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雙連にある田園城市風格書店の地下ギャラリーを貸し切って開催された、台湾在住作家・片倉佳史さん、片倉真理さんによるトークイベント「Discover Taiwan Week」。
 
 
おもしろそうな講座、いくつか参加してきたので、走り書きですが少しずつレポっていきます。
 
まずひとつめ。
 
「30年前の台湾シリーズ」の、杉中学さん編。
 
はじめに、片倉さんから説明が。
30年前(~戒厳令下)の台湾というのは、台湾の歴史を学ぶ上で盲点になっている。というのは、多くの書類は破棄あるいは改竄されている上、悲惨な時代だったため、台湾の人もあまり話したがらないから。
 
そこで、多少なりとも自由のあった外国人の立場から、知られざる台湾を語ってもらう、というのがこのシリーズの趣旨。
 
 
・杉中さんは1979年に、留学生として来台。
・当時は街中に銃を持った兵隊がいるような、戒厳令まっただ中。なので政治の話、中国製品・写真・ニュース、あと男性の長髪もNG。
・バスに乗れば、「密告奨励」の文字。
・もちろん表向きには日本語も禁止なので、日本の新聞は日本人駐在員のあいだでこっそり回し読みしてから焼却処分していた、という。
・TV局も、中視(国民党)、華視(軍)、台視(政府)の三つしかなかったそうで。台湾のメディアには外省人が多いっていうのは、そういうことだったのか。
 
・家庭電話には「長距離電話は共匪に盗聴されるので国家機密は話すな」という注意書きがあり、国際電話は三分も話すと雑音が入り始める
、なんてこともあったらしい。
 
・当時の台湾の旅行ガイドブックの写真も。そのころ、台湾は「男性天国」と呼ばれていた(要するに買春ツアーのことか)。でも日台の国交がなかったため、台湾に飛行機を飛ばすために作った「日本アジア航空」という幻の航空会社があったとか、当時、ツアーガイドの人は必ず中正記念堂に行かなあかんかったとか。
 
・西門町は昔から若い人が多かったが、退役軍人もたくさんたむろしていた。それは、若い台湾人なら北京語がはなせてコミュニケーションがとれるから、という事情もあった。
 
・白色テロを理解する上で大切なのが、台湾人に対する迫害ではなく、蒋介石一族による反対派の粛正だった、という点。だから、外省人にも被害者はたくさんいた。
 
・いまほど外国語は通じず、コンビニも券売機も自販機もなく中国語ができないと、生活できない時代。でも手紙を片手にポストを探してウロウロしてたら、おじいさんが日本語で話しかけてきてくれたりとか。
 
・映画の前には必ず国家(三民主義)が演奏されていた。
 
・運転免許証を取るのが、当時日本円で約三万円くらいだった。
 
・昔の台湾の衛生観念の話もあった。80年代、B型肝炎が大流行して、キャリアは60%とも言われていた。片倉さんが来台した際は、「とにかく手を洗え」とか、「果物は切ってあるやつは買うな」とかいわれまくったという。
 
・そのころ、デザートと言えばパパイヤミルク。マンゴーかき氷が出てきたのは最近のこと。
 
・鉄道員は客家人が多かった。鉄道は様々な人が利用するので、マイナー言語も話せる客家人なら、幅広く対応できるから。
 
貴重な写真資料も。
 
 
市バスの切符
 
 
鉄道の切符
 
 
映画のチラシ
 
 
以三民主義統一中国、、、戒厳令の後半になっても、中華民国勢府はあくまで大陸に戻ることを目的としていて、台湾なんて正直いってどうでもよかった、という話。
 
 
台湾の昔の紙幣。馬祖島だけで使える判子が押された紙幣もあったとか。
 
杉中さんの話の合間に、片倉さんが絶妙な解説を入れてくれるのでとってもわかりやすかった。
 
「台湾がこれからもずっと親日であってほしい。そのために、私たち一人一人に何ができるのか、考えていきたい」という言葉でしめくくられました。
 
レポ、続きます。
 
 
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