そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ

いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。(タイトルは、ジャック・デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』より。)

核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

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核の言説データベース~原爆と原発と


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読んだ雑誌
現代思想 Vol/39(14) 特集=反原発の思想
2011年10月号
青土社
2011年10月

ひとこと感想
正確には「反原発運動」をテーマにしており「思想」ではない、と思った、最初は。もしくは「反原発運動」における「思想」の問題を扱っている、と思った、最初は。だがここで大事なことは、「運動」のなかにどのような「思想」があったのか、である。

***

目次構成は、以下のとおり。

▼過去から未来へ
拒絶から連帯へ 荒野に立って 鎌田慧

▼問い
いかたの闘いと反原発ニューウェーブの論理 中島眞一郎
風車の問い 民衆と生きる科学へ 橋爪健郎
足尾・柏崎・福島 反原発運動と反公害運動の重なりから 菅井益郎
〈反原発スト〉は、再開される 「電産中国」、そして 入江公康
巻原発住民投票運動の予言 リスク社会の啓示 成元哲

▼軌跡
『はんげんぱつ新聞』 の歩みから 日本の反原発運動を振り返る 西尾漠

▼くらしから
技術労働についてのまったくの序 最首悟
ひとつの選択 科学・たたかい・くらし 山口幸夫
六ヶ所村から 小泉金吾さんの記憶 加藤鉄

▼原発と日本
脱原発とは何だろうか 吉岡斉
日本政治と反原発運動 本田宏
「放射線ストレス神話」 「風評被害神話」 はだれが作ったのか 高橋博子

▼世界から
アメリカ反原発非暴力直接行動の歴史 阿木幸男
ポスト赤緑連立時代の左翼の存在意義 脱原発を選択したドイツの構造変化との関連で 小野一

▼反原発の思想
あえていう、「原発事故後もいのちがだいじ」 篠原雅武
水のおもさと、反原発 松本麻里

***

たとえば、鎌田彗は、「反原発の運動」から見出される「思想」を「拒絶」「拒否」である、と語る。

「状況が煮詰まってくると、「拒否の運動」しかありえない」(39ページ)

こう語りながら、結局「孤立」化するばかりになってしまうなかで、「連帯」の必要性をも説くが、もっと現実的には、「連合」とどのような関係を結ぶかが、原水爆禁止と原発反対との連携においてもっとも重要だと述べている。

要するにほとんど「思想」論ではなく、「運動・組織」論になってしまうのである。

ただし、見方を変えれば、こうした「実践」において、どういった「思想」がそこにあるのか、それをあらためて再検証しよう、というのが本特集号だ、ということであろうと思う。

***

吉岡斉は、「反原発」が「脱原発」という言葉(=思想)に置き換わったことに焦点をあてている。

チェルノブイリ事故以降に「「脱原発」という新語が日本社会で普及し始めた」(46ページ)

吉岡は、「脱」の思想は、「反」よりも、より多くの人を集めることができると考えた。

その理由はこうである。

反 - 無条件で原発をネガティブな存在と見なす

 - 原発が社会の中で一定の役割を果たしていることを事実として認め、そのうえで、脱却をはかっていくことを目指す

とはいえ、この二つの言葉によって単純に二分化されるのではなく、多様な立場がある。

中山茂(「科学と社会の現代史」)によれば、原発論争に参加する人たちの考えは三つに分かれていると指摘されている(おそらくこれを吉岡は「思想」と呼びたいのであろう)。

1)エネルギー確保は絶対的に必要
2)原子力への科学的研究は必要だが、技術としての原発は未熟
3)エコロジーにとって原子力は重大な脅威であり不要

ここに吉岡はもう一つ、追加する。

4)市場原理から考えて原発の推進は非常にリスキー

すなわち、エネルギー、科学、エコロジー、エコノミー、のどこに比重を置くのか、ということが、「思想」の起点にあるだろう、という思考である。

そして、結論としては1)と4)の対立が、今、核燃料再処理問題において顕著に表れており、しかもそれは、政治的な「左」か「右」という問題ではないことが明らかになったということである。

「原子力開発利用への賛否をめぐる対立は、政治的右翼と政治的左翼の対立ではなく、エコノミーとエコロジーの対立でもないことが、これによって明らかになったのである。」(51ページ)

***

中島は、反原発ニューウェーブに焦点をあてて、新たな運動を支える「思想」とは何かを探ろうとしている。

今でこそかなり知られるようになったが、当時は、それまでの「運動」の「担い手」ではない人たちが何かをはじめたといったような受けとめられ方をしていた。

これまで反原発運動にかかわっていなかった人たちとは、つまり、チェルノブイリ事故を発端とした、以下のような人たちのことである。

・広瀬隆の講演によって原発が怖ろしいと感じた女性たち(特に子どもをもつ)
・安全な食材を求めて産直や有機農業運動従事者
・自然との共生をめざしたコンミューン生活実践者

中島は、彼らが「知識」ではなく「感情」を中心にすることによって、運動を新たなものに変えて行った、という解釈を行っている。

「その真剣さや本気さや熱気が、この闘いのピープルパワーを具現化し、参加した人々の中に感動と自信を与えた。」(59ページ)

その後の「脱原発」「反原発」デモなどでも踏襲されることになる「思想」がここから生まれてきているのである。

それを「タカマツ三原則」と言うらしい。

1)行動全体を指揮、統率する団体も個人もいない
 参加者は、自己の意志と責任において、行動する

2)参加者のあいだに上下はない
 グループや団体のあいだにも上下はない

3)1)2)を前提にして、この行動は誰にでも開かれている

中島はこの思想の根底を次のようにまとめている。

「「統一」と「団結」の思想にもとづく集団や組織を単位とする闘いではなく、個人を単位とする闘いであった。」(59ページ)

それゆえ、電力側や警察などにたいしても「敵対」はしない。

「反原発ニューウェーブの論理とは、他人にゆだねることで、自立できず、権威を取り込むことで平等を実現できていない自らの在り方が多くの原発の建設を赦してきたことに気づき、その自分の在り方を変えようとしている人々の論理である。」(60ページ)

しかしそのあと、電力会社の対応などもあり、1980年代後半に、昂揚期は去ることになる。

だが、2011年以降、ふたたびこのときの「運動」と「思想」が蘇ることになる。

***

橋爪は、物理学者としての研究と公害や原発、環境問題へのかかわりの歩みのなかから自身の「思想」を探っている。

一言でまとめれば、「科学主義」に対する批判、ということになる。

***

少し尻切れではあるが、本特集号を読んでわかったことは、「政党」とは無関係な「運動」にこそ、思想があるということである。



現代思想2011年10月号 特集=反原発の思想/青土社
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読んだ本
ナージャ 希望の村 チェルノブイリ、いのちの大地
本橋成一 文・写真
学習研究社
2000年12月

ひとこと感想
原発事故がもたらした、故郷を離れて暮らすという体験を、少女の目と口を通じて描かれる、という体裁をとった本。彼らの暮らしぶりを読んだり、写真で見るだけであるにもかかわらず、
彼らの静かな美しさ、ぐっと心に、沁みてくる。何よりも驚いたのは、本当に、Google Mapからも、この村の名前が消えていたことだ。

***

印象深い言葉があった。

後に登場するニコライおじさんの朗読する、セルゲイ・エセーニンの詩の一節。

「天国はいらない。故郷をあたえよ」(18ページ)

胸がしめつけられる言葉である。

(もちろん、もともと「故郷」という概念のない人、「流浪」を基礎とする人などもいるので、人類に「普遍」の概念ではないが、「故郷」とともに生きている人にとっては、切実な訴えであることは、この私でも想像がつく。)

***

タイトルにある「ナージャ」は、少女の名前で、本名はナジェージダ・ユラーノバ。1987年にベラルーシ共和国のドゥヂチ村で生まれる。

国から引っ越し命令があったようだが諸事情により家族がチェチェルスク(チェチェルスキー)の町に移ったのが1996年。

チェルノブイリ原発はウクライナ共和国にあるが、その北部に位置すベラルーシにも汚染区域は広がった。

ちなみにドゥヂチ村やチルチェルスクは、ホメリ(ゴメリ)から北にある。

ゴメリとチェチェルスクのあいだは、約100キロ。

チェチェルスクよりも南に30キロほど戻ったところがドゥヂチである。

しかし、Google Mapでも、チェチェルスキーまでは確認できるものの、ドゥヂチ村は見つけることができなかった。

Google Map開発時には、すでに地図上から消えていたからであろうか。

いずれにせよ、
ドゥヂチは、Google Mapにもない村なのである。

***

ナジャには父母のほか、上に3人の姉と1人の兄がいる。上の姉2人は結婚して別居しているので「5人家族」ということになる。

本作のはじまりの時点、すなわち、1996年8月には、ドゥヂチ村には彼らの家族のほか5家族だけであった。

チャイコフスキー家
・おばあさん(82歳) 村の最年長
・息子(62歳) 黒ぶちの眼鏡
・マリア(馬) 賢い
・シロ(山羊)

・リョチックおじさん(62歳) 電話局の副局長
・ソフィアおばさん(62歳)
・1人乗り飛行機

・ニコライさん(62歳) 一人暮らし

クルチン家
・おじいさん
・オリガおばあさん
・ブタを育てている

・ボクサーおじさん
・昨年母が死亡

そう、これだけなのである。

もちろん事故前はもっといた。およそ300人くらいだったという。

公民館では映画上映やダンス会なども催されていた。郵便局も診療所も、売店もあった。

(2015年現在、ここで暮らしている人は、誰もいなくなっている可能性がある。)

***

村での暮らしは、とても、質素であるが、一種の「豊かさ」があった(過去形)。

彼らの暮らしの基本は、農地と家畜小屋、そして近場から切り出す木材(ペチカで燃やす)、そして、年金である。

現金経済は、暮らしのなかからみると、わずかなものであり、大半は、自給自足的である。

ジャガイモやトマト、胡瓜、キャベツ、玉ねぎ、南瓜、林檎など、収穫した作物は、地下室に保管される。

食べものについては、制度上は禁じられていたが、きのこ以外は線量が下がっているため身内でたべる分には許容されている。

きのこは、子どもは食べてはならない、と保健局の人から言われている。

ニワトリや豚、山羊などは家族同様に飼育するとともに、自分たちの手で殺し、食す。

「わたしも何度もぶたを殺すところを見ました。ずっと仲良くしていたから、ちょっとかわいそうだけど、でも父さんにいわれたように、わたしがそのお肉をお皿に残したら、死んだぶたがもっとかわいそうだと思うのです。」(99ページ)

こうした「心性」は、この村で共通しているようで、父親は次のように述べる。

「それがいのちをまっとうするということなのさ。いのちをいただくということは、やさしい気もちがないとできないことだよ」(100ページ)

そして、この村には、テレビもなければ、電化製品もない。電車も走っていない。

照明については記載がないが、おそらく「電気」を使っていないのではないか。

彼らは、「電気」を使っていないのに、「電気」に必要な発電のために、村を追われた人たちなのである。

***

ナージャたちがチェチェルクの町に移っても、当初は父親だけ、村に残った。

町で仕事が見つからなかったからである。

そのあと、辛うじて仕事が見つかり、町で一緒に住むことになる。

結婚して別居していた姉の一人はこの町に住んでいるので、産まれた赤ちゃんの様子を見に行ったりしている。

村の学校は廃校になっていて、ナージャたちは姉からいろいろと教わっていたが、町にやってきて学校に入り、多くの友だちができて喜んでいる。

***

チャイコフスキー家のおばあさんは、動物や植物にも、いつも話しかけていたことをナージャは思いだす。

どうして話をするのか、ナージャはかつておばあさんに聞いたことがある。

「みんな人間と同じいのちをもっている仲間。そのひとつひとつのいのちは、すべてのいのちにつながっているんだよ。ゆたかっていうことは、いのちのあるみんながきもちよく生きられることなんだよ」(115ページ)

「共生」という言葉は、少しフラットすぎてあまり使いたくないが、「いのちあるみんながきもちよく生きられること」というのは、魂がこめられた言葉だと思う。

経済的な豊かさ、言い換えれば「世の中、金がすべて」ということを全面否定するつもりはないけれども、そのことにばかり気をとられてしまっては、「ゆたかさ」を見失うことになってしまう。

それは、いろいろな「いのち」との向き合い方の違いであること、気づかなければならない。

人間のあいだでも、他の動物たちとのあいだでも、そして植物とのあいだでも、それぞれ、かけがえのない「いのち」のやりとりがあるということを。

***

なお、「ナージャ」の正式な名前「
ナジェージダ」とは、ロシア語で「希望」のことである。



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読んだ本
亀裂 反核運動シンドローム
反核研究会
日中出版
1986年7月


ひとこと感想
4月にチェルノブイリ原発事故が起こったというのに、7月にこの本を出していること自体に違和感を覚える。本文のみならず、あとがきやまえがきにも事故への言及が一切ない。少なくともこのことから、当時の「反核」運動が「原発」に関心が向いていないことが分かる。そのうえでの内紛としか言いようがない。

「反核研究会」は、代表が、上田裕一(UEDA Hirokazu)。

***

1954年に起こった第五福竜丸事故に端を発して、放射能汚染への不安が広がり、
主婦層を中心として、原水爆実験の禁止を求める署名運動が起こり、それが、「原水爆禁止世界大会」という形をとり、大きな勢力となる。

ところが、1963年、共産党系と総評・社会党系と
がそれぞれ「原水禁」と「原水協」に分裂してしまう。

1977年には一度、表向きは再統一されるものの、1980年代には常に問題が発生していた。

「思えばわが国の原水禁運動は、対立と分裂の苦い歴史を刻み続けた。その困難をのり超え、77年に世界大会の統一開催にこぎつけることができたのは、評論家の中野好夫氏、日本山妙寺山主の藤井日達師らの「五氏アピール」によるところが大きかった。中野氏は84年の禁、協対立の際にも調停役を演じ、再分裂の機器を上壇場で救った。その中野氏、藤井師らはいまや故人。」(115ページ)

もちろんこうした「内紛」は、多くの人たちの本意ではなく、主に、政党や労組などの「組織」のあいだのつまらない小競り合いにすぎないという見方もできるが、重要なのは、なぜ、そうした対立や分裂が起こったのか、ということである。

大雑把にいえば、争点は、ソ連(のちには中国)の核兵器に反対するかどうか、であった。

端的に、「原水爆禁止」を訴えているのであれば、ソ連の核であろうと中国の核であろうと、関係ないはずである。

にもかかわらず、米国の核は「きたなく」、ソ連や中国の核は「きれい」だと主張する政党があったのである。

確かに当時の、国際政治上で言えば、米ソいずれかの陣営につく、ということが、非常に重要な意味をもっていた。

右翼とは、親米のことであり、左翼とは、反米親ソ(親中)であった。

たとえ「理念」として、世界中の原水爆に「NO」と言いたいとしても、「戦略」上、いずれかの陣営の「勝利」によってこそ本当の「平和」が訪れるのだ、と考えられていた。

それゆえ、政党主義の人たちにとっては、「原水爆」よりも「米」「ソ」の方が上位概念となっていたのである。

これが、分裂の第一の理由であるが、実はもう一つある。

「反核」のなかに「原発」を含めるのかどうか、である。

もちろん発端においては、含まれていなかったし、その後も、必ずしも重要な論点となる機会は多くはなかった。

しかも、労組のなかには、電力関連もあり、端的に彼らは原発反対を共通「理念」とすることを許しはしなかった。

それゆえ、ただ一点「原水爆禁止」であり続けないかぎり、「彼ら」が長年にわたっていっしょに行動するということ自体が、奇跡的なことだったのである。

これは、イバン・イリイチの図式化で言えば、「左-右」という政治的選択と、「ハード-ソフト」という技術的選択との混同、ということになる。

要するに、左か右かにかかわりなく、技術的には、ハードなものとしての原子力を選択するのかどうかが問われていたはずなのである。

それゆえ、本書を読んでいても、本当に、内部事情を知っている者が楽しむためにつくられたとしか思えず、なかなか関心がもちにくかった。


とはいえ、もちろん本書の著者も、そのことを承知してはいる。

「大会の実状は国民の悲願である「原水爆禁止」から乖離の幅を広げてきた」(3ページ)

党派間のイデオロギー闘争、組織や運動をめぐる考え方の違い、それらが前面に出てきたのが、言ってみれば原水爆禁止運動の歴史であったとも言える。

そして、その結果ようやく得られたのが、特定の政党名やマークなどを誇示せずに、どんな個人であれ、どんな団体であれ、「原水爆」に反対する人たちで手を結び、抗議運動を行う、という基本であった。

本当に大事なのは、「左」でも「右」でも、ましてや、「左」のなかの、「共産党」でも「社会党」でもないはずである。

実際、この原水爆禁止にかかわっていた多くの人は、「市民団体」であって、上記のような政治イデオロギーに与していない。

だが、繰り返すが、「原水爆禁止」を「反核」としてとらえる運動は、「原発」を含むのか含まないのかによって、もう一度混迷することになる。

なにもこれは、党派の問題だけではない。

私たち自身が、今まであいまいにしてきた「意識」を再考する機会であると、言うべきであろう。

こうした経緯を如実に表している一人の知識人がいる。

武谷三男である。

彼ほど生涯にわたって「原子力」に翻弄されてきた人物はいないであろう。

多くの人が指摘しているように彼の生涯は、一貫性よりも、さまざまな変化や葛藤をみることができる。

大雑把に言って以下のような論点が抽出できる。

・戦争を終了させた威力としての原爆
・ファシズムに対する勝利としての原爆投下
・世界平和の原動力となりうる原子力(原発)
・米国の未熟な原発技術の導入への反対
・ソ連の原子力技術への賞賛
・水爆と原爆とを分けて考える
・世界平和を阻害するものとして原水爆
・廃棄物を含めた原発稼働の問題点の指摘
・公害としての原発という認識

少なくとも1980年代までには、こうした課題を抱えながら、少しずつ主張を変えてきたのが武谷であり、その意味では「原水爆禁止運動」もしくは「反核運動」もまた、非常に困難な道を経てきたことは想像に難くない。

なお、原水爆禁止運動は、原則として、「暴力集団」以外、「大会主旨に賛同する人は誰も参加できるはず」(59ページ)なのであった。

そしてこうした理念を、あらためて提起したのが、後の、原発「ニューウェーブ」と呼ばれる動きであった。

しかし本当はそれは、「ニューウェーブ」でも何でもなく、むしろ「原点」であり「本質」であったのだ。


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読んだ本
アフター・フクシマ・クロニクル
西谷修
ぷねうま舎
2014年6月

初出は2011年~2013年「現代思想」「世界」ほか。

ひとこと感想

「3.11」以降の日々に書き連ねたものをまとめた本で、「言葉」というか「概念」の見直しがとても鋭い。だが、勘違いや感情的発言も多い。本書は当時の緊迫した「記録」という意味では、意義深いが、「正確」さや長期的な「思想」としては、いろいろと保留をつけて読まなければならない。

***

序章 「未来」はどこにあるのか

初出: 現代思想 2011年5月号(39(7)(なお、震災とヒューマニズム 日仏会館・フランス国立日本研究センター編 2013年、に冒頭を差し替えて収録

西谷は、「フクシマ」のみならず、地震と津波の被害も含めて問題を論じている。

「そこに懸かっているのは、ひとことで言えば産業社会のあり方である。」(10ページ)

「産業社会」とは、「すでに半世紀近く前から、西洋に始まった技術・産業・経済の複合システム」(11ページ)のことである。

1970年頃から、端的に、1)資源の枯渇、2)地球環境の劣化という二つの局面からそのシステムが「破綻」するということが予見されてきた。

にもかかわらずこのシステムは、問題はすべて技術的に解決可能であるという前提を崩さず、これまで通りの「利潤追求」と「無限成長」に絶対的価値を置いたまま現在に至っている。

原発は、こうしたシステム内における「問題解決」の手法としてむしろ期待されたものである。

廃棄物問題も、今は困難であってもいずれ解決するという楽観的見通しのもとに、後送りされてきた。

国内では、原発推進、原発反対は、完全に対話不能な状態に陥ってしまっているが、今、私たちがすべきことは、この「危機」とどうともに生きてゆくのかである、

「この試練を日本がどう受けとめ、どう立ち直るかのかを、文明の未来を占うものとして重大な関心を抱きながら注目しているのである。」(14ページ)

ただし西谷もまた、無媒介に原発の反対を前提に述べはじめている。

「原発が人びとの住むところを奪い、子どもたちの将来を不安にさせるのなら、人びとはむしろ原発なしの、そしていまよりも電力消費の少ない、その代わりに核惨事の恐れのない生活の方を選ぶだろう。」(15ページ)

現実は、そうではない。

西谷のように考える人もいる一方で、その逆の考えをもっている人もまた、数多くいるのである。

そういう人たちを、西谷は数え上げて罵倒している。

経産省の原子力安全・保安院の官僚(ここは特定名ではない)、経団連の会長、米倉弘昌、原子力安全委員会の斑目春樹、「こういう連中」(18ページ)への憎しみがわいている文章を書く気持ちはわからないではないが、少なくとも2015年の今、私たちは、これを書いている西谷よりは冷静にならなければならない。

以降に述べられる「未来」への模索は、ごもっともである。が、大事なことは、「反動」的にこれまでと逆のベクトルに一気にふれることではない。

もっともすべきことは、むしろ、どうしてこうした事故が起こったのか、を問い続けることである。

もっと言えば、これまでのやり方に線を引いて、ベクトルの向きを変えるオルタナティブと、これまでのやり方を冷静に分析し、そのなかに内包されている課題をていねいに確認してゆくこと、その両方があってはじめて、「未来」が拓けてくるのではなかろうか。

ところで西谷は、一体どういった「未来」を想定しているのだろうか。序章ではただ、最後に、宇沢弘文と内橋克人の「始まっている未来」を挙げている。

これはまだ私は読んでいないので、ここでは保留にし、いずれ読んでコメントをしようと思う。

***

1 文明の最前線から

初出: 世界 2011年5月号(817号) 原題 原題産業文明の最前線に立つ

西谷は、阪神淡路大震災と「3.1」とを対比させて、次のように述べている。

「それは日本の受けた大きな「痛手」ではあったけれども、部分にとどまり、全体でカヴァーすれば「快癒」しうる性質のものだった。けれども今回はそうではない、日本が同じかたちで回復し、同じような生活を取り戻すことはありえない、そういう深みに届く出来事だということだ。」(22ページ)

私はこうしたとらえ方には同意できない。

まったく逆に考えている。

「3.11」への衝撃は、
あの日、1995年の出来事に対して、自分が、社会が、真剣に取り組まなかったことに起因する、と思っている。

地震がもたらしたもの、津波がもたらしたもの、原発事故がもたらしているもの(現在進行形である)、これらは、それぞれ異なる部分もあるけれども、共通しているものがある。

道路、鉄道、ビル(はこもの)、原発などの人為的「構築物」に対する私たちの意識の持ち方、そうした人為的構築物の布置戦略を組み立てる都市計画や地域計画のありよう、国としての対応、それらが問われていたのが、阪神淡路大震災であり、「3.11」はその延長線上にある、と考えるべきものだと思う。

だから西谷も、次のように述べる。

「われわれがいま直面しているのは、津波によってであれ、なんであれ、われわれの社会を乗せているそのレールが無残に解体された状況なのである。」(24ページ)

本来、阪神淡路大震災でもっと問うべきものだった、という反省こそ、重要だ。

このあと西谷は、「戦争」「有事」という概念を用いて「フクシマ」を語ることに執心しはじめるが、こうしたことはすでにボードリヤールが「透き通った悪」として1990年に述べたことである。

それはさておき、下記のような議論の「前提」については納得のゆくものである。

「われわれは期せずしてヒロシマ・ナガサキに続いて、まったくありがたくない「文明の実験」のさなかに置かれているのである。けれども、だからこそ、この被災にどう対処するのか、この危機からどう抜け出るかに、世界の未来がかかっているといっても過言ではない。」(31ページ)

しかし「未来」にこだわるあまりに「結論」を急いではならない。

「過去」のことに私たちはより一層こだわらねばならない。

それゆえ、下記のような表現にも、細心の注意を払わねばならない。

「放射線はもともと、人間ばかりか生き物の存在とは相容れないものなのだ。」(33-34ページ)

これは、すべて「間違い」とは言えないとはいえ、引っかかる言説である。

強い放射線が生命にとって厳しいものであることは確かではあるものの、現に放射線のなかで私たちは生きているのであり、かつ、私たち自身が放射線を出している以上、「相容れない」と言ってしまうと、自己否定となってしまう。

より正確に言えば、「放射線と生命とは、常に緊張関係にある」とか、「両者は絶妙のバランスで、現在の姿を維持している」とでもなるであろうか。

ともかく、「生命」にとって「放射線」が排他的なものと決め付けるような言い回しは、禁物である。

また、そのあとに続く、当時の原子力安全・保安院の西山審議官の「原子力の代わりは停電だ」発言に対する罵倒は、ここではふれないでおく。

***

2 アフター・フクシマ・クロニクル

*この章は要するにブログ記事を時系列で並べたものである。

3月15日の日付が最初になっている。

内容は、他の章と大半が被るので、省略。

被らないなかには、報道の問題として、死者の数を警察庁発表に基づいてしか伝えずに、その全体像を自分たちの責任で占めさないこと、戦場と同じく、現地で闘っている人たちの現実を直視せずに、30キロ外からしかカメラ撮影をしていないことなど興味深い内容もある。

また、「風評被害」や「自粛」など、報道が伝え、専門家が述べる言葉がおかしいし、「ゴーストタウン」や「ヒトが20年住めなくなる」といった、本当のことを言うと凄まじい非難がまきおこるのもおかしい、と西谷は疑義を呈する。

ほか、浜岡原発への懸念や、沖縄問題への忘却の戒め、東電の「本店」と現場との確執など、鋭い指摘もあるが、誤謬も混ざっている(別記事で書いた)。

「原子力の「平和利用」は、ドンパチも起こらない「平和」なときうをついに「有事」に変えてしまった。」(109ページ)

なお、内容面というより、「商品」として本書にたいして、思うのは、2,000円する本のおよそ半分のページがブログ記事のそのままの掲載であることだ。

***

3 核技術のゆくえ

初出: 連続無窮 11号 連続無窮の会 2011年8月

「われわれは核エネルギーを石炭や石油と同じように考え、あるいはその理由を"産業"のパターンにあてはめて語り、"核燃料"を燃やした後に"廃棄物"ができると言いならわしている。けれども、核分裂によるエネルギー放出が、化学反応である"燃焼"とは根本的に違うように、そこで生み出されるのもじつは"廃棄物"ではない。むしろ実際には"廃棄"することのできない"代物なのだ。」(152ページ)

だからこそ、これからは、もっと核技術や放射線科学を磨かねばならない、という意見には私も賛成であり、そういう意味で「原子の力の火」を絶やしてはならない」ことは言うまでもない。

***

4 地震に破られた時間、または手触りのある未来

初出:世界 2012年1月臨時別冊 (原題は「
地震に破れ解き放たれた時間、または手触りのある未来」)

「1000年に一度」の大災害であったと言われるその「1000年」についての考察。対比されるのは「近代」という「200年」の歴史。

ほか、「社会」「世」「人間」などにもふれられているが、大方の内容はこれまでと大きく重なっている。

***

終章 ここにある未来――ジャン=ピエール・デュピュイとの対話

初出: カタストロフィと正義 国際カンファレンス 2012年3月21日
     言語文化研究 24(4) 立命館大学国際言語文化研究所 2013年3月

ここでは、モーリス・ブランショが次のように述べた、と記されている。

「核兵器によって、人類は自殺の能力を獲得した」(209ページ)

だが、これは出典が書かれていないので、どこに書いてあるかが分からない。

難儀である。



アフター・フクシマ・クロニクル/ぷねうま舎
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読んだ本
破滅の日 海外SF傑作選
福島正実編
講談社文庫
1975年5月

ひとこと感想
戦後アメリカ合衆国のSF作家が「破滅の日」をどのように思い描いたのかを一望できる短編集。比較的明るいことと核兵器が原因のものが少ないことに驚く。それは、目の前の不安から逃れたくて、ありえない「虚構」に耽溺しているようにも見える。

やや拙い日本語訳には目をつぶるとしても、解説にある書肆データの誤りはとても残念である。

誤 → 正 (309-310ページ)
新ロト記 → ロト
C・L・ムーア → ウォード・ムーア
Last → Last Night of Summer Day
シェクリー → シェクリィ

また、本書が、もとは芳賀書店より1973年2月に刊行されていること、そのときに収録されていた以下の作品が文庫版には収められていないことが、記載されていないのも不満である。

にせ者 
フィリップ・K・ディック
 Impostor Philip K. Dick 1953

雷鳴と薔薇 
シオドア・スタージョン
Thunder and Roses  Theodore Sturgeon 1947

***

本書は、1946年から1954年にかけて米国で発表された「人類破滅」を描いた短編を集めたアンソロジーであり、必ずしも「原水爆」を主題としているわけではない。

実際にここに収められた7編が、どういった理由で「破滅」を迎えることになったのかを列挙してみよう。

▼太陽系最後の日 アーサー・C・クラーク 宇野利泰訳
 Rescue Party Arthur C. Clarke 1946

 → 太陽の爆発。地球外生命からの地球の滅亡の観察。


ロト ウォード・ムーア 朝倉久志訳
 Lot Ward Moore 1953

 
→ 核戦争。生き残りをかけた非情な選択。

大当たりの年 ロバート・A・ハインライン 福島正実訳
 The Year of Jackpot Robert A. Heinlein 1952

 
→ 核戦争と太陽の異変。物騒な出来事が立て続けに起こる「当たり年」。

終わりの日 リチャード・マティスン 福島正実訳
 The Last Day Richard Matheson 1953

 
→ 太陽の温度が急上昇。最後の日を前に刹那的になるが最後は母の元へ。

夏は終わりぬ アルフレッド・コッペル 小笠原豊樹訳
 Last Night of Summer 
Alfred Coppel 1954

 
→ 太陽の温度が一時的に急上昇。わずかな人間しかシェルターに入れない。

ひる ロバート・シェクリィ 宇野利泰訳
 The Leech Robert Sheckley  1952

 
→ 謎の地球外生命体。最終手段として原水爆を用いて殺戮しようと試みる。

豚の飼育と交配について レックス・ジャトコ 斎藤伯好訳
 On The Care And Breeding Of Pigs Rex Jatko 1954

 
→ ウイルスによるパンデミック。地球外植民地での出来事。すでに地球の生命は滅んでいる。

***

すなわち、7編中2編だけが「核兵器」に起因した「破滅の日」を描いたということになる。

これは「傑作選」として作品を選択する際に、「核兵器」に絞らずに、さまざまな原因の「破滅の日」作品を並べる、という意図があったということになるが、それのみならず、「破滅の日」がそのまま「核戦争」としないところに、SFらしさがあるとも言える。

現実世界でもっとも起こりうると思われる「核戦争」をあえて脇においやり、別の可能性を考えること、もしくは「破滅の日」の想像力を膨らませること、これも確かにSFの醍醐味ではある。

だが、もしかすると、当時の米国の作家たちは、まだ十分には核戦争への不安を抱いていなかったのではないだろうか。

むしろ、「太陽」の大異変への不安が高かったのではないか。

両者には、根元的な差異がある。

核戦争は人為的であり、太陽の異変は非人為的である。

また、他の、謎の地球外生命体もウイルスも、非人為的である。

言ってみれば、戦後のこの時期には、戦争で勝利するために用いられた「原爆」は、あくまでも敵国を降伏させ戦争を終結させるための「手段」という次元での理解はあっても、「世界」を消滅させうるという意識は、それほど高くはなかったのではないか、と推測される。

それよりも「自然」や人間の手に負えないものによって、人類や地球が滅ぼされるという発想が主たるものとなっているように思われる。

「破滅」はすなわちここでは、「起こりえる」ものとして「不安」視されているのではなく、「起こりえない」ものとして「楽観」視されているのである。

おそらくこの後、1950年代後半から1960年代にかけて、こうした明るい「破滅」は姿を消し、人為的で、「起こりうる」ものとして、不安の対象に転ずることになるだろう。

したがってこのアンソロジーは、単純に「破滅の日」をテーマにした作品を集めているのではなく、明るく輝く「破滅の日」を楽しんでいるのである。


破滅の日/講談社
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読んだ本
日本の原子力60年 トピックス32
原子力資料情報室
西尾漠 文 今井明 写真
原子力資料情報室
2014年3月

ひとこと感想
簡便な原発開発史であるが、この60年間に何が起こってきたのかということだけでなく、なぜ「フクシマ」が起こったのかをていねいに省みている点が本書の特徴である。

***

まず、本書で言う「原子力」とは、専ら、「原子力発電」のことであり、「原水爆」や放射線を使った医療診断や処置、工業的利用などは含まれていない。

よって、以下でみる「原子力60年」や「トピックス32」は、あくまでも「原発」にかぎられた内容である。

1954年に最初の原子力予算が国会で成立したことから60年を経た歴史的流れをたどろうとしている。

ヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸事件、原水爆実験、キューバ危機などは、本書の対象とはならないことに注意したい。

言い換えるならば、本書の試みは、2011年に起こった東電福島第一原発事故を起点とし、そこから60年前に遡り、この間に、原発=原子力開発は、どのような道をたどってきたのかを見つめ直そうというものである。

まえがきで、原子力資料情報室の共同代表の一人である山口幸夫が次のように述べている。

「この60年、結果として日本はフクシマを生んだのである。」(2ページ)

これら「32」のトピックは1954年から年代順にならんでいるが、単に時系列を追いかけるだけでなく、以下のような原発をめぐる「課題」を再考することもできるとしている。

・原子力発電はどのように導入されたのか、そして以後、どういった影響があったのか

・原子力に関係する方や制度はいかなる変遷を経てきたのか

・これまでどういった原発関連事故があったのか

・住民や市民は原発にどのような抵抗と拒否をしてきたのか

・原子力を推進するための組織はどういった形で組み立てられ、どのように変更して原子力を温存させてきたのか

・原子力トラブルはどのように隠されどのように公になってきたのか、また技術的破綻はいかにして起こったのか

以下では、まず、年表的にみやすく並べることにし、段落を落としているのはトピック内の文章で登場した大事な出来事である。なお、気になるトピックや内容については、そのあとにまとめて抜き出しておくことにする。

***

1954年 日本発の原子力予算が提案された

 1953年 アトムズ・フォー・ピース(アイゼンハワー米大統領)
 1955年 原子力予算の可決

1957年 日本原電成立

 1956年 原子力基本法施行

1963年 動力試験炉JPRDが発の発電

 1967年 動燃、発足
 1968年 労組との闘争激化
 1976年 
JPRD運転終了
 1986年 廃炉開始(~1996年)

1970年 軽水炉時代の開始(敦賀、美浜)

 1971年 東電福島第一原発営業運転開始
 1972年 ECCSの安全性の疑義が高まる

1973年 石油危機

 1974年 電力・石油消費規制
 1980年 第二次石油危機

1974年 電源3法公布

「これらの法律がつくられた背景には、各地の原発反対運動で新規原発の建設が難しくなっていたことがある」(26ページ)

1974年 原子力船むつの放射線漏れ事故

 1969年 むつの進水式
 1995年 むつの原子炉撤去

1975年 反原発全国集会――生存を脅かす原子力

 武谷三男、星野芳郎、久米三四郎、市川定夫、高木仁三郎などが参加

 1975年 原子力資料情報室開設

1976年 美浜1号燃料折損事故の発覚

 1973年 
美浜1号燃料折損事故(関電が隠し続ける)
 1976年 田原総一郎が内部告発を受け「原子力戦争」で暴露

1979年 TMI原発事故(米国)

 1980年代後半 炉心溶融が起こったことが報告される
 1985年 溶融燃料の改修開始(~1990年)

1980年 公開ヒアリングの開始(美浜3、4号機)

 1980年代 原発阻止がヒアリング阻止運動に転じ目的が形骸化
 2011年 公開ヒアリング制度抹消

1983年 放射性廃棄物の海洋投棄凍結(ロンドン条約締結国会議)

 1980年 原子炉等規制法改定、海洋投棄を企てる
 1993年 完全禁止

1984年 六ヶ所村「核燃」計画

 最終的に、1)ウラン濃縮、2)再処理、3)放射性廃棄物埋設、4)高レベル放射性廃棄物の貯蔵、5)MOX燃料の加工、を行う

 1969年 むつ小川原開発地域に指定
 
1986年 チェルノブイリ原発事故(ソ連)

 2005年 チェルノブイリフォーラムにて事故報告
 2015年 新シェルターの完成予定

1988年 新たな原発反対の動き

 1988年 原発止めよう1万人行動運動(日比谷公会堂)
 1989年 脱原発法制定運動(~1991年) 330万人分の署名を集める

1989年 東電福島第二原発3号で
再循環ポンプ破損

 1984年 同原発1号機でも同じ整流板の脱落
 1988年 同原発1号機で溶接部ひび割れ

1991年 美浜原発2号機で蒸気発生器の伝熱管が破断

 1987年 ノースアンナ1号機(米)で最初の
蒸気発生器の伝熱管破断

1993年 仏よりプルトニウム搭載船が到着

 1984年 仏より最初のプルトニウム搭載船が到着

1995年 もんじゅ事故

 1994年 もんじゅ初臨界
 1996年 高速増殖炉を選択肢の一つに格下げ
 2010年 運転再開(すぐに事故発生)

1996年 巻町住民投票

 これまでの住民投票では、いずれも原発誘致反対が大きく推進を上回る

 2003年 東北電力が巻町の原発計画を撤回
 
1997年 動燃の改革

 1997年 動燃における事故への虚偽報告

1998年 東海原発の廃炉

 2001年 解体届が経産省に提出される
 2015年現在 原子炉解体は難航中

1999年 JCO臨界事故

 当初の事故調査報告書では決死の作業をして臨界収束作業を行った人達を含まるに「被曝者は69人」としたが、これは、当時の原子力安全委員長である佐藤一男は、「これは言うなれば覚悟の上で、知っていて被曝するということでございます」と答弁、「計画被曝」という考えを述べるが、最終報告書では「計画外」との区別はなくなり、最終的には「666人」とされる。

2000年 芦浜原発計画の撤回

 1963年 中部電力が芦浜原発計画を表明
 1996年 「三重県に原発はいらない」県民署名が81万余集まる

2000年 電力自由化(小売の自由化)

 1995年 電気事業法の改正(卸売りの自由化)
 2007年 全面自由化が先延ばし(2020年頃?)

2002年 東京電力の原発トラブル隠し

 2000年 内部告発
 2004、5、6年とトラブル隠しが続く

2004年 核燃料サイクルをめぐる怪文書「19兆円の請求書」

 経産省の村田成二事務次官が仕掛けたものの、中川昭一を説得できなかったために国会はうごかなかったと言われている。

2005年 原子力政策大綱

 基数の減少、出力も上がらず、使用済み燃料の全量再処理路線の見直しなどが盛り込まれており、原発開発がピークを過ぎたという印象を与えた。

2007年 東洋町長が勝手に下記公募に応募し大問題となり、最終的に出直し選挙で落選、収束する

 2002年 高レベル放射性廃棄物の処分場候補地の公募開始
 
2009年 軽水炉における
プルトニウム混合燃料の利用開始(プルサーマル)(玄海原発3号機)

 2010年 伊方原発3号機、東京電力福島第一原発3号機、高浜原発3号機でも開始

2011年 東京電力福島第一原発事故

「何よりもの「想定外」は、事故の終わりが見えないことだ。事故そのものが終わっていないのである。どうなったら「終わり」と言えるのかすら、わからない。」(128ページ)

2012年 原子力規制委員会の発足

 2013年 新基準を法令化、立地指針を廃止する一方で、新基準を既設炉に適用させること、過酷時対策の導入、そして、原子力災害対策の範囲を30キロにまで拡大を新たに含んだ。

***

以上のように、例外的に国外の、TMI原発事故(1979年)とチェルノブイリ事故(1986年)が含まれていた。

ほかは、いずれも納得のできるもので、一通りのことを知ることができると考えられる。



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先日書いたブログ記事では「ツバメ」と書いたが、分からなくなった

 ツバメの巣づくり と 商店街
 http://ameblo.jp/ohjing/theme-10011708170.html

以下、次報である。

まず、先週の某商店街。


このあいだとは別のところ、すなわち、昨年よりも屋外からみて奥のところに巣を作りはじめていた。

そして、今日。


通りに立ち寄ると、巣はどうやら、ほぼ、完成していた。

よくみると、巣のなかに、何かいる?

ヒナがもう、産まれたのだろうか?

よ~く見てみると、巣のなかには、親鳥がいるようだ。

残念ながらケータイのカメラなので、これ以上拡大できない。

が、肉眼でみるかぎり、親の大きさであった。

そろそろ卵を産むところなにかもしれない。

ちょっとほのぼのとした気分で、立ち去ろうと思ったのだが、何か気になる。

巣にばかり目が行っていたが、上の画像をもう一度みていただければ分かるが、右端になにか写っている。

???

よく見てみた。

!!!


箱の先にとまっていた、もう一羽。

ツバメなのか、または、セグロセキレイ、のように見える。



*参考までに、下はセグロセキレイのポストカード↓

ポストカード「岡山県総社市 水辺のセグロセキレイ (高梁川)」photo by 高尾信行-えは.../株式会社アトリエミキ
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ツバメはこんな感じ↓

ツバメのくらし (科学のアルバム)/あかね書房
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この鳥が、なんという鳥なのか、私は分からない。

が、おそらく次のことは仮説として言えると思われる。

すなわち、巣のなかにいるのが母親、外で外敵に襲われないように見張っているのが父親、ではなかろうか??

カメラを向けても逃げなかったので、これは明らかに、身体を張って巣を守っている(出産を守っている)のである。

うーむ、なんだか、凄いものをみてしまった。


それなりに人通りはあるものの、繁華街というほどではまったくないので、どうにかここで出産ができる環境にあるのだろう。


何と言っても、雨風や他の動物からの攻撃がかなり避けられる。

おそらく、もう少し経つと、卵を産み(すでに卵はあるかもしれないが)、そして、ヒナが産まれる。楽しみである。


***

付記

「ツバメはほとんどまったく地上に降りませんが、セキレイはかなり頻繁に降りると思います。」

「セキレイは尾がもっと長く、地面に降りて歩く時、尾が上下に振れます。
飛ぶ姿は横から見るとS字カーブ、巣をこのように作れない。
ツバメは時に壁にしがみつくようにとまれます。」


上記のようなご意見をいただき、どうやら、セキレイではなく、ツバメであるということで、元のとおり、ツバメの巣づくりのようです。

***

また、別な話であるが、我が家の玄関に置いてある鉢植えの一つ。

シクラメン。

もう数年前に一度咲いたあと、一度も咲かずに、かといって枯れもせず、地味に今年の春まで同じように水遣りをしていた。

それが、なんと、花が咲いてきたのである。


正直、見事な状態とは言えない。だが、逞しく、咲いてくれた。

不思議な生命力。

***

もうひとつ、おまけ。

読書の邪魔をする我が家のゆいた(猫)


読めるものなら読んでみろ! とか、本を読む暇があるなら、遊べ!と言いたいようである。



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読んだ冊子
横浜市放射線対策記録(平成25年)【資料編】 
横浜市放射線対策本文事務局
(横浜市健康福祉局健康安全部健康安全課)
2014年3月

ひとこと感想
記者発表資料、測定などのデータ、策定した対応方針などが含まれている。本編もあるので、いずれそちらも読んでみる。

***

目次に即して、気になるところをピックアップする。

1 東京電力福島第一原子力発電所事故発生から2013年12月末までの主な経過

2011年3月14日から横浜市は市民ならびに避難者からの相談対応を開始する。

3月16日が横浜市における大気の放射線量が最大値となり、0.15マイクロシーベルト毎時。

9月17日、港北区の道路側溝雨水ますの堆積物から、最大40,200ベクレル/kgのセシウムが検出される。

10月12日、小学校給食で乾シイタケからセシウムが350ベクレル/kg検出され、使用を自粛。

11月4日、市内の公園で栽培加工してい乾シイタケから暫定基準値を上回る放射性セシウムを検出。

11月11日、市内の公園にあった草木灰から暫定許容値を上回る放射性セシウムを検出。

2012年2月3日、瀬谷区の廃水路敷で6.85マイクロシーベルト毎時。

3月29日、私立学校18校の雨水利用施設の汚泥から8,000ベクレル/kg超のセシウム。

8月8日、雨水調整池206施設のうち、8施設より対応の目安を超える放射線量。

・・・と、今あらためて当時をふりかえると、横浜市内においては、ほとんど、過度な放射線の影響は見られなかったと言える。


2 会議録(対策本部会議 15-21回)

議題は、放射線量測定機器の貸し出し、所管施設の放射能測定、学校における雨水利用施設の対応、高濃度の汚泥を廃棄物として申請、東電への賠償請求、保育園求職の線量調査、学校給食で牛肉使用再開、除去土壌の処理、など。

3 放射線対策関連の記者発表資料

・放射性物質汚染対処特措法に基づく指定廃棄物の申請について
・東京電力への賠償請求(2回)
・保育園給食一食まるごと累積線量調査結果 年間許容線量を大きく下回りました
・防災計画、国民保護計画の修正に対する意見募集
・学校雨水利用施設の汚泥の指定廃棄物申請
・牛肉を使用した学校給食の再開
・東電より請求の一部の支払い

以下、省略

4 測定等データ(実施状況表)
5 測定器関係
6 対応方針等
7 国への要望
8 お知らせなど
9 放射性物質の基準など




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あらためて読みなおした本
文化としての技術
佐和隆光
岩波同時代ライブラリー
岩波書店
1991年6月

初出
岩波書店
1987年1月

ひとこと感想
本書は、正確には、経済、技術、文化の相関性について抽象的にまとめあげたもので、20世紀後半の社会状況について、ある程度の展望がみられ、個々のトピックはおもしろいのだが、技術や文化への洞察があるわけではなく、期待外れに読み終えた記憶がある。今回は「原発」を「文化としての技術」としてどうとらえているのかを確認するために読んだ。やはりよく分からなかった。

***

冒頭で、1950年代に展開された「技術革新」について、星野芳郎の「技術革新」(岩波新書)に依拠しつつ、次のようにまとめている。

「第二次大戦後に開花の運びとなったさまざまな技術の種は、大戦のさなかに播かれたものが多い。レーダー、ジェット機、ミサイル、原子爆弾、オペレーションズ・リサーチ、ペニシリン、品質管理などがその代表例である。」(8ページ)

ただし、単純に技術が戦争によって育てられる、ということを言っているのではない。

星野は、日独と米英ソとを比較しつつ、言ってみれば、戦争×「民主主義的協同」を技術革新の要因とみなしている、と佐和はまとめている。

「民主主義的な協同」とは、とても分かりにくいが、科学者や技術者と軍部との密接なつながりのことを意味するようで、言ってみれば、産学協同、ということのようである。

「科学者や技術者の営為にとって「政治」は無縁どころか、科学を生かすも殺すも政治体制のいかんによる、とさえ考えられてきたのである。」(9ページ)

過去にさかのぼって、第一次技術革新の代表を、鉄道建設にみつつ、第二次技術革新が、自動車を含む耐久消費財の大量生産にあるとし、さらに、第三の革新にあたるものとして、星野は、次のものを挙げている。

・ガスタービン
原子力
・合成化学
・無線通信技術
・ソフト技術(つまり情報)

とりわけ「原子力」と「ソフト技術」については、1956年度の「経済白書」においてもとりあげられている。

「投資活動の原動力となる技術の進歩とは、原子力の平和利用とオートメーションによって代表される技術革新である」(12ページ)

もちろん「原子力の平和利用」は、当時は漠然とした形でしか描かれておらず、ただただその桁外れの「力」を戦争以外で役立てられるであろうという程度の展望しかなかった。

1955年8月にジュネーブで第1回国際原子力会議が開催されるが、これは、「戦後」をもたらした原爆の破壊力をもって、そのまま「戦後」のエネルギーの主役に引き立てる舞台となった。

議長をつとめたインドの物理学者、バーパは次のように楽観的に述べた。

「今後20年以内に熱核反応によるエネルギーの開発利用により、世界のエネルギー問題は永久に解決してしまうであろう」(15ページ)

世界の核廃棄物問題は、永久に解決しなくなりそうになることに、もちろんこの時点では気づかれていない。

「原子力」は
、、「戦争」を終わらせ、「平和」を維持するための力(エネルギー」とされ、大いにもちあげられた。

だが、この原子力を推進するのは、戦勝国たち、すなわち、英米ソ(仏)であったことも、忘れてはならない。

これらの国(ここに、後に中国やインドなども含まれる)は、すさまじい勢いで原水爆「実験」(しつこく書くが「実験」という言葉で済まされない)を繰り返すことで「戦後体制」を維持してきたことを考えれば、「原子力の平和利用」と「原水爆開発」とは表裏一体であったことは、火をみるより明らかである。

「原子力は、たんなるエネルギー供給のための新技術にとどまることなく、冷戦下における米ソ両大国の政治「戦略」の一環として、技術ほんらいの論理を超えた「政治の論理」の導きにしたがい、一歩そして二歩とひとり歩きを開始したのである。」(15-16ページ)

つまり、佐和の言う「文化としての技術」とは、まず、こうした政治の論理の導きに従うことがある、という指摘を指すのである。

原子力が、ゴジラのような特撮映画や世界の終焉を描くSF小説の量産に寄与した、といったような、どういう文化を育てたのか、といったことではない。

原子力によって影響を受けた「閉じ込め」を大事にする文化とか、そういうことでもない。

文化というから目新しく聞こえるが、要するに、政治経済と技術との影響関係というのが、本書の本当の主題なのである。

しかし、今でこそ、エネルギーセキュリティ(安全保障)といった言葉を使って、石油やガスといった国際情勢に左右される資源以外の選択肢としてウランがもてはやす人はいるが、1950年代には、そのような発言はあまり聞かれず、もっと漠然とした「原子力」への期待感だけがあったにすぎない。

そのような情勢のなかで、原子力は、「政治」によって(ある隠された意図をもって)選択された、ということになる。

歴史的にふりかえると、むしろ、1970年代にはじまる「石油危機」と、原発建造ラッシュの時期がほとんどぴったりと重なっているのが、一体どういった理由なのか、とても不思議に思う。

佐和はこれを「経済の論理を超えた技術の論理」に導かれつつ、「技術の論理を超えた政治の論理の導きにしたがい」「正当化」された、と難しい言い回しでまとめている(17ページ)が、別に、前述以上のことを言っているわけではない。

端的に、原子力は、原爆すなわち、ヒロシマ、ナガサキによってその威力を世界中に轟かせ、欲望を駆り立て、私たちはそれに感染していた、ということである。

その「欲望」を巧みに「平和利用」という言葉でオブラートにくるんだのだが、結局は、「政治」的選択だった、ということに尽きるであろう。

戦後とは、原水爆のみならず、原発も含めて、原子力という誘惑に翻弄されてき時代のこと。

その陥穽がはっきりと表れ、「政治」が揺らぐのは、それからおよそ30年後、1986年のチェルノブイリ原発事故まで待たなければならなかった。

その前触れが、1979年のTMI原発事故であるとすれば、決定的な終止符は、2011年の東電福島第一原発事故と言えるだろう。

まさしく吉本隆明が提起した「共同幻想」という概念は、このためにある。

私たちは根拠のない「恐怖」と「畏怖」とを「原子力」に抱き、さもそれが私たちにとって抜き差しならないものと思い込んできた。

吉本隆明が「科学」や「原子力」への盲信を最後まで捨てなかったのは、「科学」や「原子力」を「下部構造」に属するものと考えたからだ。

だが、原子力は「政治」であり、「観念の共同体」によって左右される代物だった。

そうでなければどうやって、何もビキニ環礁近辺での核実験によって発生した放射線汚染にうちふるえながら、同時に、国会で原子力(原発)のための予算が通るといった、まったくもって理屈の通らないことが起こったのか説明ができないであろう。

要するに、原子力は、佐和に逆らって、科学技術でも文化でもなく、まず、政治(的選択)としてみるべこものであるように、私には思われる。

また、もう一点、ここでは「巨大技術」の代表として「宇宙開発」にも目が向けられているが、こちらもまた、同じ年である1986年に、スペースシャトル、チャンレンジャー号の爆発事故が起こっていることに、嫌な「偶然」をみる。

ただし、もう少し細かく歴史を遡ると、1970年代に、一度、こうした「巨大科学」に対する疑義は、さまざまなところで湧きあがっていた。

「こうして1950年代から60年代にかけてのあいあだに敷かれた科学技術政策の路線は、ひとつの重大な曲がり角にさしかかったのである。宇宙開発、原子力といったディスプレイ効果抜群のハードな技術にかわり、環境保全、生命の維持といったソフトな技術へと、また身近な問題解決に寄与する等身大の技術へと、施策の重点は、徐々にではあるが着実に移行してゆこうとしていた。」(68ページ)

特に1971~72年には、矢継ぎ早に公害問題が噴出する(ただし原発の放射能は公害問題としてはまだ十分にとらえられていない)。

「宇宙船地球号」「成長の限界」「ネーダリズム」「都市の論理」「対抗文化」「反科学論」などが言葉として、書籍として、この時期に現れている。

ところが前述したように1973年には「石油危機」が訪れ、そうした方向転換が阻まれた。

ここに、原子力発電がうまく需要を得て、石油の代替役を務める。

「軽水炉は、石油価格の高騰に歯止めをかける「抑止力」としての役割をはたしたのである。」(112ページ)

言うなれば、結果としては、「等身大」の技術ではなく、より「中央集権」的な技術によってこの難局を乗り切ろうとした、ということになる。

そこにはもちろん、「適正技術」「等身大の技術」「ソフトエネルギーパス」といった方向性も呈示されはしたのだが、あくまでも「野党」的な「批判」以上の力はもたない。

結局は、巨大技術を先導して対応してゆくことが、「国家」の基本的方向性であり続けたのである。

本書が発行されたあとの歴史もまた、大きくこの流れを変えることはなかった。

チェルノブイリのあとには「地球温暖化」という、きわめて深刻な課題に現実的対応をしなければならなくなるが、リオ宣言(1992年)から京都議定書(1997年)を経るなかで、気づいてみれば、原発がその問題解決の「主役」となる。

もちろん、このことに本当に気づいたのは「3.11」以降の話ではあるが。

確かに一方では、省電力技術もまた、かなり改良が重ねられてきた。

それでも、何より原子力こそが、21世紀を支える「クリーンなエネルギー」の「代表」の座を勝ち得ていたのである。

多くの原発事故関連死者を出し、多くの人が住んでいた場所に戻れず、多くの犬や猫や家畜などの動物が放置され、土地や水や空気は汚染され、これだけの被害があったにもかかわらず、人によっては「原発からの放射線で死んだ人は出ていないのだから、それほど深刻な事故ではなかった」とまで言い出すのは、どう考えても「科学」のかけらもなく、ただ「政治」として発言されているだけなのではないか、と思わずにはいられない。

もちろんこの妙な発言は、佐和の本を読んだあとならば、ある程度その意味を理解することができる。

すなわち、日本の社会や経済を支えているのは原発にほかならず、それを停止したままで良いわけがない、という「道徳的要請」が根底にあるのだ。

こうした「善悪」の判断は、言ってみれば、実は「道徳的」ではまったくなく、「政治的」である。

あたかもそれが、「普遍的立法」であるかのように受けとめられ、どのような問題が起ころうと(どのような条件であれ)、無条件に受け入れるべきものなのだという「定言命法」的なポジションを原子力は獲得していたのだ。

すなわち、佐和が言うとおり、ここには「科学」や「技術」の要請よりも前に「政治」が原子力を欲望していたのである。



文化としての技術 (同時代ライブラリー)/岩波書店
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読んだ本
原子力と核の時代史
和田長久
七つ森書館
2014年8月

*上記は、以下の本の改訂・増補版である
開かれた「パンドラの箱」と核廃絶へのたたかい―原子力開発と日本の非核運動 原水爆禁止日本国民会議 21世紀の原水禁運動を考える会 編 七つ森書館  2002年7月

ひとこと感想
年表だけででも100ページ以上、本文も300ページ以上の大冊。
原水禁運動からみた核エネルギーの歴史。小さな出来事項目を積み重ねるやり方で、各章10年単位でふりかえられている。原水協(共産党)側の言い分も聞いてみたい。

和田長久(WADA Nagahisa, 1932-  )は、大津生まれ。労組や大阪軍縮協、原水禁などにかかわる。

***

以下、目次の書き方を少し変えて、年代を先に置いて見出しを記す。

1 1989-1945
 核分裂の発見から、ヒロシマ、ナガサキの悲劇

2 1946-1955
 米ソの核開発競争とビキニ水爆実験の被害

3 1956-1965
 原水爆禁止運動の広がり、核実験再開をめぐる混乱

4 1966-1975
 「原水禁」新しい出発と非核太平洋、原発への取り組み

5 1976-1985
 核戦争の危機と世界に広がる反核運動

6 1986-1995
 核廃絶への転換点、冷戦崩壊とチェルノブイリ事故

7 1996-2005
 21世紀を非核・脱原発社会へ――新たな草の根の結集

8 2005-
 混迷を迎える世界、共生の世界は開かれるか

9 ヒバクシャの運動

***

長年にわたって原水禁など原爆や原発への反対運動に従事してきた人がどのように歴史をとらえているのか、そのことがよく分かる章立てである。

基本的には10年区切りにしながら、最後の8章は2005年以降でまとめている。

全体的に、原水禁の動きが中心となっており、国際政治的な出来事と、市民運動の話が、交互に配置されている。

大雑把に言って、まず、次のことが言えるだろう。

・原爆や原発への反対運動は、第五福竜丸事故の影響によって大きな動きがつくられ、市民レベルで端を発している。

・1950年代になってから、ようやく、ヒロシマ、ナガサキの悲劇が国民レベルで省みられるようになり、「平和運動」または「核兵器廃絶運動」が共通する趣旨だった。

・ところがそこに社会党や共産党などの政党が関係してきたことにより、中ソへの配慮や、原発に対する受けとめ方の違いなどが含まれ、意見の対立がはじまり、分裂を余儀なくされた。

・今もなおこの対立は修復されていないが、インターネットやモバイル・コンピューティング、そしてSNSなどの普及によって党派性が薄まった新たなデモや市民運動と言える動きが「3.11」以降は現れてきた。

***

こうして「歴史」としてふりかえってみると、当初の「原水爆禁止署名運動全国協議会」は、最後まで「原水爆禁止」の運動に絞って進めてゆけばよかったのではないか、と、第三者としては思ってしまう。

和田が書いているように「日本の原水禁運動は、核実験の停止を中心課題とする全く新しい質の運動」(43ページ)で「思想、信条、政党、宗派を超えた」「人類対核兵器」という構図を前提にし続けていったのであれば、その後の分裂はなかったはずである。

いや、むしろ「分裂」した時点で当初の理念は壊れているのだから、その時点で「おしまい」である。

「活動家や学生たちはこうした運動をレベルの低い運動ととらえ、やがて原水禁運動に政治主義がもちこまれるようになる。」(44ページ)

「レベルの低い」という言葉が、当時の大学生や左翼系運動家たちの思いあがっているさまをよく表わしている。

「目覚めた自分」が
「無知な大衆」を導かねばならない、と考えたのであろう。

また、1958年には日教組が勤務評定問題を大会決議に入れようとしたという、今聞くと、まったく意味不明のことが、すでに開催4回目にして起こりはじめている。

(なお、1958年には一度、米英ソのあいだで核実験停止が行われている)

そして、1959年には、共産党は、「反米」主義を掲げ、学生は安保反対を訴え、次第に政治色が強くなってゆくと同時に、中国の核武装が表明されたにもかかわらず、そのことにふれられなくなっている。

さらに1960年には、完全に「平和の敵=アメリカ帝国主義」(62ページ)という構図にはまりこむ。

1961年には、共産党勢力が強くなったこともあり、総評・社会党系が「国の政治体制を問わず、いかなる国に対しても同党の立場で具体的事実をもって原水爆禁止について働きかける」(63ページ)という方針をもっていたにもかかわらず、多数決によって否決される。

(ところがそのあと核実験の再開を先にしたのはソ連であったし、その回数はすさまじいものであった)

もちろんこの運動は何もかもがマイナスだったのではなく、原水爆禁止の声として一定程度以上の力となったし、原爆被害者の救済に大きく寄与もし、プラスの面もあることを付け加えておこう。

(1962年にはキューバ危機が起こり、もっとも核戦争の勃発の可能性があったとされている)

1963年には米英ソが部分核実験停止条約の仮調印を行い、ようやく歯止めが生まれはじめるが、中国は1969年まで大気圏核実験を行い続ける。

共産党側は、「いかなる核実験にも反対」ということが、「平和勢力」や「味方」を見失うことになるとして、ソ連や中国を支持し続ける。

すなわち彼らは、原水爆禁止運動の当初の動機とは異なる意識をもってかかわっていたことになる。

1963年には、両者は完全に分裂する。

その後、1966年にはベトナム戦争が起こり、核兵器の使用も一度は考慮されたという。

そして1968年頃から「反戦」運動が米国内でも大きなうねりとなってゆく。

これは、悪く言えば「原水爆禁止」運動が、「戦争反対」に収斂したとも言える。

一方、原発はこの頃から実際に量産的に建造がはじまるのであった。

***

「原水禁が原子力発電反対運動に取り組みきっかけは、原子炉空母寄港反対運動である。」(118ページ)

1968年に、原潜の原発が危険であるなら、各地の原発も危険ではないか、と、ようやく気づくことになる。

そして1969年には「核燃料再処理工場設置反対の決議」を採択する。

1970年には高い貴重報告に原発問題が含まれ、1972年には「原発・再処理問題分科会」が設けられる。

1972年にはまた、原子力資料情報室の前身である「原発斗争情報」の発行が、原水禁、全原連、久米三四郎らのあいだで決まる。

また、1973年、伊方訴訟を皮切りに原発裁判も開始される。

一方分裂していた二つの原水爆禁止団体は、1977年に一度再統一される。

しばらくは歩み寄りもみられたが、1985年を最後に、、ふたたび分裂することになり、その後、市民的、社会的な意味あいを失ってゆく。

このあと、こうした「反核」運動の流れをここで整理するのはやめにする。

ただ一点、とても気になったことがある。

「3.11」以後の「脱原発」のデモに関する記述が少ないことである。

本書に掲載されているのは「原発いらない福島の女たち」の座り込み、国会前で毎週金曜に行われている「官邸前デモ」、それから、たんぽぽ舎による経産省前のデモにふれているのは当然であるとしても、どうして、阿佐ヶ谷の素人の乱をはじめとした動きにはふれないのであろうか。

そうであれば、本書は、端的に「原水禁の歴史」と題されるべきであったのように思われる。



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