アウシュヴィッツ、ヒロシマ(ナガサキ)、9.11、3.11。

この四つの「出来事」を束ねて思考する一つの可能性は、フーコーの提示した「バイオ・パワー」概念にある。しかもこの概念のもっている重要な意味は、上記の四つの「出来事」を「非日常」とし、それ以外の毎日を「日常」と区別することを無意味化させている点である。

すなわち、私たちの日常は、毎日がアウシュヴィッツであり、毎日がヒロシマ(ナガサキ)であり、毎日が9.11であり、毎日が3.11である。「である」が断定的すぎるようであれば、少なくとも、そう「ありうる」、もしくは、あたかもそうであるかのように過ぎる、と言ってもよい。

バイオ・パワーとは、本来的には、これらの「出来事」のような非日常ではなく、日常をふつうに構成するためのテクノロジーである。その目的は、機能性であり、効率性であり、経済性であり、かつ、、顧客に提供するのは(基本的には)、快適性であり、清潔さであり、満足度である。

それゆえ、バイオ・パワーの「バイオ」とは「生命」や「動物」「生物」というよりは「生態」に近い。「人間」的次元(すなわちフーコーの言う近代的な認識論的な枠組みとして)ではなく、「生態」的な次元ではたらいている「力」のことである。「パワー」も、「権力」という言葉を使いにくい。「物理的」な「力」ではないが、はっきりとした一方向に、上から下へとやってくるあの「権力」ではない。むしろ、放射線や電波のような、不可視に拡散しており、場所によって濃淡があったり、いつまでも消えて無くならなかったり、ある一定量に達すると急に発病や死に至ることもあるという、「微視」物理学的な「力」である。

映画「ショアー」でもとりあげられていたが、「アウシュヴィッツ」で言えば、アイヒマンがヨーロッパの鉄道網をこつこつと調べ、見事なまでに整然と各地にユダヤ人たちを絶滅収容所に運んだテクノロジーである。

私たちの時代の「権力」概念が変わったというのは、まさにこうしたところである。アイヒマンが極悪非道の人間ではなく、小役人のような気質で、与えられたことを勤勉に遂行していた人間であったことが、戦後のニュルンベルク裁判などで衝撃をもたらしたが、ナチの倫理とは、そういうものである。責任者や犯人、動機、意図。その他近代的な法概念ではくくるのが難しい事態にある。

今では
「バイオ・パワー」は、都市計画、建築設計、商品のデザイン、こうしたことを、当たり前に、支えている。「バイオ・パワー」は日常においては、単純に「悪」と決めつけられない。東浩紀氏が「バイオ・パワー」を見事に「環境管理型権力」と言い換えたように、何ともあやふやであいまいなものであり、私たちはその大半を、とりあえずやりすごせば、それでいい、と思っているようなものである。

しかし、フーコーがおもしろく、かつ、疑問を残した点は、こうしたバイオ・パワーが、かつての権力にとって代わられたとは言っていない点である。

かつての権力、それは「ディシプリン」権力に代表される。

1970年代から90年代くらいまでは、もう一方の「個別」に(主に身体に向けて)作用する「ディシプリン・パワー」の方にばかり目が向いていたのは、バイオ・パワーのテクノロジーがまだ成熟していなかったせいもあるが、同時に、当時の「権力」論が、どうしても、従来型の権力は抑圧するもので、自分は無理やり権力者によって何かを「させられている」という事態を招いているという発想から抜け出せなかったことの方が理由としては大きい。

しかし2011年3月11日以降、今や、完全にバイオ・パワーの時代である。

こうした時代認識は、割合、納得がゆくのではないだろうか。

しかし、今一つすっきりしないのは、バイオ・パワーのなかで生きる際に問われる「倫理」である。

ディシプリン・パワーを支えてきた「倫理」もしくは「権力」の発生は、ヘーゲルの主と奴の弁証法の記述によって正確に表現されている。主人は、奴隷を殺さずに生かしたままにすることによって自分を主人として認めてもらう。この場合、「死なせる」という選択肢を主が握ったうえで、実際には「生きるままにしておく」という点が重要である。

これに端を発して、近代市民社会の倫理は構成されていると言ってよいであろう。

これに対して、バイオ・パワーの場合は、基本が「生きさせること」にある。そして、それが不可能になったとき、「死へと除去」される。

テクノロジーとしては、私たちは、今なお、この二つ、つまり、ディシプリン・パワーとバイオ・パワーの両者が作用している世界に生きている。

そのなかで、ディシプリン・パワーは明らかに非難の対象となっている。とりわけ管理教育批判というものは、この典型例となるであろう。ディシプリン・パワーは押しつけの「道徳」を提供するばかりで、それ自身が否定的な扱いを受けてきた。

しかし他方では、
基本が「生きさせること」にあるバイオ・パワーが、さまざまな局面で倫理を形成していたことに気づく。

犯罪において死刑が廃止される傾向にあるのは、「人道的見地」(=倫理)においてではなく、「生かしたままにする」という倫理観があっての話である。医者の使命が「延命」にあり「尊厳死」をなかなか認めないのも「モラル」の問題ではなく、
「生かしたままにする」という倫理においてである。学校がいじめを苦に自殺する子どもののことに、きちんとかかわることができないのは、自分たちの使命が「生かしたままにしておく」ことだからである。

よく誤解されるが、絶滅収容所でさえも、労働可能なユダヤ人は「生かしたまま」にされていたのである。そして、労働が不可能になった時点ではじめて「死のなかに廃棄」されたのだ。

この両者の大きな違いは、「死」である。バイオ・パワーでは、「死」が軽視されている。もしくは、ないものとして扱われている。「死」は、その人の生き方や他者との関係のとり結び方と深くかかわっている。

しかしバイオ・パワーでおおわれているような場所や制度、空間、施設などにおいても、倫理は、微妙なものとなる。

バイオパワーは、「主」と「奴」の関係を前提としない。強いて言えば、自分たち(たとえば消費者、クライアント、コンシューマー、カスタマー、ユーザー、市民と言われる)の方が「主」に近い立場にいる。にもかかわらず、「主」であろうとしない。「主」であることの「責任」を放棄しているとも言えるし、「主」であることの「権力」を放棄しているとも言える。

いずれにせよ、私たちは「主」を殺した。失った。自分たちの手で、殺した。

では、私たちは、「主」から、「権力」から、自由になったのか?

いや、違う。

いっそう、「不自由」になり、いっそう、「抑圧」(言い知れぬ不安感)に悩まされているのではないだろうか。

決定的に異なるのは、その原因が「主」にないということが分かってしまったことだ。

原因は「バイオ」「生態」「環境」にある。

今の私たちは、主や他者によってではなく、自ら不自由になり、自ら抑圧されるよう、努力をする傾向にある。

そして、最初に話は戻るが、主と奴の弁証法とは、言い換えれば、市民社会を根底で支えるものであり、他者を承認することによってはじめて自己のアイデンティティが形成されるという意味では、「自我」(ヘーゲルなら自己意識)にとってなくてはならない契機である。

「主」を失った私たちは、すなわち、自分たちのことを承認してくれる「他者」をも失うことになる。

それとも、すでにそうした「他者」との相互承認のプロセスに入ることを断念し、ひきこもることを選択しはじめているのだろうか。だが、そこには倫理はないように思える。かといって、ニーチェがあいまいに示したような「超人」という一つの「倫理」もしくは「主人道徳」が成立するようには、私には思えない。

バイオ・パワーにおける「倫理」とは、何であろうか。

残念ながら、バイオエシックス(生命倫理)においては、単に先端テクノロジーの生命への介入の限度の策定などを目的としており、バイオ・パワーにおける倫理といった問いを問うことができないのが現状である。

私は、主なのだろうか、それとも、奴なのだろうか。そう問うこと自体が、もうできなくなっているのだろうか。



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