偏っているとは、どういうことか | “迷い”と“願い”の街角で

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インターネット上でメディアの報道姿勢を「偏向」と批判する様子は珍しくなくなりました。
特に、先日の兵庫県知事選挙では、それまで知事を糾弾していたメディアに対する「偏向報道」との批判が強い追い風となったように感じます。

とはいえ、人それぞれ考え方がある以上、意見が異なることをは当然です。
それならば、批判されるべき「偏向」とは一体どのようなものなのでしょうか。

特定の結論を導くために、それに反する事実を意図的に無視する、容易にできる事実確認を怠る、確かでない事柄を事実であるかのように扱う、無理筋な理屈でこじ付けるなどは、まさに偏向報道というべきであり、これまでも問題視されてきました。
これは重大な人権侵害であり、決して看過できません。

しかしながら、昨今の「偏向報道」批判をみていると、それに限らず、自分の意見と異なる論調を取っているだけで「偏向」と批判している場合もあるように感じます。
そして、意見の相違を受け入れず、対等な土俵に立たず、内容の吟味に入らないままに「偏向」の一言で相手を切り捨てようとする、まさに排除のツールとして利用されているのではないかと思います。

これに限らず、昨今、インターネットを中心に、内容のある議論や検討を避け、一方的に相手を排除するような理屈や論法ばかりが進化しているように思えてなりません。
壊すばかりで、後ろに守るものはなく、先に生み出すものもない、そのような論法が幅を利かせ続ければ、取り返しのつかないことになるのではないでしょうか。

(追伸)
以前家族で訪れた草加市に、11月に今度は仕事で訪れました。
前には車で通り過ぎただけの草加松原を、仕事の合間の僅かな時間でしたが、見て回ることができました。