“迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

タイトルを「D-Words-easy」から「“迷い”と“願い”の街角で」に変えました。これからも、少しずつでも、社会や人などについて、ふと思うことを書いていきたいと思います。大したことは出来ないと分かっていても、それでも道を進むため、少しでも何かを紡ぐため。

以前からドラマ「孤独のグルメ」シリーズが好きで、よく観ていたのですが、ようやく動画配信で「劇映画 孤独のグルメ」を観ることができました。
ドラマとは全く趣が異なるのですが、確かに「井之頭五郎」の物語として成立していると感じられた点、演じる松重豊さんやスタッフがこのキャラクターを大切に育ててきた賜物でしょうか。

井之頭五郎が劇中で関わった事柄で、一つ、どのように向き合っていくのか気になっていたものがありました。
詳細は書きませんが、それが明らかになったとき、何とも「井之頭五郎」らしいと感じてしまいました。
一線を越えて踏み込まない一方で、その中で可能な最大限の優しさを配る、そのような大人の魅力が表れていました。

様々な味わいが溶け込んだ深みのあるグルメ、それは人生と通じるように思います。
その美味しさを伝えてくれる映画に感じました。

(追伸)
7月に所用のついでに訪れた板橋区の浮間公園、そこまで暑くない日で、風車と池が印象的でした。









当初は絶大な支持を集めていた高市政権ですが、最近支持率が落ちてきているようです。
支持する理由も、支持をやめた理由も人それぞれなのでしょうが、特に国民の意見を十分に聞かないような形で強行された皇室典範の改正等が影響しているといわれています。

女性天皇を容認する世論が強い中で、それを否定するような改正が行われたのは確かですが、問題はその内容だけではないでしょう。
皇室典範の改正において、高市総理の国民を巻き込むようなリーダーシップはあまり発揮されていたようにはみえず、むしろ、麻生氏を始めとした重鎮の政治家が主導し、密室の中で決まっていったような印象を受けました。
また、熊本地震の避難所の視察では、特に充実した場所を短時間訪れ、現状に肯定的な意見のみを聴き、より劣る環境で避難している国民の苦境を把握・共感する姿勢が見られなかったように思います。

一部の「偉い人」が重要なことを国民の声を無視して密室で決める、「偉い人」が都合の悪い情報を聞きたがらず、周囲の人が耳に入れないように四苦八苦する、これらは昭和・平成に見られてきた、そして令和では消えつつあるはずの悪しき風習にも思えます。
そして、高市総理は、こういった悪しき風習から最も遠いところにいて、これに囚われない政治を行ってくれると期待されていたのではないでしょうか。

今、鈴木博毅著『「超」入門失敗の本質』を読んでいますが、リーダー層が自身の考えに固執し、現場の実情を軽視・無視し、一方的に物事を決める硬直的なあり方は、戦前から脈々と日本に巣食った病といえそうです。
高市総理の国家観を評価する声が以前から根強かったように思いますが、国家観以前に、生身の人間が織り成す社会で、人々がどう生きていくのがよいのかを考えなければならないように思うのです。

(追伸)
6月に訪れた富士見市の水子貝塚公園と山崎公園(せせらぎ菖蒲園)です。
水子貝塚公園では、展示館・資料館のほか、再現された縄文時代の竪穴住居があり、自分達の足元に重なった歴史を知ることができる、よい場所だと感じました。
山崎公園(せせらぎ菖蒲園)では、菖蒲はやや早かったものの綺麗で、また、紫陽花等も楽しめました。































神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員が入所者19人を殺害した事件から10年が経過し、特集する報道も多くみられました。
報道で提起されていた問題意識として、この事件の犯人による「重度障害者には生きる価値がない」との主張に同調する声が社会に少なからずみられているということがあります。

結論からいえば、誰に対しても「生きる価値の有無」を問うこと自体が誤っていると思います。
「価値」は人が頭で考えた産物に過ぎず、そもそも物体のように当然にあったりなかったりするものではありません。「価値」は人が意図して見出すものです。
それでは、あえて「重度障害者には生きる価値がない」と見出す理由は何でしょうか。

この社会では、これまで長らく、誰もが「生きる価値」を問われ、度々否定的な評価を受け、「自分には生きる価値がある」との証明を求められ続けてきたのではないでしょうか。
特に就職氷河期において、その世代は「お前の代わりはいくらでもいる」というような存在価値を否定するようなメッセージを浴び続けたといわれます。

その存在価値を自ら証明できない人はどうするのでしょうか。
自分で自分の価値を証明できない場合、排除される順位を下げるため、自分より価値が低い者、価値がない者がいることを主張するしかなくなります。

これが蔓延ると、ますます自ら価値を証明することは難しくなります。
なぜならば、他人の価値を認めることは相対的に自分の価値を下げることになるため、自分の価値を主張すると、それに対して多方面から攻撃が加えられがちになるからです。
これにより、自分の価値の証明は、主に他人の価値を落とすことによって図られるという悪循環が発生します。

これでは、誰も幸せになれません。
常に自分の価値を証明することに苦しみ、否定されることに怯え、絶望する、足を引っ張り合う、蹴落とす、多かれ少なかれ皆がその地獄に囚われます。
その地獄から抜け出すには、生きる価値があるかどうか以前に、生きる価値の有無を問うこと自体を捨て去る必要があるのでしょう。

皆に生きる価値があるというような綺麗事でもありません。
皆が生きる社会のため、歪んだ呪縛を少しでも断ち切っていく、そのような覚悟が求められているように思います。

(追伸)
5月のことですが、長野での仕事のついでに善光寺に立ち寄りました。
初めての訪問で、想像以上に規模が大きく、また、内部の神秘的な雰囲気に圧倒されました。



















誰かを支えたり、助けたりする人が恨まれたり、憎まれたり、最悪は危害を加えられたりする、あり得ないこと、あってはならないことと多くの方が思うのではないでしょうか。
しかし、過去には、訪問診療の医師が、保護司が、ケアマネージャーが殺害されています。

私自身、仕事で相談対応をした経験がありますが、支援するような立場の人への苦情を数多く目にしてきました。
苦情を寄せる人は、立場上支援は当然なのに、その支援が自分の思う程度・内容に至らないとして、強い憎悪を向けます。
法律等で当然受けられる内容の支援であれば、それが実施されないことは問題ですが、求める内容がそれを超えているにもかかわらず、行われて当然と主張されることも珍しくありません。

根底にあるのは、満たしてもらって当然という幼子が親に向けるような甘えのように感じます。
そして、その甘えが満たされない時、それは激しい憎悪へと変わります。

さらに、支援する立場にいる人は、立場上、対象者に寄り添う責務を負っているため、憎悪や敵意を向けても、同等の憎悪や敵意が返ってくることはなく、極論、害をなしても反撃される可能性が低いといえるでしょう。
端的に言えば、攻撃しても反撃されるおそれが低く、安心して危害を加えることができます。

しかし、このようなことが続けば、社会を支える支援のつながりを保つことができません。
この社会が存続できるよう、善意を守り、悪意に立ち向かう方法を考え続けなければならないのでしょう。

(追伸)
5月に家族で富士見市の難波田城公園を訪れました。
中世に難波田氏の城館があった場所に整備された歴史公園で、水堀、土塁等が復原された「城跡ゾーン」、明治初期の古民家が移築・復原された「古民家ゾーン」、そして資料館と、想像以上に充実したスポットでした。



















昨年の衆議院議員選挙あたりから外国人問題が急に広く取り沙汰されるようになりました。
日本社会の秩序や常識の外から入ってくる方々ですから、摩擦は当然発生するでしょうし、悪意で秩序に反する行為をする者も皆無ではないのでしょう。
これらに苦慮していた従来から日本社会で暮らす方々からすると、課題として広く認知されたことは前進といえるかもしれません。

しかし、昨年以降のこれらの動きは、本当に「課題」の解決につながるものでしょうか、そもそも解決を目指して行われているものなのでしょうか。

外国人問題が声高に叫ばれる一方で、日本社会の中で良識を持って平穏に暮らしている外国人が犠牲になったり、排除されたりするおそれが指摘されてきました。
また、外国人問題を指摘しつつ実際に行われる行動が、問題の解決どころか新たな問題を引き起こす可能性もあるほか、最悪の場合、差別やヘイトの名目として使われ、闇に潜み反撃の危険もある本当に対処すべき相手でなく、反撃の可能性が低い分だけ安心して攻撃できる普通の方々が標的されるおそれもあります。

対処すべき問題があることを、誰かに怒りをぶつけて憂さ晴らしをする名目にせず、あくまで問題の解決を目指していかなければなりません。
問題の解決のため、誰かが不利益を被ったり、我慢したりせざるを得ない場合もあるでしょう。
しかし、これは問題の解決のために必要最低限のものでなければならず、また、可能な限り避けるための努力と配慮があってこそ正当化されます。

どのような名目があるとしても、誰かの不幸や排除それ自体を望むような社会であれば、それが実現したとして、その先に幸せを生むとはとても思えません。
誰かの不幸や排除を目指すことを絆とした社会は、それが実現したとき、絆を保つために新たな不幸と排除を探すでしょう。
果たしてそれが生きやすい社会でしょうか。

(追伸)
5月のゴールデンウィークの頃のこととなってしまいましたが、家族で埼玉県日高市の醤油工場を見学した後、近くの牧場では牛と触れ合いました。
餌をあげた際、牛に手を舐められて、可愛いと思いつつ、「つまり、これが牛タン…」と頭を過って少し複雑な気持ちになりました。
帰路にはさいたま市の与野公園に立ち寄り、見頃のバラを観賞できました。















先般、自民党所属の国会議員が国会前デモを「ごっこ遊び」 と揶揄して批判されました。
その発言は、「国会に集まってペンライト振って、それで政権は変わらない。厳しいことを言うようだが、ごっこ遊びにしか見えない。本気で政治を変えるんだったら、今すぐ政党を作って、人々の支持を集めて打って出ればいい。それをやらないで、言葉だけで高市はおかしいと言うのはいいが、やはり、ごっこ遊びの域を出ない」というものでした。

典型的な「上から目線」で、人を見下した、非常に侮辱的な物言いと感じます。思い上がりから来る、気取りの入った冷笑・嘲笑の姿勢といったところでしょうか。
これに対しては、その物言いに対する批判のほか、これまでデモが社会を変えてきた歴史を挙げての反論もみられます。

また、異なる目で見たとき、そもそもデモは何のために行うのでしょうか。より具体的には、デモによってどのような効果が生じることを企図しているのでしょうか。
一概には言えないかもしれませんが、一定数の国民が持つ意志や考えを為政者に知らしめて、それを踏まえた対応を促すことは主目的の一つでしょう。

そう考えると、デモはあくまで為政者の意志に訴えかけるものですので、それこそ為政者に全く聴く姿勢がなければ、効果は非常に損なわれることとなります。
裏を返せば、為政者にも聴く姿勢があるという最低限の信頼があることがデモの前提となるのでしょう。
その最低限の信頼が、考えが違っても一つの社会であるための土台であるように思います。

もちろん、国民の多様な意見を全て満たすことはできません。
多様な意見を踏まえつつも、一定の決断をどこかでしなければならないのが為政者です。
それでも、国民の代表である為政者にとって、国民の声を踏まえる責務があるといえるでしょう。
繰り返しになりますが、それが社会をつなぎとめる最低限の信頼です。

今回の議員の発言は、自分が気に入らない意見は聴かない、相手にしないと上から言い放ったものです。
その意味で、社会が保つべき最低限の信頼関係を、社会に対して最も責任ある立場にありながら払い除ける態度を示したものであり、一線を越えていると言わざるを得ません。

一方、このような政治家の態度を今に始まったことともいえません。
一部の市民を嘲笑・冷笑することで、これらの市民を嫌う別の市民から強固な支持を取り付ける手法は、残念ながら、今の日本社会で最も効果のある政治手法になってしまったともいえます。

しかし、社会の最低限の信頼関係を腐食させることを代償としたこの手法の先に待っているのは地獄だけというのは果たして悲観のし過ぎでしょうか。
そうならないことを祈るばかりです。

(追伸)
先日、家族で訪れた東京都小平市にある東京ガスのガスミュージアムです。
小平霊園にある母や祖父母の眠るお墓を詣った後で立ち寄ったものですが、思った以上に見応えがあり、ガスに関することを家族一同楽しく学べました。























インターネット上で、右でも左でもない普通の日本人と自称する記載を見かけることがあります。
疑問なのは、そうすると、右寄りの思想を持った人や左寄りの思想を持った人は「普通の日本人」ではないのでしょうか。

雨宮処凛著『右翼と左翼はどうちがう?』では、右翼と左翼の活動家6名への取材が収録されていました。
この内容を読むと、いずれの活動家も、社会全体のあり方を否定せず、その中での自分の立ち位置や役割を考えているという印象を受けました。
自分と異なる考え方をする人を「普通の日本人」という枠から排除しようとする自称「普通の日本人」よりも寛容に感じます。

異なる意見が混在する社会を受け入れつつ、自分の意見を持つことはストレスを生じさせます。
しかし、実際の社会は皆が関わり合い、支え合って維持している以上、ストレスに耐えかねて、異なる意見を持つ人の排除に走れば、社会の土台は急速に腐食されるのではないでしょうか。
皆が生活する社会の土台は、皆が連携して支えているという当然のことを、意見の違いさえ、その土台の上にあるということを、もう少し意識してもいいように思います。

(追伸)
所用のついでに立ち寄った中野区の哲学堂公園、5月初旬の新緑が綺麗な頃でした。
























雨宮処凛氏の連載コラム「生きづらい女子たちへ」の「障害がある子どもを親が死なせてしまう事件の背後に見え隠れする、「美しい母像」の押し付け」に掲載された内容に、印象深いものがありました。

その箇所を引用すると次のとおりです。
「先に母親が「助けて」を封じられることに触れたが、その背景にあるのは日常的に投げかけられる言葉や「世の中からの扱われ方」だ。」
「児玉さんはもともと大学の英語の専任講師だったのだが、「重い障害のある子どもの親になった」ことで、〈世の中からの扱われ方がゴロリと変わった〉と書く。子どものように扱われたり、上から目線で指導されたりするようになったのだ。」
https://imidas.jp/girls/2/?article_id=l-60-155-25-06-g421

これは、この社会が、社会の中での立場や地位、優劣ばかりを重んじるマウンティング社会であることの表れのようにも感じます。
なるべく他者を下に位置づけて、優越した立場にいたい人からすれば、子が障害を持つという「弱み」を抱えた人は絶好のマウントの標的です。

さらに厄介なのは、同情的な態度であったとしても、その根底にあるのがマウントの意識であれば、決して有効な支援にはつながりません。
マウントする側からすれば、ずっと自分の下にいてほしいため、適切な支援で上がってこられたら困るのです。
これにより、同情するのに支援には消極的という一見矛盾した姿勢が生まれますが、これは日本の社会で決して珍しいことではないようにも感じます。

そして、このような社会では子を持つことにブレーキがかかっても仕方ないだろうと思うのです。
なぜなら、子を持つこと自体、周囲に迷惑や負担をかけがちになる大きな「弱み」となるからです。
その「弱み」を標的として突いてくる人が社会に広く潜在していれば、どうしても警戒せざるを得なくなります。

社会に根深く張り巡らされたマウントの呪縛は、容易には除去できないと思いますが、少しずつでも解きほぐしていかなければ、未来はないように思います。

(追伸)
春に撮影した実家のある石神井町近辺の桜。桜の季節は毎年訪れますが、やはり綺麗です。
加えて、他の場所でふと撮影した菜の花、また、練馬駅で撮影した昔の西武鉄道の車両を模したフォトスポット。

西武池袋線ではこの黄色の車両は見なくなりましたが、今でも西武鉄道というと、このイメージです。
































私が中学生の頃に発売された大黒摩季さんの楽曲『熱くなれ』に「正義が社会を救えないなら、愛しかないでしょう。」という歌詞があります。

そもそも「正義」には、決まった中身はありません。
ある価値観や考え方を基礎として、それに合致しないものに対して主張されるものです。

だからこそ、基礎となる価値観や考え方が、愛や優しさ、思いやりといったものに根ざしていなければ、「正義」は徒にひとを傷つける暴走する刃となります。

稲盛和夫氏は、「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」と述べていますが、特に面白いのは、能力と熱意は0点から100点までなのに対して、考え方はマイナス100点からプラス100点まであるとしているところです。
つまり、考え方がマイナスの場合、熱意や能力の高さがそのまま大きなマイナスの結果を導いてしまうということです。

愛なき正義により、強い正義感がかえって大きな悲劇や犠牲を招かないよう、正義の根底を常に突き詰めなければならないのでしょう。

(追伸)
家族で訪れたさいたま市防災展示ホール、色々と体験して学べる充実した施設でした。
ここを訪れたのも、まだ1月末のことでした。









特にインターネット上の議論では、「屁理屈」や「詭弁」としか呼べないような歪んだ論が展開されている様子をよく見かけます。

このような「屁理屈」や「詭弁」がインターネット等を介して拡散していくことには非常に危機感を覚えます。


理論的に考えることは、直面する問題や課題を整理して解きほぐし、その解決につなげるための重要な武器となります。

これは、個人的な問題にも、社会的な問題にも通じるものと思います。


これに対して、「屁理屈」には、当然ながら、その機能はありません。

逆に、問題から目をそらしたり、問題に向き合わないことを正当化したり、他人に責任を負わせたりするためにこそ多用されます。

このような「屁理屈」が社会に溢れ、人々を侵食していった場合、問題に向き合う精神と問題を解きほぐす理性の双方を朽ちさせていくのではないでしょうか。


現実に向き合い、その先を目指すための理性か、現実から目を逸らして、自分の殻に閉じこもるための屁理屈か、後者が広がった世界に未来があるようには思えません。


(追伸)

家族の生活が激変した影響で2月上旬以来の投稿となってしまいました。

この横浜での写真は1月のことだったようです。