“迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

タイトルを「D-Words-easy」から「“迷い”と“願い”の街角で」に変えました。これからも、少しずつでも、社会や人などについて、ふと思うことを書いていきたいと思います。大したことは出来ないと分かっていても、それでも道を進むため、少しでも何かを紡ぐため。

簗農林水産大臣が大臣就任前に選挙において自分を支持しなかった首長の市町村の道路予算を大幅に削ったと発言したことが問題になっています。
下野新聞に発言の全文が掲載されましたが、読めば読むほど、驕り高ぶり、非常識、勘違いの極みというべきか、強い不快感を抱かざるを得ません。
https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/1433312

特に、「二つの要件があります。一つは、首長が自民党の国会議員はいらないという行動を取ったわけですから、それが要因1。二つ目の要件は「票数」。多くの市民町民がそのような判断をしたということですから。」という発言にはおぞましさを強く感じました。
政治家である国会議員と首長の間には、必然的に駆け引きが生まれるものと思います。ただ、これにより結果的に住民が影響を受けるというのは適切ではありません。
しかし、今回の発言はこれをも超えて、自身に投票しなかった住民に直前矛先を向けています。
どうしても、自分が国民・住民を支配する立場にいるという意識を持っているように思えてしまいます。

しかし、思い返せば、令和4年にも、当時の山際経済財政・再生大臣が街頭演説で「野党の人から来る話はわれわれ政府は何一つ聞かない。本当に生活を良くしたいと思うなら、自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」と述べたことが問題視されました。
また、令和元年には、当時の二階幹事長が土地改良事業関係者らを前に「選挙を一生懸命頑張ったところに予算をつけるのは当たり前だ。そういうことをやらないと自民党の存在価値がない」と発言しています。

予算が、国民の必要性ではなく、自分達を支持・貢献した者へのご褒美として、国民への飴と鞭に使われる風土は脈々と受け継がれてきたのでしょう。
飴と鞭は、尊重している相手に使われる手法ではありません。彼らにとって一般の国民が下に見ている相手であることが強くうかがえます。

思えば、この20年ほど、失われた30年の後半、インターネットを中心に、強者は何をしてもよい、強者の主張が正義、弱者は強者に従うのが道理、弱者は文句を言うな、強者になれないのが悪い、そういった歪んだ弱肉強食気取りの言説が吹き荒れ、物言う弱者には誹謗中傷や嫌がらせまでなされてきました。
このような環境では、強者は胡座をかき、優位な立場に伴う責任など忘れ去っても当然に思います。
一方で、「自己責任」の名の下、弱者には、必要以上の責任を負わせてきました。
ここに、責任を負わず我が物顔で振る舞い、一方的に弱者を攻撃できる立場を持った強者と、物言わず、強者に従うか、あるいは蹂躙される弱者という構図が強固に出来上がり、それに従うのが正義、反対するのが不徳とまでみられるようになっていったのではないでしょうか。

簗氏は、また、「普通にちゃんと予算がついて、インフラ頼まれて整備する方が第一」としつつ、そのためには自分や自民党を支持しないということはあってはならないという主張が続き、「当たり前の話」、「人間の普通の常識」、「正しい方向」と自身に都合のいい正しさを振りかざし続けていました。
インフラ整備が第一と言いながら、自分を支持しなかった自治体を排除し、その第一を実現したければ自分を支持せよというまさに倒錯した主張です。
これには、強者が弱者に責任を負わせることを当然の道理のようにしてきた近年の風土に自然と染まった「無邪気な傲慢」、「屈託のない上から目線」のようなものを感じてしまいます。

簗氏に限らず、最近問題視される傲慢な失言には、無邪気さや屈託のなさを感じてしまうことが多々あります。
私達の社会が数十年にわたって醸成してきた土壌から「無邪気な傲慢」、「屈託のない上から目線」が生まれているとすれば、今後、これらが本格的に牙を剥いてくるのか、不安を感じざるを得ません。

(追伸)
今年の夏の家族旅行は、茨城県の水戸市と大洗町に行きました。
1日目は水戸市で茨城県立歴史館と天狗納豆笹沼五郎商店の納豆展示館、2日目は大洗町のアクアワールド茨城県大洗水族館を訪問しました。
アクアワールドで、下の息子は、水族館の目玉のサメやイワシの大群よりも、入口付近にいた小さなエイに夢中になっていました。































かつて新社会人の待遇が非常に低く抑えられていたとき、それでも耐えられていたのは厚遇の未来が半ば約束されていたからでした。
しかし、長引く不況の中、低待遇かつ未来を保証されない人達を大量に生じさせた就職氷河期が発生しました。
結局のところ、既存の利益へのリスクを下げるため、来たるべき未来を先食いしてしまったともいえるでしょう。

一転、現在は新社会人は非常に厚遇で受け入れられ、その厚遇ぶりは、キャリアを積んだ主に就職氷河期世代の職員の不公平感が課題となるほどです。
では、これは日本社会が未来への投資を重んじる未来志向の社会へと変わった表れといえるのでしょうか。

正直、そうとな言い切れないと思います。
今の新社会人の厚遇は、差し迫った人手不足への対処という側面が強いでしょう。
しかし、彼らの将来像であるベテラン社会の待遇が改善されていないとすれば、未来の分を今に回して釣っただけの朝三暮四ともいえる対応になってしまいます。
その意味では、形を変えた未来の先食いか行われているともいえるのではないでしょうか。

実際の人の処遇は非常に難しい問題であり、どれだけ全ての人に目配りをし、報いようとしても、行き届かない、伝わらないものでもあるでしょう。
しかし、最初から近視眼的に働く人を自身のために利用するための道具のように扱えば、また、そのように扱うことを社会が許容したり、当然視したりすれば、未来は先細りするばかりのように思います。

(追伸)
8月に訪れた実家のある石神井公園、この時期の木々は力強い深緑ですね。
石神井図書館近くにある彫刻「大地への郷愁」は、母校の石神井小学校にも近く、馴染みのあるものです。以前はもっと目立つ場所にありましたが、図書館の建替えと駐輪場整備で端に移されてしまいました。
また、小学生の頃、この彫刻について下校時に友人と3人でフジテレビのインタビューを受けたこともあり、これによっても思い出深いものとなっています。








音楽を最も好んで聴いていたのは、やはり学生、特に中高生の頃でしょうか。
それを過ぎると、徐々に聴く曲数、そして、曲を聴いたときに心を揺さぶられることも少なくなっていったように思います。
良く言えば、大人になるにつれて心が安定してきた、悪く言えば鈍感になったことの一側面ではあるのかもしれません。

このため、音楽で感情を強く動かされたのは本当に久しぶりでした。
些細なきっかけで聴いたその曲は、Goose house『光るなら』。
https://www.sonymusic.co.jp/artist/goosehouse/discography/SRCL-8640

曲自体は10年以上前の2014年のもので、アニメ『四月は君の嘘』前期オープニングテーマとのことでした。

煌めくような出だしから、一気に青春を想起させる疾走感、そして、若々しい生命力が放つ優しい強さが躍動する、そのような歌声とメロディーについつい引き込まれていきました。
絵に描いたような青春を過ごしたわけでは決してありませんが、それでも、自分の若い頃の思いが蘇るようでした。

♪暗闇も光るなら 星空になる♪
♪涙も光るなら 流星になる♪
♪いつか選んだ道こそ 運命になる♪
♪握りしめたその希望も不安も きっと二人を動かす 光になるから♪

暗闇でこそ見える美しい景色があります。
ポジティブな思いだけでなく、ネガティブな思いも含めた、全ての思いが、自分の人生たらしめるかけがえのないもの、人を動かす力になります。
それに気づくための迷走も、疾走も含めた躍動が青春なのかもしれません。


波乱の沖縄県知事選挙が終わりました。
良いことではないのかもしれませんが、選挙戦開始当初から可能な限り情報に触れないようにしてきました。
悪質な誹謗中傷、デマの流布、脅迫めいた言動など、先の兵庫県知事選挙のように、目にするだけで心身を蝕まれるように感じたからです。

選挙結果については、様々な意見が出されています。
インターネット、SNSを通じたデマの流布による影響も指摘されていますが、さすがに、それだけで今回ほど得票数に差が出るようにも思えません。
感覚的なものに過ぎませんが、アメリカでトランプ氏が大統領に選出されたように、現状を変えることへの希望が強かったのではないでしょうか。

しかし、暗澹たる気分ではあります。
今回のことで、ますます政治に関する言論空間が、誹謗中傷、デマ、脅迫などで占められていき、政治に関する考えを述べる、ただそれだけで多大な代償を払う危険を背負うようになってしまったと感じます。
労働環境において重視されるようになってきた心理的安全性が、政治に関しては全く図られなくなってきたのではないでしょうか。

政治に限らず、インターネットでの誹謗中傷などでは何人もの人間が亡くなっています。
それが社会問題として、対処されてきた、はずでした。
しかし、それを止められないまま、いつしかインターネットが原因で人が死ぬことに慣れてしまった、それどころか、開き直りさえされているようにも感じることがあります。

政治に関する議論が、誹謗中傷やデマ、脅迫を厭わない人達によって占められていき、普通の良識や道徳、共感性を持った人達には耐え難い場となっていく。
普通の感覚を持った人達が脱落していく中、残った人達はますます悪質な攻撃の格好の標的となっていく。
そして、その人達も脱落するか、生活、健康、家族、仕事、知人、挙句には生命まで、人生の大切なものを破壊されていく。
最後には、悪質な攻撃を厭わずに行えるような人達だけが政治的な言論を行い、彼らが好むような政治が実現していく。
そのようなディストピアが、本当に来るのではないかと不安でなりません。

そのようなディストピアにならないようにするためにも、声を上げることを諦めない、それが正論かもしれません。
しかし、言葉のこん棒を嬉々として振り下ろし、人の不幸や死さえも笑う人達が跳梁跋扈する中、それは、今殺されるか、いずれ殺されるかの違いでしかないのかもしれないと感じてしまいます。

今は何も答えを出せないでいます。
これ以上、誰かが傷つくのを見たくない、今言えるのは、そのような、現実に傷つく人がいながらどうすることもできずに目を背ける臆病者の戯言だけです。

(追伸)
8月に訪れた埼玉県春日部市のひまわり畑と近くの児童館です。
児童館には、春日部市在住のクレヨンしんちゃんのキャラクター達がいました。
昔、NHK「みんなのうた」で流れた又紀仁美さんの「ひまわり」という歌が印象に残っています。
1番と2番それぞれのサビ直前の箇所が特に印象深いものでした。
「「誰のために咲くか」よりも、背筋のばしきれいでいよう。いつもおなじ微笑みは、そうむずかしいけど。」
「誰もいない月の夜も、空をじっと見上げていた。胸の奥の哀しみを、そう越えてくように。」
このように凛として生きられたら、と思います。































『24時間テレビ』でマラソンを完走した女優の星野真里さんの発言がインターネットで炎上しているようです。

星野さんの子どもは、先天性ミオパチーという難病を患い、特別支援学級に在籍しながら通常学級でも授業を受けているそうですが、教室内で孤立しているような状況に、星野さんは学校側に改善を求めました。
これに対して、、「普通の学校に入学させたのは、知的障害ではないから障害ではないという親のエゴなのではないか」、「全介助が必要なら支援学校に行くべき」との批判がなされ、賛同する反応も多いとのことです。

これについて、下記の記事では、その批判に“薄気味悪さ”を感じるとして、次のとおり反論します。
https://joshi-spa.jp/1428648

「星野さんの主張が100パーセント正しく、そして完全に受け入れられなければならないというわけではありません。」
「賛否はあるにせよ、まずは彼女たち一家の送ってきたこれまでの日々に対する配慮や想像があってしかるべき」
「批判コメントにはそうした思いやりはみじんもなく、最初から冷たく突き放したように「これが現実だ」と論破を仕掛けるようなものばかり。」
「客観的なデータをもとに星野さんを批判できる自分は正しさを体現している、と言わんばかりの硬質な言葉でまくし立てている。」

この件については、私も上記の記事と同じような違和感を持っています。 

障害の問題に限らず、一人一人に応じた配慮は、全体への配慮との関係から無制限に認められるものではありません。
しかし、一人一人の事情を思えば、極力配慮したいと思うのが人情であり、全ては不可能だとしても、可能な限り全体への配慮と調和・実現させるのが知恵ではないかと思うのです。
そして、様々な制約から実現できるものが少なくとも、最低限本人の心情に寄り添うことは、一定の救いになるのではないでしょうか。

「社会は厳しい」というような上から目線の冷徹な排除は、単に心と知恵を失った姿勢に過ぎないと思います。
上記の記事でも、「自分より小さく弱いものに対してなら正論をぶつけられるという安心感があるからこそ、星野さんの主張は格好の餌食になった」、「必ず勝てる試合で正論を論じ続けている限り、彼らは常に上の立場を確保できる。そういう快楽に甘んじている」とされていますが、上に立ったつもりになれたとしても、安全地帯から正論を叩きつけることは誰にでもできる簡単なことです。

このように、困っている人、苦しんでいる人に「上から目線」の正論を述べる人に、実生活で出会ったことのある方もいるのではないでしょうか。
私にも経験があります。
そして、彼らには共通の特徴がありました。
それは、いざ自分が困った立場になると、人に言ってきた「社会の厳しさ」とは真逆の、「正義」や「人権」、「思いやり」といったものを掲げて、自分は当然救われるべきと主張し始めることでした。
「他人の立場」が分からないからこそ正論を叩きつけることができていただけなのですから、今振り返れば、全く驚くことではありません。

心と知恵を持たない正論は、社会からさらに心と知恵を奪うのではないでしょうか。
そのような正論が、社会でより上位にいると感じさせたとしても、それは単なる幻想であり、社会をより腐らせるだけに思います。

(追伸)
8月にたまたま見かけた、さいたま新都心けやき広場の「音と光の噴水ショー」ですが、思いのほか癒され、ついつい見入ってしまいました。












以前からドラマ「孤独のグルメ」シリーズが好きで、よく観ていたのですが、ようやく動画配信で「劇映画 孤独のグルメ」を観ることができました。
ドラマとは全く趣が異なるのですが、確かに「井之頭五郎」の物語として成立していると感じられた点、演じる松重豊さんやスタッフがこのキャラクターを大切に育ててきた賜物でしょうか。

井之頭五郎が劇中で関わった事柄で、一つ、どのように向き合っていくのか気になっていたものがありました。
詳細は書きませんが、それが明らかになったとき、何とも「井之頭五郎」らしいと感じてしまいました。
一線を越えて踏み込まない一方で、その中で可能な最大限の優しさを配る、そのような大人の魅力が表れていました。

様々な味わいが溶け込んだ深みのあるグルメ、それは人生と通じるように思います。
その美味しさを伝えてくれる映画に感じました。

(追伸)
7月に所用のついでに訪れた板橋区の浮間公園、そこまで暑くない日で、風車と池が印象的でした。









当初は絶大な支持を集めていた高市政権ですが、最近支持率が落ちてきているようです。
支持する理由も、支持をやめた理由も人それぞれなのでしょうが、特に国民の意見を十分に聞かないような形で強行された皇室典範の改正等が影響しているといわれています。

女性天皇を容認する世論が強い中で、それを否定するような改正が行われたのは確かですが、問題はその内容だけではないでしょう。
皇室典範の改正において、高市総理の国民を巻き込むようなリーダーシップはあまり発揮されていたようにはみえず、むしろ、麻生氏を始めとした重鎮の政治家が主導し、密室の中で決まっていったような印象を受けました。
また、熊本地震の避難所の視察では、特に充実した場所を短時間訪れ、現状に肯定的な意見のみを聴き、より劣る環境で避難している国民の苦境を把握・共感する姿勢が見られなかったように思います。

一部の「偉い人」が重要なことを国民の声を無視して密室で決める、「偉い人」が都合の悪い情報を聞きたがらず、周囲の人が耳に入れないように四苦八苦する、これらは昭和・平成に見られてきた、そして令和では消えつつあるはずの悪しき風習にも思えます。
そして、高市総理は、こういった悪しき風習から最も遠いところにいて、これに囚われない政治を行ってくれると期待されていたのではないでしょうか。

今、鈴木博毅著『「超」入門失敗の本質』を読んでいますが、リーダー層が自身の考えに固執し、現場の実情を軽視・無視し、一方的に物事を決める硬直的なあり方は、戦前から脈々と日本に巣食った病といえそうです。
高市総理の国家観を評価する声が以前から根強かったように思いますが、国家観以前に、生身の人間が織り成す社会で、人々がどう生きていくのがよいのかを考えなければならないように思うのです。

(追伸)
6月に訪れた富士見市の水子貝塚公園と山崎公園(せせらぎ菖蒲園)です。
水子貝塚公園では、展示館・資料館のほか、再現された縄文時代の竪穴住居があり、自分達の足元に重なった歴史を知ることができる、よい場所だと感じました。
山崎公園(せせらぎ菖蒲園)では、菖蒲はやや早かったものの綺麗で、また、紫陽花等も楽しめました。































神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員が入所者19人を殺害した事件から10年が経過し、特集する報道も多くみられました。
報道で提起されていた問題意識として、この事件の犯人による「重度障害者には生きる価値がない」との主張に同調する声が社会に少なからずみられているということがあります。

結論からいえば、誰に対しても「生きる価値の有無」を問うこと自体が誤っていると思います。
「価値」は人が頭で考えた産物に過ぎず、そもそも物体のように当然にあったりなかったりするものではありません。「価値」は人が意図して見出すものです。
それでは、あえて「重度障害者には生きる価値がない」と見出す理由は何でしょうか。

この社会では、これまで長らく、誰もが「生きる価値」を問われ、度々否定的な評価を受け、「自分には生きる価値がある」との証明を求められ続けてきたのではないでしょうか。
特に就職氷河期において、その世代は「お前の代わりはいくらでもいる」というような存在価値を否定するようなメッセージを浴び続けたといわれます。

その存在価値を自ら証明できない人はどうするのでしょうか。
自分で自分の価値を証明できない場合、排除される順位を下げるため、自分より価値が低い者、価値がない者がいることを主張するしかなくなります。

これが蔓延ると、ますます自ら価値を証明することは難しくなります。
なぜならば、他人の価値を認めることは相対的に自分の価値を下げることになるため、自分の価値を主張すると、それに対して多方面から攻撃が加えられがちになるからです。
これにより、自分の価値の証明は、主に他人の価値を落とすことによって図られるという悪循環が発生します。

これでは、誰も幸せになれません。
常に自分の価値を証明することに苦しみ、否定されることに怯え、絶望する、足を引っ張り合う、蹴落とす、多かれ少なかれ皆がその地獄に囚われます。
その地獄から抜け出すには、生きる価値があるかどうか以前に、生きる価値の有無を問うこと自体を捨て去る必要があるのでしょう。

皆に生きる価値があるというような綺麗事でもありません。
皆が生きる社会のため、歪んだ呪縛を少しでも断ち切っていく、そのような覚悟が求められているように思います。

(追伸)
5月のことですが、長野での仕事のついでに善光寺に立ち寄りました。
初めての訪問で、想像以上に規模が大きく、また、内部の神秘的な雰囲気に圧倒されました。



















誰かを支えたり、助けたりする人が恨まれたり、憎まれたり、最悪は危害を加えられたりする、あり得ないこと、あってはならないことと多くの方が思うのではないでしょうか。
しかし、過去には、訪問診療の医師が、保護司が、ケアマネージャーが殺害されています。

私自身、仕事で相談対応をした経験がありますが、支援するような立場の人への苦情を数多く目にしてきました。
苦情を寄せる人は、立場上支援は当然なのに、その支援が自分の思う程度・内容に至らないとして、強い憎悪を向けます。
法律等で当然受けられる内容の支援であれば、それが実施されないことは問題ですが、求める内容がそれを超えているにもかかわらず、行われて当然と主張されることも珍しくありません。

根底にあるのは、満たしてもらって当然という幼子が親に向けるような甘えのように感じます。
そして、その甘えが満たされない時、それは激しい憎悪へと変わります。

さらに、支援する立場にいる人は、立場上、対象者に寄り添う責務を負っているため、憎悪や敵意を向けても、同等の憎悪や敵意が返ってくることはなく、極論、害をなしても反撃される可能性が低いといえるでしょう。
端的に言えば、攻撃しても反撃されるおそれが低く、安心して危害を加えることができます。

しかし、このようなことが続けば、社会を支える支援のつながりを保つことができません。
この社会が存続できるよう、善意を守り、悪意に立ち向かう方法を考え続けなければならないのでしょう。

(追伸)
5月に家族で富士見市の難波田城公園を訪れました。
中世に難波田氏の城館があった場所に整備された歴史公園で、水堀、土塁等が復原された「城跡ゾーン」、明治初期の古民家が移築・復原された「古民家ゾーン」、そして資料館と、想像以上に充実したスポットでした。



















昨年の衆議院議員選挙あたりから外国人問題が急に広く取り沙汰されるようになりました。
日本社会の秩序や常識の外から入ってくる方々ですから、摩擦は当然発生するでしょうし、悪意で秩序に反する行為をする者も皆無ではないのでしょう。
これらに苦慮していた従来から日本社会で暮らす方々からすると、課題として広く認知されたことは前進といえるかもしれません。

しかし、昨年以降のこれらの動きは、本当に「課題」の解決につながるものでしょうか、そもそも解決を目指して行われているものなのでしょうか。

外国人問題が声高に叫ばれる一方で、日本社会の中で良識を持って平穏に暮らしている外国人が犠牲になったり、排除されたりするおそれが指摘されてきました。
また、外国人問題を指摘しつつ実際に行われる行動が、問題の解決どころか新たな問題を引き起こす可能性もあるほか、最悪の場合、差別やヘイトの名目として使われ、闇に潜み反撃の危険もある本当に対処すべき相手でなく、反撃の可能性が低い分だけ安心して攻撃できる普通の方々が標的されるおそれもあります。

対処すべき問題があることを、誰かに怒りをぶつけて憂さ晴らしをする名目にせず、あくまで問題の解決を目指していかなければなりません。
問題の解決のため、誰かが不利益を被ったり、我慢したりせざるを得ない場合もあるでしょう。
しかし、これは問題の解決のために必要最低限のものでなければならず、また、可能な限り避けるための努力と配慮があってこそ正当化されます。

どのような名目があるとしても、誰かの不幸や排除それ自体を望むような社会であれば、それが実現したとして、その先に幸せを生むとはとても思えません。
誰かの不幸や排除を目指すことを絆とした社会は、それが実現したとき、絆を保つために新たな不幸と排除を探すでしょう。
果たしてそれが生きやすい社会でしょうか。

(追伸)
5月のゴールデンウィークの頃のこととなってしまいましたが、家族で埼玉県日高市の醤油工場を見学した後、近くの牧場では牛と触れ合いました。
餌をあげた際、牛に手を舐められて、可愛いと思いつつ、「つまり、これが牛タン…」と頭を過って少し複雑な気持ちになりました。
帰路にはさいたま市の与野公園に立ち寄り、見頃のバラを観賞できました。