読んだ本
アインシュタイン 平和書簡3
ネーサン、ノーデン編
金子敏男訳
みすず書房
1977年2月

ひとこと感想
ようやく3巻読み切った。3巻には訳者あとがきで「正誤表」を入れたとあるが、本書にはなかった。またこれまでの索引が3巻にまとめて付されているのも不便きわまりない。肝心な内容については、明日あらためて書く。今日は、本書の出版社に対する感想である。一体誰を読者「層」として想定したのか、本書の裏表紙にある紹介文を読解してた。
とても大切な内容をもつすばらしい本だと思うが、みすず書房が訴えるような意図には大いなる違和感をもつ本である。


平和書簡の第3巻は、年代としては、1948~55年まで、すなわち亡くなるところまでをたどっている。

確かに、こうしてみると、1914年、つまり、第一次世界大戦から第二次世界大戦を経て、戦後も原水爆禁止運動を支えるなど、一貫して、戦争を拒み、平和を望んでいたアインシュタインの「思い」は、熱く、そして、強い意志に支えられたものだったことがわかる。

その執念は、並ではない。

世の中から戦争がなくなったわけではないし、核兵器が廃絶されたわけでもないが、少なくともアインシュタインは、人類が、原爆のようなすさまじい破壊力をもち無差別にその空間とその存在物に致命的なダメージを与える武器を平然と使おうとするということは、とても愚かしいことなのだ、というメッセージを遺したと思う。

自然科学者の「良心」というのか、それとも、これが「思想」というのか、私にはまだよくわかっていないが、ここまで積極的に社会的な活動に、自らの科学的(理論的)探究と同じように携わってきた科学者は、それだけで、珍しい。

しかし、本書の裏側にある本書の紹介文を読んで、大きく困惑した。

「本書はわが国の平和に関心のある、あらゆる階層の人びとの必読書といえよう。」

違和感を抱いたのは2つある。「わが国」と「あらゆる階層」である。

「わが国の平和に関心のある」という最初の語彙をたどると「わが国の」というのが「平和」にかかっているように読める。しかし、そのあと「人びと」という名詞が来ているので、「わが国の人びと」とかかるようにも読める。あえて二重化させているようにも思えるが、少なくとも「わが国の平和」という言い方は、本書で展開されたアインシュタインの平和観とは相容れないことを指摘したい。

彼が主張した「平和」とは「国家」内の平和ではない。インター・ナショナルつまり、国際的な平和であり、かつ、国家間における平和である。

「平和」とは、国内において生じるものではなく、国家間の争いがないという事態においてはじめて獲得されるものである。

そう考えると、この文章は、おそらく、わが国の人びと」ということを言いたかったのだろう、と譲歩的に理解しておくことも可能ではある。


しかし、もう一点、看過できない問題がある。

この、「わが国の人びと」というのが、実は、「
わが国のあらゆる階層の人びと」なのである。

なぜここに「階層」が出てくるのだろうか。

私が読んだかぎりでは、この本のなかでは、「階層」にかかわる論議は一切ない。

アインシュタインは、何らかの階層に関する意識をもって「平和」に言及したことは、一度たりともない。

にもかかわらず、ここに「階層」を持ち出すのは、完全に出版社側の「意図」であろう。

ではなぜ、みすず書房(の本書を担当した編集もしくは営業の人(たち))は、ここに「階層」という言葉を挿入したのだろうか。

もしくは「階層」という言葉を入れることによって、どういった読者に読んでほしいと思ったのであろうか。

たとえば、ここに、「あらゆる階級の人びと」と書かれていたら、どうであろうか。この場合、すぐに想定できるのは、マルクス主義を信奉している場合や組合活動などで「階級闘争」を日常的に行っている場合である。

「わが国」の「平和」は、「あらゆる階層」において求められている、と、この文章を書いた人は思ったのだろうか。

この場合の「階層」は、「階級」ほどはっきりとした対立構造はもたないものの、何らかの差異をもった社会的集団が、この国には存在し、それは単に「資本家」と「労働者」といった二極対立ではなく、何層かに分かれるような集団であり、そういった人びとに、それぞれの立場をこえて、本書を読んでほしい、そういう思いが、この一文にはこめられているように思われる。

だが、やはり、しっくりこない。

この「階層」とは、たとえば、富裕層、貧困層、中間大衆層という三つの層を指していると考えてみても、あえてなぜ、こうした三層に向けて本書を読むことを勧めるのか、私には理解しかねる。

私なら本書を読んでほしい、と思うのは、まさしく私のような、あまり自然科学になじみのない人間に対して、である。したがって、先ほどの言いまわしは、私ならば、「理工系のみならず、人文社会系の人にも是非とも読んでほしい」ということを想定して書くことになるだろう。

しかし、ちょっと待て。

むしろ、アインシュタインの相対性理論や核物理学、さらには原子力工学などに従事している自然科学者・技術者にこそ、本書を読んでほしい、と「みすず書房」は思ったのだろうか。

これをもって「あらゆる階層」という言葉を使ったのだろうか。

また、もう一つの解釈の可能性がある。

確かに出版界には、「広く読者層を得たい」という言葉がよく用いられる。したがってここで言う「あらゆる階層」というのは「さまざまな読者層」ということを言いたかった、という解釈である。

だが、「さまざまな読者層」とは、具体的には、どういう「層」が想定されているのだろう。

これはおそらく、三つか四つくらいに分けられるもので、研究者や教師、出版界の人など「本を専門的に読む人」と、ふだんまったく本を読まず何か特別なことがあれば年に何冊かは買うという「まったく本を読まない人」は、すぐにカテゴライズできる。

あと、本書の場合は「アインシュタイン」「平和」「物理学」「戦争反対」などのキーワードで本を買う、自然科学系の人か、平和にかかわる社会的活動を行っているか強くこのテーマに関心のある人、こうした、本書の主題とかかわる人、も第三の「層」とみなすこともできよう。

あとは、「中間層」として、ちょっときっかけがあれば、少し硬めの本でも買う意欲のある人を想定してもよいのかもしれない。

たとえば、とりあえず、芥川賞作家の本は一度は買って読んでみる、とか、本屋の平台に高く積まれていたり、ベストセラーにランクインした本は気にする、といったような人。

1)本を専門的に読む人
2)まったく本を読まない人
3)本書の主題とかかわる人
4)中間層

仮説的に、この4つの「層」を、ここでいう「あらゆる階層」と考えてみると、おそらく、みすず書房の方々は、3)ならびに4)の人に、是非とも読んでほしい、と願って「あらゆる階層」と書いたのであろうか。

しかし、それでもなお、疑問は残る。ここには「あらゆる階層の人びと」に本書を読んでほしい、という、ささやかな願望が書かれているのではなく、「必読書」というように、強く迫っている。

要するに、本書を読まずして、「平和」は語れない、アインシュタインや物理学を学んだことにはならない、といったような、気持ちがあふれ出ている。

そこまでの本だろうか、と私は問いたい。「必読書」というのは、まだよい。だが「あらゆる階層の人びとの必読書」というのは、どういった権利があって主張しているのか、私は知りたい。

私は、本書は、あらゆる階層の人びとの必読書、ではない、と思う。

とても大切な内容をもつすばらしい本だと思うが、みすず書房が訴えるような意図には大いなる違和感をもつ本である。

ついつい裏表紙の文章が気になってしまって、本文についてふれることができなかったので、明日あらためて、「広島」やラッセルとの平和運動についてはふれたい。

アインシュタイン平和書簡 3/アルベルト・アインシュタイン

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