信じられるものが分からない曖昧さに耐えること | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

人を信じやすい人を「子供」や「未熟」と冷笑して、「人は信用するものではない」と大人ぶる人がいます。
しかし、確かに「人に裏切られる」という経験値は増えているかもしれませんが、「誰も信じない」と嘲笑う姿勢もまた「子供」や「未熟」という印象を与えます。
裏切られる痛みを避けるあまり、信用できる人まで遠ざけ、傷つけることを厭わないのは、自己中心的ともいえるでしょう。

生きていけば自ずと、信用できる人も信用できない人もいること、それを見分けることは極めて難しいこと、そもそも、極端な例を除き、多くの人が両方の要素を持っていることに気づいてくるのではないでしょうか。

「何も信じられない」よりも、「何を信じてよくて、何は信じてはいけないのか分からない」という曖昧さの方が心には負担になります。
裏切られる怖さを心に抱え続けるくらいならば、最初から誰も信じない方が、裏切られる痛みを感じずに済むからです。
むしろ、この怖さや痛みを受け入れることが、大人になるということではないかと思うのです。

(追伸)
過ぎ去った桜や菜の花、ハナミズキの季節。今年も綺麗でした。
季節の巡りが本当に速く感じます。