

だが、認定地は、ビキニ、エニウェトク、ロンゲラップ、ウトリック、4地域のみである。

それゆえ、これまでの調査も、これらの地域に限られている。

だが、竹峰は、アイルック環礁もまた「被災地」であるととらえている。

彼らを「ヒバクシャ」とみなし、「彼らの目に核実験はどのように映ってきたのか、その変遷を含めてみていく」(138ページ)のが本論考である。

竹峰が現地を訪れたのは、2001年であり、48人から証言を得ている。

ただ、よく分からないのは、米政府が認めていないのに、なぜ竹峰は彼らを「ヒバクシャ」と呼ぶのか、である。

もちろんこの調査自体は「被曝者」調査ではなく、当時の水爆実験の体験、その後の認識の変遷をまとめたものであるから問題はないが、「ヒバクシャ」というラベリングについては、疑問が残る。

確かにいくつかの文献から「何らかの影響ある放射性降下物を浴びた」(141ページ)ことが事実であるとしても、それをもって「ヒバクシャ」という言葉を使ってよいものだろうか。

「白い粉」が舞ったという人もいれば、何もみなかったという人もいる。

「白い粉は草の上にあった」
「粉は見たわよ。地面の産後の欠片の間に。黄色ともオレンジ色にも見えた」
「白い粉、そんなの見なかった」
「粉の色はカラフルだったねえ」 (141ページ)

つまり、遠くで何が起こったのかについては、
「正体不明の爆音や閃光」(140ページ)という言葉に尽き、身近なところでの変化は、「白い粉」が第一の手掛かりである。

***

それから5日後、米軍がやってきて、島民と会話を交わす。

米国側は「アイリックは汚染されている」「避難させるためにこの島に来た」と言ったという島民側の証言がある(142ページ)が、これは、信憑性が薄い。

なぜなら、米側が放射線被害の影響をそのように、明確に(うかつに)語ることはまずないと思われるからである。

しかも島民側は、何も問題がない、大丈夫だ、と答える。

実際、当時においては、島民に。急性障害の症状は現れなかったようである。

ところが、そのあと、さまざまな変化があり、島民は「島が破壊された」「爆弾の影響があった」と自覚するに至る。

まず、タロイモ(モクモク)が激減、変異形のココヤシや家畜の出現。

続いて、流産、死産、変異形の子どもの増加。

住民は「あの爆弾の前にはそんな子どもは生まれなかった」(146ページ)と述べている。

さらに、島民のあいだでは健康不良が現れる。

甲状腺異常、ほかが現れる。

それだけではない。直接被曝をしていない世代にも、甲状腺異常が見られ、さらに癌死が増える。

「周囲の人がガンで亡くなるのを目にする中で、あの爆弾による影響を感じるようになった」(147ページ)

こうして、島民の体調の様子は分かるが、彼らの証言があるからといって、それがすべて、水爆実験による放射線障害の影響だとみなしてよいのだろうか。

本論考を読んでいると、もっとも気に病む。

目に見えない放射線。島民はこれを「ポイズン」と呼ぶ。

当時彼らは、対外的には、自分たちの「被害」を訴えることはなかった。

それが1990年代半ば以降。マーシャル諸島内で、アイルックの状況が話題になりはじめる。

そして、2000年になって、島民からもこの問題について米政府に補償を求めるなどの動きがではじめる。

***

しかし、こうした記述から、次のような断定が可能だろうか。

「彼らはまったく無自覚のうちに、米政府当局が避難を検討するほどの放射線によってヒバクをさせられたのである。」(151ページ)

これは実際のところ、どれくらいの線量だったのか、知ることが、もっとも大事だ。

残念ながら、それが分からなくては、はっきりとしたことは、言えない。

***

ロンゲラップにおける調査は、たとえば、次の著者のものがある。

 世界の放射線被爆地調査、を読む その2
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11144521599.html

 また、むしろ映画作品(特に「モスラ」のなかの「ファンタジー」として、マーシャル諸島における被曝の「記憶」は私たちに刻まれていると言える。

モスラと第五福竜丸事故
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11457763944.html





社会科学を再構築する/明石書店
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読んだ本
誰も書かなかった福島原発の真実
澤田哲生
WAC
2012年4月

ひとこと感想
別の本はひどかったが、本書は、原子力関係の専門家として、とてもクリアな説明をしており、よく理解できた。だが、放射線障害はどうだろうか。

***

目次構成

第1章 福島第一原発事故の366日
 特別解説 再臨界と再溶融を正しく理解する
第2章 事故調査・検証委員会
 特別解説 ベントの盲点
第3章 放射能・内部被曝のウソとデタラメ
第4章 報じられない被災者と原発立地住民の本音
 大座談会 本音で語る「原発と放射能」
 緊急追加対談 被災者が語る福島の「今」
第5章 原発復活への4つのカギ
終章 御用学者と呼ばれて~あとがきにかえて

「特別」「緊急追加」「大」は不要。

「座談会」「対談」を文章に混ぜるのは、何故なのだろう。どこかに掲載されたのかどうかも不明。クレジットはない。

***

前回、澤田のつまらない本を読んでしまい、呆気にとられたのだが、もう少しまともな本もあるのではないか、と「真実」を標榜する本を読んでみることにした。

原発とどう向き合うか(澤田哲生 編)、という本と、私たちは一体どう向き合えばよいのか
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11996384324.html

先に結論を書いておくが、はっきり言ってこちらの本は、100倍以上まともである。

***

澤田の基本的姿勢は、「原発は必要」である。

「必要」とはすなわち、工学的発想であり、社会にとって、公益的観点から原発を今後も利用すべきだ、と主張していることになる。

だが、本書のタイトルは「真実」である。

「真実」とはすなわち、この場合、科学的発想であり、事故の原因を究明した結果、明らかになることである。

もしここで言う「真実」がそうした意味での「真実」でなければ、それは、「都合」もしくは「事情」ということになるのではないか。

本書を読んでいてよく分からなくなるのは、このあたりのズレである。

冒頭、「レベル7の衝撃が二つある」(16ページ)とはじめている。

私たちにとって東京電力福島第一原発の事故自体が「衝撃」であるが、澤田はそうではなく、「レベル7」と言われたことに対する「周囲」的出来事」に「衝撃」を受けているのである。

1)政府がこのことを認めるのに事故から1カ月もかかった
2)同じ日に政府が計画的避難区域指定方針を発表した

つまり、いずれも「政府」の対応について、澤田は「衝撃」を受けている。

「レベル7」の「衝撃」は、あくまでも「レベル7」に対しての「衝撃」、すなわち、過酷な事故が起こったことへの衝撃であると思うのだが、澤田はそうではなく、「レベル7」を受けての政府の対応への衝撃を語っているのである。

こういった「ズレ」には、いくつかの可能性がある。

1)無意図的 
 単に文章を書くのが上手くない,、言葉遣いに無頓着
2)意図的
 読者をひきこみながら自分の主張へと誘導

「今回の事件で明らかになったのは、ひとつに原子力行政、なかでも原子力安全行政の無力さ、無責任さである。」(22ページ)

ここでも「行政」が問題になっており、東電や原発、原子力技術が主題ではない。

そのあとには、「複合的無責任体制」(23ページ)として、政府、保安院、原子力安全委員会、東電、が挙げられている。

安全委員会を批判するようなことを書いているが、であるならば専門家として斑目の言動に対する批判をすべきなのではないのかと思うが、それもしない。

また、そのあとに、東電の勝俣会見に対して、妙な気遣いをしている。

「言葉を選びつつも慎重かつ、その重責を体現したものだった」
「経営者としての俯瞰的展望と決意があった」 (23ページ)

無責任体制にある東電もしくは勝俣になぜ「重責」やら「決意」といった肯定的な言葉が選ばれているのだろう。

東電には責任はあるが、勝俣には責任はないということなのか・

このあたり、文章からはまったく読みとれず、困惑する。

さらに少しあとには、次のように述べている。

「東京電力やそれを監督する官庁に問題があるのは明らかだが、それだけの問題なのかということが、問い直されるべきである。」(45ページ)

「それだけ」ではないとしたら? 何が問題なのであろうか。

「過酷事故のマネジメントに問題があったとも言われるが、それだけを個別に追及していても、現在そして今後向き合うべき問題の解決にはならない。ここは事態を冷静に捉えて、全電力業界が総力をあげることはもちろんのこととして、国民一人ひとりが問題の本質を理解・把握していくことが非常に重要である。」(48-49ページ)

まったくそのとおりである。

が、このあとは少しわかりにくい。

まず、「未曾有の原発事故に対する危機管理対策本部の形はできたものの、全くの機能不全状態にあることが分かった」(51ページ)としている。

ふつうに読めば、問題の本質は「危機管理対策」がなっていない、ということだろうか。

事故後の警察庁、自衛隊、東京消防庁による放水活動にふれて、次のように述べる。

各省庁が危機に対して面子や省壁を越えてどのように連携し、知恵と情報を共有し、有効なツールをかき集めて即応的に実践配備していくか、そのシミュレーションと訓練がこれまでまったくなされていなかった」(52-53ページ)

やはりここでも「官庁」を問題として指摘している。

ただ、そのあとは、「国民」に目が向けられる。

福島と新潟からの原発の電力は、関東圏(1都8県)の消費電力の3割にのぼっていたが、「これら原発の恩恵を受けてきた首都圏の住民の今は、どうか」(54ページ)と訴えている。

「多くの国民はこれまで原子力の電気に支えられて来た都市生活というよりは消費生活の基本構造にあまりにも疎いのではないか。」(55ページ)

政治家や官僚だけでなく「大都市消費者」の「意識の低さ、無責任さ」(56ページ)こそが、「この日本を弱くしている」とする。

この点についても、まったく同意する。

だが、ここからが、よく分からない、というよりも、「自明性」を欠いている。

澤田は、現在の日本の産業構造を維持してゆくことを前提とする。

これは、きわめて現実的なモノの見方であるし、この見方を否定するつもりはない。

だが、こうした「現状維持」をするために「原発が必要」というためには、やはり、こうした事故に対する反省や検証が不十分であるように、とらえられても仕方がないのではないだろうか。

個人的には、家庭でのエネルギー利用(電気、ガス)を震災前と比べて、50パーセント近く落とした。

私は自動車もバイクも持っていないが、電動自転車をやめてふつうの自転車に代えた。

生ゴミを回収車にもっていってもらうのではなく、土にかえすことにした。

あの日以来、原子力や核関連の言説を追い続けてきた。

まだまだやれることは無数にあるかもしれないが、少なくともそうした努力はし続けてきたつもりだ。

「基幹電源となりうるのは、やはり火力と原子力だと思われる。基幹電源を火力と原子力で補完し合いながら、二割程度をなんとか自然エネルギーで賄えればよいと考えるのが現実的ではないだろうか。その認識に立てば、今後も日本の産業構造の維持継続には、火力や原子力の発電に頼らざるを得ない。しかも、この地震津波多発国土のうえでだ。」(58ページ)

私にはなぜ、澤田のような人間(原子核工学者)が、「日本」や「製造業」のことを心配しているのか、正直言うと、よく分からない。

彼の政治的主張は、よく、分かった。それは、それとして理解し、私も反論を加えたいと思う。

そしてまた、彼がどういったスタンスで事故をとらえているのか、それはきわめて真摯なものであったことも、前著を読んで誤解していたことを、お詫び申し上げたいと思う。

「一千年に一度という今回の大災害で得るべき歴史的教訓は、この国のよって立つ現状を再度認識することとともに、この国のシステムの大きな不具合を正す機会を得たことである。いまなすべきことは、日本の成り立ち一千年、二千年のスケールで俯瞰し、覚悟を決めて、この国の基本構造を支えるシステムを再構築することである。」(58ページ)

さて、ここで大事なのは、「この国の基本構造を支えるシステム」というのが、一対何を意味しているか、である。

澤田に言いたいのは、ここで一足とびに「原発は必要」と言わないで、また、いきなり一千年、二千年と言わないで、まずは1945年8月の出来事をふりかえり、その後この国にもたらしてきた社会的、文化的、心理的影響と向き合ってもらえないものか、ということである。

***

上記のような、政治的な発言をとりのぞいて、もう少し「真実」めいたことを述べているところを探してみよう。

たとえば、インターネット上にはびこる、
「MOX燃料は40万倍も放射能が強い」(27ページ)といったような誤った都市伝説的な言説に対して、澤田は、「真実」を述べる、として、「再臨界」について説明している。

今でも再臨界が起こった可能性を排除しきれないと考えられるが、再臨界はそうそう容易に起こることではない。」(28ページ)

「万一、福島で再臨界が起こっていたとしても、それはその再臨界によって圧力容器が壊れなかった証しとなる。」(30ページ)

こうした言説は、「科学的」もしくは「工学的」言説と言え、納得できる。

澤田が言おうとしているのは、「再臨界」が起こったかどうかと、圧力容器の破壊とは、別問題だ、ということである。

また、「プルサーマルはいったん事故になって、再臨界にでもなれば30万倍ものエネルギーが出る」(27ページ)というのが、都市伝説で、実際、「炉心内で核分裂を起こして燃焼している際の発熱量は約500キロワット/体であり、ほとんど【プルトニウムとウランでは】差がない」(27ページ)と述べるのも、「真実」なのであろう。

さらにもう1点、「メルトダウン」という言葉についても、注釈をつけているが、これも上記と同様、工学的な説明を行っている。

澤田本人が専門家として、「真実」述べるとすると、こうした説明を行い続けることにあるだろう。

だが、ここに政治的発言が加わるとどうなるのか。

彼の言う「真実」は、もう「真実」ではなくなり、「政治的発言」のレトリックとなってしまい、本人の望まない方向にねじれてゆく。

つまり、彼が「真実」よりも「都市伝説」がはびこると投げている現状を引き起こしているのは、澤田自身であるように思われる。

***

原発事故対応への行程表は、当時、きわめて分かりにくいものだった。

そのなかで、野田首相は「冷温停止状態」を達成し、かつ、「事故の収束」を語ったことは、より一層混乱させられた。

行程表のステップ2の大事なポイントは2つあり、一つは
「冷温停止状態」であり、もう一つは放射性物質の抑え込みであるので、当時の原発の状態は、ある程度「安定」が見込める状態になって現在に至っているという意味で「収束」をしたと述べたと思われるが、「事故」は決して「収束」しているわけではない。

この件についての澤田の説明は今一つ何が言いたいのかよく分からない。

***

電源喪失についての説明においては、「問題は電源だけにあるのだろうか」(41ページ)と問題提起し、「いくら電源があっても、それによって駆動されるべき機器が破損していれば、機能は果たせない」(41ページ)というのも納得できる。

さらにまた、女川の津波対策などにふれて、次のように述べる。

「原発の防御システム自体では、短所よりも、あの過酷な状況のなかでよく機能した部分が目立つ。また、そこでシステムの操作に携わった現場の作業者の人々の果たした役割は、"賞賛に値する"などという言葉では言い尽くせないほど重要で見事であった」(43-44ページ)

こう言いたい気持ちはよく分かるし、私も、そのとおりだと思う。

だがここに、「放射線障害による死亡者数ゼロ」ということを持ち出せば、それは、「身内」による弁解めいた言説となることは、不可避ではないか。

「放射線障害による死亡者数ゼロ」は、「真実」であったとしても、このことを語ることによって、原発事故が起こり、今後も収束のために手を尽くさなければならない、といいう「真実」の重みが、あたかも消されていくかのようになるのである。

***

本を読む、ということは、自分の思考と異なるものにふれ、自分の思考を一度壊す体験である。しかし、原爆や原発事故などの本は、書き手も読み手も、こうした体験をするのが困難になっている。本書もまたその一冊であったが、なるべく努力して彼の思考を理解しようと努めた。

ただ、あとがきの末尾、にこうある。

「最後に福島第一原発の事故後、土日もない日が続き、寂しい思いをさせている息子の凱亜と娘の麗亜に本書を捧げたい。」)(270ページ)

ガイア、と、レイア、それが彼の子どもの名前であるようだ。


誰も書かなかった福島原発の真実/ワック
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読んだ本
幻影からの脱出 原発機器と東大話法を越えて
安冨歩
明石書店
2012年7月

ひとこと感想
非常におもしろい切り口であり、小気味のよさと潜在的可能性を大いに感じる人なのだが、本を読んでいると、だんだんとつまらなくなってくるのは、なぜだろうか。特に対象の核心にあるべき原発(事故)や放射線被害の実像が、本書からはあまり浮かび上がってこないのが、残念でならない。

***

私は、なぜ、東京電力福島第一原子力発電所で、過酷な事故が起こったのか、その理由を知りたい。

それは二つの意味をもっている。

一つは、自然科学的なアプローチから得られる「理由」であるが、正確な数値や実態が当面つかめない以上、これは今、早急に議論できるものではない。

もう一つは、人文社会科学的なアプローチから得られる「理由」であり、これは、正確さや実態よりも、気持ちのうえでの納得が大事になってくる。

こちらは、むしろ、文章のうまさやごまかしのない論理、限られた情報から推察する能力、そしてときには大胆な仮説などで評価されることになる。

ただし後者は、決して「真実」が言明されるものではないことを、忘れてはならない。

厳しく言えば、精神的な不安から逃避するため、もしくは、そうした状態を解消するため、目の前に、自分が納得できる「理由」の「言説」があれば、それでよいのである。

まさしく本書の前身である前著は、そういう本だった。

 原発危機と「東大話法」(安冨歩)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11945429545.html

原発危機を招いたのは、「東大話法」のせいだった、というのは、本当に、うまい「アイデア」であった。

だが、本書はそれを「越えて」と副題にあるが、一体何を提起するのか、と期待したのだが、残念ながら本書は「姉妹編」であり、言ってみれば「越えて」いるのではないのである。

しかも「はじめに」の「追記」には、次のように書かれている。

「本書と前著の『原発危機と「東大話法」』は、ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』の影響を受けて書かれました。校正中にツイッターで彼の『ゼイリブ』という映画を知って遅ればせながら見ましたが、これがあるならこの二冊は書かなくても良かったかな、と思うほどの作品でした。拙著を気に入られた方は、この二冊の映画をぜひご覧ください。また、彼はゴジラが大好きだそうですが、本書もまたゴジラの影響を受けています。」(10ページ)

今から30年以上前に「遊星からの物体X」を観て以来のファンである私にとって、安冨がここで言いたいことは、何となくわかる。

「ゼイリブ」を観たのも、もう四半世紀ほど前のことであるが、そのインパクトは忘れられない。

だが、一体どういう影響を受けたというのだろうか。そうした説明を入れずに、何となく余韻をもたせる、これは、私がよく知っている書き手で言うと、宮台がいつも使っていたもので、少し鼻につく。

これもまた、ある種の、東大話法、もしくは、何らかの「レトリック」なのではないか。

もっとも気になったのは、次の箇所である。

「私自身はというと、自分の納得できるものであれば深く理解できるのですが、納得できないものであれば、決して理解できません。」(35ページ)

「こういう屁理屈を無理に理解しようとすると、体が拒絶して体調を崩します。私にとって経済学の分野の中では、経済史が最もこういった障害がかんじない分野でした。ですから私は、経済史の分野で博士号をとったのっです。」(同)

そうなのだ、私がしっくりこなかったのは、この点なのだ。

私は、安冨とはまったく逆の試みを行っていることになる。

自分が納得できないもの、好きではないものをしっかりと理解しようとしているのである。

そして、そうした探究の仕方こそが、「研究」というものであり、趣味で自分の好きなものにばかりふれている行いとは根本的に異なる、とばかり思っていたのだ。

彼は「東大話法」の人たちが、自分に合わないものでも何でも、完璧に理解していることに閉口して、その「理由」を次のように、まとめている。

「自分の考えというものがないから」(36ページ)

いや、私から言わせてもらえば、安冨の「考え」もまた、単なる「自分の考え」にすぎない。

「自分の考え」とは、すなわち、「思いこみ」や「思いつき」と一般に言われているものである。

それ自体が悪いわけではないし、世の中の「思想」や「理論」や「評論」なんて、大半がそういうものだ、とは思うものの、私はそういう「自分の考え」だけを押しとおしたり、他者に伝えて理解を求めたりすることだけで、少なくとも原発事故に対しては、終わりたくないのである。

ここまで反目し、対立する原発「推進」と「反対」という言説の避け方は、一体何なのか。

その正体を見極めたいのである。

それはともあれ、本書は、おもしろい本であることは確かだ、そのことは誤解しないでもらいたい。

***

彼の言説の対象は、原発(事故)にはなく、
原発(事故)をめぐる言説の批判的分析にある。

「東大話法」によって産出されている「危険な言葉を記述し、その存在を人々が感知することで、暴走から離脱する」(23ページ)ことを安冨は目指しているのであって、なぜ原発事故が起こったのか、を問うているわけではない。

このことを忘れないようにしながら、本書から、「東大話法」からの離脱、という大切な、一つの知恵を学ぶべきであろう。

今回、最初にやり玉にあがっているのは、次の人物である。

 大橋弘忠(東大教授)

残念ながら問題の文書はすでにネット上からは削除されている(オリジナルは)ものの、検索すればあちこちで読める。

安冨は、池田信夫やこの大橋弘忠のことを、「下手な東大話法」と呼ぶ。

「言葉は強い力を持っている。しかし、東大話法のような屁理屈を容認してしまうなら、言葉が無力してしまう。それゆえ、屁理屈は、屁理屈である段階で、容認してはならない。そうしてはじめて、議論が可能になる」(65ページ)

この点については、全面的に賛同する。

だが私が原発問題で深刻な困難を感じているのは、東大話法の問題だけではないのではないか、と思い至りはじめているからである。

しかし読み進めてゆくと、どうやら、逆に、安冨は、「原発(事故)」のわけのわからなさを、迂回し名が、彼なりに、真剣に向き合っている、とも言える。

安冨は、次のようにまとめている。

1)放射能の害悪のために事故現場に近づけず何が起こったのかを知ることすら難しい

2)放出された放射性物質が、どのような悪影響を与えるのか、誰にもわからない

3)情報の独占による隠蔽

あと、もう一点、こだわりのポイントとしては、安冨は、原爆投下や敗戦、第五福竜丸事故、などに、あまり関心がないというのが、釈然としない。

 佐藤一男 改定 原子力安全の論理

あれこれと分析しているのだが、やはり、心もとない。

言説分析は、難しいのである。












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読んだ本
故郷
水上勉
集英社
1997年6月
(2004年11月 集英社文庫)

ひとこと感想
福井の人たちの優しい声が響いてくるかのような美しい作品。ここでは原発は全面否定されていないものの、彼らとともに、非常に考えさせられることになる。

*彼の短編への感想はこちら↓
原発作業員の実情を静かに描く、金槌の話(水上勉)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11990695816.html

***

かつて何度か福井県内には足を運んだことはあるが、本作の舞台となっている高浜町の方には行ったことがない。

ただ、海辺ではないし、京都府になるが、加悦町には一度、行ったことがある。

そこには、確かに、本書に登場するような人たちがいた。

以前も書いたが、北海道出身の私にとって「故郷」という概念は、きわめて希薄な意味しかもたない。

もちろん、自分が生まれ育った場所や家族、友人などのことを思い出せば、そこには一種のノスタルジーはわいてくる。

だが、圧倒的に、歴史性の希薄というのか、私には、「故郷」は重みをもって自分には迫ってこないのである。

だからそのことを差し引いて読んでいただきたいのだが、それでもなお、美しい土地に、原発があることによって、忌避的になるのは、やむを得ないと思う。

しかし、3.11以後に生きる私たちにとっては、これは、物語のなかの世界としてではなく、現実に起こった出来事として、体験している人たちが、数多くいる。

今なお、さまざまな葛藤や軋轢、苦悩、悲嘆、不安、恐怖、さまざまな感情がうずまいている。

本作品は、原発を批判的、否定的にとらえることを目的として書かれているのではない。

ごく自然に、原発の近くにある「故郷」に久しぶりに帰ってきた熟年夫婦が、どのようにこの「現実」を受けとめるのか、その心の揺れ動きを描いているのである。

大雑把に言えば、妻のほうは自分の故郷であるがゆえに、原発があろうとも、できればそこで老後を送りたいと思っている。

夫は兵庫出身であり、考え方としては原発の近くに住むのは反対であったが、実際にその土地を訪れ、人びととふれあうなかで、その土地に愛着を抱きはじめている。

「きらいというわけじゃないけど、やっぱり、いままで働いた金をつかって、老後の安住の地をもとめるとすれば…何も、ぼくらの世間では評判もわるい原発の近いムラまでゆくのはね…ちょっと、気になるんだよ」(260ページ)

「あとは文句はどこにもない。うつくしい海だし、あの梅林は、今日も、何げなく観たけれど、いいところだった。あんなところに、小さい家を建てて、そのおじいさんではないが、山へ入ってイタドリをとったり、川へ行って鮎をとって、子供じぶんにもどりたい」(397ページ)

ところが残念ながら、妻がここを「故郷」と思う最大の「根」となっていた彼女の母親が、久しぶりの再会の翌日、突然死亡してしまい、彼女は迷いはじめるのだった。

そういう、物語である。

***

もう一つ、おもしろい脚色をしている。

登場人物の大半は、福井の人たちなのであるが、まず、熟年夫婦は長いあいだ米国暮らしをしていたのであり、もう一人、米国からこの土地を訪れる若い女性がおり、さらにその女性と仲良くなる、この土地に嫁いだフィリピン女性がいる。

さりげなく述べられているのだが、水上はここに、福井の人たちが、「異人」を拒否したり避けたり差別することなく、むしろあたたかく迎えいれているのである。

もしかすると、「原発」という「異人」でさえも、そうした心持から受け入れて行ったのかもしれない、とおもわずにはおれない。

私たちはいつも、原発を自分にとっての損得でとらえている。

賛成も反対も、である。

リスクよりベネフィットを選ぶ、といった、言葉だけはハイカラになっているが、結局は、「自分にとっての損得」である。

だが、本書を読んで強く感じたのは、それだけではない、ということだった。

福井の人たちは、何か、こう、原発を、招き入れ、なんとか、共存をはたそうと努めているのではないか。

そしてそれは、わざわざ東京電力の原発をかかえこんでいった挙句に事故が起こり、住んでいた場所から避難をせざるをえなかった福島浜通りの人たちにも、似たようなことが言えるのではないか。

これは、しんどい話である。

私たちは「欲得」にすることによって自分の気持ちを整理したがるが、それは、いろいろなことを考えるのが面倒だからである。

だが、原発とともに生きる、ということは、もう少し、複雑に考えなければならないことのように思われる。

事故は、たしかに、厳しく、「賛成」か「反対」か、態度を決めるように私たちを追い詰めた。

だがそろそろ冷静になって、もう一度、「あの日」から「今日」に至るあいだの、ほかの人たちの感情を見つめなおすべきではないか。

自分の信念を変える、ということではない。他者の「心性」を受けとめる、ということである。

もっと具体的に言えば、二つある。

本書が展開しているような、地元の人たちの「思い」を、単純な欲得で理解しようとせずに、その声に真摯に耳を傾けること。

そしてもう一つは、自分の考えと異なって原発を受けとめている人たちの、その主張を、正面から理解しようとすること。

いずれも困難なことではあるが、私は、自分の主張を大声で叫ぶことよりも、他者の声を聞くこと、それこそがもっとも重要なことだと、思うのである。

これまで「原子力」「核」関連の「言説」を追いかけることばかりに気をとられてきたが、今後は、声なき声を拾い上げてゆけるような営みも、行ってゆきたい。


故郷 (集英社文庫)/集英社
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読んだ漫画
いちえふ 2
竜田一人
講談社
2015年2月

ひとこと感想
こうした作品が連載され続け単行本化されていることは、大変うれしいことだ。できることなら廃炉が「完了」するまで、書き続けてほしい。または他の書き手でもよいから、書き継がれてほしい。

***

第2巻に収録されているのは以下の第9話から15話までである。

第8話 劇団いちえふ
第9話  線量役者
第10話 N-1 経由 1F行き
第11話 ギターを持った作業員

第12話 ヒーローインタビュー
第13話 1F指輪物語

第14話 (Get Your Kicks On!) Route 6!
第15話 「アイル・ビー・バック」

これに加えて、「番外編」が2編加えられているので、これらについて、ここではふれたい。

番外編1 取り出し作業の注意事項

初出
週刊現代 2014年5月19日発売号
4ページ

2012年の時点での建屋内での出来事を、ひとくちエピソードのように紹介している。

「取り出し注意」とは、放尿時のことである。

建屋内で作業中にどうしても、「生理現象」にたえられなくなったとき、やむを得ず現場から一度離れて、トイレに行くこともある。

2枚重ね着していたタイベックを1枚脱ぎ、綿手袋のうえに二重にはめているゴム手袋も1枚はずし、車に乗る際には靴にカバーをかける。

このあと、本当であれば汚染検査を受けなければならないのだが、穴場がある。

タイベックのまま使えるトイレというのが、某企業の現場準備施設にあるのだそうだ。

そこで用を足すときに、竜田は新人に対してこう言う。

「もう1枚のゴムも取った方がいいぞ」〈179ページ)

後に受けるサーベイで「股間」が汚染されていたら、「有名人」になる、そう脅かす。

これはもちろん、単なる「笑い話」であって、本当に危険だという意味ではない。

***

番外編2 男の背中

初出

FRIDAY 2014年8月22日発売号
4ページ

こちらはまさしくタイトルそのまま。

モーニングでは描けない「裏ネタ」。

ちなみに関連書籍として、下記は、外せない。

ヤクザと原発(鈴木智彦)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11448112334.html

短い期間ではあったが、鈴木智彦も、現場に入った。

鈴木の記述では、下請のなかに、暴力団がかかわっているというもので、この件については竜田も否定しないが、本作ではむしろ、読者が抱く「妄想」を砕くことを目指しているようである。

「1Fには様々な過去を持つ者が集まっている。「ヤクザが大勢入り込んでいる!」なんて伝えられる事もあるが、俺の見た実態は・・・」(183ページ)

簡単にまとめれば竜田の見た「実態」は、こうである。

漁師やとび職、「ヤンチャな若い衆」など、世間には刺青を入れている人は、それなりにいる。

もちろん本当に「元ヤクザ」もいる。

だが、「刺青が入っているからといって必ずしも「ヤクザ」でもない。

確かに、この件について、竜田の言っていることは間違っていない。

だが、この番外編には、竜田の親しい人物の背中のアップで終わっているが、背中の右肩から左わき腹にめがけてつくられた
大きな古傷があるのである。

この人物がどういった過去をもっているのかについては、一切ふれられていない。

ただ竜田は、これが「実態」だという。

確かに世の中、「刺青」だけでその人を何らかの決めつけを行うのは、良いことではないが、ふだん見慣れていない人間には、それだけで恐怖心や威圧感をもつ人もいる。

これは「偏見」なのだろうか。「差別」なのだろうか。

もちろん、文化や社会などによって刺青が「あたりまえ」であったり、むしろ好意的であるところもあることは、知っている。

そのうえで、あえて言えば、好みとしては、好きになれない、という言い方しかできないし、それ以上のことはすべきではないのかもしれない。




いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(2) (モーニング KC)/講談社
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読んだ本
被曝者の歴史 日本原爆論大系 第2巻
中島竜美 編集・解説
日本図書センター
1999年6月

ひとこと感想
歴史を紐解けば解くほど「なぜ」という言葉が増えてゆく。私はヘーゲルに問いたい。放射線について、ヘーゲルだったらどういったように受けとめて、そのポジティブな面を見出しうるのか。


***

ここでは、上記書籍のうち、第4章 、を読む。


第4章 ヒロシマ・ナガサキからの訴え

ナガサキ・70年代の記録と証言運動――四半世紀目の証言と記録にみる新しい軌跡と展望 鎌田定夫 長崎の証言 1971 長崎の証言刊行委員会 編/刊行 1971年8月

1970年、大阪で「万博」が開催されたが、長崎では「開港400年祭」が行われ、原爆被害から25年経ったことも、街の雰囲気としてはわすれてしまったかのようであることを鎌田は嘆く一方で、大きな変化があったと伝えている。

「1970年夏の長崎は、何よりも25年前の原爆体験を喚起し、戦後四半世紀にわたる低迷を一挙にとり戻す精力的な各告発の証言運動を展開し、長崎の戦後史の上に新しい画期をもたらしたのである。」(432ページ)

記録・作品集として書籍や雑誌が刊行されるだけでなく、高校の文化祭における「原爆展」の開催、写真展、教師による平和教育・原爆ゼミ、アンケート調査、復元運動、など多岐にわたって活況を呈した。

鎌田は、次のように「ナガサキの証言1971」の内容について、まとめている。

①原体験の事実を語り原爆の悲惨と理不尽について証言

②被爆とその後の25年の体験(生活・健康・権利の全体にかかわる個人の戦後史)を記録し、それを通して原爆の四半世紀にわたる持続的害悪を告発

③これらの原爆体験の事実を押さえながら、広島・長崎への原爆投下の意味(社会科学的・文明史的意味と同時に人間学的な意味)を究明

④反原爆・被爆者救援運動や平和教育の実践とその理論化に関する考察と模索(核権力の犯罪性についての追及ととともにわれわれ自身の戦争責任や戦後責任を明らかにすること、朝鮮人・中国人被爆者との連帯、等の問題を含めてそれを究明する)

長崎原爆関係の記録やエッセイ、文学作品についての方向性や問題点については、以下のように述べる。

1)原爆体験の記録を一回性のものとせず、日常的に持続させる

2)実証性や説得力のある論理と文体をつくりだす

3)記録運動の組織化

なお、井伏鱒二や井上光晴の作品に対しては、否定的な見解を述べている。

***

ヒロシマとナガサキ――その意味を考える視角 松元寛 平和研究 第9号 日本平和学会 1984年11月

いくつかの指摘:

被爆体験に対して、「逃走」を志向する場合と、「克服」を志向する場合があり、前者が多数を占める。

原水爆禁止運動は、結果的に、政党色を帯びたことによって前者がかかわらなくなった。

広島と長崎とでは異なる体験感覚がある。

被害者としてだけでなく、加害者としても考えなければならない。

カタカナのヒロシマ、ナガサキ、は安易に使うべきではないが、世界史的、国際的な文脈で考える必要がある。

***

原爆被害の特質と「被爆者援護法」の要求 日本原水爆被害者団体協議会 1966年10月

「破壊作用、熱作用および放射線作用が人体に与えた障害の総称を、「原爆症と定義する。」(465ページ)

「原爆症を特定の病気だけに限定し、固定的に考えることは非科学的」で、「原爆症は複雑な病気」で「その病理や治療法の研究はおくれているため、被爆者は深刻な不安を感じている」(467ページ)という認識をとっている。

ここでは「原爆被害」は大きく三つに分けられている。

・都市破壊
・大量無差別殺傷
・放射能

原爆被害者に対する「国家」責任を、米日それぞれに対して次のようにまとめている。

日本
戦争開始責任 1941
被害者放置責任 1945-
社会保障責任 1947-
賠償請求権放棄責任 1951-
医療・生活保障責任
被害補償責任

米国
原爆投下責任(国際法違反) 1945
加害隠蔽責任 1945
加害結果利用責任 1945

***

原爆被害者の基本要求――ふたたび被爆者をつくらないために (発表文) 日本原水爆被害者団体協議会 1984年11月

「核戦争起こすな、核兵器なくせ」(502ページ)

こう訴え続けたことによって、確かに私たちは、戦争を行うことなく、戦後「70年」に至っている。

だが、「被爆者」の問題は、結局のところ、「戦争」「平和」「核兵器」という語彙のまわりで思考されることとなり、「原発事故」「放射能」にたいする感受性をもたなくなったように思われる。

「ふたたび被爆者をつくらない」(503ページ)

というのは「原爆被害者」のことであって、「放射線被曝被害者」ではないのである。

そういったことをこの文章を読んで強く感じた。

***

日本被団協「原爆被害者調査」第1次報告 解説版 日本原水爆被害者団体協議会 1986年12月

日本被団協「原爆被害者調査」第2次報告――原爆死没者に関する中間報告 日本原水爆被害者団体協議会 1988年3月

上記2論考は、「原爆被害」を考えるうえで、きわめて重要なものであることは、言うまでもない。

だが、被害者へのアンケートのようなものだけでは、「放射線障害」については、本当に分かりにくく、こうした調査を行ったとしても、まったく実状が見えてこない。

たとえば、次のような問いがある。

「被爆してから昭和20年の末までに、原爆の放射能によると思われる(急性の)症状がありましたか。」(526ページ)

この問いはカッコつきで「急性の」と書いているが、もちろん、「遅発性」については、「問い」をたてることも、「回答」することも困難になる。

だが、本当に問わねばならないこと、そして、本当に回答せねばならないことは、「遅発性」の影響だったのではないだろうか。



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