そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ

いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。

核の言説史 公開中 
私たちは、原爆と原発という二つの巨大な存在を前にして戦後がはじまり、今に至る世界を生きている。哲学、物理学、評論はもとより、文学、芸術、映画、コミック、楽曲、芝居など、さまざまな表現において「核」の歴史は刻まれている。この厚みを解き明かすことによって、これから私たちが「核」とどうかかわって生きてゆくのかを探るべく、言説史をまとめている。

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【新訂版】
1945年  1946年  


核の言説データベース~原爆と原発と


はてなブログにて、1記事1文献でデータベースを作成中。

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読んだ本
機械の神話 技術と人類の発達
ルイス・マンフォード

樋口清 訳

河出書房新社
1971.07

 

The Myth of the Machine: Technicsd & Human Development
Lewis Mumford
1966,67 (Vol.1)
1970 (Vol.2)

 

ひとこと感想

技術文明史の古典。正直に言えば、翻訳が硬く、読むのに苦労した。しかし後半の「メガマシン」というコンセプトはそれを凌駕してインパクトがある。人類が考案してきたなかでも「メガマシン」は特異なもので、現代社会学ではそれを「制度(化)」もしくは「言説の編制体」と呼ぶかもしれない。

 

「この機械の構成要素は、完全に総合された全体として働くときでも、必然的に空間に分離されているため、私は、それをある目的のために「見えない機械」と呼び」(278ページ)

 

・労働機械

・軍事機械

 

のような個別の例を挙げることもできるが、政治、経済、軍事、官僚、王など、「あらゆる要素を含まなければならないとき、一般に私はそれを「巨大機械」(メガマシン)と呼ぶことにしよう。」(278ページ)

 

このマンフォードの記述は、意外とドゥルーズに継承されているようにも思える。

 

リゾーム、器官なき身体、大地機械、…

 

 

▼これまでの記事

 

ルイス・マンフォードの地域主義思想

http://ameblo.jp/ohjing/entry-12146390237.html

 

戦後直ちに米国の原爆投下を非難したL・マンフォードの「現代文明を考える」を読む

http://ameblo.jp/ohjing/entry-12135221143.html

 

 

 

 

 

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読んだ本

道徳感情論

アダム・スミス

村井章子、北川友子 訳

日経BP

2014.04

 

Theory of Moral Sentiments

Adam Smith

1759(6th ed. 1790)

 

ひとこと感想
経済という側面からではなく、哲学という側面からアダム・スミスの思考を見つめ直すという試みが、アマルティア・センらによって行われている。遅ればせながら、それを追いかけている。確かに、カントやヒューム、ベンサムとの連関でスミスを読むと、その類近性に驚かされる。表面的なものではなく、当時のエピステーメーの共有を強く感じるのである。


***

 

18世紀、江戸時代中期の日本について、アダム・スミスは、わずかばかりの知識があったのであろうか、次のような指摘をしている。

 

「国民の偏見や憎悪が近隣国を超えた範囲におよぶことは稀である。イギリス人は愚かにもさしたる根拠なしにフランス人を天敵と呼ぶかもしれないし、フランス人もまたイギリス人をそう呼ぶかもしれない。だがどちらの国民も、中国や日本の繁栄には嫉妬のかけらも抱かない。」(495ページ)

 

そのあと、100年以上も後のことであるが、アダム・スミスの国とこの日本は、同盟を結ぶことになる(1902年)。

 

***
 

 

アダム・スミスによる、人間と動物との差異はどうであろうか。

 

「ただ動物は快楽や苦痛の原因となりうるし、快苦を感じることができるとしても、なお感謝や復讐心の完全に適切な対象というにはほど遠く、これらの情念をすっかり満足させるには何かが欠けている。」(241-242ページ)

 

このように、動物は 人間の心に快楽や苦痛をもたらすことがあることが、第一点、そして、動物自身に快苦を感じる能力があることを認めていることが、第二点。そしてさらに、そうであっても、人間と動物とのあいだには大きな違いがあるとしていることが、第三点、となる。

 

***

 

本書の第4部には「Utility」という言葉が用いられている。

 

Of The Effect Of Utility Upon The Sentiment Of Approbation

効用が是認の感情におよぼす影響について

 

この第1章は「人間の作った物に見かけの効用が与える美について、またこの種の美がおよぼす広範な影響について」(391ページ)である。

 

これは言わば、「デザイン」の問い、もしくは、都市景観の問いとして考えることができそうである。

 

アダム・スミスに近いヒュームならば、次のように徳の源泉を分けている(「道徳原理の研究」9.1.2)。

 

・自分にとって有用であること

・他人にとって有用であること

・自分にとって快いこと

・他人にとって快いこと

 

「効用」を問うているという意味でヒュームは評価されているが、まだ一歩足りない。

 

「利便性や快楽それ自体よりも、そのために駆使され組み合わされた手段の方がしばしば重視される」(393ページ)とし、これはつまり「目的」よりも「手段」を得ることにことのほか「欲望」するのは、なぜか。ここにアダム・スミスの目は向いている。

 

効用自体より効用を増やす手段を重視するこの原理に私たちの行動が影響されるのは、こうしたつまらぬ事柄に関してだけではない。公私を問わず人生の重大事に関しても、これがひそかな動機となることが少なくない。」(395ページ)

 

そして、元々は「国富論」で知られている「神の見えざる手」の説明が本書にもある。地主や金持ちが決して「慈悲心」や「正義感」においてではなく、利己心に基づいて生きていることが、結果的に多くの人の生活を成立させているということを指摘する。

 

「彼らは見えざる手に導かれて、大地がそこに住むすべての人の間で均等に分けられていたら行われたはずの分配とほぼ同じように生活に必要なものを分配し、意図せず知らずして社会の利益に貢献し、種の繁栄の手段を提供する。」(401ページ)

 

利潤や利益の最大化、という言葉が自明視される世界、それが現在の経済学であろう。これはある意味、一つの形而上学であり、一定の合理性や論理性を兼ね備えていると思う。それは否定しない。

 

しかし謎なのは、こうした「利潤」とか「利益」というものの根拠が「自己」や「主体」にのみ還元されたということである。

 

しかもその後にホッブス、ロック、ルソー、マルクス、ミルらの系譜においては、次第にこの話は、個体の利益と、共同体の利益、さらに言えばその後、地球環境その他、全体性のようなものへの利益、との合致や矛盾、どういった関係性があるのかなど、検証が展開されていく。

 

しかし、何かがずれている、と最初は感じたものだが、要するにアダム・スミスの発想の根源には、本書で展開されているような「利己心」と「共感」との不思議な相関関係が社会にはあり、むしろその相互作用の部分に彼の関心が向いていた、という方が、むしろ正しいように思われる。

 

そのため、一般的には彼は何でも「利己心」で説明しているようにとらえられがちであるが、実はそうではなく、それは物と物との交換の際の動機についての話に限られており、人間にはさまざまな動機があることを前提としている。

 

経済学とは、すべてを包括する学問ではないと同時に、特殊な一学問というわけでもない。何か妙に哲学とつながっている歴史を忘れてはならないのではないだろうか。

***

 

なお、本邦訳書にはアマルティア・センの序文がついている。

 

***

 

ルソーとアダム・スミスの差異は、そのまま、社会科学的な視点があるかないかの違いとなっている。

「人間本質」という視点では両者は「利己心」において共通している。

 

だが、「制御」については、ルソーは各人の内部に「あわれみ」として存在するとするが、アダム・スミスは各人の外部に他人の気持ちとして存在する、とみなしている。

 

そして、社会科学については、ルソーは必要ないと考える。なぜなら秩序は自己規制だけで成り立つからとみなすからである。

 

他方アダム・スミスは社会科学を必要とする。行為の基礎は他人との関係のなか、社会のなかにある、とするからである。


 

 

 

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読んだ本
経済の未来 世界をその幻惑から解くために
ジャン=ピエール・デュピュイ
森元庸介 訳
以文社
2013.01

 

L'avenir de l'économie: Sortir de l'écomystification

Jean-Pierre Dupuy
2012.02

 

ひとこと感想

国内では「ツナミ」論や原発論で知られるデュピュイだが、私と彼はともにイリイチから学んでいるという共通点があり、 30年ほど前からデュピュイのことを知っている者としては、 本書の内容に強く「共感」できる。最近、アダム・スミスの「道徳感情論」を読み直しているが、デュピュイもまたこの本に言及している。

なお、フランス語の原書はゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」が表紙であるが、訳書は宇佐美圭司「ホリゾント・黙示 8つのフォーカス2」という作品が選ばれている。

 

デュピュイは1941年生まれ。哲学者。スタンフォード大学教授。エコール・ポリテクニク名誉教授。イバン・イリイチ、ルネ・ジラールの薫陶を受け、政治哲学から経済哲学、科学哲学に至る広汎な領域で活躍。フランス放射線防護原子力安全研究所倫理委員会委員長を務めてもいる。


森元は1976年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。東京大学大学院教務補佐員。訳書にジョルジュ・ディディ=ユベルマン「ヴィーナスを開く」など。

***

 

「精緻な分析モデルをかみ砕いてその要諦を取り出し、人類学的な知見とも接合させながら、医療、経済、宗教といった多様な領域が(しばしば暗黙裡に)踏まえている形而上学的前提を問い直し、問いただした成果を提言として世に問う」(265ページ)というのが、訳者による本書の位置づけである。

 

そして大事なのは、ここで言う「形而上学的な前提」が、具体的には何を指しているのか、ということである。

 

***

 

「政治が経済の前で卑屈に膝を折っている」(6ページ)

 

経済と政治とがよい形で結びついてこそ、経済は未来を拓くことができるかもしれない。しかしそうでなければ現行の経済というものには未来はない、とデュピュイは述べる。

「経済は聖なるものが退くことで空白となった位置を占めている」(11ページ)

 

マルクスは貨幣のフェティシズムについて論じたが、そもそも「経済」そのものが、聖なるもののシステムとして稼働してきた。

 

「暴力が自分を抑制するには自分で自分の外部に立つことが必要」(11ページ)

 

この「自分」とは「経済」のことであり、「自分で自分の外に立つ」というのは、言い換えられて「自己超越」としている。

 

経済の場合、自己超越とは「市場の自己組織能力と称されるものを下支えする構図」(11ページ)であって、均衡モデルとは異なったものとしての、市場価格の自己超越に目を向ける。

 

こうした自己超越は、タイトルにあるように「未来」に向けて自らを投企することである。

 

***

 

経済学における「合理性」に対して大きな疑念を提起する。

 

「経済理論というのは稀少な資源の合理的な管理のことではない」(19ページ)

 

アダム・スミスの「道徳感情論」の「自分自身に対する嘘」においては、経済が、通常「経済」と呼ばれているものを含んでいない。

 

「経済を動かしているのは欲望、とりわけ他者から認知され、妬みまじりでよいからその賞賛を獲得したいという欲望である(19ページ)

 

当然これは、ヘーゲル、コジェーヴ、ラカン、ジラールらの「他者の欲望」という考え方が応用されたものである。

 

「アダム・スミスは、富とは他者の眼差しを引きつけるものであり、それというのも、他者がそれを欲望するからなのだ」(20ページ)

 

「あれこれの欲求」ではない。「欲望」なのだ。

 

このようにしてデュピュイは「経済学に逆らいながら経済を考える」(21ページ)

 

アダム・スミスは、そもそも「経済が暴力を含みながら抑える」(42ページ)という二重性をもっている、という指摘を行っている。

 

この思考はそのままジラールの欲望論と連なる。

 

「聖なるものの起源は人間の暴力の自己外在化というメカニズムにあり、これによって暴力は儀礼的な活動や規則体系、禁止と義務といった形で、人間によって把捉されることなく、自分自身を含みながら抑えるに至る」(44ページ)

 

「明言せねばならぬが、市場、さらに広く言って経済は自己調整の能力を確かに有している。しかしまた、明言せねばならないのは、一方で、この自己調整は、経済の内部で創発されながら当の経済に対して己を強制してくるひとつの外在性を経由しており、つまりそこには自己超越なるものがあるのだ」(48ページ)

 

自己調整は、システム内部での外部性の産出を経由して行われる。これをデュピュイは「自己超越」と呼んでいる。

 

つまり「神の見えざる手」といったような「自己調節」の部分を強調するだけではなく、「外部」に向けての動きをデュピュイは強調する。

 

「欲望の最大化」と「利潤の最大化」との驚くべき均衡点を2つの需給曲線の交わりとして可視化した技術こそ近代経済学が見出したものであるが、「欲望」というものが常に「他者の欲望」であるという考え方が、ここには欠落している。

 

太郎は、目の前にあるリンゴを200円という値をつけて欲望している。

 

しかしデュピュイが本書で強調しているのはこうした「価格」にみられる「他者の欲望」ではなく、「未来」にみられる「他者の欲望」である。

 

いやいや、そう難しいことではない。

 

こうした「未来」にみられる「他者の欲望」は、たとえば、毎日の株価の上下に対する「分析」のディスクールに如実に表れている。

 

「英国のEU離脱問題の影響」によって「株価が急落」したと説明したその次の日には、同じ理由から「株価が上昇」しもする。

 

「米国の雇用統計が発表」されて、その結果が予想と大きく異なるために、「急落」する。

 

いやいや、そればかりではない。サミットでもどこぞの首相が口走っていたではないか。

 

「 世界の貿易額は、2014年後半から下落に転じ、20パーセント近く減少。リーマンショック以来の落ち込みです。 」「 ここで、もし対応を誤れば、世界経済が、通常の景気循環を超えて「危機」に陥る、大きなリスクに直面している。 」(平成28年5月27日G7伊勢志摩サミット議長記者会見
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2016/0527summit.html

 

 

***

 

今日の金融危機に象徴される資本主義の全般的危機の真相が、“市場”万能主義という神
話に基づいたパラドキシカルな帰結であることを論証し、かつ現代のグローバル化世界で
は、市場経済が政治の位置を簒奪していることに警鐘を鳴らす、本格的な現代文明批評。

 

目次      
序 政治を幻惑する経済
第1章 経済と悪という問題
第2章 自己超越
第3章 終わりの経済学と経済の終わり
第4章 経済理性批判
結び 運命論を脱けて
補遺 時間、パラドクス

 

 

 

 

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読んだ本

岩波講座環境経済・政策学 第2巻 環境と開発
佐和隆光 他編
岩波書店
2002.10

 

ひとこと感想

錚々たる執筆陣。だが、なぜか今一つだった。


目次      

序章 環境と開発の対立を越えるために

吉田文和、宮本憲一

 

アマルティア・センから得られる3つのポイント

1)「well-being」と「GDP」と「環境負荷」の違いと関連を解明し、真の開発とは何かを考える

2)生産と消費の世界的格差構造の解決

3)未来への責任や継承に関して、環境倫理と経済学とのつながりをつける

 

第1章 環境と開発の歴史的な相克と妥協

石弘之

 

第2章 人間と開発 内発的発展による共生社会への展望

西川潤

 

第3章 日本の公害体験

宇井純

 

第4章 アジアの環境問題

井村秀文

 

第5章 都市空間の再生とアメニティ

西村幸夫

 

第6章 環境と農業・農村 人は飢えずに環境を守れるか

祖田修

 

第7章 水環境・資源と開発

仲上健一、仁連孝昭

 

第8章 自然保護と森林

熊崎実

 

内容

20世紀は開発による環境破壊が地球規模で行われた時代であった。こうした開発による環境破壊を防ぐことは不可能なのか。対立的に論じられてきた環境と開発の根本的な問題を、日本の深刻な公害経験をふまえ、世界、アジア、日本の現状をリアルに分析することによって解明し、サステイナブルな発展の道を探る。環境と都市、環境と農業・農村、アメニティ、環境資源と開発、自然保護と森林などの基本的分野をカバーする。

 

 

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読んだ本

わがまち再生プロジェクト
桑子敏雄
角川書店
2016.03

 

ひとこと感想

「まちづくり」「まちおこし」「地域活性化」「地方創生」……これまで何度も繰り返し叫ばれてきた問題であるが、今なお一向に根本的な変化も改善も感じられないのはなぜだろうか。あまりにも本質的な課題であるからだろうか。そのため、「地域空間の独自性」を明らかにし、地元の人がその独自性をもとにまちをつくりかえてゆく、という言い方以上のことができなくなっているのかもしれない。では一体何が欠けているのだろうか。本書は、こうした疑問に対して総点検を行うための基本枠を提示している。

 

桑子は1951年群馬県生まれ。哲学者。東京工業大学大学院教授、コンセンサス・コーディネーターズ代表理事。

 

***
 

1 空間

 

地域空間の独自性を見出す

 

・空間の構造

・空間の履歴

・人びとの関心と懸念

 

2 選択

人の生き方と選択を考える

 

・所与

・遭遇

・選択

 

3 価値

 

わがまち再生の理想を掲げて実現する

 

・理念

・制度

・意思決定

 

4 合意形成

 

各主体が連携して具体的に行動する

 

・市民

・専門家

・行政
 

5 社会的合意形成のプロジェクトマネジメント

 

以上をふまえてプロジェクトチームが参加型のまちづくりプロジェクトを現実に実行する

 

***


目次      

第1部 わがまち再生の方法―ふるさと見分け・ふるさと磨きの四つのトライアングル
空間のトライアングル

選択のトライアングル

価値のトライアングル

社会的合意形成のトライアングル

社会的合意形成のプロジェクトマネジメント

 

第2部 わがまち再生の実践

佐渡めぐりトキを語る移動談義所 新潟県佐渡市

カッパの逃げ道とシャガの散歩道 新潟県佐渡市福浦

「天の恵み、地の利、人の和」 福岡県行橋市姥が懐

地産地消の地域づくり 長野県山ノ内町

やんばるの森のみちがえるまちづくり 沖縄県国頭村

天孫降臨のかわまちづくり 宮崎県高千穂町

八雲立つ出雲の国のまちづくり 島根県松江市

祈りの道、そして、出会いのまち 島根県出雲市

 

内容      

地域再生、地方創生が叫ばれている。個性あるまちは、そのまちをふるさととする人びと
の手づくり感を実感できるものでなければならない。本書は、そのような「わがまち再生
プロジェクト」の方法論。

 

 

 

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読んだ本

まちづくり:デッドライン 生きる場所を守り抜くための教科書
木下斉、広瀬郁
日経アーキテクチュア 編
日経BP社(日経BPマーケティング)
2013.04

 

ひとこと感想
本としては、作りこみ方が独特で面白い。図解など、とても分かりやすい。商店街を中心としたまちづくりの実践論として役に立ちそうである。ただし「まちづくり」に対するフィロソフィーが今一つ見えてこないのが惜しまれる。


木下は1982年生まれ。高校時代に全国商店街による共同出資会社の初代社長に就任。この時の経験から、日本のまちづくりに疑問を持ち、経営手法を用いるまちづくり事業を志し、現在全国12都市で展開中。エリア・イノベーション・アライアンス代表理事、内閣官房地域活性化伝道師。広瀬は1973年生まれ。建築学専攻後、外資系経営コンサルティングファーム、不動産デベロッパーに勤務した経験から、都市・まち・建築に関わる事業開発と空間デザインの融合を目指してきた。「CLASKA」総合プロデュース担当。建築プロデューサー、(株)トーンアンドマター代表。

 

***

 

本書の構成が図解化されている。これを読むと全貌がつかめると同時に、本文を読む気が失せてしまう。

 

1 まちの成り立ちを把握する

・地理上の状況を把握する

・歴史上(統計上)経済の動きをたどる

 

2 まちの仕組みと守り方を知る

・まちの基本活動をバリューネットワークとお金の流れから把握する

・まちやエリアを守るためのヒントを得る

 

3 現実と仕組みを照合する

・各地の事例にふれる

 

4 守り抜くために、すぐに実行する

・守り抜くエリアを決める

・まちに残る資源の点検、調達

・まち会社をつくる

・行動計画の立案

・事業成果の継続、展開

・まちづくり事業を自立化させる

 

***

 

従来に求められた価値観「大きい」「新しい」に代わって、「小さい」「古い」という価値観を大事にする。

 

それは、「量の供給」ではなく、すでに投資してできあがっているものをどのように生かすのかに課題が転換したということである。

 

だからまちを「つくる」というよりは「マネジメント」するということに変わる。

 

経済によるお金の流れを、経営の視点を持ち込んで、改善を図る。

 

そのためには、あらためて「売る人」と「買う人」のあいだにある「価値」を見つめなおし、バリューネットワークのあり方を再構築する。

 

本書ではより実践的に、不動産オーナー、商店経営者、消費者の関係に限定して検討している。

 

経営の基本も以下の点に留意が必要である。

 

・初期投資 小さくする

・売り上げ 増やす

・費用 減らす

・利益率 高める

 

事例

・枚方宿くらわんか五六市、鍵屋別館

・北の屋台(帯広)

・北浜alley、N.Y.Gallellery(高松)

・co-lab(渋谷)

・メルカート三番街、ポポラート三番街(北九州)

・米子市中心街

 

***


想いを遂げるには「守り方」を知る必要がある。本書は、まちを新しい時代に対応できるカタチにつくり変えるための教科書である。高度成長の時代と同じままの発想では、僕らの大切な場所は廃墟になってしまう。 小倉・米子・高松・枚方・東京・帯広の各地の事例を解説。 昔の常識とは“真逆”の方法と行動が必要だ。時間の猶予はない。現実を認識し、まちを守るために、今すぐに立ち上がろう。
 

目次      
1 お金とお客は「正直」だ まちの姿にはワケがある
2 まちはなぜ大きくなった?統計の「数字」から遡る
3 まちの「仕組み」をまずは頭に入れよう
4 全てがひっくり返った発想を逆転させよう
5 日本の各地で胎動がそれぞれの「守り方」
6 すぐに実行に移そう変革を導くステップ

 

 

 

 

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読んだ本

稲を選んだ日本人 民俗的思考の世界
ニュー・フォークロア双書
坪井洋文
未来社
1982.11

 

ひとこと感想

30年以上前、学生のときに読んだが、今改めて読み返すと、その迫力にあらためて圧倒される。当時、日本中世史家の網野善彦とともに、日本の歴史、文化、アイデンティティを根本から問いつめた民俗学者、坪井洋文。彼らの遺志をしっかりと継承しなければならない。

 

***

 

日本というものを一元的にとらえるのではなく、少なくとも大きく2つの類型がある、とはっきりと示したのが坪井民俗学の最大の特徴である。稲作文化に対して、畑作(焼畑)文化である。具体的には「もちなし正月」の習慣をもつ地域がほぼそれに該当する。

 

「かつて日本の広い国土で行われていた焼畑」(19ページ)は、「里」に対して「山」である。いわゆる「里山」「という概念はそういう意味では、いつのまにかこうした畑作文化を正当に扱わず、水田農耕を「主」とみなす価値観に支えられているようにも見えてくる。このあたりのことは、今後の大きな課題である。

 

もちろんこれは柳田以降、民俗学が常に留意してきたものである。彼は次のように対比した。

 

 山民 = 国津神 = 先住民

 平地民 = 天津神 = 渡来人

 

その他、千葉徳爾や宮本常一らの文章をはさみつつ、最終的に畑作=山の農業には定住性が低く、20~30年周期で移動を繰り返す。こうした基本的生活スタイルはさまざまな習慣、風習、民俗、文化を生み出す。その結果は知っての通り、稲作をプラスの価値とみなし、畑作をマイナスをみなす評価判断の生成である。

 

しかし坪井はヤマこそ、「文化、いや生命の母胎としての役割を果たし続けてきた」(35ページ)ものとみなしている。しかもこのことを見失ったことこそ、「日本文化の衰退」(36ページ)とは無関係ではないとする。これは、「地域」というものが単純に市町村で分けられるものではなく、「社会的文化的に対立する意識つの集団がそれぞれ支配する空間にあったことを仮定」(37ページ)すべきだとする。

 

ところで、「コメ=日本」を「イデオロギー化」した契機は何か。それは、1932年の「食糧管理法」にあると坪井は考えている。つまり、それほど過去の話ではないのである。

 

これをもってコメは「強制されたものと考えるのもまたおかしい。少なくともコメは重要な「象徴的軸」(76ページ)であることは疑いない。そして問題は、なぜコメを選ばなかった人や地域があったのかである。

 

例えば、坪井は網野の話を次のように採り入れる。

「中世の民衆が権力者との契約にもとづいて自由であったことは、日常(ケ)と非日常(ハレ)を超えた次元の世界に在ったことを示し稲作が民主にとって生活上の決定的条件でなかった」(89ページ)

 

すなわち、古代から中世にかけては、コメ文化とイモ文化は決定的に差異化されるような状況にはなかったということである。

 

変化は近世以降、と坪井はとらえている。コメや農民は支配者の管理下に入る。どうしても私たちは、日本=コメ文化という単一作物を絶対視(=神聖視)する価値観が一つの「普遍」とみなす傾向にあるが、実はそうではないというのが、坪井の仮説である。

 

「歴史」すなわち「文献」に基づいた過去は、いわば為政者が自己正当化のためにつくりあげたものである。書かれたものだけで、歴史を再構成することはできるはずもない。

 

為政者ではなく民衆ののこしたもの、とりわけ「民俗」を探る意味はむしろ、こうしたところにあるといえるだろう。そこから導き出された仮説は「イモ文化」と「コメ文化」が決定的に価値の優劣をもっておらず、いずれかを人々は選択するか、もしくは両者を混在化させて選択してきた。

 

たとえば、「モチなし正月」を行ってきたところは、意図的に「コメ文化」を禁忌してきたところであり、また、単に「モチなし」ではなく、積極的に「イモ」(里芋)を選ぶという民俗である(ここでもまた「里」イモ、という言葉が、妙にこの問題の鍵を握っているように思えるので、これもいずれもっと掘り下げておくべきであろう)。

 

この両者を合わせて坪井は「モチ正月」とみなす。

 

更に興味深いのは、「モチ正月」と「イモ正月」が両極であるのに対して、両者を併用する場合である。この混淆こそが、現在「雑煮」と呼ばれ、モチと里芋を合わせて入れている風習となっているのである。

 

実際のモチなし正月(イモ正月)の分布をみると、以下のところに多いことがわかる。

 

・関東(長野、静岡、岐阜)

・瀬戸内海

・紀伊半島南部

・島根、鳥取

 

すなわち、九州から山口県あたり、京都、大阪、奈良あたり、東北には、あまりモチなし正月は分布していないということである。詳しくは、次のように分類されている。

 

・モチとイモが等価値

・モチを禁忌

・イモを絶対視、優先

・モチとイモが混淆

・モチ、イモいずれにも価値を置かない

 

なお、先ほどは「イモ」と「里芋」と書いたが、とりわけ東北地方においては、代わりに里芋を儀礼食物として用いられてきた。逆に、里芋は九州が中心でそれ以外は混淆化しているともいえる。

 

ところで、ある見解、たとえば、考古学の知見によれば、縄文後期あたりから列島の各地より水田稲作の遺跡が見つかっており、そのことは思っている以上に「コメ文化」はやはり列島全体の根幹をなすものではないかと考える人もいるかもしれない。

 

しかし、民俗学の成果からみると、それにもかかわらず、東北や九州では「コメ」が必ずしも儀礼食として優先されていないという違いがある。

 

こうした差異を坪井は次のように仮説化する。

 

「民衆は水稲作そのものを政治的、経済的には受容しても、文化的、儀礼的には拒否した」(142ページ)

 

更に興味深いことに、民俗の現実もしくは歴史は民俗「学」によって再構成されるが、そこにもまた「体制化」という一つのフィルターがかんでしまうことにも坪井は注意を向けている。前出とは少しちがったかたちで文化接触のプロセスをまとめつつこの問題を検証している。

 

・等価値

・禁忌

・融合

・交流

・同化

 

こうした5つの仮定がありうるにもかかわらず、民俗学も「同化」にのみ関心をもち、「等価値」に関心が薄い。その理由を「体制化」とする。

 

「体制化とは、民俗学の対象たるべき民俗の価値が民俗の担い手たる民衆主体から離れて、体制の権力者によって価値が決定されるにあたり、その価値決定に学者が媒介者となり、特定の民俗を体制の権力者に対して提供する作業の段階にとどまっていることであろう。」(161ページ)

 

つまりは、常に「民衆とは何か」を問い続けなければならないのである。

 

また、民俗学は「無文字の歴史学」に独自性を求めたり、島国文化を世界でも独自のものとみなしたりするなど、「日本人が日本人自身を相対化して自己理解を深めようとするところに、その成立の独自の基盤をおいていた」(163ページ)。

 

その結果、文献としての「民俗」は一言でまとめれば、「単一起源論」として構成してきた。

 

しかしこれは、柳田にしても本居宣長にしても単一起源論とはならない。また、柳田は民俗学が「いにしえ」の額ではなく、「経世の学」「現代有用の学」であることを常に意識していた。

 

「宣長や柳田は日本の文化を一義的に把握し、単一論で割り切れるような分析を試みているのでは決してない。」(165ページ)

 

「これまで示した民俗的資料の実態が理解されるのは、イモ正月=畑作民的農耕文化の視点をとれば、稲がすべて耕地を覆うていたということも、民衆が稲作を絶対的農耕生活として理想化していたと断定することも不可能に近いからである。」(166-167ページ)

 

もちろん稲作文化は今では「日本」の中核的な位置にある「起点」のようなものかもしれない。だが、それが「日本」もしくは「日本人」「日本文化」と必ずしもイコールではないことは、これまで見てきたとおりである。すなわち、たった一つのアイデンティティ、たった一つに収斂されるような起点だけがすべてではないのだ。

 

それは単なる「理論」上の問題ではない。

 

実際に生きて暮らしを営んできた人たち、その人「たち」のありようこそ「民俗」である。「民族」では決してない。

 

単一民族、単一言語、単一作物、そういった「単眼」では片付かない、葛藤、抵抗、選択、受容、その足跡をていねいに確認する作業、これこそが民俗学の使命である、と坪井は訴えているのである。

 

もう少し文明論的に言えば、明治以降の西欧近代文明の受容が「第二次」の文化的衝撃とみなしている。そしてそれと同じようなものとして、稲作文化の受容があったとする。

 

 

 

 

 

 

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読んだ本
入会林野とコモンズ 持続可能な共有の森
室田武、三俣学
日本評論社
2004.01

 

ひとこと感想

強いて言えば、都市=貨幣や資本に基づいた市場エコノミー、地域=コモンズをはじめとした社会関係に基づいた非市場エコノミー、といった概念設定ができそうである、と読んで思った。それにしても室田武さんは相変わらず面白い。
 

***

 

入会林野は、地域住民が共有している林野のことで、近世日本に起源がある。また、入会権を含めて言えば、今もなお各地に存在している。

コモンズは、同じように地域住民が土地を共同で利用する制度や空間のことで、入会林野よりももっと古く中世英国(イングランド、ウェールズ)(かそれ以前)に起源がある。こちらもまた、今なお、各地の存在している。

 

本書ではこれらを明確に分けたうえで、両者の共通点を「共」とみなしている。つまり、私有地でも効用地でもない領域を明らかにしようとしているのである。

 

内容としては日本の森林の育成の現場にいる人たちの声を聞きつつ、現地での実態を把握しようとしている。英国については文献考証を中心としている。米国ではコモンズ関連の研究が盛んで発展途上国における類似制度の情報収集が行われているようだ。なお本書では、グローバルコモンズについては、とりあげていない。

 

英国において、マルクス主義の土地の固有化に反対して共有化すなわちコモンズに高い価値を置いた哲学者がJ・S・ミルであったことは特筆される(これは下記、四野宮三郎の研究による)。

 

 

 

一方米国のコモンズ論は、良く知られているように、1968年にギャレット・ハーディンが「コモンズの悲劇」という論文を出したことが出発点となっている。その後コモンズ論は、共有資源の国有化、私有化をめぐる議論が展開されるが、少しするとこうしたとらえ方が批判され、1980年代にはオストロームやマッキーンなどがコモンズを共的管理制度に焦点としてとらえてゆく。同時に世界各地のコモンズの事例の発掘や整理が進む。

 

これに対して日本では、室田武をはじめ、玉野井芳郎、多辺田政弘など、エントロピー学会に関わった人たちがコモンズ論を展開した。また、宇沢弘文の社会的共通資本概念も、コモンズ論にも一石を投じる。その後、より実地調査に基づいたコモンズ論が展開されてゆく。

 

***

 

コモンズの定義

 

浅子和美、國則守生「コモンズの経済理論」
(宇沢弘文、茂木愛一郎編「社会的共通資本 コモンズと都市」東京大学出版会、1994年、74-76ページ)

1)オープンアクセス、フリーアクセスが成立する資源

 (ハーディング想定したコモンズ)

2)資源の利用が一定の集団に限られ、その資源の管理、利用についても、集団のなかである規律が定められ、利用にあたって、種々の権利、義務関係をともなっている

 

池田寛二「キーワード地域社会学」地域社会学会編、2000年、ハーベスト社、308-309ページ)

・非市場領域に属している資源

・所有権が設定されていないために商品化、市場化されていない資源

・ 「共有地」「入会地」「共有財産」と同じ意味をもつ概念として理解されているが、それはコモンズの一面にすぎない

 

井上真、宮内奏介編「コモンズの社会学」

・資源の所有にこだわらず実質的な管理(利用を含む)が共同で行われていること

 

植田和弘「環境経済研究の動向と展望」「環境研究」1996年

・それぞれのおかれた諸条件のもとで持続可能な形で自然環境や資源を管理、維持するための制度、組織

 

宇沢弘文「経済に人間らしさを」かもがわブックレット120、1998年、34ページ)

・ある特定の人々の集団が集まって、協同的な作業として、社会共通資本としての機能を十分に生かせるように、その管理や運営をしていくもの

 

嘉田由紀子「共感する環境学」嘉田、槌田、山田編、ミネルヴァ書房、2000年、241ページ)

・森(里山)、海(漁場)、川、湖沼などを地域の人びとが共同利用する

・日本の入会地、入浜

資源の公共性と持続性を保障するメカニズムであると同時に、弱者の生存権を保障するシステムとしても機能

 

環境百科事典(吉田邦夫監修)

・地域住民の自治的な管理によって用益され保全されている自然生態系の資源、環境とその協同的な利用

 

経済学辞典 第三版(有斐閣)

・私有化されておらず地域社会の共通基盤となっている自然資源や自然環境

 

国則守生「環境とコモンズ論」「環境と経済に関する研究 第2期NIRA研究報告書」総合研究開発機構、1997年、75-87ページ)

・入会権の対象あるいはその制度的枠組み全体を指す

 

多辺田政弘「コモンズの経済学」1990年

・商品化という形で私的所有や私的管理に分割されない、また同時に国や都道府県といった広域行政に包括されない、地域住民の「共」的管理(自治)による地域空間とその利用関係(社会関係)

 

寺尾忠能「低開発と環境資源破壊」「アジ研ニュース」1992年

1)所有権、利用券を限られた範囲の集団に設定することが難しく、その利用する影響を特定の範囲内に限定できない大気などのグローバルコモンズ

2)所有権、利用券と利用による影響を、寡婦ぎられた範囲内の特定集団に限定することが可能なローカルコモンズ、森林、草地、低湿地、ため池、地下水、河川、河岸、野生生物、漁業資源など

 

原洋之助「環境問題の経済分析」「アジア社会問題研究所調査研究委員会「アジア地域の発展と環境保護に関する調査研究、産業研究所、1992年

・それをはぐくむ環境が好ましい状態にとどまる限りで再生産可能であるが、誤った利用によっては枯渇の危険性が大きくなる資源

 

平松紘

・土地、空気、水などの地球上の主たる資源について、人々が共同してエクイタブルにアクセスもしくは使用でき、誰もがそれらを破壊することのできない社会制度

 

茂木愛一郎「世界のコモンズ」「社会共通資本 コモンズと都市」東京大学出版会、1994年

・コミュナールな資源のレジームに相当するもの

・包括的にいえば、コモンズとは、主として自然環境や自然資源を対象に、それらへのアクセス権と管理の方法が、慣習ないし制度にひょって備わっている社会的仕組み

・オープンアクセスとは明らかに違っている

 

***

目次      

第1章 日本の入会林野の歴史と財産区有林

第1章補論 一部事務組合有林・記名共有林として管理される林野

第2章 山林コモンズ:繁盛するもの、新機軸をめざすもの 滋賀県3フィールドの入会林野の管理実態

第3章 財産区の制度分析:議会制と管理会制 富士宮市白糸財産区有林と葛巻町葛巻財産区有林を事例に

第4章 イングランド、ウェールズにおけるコモンズの歴史と現況

第5章 資源管理とコモンズ論

第5章付録世界のコモンズ一覧・コモンズ定義集

第6章 入会林野に根づく学校林―歴史と現在
第7章 水と山におけるコモンズの内法 持続性に向けてのルール

補論 なぜ今「コモンズ」なのか

資料案内およびフィールドメモ

 

内容

日本の入会林野も英国のコモンズも、きわめて現代的な存在であるが、起源が古いせいか、過去の遺物のように誤解されることが多い。本書は、そうした誤解、あるいは思い込みにとらわれることなく、公的な存在でもなく、私的な存在でもない財産区有林や共有山などの共的な森林と人々とのかかわりに関する研究結果をまとめたものである。

 

 

 

 

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読んだ本
自由のジレンマを解く グローバル時代に守るべき価値とは何か
松尾匡
PHP新書
2016.02

 

ひとこと感想

いわゆる政治哲学もの。地縁などとは異なる固定化していない人間関係(社会)において個人の自由と責任との関係を再構築すべきだという主張。言っていることはけっこう良いところを衝いている。また、大雑把な外観図を提供してくれている。が、浅さが目に付く。また、文章がくどくどしくて、かったるい。


松尾は1964年石川県生まれ。87年金沢大学卒。92年神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。久留米大学経済学部教授を経て、2008年より立命館大学経済学部教授。専門は理論経済学。07年論文「商人道!」により第3回「河上肇賞奨励賞」を受賞。

 

***

 

死者は呼び捨て、生者はさん付け。このことが、妙に引っかかる。

 

なぜ、安冨歩さんで、なぜ、丸山眞男、なのか。

 

マイケル・サンデルさん、ロバート・パットナムさん、

 

マックス・ウェーバー、ジョン・ロールズ、

 

アミタイ・エツィオーニさん(まだご存命だったとは!)、アラスデア・マッキンタイアさん、マイケル・ウォルツァーさん、

 

ロバート・ノージック、フリードリヒ・ハイエク、

 

ジョン・スチュアート・ミル、アイザイア・バーリン、

 

ハンナ・アーレント、ミシェル・フーコー、ドゥルシラ・コーネル、

 

カール・マルクス、アマルティア・センさん、柄谷行人さん、大塚久雄、

 

ヨゼフ・シュンペーター、……

 

やはり、気持ちが悪い。


すみません、そういうわけで、今日は中身についてはふれません。

 

そういう本もたまにあります・・・
 


目次      
第1章 責任のとり方が変わった日本社会
第2章 「武士道」の限界
第3章 リベラル派vs.コミュニタリアン
第4章 リバタリアンはハイエクを越えよ
第5章 自由と理性
第6章 マルクスによる自由論の「美しい」解決
第7章 「獲得による普遍化」という解決―センのアプローチをどう読むか
第8章 疎外のない社会への展望

 

内容      
自己責任論が主流になる社会で、福祉はなぜ正当化されるのか。この時代の「自由」の本
質とは。マルクスやセンの理論を問い直し、現代社会の自由と責任をめぐるジレンマを解
き明かしていく1冊。

 

 

 

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読んだ本
美味しんぼ「鼻血問題」に答える
雁屋哲
遊幻舎
2015.02

 

ひとこと感想

期待して読んだが、あまりぱっとしない内容だった。著者は息巻いているが、それほど説得力がない。みんな「放射能」問題をなめている。これまでのような説明、論述の仕方では容易に了解性が持てないのが特徴であるというのに、最初から自分が正しい側にいると決めつけて語っても、それとは異なるところにいる人たちには何も伝わらない。残念である。

 

***

 

そもそもの、問題の作品については、以下ですでにとりあげている。

 

美味しんぼ 「福島の真実」編 1(雁屋哲・作、花咲アキラ・画)を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12038303219.html
 

美味しんぼ 111巻「福島の真実」編2(雁屋哲・作、花咲アキラ・画)を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12049589998.html


以下は、あくまでも「本書」についてであることに注意していただきたい。

 

***

 

一言で雁屋の反論は、実際に福島に取材に行って鼻血が出たのに、何の問題があるのか、ということである。

 

世論でもっともよく言われたのは「鼻血が出るとは考えにくい」ということである。
 

この両者の溝は最終的には埋めることはできなかった。

 

なぜか?

 

低線量被曝の問題を、甘く見ているからである。

 

「甘く」というのは、これまでの歴史的経緯、ならびに科学的論争の経緯を十分に検証していないということと、低線量被曝について語ることの困難さをまったく理解していないということである。

 

そして、結果的にこの問題を、政治的な配慮や、大衆の蒙昧に、還元してしまっている。

 

といっても、もちろん、私は、雁屋をはじめ、「フクシマ」において「鼻血」が出ない、と言いたいわけではない。

 

「出る」と、言いたいのでもない。

 

「出るかもしれないし出ないかもしれない。現状では、決定的に低線量被曝の影響で鼻血が出る、という因果関係を科学的に論証するのは難しい。」

 

これが私に言えることのすべてであり、おそらく多くの科学者においても同様であろうと考える。

 

とはいえ、本書でも、科学者が何人か登場する。

 

松井英介

郷地秀夫

西尾正道

肥田舜太郎

 

それらのデータや見解をもとにして、科学的に雁屋はこの問題を説明しようとするが、やはりいまいちである。

 

ちなみに雁屋の結論は、こうである。

 

「福島の環境であれば、鼻血を出す人はいる。そして、鼻血は、放射線被害のたった一つの症例でしかない。」(65ページ)

 

二つの文章のうち、まず、前半であるが、これは、ある程度納得がゆく。原因は特にここでは問われていないからだ。ストレスなどをはじめとして福島では鼻血を出す人が少し多くでてもいかしくない、ということは統計データがどうであれば、そういう予測や印象を抱くことは、ごく自然と考えられる。

 

そして後半。これもこの文章自体は間違っていない。放射線被害の症状は多様にあるからだ。

 

しかしこの二つの文章が並び、「そして」という接続詞で結ばれたとき、奇妙なレトリックを生成している。

 

すなわち、福島で鼻血を出している人は放射線被害によるものだ、という意識である。

 

思った以上に説明が拙いので、中身の詳細については、わざわざとりあげることはやめにしたいと思う。

 

***
 

 

福島を取材した主人公・山岡の鼻血の描写が国民的議論を巻き起こした漫画『美味しんぼ』。マスコミのみならず、自治体、はては首相まで乗り出して「風評被害」と責め立てたこの問題に、今こそ答えを出そう。一大バッシングを受けた漫画原作者が沈黙を破って書き下ろす、話題騒然の書。

 

 

目次  
第1章 なぜ、私はこの本を書いたのか
第2章 安全の定義
第3章 「鼻血問題」への反論
第4章 福島を歩く
第5章 福島第一原発を見る
第6章 内部被曝と低線量被曝について

 

 

 

 

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