さて、吉見俊哉は、この本「夢の原子力」で、何を伝えようとしているのであろうか。

第II章をみてみる。

彼の原発に対する理解は、シンプルである。

原爆被害をもたらした日本に対して、米国は、原発を推進させることによって、上塗りしたということが基本になっている。

「アイゼンハウアー大統領のアトムズ・フォー・ピース政策には、豊かな生活をもたらす安価な新エネルギーの開発と供与というだけではない、特別な政治的含意があった。それは、広島、長崎の忘却、より正確にはその意味の転換である。」(122ページ)

この動きを推進する役目をはたしたのが、読売新聞と正力松太郎である(もちろんこれは国内の話で、実はもっと「グローバルな地政学」(168ページ)が根底に存在したと吉見はとらえている)。

ここで、吉見は、原子力関係の展覧会の分析に入る。

関連する展覧会のさきがけは、1949年、銀座松屋で開催された「ウラニウム公開展」で、これは「CIEの指導で企画された広報事業」のようだが、詳細は不明とのこと。

このあとに、1954年8月、新宿伊勢丹で「だれにでもわかる原子力展」、続いて、1955年5月、日比谷公会堂で「原子力平和利用大講演会」が開催されるが、いずれも読売新聞が仕掛けたものである。

特に後者は、東京以外にも進出しており、1957年8月まで、名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台、水戸、岡山、高岡でも行われる。

一通り主要都市を回っているようにみえるが、二つの例外がある。高岡と水戸である。高岡は、正力の出身地であるからなんとなく察することができるが、水戸はどういう経緯であったのか。これを吉見は東海村の原子炉建設との並行関係があったと指摘する。なるほど、納得。しかし、広島で行われて、長崎で行われなかったのはどうしてだろうか。福岡で開催したからそれでいいということなのであろうか。これには吉見は答えていない。

それはさておき、実際の展覧会の内容や出口で行われたアンケート調査の結果、識者によるコメント、読売新聞(東京)や中日新聞(名古屋)、朝日新聞(京都、大阪)、西日本新聞(福岡)、北海道新聞(札幌)、河北新聞(仙台)、中国新聞(広島)の記事などをもとに、当時の様子や人々の反応を吉見は概観する。

おもしろいのは、朝日新聞主催の展覧会に対しては、当時の識者(梅棹忠夫など)もやや批判的なコメントを載せていたことである。

広島の場合、わざわざできたばかりの平和記念資料館と平和祈念館に展示されていた原爆資料が、この展覧会の会期中、基町の公民館に移管されたという。この空間的なすりかえは、象徴的で、言説において行われた「原爆被害」から「原子力の平和利用」へのすりかえを想起させるものだ。

この展覧会を通じて各マスコミは、一つのレトリックを成熟させていった、と吉見はみている。それは、一言で言えば、「過去のことにこだわっていると、成長に乗り遅れる」というレトリックである。

レトリックとは、つまり、飛躍した論理をもった説得話法ということである。

原爆による被害の実態や原因、そして、歴史的、政治的意味などを深く掘り下げようとせずに、「水に流して」、未来に向けて、他国に追いつくために、他国が進めている原子力の夢に自分たちも乗らねばならない。そう国民の多くは感じたのではないか、というのが吉見の見解である。

いつまでも原爆のことにこだわっていることは、「遅れている」とみなされたのだ。

「割り切り」が必要で、原爆のことと、原子力の平和利用とは切り離し、科学的、客観的にものごとをとらえるべきだ、というレトリック。これは今から見れば、「割り切り」の「道理」ではなく、適当、曖昧ということのようにも感じられるが、当時は立派に機能していたのである。

なお、広島では1958年4月に、広島復興大展覧会が開かれ、ここでも再び「原子力科学館」が建てられ、人気を博したという。

吉見はこれを広島に対する国と米国による歴史の塗り変え、つまり「原爆被害」の都市を「平和」を願う都市にしてしまうプロモーションの一環ととらえている。これはこれで頷けるが、もう一つ、吉見は書いていない重要なことがある。それは、広島における放射能の実際の影響とその理解である。

いくつかの原爆の影響による放射能被害の実態調査の結果をみると、広島、長崎においては、それほど放射能の長期的な影響がみられなかった。いや、正確に言えば放射能の影響を受けた人たちは、一方では即死に近い状態ですぐに亡くなられたか、もしくは、しばらくしてから発病し亡くなられたのだが、いずれもそれが「放射能」の影響だったということが、はっきりと示されなかったのである。ただ、水や大気、植物などの環境に対する影響が、思った以上に少なかったのである。これは、爆風の影響で地上よりも上空に飛ばされたと説明されている。もちろん環境中の放射能は、当日からおよそ1ヶ月ほどのあいだは、かなり数値が高かったが、その後の影響をみると、現在のフクシマの事故の方が圧倒的に高いのである。

つまり、当時の原爆被害は、破壊力の高い「爆弾」によるものではあったが、放射能被害に対する意識がきわめて薄かった。

これを私は、「被爆」と「被曝」という言葉で理解する。つまり、ヒロシマ、ナガサキは「被曝」ではなく、「被爆」とみなされた、ということである。単純に言えば、被曝を被爆と書くことで、放射能被害は隠蔽されるのだ。吉見は、本書では、「被爆」という言葉を使って、ヒロシマ、ナガサキを語り、しかも、第五福竜丸事件やフクシマでさえも、3度目、4度目の「被爆」と呼んでいる。少なくともフクシマに使うべきは「被曝」であって「被爆」ではないのではないだろうか。これは、吉見の無意識的な誤認のように思われる。

なお、同時代に国外でも多数の「原子力博覧会」が行われたそうである。30カ国以上、数千万人が入場した。つまり国内のみならず、米国は国際戦略として、このプロモーションを大々的に展開したということに気づかされる。こうした吉見の行き届いた遠近法は、大変有難い。

(つまらない指摘であるが、169ページに、ドイツでの巡回先が記載されているが、以下が正しいのではないだろうか。コローニュ → ケルン、 ボーカム → ボーフム、シュツトガルト → シュツトガルトもしくはシュトゥットガルト

この博覧会では、アニメ映画「A is for Atom」を上映していたという。吉見は土田由香のデータを引用して、「原子力に関するUSIS映画は1959年までに50本以上が製作され、33カ国に翻訳されて80カ国で上映されたという。日本で59年までに公開されたのはこのうちの約20本で、その公開が集中したのは55年から56年にかけて、つまり原子力博と同じ時期」」(175ページ)だという。

この土田の論文はおもしろそうである。機会があったら読んでみたい(吉見編『占領する眼・占領する声』東京大学出版会、2012年)。また吉見が引用する、吉原順平『日本短編映像史』岩波書店、2011年、吉見他編『岩波映画の1億フレーム』東京大学出版会、2012年など、も興味深い。

1957年に、「日本原子力研究所 第1部」という記録映画がつくられた。製作は、新理研映画というから、あの「理研」のメンバーと何らかのかかわりがあるのであろう。1960年には第2部、1961年には第3部がつくられるなど、記録映画に目を向けたのは、大変に興味深い。なぜならば、記録映画は、商業的な記録に残らず、ひっそりと、学校の体育館や町の公民館などで上映されたからである。その数、その影響は、決して無視できるものではない。

これらの映像に対して吉見が抱いた感想は、「これらの記録映画が、原発を巨大ダムと同じような視点で捉えて」(182ページ)いるというもの。妥当であろうけれども、可能性として、壮大な自然と巨大技術の格闘をアナロジーに映像化されているのは、製作側が同じようなシナリオ、演出をもとにして双方を製作したからのようにも思える。どうなのだろう。

さて、まとめに入る。

吉見がこの章で強調するのは、1950年代における原発推進の重要なPRメディアは、原子力博、と、記録映画、だということである。

確かに私たちは、原子力に関する言説を追いかけるとき、どうしても「書かれたもの」しかも、歴史的にすでに正統づけられているもの、特に、文学や絵画を中心に扱い、その周辺に、映画やマンガ、音楽といった「作品」の分析を行うことに専心してしまう。

ここで吉見が訴えていることは、「社会」への影響という意味で、実は、こうした芸術作品として一般的に定着したものよりも、PRメディアとして、PRイベントとしてその当時にその空間、言説に占めていた「力」として、博覧会や記録映画という、逆にあまり「歴史」的に記録に残りにくいものこそ、重要な意味をもっているということであった。

そうなのだ。1953年のアトムズ・フォー・ピースは、こうした宣伝広報のあとに、やってくるのである。

しかも、先ほど提起した問い(原爆被害の記憶がなぜ簡単に原子力の平和利用に結びついたのかの次に、重要な問いがもう一つある。それは、第五福竜丸事件の影響である。

第五福竜丸事件については、明らかに「放射能」の影響、しかもそれが人体のみならず、マグロその他の食料にまで深刻な影響をもたらすことを、まざまざと世間に伝えた。それゆえ、大きな市民運動が展開され、さらに、ヒロシマ、ナガサキの問題をよみがえらせ原水爆禁止運動が起こるのだが、それでもなお、これらの問題が
、「核の平和利用」とは異なるものとして、あくまでも「核の軍事利用」の負の影響ととらえられた理由がはっきりしない。

しかも、吉見も指摘するように、この時期の、原水爆禁止運動は、基本的に米ソ対立を前提として形成されており、原水爆禁止を訴えることとソ連を支持することが、結果的に連接されていたところがあったことは否めない。

だが、保守陣営がそのようにして「反核」が「党派性」に集約されたことは、それは「党」としての社会党なり共産党のとりこみであったとしても、原水爆禁止に対する感覚が、広く支持されなかったわけではない。むしろ、保守陣営であっても、基本的には、共通の思いがあったことが当時のアンケート調査の結果が示している。

しかし問題なのは、先述したように、なぜ、「軍事利用」に対してこれほどまでに過敏に反応しておきながら、原発には「無関心」だったのか、である。

吉見は言う。

「戦後日本では、この原子力の両義性が、「原子力平和利用」と「原水爆禁止」を共に支持する世論のなかで曖昧化され、二つの異なる「原子力/核」へと分離していくのである。」(194ページ)

もちろん、原爆と原発はさまざまな意味において、異なる。しかし、大事なのは、双方の共通点であり、それは、すさまじい力をもっているということと、放射能の影響は深刻でありながらまだ十分に私たちはそれに対処できるだけの知恵がないということである。このことを忘却するような原発の反対も推進も、あってはならない、と私は思う。

以上、第二章の内容をもとにコメントを書いてみたが、あらためて思ったのは、カルチュラルスタディーズは、コンテクストを重視するあまり、概念や語彙にあまり注意を払わない傾向があるのではないか、ということである。被爆と被曝のちがい、地名表記の誤りなど、気になる点がいくつかあった。どうもフーコーの歴史分析を学んだ人間からすると、ここに大きな違和感を抱いてしまう。


第3章は、また、明日。


読んだ本

夢の原子力――Atoms for Dream
吉見俊哉
ちくま新書
2012年8月


目次
序章 放射能の雨 アメリカの傘
第I章 電力という夢――革命と資本のあいだ
第II章 原爆から原子力博へ
第III章 ゴジラの戦後 アトムの未来
終章 原子力という冷戦の夢


占領する眼・占領する声: CIE/USIS映画とVOAラジオ/著者不明
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