そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ

いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。

核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

 前史

1945~1949年  1950~1954年  1955~1959年  1960~1964年  1965~1969年  1970~1974年  1975~1979年  1980~1984年  1985~1989年  1990~1994年  1995~1999年  2000~2004年   
2005~2009年  2010~2011年02月    

2011年3月~7月  2011年8月~12月  2012年1月~2月 2012年3月


【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。

テーマ:

 

読んだ本
大江戸省エネ事情
石川英輔
講談社文庫
2009.10


ひとこと感想

著者は1933年京都生まれ。大江戸事情ものシリーズを手掛けている。本書は2006年6月「江戸と現代 0と10万キロカロリーの世界」を改題したもの。そのもとは「原子力文化」に連載されたもので、そのときのタイトルは「0と10万の間」だった。

 

***

 

現代人が1日1人当たりおよそ10万キロカロリーの消費によって生活を成り立たせている。

これと対比して、江戸時代はほぼ太陽エネルギーしか使っておらず、いうなれば、0カロリーで生活が成り立っていた。

 

こんな内容が「原子力文化」に連載されていたこと自体が興味深い。世間では「原子力文化」という原子力文化振興財団から発行された「原子力PR誌」を目の敵にする人も多いが、意外にも「意気」な部分もあったようである。

 

目次
化石燃料一〇万キロカロリー時代

乗物、昔と今

冷やす

食べ物

伝える

観る

旅をする

照らす

着る

食べる

住む

作る

捨てる・拾う

人類は豊かさに耐えられるか

 

 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

読んだ本
公害・環境研究のパイオニアたち 公害研究委員会の50年
宮本憲一、淡路剛久編
岩波書店
2014.09

 

ひとこと感想

錚々たるメンバーが集まった「公害研究委員会」。その歴史が振り返られており、かつ、参加していた故人の仕事を偲んでいる。ただただ、圧倒される。

 

宮本は1930年生まれ。大阪市立大学名誉教授、滋賀大学名誉教授。専門分野:財政学・環境経済学。淡路は1942年生まれ。立教大学名誉教授・弁護士。専門分野:民法・環境法。

 

***

 

公害研究委員会、それは1963年7月に発足した。

 

これは、「世界最古」の本格的な公害研究会であった。

 

都留重人と宮本憲一らを発起人とする。

( → 宮本憲一 しのびよる公害 世界 1962.12月号)


以降、半世紀上にわたって活動を行い、大きな足跡を残してきた。

目次に出てくる人物を見ればそれは一目瞭然である。

 

まだ「公害」の定義がなかった時代に、以下のようにまずまとめる。

 

「公害の最も重要な特徴は、人命の損失・文化的財や景観の損失などの絶対的な損失にある」(7ページ)

 

この「絶対的損失」という言葉がとても重要だ。

 

とりかえしのつかないこと、それはこれまでの歴史では主に、人の命に特化されて考えられてきた。

 

しかし「公害」が問題化するなかで、「環境」もしくは「他の生物」に対しても、「絶対的損失」が適用される可能性が拓かれたのである。

 

しかも「絶対的」な損失であるために、そうならないように、「予防」が最高の政策ということになる。これもまた、難しい。

 

現在ようやく環境哲学・倫理なども、未来世代への責任や、他の生物に対する倫理というものが問われるようになってきたが、この時点ではまだ、そうした議論ははじまったばかり。

 

それを主に経済学の領野で切り拓いたのであるから、その苦労は大変なものであったことが伺える。

 

一方、経済学や訴訟などにおいてはこうした公害について、ただ認識することを目的としておらず、その「解決」を目指そうとするため、こうした「公害」被害が発生した場合には、誰の責任であるのか、誰がその「損失」の、「被害」の費用を負担するのか、厳しく問い詰めている。

 

その結果、「公害」については、「汚染者」と「公共機関」が「責任」を分担することになっている。

 

この点については、現在であればもう一歩、その「利益享受者」にも責任があると考えられるのかもしれない。

 

このようにして、公害研究は、以下の2点を柱としたものとなった。

 

・現地調査

・政策提言

 

他方こうした動きは1970年代には、経済学そのものの意味を問い直すことにもなった。


「経済成長理論が再検討され、公害等の社会的損失を「内部化」することが共通の認識となった」(10ページ)

 

そして、自然、社会資本、人間の損失をマイナス評価し、GNPから差し引くことを提案する流れが生まれてゆく

 

こうした話と交錯して、酒豪の話題など、とりあげられている故人についての興味深い内容も多々あるが、ここでは、宮本憲一による回想の部分(上記)と、 永井進による都留重人の章(以下)に少し、焦点をあてる。

 

公害の政治経済学について、都留は三段階論を提唱した。

 

1)発生源

2)現象形態

3)被害状況

 

特徴は、経済社会のダイナミズムの中で生じる、A)外部経済と外部不経済の非対象性を指摘、B)1)→2)は理解できても3)については必ずしも理解できているとはかぎらない、特に発生源と被害とを結び付けることは容易ではない、という二点。

 

「公害による被害の特徴は、市場メカニズムで成立する価格によって計算えきるものだけでなく、市場メカニズムを通してはそのマイナスの程度が評価できない福祉の損失があるということである」(46ページ)

 

公害の損失評価の分類は三点にまとめられている。

 

1)福祉そのものの減失で、相対的比較ができない絶対的なもの

2)福祉そのものの消失であるが、復元が可能で、復元費用を推定できるもの

3)福祉手段の減失で、その損失を貨幣価値で表わせるもの

 

ここで重要なのは、責任の問題と因果関係とは別、としていることである。

 1)発生源 → 主たる責任を持つ

 2)現象形態 → 国や自治体も責任がある

 

また、費用負担論も展開している。公害関係費用は、いくつかの間接費用に分類されている。

・防除

・ダメージ救済

 上記2点は汚染発生者が負担すべき

・ストック公害

 上記はケースバイケース

・監視測定

・技術開発

・公害行政

 上記3点は行政が負担

 

また、日米における公害の歴史の描写については、特に以下の地域がとりあげられた。

・別子鉱山

・日立鉱山

・ピッツバーグ市

・ラリタン川(ニュージャージー州)

 

こうして、都留経済学の特徴は、体制面と素材面を区別したことにあり、GNPという経済指標と福祉の充実との関連を理論的に問い直した、とまとめられている。

 

例としては、いくつかとりあげられている。

1)本来なくしたい消費支出

   ・防犯

   ・交通費用

 

2)本来なくても済むようなサービスが現実に不可欠となるような制度的な仕組みが出来上がった場合に生じる所得介入の現象

 

3)消費者がいやおうなしに強いられる無駄な支出

 

4)再生負荷のうな資源を消費することによってGNPを拡大することができるが、その分将来世代の福祉は現象するという社会的富の消耗

 

5)社会のダイナミックな変化に対して、市場経済の対応が近視眼的でアトミスティックであるために生じる動学的調整における非効率性

 

これらが「公害」にも体制的な性格を与える、とする。

 

***


目次      
総論編 日本の公害の歴史的教訓 公害研究委員会五〇年の成果と課題 宮本憲一

 日本最初の学際的公害研究組織の設立

 国際シンポジウムと環境権

 公共事業・自動車公害への挑戦と『世界の公害地図』
 ほか

 

人物編1 公害・環境研究の礎となった先人たち

都留重人――「公害の政治経済学」の創立者  永井進

庄司光―― 生活科学としての環境衛生学の創立者  宮本憲一

戒能通孝―― 公害と闘う巨星;戒能通孝と法学  柴田徳衛、淡路剛久

鈴木武夫 天明佳臣、村山武彦
四手井綱英 岩坪五郎

 

人物編2 公害・環境被害の現実と向き合った人々

田尻宗昭―― 公害を摘発し海の乱開発に警鐘を鳴らし続けた護民官  淡路剛久

清水誠―― 真の市民法学の確立を目指して  礒野弥生

宇井純 ―― 反公害の科学と運動の実践者  宮内泰介
原田正純 寺西俊一、津田敏秀
飯島伸子 船橋晴俊
華山謙 岡本雅美
秋山紀子 寺西俊一


「公害」という概念すら確立していなかった半世紀前、公害研究委員会は深刻な環境破壊
の現実とどう格闘したか。発足時から現在までのメンバーより故人12名を取り上げ、そ
の創造の歴史を振り返る。

 

四大公害の現場にも常に彼らの姿があった。日本社会が直面していた深刻な公害・環境問
題の解決を目指して発足した学際的研究組織「公害研究委員会」の50年の活動を振り返
る。

 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

読んだ本

明日の地方創生を考える
土地総合研究所 編
東洋経済新報社
2015.12

 

ひとこと感想

耳障りのよいうたい文句では将来立ち行くはずがないという前提で編纂されている。生産性が低いことを前提としたうえで地域の中小企業が生きる道を確保しつつ、高い付加価値がつくような産業の育成を地道に進めること、そして最終的には「内発」がないかぎり、その地域は生き延びることはできないと指摘。

 

***

 

第1部  明日の地方創生を考える

 

1-1 地方創生と土地利用法制 生田長人

「対症療法的視点から、課題解決型の対策」が必要であり、そのベースとなっているのが「基礎的法制度」特に「土地利用法」とし、新たに「土地利用とその上の空間を自分たちが望む状態に維持・管理する」方向に進めることが重要だと指摘。


1-2 地方創生を考える 井堀利宏

再分配政策について。


1-3 地方創生を支える都市・農村空間のあり方 「コンパクト」シティから「サステイナブル」シティへ 姥浦道生
「持続性ある多様な空間を市民協働で創り出していく」ことが重要とし、具体的にはスプロールの防止、被集約地(周辺部)への積極的な意味づけ、を強調。

 

1-4 縮小時代の国土政策 地方創生の課題と展望 大西隆

東京圏への適度の集中是正のほか、人口減少を前提とした少数者による働き手で国土を管理し、農業、牧畜、漁業を担う仕組みを普及させるために、土地利用は集約化が不可避であり、それにともない経営規模拡大を進めるとともに、ICTの導入の促進も必要であるとする。


地方創生を考える 小幡績

省略


若者にかかる地方の未来 玄田有史

継続調査の結果として、今の若者たちは、将来への希望を失い、生活満足感がないという意識がより強まっている。だが将来の希望はやはり若者たちであり、彼らが一度は都会に出てみても、地元に戻って地元を良くしてゆこうという意識が何よりも大事だ。

 

「20代は都会で生活や仕事を経験した後に、地方で活動することを決断した若者たちが、地域の担い手になっていることが多い」(102ページ)


情報化とグローバル化の大奔流を地方創生にどう活かすか ネットと結びついたインバウンド消費とふるさと納税の取り組み事例 篠崎彰彦

訪日外国人旅行者のネット口コミ効果、ハラールに着目した人吉市の取り組み、ふるさと納税の活用、地場産業の自立を目指す平戸市といった事例を紹介する。


結婚市場としての東京 少子化対策としての地域政策 中川雅之

「日本の出生率を上げるためには、地域をターゲットとした政策よりも、結婚、働き方など結婚関連行動を直接のターゲットとした政策の方が有効」(150ページ)


地方創生に求められる地域経済構造分析 中村良平

地域(圏域)を設定し、状況把握。そして地域経済構造の識別と相互の関係を行い、地域経済の連関と循環 (フロー経済) を明らかにし、ポートフォリオを作成、そのうえでストック分析を行う。


地方創生の「小さな拠点」政策を考える 中山間地域等と人口減少対策について 保母武彦

新たな「圏域」づくりとして、「広域圏」のみならず「集落生活圏」も含まれる。この「集落生活圏」とは、いくつかの集落を圏域としつつそのなかの中心的集落に置き、これを「小さな拠点」と考える。「小さな拠点」は多世代交流、多機能型を形成するもの。

人口減少社会と地域金融機関経営 堀江康煕

これまでの業態にこだわらずに地域金融のネットワークを形成する必要性がある。


明日の地方創生を考える 宮脇淳

内発的エンパワーメントと地域間の政策ネットワークの重要性。


都市集中のメカニズムと地方創生の問題点 山崎福寿

人口移動や資源の移動の障害を取り除くことが課題。


地方創生に欠けている大きな視点 山下一仁

柳田國男の「家殺し」の概念を提示し、「墓」や「家」の意識を捨てることの可能性を提案。


エリアマネジメントと定期借地権による土地所有権と土地利用権との分離 高松丸亀町商店街の事例を素材として 吉田克己

街なか居住の考え方を軸に中心市活性化を進めることを一つのモデルと考える。

 

第2部 データで見る地方の現状

都道府県別資本の生産力効果 大越利之
地図を通して見る市町村の現況 白川慧一
市町村の人口増減の構造 渡辺直行

 

本格的な人口減少時代が到来する中、持続的な地域づくりをどのように行うべきか。政治、経済、法律、都市計画など様々な分野の有識者、研究者による創生論。

 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

読んだ本
環境の思想家たち 下(現代編)  エコロジーの思想
ジョイ・A.パルマー編
須藤自由児 訳
みすず書房
2004年11月

 

Fifty Key Thinkers on the Environment

Joy A. Palmer(ed)

Routledge

2001

パルマーは、ダラム大学教育学教授および副学長。ダラム大学の環境学習リサーチ・センター理事。国立環境教育協会副会長。教育と交流に関するIUCN委員会会員。須藤は、1945年新潟県生まれ。東京大学工学部卒。通産省に2年間勤務。その後、東京大学文学部卒。81年同大学院人文科学研究科博士課程修了。跡見学園女子大学非常勤講師などを経て、92年より松山東雲女子大学人文学部勤務。現在人間心理学科教授。

 

上巻が古代-近代編であったのに対して、下巻は現代編となっており、24人がとりあげられている。


マハトマ・ガンディー
単にインドに根差した伝統から引き出されたものだけでなく、シェリー、ソロー、ホイットマン、ラスキンらの影響も色濃くあったことを指摘している。

アルバート・シュヴァイツァー

さまざまな毀誉褒貶があるが、本書では、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を捧げたということからとりあげられている。

 

アルド・レオポルド

米国における鳥獣管理研究の先駆者。野生生物全般についても管理のみならず生態について調査を行い、保全生物学として結実した。しかしここには「原生的自然」という概念が前提とされている。また、土地倫理という環境倫理学においても貴重な寄与がある。

ロビンソン・ジェファーズ

非人間主義を訴えた詩人。人間の意識を玄武岩や地衣類と同じようなものととらえた。ルクレティウス、ヘロドトス、ニーチェ、ショーペンハウアーに依拠した。

マルティン・ハイデガー

彼の政治的言動に対して疑念を抱きながらも、それと環境思想への寄与は別物だとしている。

 

レイチェル・カーソン

農薬(殺虫剤)の調査研究をふまえた代表作「沈黙の春」は「われわれに世界を見る見方を変えさせるという大きな功績を上げた」(76ページ)。

 

リン・ホワイト・ジュニア

中世ヨーロッパの技術史。キリスト教を攻撃。つまり、技術の進歩を人間が動物と異なる特性とみなすとともにその行為を正当化したのがキリスト教だとする。

 

E.F.シューマッハー
レオポルド・コールの影響を受けた。ジミー・カーターに大きな影響を与えた。仏教経済学を提唱。また「中間技術」という概念も提起。持続可能な農業の問題にも取り組む。

 

アルネ・ネス

シープ・エコロジーの創始者。登山家でもあった。若いころは科学哲学を専攻していた。そこからピュロンなどの懐疑主義へ移行し、その後「ガンディーと核の時代」(1960)を書き、その後、利他主義を強調。

 

ジョン・パスモア

環境倫理学。「自然に関する人間の責任」(1974)が代表作。

 

ジェームズ・ラブロック

「ガイア」理論。

 

イアン・マクハーグ

生態学をふまえた地域計画、都市開発。マンフォードとの共著。「デザイン・ウィズ・ネイチャー」。メドフォード、ウッドランズ、パルディサン、そしてWMRT企業体といったプロジェクトを手掛ける。

 

マレー・ブクチン

ラディカルな緑の政治を目指す活動家、理論家。ソーシャル・エコロジー、脱希少性(イリイチとは別に)を提唱。

 

エドワード・オズボーン・ウィルソン

アリの研究を出発点に、生物多様性、社会生物学などに貢献。

 

ポール・エーリック

生態学、生態学・農業など多岐にわたるが、 人口論として「人口爆発」がもたらしたインパクトがもっとも大きかった。

ホームズ・ロールストンIII

博物学、環境倫理学。自然固有の価値の強調、生態学的全体論、「義務」論、生物・生命の内在的価値、生命の尊重。

 

ルドルフ・バーロ

マルクス主義(共産党)から、緑の党へ。ショーシャル・エコロジー。

 

グロ・ハーレム・ブルントラント

医学博士、公衆衛生学の研究を行ったが、政治に深くかかわりノルウェーの首相を務め、1992年リオ会議の実現。WHOの総裁。

 

ヴァル・プラムウッド
環境哲学。排他的人間中心主義。その後、男性、西欧の意味を問う。

 

J・ベアード・キャリコット

環境倫理学、哲学。ダーウィン、ヒューム、アダム・スミスをふまえて、「倫理の包括性についてのわれわれの意識は、共有されているコミュニティについてのわらわれの意識に対応する」(254ページ)

 

スーザン・グリフィン

フェミニスト詩人。

 

シコ・メンデス

ゴム樹液採取者。ブラジルの熱帯雨林の状況の変化に重要な役割をはたした。

 

ピーター・シンガー

言わずもがな。ベンサム、J・S・ミルの影響を受けたR・M・ヘアのもとで学んだことにより、自然や人間以外の生き物を「擬人化」することなく、純粋に「生き物」としての「利益」に基づいて思考している点が、シンガーの思想の特徴である。要するに、生き物が「快」である状態、「苦痛」を過度にもたらさない状態こそが望ましいものであり、その点においては、人間であれ他の動物であれ、差別をする必要がないという考え方である。そのため、苦痛は「悪」であり、「不必要な悪を意図的に引き起こすこと、あるいはわれわれが自分の小さな犠牲でその痛みを除去することができるときにそうしないことは、不正である」(283ページ)

 

ヴァンダナ・シヴァ

理論物理学者から環境保護活動家へ。バイオポリティクスを主題にした本もある。

 

 

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:



*以下は、2001年よりも前に書いたものであり、現在の時点では不適切な内容を含むかもしれません。また、テレビアニメしか見ていません(映画版第1作は「少し」見た)ので、その後の展開については反映されていません。ぜひともこの機会に、吉本隆明「共同幻想論」を読んでいただきたいと思います。

***

アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は、従来の意味での「物語」としては、破綻を来たすことによって、かえって多様で大量の読解や論評を産出させることに成功した。

 

だが、これまでのエヴァ読解において最も見落とされてきたのは、エヴァの物語が、日本的なるもの、いいかえれば、日本的な共同幻想の、きわめて現代的な表象である、という視点である(といっても私はほとんどエヴァ論を読んだことがない。唯一、永瀬唯「喪失の荒野『新世紀エヴァンゲリオン』」(谷川渥監修『廃墟大全』トレヴィル、所収)が印象に残るくらいである)。

単にエヴァの物語を、西洋的な神話=幻想の次元においてのみ解釈する立場においては、聖書や死海文書、精神分析的な概念が作品中に散りばめられているという理由から、その概念的な類推によって物語の構造を把握する傾向にあるが(構造主義的読解)、鹿野秀明監督ならびに作品の生まれた土壌としての日本、また、われわれ視聴者/読者の置かれている土壌としての日本という見地からいえば、そういった解釈の枠組みが、ある「時代精神」「潮流」「流行」といった広がりのやや先、つまり、一種の「時代の普遍性」、21世紀に生きる私たちにとっての「普遍性」に到達していることを表わしているのではないか、と私は考える。しかし、とはいえ、そう言っただけでは、過剰な情報量を誇る作品の表層の解釈に横滑り的に繋がるだけで、さらにもっと奥底に流れている時代の雰囲気や現在的状況との連関からみていくには不十分であるといえる。


本論は、そういった一面的な読解の風潮に風穴を開けるべく、吉本隆明が描き出した『共同幻想論』に依拠して、日本の社会イメージをベースにしたエヴァが描いている日本的な神話、物語として解読していく基本枠を提示することによって、より一層のある種の「普遍性」の課題を提起してみたい。

 

***

 


碇シンジ。14歳。

 

主人公なのに、主人公ではない。


すくなともヘーゲルのいう「主人」と「奴隷」の二項対立における、「主人」公のイメージには、ほど遠い。


彼は、社会関係や人間関係に不信感を抱きながらも、父のため、世界のため(=みんなのため)に、おのれの生命を賭けて、得体の知れない「敵」である「使徒」と戦い続ける。


その姿は、痛々しいと同時に、「未成熟」な少年にたいする「苛立ち」の感覚を、読者に招くものである。


大人たちは、一体何をしているのか。そういう疑問がただちに沸いてくる。


大人たちも、実は、シンジとほぼ同じような次元で「未成熟」に存在しているがゆえに、このシンジに対する「苛立ち」は、その他の大人たちにも向けられる。


父であるゲンドウ、ミサト、加持、etc.彼らもまた、ある種の「答え」もって生きているのではなく、それぞれ心の傷を癒すべく、彷徨しているだけなのだ。


いずれも「大人」のような素振りや行為は行なうが、どことなく幼稚だ。


「大人」のふりをしているだけの存在、もしくは「大人」というカテゴリーがない世界。


ただ、命令や権威を振るう存在。


もしくは、ただ敵対するか友好関係にあるか、それだけの存在。


極めつけのシーンは、シンジたちが学校の授業を受けているもので、学校にいる「先生」は、通常私たちの知っている教師と何ら変わらずに、世間とは無関係に与えられたテキストを、義務として子どもたちに伝えているのだが、そこでの知識は、「セカンドインパクト」にたいする歴史の教師の説明にあるように、いわゆる「公式」な記録であって、「真実」ではないのである。


つまり、教える側も学ぶ側も、「公式」な記録の授受をしているのであって、そこに「正しさ」「真実」にたいする「問いかけ」はないのだ。


そのなかで、ゲンドウだけが、何かをつかんでいるように見える、もしくは、「見える」かのような設定がなされているが、彼もまた実は、自分の亡き妻の残像を求めているだけであり、世界とは無関係に自己の内面の欠如に対する充足を目指している存在であるようにも見える。


このように、ほんのわずかでも、登場人物の心の動きをふりかってみるならば、エヴァの世界においては、社会の秩序、心の秩序が、すべてが不安定であることがわかる。


しかし、なぜ心の秩序が不安定なのだろうか。オイディプス・コンプレックス的な関係性からいえば、子どもにたいして、母と父との関係は、その人間の心理を安定させるうえで重要な三角形を形成する。


だが、シンジには、母はいない。


そして、父ゲンドウは、子シンジをつきはなしている。


世界のなかで、一人の人間が生きていくとき、もしも支えとなる他者が不在となっているとすれば、ただ一つ残された根拠は、「自己」となるほかないのは、ある種の必然である。


そして、「それでは「自分とは一体何?」と、問いつめられていくことは目に見えている。


このような事態は、何も現実的に「母が不在」である、という問題ではなく、現在においては、これまでの「父/母/子」のトライアングルが壊れているということにおいて見れば、全く現在の親子関係そのもののシンボリックな状況であるといえる。


さらにまた、他者関係においても、大人たちの共同体は、何を求めているのかがわからないまま、無理矢理その秩序にかかわることを強制されているという意味において、これもまた現在の社会状況を反映しているともいえる。


では、社会の秩序は一体どうなっているのか。〈世界〉の〈制度〉はどうなっているのか。


エヴァをつくりあげていることからわかるように、現時点での科学技術開発力にまして、世界規模の大プロジェクトが実施されているということは、それに相応な社会システムが形成されていると考えられる。


ゼーレ? ネルフ? 国連? 国家???? このなかではまだ、インターネットが存在していない。


ゼーレやネルフ、国連、国家行政をはじめとして、学校制度や医療体制など、さまざまな社会的構築物に関しては、この作品では、既存の制度がそのまま現われ、きわめて曖昧な形態を伴っている。


いいかえれば、この社会的イメージを曖昧にさせることよって、エヴァは「物語」としての多様さを維持している、といえる。

 


入眠幻覚としての〈使徒〉

〈使徒〉が何の目的で登場しているのか、それは基本的にはわからない。


少なくとも、実際に〈使徒〉に直面するシンジ、レイ、アスカらには、まわりのみんなが「倒すべき相手」として述べる「敵」「悪者」であるという理解のほかには、何も存在しない。


ゲンドウと冬月、そしてゼーレには、それぞれある「計画進行表」に則った予定通りの存在として、とらえられているが、その内容については、大部分の登場人物には知らされていない。


そこで、あくまでも作品を客観視できる立場からではなく、登場人物の心象からとらえるならば、たとえば、シンジ自身にとって〈使徒〉とはどういう存在かを考えた場合、そこには、明らかなる幻想の〈恐怖の共同性〉が存在することがわかる。


何よりも毎回現われる〈使徒〉が何時、何を目的としていて、どういう形態であるか、どういう攻撃をしかけてくるのかが──その目的は物語が進むかで、次第に明らかになっていくが──、全くわからないまま立ち向かうのだ。


さらには第一話ではシンジは、何の経験も予備知識もないまま、強大な敵である〈使徒〉に一人で闘わねばならないという事態に陥る。これほど不条理なことがあるだろうか。


その理由はただ、父の命令、と母の分身であるかのような負傷した少女レイの代わりとして、というだけである。


ここで現れる、シンジを通じて表現されている、使徒にたいする〈恐怖の共同性〉は、大きく分けると次の三つの位相をもつ。

 

1 〈使徒〉という存在そのものにたいする曖昧さ、不明瞭さへの恐怖がある

 

2 〈使徒〉と闘う自分の体験が、エヴァという媒体を通じているために、もちろん痛みを感じているものの、間接的な体験となっており、自問自答をしていくなかで、それがさまざまな選択可能な現実の一つであり、逆にいえば、その体験自身が夢か現実かわからないという恐怖がある

 

3 〈使徒〉を中心に構成している別の世界が、自分たちには不可抗力な、どうすることもできない世界なのだという恐怖がある

 

1は、民俗学では、山人譯における〈入眠幻覚〉の恐怖として理解されているものである。


テレビドラマの最終話に至った段階でエヴァの物語は、何一つ確かさをもたないまま、人の心の内面性の葛藤へと落ち込んでいったことからもわかるように、〈使徒〉の存在は白日夢のごとき意味しかもたない。


〈使徒〉によって肉体的に傷つくのは、ただレイのみであり、レイの存在自体の虚ろさが物語においては重要な起点を形成しているとしても、それ以外の人々が肉体的に傷つくのは、むしろシンジ自身によって、というよりも初号機の物理的な作用によってであって、誰一人肉体的、物理的な直接的作用を受けることなく、ある種の遠隔操作的な力によって関係がとられているため、実感やリアリティがあるようでない経験を積み重ねているのである。


これはある種の〈既視体験〉でもある。


〈使徒〉の不確かさが、一種の〈幻想〉の共同性であるとしたならば、シンジにとってこの〈既視〉体験としての〈使徒〉は、共同的な幻想を個人幻想として体験したということにほかならない。
きわめて簡潔にいってしまえば、ここでは〈使徒〉は不確かな存在であるがゆえにリアリティがある、といえるのではないだろうか。


言い換えれば、ここでシンジは、自分のなかの不確かさを実感するとともに、(世界)の不確かさをも、実感しているのだ。この不確かさえを感じることのなかにこそ、現代における生のリアリティがある。


2にたいしては、〈出離〉の心の体験、というべきものである。


シンジにとって自分を支えてくれる社会的共同体は、当初存在しなかった。


両親と離れていたという理由もあるが、それだけではなく、自分が暮らしていた地域社会のコミュニティ崩壊が、現時点で生じている問題がそのままに、この作品には投影されていて、アイデンティティをもつことのできる「生まれたまち」「育ったまち」「暮らしている町」にたいする愛着や嫌悪といった感情が、まったく作品には現われてこない。


この感覚は、逆に、どこにも所属できないでいるシンジの心の不安としてとらえれば、ある共同体から離れてしまった者には、恐ろしい目に遭ったり不幸になったりするという、〈恐怖の共同性〉が象徴されている。


共同の禁制でむすばれた共同体の外の土地や他者は、未知の恐怖がつきまとう異空間であり、心の体験としてみればそれは〈他界〉との遭遇にほかならない。


シンジの意識においては、(世界)という(空間)は、地理的な空間としての「内」と「外」がなく、ただ曖昧に拡がっているものである。


そして逆にネルフという一つの共同体、そこはゲンドウが「父」であると同時に「族長」であることから、父親にたいする拒絶以上にそこに同化することによって、その共同体の一員であることによる平安を求めていくのは、逆説的に、ネルフ共同体から逃げてはいけない、という不安感と恐怖心の裏返しであるのだ。


これは、現代社会に形成されている固有の禁制の世界にとりかこまれて身をしめつけられている、私たち自身の感性に訴えるものである。


さらにまた、ここには貧弱な共同体としての〈日本〉が〈世界〉との関係のとり方として選択している意志のありようを、知ってか知らずか表象している、というとらえ方もできる。

 


エヴァへのシンクロと憑依

 

エヴァとシンクロできる人間は、きわめて限られている。


物語上それは、14~15歳の少年少女、しかも母親のいない存在が、「チルドレン」として選ばれる。


言葉はハイカラだが、これは「憑依」体験と同じである。


憑依体験にはいくつかの位相があり、シンジとエヴァのシンクロの変化は、この位相に基づいてとらえることができる。


まず、第一の位相は、心的な自己喪失を代償として対象に移入できる能力である。


第一話では、シンジは当初、何の疑問ももたずに、自らの意志によってというよりは、自らの恐怖心、レイが危ない、という感性から、初号機とシンクロし初号機の腕が動いた。


これは、シンジが動かしたいと思って操作したのではなく、自らの恐怖心が「無意識」に動かしたものである。


いわば狐が憑依してしまうのと同じ次元にある。


ましてやシンジが「失神」した後、エヴァが暴走するが、これはまさしく、シンジにエヴァが憑依したのであり、シンジはキツネにとり憑かれたにすぎない、ということを示している。


それにたいして第二の位相は、自らの意志に基づいて対象に移入し、対象そのものの操作を可能とするものである。


シンジは、次第に自らの意志によってエヴァを操縦することができるようになるなかで、エヴァに意志的に憑依し、コントロールする。


だがこれは、エヴァに乗ることが自分の意志であるというよりもむしろ「みんなが望むから」「父親がほめてくれるから」「正しいことだから」という理由からであり、そこにはネルフという共同体の利害と密着しており、自分の幻覚を意図的に獲得し、これをネルフの共同幻想に集中同化させる能力、すなわちエヴァとのシンクロ能力が、一つの職業、一つの技術、専門性として分化していったということである。


ゲンドウと亡き妻との対幻想が、ネルフという共同幻想の象徴である。そして、この対幻想は消滅することによって、共同幻想に転化した。


そこにネルフの共同幻想にたいして、ネルフで働く男女の対幻想の共同性がもっている特異の位相があり、これこそ、まさしく共同体のなかで〈家族〉がどのような本質的なあり方をするかを象徴している。


実際問題、どのような科学力は全く分からないが、ゲンドウの妻の「魂」の入っているエヴァの存在とは、対幻想の喪失を憑依化させることによって共同幻想へとずらすゲンドウの幻想の産物にすぎない。


言ってみれば「共同ゲンドウ」という幻想がここにあるのである(オヤジギャグです。鼻で笑ってください)。

 


巫女としての綾波レイ

 

ゲンドウの幻想性のもとで存在理由を見出し、自らの生命にたいする執着をもたなかったレイ。
「どうせ私は捨てられる」と自らに言い聞かせながら、忠実にゲンドウの命令に従っていくレイ。
物語上は彼女の存在は、ゲンドウの妻、碇ユイの魂を持っていることになっているが、むしろ魂の脱け殻のように振る舞う。


レイはゲンドウの意志に憑依しているのだが、強くゲンドウの意志を体現しているというよりは、ゲンドウの意志に支えられて存在させられているかのようである。


巫女としてのレイの役割は、シンジにとって反発の対象にすぎない父に対して、その思いを反発させずに受容させることであり、あくまでも「媒介」にすぎない。物語の前半でシンジが父親や他の大人や社会や使徒に向かう意志や意欲をもっていったのは、レイとの出会いがあったからであろう。明らかにシンジもしくは作者は、前半においては確実にレイをシンジと対的な関係として描いている。


だが、巫女としてのレイは、ある意味では、母の代理であって、他者としての対ではない。そこに登場するのが、アスカである。

 


NERVという此岸と他界

 

シンジが何度か「逃げる」。


どこへ?


それは、父や寝る府といった共同幻想の悲願への脱出である。


だが最終的にはどこにも逃げ場がないことに気づく。


使徒の世界もまた他界である。


また第25-26話における心理劇における、「もう一つの世界」「別の世界」の可能性を見出すのも、他界である。


一度他界に疎外されることによって、現実の共同体のいびつさを自覚し、そこで生きる自分の意志を決定させていく構造がここにある。

 


〈生誕〉〈死〉〈復活〉の農耕民族の生活サイクル

 

エヴァとシンクロするシンジの葛藤は、いうなれば、母体内にいる胎児の感覚から世界に疎外されていく、子どもが自らの意志で生きていくことの自覚をえていくまでの、他者との関係意識の問題であり、父にたいする不安定な関係意識、すなわちある意味では母親を求め合う男と男の戦いであるのだが、これを、最終的には、シンジがエヴァに乗り続けることは、成人への成長を拒むものである。

 


〈母制〉としてのレイ、マギー

 

シンジはレイに母親の匂いをかぎとる。


レイはシンジに母親的な関係をとり続ける。


だがいずれもリアルな母子関係ではない。


女性たちもまた「母親」を求めている。


結果的にアスカにとってもエヴァは母親であった。


とある女性科学者の母親の魂はコンピュータという形で具象化されている。


だが、この物語に本当の〈母親〉は存在しない。


ただ、男と女たちが〈母親〉を求めている。

 


アスカとシンジにおける対幻想

 

シンジにとってアスカは、自分を否定する他者として存在している。


自分が他者から否定されることによって、はじめて家族と共同体とは別な新たな対関係を、シンジは形成することができる。


しかし、シンジは映画では、アスカとの関係のとり方において未熟なままであったことがわかる。
すなわち、アスカの裸体にたいして自慰という形でしか関係がとれなかったのである。


それ以前にもシンジは、キスをしようとしたものの、アスカの寝言「ママ」によって、アスカにたいしても彼女の幻想の対関係、ならびに共同幻想から引き離すことができずに、アスカを自滅させていく一つの原因を形成している。


物語の構成上、アスカとシンジは、新たな対関係を形成していく運命にあるにもかかわらず、その契機が引き伸ばされることによって、物語は、終焉を迎えることなく、延長されていく。


逆にいえば、アスカとシンジの対関係が成就されたときに、はじめてエヴァの物語は、一つの結末を形成することができたはずなのだ。


だが庵野はそうしなかった。なぜか?


この構図は、アニメのみならず広く「物語」が形成されていく上での、中心的な戦略の一つであるという見方もできるが、シンジにとって全くの他者であるアスカの存在は、唯一、この物語においては、もっと大きな意味がある。


映画では、シンジはアスカにたいして「僕をいじめて」と言明し、アスカの裸体を前にして、接触することなく、自慰に走るシンジは、やはり、アスカとの距離感をとったまま、対関係を形成しようとしており、自分が傷つきたくない、そして他人も傷つけたくない、といった関係性を維持している。
そこでなぜアスカは立ち直ったのか?


いや、実はアスカは何も解決されていないままなのではないか?


この物語の中では、誰も他者を救済しないのだ。


ミサトはシンジにもアスカにも、「子ども」としての関係性をとらない。


ゲンドウも、レイとシンジにたいしては、一切の「甘え」をもたない。


ここでは日本社会の親子関係、大人-子ども関係がつくりあげている甘やかしの論理が切り捨てられている。


それは子ども同士でもそうである。


傷ついたアスカに、誰も手をさしのべない。


シンジでさえ、自慰はしても、アスカを助けようとしない。


アスカはただ一人、廃虚の風呂につかっている。


NERVの人々は、ただ任務をはたし、虚ろに登場してくる。


仕事にどっぷりと浸りきったワーカホリックなのか、時折「あなたと一緒なら」という言葉によって伝えられる、ほんの微妙な対関係をとりつつ、誰もが自閉的な世界にとどまっているかのようである。


そのなかで、ただ一人、他者の心に「優しさ」を投げかけていた人物がいる。


彼は菜園をつくり、ミサトの心を癒し、シンジにたいしても適切なアドバイスを与えていたし、NERVとも日本政府とも、すべてにたいして等距離を保っていた。


しかし、そういった人物は消される運命にある。


彼のみが一般人であり、常識人であり、「成熟した大人」のシンボルであった。


彼だけが、幼少期のトラウマや家族関係、親子関係の物語が展開されない。


それは克服されていたのだ。


しかし、彼が生きられない世界は、みなが自閉している。


自閉した世界をつき崩すこと、それが「人類補完計画」であったとしたら、それは、大がかりな仕掛けであるというよりも、未熟な子どもたちの寄り集まった不気味な世界である。


それは、単に庵野のインナースペースの自閉性であるというだけではなく、現在世界そのものの自閉性を象徴しているといえるだろう。


ATフィールドという心理的な壁は、現在世界では、接触恐怖、清潔恐怖症となって現われている(鷲田清一氏の一連の仕事を参照)。


自分が好きになれない登場人物たちは、同時に他者も好きになれていない。


対関係が発生することによって、この世界が変わりうるにもかかわらず、発生しない。


アイを叫ぶが、自分であるところのIしか見いだせず、愛は、そこにはない。

 


罪責と同性愛的感覚

 

カオル君を殺害してしまったシンジ。


その心には「罪責」感にたいする始末の仕方が表象されている。


カオルとシンジは、ある種兄弟姉妹的な関係をもち、同時に同性愛的な感情の萌芽が見られる。


物語の構造でいえばカオルがもう少しシンジとともにあるのなら、〈鏡〉としての他者との対話によってシンジは、もう少し成熟できたはずなのだが、庵野の恐ろしいところは、いともたやすく、そういった〈救い〉〈逃げ〉をつくらず、たやすくカオルを〈消去〉してしまった点である。


逆説的にいえば、この〈消去〉こそが、罪責、すなわち 原罪 なのだ。

 

奇しくも、この物語でもっとも美しく、浄化したイメージを遺したのが、カオルとシンジとの出会いだった。絶対的な他者ではなく、むしろ、全面的に自己を受け入れてくれる、絶対的な同一者がそこにある。

 


規範としてのゲンドウ

 

この物語においてすべてのルールを決めているのは、ゲンドウである。


人類補完計画その他の仰々しい計画もまた、すべてゲンドウのインナーワールドである。


ゲンドウは庵野である。


庵野はこの物語を強引に進行させるとともに、完結させることなく破綻させていく。


これが庵野の規範である。

 

残念なことにシンジは、ゲンドウと対等な関係、つまり、相互の信頼や理解が可能な関係に至ることができない。これは、「規範」というものが、勝手に上から舞い降りて自身の生活や慣習や思考を束縛していると考える庵野の基本的な意識が表象されている。

 

では、これは「強い」父親像なのだろうか。フロイトがこだわったような「父権」「家父長」の権力なのだろうか。たとえば旧約聖書にあるように、アブラハムが息子イサクにたいして、神の命を受けて殺害を決意するような、絶対的な権力なのだろうか。

 

否。ゲンドウが見せているのは、単に、強がりのようなものである。あまり、確固たるものがみえない。それは、彼の言葉づかいが、いつもあいまいで、何らかの「信念」や「信条」「思想」といったものがあるようには見えない。

 


起源と紀元

 

今の時代に生きるわれわれにとって、エヴァが投げかけている問いは、きわめて深刻かつ本質的なものである。


21世紀の日本を舞台にしていながら、そこに存在するのは、エヴァをはじめとした科学技術的なオブジェと都市空間を除けば、現時点での日本の風景であり、日常性である。


あまりにも日常的すぎるがゆえに、われわれはここに現在のわれわれの心情と、シンクロさせて見ることができるのである。


われわれは、知らぬ間に、今日もまた、得体の知れない〈使徒〉を相手に〈戦う〉のだが、その戦いはまるで、降り注ぐ雨のように、

 

シトシトシト、

 

と間断なく続き、また、突然に幕を下ろすのだった。

 

(未完)

 

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:


読んだ本

地域創生への挑戦
清成忠男
有斐閣
2010.10

ひとこと感想
1970年代から2010年に至る軌跡をふりかえった、すなわち、「3.11」以前に唱えられた、地方創生論。

1933年生まれ。東京大学経済学部卒。法政大学経営学部教授、学部長を経て、96年法政大学総長・理事長。現在、法政大学名誉教授、地域活性学会会長。主要著書「地域主義の時代」など。

***

本書では「地域主義」という言葉が中心として「地域創生」論の系譜が1970年代から語られている。

経済学自体の流れでいえば、1965年頃にはそれまでのマルクス経済学から近代経済学への移行がみられ、そのあと、1975年頃に近代経済学から広義の経済学が語られはじめ、その広義の経済学において「地域主義」というものがクローズアップされた。

その筆頭は、玉野井芳郎である。シューマッハーやポランニー、イリイチの紹介も併せて行われた。

だが清成は玉野井の仕事は「抽象的な問題提起」にとどまったとして、ここからしっかりと地域経済をとらえるような仕事を自分たちが行っていったという位置づけをしている。

その集まりが「地域主義研究集談会」であり、ここには、増田芳郎、河野健二、古島敏雄、鶴見和子、川本彰、三輪公忠、樺山紘一らが参加した。

また、玉野井は東大を退官し、1980年には沖縄国際大学に移ったのを契機に、「沖縄シマおこし研究交流会議」をたちあげる。

私の師である山本哲士は、イリイチのところ(クエルナバカ)で学んできたこともあり、帰国後、玉野井らのグループと接点があった。特に新評論、藤原良雄を通じてであり、その後いろいろとややこしいことが起こるがここでは省略する。

***

地域
= 日常的な生活圏 ~ 広域経済圏(人口500万人の日帰り行動圏)

地域経済の自立
1)内部循環の拡大
 ローカル・エネルギーの活用
2)域内収支のバランス
3)地域形成にあたっての意思形成の自由
 企業城下町にならない

***

Alternative Industrialization もう一つの工業化

Exogenous development → Endogenous development または Spontaneous

内生的
内発的
下からの
分散型

Local Initiative (OECD)

地場産業の集積地として成功

例)
ブリアンツ地方(イタリア、ロンバルディア州) コモとミラノのあいだ
USA 新産業の創出
中国 郷鎮企業 

ミクロ経済学の視点
 自足的、自発的
 自己資源の活用
マクロ経済学の視点
 多様な要素の相互依存と統合

先進国 = 地域分権を志向
新興国 = 既存工業化路線が優位

***

1978年 
 地方の時代 神奈川県 長州知事
1980年代
 一村一品運動 大分県 平松知事
 田園都市構想 大平政権

振興
1)産業(既存、新規)
2)企業誘致
3)財政依存

***

地域概念

国家の内部で特定の広がりをもった空間
(身近な生活活動の場)

地域の3つの主体
・私(private) 社会生活(住民)、経済(企業)
・公(government) 政府
・共(public) 非営利

新たな地域形成

1)クロスボーダー
 例)レギオ・マースライン

2)ネットワーク化
 例)バルト海都市連盟
 例)アルペン・マドリア
 → ITネットワークの活用

***

地域創生の課題

今なぜ「地域創生」か
 地域の疲弊 → 創造的再生 → 全体社会の再構築

地域の自立
 地域創生の大前提 = 自治
  地域 = 基礎自治体(第一義)
      = 都道府県(経済的)

地域の課題
1)地域間格差
2)大都市集中 ⇔ 過疎化(人口減、高齢化、活力低下)

主権
= 地域住民
   行財政の地域分権化が必要

方向性
1)精神的・経済的自立
2)住みやすい地域の形成
3)地域福祉の肥大化

グランドデザイン
 地域の固有性(有利性)を活用

***

中山間地域の特徴
・経済活動の停滞
・低所得、雇用の場の縮小
・若者の流出、人口の減少
・人口の高齢化
・経済活力の一層の低下
 ← これらが悪循環

1970年1月 旧過疎法
 過疎地域の指定

のち、一度改善傾向が見られたが、その後も継続して対策がとられている

限界集落

成功事例
池田町(北海道) ワイン 1960-70年代
湯布院、大山町(大分県) 一村一品運動 1970-80年代
上勝町(徳島県) 株)いろどり
馬路村、梼原町(高知県)

***

地域創生と金融(融資)

信用金庫
・地域的、規模的に貸出先が限定されている
・地域と運命共同体の関係にある

協同組織(信用協同組合?)
・ゆるやかな結びつき
・相互扶助、非営利

***

少子高齢社会で一層拡大する地域格差にいかに対応すべきか。1960年代から「地域の内発的発展」の施策を地域の実態把握の中で追究してきた著者の活動は、「地方の時代」や「一村一品運動」など、さまざまな政策に結実した。混迷の今こそ求められる清成地域経済論の集大成。


目次        
地域創生の提唱
第1部 地域創生の思想(地域創生論の系譜
地域の内発的発展と工業化
現代の地域創生;地域主権論をただす
「新しい公共」への疑問

第2部 地域経済の現状と成長戦略
地域創生の課題
地域経済の現状
地域を軸にした経済成長戦略

第3部 地域創生の動き
組立産業
地場産業
ライフサイエンス
経済的不利地域の創生
地域創生と金融
中小企業の地域貢献
これからの地方大学
都市と大学
閉塞状況の突破口と新しい地域像



地域創生への挑戦/有斐閣
¥3,564
Amazon.co.jp
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

読んだ本

環境の思想家たち 上(古代-近代編)
エコロジーの思想
ジョイ・A・パルマー 編
須藤自由児 訳
みすず書房
2004年9月

 

ひとこと感想

上巻には26人の「環境思想家」が登場する。人数が多いぶん、人物紹介が中心となり、あまり掘り下げた記述はなく、思ったほどおもしろくなかった。ただ、あらためて、人間を特権化せず、他の生き物と人間とを同じ「いのち」あるものとみなすことに、環境思想の原点があることはよくわかった。

 

パルマーはダラム大学教育学教授および副学長。同大学の環境学習リサーチ・センター理事。国立環境教育協会副会長。教育と交流に関するIUCN委員会会員。


訳者の須藤は1945年新潟県生まれ。東京大学工学部卒。通産省に2年間勤務その後、東京
大学文学部卒。81年同大学院人文科学研究科博士課程修了。跡見学園女子大学非常勤講
師等を経て、92年より松山東雲女子大学人文学部勤務。現在人間心理学科教授。

***

 

登場する人物

仏陀

「仏教は、少なくとも原理においては、全存在が固有の道徳的価値をもち、道徳的な「考慮に値するものであるということ」、そして全存在にたいする相互的かつ互恵的な責務が存在するということを強調する」(14ページ)

 

荘子

道家思想の後継として、禅仏教をとりあげている。一般的に原始仏教を「本家」としてとらえる傾向があるが、中国における仏教と道教の融合もまた大変興味深い。

 

アリストテレス

「人間的テロス=目的を実現することにより開花・現実化する、人間の生に固有な卓越性(徳)の問題」(38ページ)

 

ウェルギリウス

「過去2000年の大半、田園的・牧歌的なものの観念はおもにウェルギリウスによって生み出され伝えられてきた。」(44ページ)

 

アシジの聖フランチェスコ

近い時代の聖人トマス・アクイナスとはまったく対照的に、人間と動物とを理性のあるなしなどで区別はしなかった。ヨハネ・パウロ二世は彼のことをエコロジーの守護聖人とみなした。

王陽明

国内において儒教は戦後、前近代的なものとして退けられたが、あらためて「仁」の考え方や「知行合一」など考察に値する点が多々ある。

 

ミシェル・ドゥ・モンテーニュ

エセーの第1巻、31節にあるブラジルの食人種についての議論では、ヨーロッパによる残虐行為の指摘。第2巻、12節には他の生物たちへの細かい説明がある。

 

フランシス・ベーコン
環境論ではむしろ悪者として常に登場するベーコンであるが、そう単純ではないことが示されている。

ベネディクト・スピノザ

言わずもがな。

 

芭蕉

俳句のもつ不思議な点、それは、自然を描写する人間の不思議な態度にある。主観と客観とは異なる構図をそこにみる。


ジャン・ジャック・ルソー

いわずもがな。

 

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

色彩論をはじめ、自然観、ホーリズムについて検討。想像力。

 

トーマス・ロバート・マルサス
リカードやJ・S・ミルを友人とする。人間の側を「人口」として研究した。「生産は生殖に追い付かない」。

 

ウィリアム・ワーズワース

自然の詩人であるとともに自己の詩人であった。メルロ=ポンティが言及(?)。自己と環境とのあいだの相互構成的、互恵的関係性。

 

ジョン・クレア

田畑やフィールドを「生きられた」もの「経験される」ものとして探求した。

 

ラルフ・ヲルドー・エマソン

自然との共生を重んじた。自然は単なる資源ではなくロマンスである。

 

チャールズ・ダーウィン

人間と他の生物との連続性。

 

ヘンリー・デヴィッド・ソロー

米国人が書いた自然に関する古典の第一書

 

カール・マルクス

いわずもがな

 

ジョン・ラスキン

産業化がもたらした弊害を弾劾、ナショナルトラストや歴史的建造物の保護のための協会の設立などに影響を与える

 

フレデリック・ロー・オムステッド

公共の貢献をつくりだし、景観建築という新しい職業分野を確立

 

ジョン・ミューア

「原生的自然のなかに、人間の精神的/宗教的な健康と強さを見た」(257ページ)

 

アンナ・ボツフォード・コムストック

農業の重要性、田舎の価値を回復しようとする運動の中心だったコーネル大学でベリーとともに仕事を行った

 

ラビン・ドゥラナート・タゴール

自然の美的側面を強調

 

ブラック・エルク

家族的な関係を環境にみる

 

フランク・ロイド・ライト

自然を理想化し、絶対的な参照枠、かつ評価の基準とみなした

 

 

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)

テーマ:

読んだ本
創造農村 過疎をクリエイティブに生きる戦略
佐々木雅幸、川井田祥子、萩原雅也 編 

学芸出版社
2014.03

ひとこと感想
農村であれ都市であれ「創造」を未来を生み出す源泉であるとは思う。しかしそれは必ずしも狭義における「芸術」や「アート」にかぎられるものではない。むしろ、長年にわたって築き上げられてきた景観や文化、伝統の味わいこそ、「創造」の最たるものである。

佐々木は1949年生まれ。京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。金沢大学経済学部教授等を経て、現在、大阪市立大学大学院創造都市研究科教授・都市研究プラザ所長。文化経済学会〈日本〉会長、国際学術雑誌City,Culture & Societyの編集長も務める。

川井田は、大阪市立大学大学院創造都市研究科博士課程修了。大阪市立大学都市研究プラザ特任講師。都市文化創造機構事務局長、文化経済学会〈日本〉理事、大阪府・アートを活かした障がい者の就労支援事業企画部会委員。書「障害者の芸術表現」。

***

現状として、以下の点を強調している。

・基幹産業の喪失
・雇用の減少

これは、過疎化の進む「地方」だけの話ではない。「都市」においても同様の問題となっている。

そこで「創造都市」である。20世紀末にチャールズ・ランドリー、リチャード・フロリダらが提言したもので、芸術や文化を都市の活性化の中心に据えようという主張である。

現代アートがはたして本当に都市の活性化に創造的な作用をもたらしうるのかどうかは、若干異論があるところだが、草間弥生の作品に代表される直島の取り組みなどは、かなりの注目を浴びていることは確かだ。

しかし本書の主眼は「都市」ではなく「農村」である。「創造農村」とは何か。

「自然と人間の創造性に注目」(4ページ)したものとされている。

著者たちは2011年1月、創造都市ネットワーク会議にて「創造農村」を掲げた一般社団法人「ノオト」(兵庫県篠山市)を立ち上げる。

また、事例として、以下を紹介している。

・徳島県神山町: アーティスト、クリエーター、ICT企業の取り組み

・創造的過疎(大南信也): 住民の創意に基づき、内発的に新たな挑戦を行う

・ビルバオ市(スペイン): 地域文化戦略

「アートの力を活用して、旧来の地域文化を転換すれば、創造性あふれる知識労働者を誘引することができる」(13ページ)

……ここでふと浮かぶのは、福島県川内村のことである。獏原人村のほか、たくきさんや西巻さんなどが暮らしていたさまは、緩やかではあるが(プロジェクト化しない)「創造農村」に近いとも感じる。

また、「創造的過疎」というのは非常にシニカルな表現であるが、これはイリイチの「創造的失業」のことを思い出させる。ほか、石山修武の手がけた唐桑のまちづくりや石巻のリアスアーク美術館、伊豆長八美術館なども思い出す。

***

本書によれば、「創造都市」論とは、ジェイン・ジェイコブズに端を発し、企業誘致や公共事業を中心とするのではなく、また、デザインにのみ偏重したまちづくりでもなく、地域独自の資源をもとに都市をつくりあげようとする議論のことである。

言ってみれば、旧来の産業ではなく、新たな産業の創出、そして、新たなライフスタイルの創出を目指している。「文化資本」の活用(20ページ)という言い方もしている。

これに対して、おおもとは「創造農村」にあったようだ。

創造農村は、ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスに端を発している。ラスキンは文化経済学の領域で固有価値論の点から評価され、モリスはアーツ&クラフツ運動の点から理解されている。また、ナショナルトラスト運動も、環境経済学の側面からとりあげられる。

ほか、宮澤賢治、井上ひさし、平田オリザなどをふまえつつ「文化的成熟」ということや、梅原猛の「人類哲学序説」における「自然生態系が持つ創造性」というものも「多様性」との連関からふれられている。

カントや三木清らの自然美や自然技術論との連関性が気になるところである。

***

事例
越後妻有アートトリエンナーレ(北川フラム)

ここでは創造農村のルーツを「内発的発展論」とし、1980年代の宮本憲一の仕事(1982,1989)に置いている。

そこでは、以下の4点が強調されている。

1 地域内発
地元の技術、産業、文化を土台にして、地域間の市場を主な対象として地域の住民で学習し、計画し、経営する

2 開発
環境保全の枠のなかで化投げる。自然の保全や美しい街並みをつくるというアメニティを中心の目的・福祉・文化が向上するような、何よりも地元住民の人権の確立を求める総合的目的を持っている

3 産業開発
特定業種に限定せず、複雑な産業部門にわたるようにして、付加価値があらゆる段階で地元に帰属するような地域産業連関をはかる

4 住民参加の制度
自治体のが住民の意志を体して、その計画にのるように資本や土地利用を規制しうる自治権を持つ

***

農山村の発展・振興の原則
保母武彦(2013)

1 総合性
2 連携
3 自律性


人、土地、むらの三つの空洞化

小田切徳美


1970前後 人の空洞化
1980前後 土地の空洞化
1990年代~ むらの空洞化(特に中国四国地方)

更にその根底に「誇りの空洞化」が起こっている。

***

グローバル性
・経済発展
・工業化
・都市化

ローカル性
・地域の自立
・創造性(?)
・コミュニティ

***

「創造」とは何か?

・クリエイティブ・コモンズ
・コンビビアリティ
・カルチュラル・エンジニアリング

***

地域コミュニティ
・結
・互酬性

見返り(経済効果)を求めない、期待しない関係

ポランニー: 互酬を現代の非国家的経済の特徴的な形態とみなす
サーリンズ: 一般的互酬性 (鳥越皓之)

***

2つの方向性

グローバル化(創造都市?)
・豊島区 文化創造都市
・大田区 クリエイティブタウン
・横浜 クリエイティブシティ

ローカル化(創造農村)
・木曽町
・仙北市
・篠山市
・上勝町
・神山町
・鶴岡町
・中之条町
・直島町
・小豆島町
・読谷村
など

1)産業再生 → 環境問題 → 芸術文化

2)NPO → 環境問題、芸術文化 → ビジネス

3層構造のネットワーク

1 地域に根差した閉じたネットワーク

2 取引関係、地縁団体など、定期的にコミュニケーションをとりあう関係

3 開放的でひろがりあるネットワーク(SNSなど)

***

知識産業(フリーツ・マッハルプ)
 肉体労働者 → 知識労働

脱工業化の社会(アラン・トゥレーヌ)

脱工業化の社会(ダニエル・ベル)
 財の生産→サービス(知識階級)

ほか、アルビン・トフラー、ロバート・B・ライシュ、ピーター・ドラッカーなどが知識社会論として、とりあげられている。

これらから類推すると、創造都市や創造農村のもとになっている「創造性」とは、科学技術と芸術文化を統合化したものであり、言わば「文化技術」の一形態とみなすことも可能かもしれない。

チャールズ・ランドリーは「知識は本質的に「人的資本」である」と述べているが、これをブルデュー流に読み換えれば「文化資本」である、ということかもしれない。

ここでは事例として、以下が挙げられている。

・横浜 BankART1929
・黄金町プロジェクト
・神山町 グリーンバレー

***

ツーリズムと文化的景観

・地域資源
・まちづくり基本コンセプト
・地域文化振興等の特徴的な取組事業
・特徴的な条例
・文化芸術交流拠点創造的拠点
・取組団体、NPO等
・産学民連携、交流

基礎データ 面積、標高、林野率
 総人口、世帯数、高齢化率
 年少人口率、人口減少率、アクセス
 教育、医療、公民館、図書館、産業

内発的発展論
 西川潤、鶴見和子らの1989年の編著

内発的発展の単位としての地域
・場所
・共通の紐帯
・相互作用

定住者―漂泊者―一時漂泊者

嘉田由紀子 環境社会学 2002
ネグり、ハート コモン・ウェルス

近代経済学
 生産の三要素 = 土地、労働、資本

創造経済
 人的資源(human resources) (知識)

***

アートと伝統工芸の融合は、それ自体おもしろいことであると思うが、そもそもアートの質もしくは「地力」(数百年の歴史に耐える)は、かなり低いものも含まれているのではないか。





 「創造農村」の動きが、日本各地へ広がろうとしている。アートや食文化による地域再生、オルタナティブツーリズムによる都市農村交流など、各地の試みを紹介するとともに、条件不利地域に秘められた可能性をひらく。

「創造農村」の時代 
創造農村とは何か、なぜ今、注目を集めるのか
佐々木雅幸 

「創造的地域社会」の時代
松永桂子 

創造農村の構築と持続可能性 
萩原雅也 

生物文化多様性を活かしたツーリズム
敷田麻実 

カルチュラル・ランドスケープの保全と地域の創造性
井上典子 

動きはじめた「創造農村」 
農山村文化と自治の取り組みを土台とした「美しい村」づくり
田中夏子 

伝統芸能の現代的再生と「3.11」の意味
是永幹夫 

在来作物による食文化発信 
本田洋一 

漂泊的定住者がひらく創造的解決への扉 
川井田祥子 

過疎の町が再生のエンジンとして選んだ現代アート 
入内島道隆 

創造人材の誘致による過疎への挑戦 
野田邦弘 

地域性と結合した文化的資源の創造による島の活性化 
田代洋久 

三線と伝統工芸を活かした平和のまちづくり 
杉浦幹男 

創造農村のリーダーたち 
入内島道隆
大南信也
金野幸雄
田中勝己



創造農村: 過疎をクリエイティブに生きる戦略/学芸出版社
¥3,240
Amazon.co.jp
いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)

テーマ:



先ほどESET社のウイルスレーダーを見てみたら、ランサムウェア「テスラクリプト」(Teslacrypt)が日本で猛威を振るっていることが分かった。

 

まず世界中でのテスラクリプトの挙動であるが、下のグラフのようになっている。

 

2016年3月から発生し、その後上下はあるものの、多い時には出現比率が10パーセント以上になることもたびたびあった。

 

それが2016年5月下旬からは20パーセントを超え、現在さらに上昇している。

 

しかもこれを国別にしたのが下記の画像である。

 

多くのマルウェアは中国やインドをはじめとした新興国で活発であるものの、欧米や日本ではそれほどでもないというパターンが多い。

 

上の地図でいえば、緑や黄緑色が、ふだんの先進国の色である。

 

ところがこのテスラクリプトに限って言えば、英国やオーストラリア、ニュージーランドなどが多く、それよりも多いのが、なんと日本となっている。

 

もっと驚くべきことは、この日本における出現率である。

 

この1か月間の出現率は、なんと、56.62パーセント。

 

つまり世界中の攻撃のうち、半数以上が日本を狙っている、ということである。

 

なお、テスラクリプトは、ランサムウェアで、感染するとパソコンのデータを暗号化し、ユーザーがクリックしても開けることができなくなってしまうものだ。

 

万が一感染した場合は、大変面倒なことになってしまうので、怪しいメールの添付ファイルやURLのリンクなどは関心を持たないようにしたほうがよいだろう。

 

それでも被害をこうむった場合、または、すでに被害を受けた場合、このテスラクリプトに関しては解除ツールがESETより無償提供されているので、以下のページを参照するとよいだろう。

ランサムウェア「TeslaCrypt」で暗号化されたファイルを復号するツールを公開

http://canon-its.jp/eset/malware_info/news/160519/

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

親戚の方が、亡くなった。

 

子どものころ、大変お世話になった。

 

最後にお会いしたときはまだ、お元気だったが、

少し前から寝たきりの状態に近くなっていた。

 

お見舞いにも行けずにいたなかで、訃報が舞い込む。

 

 

 

どうぞ、安らかにお眠りください。

 

 

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。