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核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

 前史

1945~1949年  1950~1954年  1955~1959年  1960~1964年  1965~1969年  1970~1974年  1975~1979年  1980~1984年  1985~1989年  1990~1994年  1995~1999年  2000~2004年   
2005~2009年  2010~2011年02月    

2011年3月~7月  2011年8月~12月  2012年1月~2月

【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。
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2014-04-16 21:02:00

サイエンスコミック 核融合・原子力発電、を読む(意外と面白かった)

テーマ:原発
読んだ本
サイエンスコミック2 核融合・原子力発電
大林辰蔵 総監修
庄司多津男 責任編集
熊谷さとし 漫画
クロスロード
1985年12月

ひとこと感想
意外とよくできた本だった。
チェルノブイリ事故が起こる前に書かれているにもかかわらず、利点と問題点とがとてもフェアに書かれており、しかも、原子力発電のみならず核融合を主題としている点も興味深かった。中学生向けとなっているが、内容は十分普通の新書くらいはある。読んでよかった。

***

本書は、まもる君のお父さんが核融合の研究をしており、まもる君が研究所を訪ねるためにまず下調べの勉強をし、そしてお父さんと研究所をいっしょに見て回る、といった設定になっている。まもる君はさらに原子力発電所も訪ねてゆく。ガイド役は、「かっくん(核くん」というヘンテコなキャラクター。

以下、順番に章ごとに話題を追いかける。

***

プロローグ 太陽を地上に

1957年に英国のローソンが太陽で起きている核融合反応を地上で実現するための条件を決定することで、核融合の研究への道が開かれる。

といっても、今なおこの研究には賛否両論である。

***

1 核融合のしくみ

プラズマのしくみについて説明される。

物質の三つの状態である固体、液体、気体と対比させ、プラズマが「分子や原子の多くが、それらをつくっている電子とイオンや、さらに原子核にこわれて激しく飛び回っている状態」(13ページ)と説明する。

そしてプラズマ同士がおこす核融合のエネルギーの代表格として太陽をとりあげる。

太陽と同じことを地上で行おうとする場合、水素からヘリウムをつくるのが難しい。

そこで重水素と三重水素を融合させてヘリウムにすると、1つ余った中性子が飛び出すとともに、大きなエネルギーが発生する。

もし1グラムの質量があれば、「約2150トンの石油が燃えたときと同じ熱になる」(23ページ)のである。

ところでこの重水素は海水中から採集することができるが、三重水素は自然界には存在しない。

そこで、リチウムに中性子をぶつけてつくりだすが、リチウムもそれほど多くは存在していないため、さらにいくつかの方法が試されている。

1)重水素 + 重水素 → ヘリウム3 + 中性子
2)重水素 + 重水素 → 三重水素 + 陽子
3)重水素 + ヘリウム3 → ヘリウム4 + 陽子

ただし、まだ問題はある。プラズマを起こすのは簡単で、「蛍光灯やネオンのように、電圧をかけて電気放電をおこすと、気体が電子とイオンに分かれて、次から次へとプラズマ化する」(25ページ)が、このプラズマを高温(1億度)にして一定時間閉じこめておくことが、極めて困難である。

***

2 科学者の夢

しかし、「閉じ込め」る場合、温度があがると動きが激しくなるのだが、そのうち壁にぶつかると温度が下がってしまい、プラズマは元の原子の状態に戻ってしまう。

そこで、プラズマのなかに磁力線をつくり、プラズマを壁にぶつからないように誘導するのである。

これまで、磁場で閉じ込める方法として、いくつか考案されてきた。

最初のものは、ミラー型と言い、コイルを二つ用意し電流を流しそのなかにプラズマを閉じ込めようとした。

ただしこれでは充分な閉じ込めになっておらず、両側から逃げられてしまう。

次に構想されたのはステラレーター型といって、磁場をねじらせつつドーナツ状の円環をつくるものだった。

***

ここで、話は水爆に移る。

水爆は、原爆を起爆剤にして
1億度の高温をつくりだし、リチウム水素化合物をプラズマ化させ重水素と三重水素をとりだすものである。1952年に米国が、1953年にはソ連が実験に成功、そして、1954年には第五福竜丸事件が起こる。

また、放射線の説明をはさまれている。

放射線については、「うけた種類や慮、時間によって」(37ページ)影響が異なり、「あびる量の基準を決めることは、なかなか難しい」(38ページ)と説明しつつ、原爆や水爆が、そうした「基準は守れない」(39ページ)。

***

3 核融合炉への道

ステラレーター型が失敗に終わったあと、1968年、ソ連のアーチモビッチは、ドーナツに小さなドーナツをたくさんつけ、その両側にトランスをつけたトカマク型により、かなりの時間(といっても100分の1秒だが)プラズマを閉じ込めることに成功した。

しかし他にも、「バンビートータス型、ミラー型、レーザー型など、検討されているが、今のところまだ長短があり、模索中といったところのようである。

***

4 未来のエネルギー

こうした「~型」が目指しているのは、あくまでも、核融合反応をおこすために必要なプラズマ状態をつくりだすことにあるのであって、核融合炉をつくりだすのは、まだまだ将来の話(21世紀後半を一つの目標にしている)である。

ここでは、技術的な課題の解決だけではなく、採算性がとれなければならない、としている。

さらに、現在のやり方では炉が激しく放射能汚染されてしまうため、重水素同士の反応をもとにしたものがつくられなければならないのである。

それに対して原子力、すなわち核分裂を利用した原発については、次のように述べている。

「原子力もいろいろと問題をかかえているけど実現しているし、これから先は原子力エネルギーはますますふえざるをえないだろうね」(59ページ)

***

5 エネルギーってなんだろう?

人間がエネルギー、とくに「原子力」を利用する場合、「自分たちの文化や産業を優先して環境や自然をおろそかにし」「自分で自分の首をしめて」(70ページ)しまうことがあるかもしれない、と厳しく書かれている。

核を扱う場合、このいましめをよくきもに銘じておかないと、いつこの地球が人の住めない星になってしまうかわからないんだ」(70ページ)

上記のセリフは、実は、まもる君がお父さんの知人の原子力発電所の所長のものである。

煙草を吸っているのに灰皿が置かれていない絵が、少々笑いをもたらすものの、内容はいたって真面目で、こうしたことが「原発」側からはっきりと言われること自体が、貴重である。

しかし、原子力の選択に関しては、少々荒い記述となっている。

1960年に石油ブームが起こるものの、その後中東戦争により価格や供給が不安定になるなかで、原子力が選択された、と説明されている。

「過去、原子爆弾による被害を受けている日本としては、原子力発電に対して、大きな不安と拒絶反応がありました。」(78ページ)

戦後ただちに、すなわち、原爆投下の被害を受けてすぐ後から、私たちは、原子力への「崇拝」ははじまっていたことについては、本書はふれないのだった。

***

6 核分裂のしくみ

ここではウラン原子の核分裂について、わかりやすく説明されている。

***

7 原子炉のいろいろ

国内の標準型である軽水炉を、BWRとPWRそれぞれとりあげ、さらに、最初に英国から東海村に導入されたマグノックス炉、現在開発中のHTTR(高温ガス炉)、また、さりげなく「ふげん」(転換炉)が登場している。

こうした原子炉の種類の説明のあとに、原子炉と原爆との違いや放射線の問題が説明されている。

原子炉では核爆発が起こる心配はないが、「困ったことに核分裂からはエネルギーの他にやっかいな放射線が出てくる」(99ページ)

こうした点もしっかりと書いているだけではなく、「そこの研究が今一つ」と、対応が十分ではないことが指摘されている。

また、FBR(高速増殖炉)も説明があり、フランスのスーパーフェニックス、常陽、もんじゅも話題にのぼる。

まもる君は「へえ期待できそう!」(102ページ)と声をあげてこの章は終わる。

***

8 原子炉の安全性

「もんじゅ」と「ふげん」が、「人類の智恵と慈悲の心でコントロールしていこうという願いが込められている」(105ページ)として、菩薩の名前からとられたという説明をしつつ、「一歩まちがえば恐ろしい武器になって人類を滅ぼしかねないエネルギー」ということも強調されている。

ここでは原子炉の安全性として、ドップラー効果とボイド効果がとりあげられている。

かつての米国における実験を引用し、「どんな最悪な条件にしても爆発は起こらなかった」(108ページ)と述べ、また、地震に対しては「強固な地盤の上に建てられている」(109ページ)から完璧だ、と言おうとしているのかと思いきや、違うのである。

まもる君が「へえっ すごいじゃない」と言うと、「ま・・・そこのところはね」(109ページ)という、つれない返事なのである。

何が問題かというと、やはり「放射線」であり、「一応安全なように五つもの壁に守られてはいるけど」(110ページ)「なにぶんにも人間のやることだからね」(111ページ)と厳しい。

その実例として、TMI(スリーマイル)をとりあげ「このとき実際に流れ出た放射線は1.5ミリレムだった。でも、どんなに少ないといっても流れ出たことは事実だからね」(111ページ)と述べる。

国内の例では、敦賀原発の廃棄物処理家屋から廃液が漏出し放射線が検出された事件を示す。

「問題は事故を恐れてばかりいても解決はしないさ。つねに正しい知識と情報そして原因をはっきりつかんで同じことをくり返さないようにすることだよね」(112ページ)ときわめて現実的である。

モニタリングも細かく行われ、定期検査も実施されているが、「なによりもそれを動かす人、点検する人たちの技術向上も安全対策の一つだ」(115ページ)とする。

やはりこの章の最期も、まもる君は「これだけ安全対策ができていればばっちりだね」と締めくくろうとするが、「でも人間のやることだからね絶対とはいえないね!」(115ページ)と厳しい横やりが入る。


***

9 放射線と放射性廃棄物

放射線が発見され、「
この核分裂のエネルギーを人を殺す兵器に使ってしまった」(117ページ)ために、放射線は有害なものとばかり見られがちであるが、工業、医学、農業など、さまざまな分野で利用されていると述べる。

そして最後に、
増え続ける放射性廃棄物の処理(保管)の問題。

「困ったね、家の中にトイレがなくて、ウンコをバケツにためているようなものだね」(127ページ)

また、廃炉についても、「むずかしい問題」とする。

***

最後の数ページでは、次のようなまとめがなされる。

・原子力は安全に対しては、とても努力をしている。これは、逆に言えば、とても危険なものだから安全に努力をしているとも言える。

・エネルギーが豊かな生活を支えているが、石油もウランもかぎりがあり、「今わたしたちは燃料が豊富でもっときれいなエネルギーをさがしている」(131ページ)が、エネルギーの使いすぎを考える必要もある。

***

つまり、たとえ無尽蔵に使えるようなエネルギーがあったとしても、地上のエネルギー消費の増加は地表の温度上昇を引き起こし、極地の氷を溶かし、海面の高さが100メートル上昇する可能性があるので、「持続可能な開発」という言葉は、ある意味では「ごまかし」なのである。

原子力に賛成か反対か、といった「技術的かつ政治的な選択」だけではなく、私たちの「生存環境」の根幹をどうしてゆくのか、といった議論もなされなければならないのである。


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かつて、オレンジページの広告に「原子力」があった頃――「ちかごろ気になるエネルギー」を読む

テーマ:原発

読んだ記事広告

ちかごろ気になるエネルギー8 
わが家でも、原子力でできた電気をつかっているのだろうかと。
通商産業省 資源エネルギー庁
オレンジページ
1992年11月17日号

***


今から20年ほど前の「オレンジページ」が見つかり、ページを開くと、そこに「原子力」関連の広告があった。

上掲したコピーの上には、今では考えられないような文章が。

「子供に「ゲンパツって何?」と聞かれた。
 原子力発電所だとは言えるけど、
 そこから先はわからない
 あららと困って、ふと考えた。」

要するに、子どもから原発のことを聞かれたら、あなた(子供の母親)は、どう答えますか、と読者に尋ねて、「日本で使われている電気の1/4を担っている」というメッセージを提供している、と思われる。

この文章の「そこから先はわからない」という問題提起が、私には今一つよく「わからない」。

火力発電だって、水力発電だって、みな、それほど詳しいことは「よくわからない」とも言えるのに、なぜ、私たちは、原子力の「なぜ」を、こういう形で適当にやり過ごしてきたのだろう。

いや、それ以前に、子どもが「ゲンパツ」について親に尋ねる、というシチュエーションもしっくりこない。

なぜ、わざわざ子どもがゲンパツについて親に聞くのか???

おそらく「ゲンパツ」という言葉が出てくるのは、わざわざ「カタカナ」で書かれているので、本や新聞、雑誌ではなく、「テレビ」から聞こえてきた、というよいうようなシチュエーションだと思われる。

そう考えると、コンテクストは、おおよそ決まってくる。

「トラブル発生」「事故」「アクシデント」「反対運動」「定期検査」「増設」「放射能」「チェルノブイリ」「汚染」とったような言葉とともに語られていたのではなかろうか。

つまり、1992年の頃には、ネガティブなイメージを植え付ける言葉と「ゲンパツ」が結びついていたはずだ。

だから、もっと基本的なことを理解してほしい、ポジティブな目でもみてほしい、それが、この広告の狙いとなるであろう。


下段の細かい説明文をみてみよう。

見出しとなっているのは、三つある。

・原子力は、私たちが使う電気の約1/4をつくっています。
・身近なエネルギーのひとつとしてしっかりととらえたい、原子力。
・エネルギーのこと、もっと知りたいあなたにエネメイト・クラブさしあげます。


最初に「原子力」の説明がある。

「ゲンパツ」の説明をする際に、はじめに述べる「べき」ところに該当する。

「原子力は、その名のとおり、原子(あらゆる物質を形づくっているミクロのつぶ)の力。」

これが、「原子」の説明である。

これで十分とは思えないが、実際に説明しようとすると、なかなか難しいのである。

「物質」という言葉は、固体をイメージしてしまうが、液体や気体を子どもは「物質」として理解できるのだろうか。

むしろ「世の中にあるものすべては、原子という細かなつぶからできています」といったような言い方のほうがよいのでは、と個人的には思う。

続いて、原子「力」の説明が入る。

「原子の中にある核が分裂するときに発生する大きなエネルギーのことです。」

こんな説明で理解できる母親はいないし、ましてや子どもも「?」だらけになってしまうことだろう。

原子という「ミクロのつぶ」のなかには、さらに小さなつぶがくっついた「核」という部分とそのまわりをぐるぐるとまわっている「電子」があります、とった説明をすると、次に「電子」の説明もしなければならないので、面倒にならないように、「核」だけの話に絞りこんでいるのであろうけれでも、なんとも杜撰な説明である。

「核」の「分裂」は、こんな一文で片づけられないほど、大きな「発見」だったわけであり、むしろ、こうした説明文自体が、原子力の発見の偉大さを矮小化してみせているような気がしてならない。

この広告を企画した人たちこそ、ゲンシリョクやゲンパツをバカにしていたのではナイデスカ? そう思いたくなる。

これまでは、「原子」どうしの組み合わせ(化学反応)を利用して、いろいろなことを実現してきた人類が、「原子」の中にある「核」というかたまりに力を加えて分裂させるということもできることに気づき、しかも、この分裂の際にとても大きなエネルギーが放出される、という説明は、「あららと困る」ところであるとしても、この広告のような簡単な説明で良いはずがなかろう。

どうせ何を言っても科学のことは分かるまい、といった広告主たちの真意が透けて見えてしまう。

そして、この先にはもう、科学的な説明ではなく、社会的な意味へと移ってしまうのだ。

・国内における原子力発電は1966年から開始された
・オイルショックの後、石油に替わるエネルギーとして期待が高まる
・安定供給や増大する需要に対応できるなどの理由で選ばれた

そして、最大の利点として見出しを改めて説明しているのが、以下の内容である。

・地球温暖化を促進するCO2を発生しない
・一度輸入した燃料をリサイクル使用できる

当然、「良いこと」ばかりではない、と言われることを想定して、ネガティブな点も述べている。

・燃料であるウランには放射能があり、細心の注意が必要

ただし書きとして、「放射能を閉じ込めて管理する技術は確立されており、日本の原子力発電所は安全運転世界一を続けています」とある。

少なくともこの「安全運転世界一」は2011年3月11日以降、謳うことはできなくなっており、想定上、万が一であったとしても、ひとたびチェルノブイリ級の事故が起これば、とりかえしのつかない事態を引き起こすことは間違いない、というはっきりとした「事実」がここに加わり、私たちのエネルギー選択の視点は、この広告が出されたときとはずいぶん変わったということを実感する。

また、前述の「リサイクル使用」についても、かなり厳しい状況にあり、今後続けてゆくことはあまり現実的ではなくなっている以上、これを「メリット」として打ち出すこともできなくなっている。

それとも逆に、最近、開き直ったかのように述べられている「原発推進」側の主張のように、

・それでも原発はエネルギーの要である
・国家の安全保障上、役にたつ

の二点に絞ることになるのかもしれない。

ところで、三番目の見出しにあった「エネメイト・クラブ」であるが、これは一体何か。

実はこの広告、これがもっとも主眼となっているようなのである。

「みなさんの代表"エネメイト"の活動を中心に編集、いっしょにエネルギーを考える小冊子です」

え?と思う。

「エネルギー」のことを考えるのであれば、原子力のみならず、さまざまな可能性もみるべきであり、なぜ原子力だけにこれほど執着するのか、その理由が明確にされていない。

もし「原子力」に限定されるなら、「アトム・クラブ」とか「ニュークリア・クラブ」とか「ゲンパツ・クラブ」のほうがふさわしく「エネルギー」という総称を使うべきではないだろう。

そう、そうなのだ。

この広告は、こうした「原子力」のことをこの広告だけで理解してもらおうという気持ちが最初から、ないのだ。

これだけではよく分からないだろうから、是非仲間になりませんか、と「エネ・メイト」会員になるよう、お勧めする、募集の告知なのである。

この広告への感想やエネルギーに対する意見がある人は郵送するよう書かれており、「毎月抽選で合計100名様にプレゼントをお送りします」とある。

「プレゼント」が何であるのはまったく書いていないが、100名くらいの感想や意見を送ってもらおう、という趣旨なのである。

カラーページ見開き2ページであり、毎月掲載しているようであるから、年間契約で数100万円の広告費ではないかと推測される。

1回契約なら、100万は下らないだろうけれども、年間契約なので、おおおよそではあるが、800万円くらいの値段がついていると思われる。

今さら言うのも何であるが、こうした広告に、一体どういう「意義」があったのか、疑念が残る。



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米国先住民族と核廃棄物、を読む

テーマ:原発
読んだ本
米国先住民族と核廃棄物 環境正義をめぐる闘争
石山徳子
明石書店
2004年2月

ひとこと感想
環境正義論の長所として、二項対立に落とし込んで問題を単純化するということに批判的なところが、よく本書に現れていた。これは国内における原発の誘致問題を考える際にもあてはまるが、地元で反対しているのが単純に正義となるわけではないし、賛成しているからといってそれが「利権にまみれている」ということに必ずしもならないことを教えてくれる。

***

米国ユタ州といえば、モルモン教徒が多いことで知られるが、本書が焦点をあてている場所は、このユタ州のソルトレイクシティ近郊にある、スカルバレーゴシュート居留区である。


グーグルマップで見てみると、大きな湖から北に向けて、両側を小高い山にはさまれた細長い平地にスカルバレーロードがある。

残念ながら「居留区」はストリートビューで見ることができないが、のどかというよりは、やや荒廃感が漂う。


歴史的には、19世紀においてモルモン教徒の入植がはじまり、虐殺や土地の収奪が行われ、砂漠へと彼らは追いやられたのだ。

また、戦時中は、東京への空襲のための実習訓練が行われたほか、原爆投下の訓練もここで行われたという。

さらには戦後、生物化学兵器の研究と実験もこの地にある米軍基地で行われた。

続いて、1970年代以降は、有害産業廃棄物と低レベル核廃棄物が運び込まれた。

しかしこれらの土地利用に対して、ゴシュート部族はなんら利益の享受がなかった。

そして1990年、
彼らは高レベル核廃棄物一時投棄施設を受け入れる、という方針を打ち出すことになる。

目次構成は以下のようになっている。

1 環境正義運動・研究
2 米国先住民族と核廃棄物
3 スカルバレイゴシュート部族
4 トゥエラ郡環境史
5 高レベル核廃棄物
6 先住民部族自治権と環境正義
7 環境正義運動

***

この区域(Indian Reservation)、約70平方キロのなかに住むゴシュート部族は、約30人。

少人数であってもここは立派な「部族政府」があり、「国家」と同様の自治権をもつ。

この部族政府が高レベル核廃棄物の中間貯蔵施設を受け入れようとした理由としては、保証金や雇用機会にあったものの、ユタ州政府や環境保護団体などが反対を示し、対立が起こった。

ここであらわになった問題として、「先住民」が必ずしも伝統主義的、環境主義的であるわけでない、または、あらねばならないわけではない、ということである。

しかも問題はこの「中間貯蔵施設」にはじまったわけではなく、これまでも近辺では軍がさまざまな有害物(たとえばサリンガス入り砲弾など)が貯蔵されていたり、廃棄物の焼却炉や処分場もある。

こうした歴史的、政治的にさまざまな問題が堆積しているにもかかわらず、「環境正義」の議論は、一方的に「先住民」を「社会的弱者」としてカテゴライズし、パターナリズムの見地から「保護」をしなければならないとする考えをもってしか理解しない人も多いようである。

本書ではこうした「逆」のバイアス、偏見を避けて、丁寧にその土地で起こっていることを見つめようとしている。

なお、著者がその際に方法論として援用している「過程正義論」というのは私にはよく理解できていない。

ジョン・ロールズの正義論が「分配型」であると批判し、もっとその背景やメカニズムに着目するもの、というのだが、よく分からないので、これについては別の機会に検討したい。

また、もう一つ「ポリティカル・エコロジー」の考え方を援用するというが、これもよく分からない。

あえて噛み砕けばこういうことだろうか。

単純な二項対立を前提にし、研究主体がいずれかの立場と同一化し、対立する側を批判する、というやり方から脱却し、さまざまな主体がかかわり、それぞれが対立したり協調したりするその光景をそのままとらえようとし、その結果として、どういった変化が生じたのかを探る、というもの。

本書においては、その意味では、次の「主体」が登場する。

・スカルバレーゴシュート部族政府
・市民団体
・環境団体
・トゥエラ郡政府
・ユタ州政府
・連邦政府
・原子力産業を支援する科学者グループ
・電力会社

さらには、こうしたものも「主体」として含まれる。

・景観
・土地

そして、こうした研究を行う「主体」である著者は、自分が「アジア人女性」であることを意識せざるをえない調査だったことを明らかにしている。

しかし同時に、その属性は、この調査には有利な面が多かったとも述べている。

いずれにせよ、そうした「属性」は研究結果にも大きな影響を与えることは不可避である、と、冷静に述懐している。

***

なお本書の結論として、単にマイノリティの住む地域だけに迷惑施設が集中しないようにするだけでなく、彼らがこうした政策決定の過程に関与できるようにすべきである、という点を指摘する。

またもう一つ、核廃棄物が毎日生産され続けているという現実は、それを享受している「消費者」である私たちがこの問題をどう考え、暮らしを変えてゆくのかという問いとも連なっているとしている。


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2014-04-13 23:27:00

放射能(日本語版) 2012 クラフトワーク、を視聴する

テーマ:原発
視聴した動画
Radioactivity
Kraftwerk
東京でのライブ
2012

ひとこと感想
まさかこの曲を何十年にもわたって聞くとは思わなかった。しかもその歌詞に「フクシマ」が含まれてしまったことに対しては、どう言っていいのか、わからない。やりきれない。

***

これまでさらりとクラフトワークのことを書いた記憶はあったが、よく考えてみると、きちんと単独の記事で書いたことがなかった。

私が最初にクラフトワークの曲を聴いたのは、高校生のときである。

なにしろ多感な時期で、さまざまな音楽に関心をもち、さまざまな音楽を平行して聴いていた。

そのなかでも、当時、もっとも衝撃を受けたのは、キース・ジャレットのソロライブ「ケルンコンサート」だった。
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こちら、1975年に発売である。

私はNHK FMで放送されたものをカセットテープに録音し、以後、何度も何度も聞いていた。

そして、その次によく聴いていたのが、クラフトワークの「ヨーロッパ特急」だった。

Trans Europe Express/Astralwerks
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こちらは1977年の発売。こちらもやはりNHK FMで放送されて、それを録音して聞いていた。

そして、Radiaktivityも、同時期に聞いていたのだが、楽曲の好みとして、ヨーロッパ特急の方が聞く機会が多かった。

キースもクラフトワークも、奇しくも、いずれも「ドイツ」関連であるのは、当時からドイツが好きだったからであるのかもしれないし、単なる偶然なのかもしれない。

***

思い出話は、さておき。

「放射能 Radioaktivität 」というアルバムは、この「ヨーロッパ特急」よりも早く、 1975年11月に発売されている。

「テクノポップ」という言葉がまだなかったなかで、電子音楽みたいな言われ方をされていたように思う。

最初のアルバムが「アウトバーン」で次のアルバムが「放射能」というのも、かなり「現代」の要点を衝いている。

アウトバーンは知ってのとおり、ヒトラーがドイツ国内に張り巡らした高速道路網(もちろん日本と違って無料、しかも出しているスピードが生半可ではない)であり、今でも重要な交通インフラの一つである。

それに対して放射能はと言えば、まずドイツは、日本と同様に敗戦国として、戦後しばらくのあいだは原子力開発に携わることが禁じられていた。


しかし1955年頃より、核兵器開発を放棄することと引き換えに、「原子力発電」に力をいれてゆく。

ドイツでは1962年に最初の原子炉が稼働する。その後、1970年代をピークに数が増えてゆく。

クラフトワークが1970年にデビューするというのも、そうした背景がある。

そのバンド名が「発電所」であることから、本作品は「原子力発電所」とすべて関係あるかと思いきや、実はそうではない。

タイトルには二重の意味があり、「放射能」だけではなく、「ラジオ」のアクティビティに関連する楽曲が、実は大半を占める。

冒頭の2曲、すなわち、「ガイガー・カウンター Geigerzähler」と「放射能 Radioaktivität」、それと中間の「ニュース Nachrichten」と「エネルギーの声 Die Stimme der Energie」、そして、最後から三番目の曲「ウラニウム Uran」が「原子力」と深くかかわりがあるが、他は「ラジオランド Radioland」「エアウェーヴス Ätherwellen」「中断 Sendepause」「アンテナ Antenne」「ラジオ・スターズ Radio-Sterne」「トランジスター Transistor」オーム・スイート・オーム Ohm, sweet Ohm」と「ラジオ」関連である。

***

▼ガイガー・カウンター

「ガイガー・カウンター Geigerzähler」は、そのまま、電子音(放射能への反応音)だけで構成されている。ゆっくり、ポツ、ポツ、とはじまり、次第に速くなり、そして、そのまま次の曲に続く。


▼放射能

「放射能 Radioaktivität」という曲は、発売当初の歌詞から、現在に至るまで、次第に変化が生じている。

はじめは、まだ「事故」ではなく、純粋に「放射能」という「現象」に焦点があてられていた。

そこで、あえて「Radioaktivität」を「ラジオ活動」と訳してみる。


「ラジオ活動 それは 私とあなたのために 空気中で行われる」

「ラジオ活動 それは キュリー夫人が発見した」

「ラジオ活動 それは メロディーに波長を合わせること」

このように「Radioactivity」は単に「放射能」とは訳せないような内容だったのである。

これが、以下の四点にわたって変更が加えられる。

1) 汚染した地名
イントロなどに「チェルノブイリ、ハリスバーグ、セラフィールド、ヒロシマ」といった地名が加えられる。そう、完全に「放射能」のことを歌った曲に変身したのだ。当然「チェルノブイリ」が入っているので、1986年以降に換えられたということになる。

2) 放射能を止めろ
また、「Radioactivity」の前に「Stop」が追加される。このアルバムが出たときには「Radioactivity」はまだ花形であったのだが、はっきりと「Stop」と訴えられている。

3)新たな言葉
さらに中間では「核分裂、突然変異、汚染地帯」という言葉が加わる。

4)説明の追加
以上1)~3)が加えられたバージョンがあり、さらに以下の「セラフィールド 2 は毎年7.5トンのプルトニウムを生産する。1.5kgのプルトニウムは原子爆弾を作ることができる。セラフィールド 2 は4年半毎にチェルノブイリと同等の放射能を環境に放出する。これらの放射性物質のひとつ、クリプトン85は死や皮膚がんをもたらす。」といった説明が加わるバージョンが後につくられている。

これが2013年の日本語版バージョンではどうなったか。

1)ドイツ語
英語を使わずにドイツ語と日本語に換えられている。最初のところも「ラ・ディ・オウ・アク・ティ・ヴィ・テート」とドイツ語になっている。

2)フクシマの追加
「チェルノブイリ ハリスバーグ セラフィールド ヒロシマ」の次に、「チェルノブイリ ハリスバーグ セラフィールド フクシマ」が加わる。

3)日本語の歌詞
一番は以下のように、日本語で歌われる。

 日本でも 放射能
 きょうも いつまでも
 フクシマ 放射能
 空気 水 すべて

 日本でも 放射能
 いますぐ やめろ

この「日本でも」というのは、本来であれば、「ヒロシマ」が最初から歌われていたわけであるから、「日本はふたたび」であらねばならない。

ただし、「原発事故によって」という説明がつくのであれば、英国(セラフィールド)、米国(ハリスバーグ(TMI))、旧ソ連(チェルノブイリ)に続いて、「日本でも」(原発事故による)放射能(の漏出事故)と筋が通る。

しかしそれにしれも、こうして、「フクシマ」という言葉を出されるのは、心的にはきつい。

しかし、それはチェルノブイリをはじめ他の地域も同じで、こうして「地名」で語られることになることは、避けることができない。

ただ、「空気 水 すべて」というときの「すべて」は、ちょっとやりすぎではないか、という気がしないでもない。

「すべて」というと、100%汚染されているかのような印象を与えてしまう。

「水も 土も 空も」といったほうがベターだったのではないだろうか。


▼ニュース

続いての曲は、「ニュース Nachrichten」であるが、これは「曲」というよりは「声」であり、いくつかの放送局から流れている原発ニュースを拾い上げているような体裁である。

「これから50年のあいだに西ドイツでは50基の原発を建設予定。10年後には、原発1基で100万人の電力を補えるでしょう。」「世界中では、稼働中のものと建設中のものを合わせて、355の原発があります。」「戦後の科学技術のなかで、宇宙旅行とともに注目され・・・」「原子炉のための燃料として必要なウランは、石油と同じように供給には限界があります。」「原子炉は40年間稼働します。」といった内容。


▼エネルギーの夢

「エネルギーの声 Die Stimme der Energie」は、そのタイトル通り、エネルギーが語る。

「光と電気を供給する」だけでなく「声や音楽、画像や映像などを運ぶ」というが、ここで「エーテルを通して Durch den Aether」と書かれている。

「エーテル」というと今では使われない言葉かと思いきや、実は「イーサーネット」の「イーサ―」はこの Aetherなのである。

すなわち、まだインターネットがなかった頃に、クラフトワークのこの歌詞は「イーサーネット」(を含むネットワーク)によってさまざまな情報が享受できるということが予告されていたのだ。

そして、その後、「エネルギー」(言い換えれば「原子力」)は言う。

「私(=原子力)はあなたのしもべであるが、同時に、主でもある」

「それゆえ、私(=原子力)をしっかりと守りなさい」

そう、私たちはこの声の「教え」を守り切れなかったのである。

▼ウラニウム

「ウラニウム Uran」は、「何度も崩壊を繰り返すなかで、ウランは放射線を出す」と英独語でささやかれる。


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2014-04-12 21:14:00

プログレッシブ・ロック(伊)と放射能――汚染地帯(アレア)、を聴く

テーマ:原発
聴いたアルバム
汚染地帯
アレア
イタリア
1974

Caution Radiation  Area
Area
1974

収録曲
Cometa rossa
ZYG (Crescita Zero)
Brujo
MIRage? Mirage!
Lobotomia

Caution Radiation Area/Akarma Italy
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タイトルについて
邦訳タイトルは「汚染地帯」になっているが、原題と少し異なる。

「汚染地帯」というのは、要するに、放射線がコントロールされていない場所、ということである。

また、汚染されていても管理されている場合、「汚染管理区域 Contamination Controlled Area」と呼ばれる。

この語は、「非密封の放射性同位元素」の使用施設に用いられる。

一方、「密封線源または放射線発生装置だけを取り扱う照射施設」には「放射線区域 Radiation Area」が用いられる。

この場合も、コントロールされていない場合、"Radiation Uncontrolled Area"となる。

つまり、"Radiation Area"は、一般的には、「放射線区域」であり、しかもそこに"Caution"が付されている。

これは、コントロールされていないから「注意せよ」というのではなく、コントロールされているが「注意せよ」という意味でなければならない。

***

AREAはギリシア人のデメトリオ・ストラトスを中心に1972年に結成されたバンド。

大雑把に言えば、ジャズ・ロック、プログレッシブ・ロックと言ったカテゴリーに入れられる。

変拍子が多く、シンセサイザーやギター、エレピなどが予定調和的ではない演奏を行う。

実験的なサウンドでありながら、ある種のポップスさをも持ち合わせ、しかも、ギリシアや中東といったエスニシティに彩られている。

曲は、キング・クリムゾンやELPを聞いてきた人間からすると、近い路線ながらも、とりわけボーカル(ボイス)は、はるか彼方までイってしまっている。

全体の演奏テクニックも、下手をすると、アレアのほうが凄いと思うところも多々ある。

歌詞はギリシア語が中心のようで、まったく聞き取れず、残念ながら、アルバムタイトル「放射線区域」に関連することが歌われているのかどうかも分からない。

***

なお、彼らが1973年に放ったファーストアルバムのタイトルもすごい。

「Arbei Macht Frei」である。

アウシュヴィッツ収容所ほか、各地の強制収容所の入り口に掲げられていた文言を使っている。

このアルバムと「Caution Radiation Area」とのあいだには、メンバーチェンジなどもあり、若干の編成の違いがみられるが、繰り広げられている演奏のレベルや熱はほとんど変わることがない。

大きな違いは、ファーストアルバムのほうがボーカルを前面に押し出していたのたいして、セカンドアルバムのほうは、ボーカルというよりはボイスとして楽曲にかかわっている、という感じである。

***

エピソードは、これだけで終わらない。

実は彼らは2011年5月に日本での来日公演が予定されていた。

アレア with マウロ・パガーニ クラブチッタ(渋谷) 2011年5月7日(土)、8(日)

ところが、原発事故の影響で、次のように述べられて中止となった。

「この度の東日本大震災の原子力発電所の事故による、日本国内への放射能の影響を危惧する理由から、アーティストと協議の結果、アーティストの意向により公演を中止とさせて頂くこととなりました。」

つまり彼らは、その当時、福島第一原発の事故は、"Uncontrolled"で、元の邦訳のタイトルのように「汚染地帯」という理解をしたのであった。

皮肉なものである。

Area Albums: Maledetti, Arbeit Macht Frei, Tic&.../作者不明
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2014-04-11 21:28:00

パパの原発 Dad's Nuke、を読む

テーマ:原発
読んだ本
パパの原発
マーク・レイドロー
友枝康子訳
ハヤカワ文庫
1988年6月

Dad's Nuke
Marc Laidlaw
1985

ひとこと感想
SF的なしかけやパロディ、地口などが盛りだくさんなお話で、その全体としてはついてゆけないが、コミュニティや家族を守るために裏庭に核ミサイルを備えたり、爆弾に必要なプルトニウムを生産するためにガレージに家庭用原発を設置するというのは、実は奇想天外ではなく、それを「国家」に置き換えれば、現実に起こっていることである。このパロディ、ブラック・コメディ、侮れない。

***

「アトミック・エイジに捧げる傑作コメディ」と本の裏表紙に書かれている。

しかし、いくつかの理由で本書は、非常に読みにくい。

第一に、1980年代の米国の政治=宗教状況を知らなければ、ここで「風刺」されているものが何かがよくわからない。

第二に、「モンティ・パイソンやソープを思わせるブラック・ユーモアにみちた小説」(392ページ)と巻末の解説を書いている小川隆は言うが、そのあたりがこの訳文を読んでも理解できない(
「ベスティンハウス」(183ページ)が「ウェスティングハウス」を指していることくらいは理解できた)

第三に、当時の米国の郊外暮らしの「ニューファミリー」がどういう問題を抱えていたのが分からないと、そもそもこの人たちが一体何でもめているのかもうまくつかめない。

第四に、未来の様子(装置)があれこれと描かれているが、あまりにも突拍子もないものばかりで、なかなか、ついてゆけない。

以上のことを抜きにして、本書では、どういう形で「核ミサイル」や「原発」がとりあつかわれているかに焦点をしぼってみる。


***

ニンビー(Not In My Back Yard)という言葉がある。

原発などの「迷惑」施設を自分の住んでいる場所の近くに建設されることを反対することを指す。

しかし本書は、まったくその逆である。

自宅の裏庭に核ミサイルや原発を置いてしまう、という話である。

ニンビーならぬインビーとでも言おうか。

原爆は、主人公のファミリーの隣に住んでいる「ライバル」のファミリーが導入する。

大きさは定かではないが、ふだんは発射台が横に倒されているもので、「裏庭をすっかり占拠していた」(28ページ)というからには、数メートルの長さをもつミサイルであると思われる。

彼らが住んでいる「コミュニティ」は他の地域とは分断されているようで、他の地域による攻撃への防衛として導入したと主張するが、主人公は自分への威嚇であると感じ取る。

実際に主人公はミサイル発射(核弾頭をはずしたもの)のセレモニーをぶち壊す。

ところが物語は、もう一つのトピックに一度移る。

主人公の息子が家出をして、宗教コミュニティに入る。

以下ではその話をはしょって「Nuke」の話題だけを追いかけると、主人公は、この隣のライバルへの対抗措置として、自分も爆弾をつくることを決意する。

しかもそのためにはプルトニウムが必要だとして、原発を自分の家の裏庭に設置するのである。

家庭用原子力発電装置を。

隠微ではまったくない、露骨な、インビイである。

いや、冗談を言っている場合ではない。

このお隣さん同士のいがみ合いは、ある意味では、テポドンを飛ばして威嚇する国と、原発を増設して対抗している国との争いと、それほど違いがないのかもしれない。

さらにこうした「パパ」による「核」へのこだわりは、これで尽きるわけではない。

「ミスター・ジョンソンには原子力発電装置を据えつけていただきましょう。そしてそれを、実験稼動してもらうのです。ミスター・ジョンソンには娘さんが生まれようとしています、家族志向の核未来に真正面から即応するという明確な目的に対して、遺伝子学的適応性を持った娘さんです。」(98ページ)

ここで言う「核」は「核家族」の「核」でもあったのだ。

「核兵器」や「核エネルギー」で「核家族」を守る、そう、これが「核時代」の姿である。

しかし、このコミュニティ内の人たちは、主人公のこうした考えに批判的である。

「プルトニウムが危険なことはわかっているんだ、だから我が家には置きたくないんだよ。うちのブロック内のどこだってごめんだね」(99ページ)

これが、ニンビイである。

主人公はそれでも負けずに反論する。

「最近の核廃棄物の危険性はコーヒーの出しがら程度だ。ことに例の新しいエアゾール式除染剤つきにやつがもうすぐ市場に出るだろうし。」(99ページ)

それも納得しない近隣の住民に主人公はデモンストレーションを行う。

核燃料の、薬の粒のように小さなペレットをかざして見せ、いかに安全かを示すために、主人公は飲み込むのだ。

2011年に国内でも「プルトニウムは飲んでも水に溶けないので安全」と言ったどこぞの教授のことを思い出す。

しかし主人公は飲み下したあと、体に異変が起こる(といっても、腹が下った程度であるが)。

その後生まれた娘は、その影響なのか、目の色や肌の色が、親の遺伝子とは異なる要因が含まれて生まれる。

その子は、原発を母親のように思っており、そばにいると安心する。

この子(=エリカ)こそ、本来の「アトム」なのかもしれない。

***

興味ある一節がある。

「安全かって? もちろん安全さ。・・・地震の危険性、航空機事故、火災、津波、なんでもやった。おれは隕石がこのガレージに落ちる確率を計算してもらったーー被害を及ぼすほどの大きさの隕石の場合だ。小さなやつがヒューっと飛びこんできて、リサイクラー[=リアクター?]をぺしゃんこにしても、この原発はなんともないんだ」(186-187ページ)

これは、1975年に米国で発表された、いわゆる「ラスムッセン報告」の内容をもじったものであろう(実際にはこの報告では、ニューヨークに隕石が直撃することと原子炉の全電源が喪失する確率が近似値的に説明されていた)。

こうしった「安全性」を訴えても、周囲は冷淡である。

「自分の原子力プラントを中心にコミュニティ全体を組織化したいと思っているのよ。みんなに尊敬されて、みんなの考えを正したいと思っているのね。でも、自分の家庭すらうまく切りまわせないのよ」(193ページ)

このあと「仮想現実」にような描写が続き、さらにはクローン人間も登場するため、しばしば読んでいる側を混乱させるが、それも省略して、末尾へと向かう。

「単なる機械じゃない。それ以上のものなんだーーずっとそうだった。大事なものは、すべてのものの核心にあるんだ。人類が作ったものにはちがいないが、永遠なるものに啓発されてできたんだよ」(363ページ)

主人公は娘にこう語ると、はじめて、娘が言葉を発する、「原発 Nuke」、と。



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2014-04-10 21:52:00

「原子の火」の誘惑と禁止への夢想――バシュラール「火の精神分析」を読む

テーマ:原発
読んだ本
火の精神分析
ガストン・バシュラール
前田耕作訳
せりか書房
1999年4月

原著

La psychanalyse du feu
Gaston Bachelard
Gallimard
1938

ひとこと感想
しばらくぶりに手にとってみて、「火」を「原子力」で読み換えてみなければならないのではないかと思って読み返した。「原子の火」の誘惑と禁止の二律背反にはまりこまない道はどこにあるのだろうか。

***

「火」は今や、科学の対象ではない。化学の教科書でもほとんどとりあげられなくなってきた。

しかし「原子の火」は、もともと「科学の対象」であるが、専門家のための「対象」ではなく、むしろ、私たち一人ひとりが知るべきものであり、現在積極的に教科書にとりあげられ、しっかりと「科学的」に学ぶべき対象となってきた。

だが、バシュラールがそこで、火の科学ではなく火の詩学を展開するように、私も、原子の火の詩学という探究も、必要であるように思うのだ。

それは、かつて「火」が崇拝の対象であったように、この半世紀以上ものあいだ原子の火は、私たちにとって崇拝の対象だったからである。

火は最初は人類にとっても、恐怖(畏怖)の対象であった。

恐れるべき存在だった。

なすすべがなく、その威力に慄いた。

原子の火も、その意味では、同様である。

もちろん原子の「火」とは、あくまでも「比喩にすぎず、実際には「炎」や空気の「燃焼」があるわけではない。

「核分裂」「核融合」「核爆発」これらが混然と「原子の火」と言われている。

だが、少なくとも原子力は何度も「火」にたとえられてきたし、「火」と同じような意味合いを私たちは抱いてきたのである。

この、原子の火が、最初に私たちの目の前に現れたのは、原爆としてだった。

圧倒的な破壊力、長期的で内在的な影響力に、加害者のことさえ、忘れ去る人も少なくなかった。

そしてこの破壊力は、私たちに恐怖や憎悪や悲哀よりも、畏怖心を植え付けた。

その「畏怖心」は、そのまま「原発」にも引き継がれた。

だから、私たちにとって「原子の火」が原爆であれ原発であれ
変わらないのは、その差異よりも、その近似性に目がゆくからである。

また、この畏怖すべき存在は、一見すると、「火」がそうであるように、「自然的存在」とみなされる傾向にある。

しかしやはり、「火」がそうであるように、「原子の火」もまた、きわめて「社会的存在」であるということを見失ってはならないのである。

「原子力は危険である」として、近寄らないしほんの少しの影響でも避けたいというのは、自然的な条件反射ではなく、社会的な禁止の命令なのである。

これをバシュラールは、「プロメテウス・コンプレックス」と名付ける。

原発事故への恐怖もしくはその裏返しの肯定性は、放火犯の深層心理にある性的興奮と近い、と読み替えることも可能かもしれない。

ここでバシュラールの言葉を引用しよう。

炉の中にとじこめられた火は、おそらく人間にとって夢想の最初の対象であり、休息の象徴であり、休息への誘いであった。」(29ページ)

私たちが原子炉に欲望するのは、バシュラール詩学からみれば、そこに「夢想」の起源をみるからであり、かつ、「休息」「安心」「安堵」の幻想を投射するからである。

それは、「火」がおそらく、自然界の「神秘」を人類が手にし、統御可能になったことを知ったとき、その「神秘」にふれうることとなったためであり、フランシス・ベーコンが言うような「自然の支配」ではなく、自然の謎を解く端緒を手中にしたことによる「安堵感」が描かれていると考えられる。

「しかるに、炉端での夢想はさらに哲学的な軸をもっている。火はそれを観想する人間にとっては急変する生成の一例であり、また偶発的な生成の一例である。」(32ページ)

「炉端での夢想」は、「火」に対して、ふだんは「平静」であり、「安全」な状態が続くが、「急変」するということ、しかも一度「急変」すると、「深刻な事故」につながるということ、こうした「不安」を抱くことなのかもしれない。

その結果、「見えない火」が灯る原子炉に事故が実際に起こったとき、そこから300キロ近く離れた場所にいても、哲学的考察せざるをえなかった。

確かにそれは、急変する生成であり、偶発的な生成であった。

別な解釈もありえる。

「生成」というからには、この「火」は、何かを生み出している。

原子力の火、とそこから発せられた放射線は、生命の終末を超え出て、新たな転生を想起させるだけの魅惑をもっている。

これは「火の鳥」である。

また、バシュラールは、ユングとフレイザーを重ね、火が、摩擦、熱と深い関係にあるとみなす。

「性的夢想」とは「炉の夢想」にほかならない。

炉とそのまわりは、常に「性的」であり、性器をかたどる。

放射線傷害としての「やけど」。

それこそ、原子炉の火が私たちを「焼く」ことへの証明である。

火、は、陽、である。

そして、日、である。

その日のもとにある国は、この「原子の火」を非常におそれるが、のみならず、この火を崇拝する。

本書は、1937年12月に書きあげられた。

それから少したって、世界は「戦火」に包まれた。

これまでにない「砲火」が繰り返されたあと、1945年8月、私たちの「想像力」を根こそぎ狂わしてしまうような「劫火」が、広島と長崎を襲った。

それはすでに「火」という単一物ではなくなった。

以上、ここで語っていることは、ほとんどバシュラールのものではない。

あえてバシュラールから逸脱し、事故を起こした原子炉というものが、一体何であるのか、それを、「火の詩学」からとらえてみようとした



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2014-04-09 22:00:00

チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド(東浩紀編)、を読む

テーマ:原発
読んだ本
チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東浩紀:編
井出明、上田洋子、尾松亮、開沼博、河尾基、越野剛、小嶋裕一、新津保健秀、津田大介、福岡正肇、服部倫卓、速水健朗、松本隆志、八木君人
ゲンロン
2013年7月

ひとこと感想
著者たちは、福島の原発事故の地の「これから」を考えるために、チェルノブイリを訪ね、その結果、重要なのは「観光地化」と考えるに至る。「観光地化」には賛否両論あることが予想されるが、少なくとも本書から、「ダークツーリズム」とは何かを学ぶことができ、かつ、具体的に、チェルノブイリのツアーを疑似体験でき、しかもその「体験」から紡がれた「思索」にもふれられるという意味では、きわめて意義のある本である。

***

タイトルどおり、「ツーリズム」つまり「観光」の見地から「チェルノブイリ」をとらえようとした一冊。

チェルノブイリでは、「原発とその周辺地域が、外国人を含めた観光客を積極的に受け入れ始めている」(5ページ)ということに、本書では焦点をあてる。

こうした「観光地化」を進める理由の一つとして、「記憶の風化」を地元の人たち(どんな立場であれ)がとても恐れている、ということが挙げられている。

「ツーリズム」とは、事故現場に近い人たちが事故後を生きてゆくうえで選びとった「現実」なのだ、というのが、本書の基本にある。

つまり、「ツーリズム」と「原発事故」という二つの言葉が一緒に語られること、そこに「現実の複雑さが、善悪では割り切れない人間のしたたかさが、そして、未来への「希望」が宿っている」(9ページ)、と東たちは考えている。

チェルノブイリにおける「ツーリズム」とは、
「今後の事故現場周辺地域の復興の構想」と「事故の記憶の次世代への継承」における現実的な「選択肢」なのである。

***

本書は二部構成になっている。

1部 観光編
2部 取材編

また、後に刊行された「福島第一原発観光地化計画」は

3部 構想編(未来編)

という位置づけになっている(この本についても後日書いてみたい)。

***

個人的な意見であるが、「ダークツーリズム」という言葉は、正直、好きになれない何かをもっている。

「ダーク」は、印象として(特に根拠はない)、ネガティブなイメージがあるせいだろうか(「ダークダックス」はネガティブに感じないが)。

しかし、本書のなかの、井出明による世界各地にある施設やその場所の経緯を読んでいると、この「ダークツーリズム」の考え方には、深く共鳴するところがあった。

重要なのは、「地域の悲しみを共有」(53ページ、以下同)する、ということである。

国内でも、広島や長崎への修学旅行などで原爆投下について「学習」するということが慣習化されているが、根本的には「悲しみの継承」が大事なのであって「学習そのものが目的ではない」。

したがって「ダークツーリズム」を「社会科見学」や「スタディツアー」という言葉に置き換えると、少し違うものになる。

日本語の場合、「ツアー」「観光」が「レジャー」(即ち「暇」)と近い意味を持っているだけではなく、「見学」も「見物」と近く、「修学旅行」も「スタディツアー」も、「お勉強」を強要されているようで、これまた、少し嫌な感じである。

ここで、もっとも大事なのは、「その場を訪れたい」という「素直な気持ち」である。

そして、「外部の来訪者が訪れることで、悲しみは共有され、地域の人々は癒しを得られる」とする。

そう簡単に「癒し」が得られると言い切るのは難しい部分もあるとは思うが、そうは言っても、「悲しみの共有」は、そうした方向性を確実にもつとは言える。

「チェルノブイリ」がこうした「悲しみの共有」というテーマをもっていること、「学習」という場ではないことは理解することができる。

つまり「ダークツーリズム」とは、「悲しみの共有」という原点が大事なのであって、「観光地」になることが重要なのではないのだ。

***

ちなみに、チェルノブイリには、どのくらいの人が訪れているのか。これは、13ページに図表化されている。

2004年 870人
2005年 2,000人
2006年 5,000人
2007年 1,557人 (上半期のみの数字)
2008年 5,500人
2009年 6,900人
2010年 8,000人
2011年 8,000人(半年ほど訪問禁止期間があった)
2012年 14,000人

確かに徐々に増えていることは確かであるが、
年間1万人程度では、それほど「多い」と思えるほどでもない。

これをもって「観光地化」ということを大々的に言えるのか、少し心配である。

というのは、先取りして言ってしまうが、著者たちの「構想」では、多くの人を福島の事故の地へと誘おうという意欲があり、そこでは
、「悲しみの共有」を静かに行うというよりも、「復興」というほうに力点が置かれているからである。

一定数の人がその地を訪れ、過去の出来事に想いをめぐらすことの大切さ、それをダークツーリズムは訴えていることは、理解したが、ここで「復興」のことを思い出すと、まだまだ検討しなければならない点が多々あるように私には思える。

福島の原発事故の地の「観光地化」においては、「復興」と「悲しみの共有」の共存が、最大の課題ではないだろうか。

また、気になるのは、他の「ダークツーリズム」の地でもそうだが、研究調査取材などの目的での来訪が、どのくらいの割合を占めているかである。

もしその比率が多いのであれば、それほど多くの来訪者は期待できないかもしれない。

もう一点、ここで気になるのは、ウクライナ側の意向として、ツアーについては、「教育・啓蒙的役割」(72ページ)を強調していることである。

ウクライナという「国」は、今なお大きく原発に依存しているし、今後も増設を予定している。

その意味では、チェルノブイリは「負の遺産」であると同時に、原発(事故)とともに生きる現実を伝えることが重要になっており、その「PR」としてもこのツアーは意味をもつことになる。

「現在のチェルノブイリ原発やプリピャチをありのままの形で見せることで原発事故を「負の教訓」として啓蒙し、原発推進政策のプロパガンダとして使う」(72ページ)、これが、チェルノブイリの現実であろう。

もちろん、それが悪いというわけではない。

ここにあるのは、事故現場をなるべく見せないようにすること、忘れることが大事なのではなく、むしろ、はっきりと透明に見せてゆくことが、原発への理解、推進につながる、という、ある意味、非常にポジティブな考え方である。

ただし、このあたりの複雑な事情を考えると、他の「ダークツーリズム」の大半が「戦争」と関係しているとすれば、福島にある原発事故の地は、単純に「悲しみの共有」というテーマにはならなくなるのではないだろうか。

チェルノブイリも、
福島にある原発事故の地も、おそらく、今後も、原発の現実について学ぶところ、すなわち、事故、廃炉、廃棄物処理などの実態を知るための教育的、啓蒙的な場所、という色彩が強くなるように思われる。

***

最後にとても気になったことを。

東は「編集後記」にこう書いている。

「ぼくたちはいままでの「悲劇のチェルノブイリ」報道の文法に囚われず、取材対象を自由に選び、訪問先の現実を素直な言葉で書き記すことができた。ぼくたちはなにも予断をもたなかった。」(157ページ)

既存の考えに囚われないことは、わかるが、私はこうした「素朴さ」を表明することを好まない。

「チェルノブイリ」に対して「素人」であることを強調することは、あまり適切であるとは思われない。

なぜならば、彼らが何がしかの「専門家」だからだ。

「専門家」にはスキルがあるので、そのスキルによって、はじめての対象にたいしても、それを自分なりに咀嚼することが可能である。

つまりその意味では、彼らは「素人」では、断じてないし、「予断」がないわけでもないのだ。

そこで言われているのは、単に、既存の専門家やマスメディアが語ってきたようなことに囚われていない、というだけのことである。

どうしても、そこには、違和感が残った。




チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1/ゲンロン
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2014-04-08 21:48:00

戦後最初に「核の冬」を描いたSF~雷と薔薇(スタージョン)、を読む

テーマ:原発
読んだ作品
雷(いかづち)と薔薇
シオドア・スタージョン
白石朗訳
奇想コレクション 不思議のひと触れ 所収
大森望編
河出書房新社
2003年12月

Thunder and Roses
Theodore Sturgeon
Astounding
1947.11

日本語訳の初出
雷鳴と薔薇 小笠原豊樹訳 SFマガジン 1962年3月号

ひとこと感想
1947年の時点で、すでに、将来起こるかもしれない核戦争のあとの世界(いわゆる「核の冬」)のイメージを描いている。驚きである。しかし、若干妙にロマンチックであり、かつ、なぜか米国が被害国であるという設定であり、少々困惑する。すでに二発の原発を実際に使用した大国の「心理」というものを考えさせられる。

***

冒頭、数行目でいきなり。

「それももう昔の話。あれだけたくさんの人々がすっかり死に絶える前のこと、この国が死ぬ前のこと。」(250ページ)

どうやら、米国が滅亡したようだ。

最初に攻撃された場所の一つは、自由の女神。

「あの美しい青銅の像は一瞬にして蒸発して放射能を帯び、いまでも気まぐれな風に運ばれて、地球上に広がりつづけている」(250-251ページ)

爆撃によって自由の女神の像が粉々に砕かれ、その破片が今もなお、大気中をただよっている。

少したってから、記憶を失った女性が主人公の前に現れる。

過去に何が起こったのかを知らない読者のことを配慮してか、その主人公は、こう説明する。

「われわれは攻撃されたんだよ。あらゆるところを同時にね。あらゆる大都市が消滅した。・・・おかげで大気が放射能を帯びてしまった。だから、われわれはみんな――」(252ページ)

つまり、逆で、この女性は、こうした現実から逃避するために記憶を失ったのだろうと主人公は類推する。

しかも、軍の「補給本部」には、すでにデスクワークの人間が見当たらなくなっている。

肉体労働よりも「発狂率は10倍にもなる」(254ページ)からである。

かくいう主人公もまた、常に自分がいつどうなるか分からないと不安を抱いている。

シャワーを浴びていても、そのお湯や石鹸、自分の体重、さまざまなものに過剰に意識が向かう。

これというのも「空気中の放射能がじわじわと増大している」(256ページ)からであろうと分析している。

しかし残念ながら主人公は放射能障害の症状がよく分かっていない。

「最初にどうなる? 目が見えなくなる? それとも頭痛だろうか? もしかすると、食欲減退かもしれない。あるいは、しつこく消えない倦怠感に悩まされるのか。」(256ページ)

「食欲減退」や「倦怠感」というのは、急性の放射線障害の症状であるから、医学的説明として正しいものの、なぜ「目が見えなくなる」や「頭痛」が含まれているのだろう。あえて作者は、自分はよく知らないという姿勢なのかもしれない。

作中に戻ろう。

そういう記述を読んで、主人公が冷静さを保っていると思いきや、次の文章では「剃刀」にこだわりはじめている。

主人公は、つい「死」のことばかりを考えてしまうが、逆に、そうしているあいだは、なんとかなっていると考えている。

仲間とともに、この剃刀を処分したくなる。

強迫神経症的である。

二人であれこれと考え、ようやく出た結論は、「熱実験器」に入れて、剃刀をどろどろに溶かすことだった。

根本から姿形を変えてしまいたいのである。

ところがその部屋に行くと、たまたま隠し扉が開かれ、二人はその狭い部屋の中に入る。

そこには大量に電力を発生させる装置が置いてあることが分かるが、それが一体何のための部屋なのかは、はっきりしない。

その奥にも何かあるようだが、詮索はしないで退却する。

夜になって、この基地でライブ放送を行うということが分かる。

かつてスターだった女性シンガーがこの基地にやってくるのだ。

歌は、妙に意味深長で、何かを伝えようとしているが、主人公は、すぐには分からない。

そのタイトルが、「雷と薔薇」である。

演奏が終わり、スターは、今の事態について語りはじめ、報復はしてはならない、と訴える。

そのあと、主人公はスターと偶然すれちがい、言葉を交わしたあと、ふいに、彼女がなぜここにいるのかを、ようやく理解する。

つまり、彼女は、米国から迎撃されるミサイルのありかを探していたのである。

ところが彼女は放射能に体が蝕まれて、もう末期症状だったのである。

主人公は彼女を看取る。

部屋に戻って、急に、電力発生装置のあった部屋の謎が、とける。

結局、主人公と仲間の二人は、その部屋、つまり、迎撃ミサイル発射のために用意された部屋の配線や器具などをすべて破壊し、人類の存亡に一縷の望みをかける。

***

これは、うらはらなのだろうか。

1947年に描かれた「核の冬」のイメージが、米国が、西側からも東側からも攻撃されたところからはじまるなんて。

これは、逆説的に、自分たちが最初に原爆を落としたことへの、無意識的な恐怖が、そうさせているのかもしれない。

しかし、この作品は、残念ながら、原爆を落とされた場所、すなわち、ヒロシマやナガサキの場所の「悲惨さ」へ想像力を向けようとしていない。

生き残った人間たちが、未来をどう考えるか、という点にテーマを(意図的に)ずらしている。

原爆が何をもたらすのか、という現実とももう少し向き合ってもよかったように思う。


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2014-04-07 20:10:00

ドイツ児童文学における原発――ちきゅうの子どもたち、を読む

テーマ:原発
DIE KINDER IN DER ERDE
Gudrun Pausewang
Annegert Fuchshuber
Ravensburger Buchverlag
1968

読んだ本

ちきゅうの子どもたち 新版
グードルン・パウゼヴァング:文
アンネゲルト・フックスフーバー:絵
酒寄進一
ほるぷ出版
1990年3月(2011年8月新版)

ひとこと感想
非常にシンプルな物語だが、「地球」を主人公にすることで、「私たち」が一体何をしてしまっているのかを見直す大きな手掛かりを与えてくれている。

グードルン・パウゼヴァング(Gudrun Pausewang、1928-  )は、ドイツの作家。「みえない雲」の原作者。

原発事故を描いたドイツ映画、みえない雲(DIE WOLKE)、を観る
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11481254221.htm


***

本作は、「ちきゅう」と「にんげん」との物語である。

「人間」が「地球」にもたらしている「ひどいこと」全体に対して、異議が申し立てられている。

つまり、「原発」問題にのみ絞りこんだ作品ではない。

公害や資源の濫費に続けて、「ちきゅう」は「にんげん」にこう言う。

「それでもたりずに、こんどは、原子炉をつくって、ねむっていた力をめざめさせてしまった。あんな手のつけられないもの、つかいこなせるわけがないじゃない。まったく、どうかしているわ!」

挿絵では、河川は化学薬品で汚れ、自動車やぬいぐるみが捨てられ、工場の煙突から煙がもうもうと出ており、その横には、原子炉も描かれている。

こんなありさまに、ついに「ちきゅう」がおこりだした、ということであろう。

本書を通じて、親子の対話において、子どもがどういった理解を示すのか、どういった疑問が出るのか、非常に興味深い。

しかし、ここでの原子炉の説明は少し不親切のように思われる。

「ねむっていた力をめざめさせ」たのではなく、「原子核に潜在的にあった力を引き出した」というべきではないのだろうか(説明は難解になってしまうかもしれない)。

それはさておき、ちきゅうは、どうやら「女性」のようである。いや、女性でなければならぬようだ。

つまり、読み手が母親である場合、この「ちきゅう」と自分の同一化がたやすい、ということになる。

「にんげん」が言うには、自分たちは「ちきゅう」に主人だから、文句をつけるな、ということであるが、それを聞いて「ちきゅう」は逆に、「あなたたち、わたしから生まれ、わたしのうえでくらしているんじゃない」と反論する。

ここでの「にんげん」は、場合によっては「男たち」と読み換えられるのかもしれない。

聞く耳をもたない「人間」たち。

業を煮やした「ちきゅう」は「にんげんの子どもたち」を集める。

どうやらここでは「にんげん」と「子ども」とも、別なカテゴリーとなっている。

「子ども」とは、言ってみれば「未来の子どもたち」全体を指す言葉である。

「わたしが、あなたたちにあげようとおもっていた、すてきなものを、おとなたちは、わたしから、なにもかもとりあげて、わがままのしほうだい。」

これを聞いた子どもたちは、「おとな」のところへ行って、こうした「ちきゅう」の叫びを訴える。

しかし、「おとな」はその訴えを受け入れず、むしろ、反論する。

「おとなにまかせておけば、まちがいない。」

その例として、原発が登場する。

「原子力は、かんぺきで、きれいで、けっして自然をこわしたりしないんだ」

しかし、これに対しては「こどもたち」も、
「あぶない」ものだ、と再反論する。

「ひとつまちがったら、生きものはぜんぶ、死んじゃうんだよ」

「生きもの」が「ぜんぶ」死ぬような事故は、今のところ起こっていないし、そんな事態になる可能性も極めて低く、むしろ、「生きものぜんぶに、いろいろなえいきょうがあるかもしれず、なにがおこるかわからないんだよ」と、本当は言うべきであるだろう。

こうした口答えに「おとな」は堪忍袋の緒が切れて、子どもが口出しすることじゃない、と窘める。

がっかりした「子どもたち」は再び「ちきゅう」のところに戻って、このことを話す。

「ちきゅう」は「やりかた」を変えることにし、自分のからだを少し変化させ、ちいさなほら穴をつくり、そこに「子ども」たちを寝かしつける。

しばらくして「子ども」が家に帰ってこないことに気づき、「おとな」たちは大騒ぎになる。

もしや「ちきゅう」が「子どもたち」のことを知っているのではと話しかけてみると、やはり「ちきゅう」が何かしたようであることがわかる。

しかし、「ちきゅう」は「子どもたち」の居場所を教えない。

「あなたたちは、じぶんかってすぎます。子どもたちは、生きるのがこわいのです。」

「おとなたち」は「こどもたち」に、「生きるのが楽しい」という思いをさせようと、あれこれ努力してきたつもりが、いつのまにか違う方向に行っていたと、「ちきゅう」は「大人たち」を厳しく批判する。

「あなたたちが、わたしにしていることを、かんがえてごらんなさい。子どもたちが、かんしゃするはずないでしょ」

ここまで単純化するのは、どうだろうかと悩みもするが、「子どものためといってやってきたこと」は、はたして本当にそれでよいのか、という問い直しはあってよいはずだ。

「おとなたち」は自分たちが何のために今まであくせくと働いてきたのか、見つめ直すこととなる。

物語は、しばらく時が流れる(どのくらいの期間なのだろう?)。

「子どもたち」のいない世界で「おとなたち」は気落ちしたまま生きているが、次第に「ちきゅう」が回復しはじめ、つばめが飛び。地面からはタンポポが咲きはじめる。

「おとなたち」はそうした「ちきゅう」の変化を見出し、そこではじめて「子どもたち」そして「ちきゅう」の思いを知る。

そのとき、「ちきゅう」は「子どもたち」を家に帰らせる。

「おとなたち」と「子どもたち」は、今や共通の「思い」をもつ。

「ちきゅうをよくする」ことを最優先にすることこそ、その「思い」だった。

大変な苦労はするが、一つひとつ改善してゆく。

「にんげんは、しまいに、じまんの原子炉も、とめました。」

そのとき、「太陽」と「風」と「水」が「にんげん」に「ぼくたちをつかって、電気をつくりなよ」と声をかけてくる。

そうしてライフスタイルは変わる。

「おかげで、にんげんはまずしくなり、いろいろなことにてまがかかるようになりました。」

ここまで正面きって「まずしくなる」ことを受け入れる作品も珍しい。

しかし、すっかりと地球は元気になる。

ただし、まだ人間のなかには不安がある。

それは、また再び人間が変わって、同じことをしてしまいはしないかという不安である。

地球を犠牲にして「らくちんな生活」に戻りたいと思うのではないか。

それに対して「子ども」がこう答える。

「でも、そしたら、また、びくびくしなくちゃならないよ」

「そんなの、まっぴらごめんだよ!」

***

特におもしろいストーリーでもないし、絵柄がすごい魅力的というわけでもない。

しかし、「ちきゅう」という立場を設定し、今何が起こっているのかを想像し、将来もこれまで通りで本当によいのかどうかをあらためて問うことが、本書からできると思う。

ここには二つの意味がある。

一つは、「相手」の立場になって考えてみるということ。

もう一つは、地球環境という「全体」をみつめること。

この二つの想像力を養うことで、近視眼的、独断的、利己的になっている「自分」のあり方を反省する機会がもたらされることだろう。

もし自分が「ちきゅう」だったら、今のありさまをどう思うのか。

一体だれが「ちきゅう」が今の状態を喜ばしいと思っている、と言えるのか。

そうした「問い」は、大切である。


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