そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ

いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。

核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

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核の言説データベース~原爆と原発と


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読んだ本
哲学する民主主義 伝統と改革の市民的構造
叢書「世界認識の最前線」
ロバート・D.パットナム
河田潤一 訳
NTT出版
2001.03


Making Democracy Work: Civic Traditions in Modern Italy
Robert D. Putnam

Princeton University Press

1993
 

ひとこと感想
タイトルがしっくりこないが、興味深い本だった。イタリアはすでに州の権限を強めるという営みを行い、その成果が生まれるとともに、地域による違いがはっきりとした。そのなかで「社会関係資本」という概念を提起したわけだが、なぜだかこの概念だけがその後一人歩きしている。ブルデューの概念との違いはどこにあるのか、今なおよくわからない。

 

***

 

「社会資本の構築は容易ではないが、社会資本は、民主主義がうまくいくための鍵となる重要な要素である。」(232ページ)

 

これが本書の結論である。

 

***

 

パットナムらが1970~80年代の各州政府の実態調査を行った結果、市民生活のありように、大雑把に言えば南と北で大きな違いがあることが判明した。

 

しかもその違いの起源は1000年も前にさかのぼる。

 

南では、ノルマン王国が、北ではコムーネを中心とする都市国家が、その統治を行った。

 

ノルマン王国は、フェデリーコII世を中心に栄えるが、社会政治的には専制的体制のままであった。他方北部は、いわゆる市民主導の共和制が敷かれてゆく。

 

「垂直的な階統的秩序に依存するところが少なく、水平的な協力に活路を見出すものであった」(150ページ)

 

とはいえこのコムーネは「民主的」なものではなかった。わずか一部の「市民」による自治であった。

 

だが次第に、いうなれば、自助と相互扶助が、組合などを通じて形成されてゆく。

 

こうした差異が、1000年後にも、維持されるのだ。

 

「ノルマン諸王がかつて支配した南部領地は、1970年代に最も市民度が低い7州に見事に重なっている。教皇権国家は、1970年代には市民度の順番で三つか四つ上の州にほぼ静価格に対応している。市民度の順番の別の極では、1300年当時の共和主義の中心地域が、現在では最も市民的な州と君が悪いほど一致しており、そのすぐ下に、地理的にはもっと北に位置する中世の共和政的伝統は正真正銘のものであったが強度の点で劣った地域が続いている。」(162ページ)

 

しかしその後、15世紀から16世紀にかけて、スペインやフランスなどがこの地に入り込み、権力闘争が展開されると、北部のコムーネは破壊的な打撃を受ける。人口は減り、各地は荒廃し、共和政体も放棄される。

ただし、かろうじて専制政治が中心となっても、生活の面では、市民的関与、社会的対等者間の相互扶助」(164ページ)は維持、継承された。

 

***

 

一見、生活者にとってメリットのある州政府制度であったが、なぜかイタリアの北部と南部とでは、機能の仕方がかなり異なったその理由はこうした歴史的蓄積にあるのだが、パットナムはこれを、単に「歴史」の問題とせずに、今後の展望が拓けてゆくような、積極的な概念、すなわち、「社会(関係)資本」の蓄積である、と結論づけたのだった。

 

では、パットナムの社会(関係)資本とは、どのように説明されているのか。

 

「ここで使用する社会資本は、調整された諸活動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴をいう、」(206-207ページ)

 

なお、パットナム自身はこの概念を以下に負っている。

 

James S. Coleman, FOundations of Social Theory, Harvard University Press, 1990.

 

さらに、このコールマンは、グレン・ラウリーに負っている。

 

具体的な言葉でいうと、社会資本は、次のように言い換えられる。

 

・信頼

・規範

・ネットワーク

 

一般的な経済資本が私財である一方で、社会資本は、「公共財」である。

 

***

 

確かにブルデューは社会関係資本よりも文化資本に焦点をあてていた。この場合、各人の階級や社会的ポジシオンが明確になるため、有用性が高かった。親が持っている人的ネットワークや自分の学歴による人間関係は密接に文化資本に結びついている。つまり、社会関係資本もまた、文化資本に左右されるという考え方だった。

が、「地域」や「社会」を考えるとき、社会関係資本を強調することは、また、新たな問題提起が可能となるのかもしれない。


すなわち、「生きる」「生活する」という次元からみれば、文化資本よりも、社会関係資本が、その地域の活力や暮らしやすさを測るバロメーターになりうるのである。

 

ただしこれは、いわゆる「地域社会」や「コミュニティ」にのみ該当するもので、都市においてはむしろ、こうした社会関係資本抜きに構成されているという意味で、非常に特異である。このことをどのように説明できるのか。課題が残る。

 


内容

本書は、イタリアにおける州の研究を通じて、イタリア人の市民生活に関する根本的な疑問のいくつかを検討する。具体的にはイタリアの地方政府の公共政策におけるパフォーマンスを比較分析することで、高い地域にはそれなりの伝統、つまり市民的政治文化があり、結局のところそれがパフォーマンスを上げているとの結論にたどりつく。パフォーマンスの高い地域とされた、中部イタリアには数百年に及んだ共和政の伝統があった。北部イタリアはフランスやオーストリアの勢力に翻弄されることが多く、共同体主義が発達しなかったし、ローマ以南の地域では何世紀にもわたる征服王朝による封建的土地所有が地域社会の基礎にあったため、その根本に不信があるという。著者は、共同体主義の伝統がない地域では政治の改革は深まらないと指摘する。

 

目次      
第1章 はじめに―制度パフォーマンスの研究
第2章 ルールの変更―制度発展の20年
第3章 制度パフォーマンスを測定する
第4章 制度パフォーマンスを説明する
第5章 市民共同体の起源を探る
第6章 社会資本と制度の成功
補遺A 調査方法
補遺B 州会議員の態度変化に関する統計的証拠
補遺C 制度パフォーマンス(1978‐85年)
補遺D 散布図で用いた州の略記
補遺E 地方政府パフォーマンス(1982‐86年)および州政府パフォーマンス(1978‐85年)
補遺F 市民的関与の伝統(1860‐1920年)

 

 

 

 

 

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読んだ本
市場経済を組み替える
人間選書
内山節 編著
農山漁村文化協会
1999.07

 

 

序 市場経済を組み替える

内山節

 

「思想」(特に近代西洋知)が「普遍」ではなく「ローカル」なものであることを強調している。しかも「近代的な市場経済」がこの考えを強化していったとみなす。

 

内山という人はなんとなくゴチゴチのマルクス主義かと思っていたが、この「強化」したという書き方は、 下部構造(すなわち近代的な市場経済)が上部構造(すなわち近代西洋知)を規定する、というのが 一般的なマルクス主義の記述とは大きく異なり、どうやら両者はそれほど近しいわけではないようだ。

 

ただ、いずれにせよ、近代における資本主義社会のもつ問題を指摘し、新たな社会を構想したのは明らかにマルクス主義であった。

 

著者はこのマルクス主義を近代知の「亜種」のように取り扱うのだが、著者がどこまで本気でマルクスを読んだのか、この本からはよくわからない。ただ、私には少し納得のゆかない説明となっている。

 

なぜならば、著者は「市場経済」の「思想」を前提とした社会を変えたい、と望んでいる。それはまさしくマルクスの問いと実践のすべてであろうかと思うからである。

 

それはさておき、著者は次のように考えている。

 

「効率や利益、市場経済が誘導していく欲望に支配されて生きることに、私たちはあきはじめていた」(19ページ)

 

「あきる」という言葉を使っている理由が定かではないが、情緒的には「あきる」という言葉はそれなりに含蓄があるが、単に「あきる」ということではなく、資源、エネルギー、環境といった大きなインフラの枯渇やそれらへの負荷への不安、というべきもののようにも思える。

 

いずれにせよ、こうした西洋近代社会批判は、無数にあるが、本書も含めて、そう簡単に未来像をつくりだすことはできるものではない。

 

その意味では、むしろこの、「未来像」の描出にこそ本書の個性があるのかもしれない。

 

著者は、何もないところから何かをつくりだすのではなく、「過去」からヒントを得ようとしている。

 

***

 

1 いのちと環境の「かけがえのなさ」と市場経済 生と死、性、環境がつきつけるもの

鬼頭秀一

 

「ある地域に住む人にとってのよりよい環境というのは、外からの指摘で評価できるものではありません。外から評価し、他のものと交換可能なものとして規定できるものではないのです」(41-42ページ)

 

環境経済学の考え方は、市場経済を批判的にとらえようとする視点が含まれているにもかかわらず、結局はその枠組みの内部で思考を行うために、むしろその枠組みを再強化してしまうという矛盾をかかえている(こうした方向性を打破しようとしているものとして、金子勝、間宮陽介、根井雅弘、佐伯啓思などを挙げている)。

 

だが実際にこの枠組みの外に立つのはとても難しい。「交換可能なもの」を基調にしないとなると、「ローカルな場における関係」(45ページ)を中心にする、というほか、なかなかうまい言葉が現れていない。

 

たとえば、「時間的な一回性」「存在の唯一性」の尊重という。

 

交換不可能なかけがえのない価値というものを回復していく」(47ページ)ということが課題として挙げられている。

 

このようにまとめると、結局はイリイチが1980年代初頭に指摘していた「バナキュラーな価値」の議論に舞い戻ってしまう。

 

***

 

市場経済と自由 自由から自在へ

内山節

 

「便利さ」とは何か。

 

1)都市における便利さ 都会での暮らし
2)田舎における便利さ 村落での暮らし

 

この2つは本質的に異なる。

 

1)において「便利さ」とは、購入するもの、消費するもの、である。これは「市場経済のおける自由」という言い方もできる。この「自由」は、自分の外に向けられる。

 

2)において「便利さ」とは、必要な「技」を身につけること、である。これは「非市場経済的な営みのなかの自由」という言い方もできる。この「自由」は、自分の内に向けられる。そこで著者はこれを「自在」と言い換える。

 

ふりかえってみると西洋近代の「自由」とは、人間に与えられた権利(=あらかじめ与えられている)であり、自分の外に対して要求するものだった。自由を手にしたいのなら義務を果たしなさい、もしも実現していないのならかちとりなさい、という発想がある。

 

こうした自由の違いを著者は「風土」の違い、自然との関係性の違い、と考える。

 

西洋の「自然」は、それほど力のあるものではなく、安定した関係、わかりやすい、という特徴をもつ。

 

他方で東洋の「自然」は力強く、不安定なので、折り合いをつける「技」や「知恵」が必要となる。

 

他の対比としては、「主体的」が挙げられる。西洋は世界や他者の支配を意味するが、東洋では自分自身のことを意味する。

 

こうした「西洋」と「東洋」の対比は、実はそれほど単純なことではない。おそらくここで言う「東洋」とはほぼ「日本的」ということと同義であろう。それではたして議論としてはよいのだろうか。

 

それはさておき、市場経済によって私たちは実現した自由もあるが、人間の自在さを壊してきたのではないか、というのが内山の考えである。

 

「市場経済の合理性に身をまかせればまかすほどに、私たちは自在な生活を失っていく」(220ページ)

 

***

 

近代的な市場経済の成立(歴史)について、内山は、必然的なものとしてみていない。つまり、ヘーゲル的歴史観をとらない。「偶然」的なものにすぎない、とする。

 

16~18世紀、西洋諸国は繰り返し戦争をしていた。

 

戦争は国富を高めるもの、国の経済力を高めることを問題とする。植民地からの収奪だけでなく、国内を市場経済化し、税収を増やすことが必要だった。

 

「戦争を遂行する国家が市場経済を必要とした」(222ページ)

 

国家に貨幣が集まってくる合理的なシステムをつくること

 

この前提のうえで「自由」が議論された

 

「技」「自由」は客観的合理性をもっていない。しかし、「非合理」でもないし単純な対立関係にあるのではない。

 

例)著者の住む上野村、須郷という集落、今残っている8戸の昭和20年年代の頃の仕事は多様で「どの家も市場経済のなかで暮らしていた」(235ページ)

 

つまり、一般的に農村集落は「自給自足」かつ「閉鎖」的な社会としばしばみなされるが、そうではないのではないか。

 

「日本の農民は、一方では共同体とともに暮らし、他方では市場経済とともに暮らすという、二重的生活形態をもっていたのではないか」(225-226ページ)

これは言うなれば、市場経済とかかわることによって村の暮らしの自在さを生む出したと言える。

 

土地についても私有であっても共有性が強い(ゲルマン法の「総有」に近い)。

 

「総有」 慣習、成文化されていない

 

 

***
 

ローカルな営みと世界市場を前提とする市場経済との間に、いかなる関係をつくりだしたらよいのか。市場経済社会をどのように組み替えていったらよいのか。地方自治、製造業、農林業、高齢者福祉、環境にかかわる八人の現場での模索を軸に、市場経済の論理から自律した確かな世界を見はるかす。三人委員会(内山節・大熊孝・鬼頭秀一)+榛村純一の共編、シリーズ第二弾。

 

目次      
序 市場経済社会を組み替える
内山節

第1部 いのちと環境の「かけがえのなさ」と市場経済
―生と死、性、環境がつきつけるもの
鬼頭秀一
 

第2部 仕事の場から問う市場経済/非市場経済

地方自治
風土に根ざした中山間地域と地域産業政策を構想する
手塚伸
 

地方自治

大都市の片隅にローカルコミュニティを求めて
澤田和子

製造業
作る人と使う人を結ぶ「技能」の復権のために ほか)
伊藤忠清
 

農林業
土地に合った茶づくりをめざす茶業ネットワーク
向笠安行

農林業
都会の人とのつながりを山里で暮らす力に変える
栗田和則
 

農林業
気がつけば第六次産業 わが家の不思議な「商売」
高橋祐紀
 

福祉

高齢者の「生きるかたち」に寄り添う関係をもとめて
浜田きよ子

 

環境ブラックバス釣りという「遊び」が日本の自然をおかしくする

秋月岩魚

 

第3部 市場経済社会の彼方へ
 

自然の克服と市場経済 自然と共存するための中間組織・地域的共同体の構築を目指して
大熊孝
 

地方自治と市場経済 小都市経営二十二年と市場経済組み替えへの試み
椿村純一
 

市場経済と自由 自由から自在へ

内山節

あとがき 「新し哲学を掛川から」全国集会テキストのために

椿村純一

 

 

 

 

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読んだ本
ローカル・コモンズの可能性 自治と環境の新たな関係
三俣学、菅豊、井上真 編
ミネルヴァ書房
2010.06

 

ひとこと感想

研究資料的な側面から言えば、 三俣学の本としてはこれが一番良かった。「資料編」として「概説 コモンズ論の系譜」「日本のコモンズ論の系譜図」「海外のコモンズ論の系譜表」「日本の山野海川に関する年表」「リーディングリスト」がついており、これで関連の研究者や著書などの大勢が分かる。


***

 

これまでコモンズ研究は「資源環境問題を含めた現代社会の諸問題に対する解決の糸口を「小地域の自治力」の創造や再生のなかに積極的に見出そうとしてきた」(197ページ)

 

・小集落における自給

・農村水産の生業

・共有・共用

・在地の慣習、慣行

・地域の伝統文化

 

これらは「近代」においてはあまり肯定的な評価がなく、縮小、消滅の方向性をもっていたが、20世紀後半より少しずつその価値が再考されはじめた。

場合によっては閉塞する現代社会を変えてゆく可能性のあるものとしてとられている場合もある。

本書の主張はコモンズ論に対する先入観や読解、違和感を払拭したいということである。

 

なお、コモンズ論は、ガバナンス論、社会関係、ソ本論との合体を果たして、ある意味では、「資本管理論」となってゆくようである。

 

ただしそれだけにはとどまらない「独自性」がコモンズ論にはある、というのも本書の強調点である。

 

「経済社会を見る視点の重心が、あくまで地域の具体的な生活世界のなかにある」(200ページ)

 

私にはここで描かれているものが、まさしくイリイチが指摘した「バナキュラー」という概念にあたるのではないかと考えてしまうが、ここではあくまでも「各地域の環境資源とその上に拡がる自治的な生活」(200ページ)として述べられているにとどまる。

 

むしろコモンズ論は「公共性論」へと向かっているようだ。

 

しかもここでは宮本憲一による「公共性」への言及が引用されている(宮本、1998, 81P)。

 

大枠としては、国家権力による公共性ではなく(つまり軍事や司法だけではなく)「社会権といわれている生命と健康の保持、思想の自由などの人格に基づく生活権、労働権、アメニティ権など」としている。

 

こうしたとらえ方に対してコモンズ論は若干異なるアプローチを行っている。

 

原義的には「公共性」は「誰もがアクセスしうる空間であり、オープンで閉域を持たない」(205ページ)が、コモンズはかなり狭くて小さい、即ち、「閉域」である。

 

この点、コモンズ論はどう考えているのか。

 

コモンズは第一に、「慣習」によって公共性を形成している点に特徴がある。

 

ここで極めて興味深いのは、こうしたクローズドなコモンズは確かに一種の「公共性」はあるとしても、原義としては全く「公共」ではないということである(「公共性」の議論は他方で「歓待」の議論をふまえなければならない)。

 

「公共」とは異なるクローズドな「共益地」これがコモンズであり、やはり一般的な「公共性」とは分けて考えるべきもののように思う。

 

その根拠として「公共性」には「歓待」(ホスピタリティ)の歴史的な意味が内在しており、基本的に「他者」をどのような「他者」であれ受け入れるというカント的な掟があるように私には思われる。

ただし一方でコモンズにおける地域資源(環境資源)の「共同管理」という側面を強調し「協治」(井上真)という概念を提起していることは注目に値する。

 

話は戻るが、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの事例として「万人権」についてふれられているが、やはりこの考え方とコモンズ(ローカル)もしくは「入会地」を同じ次元で語ってよいのか、大いに疑問である。

 

「北欧諸国では他人の所有する土地に自由に立入自然環境を享受することが、万人に対する権利として認められている」(64ページ)

 

ノルウェー allemannstrett (rights of access)

スウェーデン allemannsrätt (rights of public access)

フィンランド everyman's right (jokamiehen oikeus)

 

***

 

「里道」(りどう) 鎌倉の広町緑地(腰越地区)

 

***

目次 
グローバル時代のなかのローカル・コモンズ論

三俣学、菅豊、井上真

第1部 コモンズのもつ公共性


地方行政の広域化と財産区―愛知県稲武地区の事例 

齋藤暖生、 三俣学

 

里道が担う共的領域―地域資源としてのフットパスの可能性

泉留維

 

万人権による自然資源利用―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの事例を基に)

嶋田大作、齋藤暖生、三俣学

第2部 グローバル時代におけるローカル・コモンズの戦略

 

ボルネオ焼畑民の生業戦略―ラタンからゴムへ、そしてアブラヤシへ?
寺内大左

 

「緩やかな産業化」とコモンズ―大規模アブラヤシ農園開発に代わる地域発展戦略の形

河合真之

 

政策はなぜ実施されたのか―フィリピンの森林管理における連携

椙本歩美

「共的で協的」な野生動物保全を求めて―ケニアの「コミュニティ主体の保全」から考える

目黒紀夫

 

実践指針としてのコモンズ論―協治と抵抗の補完戦略

三俣学、菅豊、井上真

 

時空を超えて日々のくらしの場を席捲するグローバリゼーション下の21世紀。本書は各地域の現場で得られた知見をもとに現在の「行き過ぎた」状況を是正する戦略として「コモンズ=共的で協的な世界」を軸とする「協治」と「抵抗」の補完戦略を提示する。山野海川の各現場から醸成されるコモンズの公共性の意義をすくいとり、望ましい環境ガバナンスの方向性を探る。今まさにネットワークが広がりつつあるコモンズ研究の発展、実践に資する書。

 

 

 

 

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読んだ本

平等主義の政治経済学 市場・国家・コミュニティのための新たなルール
サミュエル・ボールズ、ギンタス
エリック・オリン・ライト 編
遠山弘徳 訳

大村書店

2002.07


Recasting Egalitarianism: New Rules for Communities, States and Markets
The Real Utopias Project
Samuel Bowles, Harry Brighouse, & Herbert Gintis (eds)
Verso
1999.01

 

本書でいう「平等主義」というのは一般的に想定される「所得」に対するものではなく、「財産権」を再分配するものである。

 

・労働者所有

・住宅所有

・子供の権利

・就学保証金証書

 

これらを再分配することによって、平等性と経済的な効率性の両方に影響を及ぼすと考えている。

 

また、経済的統治構造として、以下の3点を挙げる。

 

・国家

・市場

・コミュニティ(地域)

たとえば「市場の失敗」という言い方はよくされるが、「国家の失敗」もまたありえる。多くの議論においては、いずれかの失敗だけを強調するが、それでは十分ではない。

 

さらに言えば、そこに「コミュニティ」というもののもつ役割を軽視してはならないということである。

 

この三者には、長所もあれば短所もある。いずれかにのみ偏らずに、バランスをとることが求められている。つまり相互補完的関係になるべきだとする。

 

市場

個々のエージェントが自分自身の行動の結果を受け止めるため、規律の執行において優れている。

 

しかし、そうした行動に関する情報は私的なものであり、所有権が集中化されていると、市場は深刻なコーディネーション問題に突き当たってしまう。

 

国家

上記のような問題を克服するためのゲームのルールを執行できる点において優れている。

 

しかし、国家が情報にアクセス制限がある場合、立ち行かなくなる。

 

コミュニティ
上記のような問題が起こった場合、ルールやノルムを執行する際に優れている。諸個人が社会的ノルムを身につけているコミュニティにおいては、諸個人はコストの要するモニタリングや制裁には依存せずに、長期的な合意に達するかもしれない。

 

***

 

なお、マクロ経済学のモデルに対して本書は、かなり本質的な疑問を投げかけている。以下の3点に対してである。

 

1)国民経済の算出高水準が財とサービスに対する総需要によって制約される

 

2)総需要が国内市場に一致する

 

3)所得分配が平等主義的であればあるほど、総需要水準がますます高くなる
 

 

***

 

内容

第1部 平等主義的市場の提案

効率的再分配:市場、国家およびコミュニティのための新たなルール
サミュエル・ボールズ、ハーバート・ギンタス

 

第2部 提案の一般的評価

平等性、コミュニティ、および「効率的再分配」
エリック・オリン・ライト


ノルムと効率性
エリノア・オストロム
 

効率性の政治学

アンドリュー・レヴァイン

第3部 具体的な制度的文脈

対立と協調:再分配と効率性の必要性を経験的な観点から見る

デーヴィッド・M.ゴードン

第4部 経済モデルへの批判

私有財産ベースの平等主義の限界
ジョン・E.ローマー

資産の再分配vs所得の再分配
カール・オーヴ・モーン、マイケル・ウォーラーステイン

平等主義的政策の危機と資産ベースの再分配の見込み
ピーター・スコット

第5部 再考

平等主義を作り直す サミュエル・ボールズ、ハーバート・ギンタス

 

 

「全ての人にとって豊かな社会」を可能にする平等主義の展開とは?著名な米ラディカル経済学の中心理論家たちが提案する「ケインズ主義的な再分配に代わる、資産ベースの平等主義的再分配を軸にした、ラディカルな社会改革への試み」である。

 

 

 

 

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読んだ本

地方創生まちづくり大事典 地方の未来、日本の未来
竹本昌史
国書刊行会
2016.01

 

ひとこと感想

「大事典」というだけあり、確かに重く分厚い。ページは822ページ。「概括的、事例的に解説」(15ページ)したもの。「地方創生」とあるが、関東圏がもっとも多い。あとこれは「成功事例」なのか。地方創生に今必要なのは「失敗事例」なのではないのか。失敗からこそ学ぶべき時。

***


著者は1941年愛知県生まれ。64年小樽商科大学卒、日本経済新聞社入社。産業、外報部記者を経て、4年間サンパウロ特派員。帰国後、外報、産業、流通経済部のデスク等を務め、テレビ愛知に転進。報道制作、編成、営業の責任者を歴任、同社専務の後、独立して現在、経済ジャーナリスト。

現在、国を挙げて「地方創生」、「国民総活躍時代」が大きく取り上げられているが、果たして日本全国でどのような取り組みがなされ、どのような成果を収めているのか。本書はそこに焦点を当て、各地のまちづくり事業の最前線に飛び込んで、その実際を余すところなく概括的、事例的に解説している決定版。

 目次      

北海道編 13

東北編 43

関東編 66

中部編 38

近畿編 9

中国編 8

四国編 5

九州編 11

 

 

 

 

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(30年ぶりに再び)読んだ本

歴史のメトドロジー シリーズ プラグを抜く5

福井憲彦編

新評論

1984.05

 

ひとこと感想

一世を風靡したアナール派歴史学。しかしあらためてふりかえってみると、良くも悪くも、当初の「経済」「社会」「文明」」というキーワードのなかから 次第に 「経済」が抜けていったような印象をもった。今一度、「経済」と「歴史」との関係を考え直す必要があると思う。また、アダム・スミスとカント、ヒューム、ルソーとの関係、そして、ウィトゲンシュタインとケインズとの関係も見直したい。

 

***


フーコーもそうだった。彼の初期の仕事、特に「狂気の歴史」と「臨床医学の誕生」においては、「経済」は大きな柱の一つとして議論されていた(少なくとものフランス語の意味での)

アナール派歴史学においても、第一、第二世代は「経済」を大きくとりあげた歴史研究を行っていた。

 

もちろん第三世代においても、人口動態のデータをはじめ、「経済」は決して消えたわけではないが、一般的に受け止められた「アナール派歴史学」は、アリエスの心性史をはじめとした、社会文化史に比重が傾いていったように思う(シャルチエもフーコーとブルデューを絡めた文化史だった)。

 

本書においては、ル=ゴフが「新しい歴史学」という題名で、アナール派歴史学の歴史をふりかえっているが、あらためて「経済」との深いかかわりを思い起こさせてくれた。

 

彼らの「集団」としてのありようは何よりもその研究誌への寄稿にある。

 

1929年に「経済社会史年報」は創刊された。

 

この誌名をつけたのは、リュシアン・フェーブルとマルク・ブロック、つまりアナール第一世代の中心人物の2人である。

 

「経済的」ということで問われていたのは、フランスの伝統史学ではほとんど完全に等閑にされていた一領域の地位を向上させることであった」(62ページ)

 

当時のドイツの雑誌「季刊・社会経済史」の影響を受けているとはいえ、彼らは「社会史」に「経済」を加えるという順序で自分たちの目論見を表現したことになる。

第二次世界大戦後に、1946年、タイトルが変わる。

 

「アナール――経済・社会・文明」である。

 

「歴史」の代わりに「文明」が入っただけではない。これら3つの語彙はすべて@複数形」ねのである。

残念ながらマルク・ブロックは1949年にドイツ人によって銃殺され、戦後はリュシアン・フェーブルによって牽引された。

 

この後、第二世代と言われる一人のフェルナン・ブローデルもまた、その大著では「物質文明」や「資本主義」を中心に論じているが、その後第三世代に至っては、ある意味では心性史や文化史がメインになってきているように思われる。こうした力点の移行は一体どのようにして起こったであろうか。

 

これは課題である。

 

およそ他方で経済学の方はというともっぱら短期・中期(せいざい数10年)しかみようとしない。おそらく「環境」を問題化したとき(例えば資源の枯渇や、温度化など)はじめて歴史学(アナールのような)との接点はつくられるのだろう。

なお、ジョルジュ・デュビュイの仕事は初発は経済史であったことはとても興味深い。

 

 

 

 

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読んだ本

民族と風土の経済学
竹内宏
角川文庫

1984.04

 

初出

日本工業新聞 連載(108回) 1980年

信濃毎日、中日、西日本、北海道各新聞

 

***

 

「地域」を考える際に「経済」からとらえる、ということを前提とする。

 

しかし、「経済」はもともと「国家」もしくは「国民」と密接なつながりがある。

本書は「民族」と「風土」の経済学、という。

 

経済学は、各国に共通する指標として「総生産」「総所得」その他さまざまな概念を用意して、「国力」を誇示させている。

 

それは、経済活動が世界共通のものである、という前提があるからだ。

 

市場経済、という「世界市場」は、こうした前提で成立しているし、実際に機能もしている。

 

ところが、知っての通り、イスラム教は基本的に「利息」というものを認めていないし、「スモール・イズ・ビューティフル」のシューマッハーのように「仏教経済学」は、従来の経済学とは異なって膨張、無限成長を目指したものではないといったような、「経済」にもさまざまな多様性があることも、すでに知られている。

 

しかし本書のように細かに、各国の生活、文化、習慣などをふまえた、経済の多様性論は、あまり見かけることはない。

 

そもそも民族、風土によって、それほど「経済」は異なるのかどうか、そしてそれを本書がしっかりと探求し、何らかの結論を引き出しているのか、そうなってくると、少々怪しい。

 

本書の「解説」は菊池誠が書いているが、彼がそのものずばり、こうした疑問を言葉にしている。

 

「少し喰い足りない」(264ページ)

 

要するに、体験談をだらだらと書いているものの、その「現象の背後にある」ものを描けていないのである。

 

「民族と風土の経済学」と名乗るからには、この「 現象の背後にある」ものを論じなくてはならない、そう菊池は思ったに違いないし、私もそう思う。

 

「はじめに現象論の段階。次に、そこにどういう要因として実体が働いているのか、ということを考える段階が来る」(265ページ)

 

残念ながら本書は、どれだけ豊富なエピソードがあってもこの、次の段階が、いつまでたってもやってこないのである。

 

百歩譲って言えば、いろいろな経験をされて、ご苦労さま、各国のいろいろなお話、興味深く聞かせていただきました、ということか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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読んだ本

まちの見方・調べ方 地域づくりのための調査法入門

西村幸夫、野澤康 編

朝倉書店

2010.10

 

今、考えていることの一つは「環境」という概念である。グローバルに言えば、公害や廃棄物、放射線(原発事故)、地球温暖化といった課題がまず、思い浮かぶ。だが他方で「環境」は「住環境」のような地域さらにはもっと小規模なコミュニティや空間における課題も内包している。私には、前者における議論と後者における議論は、どこか別もののように思われるのだ。もちろんそれはいずれかだけが正しいとか間違っているとか、優先順位だとか、そういうことを言いたいわけではない。しかし両者を同じ「環境」と言ってしまうと、どことなく落ち着きが悪く感じてしまうのである。そういう課題を抱きつつ本書を手に取ると、特にこの中では「第5章 都市空間の再生とアメニティ」(西村幸夫)が、私の言う後者の「環境」について「開発」との対比から議論されているようにとらえられる。少しだけこの章の内容をみてみよう。

 

ここでは「アメニティ」がキーワードとなっている。ところが「その内実は明確に定義されることはなく、むしろ行政の幅広い裁量権を確保するためにアメニティを詳細に定義することは避けられてきた」(121ページ)ようだ。他方、米国では「美観規制」が「アメニティ」と近い言葉として用いられているという。歴史的には1930年代から50年代に数多くの訴訟が起こり(つまりは大半は戦時中ということになるが、知ってのとおり米国の「本土」での出来事である)、その結果、一定程度の社会的コンセンサスが得られているようなものである。他方国内では、以下のような課題に対応してきた経緯がある。

 

・歴史文化遺産の保全
・自然風景の保護
・屋外広告物の規制
・美しい都市景観の創出

 

これを例えば「都市景観」もしくは都市空間における生活環境の快適さという意味であるとすると、やはり「地球環境」的「環境」問題とは、問われるべき点が大きく異なってくるように思う。

そしてそのうえで、あえて述べるが、グローバルな「環境」問題と、ローカルな(私はイリイチにならって「バナキュラーな」と言いたい)「環境」問題は、別ものとしたい(コモンズ論がローカルとグローバルとに二分されて論じられるように)。ただ、そのなかでも、伝統に根ざした地域の「環境」であれば、その不可逆的な損失について明らかにしうると思うのだが、都市空間になると、歴史的堆積を持たない場合も多く、しかもそれが住民の「アメニティ」をよりどころとするとき、非常に判断が難しいように思われる。

 

これは単に言葉遣いの問題かもしれないが、「住環境」や「都市環境」といったように、ここに「環境」という言葉を挿入することは、問題領域の混乱を引き起こし、相互の問題の核心を曖昧にしてしまうというマイナス点もあるのではないだろうか。

都市空間においては、歴史的にみてもその評価すべき尺度があいまいである。「気持の良い環境」というがはたしてこの「peasant」が「誰」のためのものなのか、はっきりしない。一説(渡辺俊一)によればアメニティとは「中産階級の美学」(122ページ)とみなされている。これをもう少し広げて「市民共通の価値観」(123ページ)とみなされうるものにとらえることも可能だとしている。ちなみに今まであえて記していなかったが、こうした都市における「アメニティ」という語は「環境保全」と訳されてもいる。少なくとも英国の都市計画においてはこの「内実」は明文化されてこなかった。これが米国になると「アメニティ」という言葉自体が用いられない。「都市美」(beauty)や「美観規制」(aesthtic)が用いられるのが一般的である。

 

米国の場合、20世紀より都市美運動などが起こり、条例の導入や裁判が行われてきた。ところがこの際の「都市美」は「贅沢及び道楽の問題であり、必要性の問題ではない」とされるのが主流だった。このあとの細かな経緯は省略するが、興味深いのは、1954年の判例である。ここでは「general welfare」に「美的規制」まで加えられる。要するに「都市美」とは、ボーダーラインにあるのである。

 

1980年代以降は「アメニティ」は環境の「質」を問うようになる。ただし国内ではアメニティの中に地域社会や伝統文化の保存問題まで含まれる。すなわち国内独自の「判断」が「アメニティ」に加わっている。

 

「日本の都市のように往々にして地域の物的環境にまとまりがなく、またこれを支えるべき地域社会も必ずしも強固ではない場合には、アメニティ議論以前に、地域固有なアメニティをすくい上げ、これを共通認識として確立していく社会的な仕組みや合意形成のプロセスを支援する必要がある」(129ページ)

「地域固有なアメニティ」とは何か。このこと明らかにすること自体が課題であるようだ。

 

なお、具体的な動きとして西村は、以下を挙げている。

1)町並み保全運動
エコミュージアム
グリーン・ツーリズム

2)開発反対型の運動
建築協定
まちづくり協定
・国立市の訴訟など

3)中心市街地の衰退

 

・・・途中だが、時間切れ。これにて。

 

 

 

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読んだ本

コモンズの思想を求めて カリマンタンの森で考える
叢書 新世界事情
井上真
岩波書店
2004.01


ひとこと感想
コモンズにも二通りあり、ローカルとグローバルがある。また、 これまでの定義が「所有」を中心としたうえで、「共有」ということにコモンズの特徴をみたわけであるが、著者は「所有」を軽視するわけではないが、それ以上に「利用」「管理」に視点を移すべきだとする。

1960年山梨県生まれ。東京大学農学部卒。農林水産省森林総合研究所、インドネシア共和国教育文化省熱帯降雨林研究センターをへて、現在、東京大学大学院農学生命科学研究科森林科学専攻助教授。専門は森林社会学、熱帯森林政策学。熱帯生態学会「吉良賞」受賞。

 

***

 

本書から読み取ることができる大きなトピックは2つある。

1)コモンズの意味と今後の可能性、課題

2)熱帯雨林で起こっていることとその共同管理の実態

 

「コモンズ」については、細かな定義が行われている一方で、簡潔に「みんなのもの」ととらえ、その「公的管理」の意味を問う。

 

これは、わかりやすい。

 

この「みんな」というのは非常に含蓄があり、そこに自分も含まれていることも喚起させる効果がある。

 

ただし、人によってはこの「みんな」ということをあまり自分の責任というものを受け止めない場合もある。

 

そこで著者はこの「みんなのもの」に対して、「自分たちで自主的に管理する仕組み」(6ページ)が導入されれば、意識として自己管理という方向性が生まれると考えている。

 

この時にネックとなるのは、範囲がそれなりに大きい場合は責任の範囲から外れやすくなり、関心も薄まってしまう可能性があるということである。

このジレンマは国内にあっても海外にあっても、起こっている。

 

しかもネットやモバイルなどによってライフスタイルが変わりつつあり、「みんな」というものの内実が単に「土地」と「住民」の連関だけにとどまることができなくなっている。

 

「このような現象は入れ子構造の「ウチとソト」という感覚が強すぎるために生じている、というのが私の仮説である。だから、「みんなのモノ=自分たちのもの」という認識を強くするためには、「ウチとソト」の入れ子構造を解体してゆくことが必要だと思っている。」(7ページ)

 

***

 

ところで、コモンズについて本書ではどのように説明されているだろうか。

・入会地

・共有地

これらは常に言われていることである。

 

「自然資源の共同管理制度、および共同管理の対象である資源そのもの」(51ページ)

 

著者は単に「地域」におけるコモンズだけではなく、地球規模で成立するコモンズもある、ということで、上記のように定義づける。

 

・ローカル・コモンズ

・グローバル・コモンズ


もう一点、これまでの定義が「所有」を中心としたうえで、「共有」ということにコモンズの特徴をみたわけであるが、著者は「所有」を軽視するわけではないが、それ以上に「利用」「管理」に視点を移すべきだとする。

 

***

 

インドネシアの熱帯林で起こっている森林消失の原因は何か。現地の住民による焼畑農業が原因か、あるいは商業伐採によるものなのか。ボルネオ島の東カリマンタンにある地域コミュニティを訪れて、フィールド研究を重ねた著者が、森に暮らす人々と企業など「よそ者」たちとのあいだで起こっている共生・対立関係を探る。そのなかから見出した、森を「協治」していく新しい発想である「コモンズの思想」とは。

目次      

序章 身近なコモンズ

第1章 熱帯林で何が起こってきたのか

 熱帯林問題へのまなざし

 熱帯林の消失 ほか

第2章 コモンズの概念とその有効性

 コモンズの定義と類型

 東カリマンタンのローカル・コモンズ ほか

第3章 揺れるローカル・コモンズ―激動のカリマンタン

 インドネシアの地方分権

 ケニァ人の村で起こっていること―企業との協力 ほか

第4章 コモンズの思想への旅

 地方自治体の挑戦

 地域の森林「協治」へのみち ほか

 

 

 

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久しぶりに再読した本
民俗再考 多元的世界への視点
坪井洋文
日本エディタースクール出版部
1986.12

 

ひとこと感想
坪井さん、お会いしたかった。雑誌「季刊iiciko」の第2号(1987年冬)にて、彼の仕事一覧(つまり文献リスト)を作成した。そして1988年6月にお亡くなりになった際にその抜き刷りが関係者に配布された。それが唯一の接点。

 

国や民族を一つのかたまりとしてとらえる民俗学もあるが、これからの地域創生論に必要なのは、「地域民俗学」すなわち、 その土地それぞれに固有な多元的な民俗論の展開である。これはひとえに「単一民族」「単一文化」史観への批判を伴い、文化や価値観さらには自然性の複雑性や多様性を保証する社会を目指している。こうした調査研究の先人の一人が坪井さんである。

 

***

 

日本民俗の多元性

 

「常民の持っている知識の全体は、国家によって与えられた知識と常民がそれぞれの地域社会のなかで伝えてきた知識とからなる。」(4ページ)


民俗学は柳田國男が創始したときから「現実の問題に答えることにある」(6ページ)ことを坪井は協調する。

 

柳田が設定した「現実の問題」は、以下の4点である。

 

・教育

・道徳

・離村

・貧困

 

こうした問題を引き受けつつも、同時に、自己のためにも探求すること、これを坪井は民俗学の探求の基本とする。

 

「常民とその文化を対象化するとともに自己を対象化すること」(7ページ)

 

これは、ブルデューの「客観化する主体の客観化」と同様の意味合いをもっている。

 

ここで、もっとも重要な点として、これまでのように「日本の民俗を同質で単一な文化とする」ことをやめることであると坪井は考える。

 

「民間伝承の地域的違いを中央起源にかかる文化の歴史的発展とする仮設は、単一文化の史観を安定させ補強するうえに大きな役割をになっている。」(9ページ)

 

なぜ「単一」ではいけないのか。これは「同一性」と言い換えてもよいが、端的にこれは「個体」「個性」の尊重に根差している。

「共同性」「マス」というのは、常に個体と対置されるものである(吉本隆明であれば、個人幻想は共同幻想と常に倒置の関係にある)。

「生命」ということを考えた場合、当然、個体はその個体のみで完結することはなく、何らからの種(全体性)とのつながりをもつ。それは間違いない。だが生命の不思議なところは、最終的には「個体差」というものに行き着く。「個体差」が保証されることが、最終的には「種」にとっても最重要課題なのである。

 

ただし、アジア的共同体、とりわけ稲作を基盤とした社会は、必ずしも「個体」に関心が向かず、むしろ、複数の個体の集まる 「家族」や「血縁」「地縁」を一つのユニットとしてとらえることが多い。

 

元来、「個体」の「長寿」や「富貴」こそが「人間が究極において求めようとするもの」(27ページ)であるにもかかわらず、最終的には「国家」の繁栄こそが、この目標を達成しうるものという「共同幻想」が生まれる。


それゆえ民俗学も、こうした「国家」を主軸とした解釈論が主流となっている。それに対して坪井は「郷土」のもつ個々の知識と「国家」による知識とを分ける。

 

そこで坪井は、こうした国家からの知識と郷土が培った知識とを分けつつ両者の関係を以下の4点に仕分けする。

 

1)教化 国家→郷土

2)持続 郷土

3)習合 国家+郷土

4)交流 国家⇔郷土

 

1)だけをみると「単一」論に傾斜するが、2)3)4)をも射程に入れると、不可避的に多元的民俗世界論となるのである。

 

「従来の民俗学が析出してきた日本民族の価値の基準と、地域の住民の価値の基準とは必ずしも一致しない」(16ページ)

 

これら1)~4)を混同することなく、とりわけ、2)の次元こそ、地域民俗学にとって重要な意味をもつことは言うまでもない。そうした固有性がどこまで維持されうるのか、もしくは、これまで消滅してきたのか。

 

地域民俗学は、以下の人物によって進められてきたと言える。

 

一志茂樹

山口麻太郎

千葉徳爾

桜井徳太郎

福田アジオ

宮田登

地域創生論においては、彼らの仕事ももう一度再点検する必要がある。

 

***

 

稲作民の再生儀礼 稲種子の原理

「稲は日本人にとって、神話、生産、儀礼、至福、政治の各次元において象徴的存在であったと同時に、民俗学がその象徴を対象としてどこまで学問的有効性を主張、説得しうるか」(24-25ページ)

 

当然「稲」だけに還元できようもないことを前提としている問いであるが、むしろ、坪井は、過去になぜ稲を捨てた民俗文化があるのか、または異質の文化(神)によって稲は捨てさせられたのか、はっきりとしないところに、「今日ほどの文化的閉塞」(56ページ)の根があるとみている。

 

***

 

天人女房譚の世界 異人としての畑作民

 

「物語」を読むということが、「未知の自己を発見しながら、自己を蘇らせていくという作業」(63ページ)とみなしたうえで、次のように指摘する。

 

「物語が内容とするところの善と悪の、その悪の要素が選択されて、人間としての秩序の崩壊が進行しているのが、現在的状況ではなかろうか」(63ページ)

生活におけるさまざまな行いが、かつてのような「民俗」との連関を持たなくなっていることは、自明のことである。

これを悲観的にとらえ、文化、伝統、歴史と自己とのつながりを確かめようとする試みは、なにもの民俗学だけの十八番ではなく、哲学においても、ハイデガーやガダマーに代表されるように、数多くのディスクールが編成されている。

むろん、「出産は産院で機械的に産み出されるもの、病気は病院に移して隔離すべきもの、死は、他者によって管理され処理されるもの」(64ページ)という側面があることは確かである。

 

だが、「今、ここ」に生きる私たちには、私たちの「民俗」が生成しており、構造化のプロセスを歩み、100年もすれば、それさえ立派な「民俗」になりうるのではないか、という視点も同時に持っておきたい。

 

そのうえで、「過去」の(もちろんこれも単一でもなければ、単直線でもない)民俗をきめ細かく検証しなおすことにはっきりとした意味が出てくる。

 

本論考では、そうした問題意識のもとで、天人女房譚を構成する要素の一つとして「羽衣の隠し場所が、穀類を積んだ下である」(66ページ)という点に注目してきたこれまでの研究を批判的にとらえている。

 

・天人を女房とした男は定住的稲作農民でない話が多い

 

・羽衣の隠し場所は必ずしも稲積みが絶対的要素になっていない

 

・天人女房の地上での生活年数と出産した子供の数とが特定の数を指示しており、それが、焼畑民の生産生活を軸とした時間観と結びつく

 

・天人界に帰った女房の生産的世界が焼畑農耕社会である

 

すっかり「日本人なら米を食わなきゃ」ということを「自明視」する人が多くなっているなかで、突然「焼畑」という言葉が出てくると驚く人がいるかもしれない。

 

しかし日本において 焼畑農耕 は「第二次世界大戦前まで盛んにおこなわれた」という歴史的、民俗的事実を、忘却してはならない。

 

1950年頃の全国における焼畑分布図がある(69ページ)。これをみると、関東、中部、近畿、山口県、岡山県、広島県長崎県、福岡県、単語半島といったところは焼畑が少ないが、それ以外の土地においては、一定程度以上に広がっている。

 

***

境界の神話と儀礼

 

古代日本の世界観は、以下の3つの垂直に並べられる「界」からなる。

 

・神の住む高天の原 理想郷

・人の住む中つ国 現世

・支社の住む黄泉の国 常世

 

これらは連続しており、往還が可能である。

他の村落社会においても、何らかの境界は存在し、その指標として、道祖神、庚申塔、二十三夜塔などが建っている。

***

 

漁撈民の世界観 房州一漁村の分析

 

「近代以前における日本は、その経済基盤を、伝統的な様式の農耕と漁撈においてきた。それは近代以降の時間に比較すると、きわめて長い時間の流れであったが、いうまでもなく、日本人の思考や行動の様式を決定する諸価値の基準は、その経済基盤のうえに築きあげられてきたのである。」(95ページ)

 

現世と他界は日本民俗社会においては単純に対立するものでも、単純に連続するものでもない。

 

***

 

風土の時間と空間

 

「日本文化を単一的同質形成とみる一元論は、同時に日本文化の担い手たる主体(常民)をも一元的に規定することであり、そのような理解がもはや破たんしつつあることは確実である。」(139ページ)

 

だが同時に「日本」のもつ「風土性」を他国と対比させてくることによって見えてくるものがあることも否定しない。

 

いずれにせよ強調されているのは、以下の点である。

 

「住民のそれぞれの地域に対応するための創造や選択の意志を無視しては、民俗の真の姿をとらえることはできない」(145ページ)

 

「創造」と「選択」。たとえば、「稲作」は日本列島の外側から持ち込まれたことは間違いない。だが問題はそれを選択した人たちとそうではない人たちがいるということ。その違いは何か。

 

そして、持ち込まれる以前にあった文化は、稲作によってどのような影響があったのか。

 

たとえばここで坪井は、岐阜県吉城郡上宝村大字一重ヶ根地区では、以下のような経済構造の変化が歴史的に起こっている。

 

1 昭和以前 雑穀や根菜類の栽培、養蚕、狩猟、川漁、採集

2 昭和10年~ 稲作が開始されるが1と同様

3 昭和31年~ 稲作中心

4 昭和46年~ 観光業への転換

 

繰り返すが、和辻が行ったような「風土論」を坪井はかなり懐疑的にみている。

 

「日本の風土は時間的にも空間的にも、一元的に単一のものとして捉えることはできない。…日本の風土を西欧と比較において規定しようとするときは、一元的単一的な風土と見ることは可能であるが、日本に限定したときは時間的(文化史的)、空間的(地域的)にさまざまな変型なり個別性が認められるのであって、一義的に規定しえないところにこそ、日本の風土の独自性が認められるといいえよう。」(158ページ)


そのうえで、大枠として、稲作文化のような「天皇が占有する国民の公民としての在り方」(160ページ)を意味する「オホミタカラノアリカタ」と、「人々が各々の地域において、その環境の中から自由に物を選び、養い育てて生活することの総体」(同)としての「クニブリ」または「クニワザ」とを対置させている(この「クニズリ」「クニワザ」こそ「文化技術」ではないか?)。

***

 

以下の章、省略

 

半世紀の風土変化 奥飛騨山村民の近代

嘘のフォクロア

故郷と都市民

人間と土の時間

日本文化は単一ではない。“イモと日本人”“稲を選んだ日本人”で日本人の思考様式に衝撃を与えた著者が、さらに稲作民・畑作民・漁撈民などの多様な民俗世界の構造を考察し、風土の変遷を探り、多元的文化の視点から、日本人の明日へ開かれた選択肢を示唆する。

 

 

 

 

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