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核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

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【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。
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2014-10-21 22:31:00

リスクとリターンから原発事故の意味をとらえる――戦後史のなかの福島原発(中島久人)を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
戦後史の中の福島原発 開発政策と地域社会
中嶋久人
大月書店
2014年7月

ひとこと感想
なぜ、福島に原発が建設されたのか。すでに開沼博が中央と地方という構図において従属と依存の力学において生みだされたという見解を地元周辺の聞き取り調査から提示しているのに対して、本書は、「史料」すなわち書き残された文書資料をもとにして、「地域社会の要」として意識されてゆく過程を検討している点が興味深かった。

***

本書の主張は、以下の4点である。

1)私たちは原発を大都市圏に設置することを拒んだ

2)福島第一原発はあくまでも地域開発の一環として選ばれた

3)1960~70年代に起こった福島での原発建設反対運動は、原発への不安が現れはじめたことを意味しているが、それ以上の実質的な力とはならなかった

4)その後、3.11によって、原発のリスク(不利益)とリターン(利益)のバランスが実は大きく歪んでいることが露見した


***

第1章 原子力開発の開始と原子力関連施設の大都市からの排除

この章で特に本書が際立って明確にしているのは、題名にあるとおり、原発が大都市からいかにして排除されたか、である。

すなわち、ここで問題となっているのは、「立地」選定のあり方である。

東海村が最初のターゲットとなったが、もっとも運動や議論が起こったのは、関西研究用原子炉設置のときだった。

ここで歴史的に明かされるのは、大都市圏の住民は、原子力関連施設に対して、基本的に拒否反応を示し、実際に「反対運動」等によって、建造を阻止した、ということになる、

結局は、綺麗事ではなく、ベネフィットとリスクのバランスであり、大都市圏においては、リスクの方が高くなってしまうということが、この問題の根幹にあるということである。

また、このときの「ベネフィット」は、単に「原発」という施設の誘致ではなく、それに随行するであろう、商工関連施設や人の流入を見込んだものであったことを、中嶋は強調している。

言い方を変えれば、放射線がひとたび漏出すればさまざまな問題が生じるということにはあまり目を向けられず、単純に、お金や人や建物などを呼び込むことができるということが大事だった、ということである。

「東海村に実験炉・商用炉が設置されたが、それは被曝のリスクを少しでも回避することを目的にして過疎地の沿岸部に立地するためであった。しかし、逆に、茨城県や東海村は、この立地により、人口増を含む地域開発を望んでいた。」(80ページ)

だが、実際は、原発立地地域は、できるだけ人口が少なくあることが望まれたのである。

「これは、原子炉立地審査指針など、国家の意思である。しかし、大規模原子力施設建設によるリスクを回避しようとして運動を展開していた、大都市住民の声にも基づいていたのである。」(82ページ)

***

第2章 地域開発としての福島第一原発の建設(1960-196)

こういう言い方をすると、抵抗感のある人もいるかもしれないが、「自治体」単位でとらえたとき、「福島県が主体的な受け皿となって地域開発を名目に福島県浜通りに建設されるに至った」(87ページ)というとらえかたができる。

よく言われているように、福島は戦前から首都圏への電力を供給していた。

それは、1911年にまで、さかのぼる。猪苗代に水力発電の会社が設立されるが、これは東京に送電することを目的としていた。

ただし、この頃は、福島県においては「発電」も一つの産業として成立しており、県内にも安価な電力を供給することができ、工業の振興に一役買っていた。

だが、無数にあった電力会社も次第に淘汰され、この会社も、東京電灯という会社と合併した。

決定的だったのは、1938年の国家総動員法制定時の電力管理法、日本発送電会社法などの制定である。

1941年には配電統制令が出され、現在の9電力会社体制がつくられる。

「電 力の国家統制によって、安価で豊富な電力供給により地域工業化を進めてきた電力生産県としての福島県のメリットが失われた。それぞれのブロックごとで統一 された電力料金となり、さらに全国的にはりめぐらされた送電線網によって、福島で生産された電力は、今まで以上に首都圏などの域外で消費されるようになっ たのである。」(89-90ページ)

「電力生産県としての福島県」は、その生産した電力をもとに、工場を誘致し、雇用の機会を生み、地域開発を進めようとしていた。

原発の誘致もまた、そうした流れに沿ったものだった。

にもかかわらず、電力だけを生産し、その電力を首都圏へと送りだす役割を担うことになる。

言ってみれば福島県は、首都圏によって、さらには、国家によって、電力を収奪されたのである。

そしてまた、当初の福島県における「計画」にあっては、原発の誘致というのは、あくまでも工場や企業を誘致する「手段」であり、目指されたのは、工業化による地域の自立化だったということを忘れてはならない。

決して電力会社、原発だけに全面的に依存する自治体を生みだすことが目的だったのではないのである。

***

第3章 福島県における原発建設反対運動の展開

福島で、原発の建設反対運動が起こったのは、福島第二の建設にあたってである。

富岡町毛萱は福島第二の建造に反対していた。また、浪江、小高でも反対運動が起こった。さらに、楢葉でも起こった。

このなかで、次第に、原発そのものに対する不安だけでなく、「原発建設が、真に地域社会のために役だっているのか、いいかえれば、リターンたりえているのか」(166ページ)が問われた。

ただし、これらの反対運動は、それぞれが横のつながりをもたず、それぞれ個別のものだったがために、大きな広がりをもつことはなかった。しかも、ここに、共産党支持系の人と、社会党支持系の人とで対立が起こってしまう。

まことに不毛なことになってしまうのだった。

***

第4章 電源交付金制度と原発建設システムの確立(1974~)

1970年代中盤以降は、もう、泥沼のような話である。

一度「原発」にかかわったところは、その数をとにかく増やすことになり、福島第一で6基にまで増えた。

反対運動のリーダーだった岩本忠夫が双葉町の町長になり、以降、原発推進にまわる。

佐藤栄佐久(元福島県知事)からみた、原発誘致の泥沼。

***

中嶋は、本書の最後のほうで、次のように指摘している。

「福島県の場合は、自立的な生存に寄与するとみなされたリターンを目当てにして原発建設のリスクを引き受けるという地域社会側の主体的な営為も介在して、現在のような中央への従属的関係が形成された」(213ページ)

「しかし、福島第一原発事故は、そのようなリスクとリターンの交換は著しく不平等なものであったことを明示した。」(214ページ)

さらに中嶋は、もう一歩踏み込んで、次のようにも述べている。

「近 代社会は、人間の作為によって自然の拘束から解放されていくものとして認識されており、原子力はその象徴であった。そして、歴史学も、このような近代の世 界観のもとにあった。しかし、福島第一原発事故は、人間の作為による自然の拘束からの解放という世界観そのものへの懐疑をつきつけた。」(215ページ)

この「懐疑」はとても重要なのだが、つきつけられても、なぜか、ともかく「再稼働ありき」であったり、原発前面否定で現場の葛藤をあまりみなかったり、いずれにおいても、今ひとつ納得のゆかないレスポンスしか見えてこないのが、とても残念である。

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2014-10-21 21:51:00

(故)虎之助のこと~出会いから引っ越しの前まで

テーマ:猫・犬・動物・植物
我が家の猫、虎之助。


私たち夫婦の「宝物」、虎之助。

2014年10月20日、永眠。そして、さきほど、火葬を終えた。

骨太の彼の遺骨は、きれいで、大きかった。

前に永眠したシナモンの遺骨と比べると、極端に言えば、倍くらいはあっただろうか。

しかも、その業者さん(ジャパンペットセレモニー)が、とても大事に、丁寧にしてくださったので、それは、それは、見事なものだった。

その見事さに、また、泣けた。

・・・書きかけの原発関連書籍記事もあるが、まとめる力をもたないので、大変申し訳ありませんが、今日も、虎之助の思い出話におつきあいくだされば、大変ありがく存じます。

(なお、写真画像は最近のものではなく、20010年前後のものが主です)

***


(今から14年ほど前にさかのぼる)

虎之助。

生まれたときのことは、実は、よく分からない。

おそらくそのアパートの1階に住んでいた大家さん(代理)の方がけっこう面倒をみてくれていて、そのおかげで、人間に対してまったく抵抗がなくなり、かつ、早い時期に去勢手術を受けた、と思われる。

それは、かれこれ、今から、約15年近く前のこと。

私が虎之助と出会ったのは、おそらく生まれてから1年経つか経たないかくらいの頃だったと思われる。

私の部屋は、そのアパートの2階にあり、玄関の左側には洗濯機が置いてある。そして、その洗濯機の上には、トイレの窓がある。

トイレの窓には、等間隔にサンがはめられていて、もちろん、人間は侵入できない。だが、仔猫は?

そうなのだ。

ある日突然、彼は、部屋のトイレの扉を開けて、私の住む部屋へと、つかつか、と入ってきたのである。

しかも、悠然と、部屋を一瞥し、ああ、苦しゅうない、そのままでよい、と言ったわけではないが、そのような雰囲気で、部屋のまんなかにある座布団に、どさり、と腰をおろし、くわー、とあくびをして、毛づくろいをはじめる。

あのー、初対面なんですが、もう少し、警戒していただいたほうが、良いと思いますが。

と声をかけてみたものの、とりあえず、一休み、一休み、と座布団の上でくつろぐも、おお、そうだった、他にも行くところがあるので、今夜はこれで、失敬、と言ったか言わないかはさておき、少し経ってから、再び、トイレの窓から、彼は、走り去って行ったのだった。

実は、大学のときにも、同じように、近所の猫(ロシアンブルー、牝、おそらく2歳くらい)が突然部屋の窓から入り込んできたことがあり、それ以来、しばしば部屋にやってきたことがあるので、こういった突然の訪問には、ある程度免疫がないわけではない。

とはいえ、それなりに、驚く、というよりも、とても、とても、うれしい出来事だった。

なんというのか、猫って、本当に、自由で、かつ、人との関係において、絶妙な能力をもっているものだ、と感心する。


ところでこの虎之助、名前のまま、所謂、茶トラなのだが、外見は、それほどはっきりとした特徴はなかった。

ただ、なによりも、おどろいたのは、「鳴き声」である。

ほとんど、鳴かないのだ。

口は開けるものの、声が大きくない。

だから、最初の闖入以降、何度もやって来ているが、一度も大きく鳴かなかったのである。

怖いものである。

カタカタとパソコンで文章を書いていると、後ろに、ちょこんと、仔猫がいて、毛づくろいをしている。

何度となく、驚かされた。

ところがこの「鳴かない」というのは、性格的なものではなく、口内炎がひどくて、痛みで鳴いていなったということが、その後判明する。

それまで私は勝手に虎之助が鳴かなくて、少し苦み走った表情をするのは、哲学者だからだ、と思い込んでいた。

哲学書にうずもれている部屋にやってくる哲学猫。

なるほど、と、勝手に納得していたのだ。

地域猫のような存在だったため、他の猫から猫エイズなどを感染しており、いつ発症するかとずっと不安なままその後いっしょに暮らしてゆくことになる。

その後、虎之助は、その後も抜歯を二回行い、耳が聞こえなくなり、さらに、上あごのところにできた悪性腫瘍によって食事がとれなくなり、出血がとまらなくなったために、最期を迎えた。

ところで、もうひとつ、大きな誤解があった。

私は、彼の股間をそれほど真剣に検証することなく、ぱっと見た感じで、女の子かな、と思っていた。

だが、そう思いつつも、あえて、「虎之助」と名づけてみた。

後に「元」男の子と判明するも、言い訳ができない。

ただ、なんとなく、虎之助という名前が、ふさわしいと思ったのである。

ふだんは、「トラ」「とらちん」と呼んでいるのだけれども。


ともあれ、いろいろと誤解はあったものの、虎之助と共有する時間が増えて行った。

とりわけ、今でも思い出すのは、私と妻とが帰宅したとき、虎之助は、門のところにちょこんと座って待っており、私たちの姿をみると、とかとか、とあわてて近づいてきたことがあった。

顔というのか、目線をはなさないまま、懸命にこちらに向かってくる。

足取りがあせっているのだが、なんとなく、「欽ちゃん走り」のように脚を動かしている。

マッテヨ、マッテヨ、イマイクカラ、オイテユカナイデ・・・

愛おしかった。あのときの表情が、今でも、忘れられない。

虎之助の性格を説明が難しいのだが、赤塚不二夫の「天才バカボン」の「バカボン」の「イノセント」さに近いのではないだろうか。

疑うことを知らず、そのまま素直に反応するのである。

こうした純白さは、その後、一度も変わらず、虎之助の愛すべき「気質」となっていったのだった。


そういえば、あともう一つ、忘れられないエピソードがある。

さすがに何度もみていると、苦み走った表情は決して「哲学」をかじったからではなく、何か口腔内に問題があるからなのでは、と思って、病院に連れて行ったことがある。

ちょうど近所に、病院があったのだ。

連れて行ったとき、看護師の方に、「あ、マッケンロー」と呼ばれた。

え? マッケンロー、って誰、というより、なぜ、虎之助はマッケンローと呼ばれたのか?

しばらく、錯乱としていた。

あとで、妻と話したところ、どうやら同じアパートに住む、斜め迎えのヨーロッパ系(チェコ人だったような)の大道芸人が、虎之助のことをマッケンローと呼んでいる、ということになった。

つまり、マッケンロー、いや、虎之助は、みなが心配して病院にも連れてきてもらっていたということを、このとき、はじめて分かったのである。

だが、残念ながら、私が虎之助のことを、マッケンロー、と呼んでもまったく反応がなかった。

発音が悪かったのかもしれない。

虎之助は、つまり、このようにして、幼少期は、「外猫」として、もしくは「地域猫」として、暮らしていた。

それゆえ、いろいろな人にかわいがられたり、悪戯されたり、していた。

あるときは、私と目があったくせに、ほかの部屋に入って行ったこともある。

まったく悪びれた様子がないところが、とても、いじらしかった。

あるときは、顔に落書きされたこともある。

本人はまったく気にする気配もない。

あるときは、お隣のアパートの区議会議員に立候補した人の部屋に入ってゆくのをみたこともある。

本人に選挙権はない。

それでも基本的に人間には、どんな人に対しても、信頼関係があり、無防備だった。

むしろ、猫を見ると、無性に闘争心を掻き立てられていた。

その界隈では、もっとも強い猫、という感じであった。

次第に成長するにしたがって、彼は骨格ががっしりしているのか、とても大きくなっていった。

体重も最終的には6キロ台にまで達したが、決して「fat」な感じではなかった(が、病院では少し痩せても良いと言われた)。

そんな虎之助は、理由がそれなのかは今でも定かではないが、ときおり、私達に「贈物」をもってきた。

もっとも大きかったのは、朝起きて、何か臭うとおもいきや、ベッドの下にネズミの死骸があったのだが、あれは、かなりのものだった。

本当に驚いた。

次回以降不要です、と丁重にお断りした。

・・・こうして、しばらくは、平穏な日々が続いていた。




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2014-10-20 21:53:00

近所のネコ、(故)虎之助~出会った頃の思い出

テーマ:猫・犬・動物・植物
*以下は、かつて作っていたホームページに載せていた虎之助との出会いの頃の写真とコメントです。

この頃は、アパートに住んでいて、近所の猫として、彼と出会いました。

まだ1-2歳のころだと思われます。

最初に出会ったときに、ふと、トラノスケ、という名前が浮かびました。

ところが、少し経って、股間を見やると、あれ?、もしかしてオンナノコ?、と思ったのですが、そのまま、トラノスケと呼びました。

以下の文章に出てくる「彼女」とはすなわち「トラノスケ」のことなのです。

その後、去勢したということが分かり、厳密に言うと「元オトコノコ」となり、それ以降は、虎之助のことを「彼」と呼ぶようになります。

それから10数年、こんな日がくるとは思っていませんでしたが、2014年10月20日に、虎之助は、私たちのもとから旅立ちました。

これを書いている今、まだ虎之助は、一緒に部屋にいます。

ですが、息をひきとって半日以上経ち、もう、体温もなくなり、死後硬直が進みました。

サークルのなかでねむるトラは、まるで本当に眠っているかのようで、今にも、あくびをして、からだを伸ばして、にゅあー、と鳴きそうです。

悲嘆にくれてばかりではダメだとは分かっておりますが、今日一日、喪に服したいと思います。

(以下、冒頭からあとのほうに行くにしたがって、出会った頃に遡ってゆきます)

***


近所のネコ
虎之助
(勝手に名前付けてます)



乙女の寝姿【注:去勢オス】

最近遊びにくるというより帰ってきたら寝ている





問題

近所に最近やってきた猫が近づいてきた時
彼女
【注:去勢オス】(虎之助)はどうしたか?



解答
ほとんど無関心だったが
わずか30センチくらいまで近づいてから
ちょつと怒った



洗濯物を干していると
左斜め下に見える塀の上にちょこんと彼女
【注:去勢オス】は座っている
一瞬目が合うとにゃんとないては
エアコンと一階の屋根を伝って登ってくる

うろうろと部屋をめぐったあとさっさと帰る日もあれば
だらんと寝入ったままの日もある


戸口でにゃーんとなくので扉を開けると
ふらりと入ってきてはごろごろと喉をならして
少しすりすりとして
少し身繕いをしては
5分で去ってゆくことが多い
変なやつ


虎之助の表現方法を分析しました

1 にゃーん となく 【欲求未解決】
2 じーっと みつめる 【欲求解決】
3 少し爪を立てつつ 右手でたたく 【欲求遂行依頼】
4 ちゃぼちゃん(動物のお医者さん)と同じように 少し噛む 【謎】

深夜に起こされるときは【3】である


なぜか身繕いをしたらさっさと帰ってしまう

君は何者?




実はメス【注:去勢オス】であったことが判明した



だが君は虎之助だ


呼んでも見向きもしないが



最近の虎之助は路地でばったりあっても知らんぷりである




喧嘩で目の上の毛が抜けてちょっとヤンキー入っている








ふと遊びに来た



また遊びに来てね





ぶらりとふたたび遊びに来た



何を考えているのか相変わらずわからない

ま とりあえず 元気で な




年末年始家を空けた
その前日虎之助はやってきた
鰹節をたらふく食べて少し寝て
出かけるときに目を覚まし
早朝一緒に家を出た


また会えるといいね


また、会う日まで・・・
虎之助・・・

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2014-10-20 08:01:00

虎之助、とわのねむりにつく

テーマ:猫・犬・動物・植物
我が家の猫、虎之助(推定約14歳)は、私の生まれた日である昨日の昼頃から、危篤状態になり、何度か少し苦しみつつ、今朝、4時半頃、とわのねむりにつきました。

まだ、少しだけ、ぬくもりがします。

病状が悪化して、あっという間で、ただただ、おどろくばかりです。

おそらく1歳になる前くらいからのつきあいだったので、13年くらいは一緒にいたと思います。

子どものいない私たち夫婦には、子ども同然の存在でした。

不思議なことに、おとといの夜、そのときも体調はかなり悪かったのですが、それでも、その日の朝に病院でうってもらった止血剤のおかげで、口腔内からの出血がかなり収まり、少し気持ちが楽になっていたからなのでしょうか、いつもは足元に寝るのが習慣なのに、珍しく枕元から布団に入ってきて、私の腕を枕にしたまま、ずっと朝まで、一緒に寝ていたのです。

そのときまでは、まだ、ベッドの上に(よじ)のぼることも、よろめきながらも、歩くこともできたのです。

ところが、そのあと病院に連れてゆき、帰ってきてからは、立つことができなくなり、じっとサークルのなかで、寝ていました。

そして、昼近くになって、嘔吐し、失禁、失神してしまいました。

あわてて妻を呼び、二人で、固唾をのんで様子を見守っていたところ、少したつと、やや、表情が出てきて、やや生気が戻ってきました。

数時間、小康状態が続きましたが、夕方になって、再び、様子が変わります。

目がうつろになり、呼吸も弱まり、ときおり、手招きのような仕草も現れはじめました。

もう、長くない、そういう気持ちで、ずっと、そばにいたのですが、急変というより、ゆったりと、若干の周期をもって、からだの反応が鈍くなっているように思えました。

深夜になり、隣に横たわって、一緒に寝ました。手を握って。

1時間周期くらいで、手に力が入り、少し苦しそうにします。嘔吐のような仕草をしますが、何も出てきません。

もう、血も、水分も、食べものの、からだのなかにはないのです。

声にならない嗚咽を、何度か繰り返し、そして、明け方近く。

苦しそうな声がでてきました。

からだをのけぞらせ、足をばたつかせ、口ががくがくと、動きました。

数回、それを繰り返し、口を二度ほど、開いて、そして、静けさがやってきました。

虎之助は、動かなくなりました。


これは、少し前(9月頃)の画像ですが、全盛期には6キロ以上もあった体重も、ここ数カ月次第に落ちてゆき、最後に測ったときには3キロ台になっていました。

骨太で、がっしりとしていた虎之助で、誰がみても「大きい!」と言われました。

最期は、すぐにでも折れてしまいそうで、それがとても哀しくありました。


・・・と書いてみても、まだ、心の区切りはついていません。

ただ、忘れたくないという気持ちから、書きました。


(2014年8月)


虎之助、いままで一緒にいてくれて、本当に、ありがとう。

感謝しているよ。


2014-10-18 21:14:00

ドサクサに紛れてインストールさせるのは、やめて

テーマ:情報
以前から、とても、とても、嫌なものがある。

ソフトウェアのインストールの際に、インストール画面の途中で、別のアプリケーションをインストールさせるものだ。

もちろん、断り書きは書いているし、チェックボックスをクリックして、インストールをさせないように変更することは、それほど、面倒なことではない。

だが、時々、急いインストールをしてしまうことも、人にはある。

そのときには、別のアプリケーションもインストールされてしまうのだ。

フリーウェアはもちろんのこと、最近では、超大手でさえ、そういった阿漕なやり方をしている。

困ったものである。



上記は、まんなかのところに、さりげなく、「オプションのプログラム」と書いてあり、チェックが入っているので、右下の「今すぐアップデート」をクリックしてしまうと、そのまま「オプションのプログラム」もインストールされる。

こういうやり方は、一言で言えば、「卑怯」である。


グローバルな企業がこういうことを平気で行っているが、速やかに、やめてほしいものだ。

Change.orgで賛同者を集めたほうが良いのだろうか?



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2014-10-17 22:07:00

森林と放射線――「樹木の放射性セシウムの動態の解明と森林除染戦略」(林隆久)

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
今回は、下記の本のなかから、森林と放射線に関する内容をまとめてみる。森林には、公共空間や田畑などの除染とはまた異なる問題があることがわかる。

読んだ
「第4章 樹木の放射性セシウムの動態の解明と森林除染戦略」(林隆久)

東日本大震災からの真の農業復興への挑戦 東京農業大学と相馬市との連携
東京農業大学、相馬市編
ぎょうせい
2014年3月
pp212-227

ここで対象とされているのは、「相馬地方森林組合の林地」であり、相馬市のみならず、新地町、南相馬市にまたがっている森林地帯である。

放射性ヨウ素とセシウムの動態を明らかにした。

ヨウ素131は、樹木の木質部分と結合する。最初は気孔から入り込み、細胞壁に結合して固定される。

セシウム137は、葉面や樹皮から吸収されて、内樹皮へ、そして、木部へと移行、場合によっては心材部位にまで進む。

森林は、ヨウ素131とセシウム137を吸い込んだ。

ヨウ素は半減期が短いので今では消滅しているが、セシウム137は半減期が30年と長いため、森林は、今でも、セシウム137のたまり場なのである。

なお、実際の調査は、南相馬市原町区の林地で行われた。

その結果、まず、セシウムは樹木や土その他と比べると、落葉層にもっとも多く蓄積されていることが明らかになった。土は表面の1センチメートルだけが汚染されていた。樹木については、樹皮が主でその次には、木部、枝、根と続く。

この樹木のセシウムは、その後、微生物やキノコへと移り、苔や羊歯へ、そして、虫や動物へ、そして彼は、死んだ虫・動物へ、そして土壌へと移行する。

これが「森林のセシウム代謝サイクル」である。

こうした状況把握をしたあと、除染の実験に進む。

最初に、ヘリコプターからの散布実験を行う。

カリ肥料、窒素肥料を撒き、セシウムの移行の抑制を試みるが、それほど効果がみられなかった。

ただし、散布をしてから伐採すると土壌のセシウムは樹木に移行するので、地面の除染をするのであれば、木を伐るという選択肢も考えられる。

木の種類で言うと、ヤナギやセンダンhじゃセシウム137を吸収する。

だが、現実は、とても厳しい。次のように書いている。

「単純計算をしてみると、この林地1ha中に放射性セシウムが約25億Bq堆積している。セシウム137の半減期は30年であり、大谷地区の林地を何もせずに放っておくと、土壌の放射能が100Bq/kg以下になるまで、660年かかる。」(219ページ)

江戸時代を2回以上繰り返さなければならない。

これに対して、ヤナギやセンダンお植えて、数年おきに地上部を伐り除いてゆくと、73年に短縮される。約「昭和」の期間くらいになるのである。

さらに窒素肥料を与えれば、54年にまで短縮される。「明治」プラスアルファというところか。、

こうした実地調査と除染の方向性は、なるほど、と思う。

ところが「損害賠償」の話になると、非常に不愉快になる。

この場合、「賠償金」は、市場原理によって考えられているため、まず、市場に出さなければならない。

そのうえで、いくらかで取引されて、ようやく、通常価格との「格差」が判明し、その「風評被害として差額が支払われる」(221ページ)という仕組みは、なんとも奇妙なものだ。

また、他方でも、問題がある。

まず、この地区の人びとは、切った木を薪にして使っており、燃やすと放射性物質が飛び散り、内部被曝の原因となっている。

書き忘れたが、福島県では、2012年8月に木材の安全宣言を行っている一方で、林業農家は積極的に木を伐採したり販売したりはしていない。

実際の線量は、安全宣言を出したときに現れた数値よりも大きい場合がある一方で、現場には測定できるような機器がないため、自分たちも受け手も不安が高いのである。

さらに問題点がある。

森林には国営保険がある。火災などには適用されるが、放射能汚染には適用されない。

「むしろ、多量の放射性物質を吸収してくれた樹木に感謝しなければと思っている。これによって福島県民は救われたのである。半減期30年のセシウム137を多様に吸収した樹木をそのように受けとめ、私は活動している。」〈225ページ)

***


実は、以前、森林については、もっとも対応が遅れており、田畑以上に、再興が難しいと、線量が比較的少なかった川内村の副村長から、お話を伺ったことがあり、いつか、現状について、確認しなければと思っていたのだったが、実際に知ってみると、残念ながら、予想以上に事態はおもわしくなかった。




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2014-10-16 21:03:00

40年前に書かれた原発政策批判、そして、放射線影響論――原発と環境(安斎育郎)を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
原発と環境
安斎育郎
かもがわ出版
2012年10月 (復刻版)

初出
ダイヤモンド社
1975年7月

ひとこと感想
本書を読むと、低線量被曝に対する専門家の見解の全体像がつかめる。まず、原発関連のみならず、基本的に被曝は低減化を目指すことが大前提である。第二に、今なお、低線量被曝と健康被害との関係は議論が続いており、はっきりとした結論が出ていないということを忘れてはならない。第三に、そうしたなかで、事故が発生した場合、実際にどういった対応をすべきなのかは、誰もがこれまで真剣に考えてこなかったために、大混乱が生じたのであって、誰かだけが悪いのではない、と心しなければならない、ということである。つまり、私たちみな、一人ひとりが、原子力に真剣に向き合ってこなかったことを反省すべきなのだ。

***

冒頭に「復刻版出版にあたって」という短い文章が加えられているが、それ以外は、まったくの復刻(一部の誤字の訂正を例外として)である。

それによれば安斎は、1962年、東大工学部の原子工学科に入るが、それは「第一期生」としてであった。

「放射線防護学の専門家への道を踏み出した」(iページ)とあり、安斎は、原子力開発に「ある種の夢」を抱いていた。

1964年には、卒業論文「原子炉施設の災害防止に関する研究」を提出、その後、大学院修士課程では、「フッ化ナトリウム・ペレット焼結法による尿中ウランの分析法の研究」を行っていた。

1966年には、日本科学者会議に参加し、原子力問題研究委員会の担当となる。

ここで安斎は、政府に対して、公開質問状の作成などを行うかたわら、原発設置予定地にて地域住民に対して講演を多数行い、専門外のことも含めてさまざまな質問を受けるという経験を積んでいる。

1972年には、日本学術会議が原発問題に関するシンポジウムを開催、安斎は、ここで「六項目の点検基準」を提起する。

それは、以下の項目であった。

1)自主的なエネルギー開発であるか
2)経済優先の開発であるか
3)自主的・民主的な地域開発計画と抵触しないか
4)軍事的利用への歯止めが保障されているか
5)原発労働者と地域住民の生活と生命の安全を保障し、環境を保全するに十分な歯止めが実証性をもって裏づけられているか
6)民主的な行政が実態として保障されているか

1973年には、この6項目を、国会における科学技術振興対策特別委員会や、福島市ではじめて行われた住民参加型公聴会で主張。

こうしたなかで、安斎は、「反国家的な反原発イデオローグ」「国家にとって厄介な放射能研究者」(iiiページ)とみなされてゆく。

当時、東大で助手だったときに、本書が書かれた。

安斎としては、今でも本書は「読み応えがある」と自賛している。

「原発の安全性に関する問題だけでなく、19世紀末以来の洋の東西の放射線の影響に関する考察もきっと参考になるものと思いますし、分析化学研究所のデータ捏造事件や原子力船「むつ」問題には、一種の臨場感を感じられるでしょう。」(ivページ)

なお、シーベルトではなくレムが用いられたままにして、改定していない、というのは、どうしてであろうか。あくまでも「復刻」にこだわる(もしくは、ダイヤモンド社との取り決めということか)理由が、私にはよく分からない。

***

ちなみに世間では「
反原発イデオローグ」とみなされていたとしても、本人としては、少し「思い」が異なっている。

「電力生産技術としての原子力発電技術そのものを頭ごなしに否定するような立場に立つものではない。平和で安全な原子力利用の大きな可能性を求めて、技術の面でも行政の面でも、総合的な木曽っづくりが旺盛に検討されるべきであると考えている。しかしながら、現在、諸般の問題を未解明なままに放置しつつ、技術や行政の習熟度をはるかに超えて追求されている巨大開発計画には、明確に批判者としての立場に立たざるをえない。」(viiiページ)

あくまでも、放射線防護学の専門家として、クリアすべきことをクリアしたうえではじめて実用の次元に入るべきだ、という考えなのであろう。

***

以下、各章ごとに内容を簡単にまとめておく。

1 原子力発電――トータル・システムとしての視点

原子力発電技術システムの安全問題を考えるうえで、部分や細部よりもまず、全体(トータリティ)の視点に立つべきである。

原発は、「原子力発電所」の建設や運転だけではなく、核燃料の生産や加工からはじまり、放射性廃棄物の処理や処分、使用済核燃料の輸送や再処理、廃炉といった一連の問題すべてをフォローしなければならない。

つまり、ウランやプルトニウムを用意できて、原子炉をつくり、運転するところまでが「実用化」されたといっても、そのあとの技術が実用に至っていないにもかかわらず、他方では「核燃料サイクル」という名前だけが一人歩きするようなやり方を問題視しているのである。


2 原子力発電所の安全装置――実証研究の立ち遅れ

環境安全問題にとって本質的に重要な、原子力発電施設の工学的安全性について論じている。

軽水型原発の仕組みの説明を行いつつ、
「絶対安全」「重大な事態にはけっして至らない」「これまでのインシデントはむしろ安全の証拠」といった詭弁とみなす。

とりわけ、注意を促しているのは、「冷却材喪失事故」である。

まとめでは、次のように書いている。

「異常は小事のうちにその芽をつみとることが肝要であるが、そのためにはすでにふれたように、情報の全面的公開をもとに科学者・技術者の知識と能力を結集して事態を総括し、実証科学性に立脚した安全性の基本的視点をしっかりと踏まえて、地域住民や市民から見てもかげりのないものにする努力が、つねに払われなければならない。」(44ページ)


3 初期の放射線利用と障害の歴史

X線発見から80年の月日が流れたが、第二次世界大戦前夜までの利用と障害の歴史を跡づけている。

たとえば、X線障害については、X線の発見からわずか1カ月後の時点ですでに認識され、鉛での遮蔽も行われていたという。

また、翌年には発明王エジソンも興味を示し、X線装置の実験を行うが、目の痛みを訴える。

しかし、彼の助手は高度の障害にかかり1904年に死亡。エジソンも途中でX線を扱うことを中止する。

医療処置への応用も1896年のうちに、リューマチや癌などに試みられ、さらに、診断への利用も活発になるが、同時に、皮膚障害などの障害も発生する。

線量に対する制限値を最初に提案したのは、ロリンズで、1902年のことである。

・・・ほか、許容線量の変遷など、かなり細かく系譜がたどられているが、ここでは省略。


4 戦前の日本における放射線利用の歴史

1896年のX線発見のニュース記事からはじまり、1930年代の工業用ラジウムによる被害に至るまでの放射線利用の歩みを概観している。

このなかで、1911年に、安原豊也が「ロエントゲン放線の危害」と題して放射線照射の危険性と対策について指摘したのが、国内における障害に関する最初ではないかと記されている。

また、後藤五郎が、1955年に「放射線による職業性慢性障害」(
南江堂京都支店)を刊行。


5 軽水型原発開発の歴史

マンハッタン計画など、特に日米間の経済的構図との関連において論じている。


6 許容線量とは何か

環境論争において常に許容線量は重要テーマとなっており、ゴフマン=タンブリンの主張が登場したことによって、あらためて、どう定義づけるかが議論された。

書き方が絶妙である。

「いくつかの批判の観点が表明されたが、いずれも二人の科学者の問題提起が明らかに誤りだといって決着がつけられるほどのものではなかった。それは、基本的には、われわれが手にしえている知見が不完全なためであるが、ゴフマンらの採用している仮説を、全面的に受け入れることはできないとしながらも、大部分の科学者は、この問題提起の含む内容の重要性を認めないわけでにはいかなかった。」(127ページ)

真偽だけで、簡単に片付くことではなく、まず、この問題提起を受けて、そのうえで、いかにして真偽が問えるのかを検証することが求められていたということである。

また、もう一点。

「しばしば、放射線防護の分野での科学者たちは事を論じるにきわめて慎重で、思慮深い。」(129ページ)

つまり、安全か危険かといった単純な結論など、まだ出ていないなかで、大胆に「低線量でも危険」というようなことを主張する人間がいる場合、非常に抵抗感があるというのである。

「一種のとまどいを禁じえなかった」(132ページ)

だが、安斎はこうしたゴフマンらの見解にも、リスクとベネフィットのバランスという見地からとらえられていると、指摘している。

つまり、「許容線量」の考えには、常に、「安全」な数値という純粋なものがかかわっているのではなく、ベネフィットを享受するにあたっての「がまん量」という位置づけになるほかないのである。

安斎はここで、許容線量に対する自らの考えを述べている。

「許容線量とは、問題としている放射線利用技術によって他に代替しがたいベネフィットがもたらされるという大前提の下で、放射線被曝=ゼロが最も望ましい側と、低く制限されればされるほど、社会的・経済的に不利益を被る側との、絶えざる緊張関係(対立関係)を背景として、被曝ゼロを指向して絶えず点検され、改訂されるべきもの」(140ページ)

つまり、電力企業が展開している論理と、住民の側の論理とは、最初から異なり、相いれないのであり、いずれかを選択するのではなく、その「あいだ」のどこかで数値が決まる、ということである。

そして、常に放射線にかかわる人たちは、線量の低減化につとめるのが、本来の姿であるがゆえに、いきなり何の前提もなく「100ミリシーベルトでも安全」と言ってはならないのであり、「できるだけ低い線量が望ましいが、非常にであるため、それが守りきれないので、一時的なとりきめとして、100ミリシーベルトという値を選んでみた:というような説明があるべきだということである。

この章は、60ページ近くと、特段にボリュームがあった。


7 環境放射能の監視

1974年に起こった放射能データ捏造事件の内容を点検し、環境モニタリングに関連する概念や方法を概括している。

なお、ここから後半の章は、当時の模様を垣間見るうえで興味深いが、ここではこれ以上立ち入らないでおく。

8 温排水の問題点

9 非破壊検査労働の放射線安全――生産性の追求と労働者の安全

10 原子力船「むつ」と政治的海難――漂える原子力行政

注意! 本書の内容は、あくまでも「復刻」であって、さまざまな知見は、年を追うごとに変わりうるので、専門家による最新の見解は、別の本を参照すべきである。たとえば、以下の本を勧めたい。

 低線量放射線を超えて(宇野賀津子)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11935125976.html



原発と環境/かもがわ出版
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2014-10-15 22:43:00

農の再生と食の安全(小山良太他編)、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
農の再生と食の安全 原発事故と福島の2年
小山良太、小松知未編著
石井秀樹、高瀬雅男、朴相賢、平井有太、高橋祥世
新日本出版社
2013年9月

ひとこと感想
原発事故によって引き起こされた風評被害や除染、農産物への放射性物質の移行抑制などについて、福島県だけでなく国としてしっかりと立ち向かうべきだという考えのもとで大局的に書かれ、政策提言がなされている。なお、本書における「福島」とは特に
「福島市」を指す。

本書は「初出」が異様に複雑であるので、ここでは掲出しない。分かるのは、この共著者たちが、さまざまなかたちで協力しあって論文などを執筆しているということである。

***

目次
序章 原発事故から3年目の福島で
第1章 食と農の再生に向けた現状と課題――「風評」問題と検査体制
第2章 食と農の対策の国際比較――チェルノブイリとフクシマ
第3章 原発事故後の廃作と産地転換――葉たばこ廃作問題と地域の対応
第4章 農業再生に向けた放射能対策とその社会的応用――放射性物質分布マップ・試験栽培・全袋検査の統合
第5章 農産物直売所が受けた影響と地産地消――福島県北地域の実態調査から
第6章 果樹経営の再建と産地再生――福島県の自主検査と消費者意識

こうして目次をみると、先日読んだ、農大と相馬市による連携と重なる部分、異なる部分があることが分かる。

 東日本大震災からの真の農業復興への挑戦(農大・相馬市)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11935277930.html

特に共通しているのは、とりあげた「トピック」のいくつかである。

・風評被害
・放射性物質分布
・試験栽培
・全袋検査

他方、本書で特にとりあげられているのは、以下の事柄である。

・チェルノブイリとの対比
・葉たばこ
・農産物直売所
・果樹園経営
・共同組合
・ネットワーク構築

農大×相馬市は、地域が限定されていることもあるのかもしれないが、全体的に、非常に具体的で、そこにかかわっている人たちの「顔」が見えた。

これは、農大が連携しているということの意味が大きいと思う。

すなわち、直接、生育させる植物と、そのための環境(土壌その他)とにアプローチしているため、放射性物質やそれに伴う風評被害をどう消し去ってゆくか、という向き合い方がなされているからであろう。

一方本書は、やや一歩引いたところがある。

一人ひとりの農林業に携わる人たち、ある地域の田畑、林、という次元とは少し異なり、「福島県」の問題として概括的に論じられている。

とりわけ「協同組合」がそうであるように、生産する現場よりも、農業経営や販売の方に焦点を当てていると言える。

また、農大×相馬市が、これまで進めてきた共同プロジェクトの中身をていねいに描こうとしているのに対して、本書は、そうしたプロセスよりも、将来への提言に重きを置いている。

農大×相馬市は、読者として、同じように農林業を営む人たちが想定されているすれば、本書は、農業協同組合など、「団体」が対象のように読める。

さらに言えば本書は、「政府」へに批判、提言をし、福島県全体をよくしたい、変えたい、という意欲が強いが、農大×相馬市は、自分たちでやれることをやっているという、スケールの違いもありそうである。

「国としての放射ん上汚染体側の方向性を提言する。」(22ページ)

おそらく、先に、本書を読み、その一地域の事例として農大×相馬市を読むのが、良い読み方ではないだろうか。

または、
農大×相馬市を読んだあとに、福島県全体としてのとらえ方を本書から学び、両者を対比させる読み方(つまり、今回の私の読み方)をすることも、可能であろう。

***

たとえば、本書には、福島県全域の農業特性と被害の特徴がまとめられている。

大きく分けると、三つに区分される。

1)浜通り
ここは、作付制限地区が多い。他の特性としては、飯舘村の畜産、いわき市の園芸、果樹(梨)、水田が地図に書かれている。ただし、この地図では相馬市には特に何の記載もない。

2)中通り
一部出荷制限地区が多い。阿武隈高地近隣には水田と園芸(キュウリ)と書かれ、郡山には水田、二本松市には園芸、水田、福島市には果樹(桃)、水田と科kれている。

3)会津
ここは風評被害地区とまとめられている。北部では水田、園芸(アスパラ)、南部では、水田、園芸(トマト)と書かれている。

このように、福島県全体の農業のあり方が一望できるというメリットがある一方で、地域別でみたときには、相馬市のように、何の記載もないところも生まれてしまう。

***

風評問題について、本書では「法令整備」「中央政府と地方自治体の機能分担、検査体制の体系化」(22ページ)などが検討されている。

まず、風評を三つに分けている(28ページ)。

1)特定の場所(地域)に対するもの
2)そこに居住する人に対するもの
3)そこで生産される物財に対するもの

本書では、このうちの3)、特に食品、農産物に焦点をあてている。

農産物に対する一般的な「風評被害」は、次のように定義づけられているとする。

「農産物が実際には安全であるにもかかわらず、消費者が安全ではないという噂を信じて不買行動をとることによって、被災地の生産者(農家)に不利益をもたらすこと」(28ページ)

だが、原発事故による放射能汚染が原因となる今回のような場合には、このような定義を安易に適用することはできない、と考えられている。

まず、公式に発表された「安全」かどうかにかかわる数値さえ、疑わしいと考えられたため、「実際に安全である」かどうか、誰も分からなくなってしまったことが挙げられる。

これほど影響が長引いているのは、こうした「影響評価を行う前提としての基準や根拠が明確でない」(30ページ)からである。

とりわけ、一部だけを検査するサンプル調査が行われ、全数調査ではなかったことから、個別の生産物への不安が高まったと、本書では考えられている。

そのために農産物購入の選択肢を狭められたために、「被害者」は、生産者(農家)のみならず、消費者も含まれる、と指摘されている。

対策の問題点として、リスクコミュニケーションを基本とした
「国」の対応の仕方が挙げられている。

つまり、「国」はきちんとした数値や検査の結果を提示しているのではなく、情緒的な情報を流している点に問題があると指摘されている。

1)サンプル検査に依拠している(米以外)
2)福島県内でも地産地消が受け入れられていない
3)どのような品目でも検査方法が同じ

こうした問題を解消するために、放射性物質の分布マップを作成し、移行率の確認をふまえた検査体制を構築すべきだ、とする。

では、実際の検査体制とはどういうものか。

福島県と他県とで基準がばらばらであったりすることが混乱や不安をもたらしているとして、本書では、「法令を整備し、国の一元管理の下で体系立てた検査体制を構築すべき」(36-37ページ)と主張する。

もちろん「国」にすべてやれ、というものではなく、自主検査、国や県の検査、それぞれの連携をはかるとともに、分担を明確にする、という提言である。

先日読んだ「東日本大震災からの真の農業復興への挑戦においては、次のように結論づけられていた。

「放射能汚染地域で生産される農産物に対する風評被害をく服するためには、放射能汚染に 対する正しい情報の提供(あいまいさの払拭)、できる限り全量検査に近い検査方法の採用と、通常の放射能検出器では検出されないという条件を設定するこ と、さらには被災地復興応援イベントの開催による支援者の確保が有効であり、こうした取り組みを継続的に実施することが大切である。」(278ページ)」

つまり、農大×相馬市は、地元の人たちの克服課題としてとらえ自らが何ができるのかを考えている(=イベントの開催など)のに対して、本書では、国や政府がすべきことを明らかにしようとしている、といった「視点」の違いがよくわかる。

そして、共通するのは、やはり、あいまいではなく、
(共通基準による)正確な情報を提供することであり、サンプル検査ではなくできるだけ全量検査に近いやり方をすること、さらにまた、できるだけ「不検出」に近い数値を基準にした出荷を行うこと、ということが、「風評」を消す方向性だということになる。

だが、現実的にみて、2014年10月の現在、こうした改善は行われてきたと言えるだろうか。

もちろん、今ではかなりお店に福島県産の野菜類がごく自然に置かれるようになってきた。

それは、決して「悪い」ことではない。

ただ一方で、風評被害を生んだ根本の問題は、かなりあいまいにされたままではないだろうか。

ある程度時間が経過し、風化させることで、確かに「風評」は風のごとく消えてゆくかもしれない。

しかし結局は十分に課題が解決していない現状は、今後も同様の問題が起こるのではないかという危惧をより高めているばかりである。

なお、こうした本書の傾向、すなわち、大局的にものをみて、国に提言をする、という姿勢は、風評被害対策にとどまらず、除染に関しても、農作物への放射性物質の移行メカニズムの解明、吸収抑制対策についても、国がもっとまとめるべきだ、というものになっている。

ここでは、以下の文献が参照されている。

関谷直也「風評被害」光文社新書、2011年5月
山川充夫「原子力災害と福島の苦悩」「学術の動向」18(2)、日本学術協力財団、2013年2月

***

なお、第2章なども、チェルノブイリ原発事故の影響を参照しつつも、福島県の現状と対比させている。

たとえば、森林が多く、かつ、元来移住を望んでいない福島の地において
除染が本当に現実的なのか、本当に効果があるのか、しっかしとした体制も議論もないままに、やみくもに行われていることを嘆いている。

田圃においては、低線量の区域であれば除染をしなくともカリウムその他の混入によって検出限界値以下の玄米が生産できるという方向性が見えてきており、除染一辺倒ではなく、多様な検討が他の農産物にも期待される。

本書では、JA新ふくしま(福島市、川俣町)におけるとりくみを具体例として紹介している。

「福島市内の水田や果樹園の農地一筆ごとの照射性物質の分布実態の把握を進めている」(113ページ)

JAだけでなく、地権者、生産者、消費者(ボランティア)がかかわることで、情報の透明性や連帯感を高めてもいる。

こうした手法はここが唯一だという。

また、林業や漁業については、農業と比べると、対応が消極的であり、まだまだ今後の課題が残っている。



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生々しい「3.11」当時の記憶――裸のフクシマ(たくき よしみつ)、を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
裸のフクシマ 原発30km県圏内で暮らす
たくき よしみつ
講談社
2011年10月

ひとこと感想
福井県川内村で暮らしていた作家による、3.11以後に体験したこと、考えたことをまとめたもので、「「現場」に暮らしていて、日常が非日常に変わっていった様子を見ているわけだから、外から取材に入って、いきなり「非日常」部分だけを見た人たちとは違う視点」(4ページ)で描かれている。きわめて濃厚な内容である。

***

たくき よしみつ(鐸木能光)は、1955年福島市生まれ。2004年の新潟県中越地震で自力で10数年かけて仕上げた川口町の家が全壊、
2004年以来川内村在住(村の中心部から5キロほど離れたところ)、川崎に仕事場がある。小説のみならず、IT関連書や狛犬美術論などさまざまな本を書いている。また、ギターミュージシャンでもある。

以下は、作者が暮らしていた川内村で何が起こったのか、という視点にたって、本書から抜き出してみる。

なお、タイトルの「裸のフクシマ」は、「土、水、空気の安全を奪われて裸にされた福島」(337ページ)といった意味合いで使われている。

***

登場人物
まさおさん 作者の近所に住むのは、70代の独居老人(仮名、以下同)
きよこさん 奥の家に住む、80代の独居老人。昨年夫を亡くしている。
ふさこさん 隣の家に住む、80近くの独居老人(震災当時は孫二人が帰省中)
ジョン ふさこさんの家の犬(雄、雑種)だが、たくきが散歩に連れて行っている
妻 きよこさんの様子を毎日のように伺う
親父 横浜在住
まもるさん 獏工房(アート木工家具の工房の代表、池田守)
ふみこさん きよこさんの娘さん、当時は仕事で富岡町にいた
マサイさん 獏原人村のリーダー、妻ボケさんとともに暮らしている
大塚愛ちゃん 獏原人村で暮らす大工。夫と子ども二人
大塚しょうかん氏 大塚愛ちゃんの夫、一級建築士
小塚さん 夫妻 川内村高田島(上川内前谷地)在住、自然農を営む
ニシマキさん カップル 
川内村高田島(上川内前谷地)在住
シゲルさん 商工会会長、小松屋旅館経営、事故後の村の情報をMiXiで発信
村長 遠藤雄幸氏
シロ 野良猫
しんちゃん 野良猫
けんちゃん 隣に住む、村の総務課職員
つるこさん まさおさんの姉
しまおさん たくきの家の近くに田圃をもっている
よしおさん 近所の人。双葉広域消防に勤務
よしたかさん 県や村が規制するなか田圃に水を入れたプロ農家(秋元さん)
にしまきさん トライアルバイク専門誌「自然山通信」編集長
秋山豊寛さん 宇宙飛行士、田村市在住、椎茸農家
ゆきおさん(仮名) 50代、なんでもできる人
ほか

***

2011年3月11日、たくきは、ジョンと散歩しているところで地震に遭遇した。

幸い、川内村は内陸部であり、津波の心配はなかった。阿武隈地方は岩盤が硬く、地震の被害もまわりとくらべると、被害は小さかった。

また、電気も通っていたし、水(地下水や流水を使っていた)も野菜も米もあるので、緊急を要することはないと安心して、その日はふつうに寝入ったという。

翌日には、原発への不安が高まるが、ネットが不通になり、テレビで情報を知ろうとするが、地元のテレビでは、原発の解説(中央局スタジオ)の途中でも地元の放送局に変わっていたことに、たくきは疑念を抱く。

水素爆発が起こる(今だからこうして冷静に書ける)。妻とともに避難の用意をするが、どこかでまた数日で戻ってこれるだろうという気持ちもあったようだ。

たくきには、川崎市内に仕事場があり、目標はそこであるが、まず、
白河町にある知人のお寺(神宮寺)に向かう。

途中、小野町のコンビニで買い物、ケータイがつながる。

一泊した朝、高速は使えないし、6号線は込んでいるので、国道118号線と294号線を通って、渋滞に遭わずに、関東に向かう。

川崎でも、コンビニにはコメとカップラーメンがない。GSはどこも混雑していた。

3月14日は、ネットやテレビで情報収集していた。

私は知らなかったのだが、Google Earthj特別版が、1Fの津波前と津波後の写真を公開しており、海側にあった施設がことごとくなくなっていることを伝えている。

***

一方、川内村では、3月11日から12日にかけて、富岡町からの3,000人の避難民を受け入れている。

つまり村の人口と同じくらいの数の人たちが避難してきたのである。

村は、学校の体育館や福利施設「かわうちの湯」などを開放した。

当時、川内の湯の近くにあったコンビニ「モンペリ」(現在はファミリーマート)の飲食物はすべてなくなったため、一家は三春町まで避難した。

大塚愛ちゃん一家は、3月13日には新潟回りで実家のある岡山へ避難。

マサイさん夫妻は、生計をたてるのに鶏400羽を飼っていたこともあり、少し遅れてから村から避難(妻の実家のある茨城県へ)。

マモルさん夫妻も電源喪失のニュースが入った後、ただちに避難。小塚さん夫妻も避難。

一方、川内村へは、各地から来た消防の前線基地となっており、その後、原発敷地に向かった後、戻ってくると現場の状況が村内にも伝わるようになった。

その後深刻な事態を迎えるなか、川内村は屋内退避という指示が出る。

このため、移動をあきらめそのままとどまる人たちが現れ、しかもガソリンも切れた。救援物資も医者もガソリンも、この圏内に入ってこなくなったのである。

なお、川内村は、大半が30キロ圏内、一部東側が20キロ圏内である。

富岡町からの避難者を受け入れているにも外部からの物資も援助もなく、屋内退避をする、という過酷な状況に追い込まれてゆく。

富岡町と川内村では、3月14日11時前に緊急災害対策会議を開く。

村長は「強制避難」を主張するが、現地対応担当の東電職員や保安院の官僚らが「20キロ圏外は安全」と主張し「自主避難」となった。

そして15日夜に村内放送により自主避難を呼びかける。このとき富岡町は態度を留保していた。

16日朝、自主避難が強制避難になる。富岡町も避難を決意。7時よりバスが出発、15時半に第一陣は郡山のビッグパレットふくしまに到着する。

*たくきがしまおさんから聞いた情報によれば、しまおさんをはじめ80人くらいは村に残った。

***

川内村から離れるが、興味深いエピソードがある。

3月15日の夜に文科省はモニタリングカーでとある場所の線量を計測した。

これが、浪江町方面だった。

原発から北西へ20キロ離れた場所を真っ先に計測したのは、こちら方面の線量が高いと推測していたからであろう。

にもかかわらず文科省がSPEEDIの情報を公開したのは、22日になってからだった。

しかも県にも13日にはFAXで届いていたのである。

***

線量計を持っていること、これが、原発のある社会で生きる人間にとって、必須である。

逆に、線量計を所持し、常に数値をチェックしていれば、パニックがかなり低減される。

たくきをはじめ、彼の仲間では所持率が高く、「マスメディア」報道よりも、その数値を頼りに原発の成り行きを見守っていたと言える。

***

3月26日、たくき夫妻は川内村へ、ガソリンと救援物資を届けるために向かう。

このときの線量は、全般的に高かったものの、川内村は、群を抜いて低かった。

家の中で1マイクロシーベルト/h、外で1-2マイクロシーベルト/h。

避難先の郡山の方が高かった。

5月の時点で、川内小学校のグラウンドでは0.3マイクロシーベルト/hだったのが、郡山の河内(こうず)小学校では2マイクロシーベルト/h前後もあった。

もちろん、場所によってはホットスポットもあるので、絶対安全とは言えないが、それでも「避難指示」が足かせになり、身動きができない。

また「賠償」問題もあるので、ここで自宅に戻ると、対象から外されるのではないかといった懸念まで現れる。

***

たくきはこうした「現場」の側から、それでも、そこで暮らす「権利」を認めるべきだ、という点を強調するとともに、行政その他の側は、少しでも危険を減らすよう最大限の努力をすべきだ、と考える。

また、住民には、単に「権利」があるだけではなく、最低限の「義務」があるのだ、とたくきは訴える。

「義務」とは、すなわち、「放射能なんて大丈夫だ」「ここにいたら殺される」といったような根拠も何もない「暴言」をあちこちで吐くこと、そして、何も語らないでいること、いずれも、「義務」を果たしていないと、たくきは考える。

***

たくきが自ら設定した「我慢量」は、室内で0.5マイクロシーベルト/h、屋外で1マイクロシーベルト。

***

4月下旬に川内村から数多くの犬が消えてしまう。

万が一のこともあり、ペットの犬たちは、鎖をはずされていたが、これはあくまでも緊急措置であって、多くの人は、村と避難場所を往復して、ご飯をあげていたり近くの人に見てもらったりしていた。ところが

「そんな犬たちの姿が「一部のペットレスキューボランティアたちには「飼い主に見捨てられて野犬化してしまった哀れな犬たち」と映った。」(253ページ)

あちこちのシェルターに川内村の犬たちも連れてゆかれ、たくきが散歩をしていたジョンもそのなかに含まれていた。

このあとの保護団体との電話でのやりとりは、とても心暖まるものであるが省略し、ともかく、「外部」からみると、「避難区域」で野放しになっている犬は、すでに保護の対象となるが、「現場」にはいろいろと事情があり、きちんと「現場」に入ってみないことには、分からないことがたくさんある、ということの一例であろう。

ちなみにジョンは、引受け手の人にかわいがられていたので、たくきも元飼い主も先方に譲ることになる。

***

2011年5月10日、川内村では一時帰宅の許可がおり、マスメディアが殺到する。

「悲劇を映し出した「いい絵」を撮ろうと、全国からテレビメディアが集結し、出発場所になった村の体育館周辺には各局の衛星中継車がズラリと並んだ。
」(233ページ)

このときすでに川内村の線量はきわめて低かったのだが、プレス車に乗りこんでいる報道陣は、みなタイベックスーツを着込み重装備。

しかも、4月21日までは自由に立ち入りはできたのであるから、わずか10日後の「ショー」だった。

「テレビで流れたのは、あらかじめテレビ局側が用意したドラマ、物語を忠実に再現してくれる人たちの映像がほとんどだった。」(240ページ)

***

2011年7月に川内村では住民アンケートが行われた。

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火事場泥棒の話は、あまりにも醜く、聞くのも嫌になる。

・特に20キロ圏内がひどかった
・ATMが壊され数億円の被害(富岡町、双葉長、大熊町)
・ケーズデンキ(富岡町)新店舗オープン前で商品がすべて盗まれた
・商店はどこも商品を盗まれた
・商店の次は金のありそうな家が狙われた
・川内村でもテレビが盗まれた

***

上記のような行為の大半は、組織的犯罪者集団によるものと思われるが、こうした行為を防ぐためにも、警戒区域指定がなされた、と言われているが、であれば、パトロールを強化すべきだったのではないか。

警戒区域指定がなされたことによって、住民は帰宅困難になり、また、ペットや家畜を放置することになる。

また、「区域」としての線引きがあいまいだった。

川内村の場合、はじめは下川内交差点に検問が置かれ、富岡への立ち入りが禁止された。

だが、この先に村で唯一の医療施設「ゆふね」があるため、村はオフサイトセンターに変更を依頼し、その結果、検問は「ゆふね」の向こう側になった。

さらにその先(富岡町寄り)には遠藤モーター商会(自動車修理)があるが、ここは20キロ圏内に入ってしまう。

この先には、割山峠に長いトンネルがあり、大鷹鳥屋山、鬼太郎山などによって川内村は海側と隔てられており、線量が下がっているようである。

それゆえ、このトンネル入り口(1Fより12キロ)が実質的に境界線となると、たくきは見ている。

また、「いわなの郷」という複合施設も20キロ圏内となっていたが、ここも村の要望で検問を下げてもらっている。

9月上旬に私がいわなの郷に赴いたときも、ちょうど線量計測をしていたので、数値を尋ねてみると、0.12マイクロシーベルトと、とても低かった。

つまり、これらのあたりが「警戒区域(20キロ圏内)であるが、川内村の大半は緊急時避難準備区域(30キロ圏内)なのである。

ちなみに、いわき市の一部も同心円で行けば
緊急時避難準備区域になるところがあるのだが、外してもらっている。他方田村市は一部圏外だったにもかかわらず、逆に、緊急時避難準備区域に編入するよう要請した。

いわき市は、風評被害を避けたかったし、田村市は補償金が同じ地区内で出る出ないといった不平等を避けたかったのである。

***

まさおさんはビッグパレットふくしまに2カ月以上避難していた。

「あのままいたら身も心もダメになる」(184ページ)と思ったという。

だが、仮設住宅にも行かず、集団避難所に居続けたいと思った人もいた。

三食出て、お金がまったくかからないからだ。さらに、集団避難所の方が後に賠償金などが多く出る、という根も葉もない噂がたったことも原因のようだ。

また、温泉旅館やレジャー施設に入った人たちも、なかなか出て行こうとしない。

また、見なし仮設住宅など避難者生活支援制度を巧みに利用して「避難太り」現象も生じていた。

しかも東電が8月に発表した補償金の基準では、結果的に長く避難していた人のほうが多くもらえることが分かった。

ここにも大きな矛盾がある。

たくきはいくつかの例を示す。

・動けない老齢の親のため
 (避難所生活は厳しいと判断しすぐ自宅に戻り、物資が届かないなかじっと耐えたしまおさん)
・家畜の世話をするため
・家業を守るため
・消防などの公務のため

つまり、自力で頑張ろうとした人たちが報われない。

***

地域における意識の違いを、たくきは、大雑把に分けてみている。

・原発で直接潤っていた浜通りの町
 大熊、双葉、富岡、楢葉

・原発雇用や交付金の恩恵にあずかっていた近隣の町村
 狛江町、広野町、川内村、田村市といった旧都路村エリア
 南相馬市の一部
 いわき市の小川町周辺、など

・原発に頼らずに自力で産業を育ててきた村
 飯舘、葛尾

なるほど、それぞれのスタンスが異なるのだから、その後の発言も異なるのだ、ということを理解する。

***

放射能汚染に対しては、正直言って私自身、最初の1年間はずっと気が動転していた。

いや、今でもおかしい。

少なくとも、3.11以前と今とでは、同じように生きられるわけがない。

だが、それ以上に、土地に根差した農業を生業にしていた人たちの苦悩は、その比ではないだろう。

「農業をはじめ、「食」に関係する仕事をしていた人たちにとって、放射能汚染は仕事を奪われるだけでなく、過去から未来にわたり、人生そのものを奪われることだった。」(193ページ)

ただ、私たちは、放射能検出が「ゼロ」にはならない、という事実をもう一度ふまえ、そのうえで、いろいろな可能性を探らなくてはならないはずだ。

冷静にみて、農薬による化学物質の汚染と、微量のセシウムとを比べれば、前者のほうが、健康に害がある可能性が高い。

人に押し付けたり、売ったりせずに、自分たちで食べるぶんには、かまわないのではないか、また、食べたいという人が納得のうえで食べたり、作りたい人が作ることまで、止める必要があるのか。

「福島の果物はおいしいですよ、黒潮と親潮がぶつかる太平洋で獲れた新鮮な魚が自慢ですよ、などと表向きのPRをするだけなら誰にでもできる。本当にそう思っているなら、そうした福島の宝を守り抜くにはどうするべきか、必死で考え、戦略を練り、危険を及ぼしそうなものとは命がけで闘わなければならない。」(197ページ)

少なくとも、川内村は、「フクシマ」における「農」の「再生」において、もっと支援できることがあったのではないか、とたくきは訴えている。

「汚染が軽度で済んだ川内村では、そうした議論を活性化させ、農に生きる人たちの再生の場としていくという「復興策」を打ち出してもよかったはずだ。…しかし、実際には逆の方向に向かってしまった。」(217ページ)

そのなかで、秋元さんのところでは村唯一、田に苗を植えた。

出荷するためではなく、作ってみて実際の汚染のありようを確かめ、次に生かすためだ。

できることなら、こうした取り組みを止めようとするのではなく、むしろお願いをして、補助金を拠出し、試みてもらうというものであろう。

***

「村の若者たちに軒並み覇気が感じられないことは、以前から気になっていた。老人たちが比較的元気なのに比べると、若い世代は最初から自分の人生を諦めているようなところがある。」(286ページ)

「若者たち」とは、直接会う機会がなかったので、この件に関する印象はないのだが、たくきのこの感想が正しいのだとすれば、それはとても残念なことである。

しかしなぜ、元気がないのか、もう少したくきには掘り下げてほしかった。

***

2011年6月、3.11の時点で小6だった女の子が「抗議文」を村会議員に渡した。

「あなたを私は絶対ゆるさない。すべてをうばったあなたを。原発なんて絶対に。」(288ページ)

これは「抗議文」の最後のところである。

***

「「除染」と言えば聞こえはいいが、放射性物質は消滅しないのだから、できることは「移動」か「拡散」しかない。」(303ページ)

***

川内村には37基の大型ウィンドタービンがあるが、結局、大事なときに役に立たなかった。

風力、太陽光は発電量が安定していないため、受電側もそれ相応の負荷がかかる。

それを理由に東北電力は買い取りを拒否し、東電は受け入れる。

ただし、風力発電もまた、制御モーターや焼き付けを防ぐクーラー、制御装置などが電気で動いているため、結局停電になると使用できない、という矛盾をかかえている。

7月下旬頃、風力も動き出すが、すでに電力も復旧し始めていた。

ただし、この裏では、また奇妙なことが起こっている。

「原発が全部止まっても、火力が復活した東電の発電量は、東北電力に分け与えられるほであったのだ。」(311ページ)

***

「裸のフクシマ」――たくきは、これが、単に原発事故によってのみ引き起こされるものではなく、それ以前から、そしてこうしている今も、同じようなことがくりかえされていると考えるのである。

そこには、さまざまな感情がこめられており、一言ではまとめにくいが、あまりにも絶望的な状態にあるなかで、むしろ「何もない」ということを訴え、「何かある」と無理に思わずに、また、思わせずに、「現実」から目をそらさず、できうることを一つひとつていねいにかかわりつつ、生きてゆこうとする意志を感じた。


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2014-10-13 22:20:00

なぜ原子力は、石油文明の補完物とならないのか――水土の経済学(室田武)を読む

テーマ:原発・原爆・放射線・3.11
読んだ本
水土の経済学 くらしを見つめる共生の思想
室田武
紀伊国屋書店
1982年8月

ひとこと感想
石油を不可欠とする工業文明を補完するどころか、むしろ窮地に追いやるものとして原発がとらえられている。室田は代案として、水土や共生を基盤としたエコロジーを主張する。原子力については、ここではまだ、原発事故等による低線量問題は顕在化しておらず、石油の浪費、廃棄物処理を中心に論じられている。


本書は1979-1981年に雑誌に書かれた論考を加筆したもの。また、栗本慎一郎が紀伊国屋書店に出版を勧めたとのこと。また、今村仁司とのやりとりが内容に反映されれいるという。1980年代を感じさせる顔ぶれである。

***

「第2章 工業的時間と農業的時間」ならびに「第3章 エネルギー多消費型社会とくらし」において、室田は原発についてふれている。

第2章の題名にあるとおり、室田は、「農業的時間」と「工業的時間」を区別し、以下の三点について、大きく異なっていると述べている。

1)石炭、石油の有限性
2)工業的時間の連続性(均質性)
3)工業的空間の準連続性(移動可能性)

だが、工業社会は、1973年のオイルショックによって、「限界」を認識するに至る。

このときの主張は、大きく二つに分かれた。

一方では、この「限界」をもって、「工業社会」とは異なる道筋を新たにつくってゆこうと考える立場であり、室田もこちらを支持している。

もう一方は、この「限界」よりも先に行こうとするもので、逆に「工業社会」を維持しようとする立場である。

この、後者に「原子力」はなくてはならない手段となった。

しかも、忘れてはならないのは、「原子力」と「石油」との意味あいの違いである。

石油の代替としての原子力、とは、まやかしである。

なぜならば、電力に利用される石油は、全体の1/4、多くても1/3程度にすぎないのであり、残りはさまざまな工業や車、バイクの動力源となっているからである(現在では、割合が少し変わり、電力と動力源がともに4割、工業用が2割程度である)。

原発もまた、石油をさまざまな側面で浪費する。

「原子力は石油代替エネルギーではなくて、石油浪費者に他ならないのであり、もし石油供給が断たれれば原子力炉用がまっさきにストップする。」(57-58ページ)

つまり本書で室田は、原発に対する問題を、石油の代替物と考えていた当時の風潮を批判する。

石油が石炭の代替物となっていたのとは、異なる、という大前提をたて、そのうえで、「工業社会」の「欲望」が、問題の根源であると明確化している。

「石油文明は、原子力開発という地獄道へ迷いこんでいる。だが、核廃棄物には捨て場がなく、この開発路線は早晩どこかで行き詰るか、破局に至るか、どちらかである。」(65-66ページ)

これは、私見であるが、人はなぜ、これほどまでに「自動車」を「欲望」するのか、戸惑うことがある。

私は車を保有していないどころか、免許さえないが、今や、車の免許をもっていない、というだけで驚かれてしまう。

そんなに多くの人が車をもったり、乗ったりする「必要」がどこにあるのか、本当に謎である。

もちろん、車が好きな人がいてもよいし、タクシーを含め公共交通機関は基本的にあってほしい。

だが、1世帯に何台も車があるというような話になると、何かが間違っているような気がしてならない。

それとも、この国の産業は、結局のところ、トヨタで成り立っているのであり、その見返りとして、みな車をもつことを使命としているのだろうか。

もちろん「車」だけを問題視したいわけではないが、室田の言う「工業文明」を成り立たせるうえで、車は不可欠であり、その車の動力源である「石油」が枯渇しそうだ、とか、輸入のリスクを回避するために、という理由で原子力開発を強調する人たちには、それでは、多くの車はどうするのか、と尋ねたくなる。

ようやくいくぶんかは、電気自動車もしくはハイブリッドカーが実用化されてきたが、それはほんのごく一部であり、高い、と言いながら、車は、あてもなく今日も道をさまよっている。

***

第3章で、最初にやり玉にあがっているのは、ジャガイモへの放射線照射である。

発芽を止めるためにコバルト60をあてる。

これは、敵地・適産の考え方、そして食べものの長距離輸送などと連なっていると室田は指摘する。

***

室田の目には、「国民所得の増大」「生産力の上昇」というものが、とても空虚にみえる。

何を求めているのか。

結局は、石油を浪費し、工業化社会の範疇で、「消費」を増やすことに夢中になっているだけではないのか。

もちろん、当初は、それが「幸福」や「福祉」などに結びついていたはずだ。

結局今生きる私たちは、マルクスが指摘したような、交換価値化された商品やサービスを生産し消費することを、この社会に生きるうえでの使命と考えねばならない。

一般的には、市場経済において流通させることが何より基本であり、価格がつけられ、交換され、そういう流れをつくることが、「善」である、と考えられている。

これは「価値」論の問題である。

「石油を投入することなしに潮干狩りや海水浴を楽しむことのできる海岸と、石油の大量消費により一方で海岸を汚染しておいて他方でつくられるプールと比べて、私たちの生活の豊かさを創造するのはどちらであろうか。」(77ページ)

いや、私ならもう少し、別の言い方で問いたくなる。

私たちの生活の豊かさを創造するためには、何が、必要なのか。

石油や電力に充ち溢れた社会が、豊かな国である、と思い込んでいる、その根拠は何か。

または、社会の美しさとは、何か。

室田は言う。

「日本は、亜熱帯から温帯を経て亜寒帯に至る地表水と地下水の豊富な島国であるため植物や魚類の成育に適し、本来、海の幸、山の幸に恵まれている。」(77-78ページ)

これまでの道のり、そして現状そのものを全否定するつもりはないが、ここで(室田は1970年代の時点で)見直しをはかってもよいのではないか、という視点が必要であるように思われる。

少なくとも、明治以上の保守と革新とは、端的に、資本主義社会を志向する側(=右)と、社会主義社会を志向する側(=左)を基本としていたが、これが、気づいてみたら、米国流の、共和党的/民主党的、といった資本主義内の二つの手法に転換されて現在に至っている。

しかし本当は、このいずれでもない、第三の道、いわゆる「緑の党」に代表される方向性が、「第三」ではなく、こうした、「共和党的/民主党的」と対抗軸を構成していなければならない。

それが、おそらく室田をはじめとした、当時、生まれつつあった「エコロジー」ムーブメントの根幹であっただろう。

「私たちは、このように破綻を運命づけられた「資源小国」論に基く成長経済ではなく、石油消費を今後徐々に縮小する一方で、各地域の水土を保全し、国内の地下資源を活用するエコロジー重視の経済を選択することもできる」(79ページ)

すなわち、室田がこの章で言いたいのは、原子力発電は、いや、再生可能エネルギーでさえ、結局は「エネルギー多消費社会」を支えようという前提で担ぎ出されているにすぎない、ということである。

本書が書かれた頃、確かに、こうした「緑の政治論」が活発であった。

だが一方で、こうした動きが、「反核」運動に収斂される一方で、吉本隆明の「「反核」異論」も登場し、そうした動きに「釘を刺した」ことで、政治的オルタナティブを主張する「運動」としての凝集力を失ってゆくと同時に、社会は「イケイケ」になり、そして、バブルが弾け、オウム事件や阪神淡路大震災、酒鬼薔薇事件などが起こり、この社会は、奈落の底に落ちて行ったように思われる。

ここからどうにか立て直そうと、政権交代なども起こるが、結局、「3.11」という未曽有の出来事を経てもなお、私たちには、未だに「出口」を見失っている感が強い。

***

話はまったく本書と関係ないが、最後に、私が勝手に吉本隆明問題と呼んでいるものに対する批判について、書いておきたい。

科学技術を筆頭に、近代主義は、人間のすることを制約してはならない、と考える。

吉本の場合、人類史的であり、言ってみれば、誰もそれをとめることはできない、と断言する。

つまり、原発を止めるとか、やめるとか、そういった考えは、人類史に対して反動であると非難するのである。

だが、私の考えでは、そうした、とめられないものをとめてこそ、人間性が試されている、とみなす。

吉本は、人間がサルに退化するというが、私は逆で、むしろそうした吉本の主張がサルへの退化を促しているのであって、とめてみる努力こそが、人間が人間であることの可能性であり、人間の「深化」の方向である、と私は理解しているのである。

室田がここで指摘していることも、こうした「深化」を目指すものであるだろう。



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