4/30(火)
 
圓山水神社のあとは、片倉佳史さんのDiscover Taiwan 「片倉佳史が訊く、30年前の台湾」シリーズへ。
 

 
今回登壇されたのは藤重太さん。藤さんは1986年に、留学をきっかけに台湾へ。それ以来、両国のビジネスコンサルタントなどをしています。
 
走り書きレポ↓
 
・台湾で外国人がビジネスをしたいとき、いきなり行ってもうまくいかない。政治とビジネスは切っても切れない存在で、政治家と顔見知りになっておくことが、ビジネスをする上で信頼になる。
 
・馬英九(国民党)や陳菊(民進党)と撮った写真も紹介し、「青とつき合ったら緑ともつき合うこと」。これは外国人の保険のようなもので、台湾でビジネスをするにはこういうセンスが必要。
 
・台湾に留学する前、「日本で中国語を勉強しないで」といわれた。これは、日本で中国の中国語を勉強してくると、共産党側とみられるから。
 
・「中国語がうまくなりたかったら、毎日バスに乗って、違う場所に買い物に行け。数字を聞き取れるようにしろ」当時は殺価が当たり前、人と話さないと生活できなかった。
 
・糸井利則さんの誘いで、東海岸の南澳にある原住民タイヤル族の村へ。待合所の会話が全部日本語で驚いた。
 
・「蛍の光」を歌ったら、涙を流して喜んでくれた。
 
・日本時代、原住民は、政府が管理しやすいように、山奥から町へ強制移住させられた。それで、隣の家の人が別の村・種族の人、ということがよくあった。ここでコミュニケーションツールになったのが日本語だった。
 
・「キップ」や「扇風機」などの、もともと現地の言葉にないモノは、日本語のまま使われるように。
 
・村のおじいちゃんおばあちゃんたちは、次の世代と言語が違うので、コミュニケーションがとれない。テレビは水戸黄門や暴れん坊将軍。
 
・山の子どもたちは、国民党教育(反日教育)を受けているので、祖父母の態度と学校で教えられることのギャップがわからない。子どもたちと仲良くなると、必ずこれを聞いてくる。それを北京語で説明できなければいけない。
 
・戒厳令時代、山は立ち入り禁止、自由も仕事もなく、若い女の子たちは台北の赤線地帯に売られるということもあったらしい。
 
・台北に初めてMRTができたのは、1996年。これは、国民党政府が本気で中国に帰るつもりで、台湾のインフラ整備なんて気にしていなかったことの表れ。いまでも中華民国政府は、首都は南京と思っている。
 
・戒厳令下、外国人はずいぶん冗談で脅かされた。「総督府の前でいきなり走り出すと撃たれる、カメラを取り出すだけで没収」「夜11時以降、外国人が外を出歩くと捕まる」など。
 
・花蓮女学校に、日本時代の教科書が発見、保存されている。
 
・台湾大学の国際経済学部というと、台湾ではトップエリート。30年前は台湾人50人、華僑が20人、あと日本人1人、南アフリカとか外国人が少し。外国人枠というのがあり、台湾人よりは入学するのが簡単。これは国交のない台湾の国際交流のため。
 
・戒厳令下とはいえ、バブルでお金はあった。みんな日本語を学ぼうとしていた。19歳で新荘の婦人大学の講師をやった。生徒はみんな年上。飲み会で台湾の酒の飲み方を教えてもらったり、とても役だった。
 
・当時、マクドナルドで時給が50元くらい。日本語講師は破格の時給600元。バブルの恩恵で、当時流れ者みたいな日本人でも仕事はあった。でもそういう日本人は、今はもうどこにいるかわからない。
 
・33年前、日本人だとわかると、元日本軍人のおじいさんから敬礼されるような時代だった。
 
・知らないおじさんから、「うちの祖父母が日本語を話したがってるから」と、よく家に呼ばれた。家に行くと、昭和天皇の御影があったり、教育勅語や歴代天皇をそらんじたりした。
 
・親日というのは、日本時代の遺産。だから今を生きる私たちに何ができるのか、考えなくてはいけない。
 
レポ、続きます。
 
 
 
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