今日は、昨日紹介した、ジェームズ・バーバウアーの「生死の彼岸」を訳してみる。全文は難しいので、最終章だけとする。

訳した文章
Beyond Life and Death: On Foucault's Post-Auschuwitz Ethic
by James W. Bernauer
(第3章)

所収
Michel Foucault Philosopher
F. Ewalt(dir.)
Harvester
1992 (orig. 1989)


アウシュヴィッツへの旅


フーコーが何を遺したのかは、未来の世代の読者によって判ぜられるものとは言え、彼の思想は少なくとも現存する私たちにとっては、歴史や政治、倫理なしに思考するということを、一層困難にさせたことは間違いない。

いわば、たえず「レスポンス」(=応答、責任)が要請されているのである。

本論考では、フーコーの述べる倫理の全般的な説明をするのではなく、ただ一つの方向性だけを示すにとどめたい。

彼は、つねに現在史を問い続けていたなかで、『性の歴史』第1巻の第5章では、まさしく「ナチの時代」の分析を行った。

一般的な印象としても、専門家のあいだの議論においても、ナチのふるまいや言い方の残虐さ、容赦のなさは、道徳心の放棄であるかのようにとらえられる場合が多い。

おそらくその典型が、ジョージ・スタイナーである。

スタイナーこそ、こうした見方をもっとも大勢の人たちに広めている人物である。

ヒトラーはかつて「良心とはユダヤ的発明だ」と述べたことがあるが、この言及を根拠にスタイナーは、ユダヤ人絶滅(ショアー)について次のように説明する。
  
聖書に基づいた一神教や、イエスの倫理的な教え、そして、マルクスのメシアを待ち望むような社会主義といった、ユダヤ人が
西洋文化に教え込んだ「良心」という心の支えを、完膚無きまでに消し去ろうとしたのだ、と。
  
この解釈は、ナチズムが新たな行動典範として「不道徳さ」を称揚したのだ、と理解する。
  
こういった類の分析は、私たち自身が、こうしたナチの暗黒王国と道徳に近親性を持っているかもしれないという不安をかき消そうとしてはいないだろうか。
  
もし、このナチ暗黒王国の血塗られた行いが、彼らの不道徳さをさらけ出しているというのなら、私たちは、自分たちがはたして本当に善意の共和国にいる住人であるのかどうか、きわめて厳密なかたちで示し出さねばならない。
  
立ち向かっていかねばならないのは、絶滅収容所に連れてこられたユダヤ人が、所員から聞かされた言葉
「ここには何故、などない」(Hier ist keine warum)に対してではない。
  
ナチズムを一つの倫理として理解し、問い質すことである。


このことに立ち向かうべきである。

そうした追及の義務こそ、フーコーの仕事が現在生きる私たちに遺したものの一つなのだ。


このように、フーコーの倫理へのアプローチは、こうした前代未聞の悪事にかかわった多くの人びとが、何らかの道徳的な範疇において自分たちを納得させていたということを真剣にとりあげようとするものである。

ヒトラーは、ゲルマン民族だけが、道徳的な掟を行動指針にした、と何度も何度も語っている。

自分たちが道徳的に優れているということを自ら宣言したもっともよく知られている例は、おそらく、1943年10月4日にポーランドのポズナンでSSの幹部たちに向けた、ハインリッヒ・ヒムラーの演説である。
    
 *訳注 → こちらで肉声が聞けます。
    
ヒムラーは、何ら包み隠すことなく、ジェノサイドを行う栄誉について語っている。
    
「諸君だって分からない者などいないであろう。100の死体が、500の死体が、いや、1000の死体があちこちにあるのが、何を意味しているのかを。」
    
だが、続けて彼は、こうも言う。
    
「たじろがないこと、そして、人間的な弱さを捨て去り、みっともないまねをしないこと。これこそが、我々を強くするのだ、」
    
ヒムラーは親衛隊の徳性を、
「忠誠心」「忠実」「勇敢」「誠実」――こうした言葉を使って称賛し、この徳性を支えに品位を保ち続けるよう、語りかけ続ける。
      
何百万人ものユダヤ人をこの世から亡きものにしてしまうことに対して、ヒムラーは、事もなげに、
      
「我々の内面性、魂、性格、いずれにおいても、恥ずべきものなど、まったくない」
      
と言明する。
      
一般的には、こうした強面の道徳的発言をすることに対しては、自分が置かれている状況に適応するための自己防衛機制というように、心理学的に説明されることだろう。
      
フーコーの仕事が示したのは、こうした解釈をはっきりと問題視することであり、将来における研究や理解の妨げとなるということである。
      
ナチズムは、「ニヒリズム」として理解してはならない。確信的な「倫理」として考察せねばならないのである。
      
私は、このはっきりとした「倫理」について、フーコーの仕事のなかから、ただ一つのアプローチだけを、具体例として、ここで説明しておきたい。
      
      
・・・時間切れ。続きは、明日、または、いずれ。
      
      
      
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