そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ

いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。(タイトルは、ジャック・デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』より。)

核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

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【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。
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(画像は北海道にある風力発電機群。下記の記事内容とは直接関係ありません)

読んだ本
自然エネルギーの罠 化石燃料や原子力の代わりになり得るエネルギーとは何か
武田恵世
あっぷる出版
2015年3月

ひとこと感想

風力や太陽光の推進は、結局は原子力推進と同じような問題(巨大開発)を生み出すばかりで真の代替発電にはならない。今後は小規模の水力と地熱を主軸に据えるべきであり、それが整備するまでは火力(LNG)が望ましいと著者は考える。

なお、本書は著者と知人との「対話形式」で書かれている。

武田恵世(TAKEDA Keise, 1957-  )は、伊賀生まれの歯科医師。自然保護運動家。

***

「自然エネルギー」であれば何でも「良いもの」だという前提を見つめ直している稀有な本である。

著者は「自然エネルギー」を二つに分ける。

1)発電をコントロールできないもの
  風力、太陽光

2)発電をコントロール、微調整ができるもの
  地熱、水力、バイオマス

「脱原発」と「「風力・太陽光推進」はしばしば手をとりあうが、それは大きなまちがいだというのが著者の主張である。

風力や太陽光は何よりも、発電をコントロールできず自然任せであるため、電力供給(特に現行のシステム)には不向きである。

風のない時間、季節、陽が射さない時間、季節がある以上、これらだけで安定した電力供給を行おうというのは無理である。

確かにここのところ「増やす」という施策がとられているものの、今のやり方では電力系統に影響を与えない程度でしか利用されないような法律、仕組みになっている。

「闇雲に自然エネルギー推進ばかり言うと、原発の方がいいという理論に逆に利用されてしまう。」
(43ページ)

たとえば、2015年8月31日の東京新聞の記事によれば、「太陽光発電 今夏シェア6%台に ピーク時に原発12基分」だそうである。

これはあくまでも夏の電力需要ピーク時間帯における話であり、確かに年間でもっとも電力を使うときに太陽光発電がかなりの比率をもって利用された、ということは言えるのかもしれない。

だが、年間を通じて、特に、冬の暖房需要が高まるときに同じような比率をもつことはできないであろうし、単純に太陽光が6%分を賄うことができるようになったとは思わない方がよい。

少なくとも電事連や東電による電源構成比を見れば、「3.11」以前も以降も、水力以外、ほとんど比率として現れてきていない。

要するに、風力や太陽光は、とりあえず「定格出力」の数を稼げるために増設されてはいるものの、実用面でみれば、最初からあてにされていないという現実をみることになる。

そういうわけで「自然エネルギー」推進の以下の「専門家」たちに著者は懐疑的である。

・田中優
・飯田哲也
・山家公雄
・安田陽

では、著者は何に期待しているのか。

まず、水力であるが、「ダム式の水力発電所は原発並みに、いやそれ以上にとんでもないシステム」(163ページ)としているが、「ダムを造らない水路式の水力発電」はかなり有用であると考えている。

また、地熱(地中熱を含む)発電も、これまでの課題はクリアされており、今後採算性のとれる事業となる可能性が高いととらえている。

ただ、まだ安定した稼働をするには時間がかかるので、その間は、天然ガス主体のコンバインドサイクル発電(火力)を対案として示すのがベターであるとする。

二酸化炭素排出の問題が気になるかもしれないが、実際には太陽光も風力も関連事業やバックアップに火力が必要など、結局は削減が困難である。

一方、「電力会社が原発を使いたがる理由」として、国策として政府がいろいろとお膳立てをしているから電力会社としては「楽に儲かる」(196ページ)からだとしている。

しかしこれは「原発」だけの問題ではない。他の「巨大開発」すなわち「ダム」「「風力」「太陽光」いずれも同じ問題をもっている。これを武田は「巨大開発依存」もしくは「巨大開発の罠」と呼んでいる。

とりわけ電力に関しては、「発送電分離」が第一の課題である。

「電力の完全自由化をして、電力会社の地域独占と総括原価方式をやめるべきだ。そうすると、実はコストがかかりすぎる原発に手を出す企業はいなくなるともいわれている。」(220ページ)

***

このようにして、著者は、既存の、

原発推進 ←対抗→ 自然エネルギー

という考え方を一度やめて、以下の構図に書き換えている。

風力・太陽光 ←同方向← 
原発推進 ←対抗→ LNG+地熱、小水力 = 脱原発 

ただし、地熱も小水力も、風力や太陽光と同じように巨大開発システムにからめとられてしまうかもしれない。そうしないための方策は本当にあるのか、さらに具体的な道筋がほしいところである。

***

なお、細かい誤解はさておき、一項目として取り上げられているもののなかで、一つ、言っていることがよく分からないものがある。

ある人物が「癌になる確率が0.5%上がるということは、0.5%の人が確実に癌になって死ぬということ」(107ページ)と言っているのが、おかしい、としている。

まず上記の発言自体に誤りがある。これはおそらく100ミリシーベルトの被曝で癌死亡リスクが0.5%上昇する、というICRPの説明が言い換えられたものと想像できる。

だから本書でもこの発言をとりあげるならば、この点において誤解があることを史的しなければならない。

とことが著者は「発癌の確率」の話という前提をもったまま、そういった確率は、降水確率といっしょだから、ほとんど「死ぬ」ことはない、と理解しているようである。

さらには「癌というものは放射線だけで起こるものではなくて、色々な原因物質や免疫機構の不全などで起こる。」(108ページ)という当たり前のことを述べているが、この発言と同様に、「癌死亡リスク」を「癌発症リスク」と誤解しているふしがある。

自然エネルギーの罠: 化石燃料や原子力の代わりになり得るエネルギーとはなにか/あっぷる出版社
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第五福竜丸のエンジン(以下の記事とは関係ありません)


読んだ本

原発事故の理科・社会
安斎育郎
新日本出版社
2012年9月

ひとこと感想
放射線を「一度にどばっと」「少しずつだらだら」浴びるなど、全体にかみくだいた表現が多く、なるべく感覚的に理解しやすいように努力している。ただその分、「理科・社会」として私たちが学んでおくべき原発事故の内実にはまだ充分には接近できていないように思う。

***

物理が苦手とか、歴史は覚えるのが面倒とか、人それぞれ得手不得手や好悪はあるものだ。

だが、原発事故はそうは言っていられない。

あらゆる知恵を総動員しなければならない。

それゆえ、まず、本書のタイトルをみたとき、とてもセンスがあると思った。

***

理科としては、「放射線の健康に対する影響」についての内容を含んでいる。

・福島原発事故は、何をもたらしたのか?
・放射線の影響と防護の基本
 ・高線量の影響
 ・低線量の影響
 ・被曝とがん
・放射線リスクを減らす
 ・外部被曝対策――削る、洗う
  ・瓦礫問題
  ・シーベルト
 ・内部被曝対策
  ・食品の汚染
  ・ベクレル
 ・放射線、放射能への誤解
  ・被災地の復興

ここで主張されていることは、以下にまとめられる。

・同心円状に退避地域を決定してしまったため、そのなかに線量の低い地域が含まれたり、逆に
線量の高い地域、が外れている。特に後者は被曝の機会を増やしており心配である

・幸い、食材の放射能汚染については、「比較的」低い数値を維持しており、切迫した危険性はないと考えられるが、当面は厳しく計測などを行い続けるべきである

・高線量被曝による被害は今のところ発生していないが、事故はまだ収束していない。今後も死傷者が出ないように努力を続けなければならない

・低線量被曝による被害についても、今のところ甲状腺がんがはっきりと発生するという可能性は小さいが、継続してチェックを行うべきである

・低線量被爆について、ホルミシス効果を主張する専門家もいるが、マイナスの効果がないとはいえない。少なくとも被曝の影響を過小に評価してはならない

・除染は何年かかってもやり続けなければならない

・高レベル瓦礫は集中管理型が望ましい。低レベルについては、基本はあまり拡散させずに近隣にて処理するのが望ましいが諸事情で他地域に運ぶ場合は情報公開と合意のうえで行う必要がある

・市場に出回る食品の汚染はかなり低いレベルに抑えられており、国民の内部被曝についえては、深刻な事態とはなっていない

・調理段階での対策(洗う、煮る、茹でるなど)や放射性物質の体外への排出への配慮(便秘をしないとか)については「意味なしとしませんが、基本は食品の放射能汚染をなくすこと」(19ページ)

***

社会科としては、以下のような内容を含んでいる。

「原発は自己増殖したわけではありません。原発を増やそうとする政策があり、その政策を掲げた政権があり、その政権を生んだ主権者がいたということです。」(27ページ)

・原発は他の発電所なり核兵器産業と密接なつながりがあるとともに、放射能という厄介な危険がある。さらに、最終処理がまだ決まっていないまま運転させてきた

・二つの原爆投下の悲劇は米国の検閲によって隠された

・原発開発は米ソの核軍備競争に歩調をあわせて行われたため、安全性は二の次だった

・開発当初から「万が一」に炉心溶融などが起こった場合の損害が桁外れであることは知られていたが、国がサポートすることを約束した(原子力損害賠償法)

・中曽根康弘、正力松太郎、田中角栄については、省略

・原発推進は戦争時の国民総動員、翼賛体制と同じようなやり方。国民は主権者意識をもって考え行動すべき

(55ページには「エネルギー・アレルギー」のポスター画像がある)

***

最後に、簡単に「どうすべきか」について書かれている。

・事実に誠実に、批判に真摯に、自然の脅威に謙虚に、向き合う

***

ブックレットという制約があるなかで、「理科」「社会」を伝えるのは、とても困難である。

特に理科については、もっと基礎的なことを説明しないと、意味をなさないのではないだろうか。

確かに「原発事故」というくくりをつくっているので、一般住民としてもっとも大事な「被曝」と「除染」にテーマを絞っているのは納得がいくが、そうであっても、「放射線」がどのような仕組みで発生するのか、原子構造については最低限知っておく必要があるし、生体への影響を考える場合は細胞や遺伝子についての理解が必須である。

そうした知識を充分に持っている人もいるであろうけれども、本書が対象としている読者はそれを「持たない」人たちであろう(「持たない」というのは「忘れた」ということも当然含まれる)。

だから、核物理学や遺伝子工学ではなく「理科」としているのであろう。

欲を言えば、それなりのボリュームを使って「理科」「社会」を展開してほしかったところである。



原発事故の理科・社会/新日本出版社
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読んだ本
被爆者はなぜ待てないか 核/原子力の戦後史
奥田博子
慶應義塾大学出版会
2015年6月

ひとこと感想
国家が編制する歴史(=物語)ではなく、「民」の言葉(とその体験)に共感し、継承することにこそ、未来があるとする。被害者である「被爆者」(そして「被曝者」)と真摯に向き合うこと、その体験や記憶を大事にすることによって、核/原子力(つまり核兵器と原発)からの「文明的なシフトを提案する力がある」と著者は考えている。

***

タイトルは何を意味しているのか。

被「爆」者が待っているものが「何」か分からないまま「なぜ」と問われる。

しかも「終章」では「被爆者」が「ヒバクシャ」とカタカナになっている。

また、見出しには「何を待つのか」とも書かれている。

すなわち、このタイトルは「終章」に大きくかかわっているものであることが予想される。

そして、本来的に言えば副題
にある「核/原子力の戦後史」こそが、本書の主題なのであろう。

「核/原子力」は核兵器と原発を表わし、「戦後史」は要するに原爆投下を起点としそれ以降の展開をたどろうとすることである。

ただし、原発事故を次なる起点とも考えている節がある。

つまり本書は、歴史研究の書である。

核/原子力について、戦後に語られてきたことをたどる。

ただし著者は米国の大学院で学んできたこともあり、文献には欧文も多く含まれている。

これは、米国の文書なども対象となっていることであるが、方法論その他で参照した文献も含まれている(ベンヤミンやル・ゴフの英訳書などもある)。

***

10ページに「黒人はなぜ待てないのか」(
Why We Can't wait)――これは、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア(なぜか本書では「ジュニア」がない)について言及がある。

このタイトルをもとにして、本書のタイトル「被爆者はなぜ待てないか」があることが分かる。

「人権の尊重という普遍主義が根底にあることでは、日本の被爆者運動はアメリカの公民権運動と同じ当事者としての立ち位置にあると考えられる。」(10ページ)

「人権の尊重」という視点から被爆者をとらえているということが分かる。

キング牧師は次のように述べている。

「原子力が、無謀にも人類を絶滅に導く兵器にまで加速度的に発達した世界情勢のなかでは」「政治上の協定だけで、このような破壊的終局の危機から生命の安全を充分に保障することはできない。人民に広く受け入れられ、しかも突然の死滅にたいする諦めよりもさらに強い理念が存在しなくてはならない。」〈みすず書房の翻訳、197-198ページ)

「さらに強い理念」とは何であろうか。著者の思いは以下のように、まとめられている。

「加害(者)と被害(者)の問題はあまりにも複雑に入り組んでいるが、私たち一人ひとりには、そこに紡ぎだされる「真実」を一つひとつ解きほぐし、歴史的に堆積されたさまざまな関係性に向き合い、そして未来に向かって「全人類の普遍的価値」を追求する責任があると、私は考える。」(12ページ)

「全人類の普遍的価値」ということも、著者が大事にしていることである。

つまり、ナショナリズムならびにネーションの神話に対しては批判的である一方で、「人道主義」を「普遍」的価値としているのである。

(余談であるがプロローグには、マイケル・サンデルまでもが登場しているが、引用の仕方について、ちょっと納得できない。私にはサンデルが原発事故に対して、しっかりとした理解をしているとは思えない。いくら民主主義の原点として、「違いを認め合うこと」を強調しても、それと原発事故とは簡単にはつながらないはずである。)

さて、話を戻そう。

被爆者とは誰のことか。

「被爆者とは、広島と長崎の原爆を直接体験した人びとである。」(300ページ)

・日本人だけではない

という主張を行い、主に朝鮮半島で暮らしていた人たちのことを強調する。

これは非常に大切な論点であるが、以下の二点についてどう考えているのか、よく分からない。

・直接体験した人の大半は言葉を残さずに亡くなっている

・「直接」「体験」とはどこまでを指すのか

さらに、この「被者」が誰なのか、という問いは拡張されて、「被者」をも含むと述べている。しかもこの「被者」は低線量にさらされている人びとも含んでいる。

であるならば、おそらく「被曝者」とは、全人類のことであり、全生命のことを指すにちがいない。

それでは、その「全人類」もしくは「全生命」である「被爆者」は何を待つのか。

――これは、読んでもうまく理解できい。戦争のない社会? 核兵器のない世界? 被爆のない世界? 被曝のない世界??

続いて、被爆者はなぜ待てないのか。

「「われわれは、創造的に、すなわち、正しいことをおこなうためには時期はいつも熟している」から」(320ページ)と書いている。

「正しいこと」がこの世にはっきりと存在しており、「被曝」「被曝」は「正しくないこと」だということである。

その「正しくない」ことをやめさせることが、「正しいこと」なのである。

このあと、「待っている内容が明らかになる。

「いまこそ、「戦争を棄てた、といったんはっきり言いきった日本人の一人ひとりが、どんなことが起こっても、自分の自由意思を殺さず、「戦争を棄てたから絶対にやらない」と」主張し、日本政府に政策転換を迫っていくべきときなのである。」(320ページ)

「戦争放棄」ということが「正しいこと」として、ここでは挙げられている。すると、ここで言う「戦争放棄」とは、「核兵器」をなくすことであり、「原発」をなくすこととして、意味が拡張されている。

***

ほか、著者の主張はきわめてシンプルである。

1)「唯一の被爆国」というのは日本政府が創出したナショナルな神話にすぎない

2)被爆者一人ひとりが、どのように「(敗)戦後」と折り合いを付けて「原爆」に向き合ってきたのかという問題に目を向けなければならない

3)戦後日米両政府によって「原爆」の何が
隠蔽されて「放射能汚染国」となったのか

すなわち、「国家」と「個人」、「戦争」と「平和」、「虚偽」と「真実」といった二項対立を前提とした分析を行っているということになる。

こうした方法論については、疑問視することも可能であるが、著者はそこには立ち入っていないようだ。

***

以下では、巻末の「参考文献」をもとに、本書が何に言及しているのか、考えてみたい。すなわち、著者がどのように解釈をしているのかではなく、何をとりあげたのかだけに絞って、記しておきたい。

まず、気づくことは、巻末の参考文献において、以下のような区分がなされていることである。

・証言集
・写真集
・日本語文献
・欧文文献

すなわち、「証言」と「写真」に特権的な地位を与えていることが分かる。

実際に体験した人たちの「語り」がまず中心に据えられている。そして、当時の模様を映し出した「画像」が置かれている。

ここでは「ヒロシマ」「ナガサキ」を中心にしつつも「チェルノブイリ」「ビキニ」「フクシマ」ほか、時代や場所は問わず「被爆」「被曝」にかかわるものがまとめられている。

なお、「動画」は、ここにはクレジットされていない。

***

「証言集」の欄には、全部で74冊、クレジットされている。

これを「戦争」「原爆」(ヒロシマ、ナガサキ両方を含む)「広島」「長崎」「原発」と分類してみると、以下のような配分になっていることがわかる。

戦争 12冊
原爆  9冊
広島 36冊
長崎  9冊
原発 4冊
*************
  計70冊
 (4冊は写真集と思われ、除外した)

戦争
戦後体験 朝日新聞社編 朝日新聞社 2005
日本空襲記 一色次郎 文和書房 1972
アジアの戦争被害者たち 伊藤孝司 草の根出版会 1997
語られなかったアジアの戦後 内海愛子・田辺寿夫編著 梨の木舎 1991
華北戦記 
桑島節郎 朝日文庫 1997
半難民の位置から 徐京植 影書房 2002
東京大空襲・戦災誌 全5巻 東京空襲を記録する会 1973-1974
東京が戦場になった日 中澤昭 近代消防士 2001
日本の空襲 全10巻 日本の空襲編集委員会編 三省堂 1981
米軍が記録した日本空襲 平塚征緒 草思社 1995
南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて 松岡環編 社会評論社 2002
サハリンの勧告・朝鮮人 山本将文 東方出版 1990

原爆
原爆・500人の証言 朝日新聞社編 朝日文庫 2008
原爆棄民 韓国・朝鮮人被爆者の証言 伊藤孝司 ほるぷ出版 1987
被爆朝鮮・韓国人の証言 鎌田定夫 朝日新聞社 1982
私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した チャールズ・W・スウィーニー 原書房 2000
東京原爆認定訴訟が明らかにしたこと 東京原爆症認定集団訴訟を記録する会編 あけび書房 2012
広島・長崎の記憶と証言 韓国原爆被害者苦痛の歴史 明石書店 2008
ヒロシマ・ナガサキ 山口張 朝日文庫 2009
韓国の被爆者たち 山本将文 東方出版 1987
忘れまい、この惨禍 朝日新聞社 1982

広島
ヒロシマ 壁に残された伝言 井上恭介 集英社 2003
いのちの塔 「いのちの塔」手記集編纂委員会 中国新聞社 1992
広島 昭和20年 大佐古一郎 中公新書 1975
ドクター・ジュノー 武器なき勇者 大佐古一郎 新潮社 1979
「原爆一号」と呼ばれて 吉川清 筑摩書房 1981
ヒロシマ心の旅 児玉辰春 岩波書店 1996
広島郵政原爆誌 桜井俊二 示人社 1983
木の葉のように焼かれて 新日本婦人の会広島県本部編 新日本出版社 1966
韓国のヒロシマ 鈴木賢士 高文研 2000
ヒロシマ、ひとりからの出発 高橋昭博 ちくまぶっくす 1978
HIROSHIMA 長岡省吾 原爆資料集成保存会 1961
原爆の子 長田弘 岩波書店 1951
ヒロシマ母の記 名越操 平和文化 1997
被爆の日 外人神父たちの被爆体験 カトリック正義と平和広島協議会 1983
朝鮮 ヒロシマ 半日本人 朴壽南 三省堂 1979
ヒロシマ日記 蜂谷道彦 朝日新聞社 1955
原爆市長 浜井信三 朝日新聞社 1967
爆心地ヒロシマに入る 林重男 岩波ジュニア新書 1992
張本勲 もう一つの人生 張本勲 新日本出版社 2010
広島の消えた日 増補新版 肥田舜太郎 影書房 2010
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎 新日本出版社 2013
肥田舜太郎が語る 肥田舜太郎 日本評論社 2013
被爆の遺言 広島原爆被災撮影者の会 1985
青桐の下で 広岩近広 明石書店 1993
原爆体験記 広島市原爆体験記刊行会編 朝日新聞社 1975
広島の女たち 広島女性史研究会編 ドメス出版 1987
白いチマチョゴリの被爆者 広島朝鮮人被爆者協議会編 労働旬報社 1979
いしぶみ(碑) 広島テレビ放送 ポプラ社 1983
電車内被爆者の証言 広島電鉄株式会社電車内被爆者のつどい係編 1985
平和の願いをこめて 広島平和文化センター編 1990
被爆体験記集 広島平和文化センター編 厚生労働省 2002
海峡を越えて ヒロシマを語る会他編 ヒロシマを語る会 1990
被爆45年広島の声なき証言者たち 福島明博 日本機関紙出版センター 1990
写らなかった戦後 ヒロシマの嘘 福島菊次郎 現代人文社 2003
涙のファインダー 松重美人 ぎょうせい 2003
鎮魂の道 丸木位里、丸木俊 岩波書店 1984

長崎
長崎 調来助編 日本放送出版会 1972
原子雲の下に 杉本亀吉 (寄付金による発行) 1972
原爆を見た聞こえない人々 長崎県ろうあ福祉協会全国手話通訳問題研究会長崎支部編 文理閣 1995
長崎県小中学校応募作文集「平和を求めて」より転載 長崎県教職員組合 1952
朝鮮人被爆者(長崎からの証言) 長崎在日朝鮮人の人権を守る会 社会評論社 1989
ナガサキは語り継ぐ 長崎市編 岩波書店 1991
ながさきへの旅 長崎証言の会編 1988
地球ガ裸ニナッタ 長崎証言の会編 1991
被爆者の現在 増補版 長崎「原爆問題」研究普及協議会 1984

原発
チェルノブイリからの証言 ユーリー・シチェルバク 技術と人間 1988
続・
チェルノブイリからの証言 ユーリー・シチェルバク 技術と人間 1989
原爆・原発 池山重朗 現代の理論社 1977
原発労働記 堀江邦夫 講談社文庫 2011

*リストにある、池上利秋「あの日 ここで」、
桐生広人「ヒバクシャ-世界の核実験と核汚染」、中谷吉隆「広島・戦後10年」、広島原爆被災撮影者の会「被爆の遺言」は写真集であるため除外した(「忘れまい、この惨禍」(朝日新聞社)も写真集のようであるが確認がとれなかったのでリストにいれてある)。また池山重朗が池山重「明」に、「青桐の下で」が「青銅の下で」に、「朝鮮・ヒロシマ・半日本人」が「朝鮮・広島・半日本人」となっていたので訂正しておいた。

このリストの分析から分かることは、本書が、「戦争」との連続性から「原爆」をとらえ「広島」と「長崎」の生存者たちの「声」を大事に拾い上げようとしているということである。

一方、「原発」については、
本書における主眼とはなっていないことも明らかである。

「被爆」を「被曝」と結び付けようとする著者の意図はあるものの
チェルノブイリ事故に関連するものが2冊、原発作業員のものが1冊にすぎなかった。

実際に章立てをみても、4章で「平和のための原子力」についてふれられているものの、ビキニ環礁における原水爆「実験」による被害ならびにその「声」についてはふれられていない。

本書の著者は「証言」を大事にしているはずである。にもかかわらず、「広島」「長崎」に当時いた「被害者」のことを大切に思っている一方で、それ以外の「声」は本書ではあまり聞こえてこない。

「核/原子力の戦後史」という副題をつける以上、原発に対する、低線量被爆に対する「声」を、「3.11」以前からもていねいに拾い上げてほしい、その点が惜しまれる。


被爆者はなぜ待てないか:核 / 原子力の戦後史/慶應義塾大学出版会
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読んだ本
にっぽんフクシマ原発劇場
八木澤高明
現代書館
2015年4月

ひとこと感想
原発事故に対して「なぜ」という問いではなく「どのように」人間や生きものが影響を受けたのか、その個々の実態に迫っている。もちろん「影響」といっても放射線の健康被害ではなく、「暮らし」や「生存」に対するダメージである。

八木澤高明(YAGISAWA Takaaki, 1972-  )は神奈川生まれのフリーカメラマン。元「フライデー」のカメラマン。「私は20代の前半からネパールをはじめアジアや日本国内をまわって写真を撮ったり、文章を書いてきた。児童労働、内戦、売春、エイズ、殺人事件、貧困、私が主に興味を持ったものを挙げてみた。」(281ページ)

***

本書が異質なのは、写真が多く掲載されているばかりでなく、すでにキャプションとはいえないくらいに大きな文字を写真の上に載せている点である。単行本のなかに、まるで「フライデー」がさしはさまれているかのようである。

たとえば、防護服とマスクをしている人が運転しているバスの写真に対しては「どこか違う惑星に来てしまったみたいですね」とある。

ほか「放射線に汚染された土でピラミッドが作れそうですね」「人里を我が物顔で歩くイノシシ、福島サファリパーク」「犬たちは野性を取り戻してタヌキを襲った」「たらの芽、新鮮だけど一万ベクレル」などなど。

いつ、どこで撮影したのかといったような「事実」関係を入れず、写真に映し出されたものが読者に直接問いかけるかのようなキャプションである。

にっぽんフクシマ原発劇場/現代書館
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***

著者は、2011年4月から2014年12月のあいだ、浪江町の津島と本宮市に何度か足を運んでいる。

元々津島で酪農を営んでいたが発災害後、
本宮市に移住した人たち(利仙さん夫婦と剛さん)を、本書は追いかけている。

そのスタンスはある種、度を越しているようにも見える。

「こんなことを自慢気に言ってはなんだが、私はタダ飯を食って写真を撮るだけで、ただの一度たりとも、作業を手伝ったことがない。」(19ページ)

「原発事故が起こした修羅場を、私は傍観者として見たかったのだ。」(23ページ)

「私は福島へボランティアをしに行くわけでも、見物に行くわけでもなく写真や文章を発表するために行ったのである。」(同)

よく言えば、取材する対象との距離を図っているということになるかもしれない。しかし問題は、どういうスタンスなのかではなく、そのスタンスによってどのような作品(写真や文章)が生まれたのか、ということである。

はたして、どうか。

まず、本書が2011年4月20日からはじまっている理由。著者は、2011年3月10日から4月19日までネパールで取材をし、20日に帰国してすぐに、福島へと向かったからである。

写真の多くは動物たちが写っているが、これはよく考えてみれば、そこに人がいないからである。もともと人がいたところから人がいなくなり、人が飼っていた動物が、一方では鎖につながれたまま死んでおり、一方では不憫に思い野に放たれている。また、野山からはイノシシやタヌキなどが里に降りている。おのずと、カメラは彼らに向けられるのである。

または人のいなくなった場所、たとえば事故によって廃業した酪農家の建物。そういった写真を撮りながら、著者の「独り言」が文章化されている。

他の仕事で行っている西川口のストリップ劇場で裸体のダンサーが踊っている写真も、被災地とのコントラストで使われている。

もちろん、人も幾人かは登場する。が、もちろんここには、政治家も官僚も学者も、学生も登場しない。簡単に言ってしまえば、エリート、中流というよりも、「庶民」とみなされるような人たちばかりに目を向ける。

「原発事故」という大きな出来事を前にしても、一人ひとりの人生、暮らしを一つの世界としてとらえ、そのままのものとしてとらえようとしている。

もちろん、原発が良いとか悪いとかはここでは論じられない。

いわき市のホテルは原発作業員でいっぱいになり、フロントの男性は「笑顔」で「原発さまさま」と言ったという。

「作り話だという人がいるかもしれないが、まぎれもない時事である。原発という巨大な経済装置は、人間を悲劇のどん底に落とすだけでなく、笑顔をもたrすものでもあるのだ。そこに危険を承知で、これほどの事故が起きたにもかかわらず原発を動かそうとする意思を生む一端がある。」(156ページ)

竜田一人というペンネームで原発作業を続けている漫画家がいる。「いちえふ」という作品は、すでに20話以上も続き、内部事情をさまざまな角度から描いているが、大原則があり、それは、原発作業に従事している人たちは、みな、ある種の「義憤」にかられて立ち向かっているということである。

ところが本書では、大変な乱痴気騒ぎである。

パチンコや、ソープランド、ケンカ、婦女暴行、そうした部分が、あられもなく述べられている。

「いつ終わるとも知れぬ原発の復旧作業、後ろ向きの仕事ゆえ、作業員が荒むのも、仕方ないことなのかもしれない。」(161ページ)

なお、
全体に暗いトーンの写真が多いのは当たり前なのかもしれないが、本当に暗い。何が写っているのか、よく分からないものも多い。あえてキャプションは明るくしているようにも見える。だが逆に、そのなかに、ほのかに浮かび上がってくるものを著者はみつめている、というように考えると、一般的な意味で対象を絞り込むという「フォーカス」とは異なった手法で著者は対象を「傍観者」としてとらえているのかもしれない。

なお、一人の人物に「フォーカス」した写真集が著者にはある。
フクシマ物語―幸四郎の村/新日本出版社
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読んだ本
核の海の証言 ビキニ事件は終わらない
山下正寿
2012年9月

ひとこと感想
あれは、第五福竜丸事件ではない、ビキニ事件だ、というのが本書の主張。そして、福島第一原発事故への政府やマスコミの対応がまさに当時のビキニ事件とそっくりだという。長年にわたる高校生らによる聞き取り調査によって明らかにされた。

***

多くの人にとって「ビキニ」という言葉は、なによりも、ある種の水着の呼び名として理解され、そののちに、あの出来事、もしくは、一連の「原水爆実験」が行われた場所、として、把握される。

「地球規模の放射能汚染をもたらし、のべ1000隻(実質550隻)のマグロ漁船、のべ約2万人(実質1万人)が被災し、3月12月まで、汚染マグロが獲れ続けた「ビキニ事件」が、いつの間にか「第五福竜丸事件」になり、さらに「第五福竜丸」そのものも人々の記憶の中から消えかかっている。」(148ページ)

原爆が凄まじい殺傷能力をもっていたことから、その後、「アトミック」や「ウラン」「プルトニウム」などは、流行語となり、「凄い」という意味合いで、ごくごく普通に使われるようなった。

たとえば「アトミック・カクテル」といえば、「うまい酒」を表わした。

ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリ、フクシマ、といった地名が、原爆被害や原発事故のことを表わすのと比べると、どうして「ビキニ」が水着になってしまったのか。

これは「罪」である。

「実験」と称して環境を破壊し、住民に健康被害、精神的ダメージを与えただけで充分に罪深いと思うが、そこに輪をかけて「ビキニ」という言葉を「水着」に固定させるというのは、あまりにもおぞましい記号的操作であると言わざるをえない。

***


1980年代にこの「ビキニ事件」を掘り起こそうとした高校生たちがいる。著者である山下のもとにいた生徒たちである。この作業はその後27年間続いた。

一般的には1954年に起きた「第五福竜丸事件」という「事件」名称によってビキニ環礁で起こった出来事は記憶されているが、実際には1,000隻以上の被災した船があった。

「第五福竜丸」という言葉は、「ビキニ」で起こった出来事を代表(representation)して表象されている。

それは「出来事」への「記憶」を維持、継承するうえで不可避の操作であり、やむえをえないことであるが、同時に、多くの他の言葉を奪うこともある。

すなわち、第五福竜丸以外の被災した船と人の存在を見失わせるおそれがあるのである。

さらに言えば、「場所」にも影響がある。第五福竜丸事件は「焼津港」と密接な関係があるのは確かであるとしても、たとえば「高知」とのつながりを私たちは意識しなくなる。

本書は、そうした、「第五福竜丸事件」という名の出来事の多様性(複数性)を再び具体的に思い出させるものである。

1954 - ビキニ - 第五福竜丸 - 焼津 - 久保山愛吉

こうした単純化された記号的世界に対して、以下のような事例を加えてゆく。

第五海福丸
元操機長 山中武 日記(航海日誌)

1954年3月19日
「此の付近原子病が流行との事。政府より海水持参せよ。アメリカの奴ひどい事するものだ。」(29ページ)

3月20日
「無線N20,E175より沖の漁場は原子のため原子病あり。水揚禁止との報。我々はこの付近におり、多い(ママ)に心痛める本日1000貫余りの漁。」

第五福竜丸が米国の水爆実験「キャッスル作戦」において被曝したのは、3月1日のこと。

この船は2月21日に出港しており、3月1日は、
かなりビキニから離れたところにいた。それから次第にマーシャル諸島海域に接近し、3月19日あたりがピークとなっている(といったもビキニ環礁からは経度で10度くらいは離れている)。

そういう意味ではそれなりに距離は保っているが、重要なのは、上記のような無線情報を得ていたにもかかわらず、この船は(そしておそらく他の船も)操業を続けていたのである。

「第五福竜丸は多くのマグロ船と共に操業していたが、もっともビキニ環礁に近く、核爆発の火球や「死の灰」を目撃し、いち早く危険を感じて海域を離れたのであり、孤立した被災船ではなかった」(32ページ9

さらに言えば、この「事件」は当然、そのときかぎりのものではない。

この海域には放射線はその後も残留しているし、しかも原水爆実験はその後も行われている。

にもかかわらず、この船は1955年2月、1959年1月にビキニ海域近くで操業している。

その結果、船員には結核を発症したり、体調不良になっている人がいる。

第八順光丸
神奈川県三崎の船

1954年3月29日~5月19日、ビキニ海域で操業(E169度、N10-12度)。水爆実験hじゃ、4月7日、4月26日、5月5日に行われていた。

帰途後、放射線検査があったが、船体は強い反応があったもののマグロには「不合格品」はなかった。

第二幸成丸
元船長 崎山秀雄 航海日誌

1954年3月27日、第二回水爆実験の日にビキニ海域にいた。操業中に禁止区域が拡大され、慌てて危険区域を避けて帰途につくが、4月7日、次の実験が行われた際の死の灰が追い風に乗って船を襲った。

第11高知丸
元船長 林登 高知新聞記事

3月1日、実験場所から370キロ離れたところで操業、その後、3月25、26日頃に米軍よりその場を至急離れるよう伝えられる。

第七大丸
元船長 山本英治 証言

キノコ雲をみる。米軍に調査や尋問を受け「実験を見たことを誰にも言うなと口止め」(69ページ)される。

第二新生丸
沖ノ大東島からビキニ海域で操業、白い灰がマストの棒に高くつもった。
その後も7人は別の船で水爆実験に遭遇している。
2010年の調査で、乗組員19名のうち生存者は1名のみだった。
一方、同世代の地元の人たち5人は70歳を超えて全員元気である。

第十三光栄丸
危険区域から460マイル。
病院で検査が行われるが彼らにはほとんど情報が提供されなかった。
その後抗議運動に転じる。

第七清寿丸
核実験地からはかなり離れてはいたが操業中に若者が一名死亡。海水を浴びていたという。

もちろん他にも多くの船がいたが、そのなかで、高校生たちを中心に関係者への聞き取りや文献調査を行った結果、これだけのことが得られたということは、非常に意味のあることである。

充分に知られていない「被害」の実態をつかもうとする姿勢はすばらしい。

だが、ここで厄介なのは、病因や死因と当時の被曝との明確な因果関係を示せない、ということである。

すなわち、課題は幾重にも重なっている。

・米軍の水爆「実験」であって「戦争」ではない(政治、外交問題)
・被災の現場が太平洋上で遠く離れている
・放射線の影響はまだ充分に解明されていない
・マグロ漁船業界における告発の自主規制
・第五福竜丸の死亡者の死因が放射線障害ではない可能性
・その後の原子力推進政策の優先
・事件の解決を共産主義対策に還元される

一方、矮小化、忘却化が勧められた「ビキニ事件」ではあったが、これをきっかけに全国的な反核運動が起こり、これまで焦点化されてこなかった広島と長崎への原爆投下の被害があらためて問われはじめた。

なお、ビキニ環礁は2010年7月にユネスコにより「世界遺産に登録されたが、その理由は、「核実験の証拠」として、「礁湖の底に沈んだ船やブラボー実験の巨大なクレーターなど」が残されているからである。




核の海の証言―ビキニ事件は終わらない/新日本出版社
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聞いた会

アトリエ乾電池寄席 vol.3
春風亭一之輔、立川吉笑、江戸家小猫、入船亭辰のこ、東乾家吉喬


とても、良い会だった。

出演する皆さん全員が、クレバーで、かつ、味わい深いお話ばかりだった。

まずは、入船亭辰のこ

はじめてこの方の噺を聞く。若干、柳家喬太郎のテイストを感じたが、喬太郎と違ってさわやかである。

ジュゲムのように長い名前が出てくる「たらちね」。

特に個性のない長屋の独身男性のところに、大家の紹介で嫁が来る。

この嫁が、とにかく馬鹿丁寧な話し方しかできないという問題を抱えているが、この男、そんなことは気にならないとよろこんで受け入れるが、どうも二人の会話はトンチンカンである。

もう少し続きがあるのだが、途中でサゲが入った。もう少し、この二人の妙なやりとりを聞いてみたかった。

女性のセリフはとても難しく、一度聞いても、二度聴いても、ほとんど理解できなかった。男性がくりかえすところあたりも、もう少しゆっくりと演じてもらいたかった。

とはいえ、シンプルにおもしろみは伝わってきた。若手であるが、力量があると思う。


続いて、東乾家吉喬(とんかんや・きっきょう)。東京乾電池の役者であり、そのときは、吉橋航也の名。彼がこの寄席をプロデュースしている。
役者が本業でありながらも、落語もレパートリーを増やすなど努力を重ねているようで、今回も、作品の良さがしっかりと伝わってきた。

 東京乾電池、かもめ(チェーホフ)、を観る
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11748981371.html

 〈いのち〉とは、何か――芝居・命を弄ぶ男ふたり、を観る
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11921561477.html

 アトリエ乾電池寄席、楽しむ(1回目)
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11763448637.html

前回(1回目)は「金明竹」を聞いたが、今回は、「夏泥」。そのまま、貧乏長屋に夏、泥棒に入られるというもの。

だがこの入られた男の部屋には何も盗られるようなものがない。しかも泥棒がこの男にからまれて、挙句の果てには金までむしりとられてしまう。

凄みをきかせているはずの泥棒がすごまれるという逆転現象がおもしろい。

また、最初はとぼけていたはずの泥棒に入られた男だが、狡猾に相手の弱みを握り、やわらかく脅迫していくプロセスが私には怪談よりも恐ろしいかった。


続いて、立川吉笑。実ははじめて立川一門の方の噺を聞く。談志でさえYouTubeでしか聞いたことがない私には、かなりのインパクトであった。

ぞおん」という作品。はじめは、なんとなく談志風というのは、こういう感じなのかな、という軽い気持ちで聞いていたが、その異空間的なさまというか、ありえないようなことをありえるものと思わせられ、かなり、おもしろかった。

マクラのあと、「あれがほしい~」と急に新作噺に入ったと思って聞いていたら、途中でおしまい、という不思議な体験をした。思いつきで少し噺をつくってみたという。そしてその後本当のマクラに入り、その概念枠として「ゾーン」というものを客に理解さえたうえで本題に入るが、これまた奇怪だった。

優れたプロスポーツの選手などでよく聞くものとして、野球なら「球が止まって見れる」とか、そういう「境地」を「ゾーンに入る」と説明する。

新たに丁稚奉公に入った男だが、番頭さんに挨拶に行くと、実はこの番頭さん、番頭として熟達しているため、「ゾーン」に入ることがたびたびある。

とても早口になるのである。

初日から男は「ゾーン」に入った番頭さんの喋りを聞きとらなければならなくなる。

まくしたてるような関西弁でありながら、鮮やかな抑揚。見事だった。


ここで中入り。

続いて江戸家小猫(二代目)。不思議な人。

動物の声のものまねという、彼のひいおじいさんから継承されたわざを見せる(聞かせる)のだが、そfれだけではなく、動物に対する愛情や造詣がにじみ出ていた。

動物の鳴き声にはに種類あり、「にゃー」とか「わん」とか「ほーほけきょ」など、擬音が知られているものとそうではないものがある。

知られているものは、何も言わずに真似をしても大半の人がわかる。実際にやってみせる。

だが、知られていないものは、なかなかわかりにくい場合がある。その際の、特徴づけをいろいろとしてくれたのが、とても良かった。

「似ている」「似ていない」にこだわるのではなく、擬音を聞きながら、それぞれの動物のことを考え、かつ、その鳴き声や鳴き方の「たとえ」がよく練り上げられていた。

特にゴリラに対する説明は、一度自分も動物園で試してみたいと思わせるものだった。


そしてトリが、春風亭一之輔。実は彼の噺を聞くのはこれが3回目なのだが、前回、前々回はいずれも「初天神」だったので、まさか今日は同じではあるまい、と願っていたのだが、期待以上に凄い噺だった。「らくだ」というタイトル。

長屋界隈全体から嫌われているやくざ者が、昨晩仲間と飲み食いをしていたが、ふぐにあたって死んでしまう。

その部屋を
クズ屋がたまたま通りかかった。一緒にいた男、もちろんやくざ者であるが、彼はあれこれとクズ屋に因縁をつける。

単に暴力的なのではなく、精神的に相手を追いつめるのも楽勝という感じである。

クズ屋、ひたすら下手に出て、なんとか逃げ出そうとするが、そうはさせてくれない。

そのやりとりを一之輔がやると、正直怖すぎる。世の中、こういうシチュエーションはけっこうあるように思うのだが、決して自分が巻き込まれたくないと思うものである。

しかも因縁は次第にエスカレートし、長屋の大家ほかの連中から香典として金をせしめたり、酒や肴の要求にまで至る。

いたたまれないくらいに脅しをかけられるクズ屋。

ところが後半、立場が入れ換わる。怖い。ああ、怖い。

人間の弱いところ、嫌なところを見事に見せられる。

これはある意味、一之輔の描き出す人間像の両面性とも言える。すなわち、非常に冷酷で凶暴な面と、それにびびって怯える面。

ああ、いやだ。と思うほど、見事だった。

春風亭一之輔/WAZAOGI
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2015年8月29日、東京新聞のページ(夕刊)に「
福島・帰還困難区域の山林 モミの木に成長異常」という記事があった。

なんでも、大熊町(33.9マイクロシーベルト毎時のところ)のモミの木の98%ほどが、先端の幹が伸びないという成長異常がみられたという。

調べたのは、放射線医学総合研究所(千葉市)などの研究グループで環境庁の依頼で行われた。

80種ほどの野生植物を調べているなかで、はっきりとした影響が現れたのはこれが最初だという。

こうした観察結果を前にして言うのもなんであるが、下記の本は、統計をもとにした結果として、トンデモ系の内容であった。

モミの木の成長異常、今後、しっかりと検証されることを望みたい。

(以上、
ひとこと感想)

読んだ本

低線量放射線の脅威
ジェイ・M・グールド、ベンジャミン・A・ゴールドマン
今井清一、今井良一訳
鳥影社
2013年4月

Deadly Deceit Low-level Radiation' High-Level Cover-Up: Revised and updated
Jay M. Gould & Benjamin A. Goldman
1991 (1990, 1st ed)

***

著者の一人グールドはすでに亡くなっている(1915-2005)。統計学者。

ゴールドマンはグールドの設立した「放射線と公衆衛生プロジェクト」の副責任者。

***



目次
鳥影社への序文 尾内達也訳
1 概要
第1部 ケーススタディ
2 チェルノブイリの放射性降下物
3 沈黙の夏
4 サバンナリバーの大惨事
5 スリーマイル島
6 隠蔽
第2部 調査結果が意味するもの
7 大気圏核実験
8 乳児死亡率と牛乳
9 コネチカット州のガン
10 放射線とエイズ
第3部 結論
11  まだ遅すぎはしない
ジェイ M・グールドのあとがき
統計学的手法への補足
BEIR報告Ⅴ
ジェイ M・グールドによる第2版のあとがき

***

本書は、ともかく、統計データに基づいて、低線量被曝の影響について検討している。

たとえば、米国における90年間にわた米国の死亡統計を検討すると、大気圏核実験の期間中、そして、核分裂生成物の大規模な流出事故のたびごとに、「過剰な死亡者」が出ていた可能性がある、と指摘する。

「過剰」というのは統計学において「明らかに多すぎる」という意味で使われている。

一般的には、線量の影響を証明するためには、常に「因果関係」の是非を議論するやり方をとるが、ここでは逆である。

「因果関係」を一切無視して、統計上に現れる「過剰」をもとに、自動的に原因を放射線に置くというやり方である。

これはきわめてあぶなかしい。

つまり恣意的にデータをつなぎあわせるだけの、「風が吹けば桶屋がもうかる」的説明になってしまいかねない。

だが著者たちはそうはならないように、統計データを用意する。

・放射性降下物による公式の死亡診断書から得られた死亡率データ

だが、その結果は、驚くべきものである。驚きすぎて、にわかには信じがたい。たとえば、こんな感じである。

チェルノブイリ原発事故の影響はすでに翌月に現れ、「4万人の過剰死亡に達した」(27ページ)とする。

統計はおいておいて、今一つ事実関係が不明なのが、以下の出来事である。

1970年、サバンナリバーの核兵器施設で炉心溶融が起こる。これは18年間政府によって秘密にされていたが、グレン上院議員が議会公聴会で明らかにされた。

――「炉心溶融」事故があったのは本当だろうか?

1975年にミルストン原子炉で事故が起こり大量の放射線が放出された。

――1976年に「臨界」事故は起こっているようであるが、1975年にどのような事故が起こっているのか不明である。


なお、ここには一連の「低線量脅威」論者(関係者)たちのリストがある。

レイチェル・カーソン
ライナス・ポーリング
アンドレイ・サハロフ
ジョン・ゴフマン
アーサー・タンブリン
アリス・スチュワート
トーマス・マンクーゾ
カール・モルガン
カール・ジョンソン
アーネスト・スターングラス

他の論者たちはさておき、グールドという人は統計学者であるので、できることなら放医研による広島・長崎の長年にわたる統計データをていねいに読み解くべきだったのではないだろうか。


それがもっとも客観性をもたせることができるものであるだろう。

低線量被曝の影響は、
一言でまとめれば、きわめて緩慢に影響が現れる。わずか1カ月後に発症するようなことは、なかなか起こり難い。ましてや1-2年後にただちに死亡率が上昇するようなことが起こるとは、考えにくい。

もちろん精神的影響その他環境の変化などによって統計上の変化が生じるかもしれないが、「低線量」被曝の結果であるかのような説明は、科学的には非常に危ういものである。

トンデモ系と考えられるスターグラスとシェールの説はたとえばこうである。

1980年代に性交をしていた人たちの免疫障害(すなわちAIDS)と放射線によるウイルスの突然変異、カルシウム摂取などの食物の要因が関係しているというものである。

「放射性降下物の90%は、降雨とともに降ってくるので、この仮説は「エイズ感染症は何故、太平洋核実験所の緯度に近い雨量の多い、中央アフリカ、カリブ海諸国で始まり、雨量の多い北アメリカの東海岸地域でもっとも急速に広まったのか、また何故、南北アフリカやアメリカ合衆国の中央平原のような乾燥地帯では、100万人当たりでほとんど発生していないのか」を説明することができる。」(194ページ)

しかも東南アジア(日本も含む)では雨量が多いのにエイズ症例が少ないのかも、カルシウムの多い米と魚を主食とするため、ストロンチウムの摂取が抑制されるからだというのだ。

微妙な偽科学であれば、もう少していねいな反駁をしたいところであるが、この彼らの仕事に対しては、そうする必要もないと思う。

もちろん彼らが、低線量被曝の問題を社会に広く伝える役割をはたした、ということには、一定程度以上の価値はあるかもしれない。

だが、それとひきかえに出鱈目を真実であるかのように広めてしまうことは、最終的には罪深い。

とても残念である。


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読んだ本
リスクの社会学
ニクラス・ルーマン
小松丈晃 訳
新泉社
2014年12月

Soziologie des Risikos Broschiert
Niklas Luhmann
2003

ひとこと感想
ルーマンのリスク論をまとめると「他人事ではない」「ゼロではない」「未来の先取りである」となる。つまり、時間とコミュニケーションという概念を絡めてリスクを考えている。とりわけ社会学において時間は考慮されない場合があるので、鋭い指摘だと思う。もう少しじっくりと読みたかったのだが、なにしろ読むべき本は無数にある。また機会を見つけて再読したい。

***

中西準子のリスク論を読んで、ルーマンのリスク論を読もうと思った。

中西は、「リスクとは人生である」と述べていた。これは「人生はギャンブルである」とある意味同じことを言っている。

私たちは常に何かを選択している。何かを受け入れ、何かを受け入れない。その繰り返しのはてに、今の自分があり、そしてその後の選択の結果、未来がそこにある。

だからこそ、あえて言うが、通常のリスク論が提示するものは、社会的な判断基準だけであって、個々の人びとの選択肢にはならない、と私は思うのだ。

社会における総体として「損得勘定」それが、リスク論の本質ではなかろうか。

しかしリスク論は何も中西だけが展開しているものではない。

一方にはベックの「危険社会」があるだろうし、もう一方にはこのルーマンの「リスクの社会学」がある。

ルーマンが書いた本書には、次のような記述がある。

「たとえば1200万年に一度しか原子力発電所は爆発しないと知られている場合ですら、その爆発は明日起こるかもしれないし、明日起こらなくても明後日起こるかもしれない。」(67ページ)

「スリーマイル島やボパールのような大規模事故に関する事後的な調査は、この点について印象的な証拠を提供している――と同時にそれは、この種の劇的な出来事にいたらなかったところでも、これと似たミスが頻出していることを示している。」(116ページ)

***

ルーマンの「リスク」概念の特徴は、「リスク」を「自分」の問題として積極的に考えることを促すことにある。

そのため「危険」(Gefahr)と「リスク」との区別を要請している。「危険」とは自分の預かり知らないところで引き起こされるものである。

すなわちルーマンのリスク論から言えば、原発事故とりわけ低線量被曝の問題をまず、「自ら」がその結果に責任をもつことを前提に論じられねばならない、ということになる。

この前提をもたなければ、以下のような形で示される定量的なリスクの表示は意味を失う。

 リスク = 損害規模 × 生起確率

ただし、厄介なのは、たとえばこの「リスク」というものが、自分自身の健康の問題であるならば、喫煙を選択するかしかしないかといったように、自分自身の選択の問題として話は完結する(副流煙はおいておいて)が、「社会」の問題となったとたん、きわめて不明瞭になってしまうということである。

要するに、自分が所属する「社会」に「責任」をもっているかどうか、あらためて問題化されねばならないのである。

ルーマンの説明によれば、次のように仕分けされている。

リスク
・自分
・自分がかかわる社会のシステム

危険
・他の社会システム
・他者
・自然現象

ここには素朴な「主観-客観」図式がある。明確に「自分」の責任に帰結できるものとそうではないものとを区分けできる、という前提がある。

私がフーコーやブルデューから学んだのは、こうした認識図式とは異なる「社会」や「自己」のイメージである。

少なくとも放射線被曝の問題は、内部からも外部からもやってくるものであり、外部が無関係とはならないし、内部だけが問題ともならず、端的に「リスク」と「危険」とを二分することが困難であるように私には思える。

とはいえ、ルーマンはこの「リスク」論を「コミュニケーション」としてとらえている点については、おそらく上記のような課題を克服する糸口を自ら生成しているとも考えられる。

リスクは、他人事ではない。

「危険」として無責任に外部に追いやるのではなく、「リスク」として内部化し、相互に責任を分かち合う、ということが目指されるべきである。

要するに、大きな地震や津波を「想定外」とするような態度は、これらを「リスク」として受け入れないということであり、「危険」として放擲することにほかならない。

そうではなく、地震や津波の問題を社会内の問題として検討することに意味があるのである。

リスクは、ゼロではない。

常に、可能性を考え、他者とともに検討すること。さらにルーマンに沿って言えば、その結果を「確率」という時間的「未来」へと投企すること(賭けること)において、リスク論は価値がある。

リスクは、未来の先取りである。

ルーマンの時間概念を前提として言えば、何らかの出来事が発生した場合に、その出来事を引き起こした「加害者」の「責任」を問うことよりも、「出来事」の発生を食い止めるような「社会」の努力がこれまでの過去において充分になされなかったという反省を重視し、そのうえで軌道修正を行うことに意味がある。

「加害者」は必ず、自己正当化を行い、その「責任」を回避するため、改善する意欲に欠けている。それはどのような「加害者」であれ変わらない。だが「出来事」は目の前にある。その「出来事」を「加害者」だけに負わせずに、「私たち」全員が受けとめ、未来を変えてゆくために、現在に働きかけるべきなのだ。

ほか、ルーマン固有の概念や思考をふまえれば、さまざまな説明も必要になってくるが、ここではそれが目的ではないので省くことにしたい。




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読んだ本
原発事故と放射線のリスク学
中西準子
日本評論社
2014年3月11日

ひとこと感想
ゼロリスクはありえないという前提から、どのようにリスクを選ぶのかを具体的に考えるという著者の一貫した姿勢がみられる。低線量被曝、避難区域、除染など、それこそ、なかなか言いにくいことをはっきりと述べている。非常に有益であると思う。しかしあえて批判をすれば、あくまでも「リスク」は「公共性」すなわち集団における選択の問題であり、個々の人間はそれぞれ異なる考えや行動、生き方を選ぶことがあるということに関心がないことである。

なお本書は、文章のなかに、丹羽太貫、半澤隆宏、飯田泰之、上野千鶴子との対談をはさみこんでおり、書籍の構成としては今一つ集中力に欠ける。

***

「リスクという尺度が入ってくると、混沌としていたものが筋道だってみえてくるはずです。」(ivページ)

***

外部被曝について、計測や原理に遡って確認作業を行っている。

環境に関する線量
 名称 
空間線量(空間吸収線量) 
 
意味 自由空気中のの放射線のエネルギー
 単位 グレイ

人体に関する線量
 名称 人体による吸収線量
     等価線量
     実効線量
 意味 人体内での放射線エネルギー
 単位 シーベルト

実効線量、外部被曝量の計算にあたっては、

 空間線量 = 人体による吸収線量(実効線量)

とみなされている。しかしUNSCEARでは空間線量に換算係数を入れなければ

実効線量にならない。しかもこの換算係数は年齢によって異なる。大人の場合0.7-0.8シーベルト/グレイ。

また、原子力安全委員会の「環境放射線モニタリング指針」(2008年3月)においては、実効線量は、「緊急事態発生時の第一段階」のモニタリングにかぎって1ミリグレイ=1ミリシーベルトとするが、それ以外の場合には空間線量に0.8をかけるとされているのだが、にもかかわらず現在でも1ミリグレイ=1ミリシーベルトが使われ、「過大に」外部被曝が評価されているとする。

ちなみに、UNSCEARだけでなくICRPも換算係数は「0.7」としている。つまり国際標準からみると、国内の線量は多く見積もられているということになる。

さらに、国内で「空間線量率」として発表されている数値には、二つある、というのだ。

・空気吸収線量
・周辺線量当量

空気吸収線量」とは、「モニタリングポスト」で測定されたもの。「周辺線量当量」とは、「航空機モニタリングの測定結果として、地表面から1メートルの高さの空間線量率」のこと。

単純に比率でみると、次のような関係になる。

0.7 実効線量
1.0 空気吸収線量率
1.2 周辺線量当量率

私たちがふだん見ている数値は「周辺線量当量率」であり、実効線量と比べれば約6割(0.5633・・)に「すぎない」と中西は述べる。

もう一点、「遮蔽」に関する補正も必要で、国内では補正係数として「0.6」としている。しかし、国連科学委員会がチェルノブイリについてまとめた値は、1年後で、農村では0.36、都会では0.18である。

まとめる。

「外部被ばくは二つの要素で過大に評価されている。ひとつは、空間線量の値から実効線量に換算する段階、もう一つは建物などによる遮蔽を考慮する段階である。」(18-19ページ)

このように中西は、外部被曝の線量が、実際の2~3倍過大に見積もられていることを問題視する。

***

続いては、LNTモデルにたいする解釈である。中西は以下のように理解している。

1)実効線量200ミリシーベルト程度以上の範囲で、固形がんによる死亡率で表現された過剰相対リスクと線量との間に直線関係が認められる

2)実効線量1シーベルトあたりの相対リスクは0.5に近い

3)125ミリシーベルト以下の被曝量では、相対りするが被曝線量に比例して増加するという直線関係は統計的には有意ではなかった

特に3)であるが、中西は、やや古いデータ(ICRP2007)をもとにこう結論づけているが、たとえば、LSS(寿命調査)報告の「第14報、2012年)においては、低線量でも線量に比例して直線的に増加することが確認されている。

「3.11が起きたときには日本の法律の多くは、まだ、2007年勧告に対応できず、1990年勧告への対応のままだった。」(29ページ)

つまり、当時の混乱の主要因は、ICRP2007をふまえつつも現行がICRP1990であったことだ、と中西はみなすのである。

そのうえでもう一度、当時の言説をふりかえる。特に「100ミリシーベルト以下では、がんリスクの有意な増加は認められない」について次のようにとらえている。

これは「証明できません」と投げ出していると理解する。すなわち「有意な増加は認められない」というのは「リスクがない」ということではない。

中西はこの説明を「科学者」としての主体による言説として「ファクト」に対する「推定」への嫌悪感の克服のように行っている。

「あいまいさ」を科学的に伝えること、それがリスク論であり、中西は、「~証明できない」という事実を述べることの大切さをあらためて説く。

ほか、「医者」の言説「あまり気にしない方がいいですよ」というのにも、理解を示す。

医者はリスク評価ではなく、「勇気づけたりする」。

しかしこの「医者」モデルは、旧来のものであり、現在はインフォームドコンセントと自己決定権の原則に基づいて、リスク評価型に移行しているはずであるが中西はそういう議論はしない。

それはさておき、中西はここで重要なまとめをしている。

「二つの考えを同時に頭に入れることが必要である。一つは、ファクトできちんと証明されている事柄、もう一つは、その領域を超えた範囲について、推定できる事柄である。前者は日常生活のために、後者は将来の予防や、日本全国のことを考えるために。」(35ページ)

すなわち、100ミリシーベルト以下については、リスクはゼロではないし、無視できるほど小さいわけでもなく、むしろ、
科学的なファクトとして出せないところをリスク評価として提示している。

ここについては、中川恵一が「哲学」の領域とみなしたわけであるが、中西は科学的なリスク評価の領域ととらえ返したのである。

だからこそ、名目リスク係数があり、LNTモデルが提案されているのである。

・・・ときれいに話がまとまるかと思えばそうではない。

中西は、LNTモデルの不備は、自然起因の放射線のことを考慮に入れていないからであるとする。

すなわち、LNTモデルではじまる「0~100ミリシーベルト」というのも、本当は、自然起因の放射線の被曝量から足されるものであるので、厳密に描けば、本当のゼロから数ミリシーベルトまでまバックグランド値として示されなければならない。

そうすれば、第一に、低線量といえども、まったく影響がない、という非科学的な説明はできなくなる、また第二に、急に数ミリシーベルトで決定的な影響ができるのではなく、バックグラウンドも含めてゆるやかに影響があるため、科学的に影響を説明するのが難しいこともはっきりする。

また、中西は、がんのリスクを死亡確率で示すよりも余命損失の方が影響の大きさの違いがよく分かるととらえている。

ここに丹羽太貫との対談がはさまれている。対談というのはすなわち、中西の分からないことを他の専門家に語らせるということである。

私なりに咀嚼すると、がんを発症するには突然変異が5つ必要であることを仮説とし、放射線はそのうちの一つにあたる、ということである。

他の要因と併せて5つに達することでがんが発症すると考えれば、加齢によってガンリスクがはっきりと5乗になる理由やLNTモデルが1乗となっている理由の整合性がつくということである(注:LNTモデルはがんによる「死亡」の確率であって「発症」ではないが)。

また、発症するまでのあいだに生活習慣を変えてゆけば、突然変異が5に届かなくなるため、放射線のリスクもそれに応じて変わってくることになる。

これはベイジアン理論とも通ずるもので、理にかなっている。

たとえば、原発事故で放射線被曝をした人でも、一方で、喫煙し、飲酒し、塩分過多で、かつ、大食であった場合と、そうではない場合では、がん発症の確率は大きく変わってくるということである。


***

甲状腺がんの検査(調査)に関する誤解について。

一般的に言われているように、2012年前後に発見された甲状腺がんの「増加」は、いくつかの理由で原発事故による放射線由来ではないという前提をもつが、私もこれに同意する。

そして、今行われているのは、「ベースライン」をつくるもので、将来の発症があるかどうかを調べるためのものだ、ということである。つまり、2014年以降が「本格調査」なのである。

ただし中西自身がこのことを説明を受けて納得はするが、多くの人には受け入れがたいであろうと、感想を述べている。

そうなのだ。ここが難しいところで、「当事者」にとっては「被害者」という立場の意識が強化されてしまい、こうしたデータを冷静にみることはできるはずもない。少しでも「異常」であれば、「加害者」に対して責める心情が高まる。それを、咎めることは、はたして私たちにできるのか?

すなわち、本当の問題は、「心」であり、「当事者」の「生活」もしくは「人生」がふみにじられたことである。そのことは、決して忘れてはならない。

***

除染に関する目標値をたてること、そして、移住を選択する余地を、中西は提案している。

目標値については具体的にこう述べている。

・15年間の平均被曝量が50ミリシーベルトを超えないこと
 高い地区でも100ミリシーベルト/年を超えないこと

・15年間で、長期的目標の1ミリシーベルト/年以下になること

この問題については、ここでは深く立ち入らない。

***

「安全」について中西は、以下のような主張を「間違い」であるとする。

・経済や利益のために安全を犠牲にしてはいけない
・あらゆる想定外に対処しなければならない
・推進母体と規制母体は独立でなければならない
・原子力発電はやめて、即刻、再生可能エネルギーにすべきだ
・低線量被曝でもがんになる確率があり危険である

これらはみな「リスクトレードオフということを忘れた主張」(240ページ)とされている。

「安全」というものは人によって理解している内容が異なる。そのために安全を「リスク」で定義すべきだというのが中西の考えである。

「リスクトレードオフ」とは、単一の問題だけに目を奪われることなく「全体」としてリスクを考えることである。

かつてはリスクゼロが理想とされたが、それは神話にすぎなかったとして中西は次のように述べている。

「今、私たちが直面している問題は、「リスクはあるが、選びましょう」ということです。私から言わせれば、これは「人生」。われわれの生きる道であり、生きていかなければならない道です。なぜ、それを選ぶのか、それは、選ばないともっと困ったことが起きるからです。リスクを選んで生きよう、なのです。」(290ページ)

確かにその通りではあるのだが、やはり、躊躇が残るのは、「リスク」の選び方、それぞれの人生は同じではない、ということではないのか。

表題には「悪意」と書いたが、もちろん、中西にもリスク論にも「悪意」はない。しかし、リスク論自身が陥るリスクというものが、私にはあるように思えて仕方がない。



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読んだ本
国連グローバー勧告 福島第一原発事故後の住民がもつ「健康に対する権利」hの保障と課題
ヒューマンライツ・ナウ 編
合同出版
2014年8月

ひとこと感想
人権という見地から原発事故による低線量被曝の影響を問題化し国連を動かしたNGOによるその活動と意義がまとめられている。経済原則を優先するのではなく社会的弱者が健康な暮らしを維持できることが目指され、低線量被曝については、年間1ミリシーベルト以下を基準とするよう政策転換を求めた。

***

本書のタイトル、最初みたときは「グローバル」勧告かと思った。「グローバー」とは人の名前である。

アナンド・グローバーは国連特別報告者という肩書。正式には、「到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利」に関する特別報告者。

福島第一原発事故の影響で「健康に対する権利」が侵害されているのではないかと2012年11月に現地調査、2013年5月に報告書を国連人権理事会に提出した。

主な論点は、低線量被曝についてであり、1ミリシーベルトを基準として具体的な対策をとるよう日本政府に勧告した。

これに対して本書の編者「ヒューマンライツ・ナウ」とは何か。

元々は2006年に結成された国際人権NGOで、弁護士、研究者、ジャーナリストらが所属している。彼らが国連に訴えた結果グローバーが調査に入った。2012ね国連特別協議資格を取得。

本書の執筆者のなかでは、弁護士である伊藤和子がこのNGOの事務局長。

執筆者は、ほか、崎山比早子、木田光一、吉岡斉、岩田渉、影浦峡、島薗進。

***

グローバーの勧告の根幹には、政策というものを人権の視点から見直すという姿勢がある。

「人権」というと、非常に抽象的に聞こえるかもしれないが、要するに、「社会」のなかでも「弱者」の立場にたつ、ということである。

ここでは、小さな子どもや妊婦、若い世代への放射線被害を防止することが目標となる。

これまでの政府ならびにそれに準じた専門家が述べていたことは、こうした「人権」においてではなかった。

一言でまとめれば「経済効果」優先で、放射線被害は「リスク」として語られ、経済効果対リスクのものさしで、とりあえず20ミリ、100ミリシーベルトといった基準値を持ち出すが、そうではなく、「人権」を優先して、1ミリを堅持すべきだ、ということである。

「日本は「健康に対する権利」を保障した国連社会権(いわゆる国際人権A規約)及び子どもの権利条約の締約国であり、条約を誠実に遵守すべき国の立場(憲法98条2項)に照らし、グローバー勧告に誠実に向き合い、実現していく責務があります。」(8ページ)

ところが日本政府はこの勧告に反発し、2013年5月の人権理事会に反論を提出、この勧告の大半を政策に採り入れていないまま今日に至っている。

***

さて、本書の趣旨は明確であるが、実情として、福島県内にこの「年間1ミリシーベルト」を適応させると、福島市や郡山市をはじめ数十万人規模の移住を必要とするが日本政府はそうしたくないということがある。

それが福島原発事故の影響の「ほんとうの姿」なのだ。

言い方を変えると、日本政府は、年間1ミリシーベルトではなく、20ミリシーベルトを「健康」や「安全」の基準として(少なくとも当面は)設定したということである。

問題は、こうした設定がリスクと経済効果とのバランスを前提としたもの、すなわち「集団的利益」を優先しているということである。

「総体」としてみれば、何らかの「プラス」がある、ということを、このことは示している。だから「みんな」にとって「良い」のだ、とされる。

ところがこのグローバーの言っていることはそういった見地ではなく、「個人の権利」、もっと言えば、「社会的弱者」一人ひとりに対する権利を重視すべきだ、ということである。

社会的利益と個人の権利。

けっきょく私たちの社会が掲げる「民主主義」や「自由」というのは、「個人の権利」ではなく「社会的利益」が優先されるものとなっているのだ。

***

この勧告では、具体的に、以下の項目をもっている。

・原発事故の緊急対応システムの策定と実施
・原発事故の影響を受けた人びとに対する健康モニタリング
・放射線量に関連する制作・情報提供
・除染
・規制(安全基準)の枠組みの中における、透明性と説明責任の確保
・賠償、救済措置

***

いくつかの補足

・JCO臨界事故の後、茨城県では、原子力安全委員会の健康管理検討委員会保国に基づいて、推定線量が1ミリシーベルト以上に該当する住民のなかで希望者は定期的な健康診断が実施された。しかし今回、別の基準をとっている。その合理的な説明がない。(伊藤)

・国会事故調によって明らかになったことの一つとして、東電の最大のリスクが原発の長期停止であるということ。自然災害のリスク評価はその基準にのっとっていたにすぎない。(崎山)

・ICRPの委員は日本に8名いるが、国際会議の出席旅費を電事連が長年にわたって出している。(崎山)

・電力会社は自分たちに都合の悪い研究を見張っている。(崎山)

・「原発事故子ども・被災者支援法」が実行されていない。福島県内のみならずどこでも年間1ミリシーベルトをこえる場所では健康管理調査を行うべきだ。(木田:福島県医師会副会長)

・グローバー勧告は、事故進行が一段落したことを前提としたもので、緊急対応時や事故発生前の施策を問題としていないので、その点について補足すれば、原子力規制委員会が設置されても再稼働審査に終始しており、充分に健康に対する権利が確保する活動がないこと、また、事故は収束しておらず放射能追加放出のリスクが消えていないこと、この二点が重要である。(吉岡)

・グローバー勧告がきっかけで日本学術会議と日本医師会の協力が進み、健康支援の改善を求める動きが前進した。(島薗)



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