二宮でお蕎麦を食べた後はー
相模の国の三宮_比々多(ヒビタ)神社 へ行ってみました。
(今ちょっと5月の国府祭(コウノマチ)という 相模の国の古社_一宮~五宮+総社である六所神社、が勢ぞろいするお祭に関心をもっておりまして、 このお祭に関わるお宮をお訪ねしておるのです。 (尚、五宮格の平塚八幡宮は昔お参りしているので こちら;三宮・比々多神社ですべて回った事に。) / 因みに比々多神社はお祭の「座問答」という神事で 「仲裁」という 大きなお役を務める神社です。)
(↑実は カメラを持って行き忘れまして 亭主に撮影を頼んだのですがー なんと 亭主が入口の鳥居を撮り忘れまして・・・ ストリートビューから貰いましたー)
鳥居を潜ると 手水舎。
(水が張られるのが普通、の鉢には 水 無し。)
(でも コロナの時代、 これが 普通になりましたよね?)
(↑鉢の中には 代わりに花と緑。/ 手を清める水は手前の管から滴っています。_写ってませんけど^^;)
狛犬達。
奥に 味わい深い社殿が見えています。
由緒書。
御祭神_豊国主尊、天明玉命、雅日女尊、日本武尊。
相殿神 _酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)。
創建_ 神武天皇6年(BC 655年)。
御神体_霊峰大山。
詳しくは神社の公式HPをご覧ください↓。
http://hibita.jp/hibita/
本殿へ。
旗には「比々多神社 / 三之宮 冠(コウブリ)大明神」と書かれています。 (時に、この「冠」という神号は天長9年(832年)に淳和天皇より「相模国総社」として賜った~ と伝えられているそうです。/ しかし この地に総社があった_ という事は 一時期ここに相模国の国府が置かれていた という事でしょうか?(因みに相模の国の国府は何度か変わっており、詳しい事は未だわかっていない、そう。))
(↓旗の横には 牛 の石像。/え?狛犬じゃなくて 狛牛? かと思いましたが これは今年の干支 としてここにいる、のでしたー)
↓幕の紋は 菊と五三の桐。
↓手の届かない所へ上げられちゃった鈴の綱。
↓昭和二年に奉納された扁額。
ご挨拶してー
社殿の西にはテントが建ち 人がいらっしゃったのでー
(↑七五三等の昇殿参拝者の受付 でしょうね?)
_東から裏へ回ります。
(↑神殿部分には 覆い屋(多分/明り取りの窓がついてますから) が建っていました。)
裏手には_
摂社・末社がずらり。
(左から 白山神社 弁天社 神明神社 東照宮 稲荷神社)
社殿東側には 金比羅神社。
その奥には 十二支の石像が並んでいました。
↑ナニナニ「本年の干支(牛)は社殿前です」_。(・・・つまりここは バックステージ だったのね?)
さて、この先に この神社のもともとの所在地「元宮」があるというので 行ってみることにー。
つづく。
<おまけ1>
比々多神社も 昔は神仏混交の施設だったのでしょう、境内には鐘撞堂がありました。
_と それはいいとして(?) そのそばの・・・↓
このカエル達が気になりました。
背中に 「どう見ても甲羅」をしょってるんですよー。
甲羅のあるカエルはいないから・・・ 彼らはカエル似のカッパ? カエル似の亀? 気になりますー^^;)
<おまけ2>
神社の隣の敷地の コキア。良い加減に色づいていました。
(綺麗~ 3cm位の身長になって この森を探検したーい^^)
(↓道からは 鳥居を撮り忘れた亭主ですが、コキア越しには 鳥居を撮っておりましたー)))
(申し訳ありませんー)
<おまけ3>
神社の(道をはさんだ)西隣に 池がありー
その奥に玉垣が見えたので行ってみるとー
紙垂(シデ)を飾った木々が。
中には「忠勇貽範」と刻まれた石。
_木々で丸く囲った聖域_。/ 出雲にも同じように 木々で丸く囲ったお参り所がありました。一か所囲みの切れた部分に注連縄のように綱が渡され「入口」を形作っていましたよ。中心には小さな祠があり 地面一杯に御幣を刺していましたっけ_。/ 相模ではこんな風に祀るんですね? 少しスタイルは違うけれど似てもいて 興味深い事と思いました。
その近くの石には「西南役記念」。
ここから西南の役に陸軍の兵士として送られた人たちがあったんだ・・・。(合掌)
又その近くの石_。反花(カエリバナ)と思しき加工が見られます。
↑石灯籠の台部分かな?/ もしかしたら明治の神仏分離令で分けられたお寺の跡 とかかしら?
<もういっちょ>
そばにあった 散策者用のMAP。
改めてこの辺り ゆっくり歩いてみたいですねー。