そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ

いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。(タイトルは、今は亡き、フランスの哲学者、ジャック・デリダの『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』から。)

核の言説史 公開中 → 

私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、文献史をまとめてみた。

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核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。
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今日、近場を散歩した。

まず、いつも会うすぐ近所のネコが夕涼みをしている。

1 「にゃーちゃん」(トラネコ、18歳)

こんばんは、とあいさつすると、ごろごろところがる。

少し歩いたところには、多くのネコがいる。

2 クロネコ
3 シロネコ
4 小シロネコ
5 小トラネコ

そこから少し歩いたところに、やはりまだ1歳未満の小さな猫がいる。

6 小トラネコ
7 小キジトラ

ほんの少し移動すると、車の下に、けっこう泣き叫ぶ子猫がいる。

8 ニューフェイス君(クロまだら)

そこから2分くらい歩くと、昨日、久方ぶりに会ったネコがいた。

9 ジミー君(キジトラ)

さらに、目を凝らしてみると、以前よく出会っていたネコなのだが、目を怪我しており、それ以来あまり人前に出てこなかったネコがいた。

10 コゲチャネコ

そう、今晩の散歩では、なんと、ひさしぶりに2桁のネコと遭遇したのであった。




猫の散歩道/中央公論新社
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読んだ本
原爆文学論
黒古一夫
彩流社
1993年7月

ひとこと感想
本の題名は「原爆文学論」であるが、1993年の時点で、「原爆文学」から、「核文学」への視点の移動を行いはじめていることがわかる。主に、大江健三郎、井上光晴、小田実、井伏鱒二、林京子、中沢啓治の作品を中心に論じられている。また、吉本隆明に対してかなり否定的である。私は、内容はさておき批判の仕方がどうも生理的に受け付けない。

***

著者(KUROKO Kazuo, 1945-  )は、長年にわたって「原爆文学」を主題に研究を続けてきている。

本書は、雑誌などに書いた論考を一冊にしたもので、以下のような章だてになっている。

・核状況を撃つ想像力――原爆文学の位置
・〈原爆文学〉から〈核文学〉へ――『西海原子力発電所』と『HIROSHIMA』
・被爆・その理不尽さのかたち――『黒い雨』、そして『地の群れ』
・〈核〉・その世界苦に対抗して――『ヒロシマ・ノート』から『ピンチランナー調書』へ
・「核時代」の周縁を生きる――林京子論
・『はだしのゲン』とは誰か
・原爆短編小説の意味――『何とも知れない未来』の世界
・「記録」を読む――『日本の原爆記録』
・「事実」に向かう眼――『ヒロシマ ナガサキ原爆写真・絵画集成』
・反・反核の思想的構造――文学者の言説から

このように目次を概観すると、本書が、特に、以下の作家について論じている(=以下の作家を肯定的にとらえている)ことが分かる。

井上光晴
大江健三郎
林京子
中沢啓治

思うに、ここで言われている「原爆文学」(もしくは「核文学」)には、四つのフェイズがあるように思われる。

1)
被爆した経験に基づいて書かれたもの
2)被爆体験はないが、文筆業の人によって書かれた作品
3)原爆にかぎらず「核」を主題とした作品
4)「核」
を主題として書かれた作品に対する評論

1)については、フィクションのみならず、「記録」されたもの全般を含む。つまり、写真などを含む。

著者の言い分は、次のような文章に集約されている。

「まじめに人間と社会の在り方との考えてきた作家は、一度は〈原爆〉を主題に作品を書いている。」(16ページ)

こうした言い回しはきわめて「倫理的」で「政治的」であり、もっと言えば脅迫的に響く。

まるで、作家たるもの、原爆を主題に作品を書いていないと、作家として一人前ではないかのようだ。

もちろん著者はそういうことを言いたいのではなく、「不可避的に」原爆をテーマにしてしまうのではないか、と言おうとしていると思うのだが、どうも、やや挑発的な言葉遣いをしていおり、私にはそれがかなり気になってしまう。

「〈核〉こそ、極小的存在であるところの人間と世界が真正面から向き合う時に出現する問題」(75ページ)

自分が向き合っている問題をできるだけ重大なものとし、しかもそれがどうでもよいようなものではなく、万人にとっても抜き差しならない「はず」だという気持ちをこめて書いていることが、ひしひしと、いや、ひりひりと伝わってくる。

私は、こうした言い方に、共感をもてない。

いや、もちろん、この著者は、とても誠実で、真面目で、良心的に問題を論じているのは間違いない。

そういうことを批判したいのではない。

それとこれとは、話は別である。

しかし私は、こうした書き方が、むしろ、文学における「力」を「原爆」や「原発」に対して発揮する可能性をよわめているように思われて仕方がない。


場合によっては、「原爆文学」という観念が、文学の活動に、そして、私たちが生きる社会にときには邪魔になることもありうるのではないか。

そうした「想像力」こそが、重要なのではないか。

***

たとえば、「ほっかいどう文学」というものが、この世にあるとしよう。

ほっかいどうで暮らした経験のある人が書いた「文学」をまとめる、一つの指標として。

でも、それって、一体何の意味があるだろうか。

「文学」もしくは「表現」の次元における「意味」は、特に、ないのではないだろうか。

こうした「ラベル」は、きわめて「政治的」「経済的」であって、「文学的」「表現的」「表象的」ではない。

したがって、政治的、経済的に間違っている、わけではない。

むしろ逆である。

文学的に、誤っている、ということを強調したい。

***

極端な例を挙げよう。

ここに二つの作品がある。

一つは、ヒロシマの被爆体験をした人が書いた文章である。そしてもう一つは、被爆体験をしていない人が書いた、ヒロシマに関する文章である。

読み比べてみて、後者のほうが、感動的だった、考えさせられる、文章がうまい、あざやかに当時の光景が浮かんでくる、など多くのプラスの評価があったとしよう。

そして前者については、あまりにも稚拙で、物語となりきれず、表現力が乏しいとしよう。

「文学」として、いずれが優れているのだろうか。

私は、単純に前者だと思う。

後者は、「記録」もっと言えば「記憶」として、かけがえのない大切なものであることは、疑いない。

しかし、それと「文学的価値」とは関係ないのではないだろうか、と私は考える。

まあ、これは「文学」に対する人それぞれのスタンスであるから、「否」と言われれば、それきりである。

しかし、私にとって「文学」は、「経験」の重みではなく、「表現」の重みによって、評価されるものであると思うのだ。

もしも、「経験」に基づくのであれば、凶悪な事件を起こした人間は素晴らしい文学を書くことができるということになってしまうのではないか?

「文学」とは「想像力」であって、「体験」を記述することではないのではないか?

私は、そうした線をはっきりと引きたい。

「原爆文学」は、ここを完全にごまかしている。

それゆえ、黒古は言う。

「文学作品として、原民喜、大田陽子、井伏鱒二、林京子らの原爆文学を越えることはできないだろう。」(36ページ)

「難しい」のは、端的に、被爆の経験が、きわめて特殊なものであり、しかも「大切」なものだからだ。

しかし、私は言いたい。

こうした「特殊性」に価値があるのは、「文学」特に「小説」でにおいてはなく、ルポルタージュや随筆などにおいてである。

ここを混同しては、ならない。

くりかえそう。

被爆の体験を「記録」として残すこと。

これは、「文学」の領域」というよりも「記録」の、問題である。

もちろん「記録」は大事なことであるが、そこに「原爆文学」という、よく訳のわからない「ジャンル」「カテゴリー」を入れこんだことは、ある意味、罪ではないだろうか。

しかも問題なのは、政治的、倫理的、文化的に、自分のしていることが絶対的な「善」にある、と思い込めている点にある。

ここには、文学的想像力というものが、欠落している。

勘違いしないでほしいのだが、私は、ここでとりあげられている作品に「価値」がないと言いたいのではない。

ただ、とりあげ方には、とても違和感を抱く。

「文学」などをもちださずに、純粋に「記録」として、遺してゆけばよいのではないだろうか。

ただ、そうなってくると、一つ不満が残る。

黒古がとりあげる領域は、結局は「文学」に近いところだけであり、映画やマンガ、音楽などをあまりとりあげない。

それはなぜであろうか。

問題なのは、いかなるかたちで「被爆」や「核」が表現されているかである。

そうであれば、その「表現」のされ方は、単に「文章」にとどまらない。

絵画もあればマンガもあれば、映画もあれば芝居もあるし、エッセーや新聞記事もあるし、音楽もある。

「表現」は、言葉だけではない。

なぜ、そこにはかかわろうとしないのか。

わたしには、そうした線のひき方がよく分からない。

これは、「文学ムラ」にいる人が、そのムラとの兼ね合いで書いているように勘ぐってしまう。

それは、「原発ムラ」とまた、似たような構造をしているとさえ、感じてしまう。

原爆文学論―核時代と想像力/黒古 一夫
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観た映像
スパイダーマン
サム・ライミ:監督
デヴィッド・コープ:脚本
スタン・リー、スティーヴ・ディッコ:原作   
トビー・マグワイア、ウィレム・デフォー、キルスティン・ダンスト:出演
コロンビア映画 米国
2002年5月

Spider-man

ひとこと感想
きわめて教育的配慮のある、きわめて「米国」的な、物語。ただ、話自体はよくできているし、何と言ってもニューヨークの街中(空中を含む)を自由に駆け回る映像は、とても爽快感がある。「娯楽」としては楽しめたが、「放射能」の扱いはぞんざいであった。

****

主人公は、遺伝子の書き換えを施されたクモにかまれ、変異を起こし、翌日には特殊な身体をもつようになる。

言ってみれば、昨日ブログで書いた「マタンゴ」と同様、放射能による「変異」ものということになる。

そして、やはり、あっという間に「変異」してしまう。

マタンゴは、汚染されたきのこを食べることによって、であったが、スパイダーマンは、遺伝子改良されたクモに噛まれることによって、「人間」ではないものに変容する。

マタンゴは、「知性」が次第に奪われてゆくが、スパイダーマンには、そのそぶりはない。

マタンゴにおいては「精神」の領域と「肉体」の領域が不可分であるが、スパイダーマンはそれぞれが分けられている。

それは、一般的には、キリスト教的な心身観との違い、と言われているものなのかもしれない。

しかし、放射能は、そんな違いをもたずに、「変異」を起こすとすれば、平等に起こすことだろう。

また、マタンゴはどうやら、自分と同じ仲間を増やすことに関心があるが、スパイダーマンは孤独であり仲間がいない。

一人、ヒーローとして、犯罪や災害などから人々を救うために、その「授かった能力」を活かそうとする。

ここで、マタンゴ以外にもう一つ、別の作品をも思い出したい。

それは、「ザ・フライ」である。

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ここでは、放射能は関係なく、瞬間空間移動機にハエが混入したことで変異が起こる。

この場合、心身ともに変化が起こる。

スパイダーマンは、あくまでも外見は人間と変わらず、人間の身体を基本とし、「感覚器」ならびに第六巻が研ぎ澄まされる。

足や目の数が増えることはない。

ただ、手の指が垂直の壁でもつかまっていられるようなとげがあること、そして、クモの糸を手から出すことができるようになることくらいが、身体的な変化である。

しかし、ザ・フライのクモ男は、そうではない。

身体がどんどん変化してゆき、人間ともハエとも言い難い存在となってゆく。

感覚は、スパイダーマンと同様で、アクティブになり、ハイ、つまり、覚醒剤を打っているような感じになるが、それだけではない。

次第に意識も混濁してゆく。

スパイダーマンは、あくまでも「人間」であるが、「ハエ男」は、やはりマタンゴと同様に、「人間」ではなくなる。

こうしたスパイダーマンであるが、放射能、米国、という二つのキーワードをもとにして考えるならば、以下のように、まとめることができるだろう。

最初に原爆を開発し実際に使用した米国は、世界でもっとも力を持った存在であり、その威力ゆえに大きな責任ももっている。自分(たち)は、その力を、弱い人々を助けるために利用するのだ。

スパイダーマンにせよ、スーパーマンにせよ、彼らは、ふだんはやさしく、非力で、頼りないようにみえるが、驚くべき能力をもっている。

しかし、この能力は、生まれながらのものでも努力の結果でもなく、突然「変異」的なのである。

これは、「マトリックス」の主人公も同様である。

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こうした「能力」の付与のされ方は、かなり安直である。

私たちは、ガンダムやエヴァンゲリオンを代表とする「日本的」な「ロボット=人間」との違いを見出す。

私は幼少の頃、自分が正義のヒーローになって「悪い奴ら」と戦うはめになっている夢を何度か見たことがあるが、そのたびに、自分がうまく自分の身体を操れず困惑した。

急に自分が「人間」を超えた能力をもつということが、どれだけ大変なことか、夢のなかで学んだものだ。

もちろんスパイダーマンも、糸を吐くことや、ビルを駆け上ることなど、相応の練習を積んでいる。

しかし、根底にある、自分の身体を自由に動かせて当然だ、という考えは、変わることがない。

スパイダーマンにおいては、放射能の影響は、基本的にポジティブであり、しかもネガティブな影響はもたらさないのである。

この一連の出来事のなかで、自分の最愛の人たちを失うが、それをマイナスとみなさないところが、なかなか考えさせられる。

スパイダーマンが、原子力を見出した人間の象徴であるとするなら、彼は、この原子力を使いこなし、世界の平和や人類の幸福のために生かすことを使命づけられているのである。

ちなみに原作は、マーベラスコミックで、1963年3月に発表されているが、映画は2002年で、かなり特殊効果を巧みに使い、映像表現として、なかなかおもしろい作品に仕上がっている。

娯楽映画としては、スパイダーマンのずば抜けた動作を眺めるだけでも、十分楽しめることだろう。


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観た映像
マタンゴ
本多猪四郎:監督    
円谷英二:特撮監督
ウィリアム・H・ホジスン「夜の声」:原作
福島正実、星新一:原案
馬淵薫:脚本    
田中友幸:製作    
久保明、水野久美、小泉博、佐原健二、太刀川寛、土屋嘉男、八代美紀:出演
東宝
1963年8月

ひとこと感想

さまざまな思惑をもった男女がヨット航海をしているが、遭難してとある島にたどり着く。放射能の影響を受けたキノコを食べて変異を起こした「マタンゴ」と人間との葛藤を主題とした映画。残念ながら、タイトル以外、特に目を引く内容ではなかった。

***

あの、加山雄三が主演の「ハワイの若大将」と二本立て、というから驚き(というのかどういう皮肉)なのが、この映画、マタンゴである。

マタンゴとは、キノコ人間のことである。

核実験の影響を受けたキノコを食べた人間は、次第に知性が失われ、全身が「きのこ」のようになってしまうという話だ。

しかし、問いたい。

たとえ比喩としてもだ、こんなに早くに「変異」してもよいものだろうか。

あまりにも、大袈裟である。


また、なぜ、キノコだけなのか?


「菌類」に対する、そこはかとない恐怖や悪意が感じられる。

もちろん、キノコが汚染されやすいのは確かであるが、そうであったとしても、他の食べもの、たとえばほうれん草や茶などの植物であっても、放射能汚染はかなり高くなるであろう。

汚染された他の食べものを摂取した人間は、一体どのような変異(変身)をするのだろうか。

きのこ → マタンゴ
ほうれん草 → ポパイ(?)
茶 → カトちゃん(?)

というよりもまず、この作品のメッセージは何なのだろうか。

なんとなしに社会的メッセージを送っているようで、かなり適当にみえる。

同じチームによる「ゴジラ」と比べると、全体的にチープ感が漂ってしまい、いただけない。

ここには、「恐怖」も「風刺」も、さしてない。

彼らは、意欲を失ってしまったのだろうか?

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放射能は、その線量に応じてがん発症ならびにがんによる死亡のリスクを高めると言われている。

しかし、放射線以上に生活習慣的にリスクを高める要因は、ほかにもたくさんある。

・喫煙

受動喫煙も含め、喫煙は、肺がんだけでなく、さまざまながんを発症させやすいことが知られている。

・塩分の過剰摂取

煙草は吸わないという人でも、毎日の食事に対しては、意外と無配慮であることが多いが、塩分の摂りすぎは、煙草に次いで体に良くない。

もちろん、他にもいろいろと挙げることはできるが、「喫煙」と「塩分摂取」の二点に気をつけるだけでも、かなり違ってくるように思われる。

しかし同時に、こうした「制限」を設けるようなやり方だけでなく、積極的にがんに対して効果のある食べものやサプリを摂って、少しでもがんを抑えたいと願う人もいることだろう。

実際に世間では、さまざまな「がんに効く」食べものやサプリが驚くほど氾濫している。

頻繁に宣伝されているものの特徴は、なんとなく身近なようなもので、しかも、かなり珍しいものが選ばれている。

・アガリクス
・プロポリス
・霊芝
・メシマコブ
・サメ軟骨
・フコダイン

どこもかしこも、これらを売っている人たちは「効果」を「間接的」に記している。

つまり、直接、はっきりとした効果があるとは、どこも書くことができない。

科学的に立証されていないからだ。

細かいことはさておき、がんに特効薬はないし、どんな高額なサプリであれ、がん細胞を縮小できるような効果は確認されていない。

このことを、決して忘れてはならない。

といっても厄介なのは、このことが必ずしも「効果がない」ということを意味しないことだ。

実際に、効果があった、と訴える人がいる。

それは、嘘ではないかもしれない。

しかし、かといって効果があったのかを証明できない。

しかも、誰にでも効くとは、かぎらない。

また、副作用やネガティブな結果が生まれないという保証もない。

にもかかわらず、高額である。

高額とは、すなわち、購入する者の「願い」を騙しとることに等しくはないか?

ここが、許しがたい。

百歩譲って、あるサプリが、もしもがんにすぐれた効果があるのであれば、なぜもっと安価に提供しないのだろう。

多くの人が求めているものを、希少価値を謳って高額で売る、というのは、単なる「商売」である。

そして「信仰」めいたものを絡ませ、信じた場合にだけ治る、といったような流言まではびこっている。

私たちは、そういった「特殊」なものに「あやかる」前に、日々の暮らしのなかでできることに、気をくばるべきである。

たとえば、サプリよりも、毎日食べるものの、内容を工夫してもよいのではないだろうか。

食べ方の基本は、簡単だ。

偏らずに、摂りすぎずに、いろいろなものをバランスよく、ほどほどの量を食べること、これに尽きる。


以下では、ふだんはあまり買わないかもしれないが、比較的体に良いとされている食材で、ある程度日保ちのするもの、つまり、お世話になった方などへの贈り物に向いているのではないか、と思ったものをリストアップしてみた。

しつこいようだが、これらは、別にがんに効くわけでも、健康を著しく増進するわけでもない。

なにかの参考になれば幸いである。


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初校:2013.05,14
加筆:2013.05.21

夜の散歩コースには、何匹かの猫がいる。

ジミー君も、その一匹だった。

とてもおとなしく、鳴きもせず。

とても地味なので、ジミー君とした。

出会ったのは、かれこれ1年ほど前。

兄弟のもう一匹の猫と行動をともにしていた。

この時点でそれなりに身体は大きくなっていたが、おそらくまだ1歳になっているかどうかという感じだったと思う。

なんとなく幼さが抜けていない感じだった。

兄弟で、けっこう走ったりしていたが、あるとき(半年くらい前)から、活発に動いていた方が、いなくなった。

それまでよくいた場所から、少し離れて、ハイタッチ君(今はもういない)と一緒に行動しはじめた。

ハイタッチ君は、かわいらしい声でにゃーとなく。

ジミー君は、鳴かずに静かにそばにいる。

月夜の明る日など、猫集会気分で隣に並んでしばらくたたずんだものだった。

しかしそのジミー君も、実は、2週間ほど前から、姿を見なくなった。

また再び会えるかもしれないと思い、今日に至った。

しかし今日も、ジミー君の姿はない。

ジミー君がいた、そして、ハイタッチ君がいた、彼ら(彼女)らは、もう、いない。

しかしその場所には、今は新たな猫がいる。

彼(彼女)には申し訳ないが、ニューフェイス君と名付けている。

そして今夜、新たにもう一匹黒い猫がいた。

ジミー君と同じで、物静か。

ジミー君とは逢えなくなってしまったけれど、きみが、来てくれたんだね。

そう思って、彼(彼女)には、ポーカーフェイス君という名を付けてみた。

ポーカーフェイス君、がんばって生きてね。


外にいる猫たちは、日々、危険と背中合わせ。

できることならすべての猫が幸福であってほしい。

でも、猫たちは、姿を消してゆく。

そしてまた、新たに現れてくる。

短いあいだではあるけれど、出会えたことに感謝。

ハイタッチ君、

ジミー君

ありがとう。

***

追補 

2013年5月21日、夜歩いていると、ジミー君を発見した。

ハイタッチ君とつるむ前にいた場所に戻っていた。

しかも、そこにはジミー君と兄弟と思われるキジトラ(とりあえず、ペイジ君としておこう)も元気そうにしていた。

よかった、よかった。

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読んだ本
3.11 FUKUSHIMA 放射能汚染の555日 
三留理男
游学社
2012年9月

ひとこと感想

一枚の写真は、言葉と違って、概念ではなく、感性的にダイレクトに響いてくる。本書から溢れてくる「感性」とは「悲しみ」である。とりわけ、取り残された牛たちの涙に、すべての思いを込めているように感じた。

***

作者である三留さんとは、かつて一度だけお会いしたことがある。

20年以上も前である。

翻訳本「最後のフーコー」の表紙の写真に、是非とも三留さんが撮られたフーコーの写真を使用したいと、お願いに伺ったときである。

三留さんの写真は、もともとは、以下の雑誌記事で用いられたものだ。

世界のVIPに直撃フォロ・レポート 第2弾① ミシェルフーコー 香村正光:文、三留理男:写真 週刊ポスト 1979年3月16日号

この記事自体は、国会図書館でけっこう苦労して見つけ出したものだった。

当時は、一つの文献を探し出し、閲覧するのも難儀だった。

さらに文書のコピーにもお金がかかり、しかも時間がかかった。

大変な、一日仕事だった。

しかし、ここで出会った三留さんのフーコーの写真は、とても力強かった。

↓これである
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三留さんは、報道カメラマンとして世界を駆け巡った方である。

「はじめに」によれば、彼のご両親の故郷が福島だったそうだ。

1938年生まれであるから、フクシマの取材時で、73歳くらいということになる。

何度も現地に足を運ばれ、多くの方と会われ、その場所のありようを確かめ、それらをフィルムに残して、できあがったのが、本書である。

特徴は、二点ある。

写真を中心にしつつ、文章も加えられて説明がなされていること、

そして、最後の解説文には英訳(ブレンダン・ディーガン)が付されていることである。

写真と英文によって、多くの人が本書にふれることができることだろう。


構成は、以下のとおり。

第1章 未曾有の原発事故、あれから一年

 「フクイチ」の無残な姿を中心とした写真

第2章 津波の爪痕

 南相馬市
 相馬市松川浦
 いわき市
 亘理郡山元町

第3章 放射能からの逃避

 避難所のようすと飯舘村

第4章 牛の涙

 飯舘村で育ってきた牛たちにフォーカス

第5章 放出された大量のセシウム

第6章 脱原発・エネルギーシフト


私たちは、いつまでもこの、取り残された生き物たち、特に本書では牛たちのことを、忘れてはならないだろう。

一時的な避難とは異なり、放射能の汚染による避難は、長期的になる可能性がある。

その場所で暮らす、ということは、そうしたリスクを十分に内包させているものであってほしい。

私は何も、原発を肯定的にとらえたいわけではないが、もしもこの狭くて地震が多発する国土にそれがどうしても必要だというのであれば、こうした、牛の涙は、もう見たくない。

今後もなお原発を利用するのであれば、都市部で地震の少ないところがまだ、望ましいのではないか。地震や津波にも耐えられるというのであれば、やはり、関東圏に原発を据えたほうが、納得できると私は思う。


3・11 FUKUSHIMA―放射能汚染の555日/三留 理男
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読んだ論考
ルクレチウスと科学
寺田寅彦
世界思潮
1929年9月

所収
科学の思想I 現代日本思想体系25巻 
井上健編 
筑摩書房 
1964年9月

寺田は、ルクレティウスのアトムを現代物理学の「原子」と区別するために「元子」と呼ぶ。

まるで今は亡きジャイアント馬場の奥さんのような名ではあるが、あえて区別するところに寺田の認識の高さがある。

連続性を、類似性に基づいて理解するよりも、差異とその非連続性から考えることは、とても重要である。


さて、この寺田の論考の元本は、

William Ellery Leonard, Lucretius: Of the Nature of Things

Darcy Thompson, "Munro's Lucretius" (書評) 
NATURE April 14, 1928に掲載

の2つの論考とのこと。

W・E・レオナルドは、米国の詩人で翻訳家のようである。

ダーシー・トンプソンは、構造主義でもよくとりあげられる人で、動物形態学みたいなことをしているが、こんなところに登場してくるとは、いささか驚きである。

そして寺田がここで言うには、物理学者において、ルクレティウスの影響は、決して少なくなかったということである。

それは古くまでさかのぼれば、アイザック・ニュートン、ロバート・ボイルなどを含む。

もちろん当時到達した科学的認識からみれば、あまりにも稚拙な誤謬もあるが、それだけで済ますことのできない「暗示」があると高く評価する。

その理由として寺田は、ルクレティウスの「科学的精神」を強調する。

また同時に、科学とは何か、について、科学者にある特定の「思い込み」を、ここで批判する。

当時における「科学」の特質は、「高級な数理の応用と、精緻な器械を用いる測定」(374ページ)に偏っていた、とみなす。

しかし、ルクレティウスは、数式も実験測定も行わずに、寺田が執筆した当時の物理学の知見と類似した考えを導き出しており、そのことも一つの「科学」的な「事実」である、と寺田は言う。

「殿堂の建設には設計者のファンタジーが必要である。」(375ページ)

自然の研究に数の観念を導入したピタゴラス、科学的な素材と問題をとりあげたアリストテレス。この二人よりも、ルクレティウスに至るエピクロス派哲学者たちこそが、第一に重要であるとする。

「現在の意味における物理的科学の根本方針を定めたものとはおそらくエピクロス派の人々でなければならない。」(376ページ)

こうした前提で、寺田はその後の文章でルクレティウスの「元子」論を概説しているのだが、これはここでは省略しよう。

この二年のあいだ、寺田といえば、地震に関する論考がしばしばとりあげられたが、こうした「原子/元子論」も書いていたのである。


本文は、青空文庫で読める → ルクレチウスと科学(寺田寅彦)


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私が知っている大半の猫たちは、家の者が帰ってくると、いわゆる「猫なで声」、「にや~~ん」と鳴いては、すりすりと足にまとわりつくものである。

しかし、わが家の猫、虎之助(推定13歳)は、そうではない。

ちなみに、これが、虎之助(体長70センチくらい、尻尾含む)↓


あえてこれを人間の使う言語の一つ、日本語に変換すると、こんな感じになるだろうか。

「え"ーどこ行ってたんじゃい、遅いじゃねーヵ、こらっ!」



実際の鳴き声は、甘い「にや~~ん」という感じではなく、

「ンガァ~~~」

といった、うまくカタカナでも表せないような雄たけびをあげるのであった。

どうも、猫の鳴き方を忘れ、近所で朝鳴いている、カラスの声に感化されている感じである。

レッド・ツェッペリンが好きな方であれば「移民の歌」のイントロのロバート・プラントの声を少し濁らせた感じ、と言えば分っていただけるだろうか。
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こちらがちょっとたじろぐような声を、最近出すようになってしまったのだ。

虎之助は、もともとは、野良猫で、ときどきわが家に訪ねて来ていたのだが、幼少の頃は、まったく声を出さなかった。

口内炎などにより、あまり、鳴かなかったようなのだ。

そのあと、病院で治療などを行い、口腔内がよくなって、声が出るようになり、しかも歳をとって、甘えん坊となってしまい、頻繁に大声で何かを私(たち)に訴えるようになってしまった。

まあ、それでも、反応があるということを、よしとしたい。






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1945年8月から10月に調査団の一員として広島、長崎に行き、爆心地測定などを行った主要人物の一人として、木村一治がいる。

木村一治(1908-1996)は、理化学研究所を経て東北大学教授(物理学)。非戦・非核運動を行っている木村宥子は、木村一治の娘である。

調査結果は、以下の形でまとめられた。

 「原子爆弾の爆発地点および火球の大きさ」 木村一治、田島英三 理化学研究所 1945年

ただし、GHQにより公表できず。

その後、1951年に、日本学術振興会より「原子爆弾災害調査報告書総括編」として刊行される。

その一部はネットでも参照できる。

 「原爆投下後の降雨の状況について」

 「広島の原爆遺跡と碑」

 「長崎市|平和・原爆|原爆の記録|11時2分」



木村一治主要著作一覧:

  • 原子核エネルギー (物理学集書〈第10〉) 木村一治 河出書房 1948年


  • 原子核物理学実験〈第1〉 (現代物理学大系〈第32巻〉) 木村一治 東西出版社  1948年

  • 遅い中性子の散乱 (理化集報〈1〉) 木村一治 小山書店 1948年

    中性子の発見と研究  エンリコ・フェルミ、ジェームス・チャドウィック 木村一治、玉木英彦:訳 大日本出版 1950年

    粒子線廻折 上田良二、木村一治 朝倉書店 1950年

    放射線とその測定 木村一治、大宰恒吉、佐々木寛 共著  技報堂 1956年

    みんなの原子力 誠文堂新光社 1963年

    核と共に50年 木村一治 築地書館 1990.10 ¥1,995 Amazon.co.jp

    木村一治日記 ヒロシマ・長崎の原爆調査の記 1945年4月16日~10月10日 木村一治 木村正子:編 1998.11
     内容: 木村一治「焼夷弾の下で」、木村正子「疎開中の日々」、木村正子「あとがき」、野上耀三「核と共に50年を読んで」、服部学「木村先生の思い出」


    研究論文:

    http://sc.chat-shuffle.net/human/id:1217723


    参照記事:
    吉本秀之の日記の部屋

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