“迷い”と“願い”の街角で -2ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

河野啓「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」を読了しました。
35歳でエベレストにおいて滑落死した登山家・栗城史多氏。その生前から彼を取材していたテレビディレクターである著者が、彼の実像に迫ったものです。
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-744479-7

「夢の共有」をキャッチコピーに、メディアやインターネットを活用して、共感と支持を広めた異色の登山家。
一方で、登山界を中心に、見栄えを求めて登山への真摯な姿勢や地道な努力を欠いたと批判する声もありました。

著者は、夢を掲げて独自の方法で登山に取り組む栗城氏に魅力を感じ、その後、誠意を欠くような姿勢に疑問を感じ始めます。
そして、エベレストでの滑落死につながっていく行動の不可解。
栗城氏の真意や虚実を見極めるべく、本書は綴られていきます。

本書を読む前、そして、その中盤までは、インフルエンサー登山家の裏の顔を暴くような趣旨だと思っていました。
しかし、そのような単純な話ではありませんでした。

浮かび上がる栗城氏の様々な側面、これらはそれぞれ大きく異なり、一見矛盾するようにも思えますが、そのいずれもが真実ともいえる。虚と実に二分できない、複雑で、混乱した姿。
その末に、著者は最後の真実を見出していきます。

人間が、様々な相反する部分を持ち、矛盾の中で生きている複雑な存在であることを改めて思い起こさせる本でした。

(追伸)
1月には、2回にわたって山梨県に出張。1回目は山中湖、2回目は甲府を訪れました。
昨年、河口湖を訪れた際は悪天候でしたが、今回は晴天で、山中湖に行く途中で見た富士山がとても綺麗でした。









お正月、実家の近くの石神井公園をゆっくりと散策しました。
冬の景色も、とてもいいものですね。

そこでふと、冬の景色の、雪景色ではない普通の景色のどこに魅力を感じるのだろうと、自分で不思議に思いました。

春のように綺麗な花々が咲き誇るわけではありません。
夏のように生命力あふれる緑が力強く生い茂るわけではありません。
秋のように優美に木々が紅葉に染まるわけではありません。

そこでまたふと思いました。
冬の魅力は、「ない」ことではないか、と。

木々に葉がないため、広く見渡せます。
空気中の水分が少ないため、景色をくっきり見て取れます。
これにより見られる他の季節では見られない景色が、冬の魅力なのかもしれません。
「ない」ことさえも魅力になり得るならば、本当に魅力とは、多面的なものなのだと思います。
















お正月に実家のある石神井町に行きました。

石神井公園駅の南口の駅前商店街が再開発され、大きく姿を変えるようです。
駅前の目立つ場所にあり、小さい頃から慣れ親しんでいたベーカリー「サンメリー」もこれに伴って閉店してしまいました。

昔からある店が、街並みが消えてしまうのは寂しいですし、この街の個性がなくなることも心配になります。
また、再開発で建てられるビルは商業施設、役所、高級マンションが入るようですが、商業施設も軒並み高級路線になれば、庶民には暮らしにくい町になるかもしれません。
考えすぎかもしれませんが、利益を出したい事業者と税収を増やしたい自治体が、その地で育まれた風土を一掃し、意向に適うものに置き換えるというのであれば、それは悲しいことです。

一方で、建物は老朽化しますし、人は年を取る、その中で、全て昔のままというのは無理な話です。
また、街作りには経済活動が、必然的に様々な思惑や欲求がついて回ることは致し方のないことなのでしょう。
そして、私が慣れ親しんでいた街も、さらに昔の先人達が慣れ親しんでいた街を壊して作られたものにほかなりません。

移り行く町並みにどう向き合えばよいのか、寂しさと迷いを土産にしたお正月でした。







また空気が変わったのかもしれない。
ジャーナリストの櫻井よしこ氏のX投稿に関するニュースを見て、そう感じました。

同氏の投稿は次のようなものでした。
《「あなたは祖国のために戦えますか」。多くの若者がNOと答えるのが日本です。安全保障を教えてこなかったからです。元空将の織田邦男教授は麗澤大学で安全保障を教えています。100分の授業を14回、学生たちは見事に変わりました》

これに対して、「若者の戦争参加を当然視するような物言いの一方で、“自身には戦う意思があるのか?”と非難が後を絶たない」とのことです。

少し前であれば、櫻井氏を擁護し、「日本人は平和ボケ」「戦後の左傾化教育の弊害」などと反対する者を批判する意見も相当多かったように思います。
インターネット上の情報も偏るため、これだけで潮目が変わったとも言い切れませんが、変わったとすれば、どのような原因があるのでしょうか。

一つ考えられるのは、ウクライナ戦争やガザ地区の紛争で、戦争等の悲惨さがまざまざと伝わってくることです。
これまでも戦争はありましたが、日本はどちらかといえば、同盟国である大国アメリカからの視点、つまり強者の視点でみていたように思います。
しかし、今回、西欧や日本が支持するウクライナは、ロシアと比べて小国、その国民の悲惨な現状が今までより我が身のように感じられるのではないでしょうか。
また、ガザ地区を巡る紛争は、罪のない多くの人を巻き込んだ報復の繰り返しに、始まれば現場では正義も悪もない恐ろしさを再認識させられます。

また、国政の中枢にいる政治家が、生活苦を招く物価高等に有効な対策をせず、一方で、裏金作り等の背信行為を行っていることが露見したことも大きいでしょう。
このような権力者の主導で戦争に駆り出されたら、安易に捨て駒にされて、無駄死にさせられると考えても不思議ではありません。
その意味では、国防に熱心であり、熱烈な支持者が多かった安倍晋三元首相の死去も影響しているのかもしれません。

戦争は、一見祖国を守ることのように見えて、権力者の満足のために自国民を捨て駒にして他国民を排除する点で、最大限の警戒が必要です。
一方で、国際情勢、そして、欲望に振り回される人間の本質をみたとき、国防に無関心という状態も決して望ましくありません。

そのバランスを保つことが何よりも大切で、何よりも難しいのでしょう。
とにかく、戦争の回避を最優先とし、最後まで開戦を防ぐこと、不幸にも戦争に突入した場合には、「戦争ならば人が死んで当たり前」と流されず、人命の犠牲を最小限にするような方法を採ること、命を守ることに、皆で生きることにこだわり続けなければならないのでしょう。
しかし、平時でも、一人一人の命が、個々の人生が軽んじられる今、それができるのか、危惧せずにはいられません。

(追伸)
新年に家族で訪れた東武動物公園のイルミネーション。昔も来たことがありましたが、さらにきらびやかになっていました。















ウルトラシリーズ最新作のウルトラマンブレーザーが最終回を迎えました。
かつては1年間だった放送期間が今は半年になったようですが、その分クオリティの高いものができているように感じます。

そして、この最終回には、本当に考えさせられるものがありました。
以降で物語の核心部分に触れますので、ご注意ください。

これまで複数の宇宙怪獣を地球に送り込んできた存在V99が、最強の怪獣を送り込むとともに、自らも宇宙船団を編成して飛来します。
V99の正体や目的を探る防衛チームの一員アオベエミでしたが、既に引退した防衛組織の元長官ドバシユウに妨害され、拘束されてしまいます。
V99との全面戦争が迫る中、救出されたアオベエミは、たどり着いた真実をドバシユウに突きつけます。

1999年に地球に飛来した隕石を防衛組織が破壊したとされていましたが、それは隕石ではなく、異星人の乗る宇宙船で、それこそがV99でした。
その撃墜を命じたのは当時の長官であったドバシユウでしたが、調査の結果、宇宙船に武器はなく、侵略の意図はなかったことが判明、ドバシユウはその事実を隠蔽していました。
V99は、移動中に正当な理由なく同胞を撃墜した地球を危険視し、宇宙怪獣を送り込んでいたのです。

アオベエミは、V99に対して、地球側に攻撃の意思がないことを伝えることを提案、一蹴するドバシユウでしたが、アオベエミはドバシユウに言います。
「あなたはやるべきことをやったのだと思います。だから今度は、私達にやるべきことをやらせてください」

地球側の意思はV99に通じ、船団は撤退。ウルトラマンブレーザーと防衛チームは、残された最後の宇宙怪獣との決戦に挑みます。
全てが終わったとき、ドバシユウはアオベエミに「あとは任せるよ」と言い残して去っていきました。

地球を守るために宇宙船の撃墜を決めたドバシユウ、しかし、結果的にその行為は、何の罪もない異星人の命を奪うとともに、地球を危険に晒すことになりました。
ドバシユウは、その罪悪感と恐怖に苦しみ続けていたのではないでしょうか。
隠蔽を続けた際の冷淡、傲慢、戦争が迫る中の焦燥、嘲笑、そして、危機が去った後の穏やかさ、自分を責め続けたドバシユウは、アオベエミによって許され、救われたように思います。
(なお、ドバシユウを演じたのは寺田農さん、悪人も善人も演じこなすベテラン俳優こその演技と感服するほかはありません。)

自らの過ちを隠し、正当化するために新たな過ちを犯す一方で、他人の過ちを徹底的に責めて傷つける。
そのような光景が溢れかえる世の中で、過ちを正しつつも、それを許し、それを踏まえて正しい道を切り開こうとする姿勢は、奇麗な理想論かもしれませんが、作り手の強いメッセージと感じます。
アオベエミがV99の説得のために最後に送ったメッセージは「未来」でした。

(追伸)
昨年最後の想い出。仕事で訪れた宇都宮、3年ぶりの訪問でした。





昨年11月に仕事で山梨県甲府市を訪れました。
甲府市は10年以上前、3年間暮らしていた思い出の土地です。

前任地の群馬で働く楽しさを感じていましたが、山梨に来て新しい業務に携わり、悩むようになりました。
それ以前から感じていた「生きづらさ」を群馬で克服したと思っていましたが、たまたまの仕事の楽しさが忘れさせてくれていただけと気付かされました。

山梨で逃げ場のない形で自分を縛るものに直面し、カウンセラーの力を借りて、それに向き合うようになりました。
それをほぼ払拭するにはさらなる時間が必要ではありましたが、山梨にいた頃が最大の転機だったと思います。

あの頃を懐かしく思うと同時に、年月の過ぎる速さを感じました。













「人様に迷惑をかけてはいけない」と言われますが、誰かにかけてはいけない「迷惑」とは一体何でしょう。

人は一人では生きていけません。誰とも接しないような生活を送っていたとしても、生活に用いている様々なものは、多数の人々の尽力があって手元にあります。
そのような中、自分一人で生きていると考えるのは、思い上がりというものでしょう。

見えないつながりで自分と関係している様々な人々に思いを馳せることこそ、公共の精神なのだろうと思います。
しかし、一人で生きている気になっていると、そのような心境にはなれないでしょう。
そして、一見自分に関係ない人々の苦境に対して、「他人に迷惑をかけるな」と突き放してしまう。
社会で支え合っていることを忘れたこのような姿勢こそ、本当の意味で他人にかけてはいけない「迷惑」のようにも思えます。

(追伸)
昨年11月の思い出その3。仕事で訪れた東京ビッグサイト。大きな施設と海のコントラストに、気持ちが高ぶりました。












2024年が始まりましたが、今年はどのような年になるでしょうか。

2023年も様々なことがありましたが、社会を揺るがしたことのひとつとして、故ジャニー喜多川氏による極めて性加害の問題がありました。
これにより、ジャニーズ事務所を巡る環境は一変、輝かしい帝国は瓦解し、ジャニーズという名も消え去りました。

この問題が深刻に捉えられ、対処されるようになったけとは間違いなく前進です。
しかし、この問題の経緯をみると、日本という社会への失望・絶望をなおも感じざるを得ないのです。

①ジャニー喜多川氏の悪行を知る人は少なくなく、また、裁判でも露見していたにもかかわらず、氏の死後まで厳正に対処されることはありませんでした。
死後、その名を落とすことにはなりましたが、どれだけ人を傷つけ、苦しめ、罪を犯しても、権力さえあれば、順風満帆に長い生涯を終えられることを証明する結果にもなりました。

②この問題が大きく取り上げられるようになったきっかけは、イギリスの公共放送BBCの番組でした。
すなわち、日本社会は自身の手で、日本の子供たちを性被害から守ることも、救うこともできず、外圧でようやく動き出したことになります。

③この問題の難しいところは、旧ジャニーズ事務所所属のタレントにどのように向き合うかでしょう。
ジャニー喜多川氏の罪について、彼らに連帯責任を負わせることは妥当でない一方、タレント活動を全てそのままとすれば、氏の行為を是認することにもなりかねません。
何を一番大切にすべきか、それを考えながら、悩みながら、被害者にも、タレントにも社会は誠実に向き合うべきでした。
しかし、行われたのは勢いに任せたようなタレントへの誹謗中傷、そして、反動のような被害者への誹謗中傷で、その中で被害者が自ら命を絶つ悲劇をさらに引き起こしました。

乱暴な言い方かもしれませんが、今まで特に問題にしていなかったものの、海外メディアが取り上げて、皆が声を上げ始めたので、とりあえず皆で一緒に悪そうな人を叩いてみた、というのが日本社会のこの問題への向き合い方だったのではないでしょうか。
社会を構成する一人一人の人権を守る重要性に無頓着な日本の社会は、ジャニー喜多川氏の行為がなぜ許されないのか、その理由さえ深くは理解できていないのではないかとも思えます。

一人一人の幸せに価値を置かない社会の限界というべきでしょうか。この状況が一朝一夕に変わることはないでしょう。
それでも、自分なりに幸せを追い求め、それに誇りを持って生きることが、社会を変えるためにできることだと思います。
本当の幸せはつながっていく、一人一人の幸せがつながっていく社会であるように。

(追伸)
昨年細々と撮った写真がたまっていました。










昨年のクリスマス、12月25日の朝のこと。
2人の子供たちが、起こされずに起きる、言われる前に着替える、これをクリスマスの奇跡と言わずして何と言うのでしょう。
そして、プレゼントを探す子供たち。

今年も再びの奇跡を見られるかと思いきや、サンタクロース宛にプレゼントの置き場所を指定する手紙を書いて安心したのか、熟睡していました。
ただ、1年でそのような手紙を書けるようになった成長もまた、奇跡かもしれません。

(追伸)
11月の思い出その2、家族で見たイルミネーション。
クリスマスに向けた準備が始まったかと思ったら、あっという間に過ぎ去ってしまいました。





選択的夫婦別姓制度には賛否両論あります。
とはいえ、世論調査では賛成派が多数となるほどに社会が変わる中、政府自民党の一部が強硬に反対し、実現を半ば力ずくで阻んでいるような歪な状況でもあります。

「夫婦別姓を認めると、家族の絆が壊れる」という意見があります。
家族の絆とは、そんなにも脆いものなのかと思いますが、もしかしたら、この意見を持つ方々にとっては、本当に脆いものなのかもしれません。
すなわち、男尊女卑という権力関係でしか、結びつきを作れないのではないか、と感じるのです。

本来の絆は、信頼や愛情などで育まれるものですが、それを紡げない人は、権力関係や上下関係で人を押さえつけることで、偽物の絆を生み出すしかありません。
当然ながら、権力関係や上下関係が瓦解すれば、偽物の絆は消え去りますので、そういった関係しか築けない人には、まさに絆を壊すことにほかなりません。
しかし、所詮は「偽物の絆」であり、本来の絆がもたらすような幸福はもたらしません。

それが全てではないでしょうが、選択的夫婦別姓を巡る動きは、本当の絆、幸せをもたらす絆に目を向ける人が増える一方で、力任せに偽物の絆を押し付ける人が力の限りの抵抗をしている側面があるのではないかと思えるのです。

(追伸)
11月の思い出その1。家族で秋薔薇を見た与野公園です。春よりは控えめな印象ですが、色とりどりの薔薇は本当に楽しい気分にさせてくれます。