マウンティングの否定は存在価値の否定:マウンティング亡国② | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

勝手に他人に上から目線の助言や批評をした上に、聞き入れられないと怒り出す。
このようなことをされた経験はないでしょうか。
勝手な助言は単なる「お節介」といえるかもしれませんが、なぜ怒るのか、不思議に感じていました。

内田樹とウサビ・サコ著「君たちのための自由論」の中で内田氏は、マウンティングが優先されがちな日本の組織の特性を指摘しています。

この社会で、ややもすればマウンティングが何よりも優先されると考えたとき、人がマウンティングのみに自分の存在価値を見出すと考えたとき、上述の理由が分かったような気がします。
その人にとって、助言や批評によるマウンティングは、自分の存在価値を示す行為であり、これを拒まれることは、自分の存在価値を否定されることにほかならないからです。

しかし、このようなマウンティングが蔓延した社会は、決して健全とはいえません。
マウンティングを目的とした場合、自分の言い分を相手に認めさせることが最も重要となり、相手の言い分を聞き入れることや、自分の言い分に誤りがあった際にそれを受け入れ、改めることは、屈辱的な敗北を意味します。
行き着く先は、自分の言い分を暴力的に叩きつけ合うだけのマウンティング戦争です。
そこには、異なる考えを受け入れ合う相互理解も、多様な視点の融合による創造・発展もなく、破壊と分断だけが生じます。

マウンティングは、社会全体に蔓延すれば、単なる礼節の欠如にとどまらず、社会を引き裂く大きな弊害をもたらすもののように思われます。

(追伸)
年末年始は実家の東京都練馬区と義実家の埼玉県宮代町を行き来しました。
練馬区では石神井公園の池で子供と久しぶりにボートに乗りましたが、ボートから見える景色は普段と違い新鮮でした。