読んだ本
アインシュタイン平和書簡3
ネーサン、ノーデン編
金子敏男訳
みすず書房
1977年2月

ひとこと感想
アインシュタインは最後まで自らの戦闘的平和主義を変えなかった。偉大な物理学者が、不幸にも緊迫した国際「政治」問題をかかえてしまったが、彼の選んだ道は、決して誤りだったわけではないだろう。むしろ周囲の人間が過剰に彼に期待しすぎたのであり、依存しすぎであったのではないか。

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以前書いたように、アインシュタインは、1922年に船で日本を訪れた。とてもよい印象をもったようだ。

また、雑誌「改造」の出版記念号(1934年)には、1922年に出会った誰かがかかわっていたのだろうか、挨拶文を送っている。

そのあと、アジア情勢があやしくなってゆくなかで、アインシュタインは、ヒトラーが行っていることと同じ方向を感じとり、やや非難がましいような残念なような口調で、日本の軍事行動に対して嫌悪感を表していた。

そして、1945年、広島に原爆が落とされたことを知ったとき、「ああ、なんという・・・」とただ呻くことしかできなかった、と言われている。

その後、原爆投下について、何らかの発言があるかと思いきや、本書のなかでなかなか登場してこなかったのだが、第3巻の後半において、ほぼ1章の半分ほどが、原爆ならびに日本にかんする発言(書簡)が集められていた。

1947年3月、来日時の船中で病気になったときに助けられた三宅医師の墓碑銘をドイツ語で贈った。

1947年6月、同じく来日時の通訳を務めた稲垣氏に手紙を書いている。その一節にこうある。

「攻撃兵器の信じ難い発展の結果生まれた危険が、責任ある人々の本質的な変革をもたらしてもよかろうと、考えてもよいかに思われました。しかしこのような希望は、当にならぬことが証明されたのです。」(680ページ)

かたい訳である。つまり、原爆が実際に使えるようになったとしても、それを実際に使用するというようなことは、起こりえない、と彼は信じていた、ということであろう。

よく言えば、人間の理性を期待していた、ということであるが、やはり基本的に彼は、楽天的にものごとを考える傾向があるように、私には見える。

そのあと、1948年に、新春の挨拶文が朝日新聞に掲載されるが、ここでは、世界政府の必要性については述べられているが、それ以上ふみこんでいない。

この時期はまだGHQ統治下にあるので、原爆投下に関して米国を非難するような内容を書いたとしても、削除されるか不掲載になったので、自粛したのかもしれない。

このような「沈黙」を破ったのは、先述の雑誌「改造」である。「改造」の編集長である原勝氏は、ようやく国内で原爆に関する情報解禁がなされたあとの1952年9月15日にアインシュタインにかなり厳しい内容の手紙を送っている。

その最大のものは、以下の一文である。

「あなたは何故、原子爆弾の凄まじい破壊力を十分に御存知でありながら、その製造に協力なさったのですか。」(681ページ)

アインシュタインはおそらく受け取ってその日のうちに返事を書いたと思われる。日付は、9月20日となっている。その内容を要約すると以下のようになる(翻訳がかたすぎるので、引用しない)。

・原爆製造に関して自分が加担したのは、
原爆製造の実験を試みるべきだという内容の、大統領への手紙への署名だけである

・原爆製造が、人類にとって大変な脅威であることは、十分に理解していた

・しかし当時ドイツの動向を考えると、彼らより先に原爆を製造するということは、ほかに代えがたい選択肢だったと考える

・もし次の大きな戦争が起こってしまったら、それは全面殺戮になる可能性が高い

・この動きには、徹底して反対をすべきである

・その見本は、ガンジーである

この返事に対して、翻訳を担当していた篠原正瑛氏は、強く反発をする。

アインシュタインが大統領への手紙に署名したのは、単にドイツの脅威だけではなく、ユダヤ人を差別し迫害するナチスへの復讐なのではないか、という考えである。

1953年1月5日付けで篠原から送られてきた手紙に、2月22日、アインシュタインは返事を書く。

ここでは、あらためて、当時から変わらない自分の考えを述べている。

平和主義とは、無条件のものではなく、暴力に対してやむを得なく暴力で対抗せざるをえないときがある、という類のものだ、というのが、アインシュタインの考えである。

「私の見解では、暴力を用いうることが必要となる条件があるのです。その場合がおとずれるのは、私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺害することである場合です。しかし他のいかなる場合にも、国の間の紛争の危機に際して、暴力の使用を、私は不正であり有害であると思います。」(683ページ)

[訳が少々おかしい。
半ばの文章は、「私の敵が、私と私の家族を殺害しようとする場合は、無条件に暴力を用いるでしょう」という意味あいであろう。]

篠原氏は、さらに6月18日に反論を書いている。彼は問題は、その原爆が広島と長崎に落とされたという事実に基づいている。原爆の使用を結局はアインシュタインは受け入れていたのではないか、と考えたのだ。

これに対して6月23日アインシュタインの返事はこうである。この文がもっともはっきりと彼の考えを述べているように思われる。

「あらゆる場合に私は暴力に反対します。但し、敵対者が生命の抹殺を自己目的として意図している場合は、別です。日本に対する原子爆弾の利用を、私は常に有罪だと判定しています。しかし私はこの宿命的な決定を阻止すべく殆ど何事もできませんでした――日本人の朝鮮や中国での行為に対して、あなたが責任があるとされうるのと同じ程に、少ししかできなかったのです。
 ドイツ人に対する原爆の使用を、是認するというようなことを、私は主張したことはありません。しかしヒトラー治下のドイツだけがこの武器を所有することは、無条件に阻止しなければならないと、私は信じていました。」
(684-685ページ)
 
責任。科学者の責任。アインシュタインという偉大なる物理学者の、原爆製造ならびにその被害に対する責任。

アインシュタインは、自分自身の「責任」というものを、そのようには考えていなかった。

むしろ彼の「責任」は、ドイツのみが原爆を所持するような現実を阻止することにあった。

この「ずれ」こそが、議論すべき焦点であろう。

アインシュタインからみれば、自分が米国による原爆製造ならびにその原爆による実際的な無差別殺戮の実行に責任をとる必要があるのならば、あなたがた日本人もまた、アジア諸国に行った蛮行への責任をとらねばならない、ということにならないか、と言いたそうである。

もちろんこれは「原爆の父」というイメージをもつアインシュタインだからこそ、問われる問いであって、米国市民、日本国市民のだれもが同じようには責任は問われえないのだが、どうも、アインシュタインの意識においては、自分が何を求められているのかについて、無頓着であるようにも思える。

ちなみにこのアインシュタインの手紙の末尾の「追伸」には、やや強い口調で次のように書き添えられている。

「他人とその行為については、十分の情報を入手されて後、始めて意見を形成されるよう、努力なさるべきでありましょう。」(685ページ)

私たちの意識のなかでは、アインシュタインは、理論的に原爆の原理にかかわる部分の解明をしただけでなく、実際の原爆製造に対しても、大統領への助言に賛同するなど、一定程度以上の寄与をした、と理解されているが、彼にとっては、後者は、自分がしたことは正当であって、実際に開発や投下に対しては、別の人間たちの責任である、という思いにあるのだ。

全面的に彼だけを非難することには、何の意味もないことは確かである。しかし、この点は、かなりこだわっておくことは、大切なことだ。

確かに私たちは、過剰に彼に期待しすぎている。

「天才」であるにもかかわらず、こんなことでいいのか、
と私たちは彼に問いかけ、彼ならば、人間離れした発想や行動をとってくれるのではないか、と期待してしまっている。

これは、よくない。

1人の人間に責任をおしつけて、そうすることで安心してしまい、他のことをみないようにしているのかもしれない。

彼の考え抜いたうえでの、解決策、つまり、すでに生み出されてしまったものとしての原爆をかかえた世界で、どうやってこの原爆による被害を出さないようにするのか、は、世界政府の樹立とそこでの管理、ということであった。

彼の生涯は、ほぼこの考えにおいて一貫している。

このことに、敬意を表するほかない。

だから、聞くべきことは、そうした直接的で非難めいた内容ではなく、たとえば次のような前提である。すなわち、科学技術がもたらす負の部分に対する責任は、科学者による理論的発見にも及ぶのでしょうか、どうお考えでしょう、アインシュタインさん、といった具合であろうか。

おそらく彼は、「科学者は、そうした責任は負いません」というに違いない(もっと厳密に言えば、科学者だけが負うものではありません、ということである)。

これは、吉本隆明が言う、科学技術の発展は誰も止められない、という「信念」と相通じている。

科学によって生み出された被害や失敗などは、どういった責任=対応をとればよいのか。吉本の言うような、ただ、「科学技術の問題は科学技術で解決するほかない」ということだけでよいのか。

私たちの心根には、おそらく科学技術への憎悪がある。それは認めよう。しかしその「嫌悪」と、アインシュタインや吉本のような「好意」は、ほぼ同じ程度に、素朴な心情にすぎないようにも思える。

つまり、科学技術主義においても、嫌悪派と同じくらい、ただそう思っているにすぎない、「信念」のようなものでしかないのではないか。

信念は理屈ではないので、議論がしにくい。

むしろ異なる信念どうしは、厳しく対立したまま、和解や妥協点などを探るのが困難である。

こうした場合、ここで再び「異人歓待論」を持ち出せば、こうした「信念」の対立が生まれたとき、力にまかせて相手を屈服させるなどして自分の「信念」の側に引き入れるのではなく、対立したまま、対立することを前提にしつつも、他者を招き入れる、そうした共生の可能性を探る、というのが、今私に言える方向性のすべてである。

アインシュタインや吉本といった、信念の異なる他者を、批判も否定もせずに、そのものとして、全面的に受け入れ、そのうえで、他者とともに生きることを模索することになるだろう。

なお、1955年3月19日、亡くなる1か月前にフランスのジュール・イサックが再び、科学的発見の責任について問いかけている。

「あなたは、あの時原子爆弾の開発を、予見しなければならなかった筈だと、考えておられます。しかしそれは可能ではなかったのです。その訳は「連鎖反応」開発の可能性は実験上の事実に基づいており、当時予感できなかったのです。」(721ページ)

そして、よく知られているように、彼の最後の署名、最後の手紙は、1955年4月11日付けでバートランド・ラッセルに宛てられた、科学者たちによる原爆反対声明、への賛同を示したものだった。
いわゆる「ラッセル=アインシュタイン宣言」である。

彼亡きあとも、彼の署名は核兵器に対する「否」を訴える運動の推進力となっていった。

今、アインシュタインの「志」は、その「魂」は、どこに鎮座しているのであろうか。


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