そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ

いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。

核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

 前史

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【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。
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観た芝居

暗闇演劇 ハーフブラックシアター The Light of Darkness

大川興業

(大川豊、寺田体育の日、鉄板■魔太郎、Johnny、牛越秀人、俺はゴミじゃない、小椋あずき)

ザ・スズナリ(下北沢)

 

2015年の公演に対する感想はこちら↓

大川興業の暗闇演劇 The Light of Darkness ハーフブラックシアター
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12083126523.html

 

***

 

本作の大枠の内容のことについては、昨年、当ブログに書いた(↑)ものを参照していただくとして、今年の舞台はどうだったのか、に特化して以下、記してみたい。

 

まず、阿曽山大噴火がおらず、その代わりに総裁が女性言葉で、女教師を演じていた。あの役はなんとなく阿蘇山にお似合いの感じがあったので、最初は少し違和感をもったが、次第に、総裁独特の間のとり方(ぐわし、など)に引き込まれていった。
 

客演の方が、小椋あずきさんという、劇団そとばこまち(辰巳琢朗や生瀬勝久などがいた)出身で、少女のような老婆のような、とても不思議な人だった。

 

前回の藤田記子さんもそうだが、この男臭い空間に入るということ自体が偉業であるように思われる。

 

小椋さんのせりふ回しは非常に感性が鋭く、言葉の意味というよりも、言葉の思いをストレートに観客に伝えるもので、隠された悲しさや抑えられた切なさが、見事に感じとることができた。

 

キャラになりきっているという意味では、校長先生役の俺はゴミじゃない、がダントツである。あのような奇怪なしゃべり方をする校長は、本当にいそうだ。

 

また、安定の鉄板■魔太郎のジャンプ力ならぬ落下力(3メートルくらい上から飛び降りる)に驚く。

 

今野慶一と牛越秀人の息のぴったりさ、回文読み、裸パフォーマンスも良かった。

 

 

***


ある人物のことを思い出した。

 

いや、思い出すことしかできないその人のことを、芝居を見て、思い出した。

 

もう、この世にはいない、彼のことを。

***

 

 

これまでに暗闇演劇を観て書いた記事は以下↓

大川興業の芝居を見る
http://ameblo.jp/ohjing/entry-10155622397.html

 


暗闇演劇、大川興業、を体験する
http://ameblo.jp/ohjing/entry-10679693249.html

大川興業、Lock'n' Roll、(暗闇演劇)と「声と現象」
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11049434059.html

 


大川興業、暗闇演劇「Show The Black」を観る
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11637142328.html

 

 

 

 

 

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読んだ本

哲学者内山節の世界
『かがり火』編集委員会
新評論
2014.08

 

ひとこと感想

哲学を学びながら農村(群馬県上野村)での暮らしを実践してきた内山のこれまでの生き方と考え、主要著作などがよくわかる本。いかに多くの人に愛され、尊敬されているのかがよくわかった。

 

キーワードは3つ。

 

1)労働

2)関係

3)共同体

 

「関係」とは「概念を基礎とした人間存在」のこと。「共同体」は「ローカリズム」のこと。

 

「上野村」という「現場」から考えているところに他の哲学者とは異なる特徴があるとする。

 

彼の考えについては、別の記事で書いているので、そちらを参照:

 

市場経済を組み替える 人間選書 内山節 編著 農山漁村文化協会 1999.07
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12178742023.html

 

***

 

目次      
第1章 「自著を語る」
内山節

 

第2章 ロングインタビュー・よりよく生きるために
歌野敬インタビュアー 内山節述
 

第3章 内山節対談

成長神話に惑わされない「里山資本主義」の暮らしかた 藻谷浩介、内山節

本当の偉人とは雇用を創る人のことである 塚越寛、内山節述
山村の暮らしに自信と誇りを取り戻した「東北農家の2月セミナー」 栗田和則、内山節述
小さな村が生き残るには総合力を高めるしかない 神田強平、内山節述
温泉は自然と人間の力強いつながりを取り戻すところ 鈴木義二、内山節述
本物の家具に囲まれて暮らせば人生が豊かになる 佐藤岳利、内山節述

 

第4章 エッセイ・私の好きな一冊
自然・労働・共同社会の理論 宇根豊
時間についての十二章 小栗康平
『自然と労働』「稼ぎ」と「仕事」の違いによって地域の情景が変わる 速水亨
共同体の基礎理論 青山彰久
『自然と労働』内山節さんの魅力 小山邦武
里の在拠 藤井浩
古典を読む 松本克夫
労働過程論ノート マルクス主義哲学の構築のために 増補新版労働過程論ノート労働主
体の構築のために 石橋浩治
「創造的である」ということ下地域の作法から 大黒宏
怯えの時代 神津多可思
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか 吉澤保幸
新・幸福論「近現代」の次に来るもの 中嶋初女
 

第5章 講演録「豊かな社会とローカリズム」
内山節

第6章 (三人委員会哲学塾―哲学塾が発足したころ;三人委員会哲学塾の十八年)
講演録 豊かな社会とローカリズム
三人委員会哲学塾 三人委員会哲学塾が発足したころ 榛村純一
三人委員会哲学塾の十八年 内山節、大熊孝、鬼頭秀一鼎談 ; 手塚伸司会

第7章 聞き書き・内山節年譜

鈴木江美留取材・構成


最初の書『労働過程論ノート』(1976年)から最新刊『新・幸福論』(2013 年)まで、主な作の刊行経緯を者自身が解説する『自を語る』。「仕事と稼ぎ」「作法」「関係性」「無事」「ローカリズム」などのキーワードを手掛かりに内山哲学の真髄に迫るロングインタビュー。哲学者が若き日を回想する「聞き書き・年譜」、対談、三人委員会哲学塾の歩みを振り返る鼎談、内山と親交のある各界の人たちによるエッセイ「私が好きな一冊」、講演録「豊かな社会とローカリズム」なども収録。

 

 

 

 

 

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読んだ本
権力のペンタゴン 機械の神話 第2部
ルイス・マンフォード
生田勉、木原武一訳
河出書房新社
1973.09

 

ひとこと感想

マンフォードの本の中では本書が最も刺激的だ。第一に、中世の地域ごとの技術文化を高く評価していること、第二に、メガマシンというシステムが古代ピラミッドにおいても、現代の原爆においても活用されていること、この二点を事細かに説明しているからである。

 

***

 

マンフォードは「機械の神話」という書物を、当初は1巻本で計画していた。本書はその「第二部」という位置づけがなされているとともに、「技術と文明」(1934年)からは、第4巻目という説明もある。

 

いずれにせよ本書は、彼の仕事の集大成的な意味をもつものであり、現代社会における「メガマシン」の説明が展開されており、非常に興味深かった。

 

彼の仕事は「技術(文明)史」というまとめ方が可能であるかもしれないが、これでは彼の独創性(自由さ、闊達さ)がうまく表現できない。

 

実際彼の仕事は専門分野の内部においてよりも外部において大きなインパクトを与えてきた。研究者のあいだではあまりその内容を真剣に検討したり継承しようとした形跡がみられない。

 

本書では15世紀頃から大きく動き出した近現代社会に圧倒的な影響力を及ぼした「科学技術」の萌芽からその行き着いた先(1970年)までを概観している。

 

その際に対比されるのは中世における技術の豊さである。

 

一般的に西洋史においては中世は「暗黒」の時代としてしばしばみなされるが、各地域の文化が育まれたのは中世であった。

 

むしろ中世においてそれぞれ生成した「生活技術(多技術)」が近代以前においてすでに各地で花開いていたのである。

 

「技術的改良とはもっぱら自動性をましつつあった動力駆動の機械のことであるとする19世紀の一般の習わしのために12世紀から18世紀のあいだ適切な容器の製作によって実際になされてきた多くの改良が低く評価されることになった」(199ページ)

 

つまりマンフォードもデカルトやF・ベーコンらによる思考的転換を技術史においても重要視しているが、同時に、現実的な大きな転換ポイントはもっと後の19世紀以降にみている。

 

これを一言でまとめるなら、「機械(化)」ということになる。機械化によって「単技術が多技術にとって代わった」(212ページ)のである。

 

ただしこれもなかなか単純ではなく、近代(初期)はむしろ手仕事機械がうまくバランスがとれていたというべきなのかもしれない。

 

ではこの変化をもたらした原因は何か。自然の征服こそ人間の最大の営みであるという幻想、を第一に挙げている。

 

より速く、より遠くへ、より大きく、よりたくさん、を求めるものである。

 

まとめて言えば、機械化に加えて大量生産様式という前提である。また「オートメーション」(自動化)でもある。

 

さて、ここで別の本というか、別の思想との対比をしてみたい。

 

吉本隆明の科学技術に対する絶対的な信頼である。これを彼の思想の固有性と強固性、持続的同一性とみなす人もいるが、私はこの点について、最大の疑問点を投げかけたい。

 

どうして人はこういした流れに逆らうことができない、という絶対的確信を吉本は抱くのだろうか。

 

これこそ、丸山眞男の近代的進歩主義と同じではないか。

 

それを「人間」や「歴史」「科学」の前提のもとに語ることにどれほどの揺るぎなさがあるというのだろうか。

 

私はこの点に大いに疑問を投げかけたい。

 

マンフォードは書いている。「このような技術的段階を受け入れるということが完全に不条理なこと(略)であるのを示すにはごくかんたんな方法がある。つまり、フォン・ノイマンのことばをその論理的極限までつきつめてみることである。もし人間に地球上のあらゆる生命を抹殺するだけの力があれば、人間はそうするであろう。合衆国政府とソヴエト・ロシア政府はすでに、人類を抹殺するに必要なだけの量の核・化学・生物兵器を保有していることをわれわれは知っている。このようなとき、もしも途方もない非人間的な技術の命令の屈服が「さからいようもなく」その最終段階まで行われるとしたら、人間の生存にはいったいどんな見込みがあるだろうか」(255ページ)

 

言うなればそれは「進歩」信仰である。これに対してマンフォードは「進化」とは「進歩」とは異なり、もっと全体性や有機性をもつものだ、とする。

 

この点が本質的な争点になるのは、とりわけ「核」をめぐる議論である。特に第9章「権力の核化」第10章「新しいメガマシン」第11章「巨大技術の荒野」で論じられている。

 

***

 

あらためて読んでみると、際立っているのは、射程の長さである。

 

マンフォードは原爆(ほか、原子エネルギーの利用)を「新しい普遍的な太陽神宗教」(328ページ)と呼ぶ。、

 

しかも古代エジプトのピラミッド造営との相似性を指摘し、いずれも「メガマシン」とみなしている。

 

もっと言えばマンフォードは単に「原爆」(や原子エネルギーの利用)だけを現代のメガマシンとは考えていない。

 

「メガマシンの現代的形態における復活の中心的出来事である核エネルギーの解放」(351ページ)を主導したのは、非常に「良心的」な物理学者だった。

 

「原子爆弾の創始者についていえば、少なくともその初期の段階で、自分だけの努力の恐るべき最終的結果を見通せなかったのは彼らの無知による」(352ページ)

 

マンフォードは原爆のみならなず「「人口密集地帯の非戦闘員にたいする徹底的な無差別爆撃」(353ページをヒトラーらが強制収容所で起こしたことと同様のものとみなしているのである。

 

一方でマンフォードはSF作品や、どちらかというと各業界から「アウト」している人を多く参照している。

 

H・G・ウェールズ、オーダス・ハクスレー、ジョージ・オーウェル、バックミンスター・フラー、ティヤール・ド・シャルダン、マーシャル・マクルーハン、アーサー・クラーク、ヘンリー・アダムズなど。

 

なお、「権力のペンタゴン」の「ペンタゴン」とは、

・Power

・Politics

・Productivity

・Profit

・Publicity

の複合体である。

 

この「権力複合体(体系)」が「メガマシン」である。それゆえメガマシンは単に見えている原爆やピラミッドを指すというよりもそれらを実現する、支えている「見えないシステム(場合によってはそれを支える宗教や信仰、信念)を意味するのである。

 

 

 

 

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読んだ本
風土の経済学 西欧モデルを超えて 増補新版
玉城哲
新評論
1984.07

 

著者は1928年生まれ。1983年死去。東京農業大学農学部農学科を卒業。1974年より専修大経済学部教授。風土、水をキーワードにした農業経済学。
 

***

 

「水」という非常に身近な「モノ」(英語の場合「stuff」とでも言えばよいのだろうか)はしかしながら、元来「聖性」の源泉であった。水はその後、「俗化」した。

 

日本においては、水田稲作と水の聖性は切っても切れない関係があった。また水をめぐる複雑な闘争は近世において「ムラ」の閉鎖性と近隣区域への敵対を生んだ。

 

「過剰に農業開発がすすみ、土地を水という基本的な資源があまりにも稀少化してしまった状況にかれた村むらでは、相互に対立しあう存在となったのである。」(10ページ)

 

これは、ウィットフォーゲルやテーケイらがマルクスより敷衍して描いたアジア的生産様式に基づいた農耕経済とは少し趣を異にしている。、ムラごとに「集団」の運命共同体の性格は強い一方で、必ずしも経済としては閉じておらず、重商主義的性格を帯びていたと、玉城はみなす。とりわけそれは西国において顕著だった。

 

「日本の水は、集団主義的なであるとともに排他的である人間をつくりだしたが、同時に合理主義的精神を養う条件としても作用した。」(13ページ)

 

また、日本列島において稲作とそれを可能にした水土は、焼き畑のような資源収奪性が強くなかった。山、川、水田は基本的に「保全」的なのである。

 

最初から「農業」と言えば何でも「環境保全」と思い込んでしまう私たちには、あらためて「農業」の多様性を再確認するものである。

 

加えて、「アジア灌漑農業」の特異性についても言及がある。

 

「土地の占取と同様に水の占取なしには、農業生産が行われない」(66ページ)のである。この「水の占取」については個々人はいかんともしがたく、避けがたく「国家」の支配を受け入れざるを得ない。おそらくアジア圏における官僚主義(ビューロクラシー)や、公共投資(事業)の重視といった慣習は、こうしたインフラの条件に大きく依拠しているに違いない。

 

「アジア的生産様式」について、たとえば吉本隆明が「アジア的」にこだわり「試行」に連載していた「心的現象論」で数回にわたって検証したことが思い起こされる。

 

私が理解したかぎりでは吉本はヘーゲルの歴史観をそのまま読みこみ、説明していたと記憶する。だが玉城はこの「灌漑農業」の実態と分析をを全面に押し出すことによって、これおを単なる「技術」とみなさず、発展段階の一つのステップともみなさず、「風土」がもたらした決定的条件(特殊性)と考える。

 

「水土」「水利」――水こそ、重要なのだ。

 

「共同体ともいえる集団的な水利権によって媒介される水田の私的所有は、それ自体純粋な私有財産であるとみえながら同時に、集団の所有もあるという性格をかくしていた」(128ページ)

 

柳田國男もまたこうした水利に深い関心を寄せていたようで、「農業用水に就いて」と「農村生活と水」という論考が残されている。

 

 

目次

水と日本人

玉城理論に学ぶ 増補版への解説にかえて (中村尚司)

I 灌漑農業の経済理論

 1 アジア灌漑農業の風土と経済進歩

 2 比較灌漑農業論の方法

 3 日本灌漑農業の展開

 4 日本灌漑農業の課題

II 土地所有と国家 経済と風土

 1 資本と土地所有

 2 鳥資本の経済理論

 3 国家と土地投資

 4 土地所有と国家

 5 国土と国家

 

 

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聞いたライブ
パット・メセニー、クリスチャン・マクブライド

Pat Metheny & Christian McBride

東京国際フォーラム(Tokyo JAZZ Festival no15)

BlueNote Tokyo

2016.09

 

 

***

 

贅沢にも2日連続で2人のデュオライブを楽しんだ。ほぼ同じ曲を演奏したのだが、会場が異なると、これほどまでにも印象が違うのだな、という経験をした。

パットは今年は5月も日本に来ており、しかもこのときのメンバーにはかなり興味を抱いたが、いかんせん、そのときは予定がうまく合わずに泣く泣くスルーしたのだが、捨てる神あれば拾う神あり。パットは再び9月に降臨。幸い、この機会にじっくりと堪能することができた。


この2人、一緒に演奏しているアルバムは、以下の通り。

 

Day TripDay Trip
2,091円
Amazon

 

 

Te VouTe Vou
2,569円
Amazon

 

(BlueNoteのページ「原田和典のBloggin' BLUE NOTE TOKYO」のレポートではジョシュア・レッドマンの「Wish」も挙げられているが、これは今は亡きチャーリー・ヘイデンがベースである。

今回、おなじみの曲に限らず、いわゆるスタンダード系も多く演奏された。いずれも会心の演奏。ただ、あまりジャズ曲に詳しくない私は自前でセットリストをまとめることができなかった。幸い、BlueNote Tokyoがアップしていてくれているので、感謝しつつ、引用させていただく(カタカナはパットのアルバムに収められている曲)。

9月4日(日) 1セット目
1 ブライトサイズライフ (アルバム Bright Size Lifeより)
2  GENTLE RAIN(ルイス・ボンファの曲)
3 SOFT WINDS(ベニー・グッドマンの曲)
4 HERE'S THAT RAINY DAY(ジミー・ヴァン・ヒューゼンの曲)
5 クエスチョン&アンサー (アルバム Question & Answerより)
6 ジェームズ (アルバム Offrampより)
7 オールウェイズ&フォーエバー (アルバム Secret Storyより)
8 LITTLE SUNFLOWER (フレディ・ハーバードの曲)
アンコール
9 ホウェンナイトターンズイントゥーデイ (アルバム TRIO→LIVEより)

2セット目
1 ブライトサイズライフ (アルバム Bright Size Lifeより)
2 GENTLE RAIN(ルイス・ボンファの曲)

3 ホエンウィーワーフリー(アルバムDay Tripより)

4 ブルーイングリーン( アルバムThe Missouri Sky より)

5 ネバートウーファーラウェイ(アルバム Question & Answerより)

6 ターンアラウンド(アルバム80/81より)

7 オールウェイズ&フォーエバー (アルバム Secret Storyより)
8 ダブルグアテマラ(アルバム Gary Burton & Friends より)
アンコール
9 ホウェンナイトターンズイントゥーデイ (アルバム TRIO→LIVEより)

*青字は1セット目と同じ曲


 

正直言うと、東京国際フォーラムの音響は驚異的に良かった。ほとんどミストーンやノイズがなく、それでいて弾きまくるパットとクリスチャン。圧倒された。

 

ブルーノートはスペシャルメニューのビールがうまかった。

 

 

 

あと、もう一つ。アントニオ猪木がクリスチャンの友人ということで、いらしていた。もちろん観客は「だーっ」はしなかった。

 

 

この画像によってクリスチャンが猪木と同じくらいの背丈、パットがそれよりやや低いということが判明したのだった。ちなみに猪木は183センチメートルである。

 

 

 

 

 

 

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読んだ本
水をめぐる人と自然 日本と世界の現場から
有斐閣選書
嘉田由紀子 編
有斐閣
2003.05
 

ひとこと感想
世界的な「淡水」という資源は国内のみならず全世界において根本的なものであることはいうまでもない。本書では、水量・水質などの物質的側面、配分と管理のための政治経済・制度の問題、保全の実践につなげるための精神文化的問題という3つの視点から、その構造を考えるとともに、将来展望を探っている。環境社会学、生態学、政策、NPO、これらによる水の研究調査集。


嘉田は、1950年埼玉県生まれ。琵琶湖博物館の開館後、総括学芸員に。2000年より京都精
華大学教授、琵琶湖博物館研究顧問。水と文化研究会世話役、世界子ども水フォーラム実
行委員。そののち、滋賀県知事を2期務める。

***
 

大きなテーマのタイトルである。しかも日本のみならず世界の環境にまで手を染めている。もちろん「水」は世界、地球全体にかかわるものであるから、これは当然のことでもある。

 

しかし一体どういった切り口で「水」をとらえようとしているのか、それが最も重要になる。

 

「序章」では、もう少し端的に「水政策」と書かれている。森林や川、湖、こういった自然環境はいつのまにか土木工学に、そして、行政的に管理される対象となってきた。また他方では、水は工場をはじめ、さまざまな有害物質が流れる「公害」の期限の1つでもある。

 

「第1章」では「飲み水」が扱われている。水の循環からみると河川、湖、森林との関係が大事になってくる。また、技術としては「大規模」であることをやめることが解決の糸口とみなしている。今から見ると少しナイーブな意見である。

 

「第2章」は、河川の再生である。かつてのような治水、利水よりも近年では「人と川が触れ合うこと(5ページ)や環境への配慮が課題となっているが、はたして川の「再生」とはいったい何であろうか。もう一つはっきりと見えてこない。

 

「第3章」は矢作川のフィールドに基いて、川と人との関係の取り方を模索している。

 

「第4章」は琵琶湖、淀川の水環境の変遷を「公共性」をキーワードにとらえようとしている。これまでの政策は人を水から遠ざけることに主眼があったが、これを変えて「関係の再生」を目指すべきだとする。

 

「第5章」は霞ケ浦の水辺植物(アサザ)の再生を参照しつつ、湖、森、人のネットワークの重要性を追求する。

 

ここまで第1部は、国内であったが、第2部は「世界」に目を向ける。

 

「第6章」では地球水文学により、水資源の再考が行われている。特に「仮想水」「間接水」といいた概念はまさに「水」を世界(地球環境)全体の中でとらえたことによって得られるものである。

 

第7章では、水田稲作における水の消費量などから推計が行われている。「平均的日本人のコメ消費量は生活用水が1日300リットルであるとするとその7倍の水を間接的に消費していることになる」(8ページ)という。つまり1日に2,100リットルの水である。しかし6章では「1キログラムの白米を得るためには3,600リットルの水が必要」とある。この2つのデータは読者を混乱させる。対比もしくは一本化はできなかったのだろうか。

 

第8章では、石油が世界的には最も安全保障上大きな問題としてよく取り扱われるが、それ以上に水資源をめぐる紛争が起こっている。ここでの紛争が調整されたインダス川と紛争が継続しているガンジス川が事例となっている。

 

第9章では日本が戦前より進めてきた他国への水関連の技術援助の変遷を追いかけている。現在の課題は「汚水」の処理になるようだ。

 

第10章は中国を事例に森林の減少が水供給の減少につながることを指摘している。

 

 

 

 

 

目次      
日本の水、世界の水 (嘉田由紀子)
第1部 今、日本の水は
1 水循環から見た飲み水の安全性 (山田国廣)
2 河川環境をどう捉えるか (島谷幸宏)

3 流域の総合管理と住民組織 新しい矢作川方式へ (古川彰)
4 琵琶湖・淀川流域の水政策の100年と21世紀の課題 新たな「公共性」の創出をめぐって   (嘉田由紀子)

5 アサザプロジェクトの挑戦 湖が社会を変える  (飯島博)
 

第2部 今、世界の水は

6 地球をめぐる水と水をめぐる人々  (沖大幹)
7 農業の水、地域の水  (渡邊商裕)
8 世界の水紛争 (中山幹康)
9 日本の政府開発援助と世界の水問題 (村上雅博)

10 水の悩みも大国 中国 (高見邦男)

 

 

 

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読んだ本

地域再生の環境学
寺西俊一、西村幸夫 編

淡路剛久 監修
東京大学出版会

2006.05

寺西は1951年生まれ。京都大学経済学部卒。一橋大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学大学院経済学研究科教授。「新しい環境経済政策」「環境共同体としての日中韓」など。西村は1952年生まれ。東京大学工学部卒。同大学院修了。東京大学大学院工学系研究科教授。「都市保全計画」「環境保全と景観創造」など。

 

***

 

監修者の序文には「再生」には2つの意味合いがあり、一方には経済に負荷をかけるもの、もう一方には環境への配慮を優先しつつ都市や地域の再活性化の道を模索するものである。

 

本書は英文タイトル「Environmental Studies for Regional Sustainability」にあるように、後者の立場からのものである。

本書の成立には、日本生命財団(日本財団ではない)の研究助成がかかわっている。

 

また、日本全体の共通したキーワードとしては、環境の回復、人への期待、地域社会の再生、既存システムの転換、が含まれている。

 

***

 

淡路はまず、日本の環境政策の歴史的経緯について、1)公害規則、2)自然保護、3)アメニティ保全、そして4)地球環境保全と「拡大」してきたととらえ、継続的に言われてきた。

 

環境負荷の低減と循環型社会の形成に加えて、「環境再生」が今必要になっているととらえる。

 

つまり「遺産」としての「環境」のマイナス面をしっかりと長期にわたって保全していこうとする流れである。

 

続いて原田、除本らは水俣における「再生」について検証しているが、この場合、「環境」とは、単に公害の直接的原因とそれによる影響だけを指すのでない。

 

当然、第一に、自然(地球)環境全体への影響を見なければならないし、さらには、社会関係資本またはコミュニティ再生という次元が重要なものとして強調されている。このあたりは「フクシマ」において一通り体験したことであるので、過去のことを知らなくても今なら誰もがイメージできるものであろう。

***

 

第3章では磯崎が、自然環境と農村に焦点をあてて再生を考えている。

1)絶滅危惧種の野生復帰

2)生態系の回復

3)農村の再生

 

まず、農村とは里地、里山という。この場合、自然保全施策は以下が挙げられている。

 

1)生態系の重視

2)予防原則

3)分断された生態系機能の修復

4)生物多様性の維持と回復

5)汚染防止基準を生態系に配慮したものに変える

6)自然への認識、理解の向上

 

先進事例として、1)琵琶湖の内湖再生、2)地方自然体による里山の再生と保全、3)自然再生農業、が挙げられている。

 

とりわけ、里山は国土の4割を占めるため、「日本の代表的生態系」(77ページ)と言われている。

 

「里地里山は日本人にとって原生自然よりも安らぎを感じる空間」(同)であり、「日本の原風景である農村環境の根幹に位置しており、その荒廃は日本の自然、文化、社会の喪失を意味する」(同)のである。

 

2000年代には生物多様性条約の流れから里地里山の保全が地方自治体の大きなテーマになってきた。さらに言えばコモンズ論もこうした動向から生まれ出たものと言えるかもしれない。いずれにせよ、この問いの根底には、経済社会活動に地球の生態系、自然の循環を統合するという重要な課題が横たわっている。

 

しかし、原発の是非における経済的分析もそうであるが、こうした主張はいずれにしても、最初に理念ありきで、何をその範疇にするかによって当然、着地点も異なってくる。

 

ここでは「再導入」という事業の手法が紹介されており、大変興味深い。

 

5章(西村)は、都市環境をテーマにしている。

 

都市問題は今や人口の減少が必ず背景に置かれる。これが21世紀の都市問題論の典型となるだろう。

 

100年単位でいえば、20世紀は日本の総人口が約2倍に膨らんだ時代、となる。すると、21世紀はそえが再び半減する時代とみなされている。

 

この「急激な流入人口」に対応するために都市は「無計画」に拡大していった。

 

計画の基本となる行政は「縦割り」によって、また、「事業の推進」によって、成り行きまかせに税金を使ってきた。

 

見直しが叫ばれたのが21世紀に入ってからであり、課題は次のように整理されている。

 

コミュニティの復活と地方の分離、市民参加による「諒解達成型」プロセスの実施、などによる都市においては以下が求められている。

 

1)郊外化の阻止

2)商業地域の魅力再生

3)公共交通機関の強化

4)都市型住宅のプロトタイプ確立

5)文化情報の発信基地化

6)個性を生かした景観整備

7)地域コミュニティを重視した再生型のまちづくり

 

6章では、大都市臨海部の地域経済と環境について論じている。

 

20世紀の後半部においては臨海部は重化学工業の拠点として大きな役割をはたしてきたが、21世紀に入り、産業構造の変化が起こるなかで「再生」が検討されはじめている。

 

この場合、「再生」の意味が非常に厳しく問われる。すなわち、産業的な再生なのか、環境の再生なのか、である。

 

イリイチに言わせれば、インダストリアルとバナキュラーの拮抗である。

 

ただし、そうした定式化はあくまでも理論上の話であって、21世紀においてもBRICsの台頭などにより鉄鋼業などは息を吹き返してきている。

 

加えて、鉄鋼業もリサイクル技術を導入し、ある意味では環境産業のリーディングを担っている。

 

事例として、英国ブレア政権における再生計画、独ルール工業地帯のエムシャー川流域における地域再生計画、米サンフランシスコ湾域をとりあげている。

 

国内では、千葉、蘇我、京浜、四日市、堺、北九州がとりあげられている。

 

たとえば京浜では「臨海」が自然環境、社会環境、文化環境としてほとんど成立していない。

 

「海」というものに、ふつうの人はほとんどアクセスできないのである。

 

結局、生活よりも産業(新産業)への転換が第一に思慮されている。

 

いずれの場所においてもまず「遊休地化」が進んでいる。

 

また歴史的にみて、この土地の大半は「埋立」である。

 

こうした経済もあるせいだろうか、議論とプロジェクトは共通した傾向性をもつ。

 

「奇異に感じることは、本来大都市の海辺は明るい陽光輝く表玄関一等地であるはずなのに、まるで大都市圏のなかに「闇の空間」を造る計画になっていることである」(194ページ)

 

その結果、危険性の高い産業や、規模経済を求めて産廃物を全国から集めるということが起こる。

 

ほか、高層マンションものきなみ建造されているが、これも本来の「住環境」を形成しているようにはみえない。

 

7章(永井)においては、モータリゼーションが問われている。モータリゼーションは一方で自動車を、他方では道路交通を必要とする。こうしたモータリゼーションに対して永井はきっぱりと次のように宣言する。

 

「クルマに過度に依存する社会のあり方、生活のあり方を見直し、道路交通政策を脱クルマ依存に転換し、環境に配慮して、公共交通機関や徒歩、自転車とクルマを効率的に組み合わせる統合交通の実現に向けて、社会を再設計していかなくてはならない」(206ページ)

 

そのために、ここでは、いかに主眼があてられている。

1)クルマ依存社会の弊害を自動車交通の外部費用という形で計測

 

2)道路交通政策の転換の過程を日本の道路政策の変遷に絡めて展開

 

3)自動車郊外で深刻な健康被害を引き起こしているSPM(浮遊粒子物質)の対策としてディーゼル車に対する首都圏8都県市の対策を例にして検討

 

4)ロンドンにおける「混雑税」の導入について見当

 

5)サステイナブル・トランスポートに向けて行われるべき政策について検討

 

このうち、2)については、神奈川県川崎市、兵庫県尼崎市における道路の再構築、韓国ソウル市の清渓川の再生事業についてとりあげている。

 

第8章(大久保)は、地域開発に対して市民の合意や開発プロセスへの参加が求められているなか、実質的な効果が期待できる社会的な環境配慮システムの構築のために何が必要なのか模索している。

特に大規模な公共事業計画において市民参加と環境配慮がどの段階でどのように組み込まれているのかについて分析を行い、今後の方向性を提示する。

 

一言でまとめれば市民参加が「権利」として十分に保障されていないという課題があるとする。

 

補論2(山下)では、まず、2004年ころに四日市市の産廃物が問題になったことをとりあげる。

 

1)大矢知の産廃不法投棄

2)廃棄物のガス化溶融処理施設

3)フェロシルト問題

 

また三重県は2003年にRDF(ごみ固形燃料)発電所の爆発事故がある。三重県は北側知事のもと、環境先進県を標榜していたが、実際には失敗の連続であった。

 

他方、産廃税の導入により、数字的にはよい結果が出ているようであるが、実質的な削減には至っていないようである。

 

終章(山下)では、サステイナブルな社会を構築するにあたって、政策理念の確立とそれに基づいた施策の展開が鍵となっている、と主張する。

 

本章では、海外と国内の取り組みの事例をとりあげ、特に重要なのは国内の場合、西淀川地域の公害裁判であり、ここではきわめて本源的に「生活コミュニティ」総体の「再生」を目指す取り組みが行われた。

 

このプロセスはその後、川崎臨海部地域、水島地域、尼崎地域、名古屋南部通気と、裁判が続けられた。

 

他方で、行政の動きとしても、尼崎21世紀の森構想、千葉三番瀬の干潟再生事業、釧路湿原の自然再生事業、神奈川県丹沢大山自然再生事業、などが可能性として期待されている。

 

目指していることを3つに絞っている。

 

1)環境被害ストックの除去、修復、復元、再生

2)未来のために良質な資産を形成

3)エコロジー的に健全で接続可能な社会を目指す

 

それに対する課題は、以下の3点である。

 

1)推進主体

2)政策統合

3)費用負担と資金・財政措置


***

 

すべてを網羅することは時間的に難しかった。他にも多々重要な指摘がある。



目次      
序章 環境再生とサステイナブルな社会
淡路剛久
 

1章 水俣がかかえる再生の困難性 水俣病の歴史と現実から 

原田正純

 

2章 公害からの回復とコミュニティの再生

除本理史、尾崎寛直、礒野弥生

 

3章 自然および農村環境の再生 日本の原風景の保全に向けて
磯崎博司
 

4章 自然再生事業と再導入事業
羽山伸一
 

5章 都市環境の再生 都心の再興と都市計画の転換へ向けて
西村幸夫
 

補論1 都市再生は住宅再生から
塩崎賢明

6章 環境再生と地域経済の再生 ポスト工業化時代の大都市圏臨海部再生
中村剛治郎、佐無田光
 

7章 環境再生とサステイナブルな交通 道路交通政策の再構築に向けて
永井進
 

8章 環境再生と市民参加 実効的な環境配慮システムの構築をめざして
大久保規子
 

補論2 「環境先進県」が生んだ「負の遺産」 循環から環境再生への転換・拡張の必要性

山下英俊
 

終章 環境再生を通じた地域再生 これからの課題と展望

寺西俊一、除本理史
 


地域の多様な現実を見つめ直し、プロジェクトベースの環境負荷を高める施策ではなく、地域・都市の環境総体の回復・再生を目指す新たな提言。各自治体や市民が、自らの課題を考える際に参考となる重要な事例を紹介する。

 

 

 

 

 

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トークセッション

銀座という「舞台」の未来とは

宮本亜門、竹沢えり子

銀座ソニービル

2016.09.03


ソニービルは1966年に銀座にショールームとしてつくられた。それ以来50年、半世紀にわたって、さまざまな「仕掛け」を行ってきた。このソニービルが2018年から2022年すなわち、ちょうどオリンピックの前後にはビルがなくなっており、その土地は「広場」として利用されるという。これが「銀座ソニーパークプロジェクト」と名付けられたものである。こうした移行前にあたってソニービルでは、トークセッションを行っており、今回が第4回を数える。

 

宮本は世界に名だたる演出家で、銀座(新橋寄り)生まれ、生家が喫茶店(カフェ エリカ Erica 茶房 絵李花)であったこともあり、銀座には相当思い入れがある。竹沢は以前民間シンクタンクの社長を務め銀座研究や資生堂との共同研究プロジェクトを行ったのち、銀座まちづくり協議会、デザイン協議会事務局長として、ビルの高さや広告、その他のまちづくりにかかわるご意見番のような存在。

 

最初に宮本が自身の仕事をふりかえりつつ、銀座のこれまでの経緯やこれからの可能性を語った。詳細はここではふれないが、そのなかで、今回のトークセッションの主題とは関係ないが、「太平洋序曲」というミュージカルのエンディングに、原爆が落とされるシーンを入れた、と述べていたことが印象深かった。機会があれば是非とも見てみたい。

それはさておき、銀座という場所については、何よりも、「歩く」ということが協調された。すなわち、建物や施設、店、箱、そういったところに、交通機関を使ってやってきて、何かを購入したり、何かを体験して、帰る、そういうことではない経験の場所として、銀座が語られた。

 

「銀ぶら」という言葉が思い浮かぶ。銀座通りのように、大きな通りもそうだが、金春通りなど、小さな通りも趣がある。そこを「歩く」ということ。歩きつつ、お店に入ったり、ビルに入ったり、人を眺めたり、といった経験をする。

 

竹沢によれば、最近の銀座では、新たに建物や広告などを展開する際には、必ずチェックが入るという。しかもその基準は、最終的には「銀座らしい」かどうか、というもの。

 

もちろんビルの高さについては、数値的な基準を設けているが、それ以外は、銀座にふさわしいのかどうか、銀座らしさをつくりだしてゆけるかどうか、という考え方は、非常に興味深い。

 

都市条例、景観条例など、どうしても全国的に定められるものは、共通の尺度を数値化、具体化、普遍化しなければならなくなる。その結果は既に知られているとおり、どのまちも、どの都市も、みな似たり寄ったりのものにしかならないのである。

 

「銀座は唯一無二」と竹沢は言う。本当はどのまちも、どの都市も、みな「唯一無二」であるはずだ。現実はそうではないなかで、せめて銀座が「オンリーワン」であり続ける気概をもってくれていることは、他の場所においても手本となるはずである。

 

また、先ほど「歩く」ということを強調したが、これは単に、人の移動の仕方を言っているのではない。街並みの「にぎわいが連続する」ということのようだ。実際にそうした「デザイン」によって、東急プラザが生まれ変わり、これからは松坂屋がリニューアルする。
 

「歩く」ということは、単に移動するということではない。人と出会うということであり、銀座というまちは、人と人との出会いや、関係、そして信頼といったものを基盤においているのである。

 

宮本は、一つのイメージとして、多くのビルの屋上に「庭」をつくったらどうか、と提案していた。銀座には公園が少ない。

 

その代わりに、土日には歩行者天国がある。歩行者天国とは、ふだん車が占有している道路を「歩く」ことに使えるということであり、これが銀座にとっての「公園」の代替であり、公共性の生成する場所である。

 

多くの人が「歩き」、かかわり、相互に言葉やモノがやりとりされるその多様性が保証される空間、これこそが、銀座の過去の遺産であるとともに、これからの銀座を生み出してゆく基盤となりうるものだと思える。

 

これをさしあたり、「アーバン・コモンズ」と呼んでおきたい。

こうした銀座の取り組みを模範例としつつ、他の都市空間においても、それぞれに魅力ある「アーバン・コモンズ」を発掘し、次世代に向けて、豊かにしてゆけるものならば、と願うばかりである。

 

なお、ソニービルは2013年7月から9月まで3か月間、バイオマス発電を行ったようだ。発電電力量は47,000kWhだった。

 

こうしたエネルギー問題にも、ぜひ銀座は取り組んでほしい。

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

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読んだ論考

環境再生とサステイナブルな交通 道路交通政策の再構築に向けて

永井進

 

所収

地域再生の環境学 第7章
寺西俊一、西村幸夫 編
淡路剛久 監修
東京大学出版会

2006.05

 

1 

自動車は「大きな外部費用を社会に課している」(206ページ)。もちろん道路も同様である。、これは当然、宇沢弘文(1974)の仕事が先駆であるが、いまや内外において活発に議論されているテーマのひとつである。特に国内では兒山真也、岸本充生(2001)が、INF-IWWの手法を用い、国際比較に耐えられる外部費用の計測を行っている。

 

外部費用は以下の要因に分けられて計算されている。

1)大気汚染による健康被害

2)気候変動

3)騒音

4)交通事故の死亡による人的損失

5)道路などのインフラ費用の過小負担
6)混雑

 

これらをすべて合計すると、中位推計で32.45兆円(GDP比6.6%)となる。このうち特に大きな割合を占めているのは1)である(8.28兆円)。

 

ただしこの計測にはいくつかの課題がある。

 

1)大気汚染などの原因物質が限定されているので、もっと多様化しなければならない

2)大都市と地方との違い

3)時間節約便益の地域差

 

 

2 道路交通政策の課題

 

「わが国の道路政策で最も問題となるのは、自動車関連税を道路建設に使用するという道路特定の財源制度であり、道路建設五ヵ年計画に代表される公共事業を道路建設に偏って行ってきた道路建設政策である。」(214ページ)

 

「また、旧道路公団と旧財政投融資という独特の特殊法人と資金調達のメカニズム、料金プール制という有料道路の料金政策を有する自動車幹線網の建設政策である。」(214-215ページ)

 

こうした政策に転換を迫った契機は道路公害訴訟、具体的には、1992年の国道43号線訴訟(→1995年最高裁)であった。

 

これにより「環境容量」という考え方が導入されるなど、政策に影響を及ぼしたが、かといって実質が大きく変わったわけではなかった。

 

また、西淀川公害訴訟判決、川崎公害訴訟判決などでも、道路公害が厳しく問われた。

 

対策は確かに行われた。だが、道路建設そのものの独断性は変わることなく続けられる。しかも当の改善策として出された環状道路(ネットワーク道路)の増設が、むしろ交通需要(誘発交通需要)を生み出すという、イリイチの言う「逆生産性」が実際に生じていることが判明した(ロンドンのM25件節後の調査結果などにより)。

 

さらにここに21世紀には、人口減少化という景気が新たに加わるが、にもかかわらず相変わらず、1954年以降に続く得られている道路整備5カ年計画などによる道路建設はもっぱら自動車のために推進されている。

 

公共交通機関や自転車、歩行者のための道路などはあまり積極的ではないのである。

 

2003年にはようやく「サステイナブル」な視点が強調されているが、それでもまだ、本質的な転換は見ることができずにいる。

 

「道路建設に偏った財政構造はその骨格が揺らぐなかでも、転換する道筋が見えない」(222ページ)

 

今でも、30年い上前にはじめてみた首都高のいびつな光景が目に焼きついている。「高速」が常に渋滞している謎。幾重にも階層化された空間は「ネットワーク」といってもトラフィック環境の失敗によってむしろ「梗塞」道路、もしくは「拘束」道路となっているという失敗をもたらしたのではなかったのか。

 

くりかえすが、まず、今後の道路は地下化が避けられない。また公共交通への比重も上げるべきである。

 

ほか、自動車自体の改善としてはディーゼル車排ガスのうち、ディーゼル車から排出される汚染の寄与率はきわめて高く、Noxの70-80%、PMのほぼ100%がディーゼル車のものである」(230ページ)

 

2003年より東京都はディーゼル車に厳しい規制を導入し、この問題を国ではなく自治体から変えることの力を再認識させた。

 

ほか、首都圏、埼玉、神奈川、千葉の各県と、川崎、横浜、千葉、さいたま各市もこの規制を導入した。

 

この施策には補助金が活用された。

 

他方、ロンドンでは混雑税を2003年に導入し、大きな効果をもたらしている。
 

この背景には、徹底したパブリック・アクセプタンスの獲得があったようだ。

 

これまでは主に都市交通が中心だったが、今問題なのは、1)地方のクルマ依存度(これは「郊外」も含む)の上昇、2)高齢者のクルマ依存度の上昇、であろう。

 

最終的には「サステイナブル・トランスポート」の実現というのは現在のキーワードとなっている。

 

ここではとりあげられていないが、1970年代にイリイチは「エネルギーと公正」によって交通化の問題をいちはやくとりあげた。

 

自然環境のみならず社会、文化環境にダメージを与えている交通化に対して、「プラグを抜く」または、自転車の利用を提唱したイリイチの考えは、このサステイナブル・トランスポートの思想と根幹で共通しているといえるのではないだろうか。

 エネルギーと公正については、こちらを参照

 

 

 

 

 

 

 

 

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読んだ本

君臨する原発 どこまで犠牲を払うのか
中日新聞社会部 編
東京新聞
2014.03

 

ひとこと感想

原発をめぐる人々の証言集。「取材」というものも、放射線を前にすると、どうにも分が悪いようだ。 従来からの手法で本当に良いのだろうか。これまで2,000件以上の原爆・原発・放射線関連書を読んできたが、こうした内容を再生産している場合ではないのではないかと思ってしまう。これまでのディスクールとは異なる地平を拓く記者、ジャーナリストの出現こそ、いま求められている。

 

***

 

現場に赴き、直接関係者、当事者の話を聞く。そこから「真実」をあぶりだそうとすること。それが現在のジャーナリズム的実践の根幹にある。

 

そこから産出される言説は、確かに、生々しさという意味で、非常に「意味」がある。が、同時に、その「生々しさ」が、「真実」を曇らせる場合もあるが、そうした点には、あまりふれようとしない。

 

これは結局、雁屋哲の「鼻血」問題もそうであるが、実際に「見た」「行動した」「感じた」から、それが「真実」だ、ということを主張するだけのものである。

 

近代哲学の創始者であるデカルトは「真実」すなわち本当のこと、疑いようのない、正しいことをつかみとるためには、まず、「見た」ものを疑うところからはじめた。

 

確かに目の前でAという人物がBという人物を刺殺していたのなら、迷わずに「Aは殺人犯だ」と証言をすることだろう。

 

こうしたこと自体は否定されない。だが、その「動機」や「目的」さらにはそれまでの「経過」については、決して容易ではない。

 

単純に「殺人犯」が「悪」で「加害者」だと、言い切れない部分がありうる。

 

ましてや「原発」や「放射線」の影響は、不可視、不可触であると同時に、低線量による影響がまだ十分には科学的に解明されていない(もしくは、科学的にはっきりとしたことが言えないくらい影響との因果関係が説明しにくい)。

 

こうした厄介な対象をとりあげるとき、マスコミ、ジャーナリスト、記者、そうした肩書をもつ人たちは、とても悩ましい立場に追いやられる。

 

専門家の意見を聞き取り、それを「証拠」にすることもできない。

 

被害者や関係者の怒りや悲しみ、そうした感情に訴えるだけでは、事態の解明にはつながらない。

 

本書を読んでいても、きめの細かい取材であることはまったく敬意を払うほかないのだが、上記のような課題には、うまく答えていないように思えてならない。

 

言説の転換が求められているのではないだろうか。

 

新たなジャーナリズムの言説生産を期待したい。

 

***

 

目次      
第1部 ちむぐりさ
第2部 飯舘―女たちの哀歌
第3部 6号線物語
第4部 若狭の滴
第5部 サマータイム・ブルース
第6部 無常の風
第7部 自由へのゼロ
第8部 読者からの声


私たちは原発の僕なのか!原発社会の呪縛に苦しみ、戸惑う人々の物語。福島第一原発事
故後も原発ゼロに踏み出せない日本の悲劇とその問題点に迫る。東京新聞、中日新聞で大
反響の連載「犠牲の灯り」を単行本化。
 

 

 

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