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“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

先般、自民党所属の国会議員が国会前デモを「ごっこ遊び」 と揶揄して批判されました。
その発言は、「国会に集まってペンライト振って、それで政権は変わらない。厳しいことを言うようだが、ごっこ遊びにしか見えない。本気で政治を変えるんだったら、今すぐ政党を作って、人々の支持を集めて打って出ればいい。それをやらないで、言葉だけで高市はおかしいと言うのはいいが、やはり、ごっこ遊びの域を出ない」というものでした。

典型的な「上から目線」で、人を見下した、非常に侮辱的な物言いと感じます。思い上がりから来る、気取りの入った冷笑・嘲笑の姿勢といったところでしょうか。
これに対しては、その物言いに対する批判のほか、これまでデモが社会を変えてきた歴史を挙げての反論もみられます。

また、異なる目で見たとき、そもそもデモは何のために行うのでしょうか。より具体的には、デモによってどのような効果が生じることを企図しているのでしょうか。
一概には言えないかもしれませんが、一定数の国民が持つ意志や考えを為政者に知らしめて、それを踏まえた対応を促すことは主目的の一つでしょう。

そう考えると、デモはあくまで為政者の意志に訴えかけるものですので、それこそ為政者に全く聴く姿勢がなければ、効果は非常に損なわれることとなります。
裏を返せば、為政者にも聴く姿勢があるという最低限の信頼があることがデモの前提となるのでしょう。
その最低限の信頼が、考えが違っても一つの社会であるための土台であるように思います。

もちろん、国民の多様な意見を全て満たすことはできません。
多様な意見を踏まえつつも、一定の決断をどこかでしなければならないのが為政者です。
それでも、国民の代表である為政者にとって、国民の声を踏まえる責務があるといえるでしょう。
繰り返しになりますが、それが社会をつなぎとめる最低限の信頼です。

今回の議員の発言は、自分が気に入らない意見は聴かない、相手にしないと上から言い放ったものです。
その意味で、社会が保つべき最低限の信頼関係を、社会に対して最も責任ある立場にありながら払い除ける態度を示したものであり、一線を越えていると言わざるを得ません。

一方、このような政治家の態度を今に始まったことともいえません。
一部の市民を嘲笑・冷笑することで、これらの市民を嫌う別の市民から強固な支持を取り付ける手法は、残念ながら、今の日本社会で最も効果のある政治手法になってしまったともいえます。

しかし、社会の最低限の信頼関係を腐食させることを代償としたこの手法の先に待っているのは地獄だけというのは果たして悲観のし過ぎでしょうか。
そうならないことを祈るばかりです。

(追伸)
先日、家族で訪れた東京都小平市にある東京ガスのガスミュージアムです。
小平霊園にある母や祖父母の眠るお墓を詣った後で立ち寄ったものですが、思った以上に見応えがあり、ガスに関することを家族一同楽しく学べました。























インターネット上で、右でも左でもない普通の日本人と自称する記載を見かけることがあります。
疑問なのは、そうすると、右寄りの思想を持った人や左寄りの思想を持った人は「普通の日本人」ではないのでしょうか。

雨宮処凛著『右翼と左翼はどうちがう?』では、右翼と左翼の活動家6名への取材が収録されていました。
この内容を読むと、いずれの活動家も、社会全体のあり方を否定せず、その中での自分の立ち位置や役割を考えているという印象を受けました。
自分と異なる考え方をする人を「普通の日本人」という枠から排除しようとする自称「普通の日本人」よりも寛容に感じます。

異なる意見が混在する社会を受け入れつつ、自分の意見を持つことはストレスを生じさせます。
しかし、実際の社会は皆が関わり合い、支え合って維持している以上、ストレスに耐えかねて、異なる意見を持つ人の排除に走れば、社会の土台は急速に腐食されるのではないでしょうか。
皆が生活する社会の土台は、皆が連携して支えているという当然のことを、意見の違いさえ、その土台の上にあるということを、もう少し意識してもいいように思います。

(追伸)
所用のついでに立ち寄った中野区の哲学堂公園、5月初旬の新緑が綺麗な頃でした。
























雨宮処凛氏の連載コラム「生きづらい女子たちへ」の「障害がある子どもを親が死なせてしまう事件の背後に見え隠れする、「美しい母像」の押し付け」に掲載された内容に、印象深いものがありました。

その箇所を引用すると次のとおりです。
「先に母親が「助けて」を封じられることに触れたが、その背景にあるのは日常的に投げかけられる言葉や「世の中からの扱われ方」だ。」
「児玉さんはもともと大学の英語の専任講師だったのだが、「重い障害のある子どもの親になった」ことで、〈世の中からの扱われ方がゴロリと変わった〉と書く。子どものように扱われたり、上から目線で指導されたりするようになったのだ。」
https://imidas.jp/girls/2/?article_id=l-60-155-25-06-g421

これは、この社会が、社会の中での立場や地位、優劣ばかりを重んじるマウンティング社会であることの表れのようにも感じます。
なるべく他者を下に位置づけて、優越した立場にいたい人からすれば、子が障害を持つという「弱み」を抱えた人は絶好のマウントの標的です。

さらに厄介なのは、同情的な態度であったとしても、その根底にあるのがマウントの意識であれば、決して有効な支援にはつながりません。
マウントする側からすれば、ずっと自分の下にいてほしいため、適切な支援で上がってこられたら困るのです。
これにより、同情するのに支援には消極的という一見矛盾した姿勢が生まれますが、これは日本の社会で決して珍しいことではないようにも感じます。

そして、このような社会では子を持つことにブレーキがかかっても仕方ないだろうと思うのです。
なぜなら、子を持つこと自体、周囲に迷惑や負担をかけがちになる大きな「弱み」となるからです。
その「弱み」を標的として突いてくる人が社会に広く潜在していれば、どうしても警戒せざるを得なくなります。

社会に根深く張り巡らされたマウントの呪縛は、容易には除去できないと思いますが、少しずつでも解きほぐしていかなければ、未来はないように思います。

(追伸)
春に撮影した実家のある石神井町近辺の桜。桜の季節は毎年訪れますが、やはり綺麗です。
加えて、他の場所でふと撮影した菜の花、また、練馬駅で撮影した昔の西武鉄道の車両を模したフォトスポット。

西武池袋線ではこの黄色の車両は見なくなりましたが、今でも西武鉄道というと、このイメージです。
































私が中学生の頃に発売された大黒摩季さんの楽曲『熱くなれ』に「正義が社会を救えないなら、愛しかないでしょう。」という歌詞があります。

そもそも「正義」には、決まった中身はありません。
ある価値観や考え方を基礎として、それに合致しないものに対して主張されるものです。

だからこそ、基礎となる価値観や考え方が、愛や優しさ、思いやりといったものに根ざしていなければ、「正義」は徒にひとを傷つける暴走する刃となります。

稲盛和夫氏は、「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」と述べていますが、特に面白いのは、能力と熱意は0点から100点までなのに対して、考え方はマイナス100点からプラス100点まであるとしているところです。
つまり、考え方がマイナスの場合、熱意や能力の高さがそのまま大きなマイナスの結果を導いてしまうということです。

愛なき正義により、強い正義感がかえって大きな悲劇や犠牲を招かないよう、正義の根底を常に突き詰めなければならないのでしょう。

(追伸)
家族で訪れたさいたま市防災展示ホール、色々と体験して学べる充実した施設でした。
ここを訪れたのも、まだ1月末のことでした。









特にインターネット上の議論では、「屁理屈」や「詭弁」としか呼べないような歪んだ論が展開されている様子をよく見かけます。

このような「屁理屈」や「詭弁」がインターネット等を介して拡散していくことには非常に危機感を覚えます。


理論的に考えることは、直面する問題や課題を整理して解きほぐし、その解決につなげるための重要な武器となります。

これは、個人的な問題にも、社会的な問題にも通じるものと思います。


これに対して、「屁理屈」には、当然ながら、その機能はありません。

逆に、問題から目をそらしたり、問題に向き合わないことを正当化したり、他人に責任を負わせたりするためにこそ多用されます。

このような「屁理屈」が社会に溢れ、人々を侵食していった場合、問題に向き合う精神と問題を解きほぐす理性の双方を朽ちさせていくのではないでしょうか。


現実に向き合い、その先を目指すための理性か、現実から目を逸らして、自分の殻に閉じこもるための屁理屈か、後者が広がった世界に未来があるようには思えません。


(追伸)

家族の生活が激変した影響で2月上旬以来の投稿となってしまいました。

この横浜での写真は1月のことだったようです。






世界的に軍事的な緊張が高まる中、再び世界的な戦争が起こることも、あり得ないとはいえないように思います。
国民の国防への関与もこれから議論の対象となるでしょう。

自国を守ることは当然という意見があります。
しかし、重要なのは、ここで当たり前のように使われている「国」は、「国を守る」とは一体何を意味するのか、です。

「国」が、この場所で一緒に生きる人達の共同体を意味するのであれば、それを自らの手で守ることは、必要かつ重要なことだと思います。
一方で、「国」が、権力に近づくほどに優位になる序列的な秩序であれば、警戒が必要でしょう。

前者であれば、戦う者もまた共同体の一員として、危険を伴いつつも、最大限その生命や安全に配慮され、尊重されるでしょうが、後者であれば、序列の下位に位置づけられた人達が、上位の人達の利益のために、捨て駒として簡単に犠牲にされます。
「国」を大事にといっても、「国」にとらえ方次第で、国民は、国の一員として尊ばれるか、国の犠牲として利用されるか、正反対の扱いを受けます。

正義も、愛国心も、そこに「人」がいなければ、「人への愛」が根本になければ、虚しい凶器でしかないように思います。

(追伸)
近所のホームセンターの屋上駐車場から綺麗なシルエット富士が見えました。









政治家と旧統一教会との深い関わりについては、安倍晋三元首相が殺害されたことを契機に、度々問題視されてきました。
これに関して、よく提起される疑問が、日本の国益や国柄を重視し、韓国等には敵対的な姿勢を取りがちな「保守」を称する人達が、日本を貶め韓国を利するような旧統一教会の問題について、沈黙したり、場合によっては、擁護したりしていることです。

もともと、昨今称される「保守」については、日本の伝統・文化を重んじるとする一方、天皇の男系男子への限定、夫婦同姓の堅持など、歴史を遡れば必ずしも日本の長い伝統とは言い切れないものに固執するなど、実際のところは何を信奉しているのか疑問を感じるところがありました。
これを考え続けてきましたが、ようやく最近分かってきたような気がします。

昨今称される「保守」が守りたいのは、より強い者に従い、より弱い者を支配する序列的な秩序なのではないでしょうか。
その最も強い依り代が「国」であるに過ぎず、必要なのはその強さと序列の基準という意味でのみの伝統・文化ですので、それに活用できないような伝統・文化には興味がなく、相反すれば無視します。
社会や共同体としての「日本」が大切なのではなく、その中で自分の序列を基礎付けてくれる依り代としての「国」が大切なのでしょう。

このため、彼らの最大の敵は、序列を乱す「平等」であり、万人に認められる「人権」です。
逆に、旧統一教会の反社会的な活動については、序列下位の人達がどれだけ被害を受けてもあまり関心はなく、むしろ序列上位の権威者と結びついている以上、旧統一教会を否定することが、序列秩序を毀損することにつながるため、消極的にならざるを得ません。
それどころか、序列上位の権威者の優位を確保し、序列下位の人達を貶めることによって、序列の強化・固定化に資する意味では、旧統一教会は「保守」の強い味方とさえいえるのではないでしょうか。

関心の対象が社会全般でないことから、少子化や貧困の問題解決にも積極的ではなく、むしろ、少子化対策は女性や子供の人権を向上させるために消極的になり、新自由主義や自己責任論による格差拡大は、序列を強化させるため、好意的にも受け取られます。

しかし、時折指摘されるように、本来の保守は、このようなものではなかったと思います。
愛国心を持つのは良いことですが、それは、その「国」に人が含まれている場合だけです。
自分の序列を基礎付ける権威としての「国」を大切にしたところで、その「感情」は「愛」とは遠く離れたものと思えてなりません。

(追伸)
昨年末に家族で見たイルミネーション。速いもので、いつの間にか年が明けて1か月も経ってしまいました。
































2026年が始まりましたが、皆様、年末年始はどのように過ごされましたでしょうか。

私は自身と妻の実家を行き来し、元日は、私の実家近くの石神井公園のほか、「としまえん」閉園後に整備された練馬城址公園を散策しました。

元日は、空気が冷たい一方で、日差しは暖かかったですね。
そのような中で、人間も同様に、適度に冷えた緊張感と、暖かく穏やかな気持ちが必要なのかもしれないと、ふと思いました。

よい1年でありますように。































坂本龍一氏と天童荒太氏の対談本『少年とアフリカ: 音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話』を読了しました。
音楽家だった故坂本龍一氏と小説家の天童荒太氏のジャンルを越えた対談は、社会、世界、人間、生き方などについて論理的というより感覚的な洞察に富み、それぞれの感性が呼応し合っているような印象で、何ともいえない魅力、面白さを感じました。

この中でも、特に心に残った箇所を挙げると、一つ目が、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問について、2人が「自分がいやなことは人にもしない」「人を殺してもいいと認めることは、自分が誰かに殺されても構わないと認めるのと同じ」と意見を一致させているところです。

あまりにも基本的なこの感覚がなければ究極的には社会は成り立たないと思います。
しかし、インターネットでの誹謗中傷等が珍しくなくなった現在、世の中では、いかに自分が撃たれないように人を撃つかという真逆の発想が席巻しているようにも感じます。
ネットリンチで人が死ぬことにも社会慣れて、感覚が麻痺してしまっているのではないかと恐ろしくなることがありますが、今の世の中に、天童氏は、そして、存命であったならば故坂本氏は何を思ったでしょうか。

もう一つ心に残った箇所は、ナチスとアメリカの兵隊の見栄えに関するところです。
坂本氏は、ナチスほど格好いい軍服を作った軍隊はなく、一方のアメリカ兵はだらしないが、だらしないからこそアメリカは勝ったと言います。
これについて、天童氏は、「兵士一人ひとりに、だらしなくいるという、個々の意志を持つことが許されていたからこそ勝てた」と分析します。

確かに、没個性的に権威で統制された集団は、一時的には凄まじい力を発揮するでしょう。
一人ひとりの自由意思に委ねられた集団は、ある意味でバラバラなので、刹那的には、統制された集団に駆逐されるかもしれません。
しかし、自由意思を抑え込まれた人間と自由意思を発現する人間とでは、最後は後者が力を発揮するように思います。

集団の性質として、どちらが良いか悪いかではなく、また、全くどちらかの傾向しか持たないということもないと思います。
大切なのは、自らの傾向を客観視し、その傾向が行き過ぎたときに生じる弊害や脆弱性について、過去や歴史から学び、避けることなのでしょう。
しかし、権威による統制が強化されれば、その客観視や学習すら忌避され、排除され得ることに注意が必要です。

2人の感性での語り合いを見ていて、人間の根本に感性がある以上、客観性の名の下に感性を排除して物事を考えることはできないと感じました。
感性を主観として排除した先には、人間の排除を生む、人間は人間であり続けなければ、よりよい社会や世界は生まれないように思います。

(追伸)
先日、仕事で初めてつくば駅、筑波大学を訪れました。
筑波大学は驚くほど広大で、構内をバスが走っていましたが、確かにバスでないとキャンパス内の移動も難しいだろうと感じました。



















先般、柳田邦男著『この国の失敗の本質』を読了しましたが、2000年に発行された本ですので、今でも変わらず納得できる箇所と、もう時代が変わったと感じざるを得ない箇所がありました。

例えば、阪神淡路大震災を受けた防災対策であり、今の日本の国力では考えられないような壮大な対策が提唱されていました。
不況とはいえ、当時はまだ経済大国としての自認と自負が日本社会に多く残っていたのでしょう。

一方、第二次世界大戦中の日本軍における様々な判断誤りから得る教訓は、今の日本社会でも参考になる、言い換えれば、残念ながら、今の日本社会でも同じような過ちを繰り返しているものと感じられました。

戦闘機に対する姿勢として、アメリカは撃墜された際にもパイロットの命が助かることを最優先する設計とした結果、死亡による熟練したパイロットの減少を防ぎ、空中戦を継続できた一方、日本は飛行性能や戦闘能力のみを優先し、撃墜時にパイロットが助かることは後回しにしたため、熟練したパイロットを失っていき、空中戦が益々不利になっていったとします。
短期的な戦果のために、パイロットという人材を粗末にした結果、次第に苦境に立たされていったのです。

これを読んで頭に浮かんだのは、就職氷河期世代の苦境と現在の人材不足です。
就職氷河期においては、多くの企業が短期的に利益を確保するため、採用者数を減らし、また、立場も待遇も劣る非正規雇用に置き換えていきました。
その結果、就職氷河期世代では、キャリアを積むことができない人材が多く発生し、現在になって人手不足が問題視されています。

これを見ると、昨今、新自由主義を批判する文脈で使われている「今だけ、金だけ、自分だけ」の姿勢は、戦時中から現在に至るまで脈々と日本の社会に巣食い、その骨組みを劣化させる要因と成り続けてきたように感じます。
原爆投下、敗戦、統治構造の転換を経てさえも変わらなかったこのあり方をどうしたら変えられるのか。
今、個々人にできるのは、それを意識しておくくらいなのかもしれません。

(追伸)
今年も後半は仕事で、横浜、千葉、宇都宮、水戸、前橋と回りました。
観光はできませんが、それでも途中で色々な景色が見られるのは楽しいものです。