談山神社(タンザンジンジャ)-1(石段の東:本殿側) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

奈良の旅、二日目は 談山神社から、スタートです。

山に上がるなり「桜だ!」でした^^)




(↑駐車場に車を置く前に すでに感動ー)
ここは桜井市多武峰(トウノミネ←「たふのみね」の旧かな読み)という所で、 神社のある地点は 海抜488m。平地より少し春が遅いんですねー?

さて お参りお参り。

境内を囲むように燈籠が並んでいます。

おや これは特別な燈籠らしい。

へー 後醍醐天皇が寄進したと伝わる石燈籠ですって。


社名を刻んだ柱。ここから神社境内になるのかな?

手水舎

由緒書 / 祭神は藤原鎌足。 (大化の改新に関わった中臣鎌足、ですね? 中大兄皇子と鎌足は乙巳の変の談合をこの山でしたそう。そこからこの山は「合=かたらい」が行われた「」として「談山(タンザン)」と記されるようになったといいます。 という訳でここは「大化改新発祥の地」なんだそうなー)

678年、鎌足の長男で 唐に留学していた定慧(ジョウエ)和尚が 帰国後 摂津の国にあった父の墓から遺骨の一部をこの峰に移し 十三重塔と講堂を建てて「妙楽寺」というお寺を建てます。701年には鎌足の神像を安置する神殿も建てられます。(かなり中略)_ 明治に入ると妙楽寺は鎌足を祭神とする「談山神社」となった_。んですって。

(↑リーフレットの表紙には蹴鞠の写真。中大兄皇子と鎌足の出会いが飛鳥法興寺(現・飛鳥寺)の蹴鞠会~ ってところからですね?)

桜。(・・・つい)




(・・・だって 綺麗なんですもん)

石段を上ります。

右手に懸造の建屋が現れました。




石段を上りきった所には楼門。

おお、張り出し部分は「拝殿」でしたか。(寺院だった時代は「護国院」と呼ばれていたらしい)  で左奥には本殿(旧・聖霊院)が。


手水舎。(鶴の水口って珍しい! それに目出度気でいい!)



(↑目の周りに赤い塗料が残ってる。「真鶴」として作られたみたいですね?)

拝殿はぐるりを 釣灯籠が下がる廊下が囲んでいます。


平安風で優美。

さて、内部は~


(内部、撮影OK。フラッシュの規制も無し。仏像等が無いから、ですかねえ?)


開け放ちの堂内、すがすがし。

展示物に『多武峯縁起絵巻』の江戸時代の絵師による模写、がありました。(フラッシュについての注意書きが無かったので レプリカかな、と思います)

↑中大兄皇子(一番右の大きく描かれた人物)と鎌足(その左の黒い直衣の人物) の談合の図。(蹴鞠の場面はこれより前だわねー)
↓有名な入鹿(イルカ)暗殺の場面。(教科書にも載ってたっけ)

↓遺骸は甘樫丘(アマカシノオカ)の蘇我(ソガ)の館に運ばれます。/この後 入鹿の父:蝦夷(エミシ)は館に火を放ち 自害_ するんですよね・・・。


縁から谷を見下ろす。

鴬が鳴いている。

(なんとなく「桜餅入り抹茶パフェ」が食べたくなる・・・)


本殿を拝見しましょう。

華やか~。

凝視してたら目がぐるぐるしてきました。 (唐草の波状攻撃?)


ありがとうございましたー。


続いては拝殿の下を通りー

東側へ行ってみます。


やがて見えてきたお堂_。

(↓左奥にチラと見えるのは観音堂)


摂社:東殿、祀られているのは 鎌足の奥さんと子供達。

今は「恋神社」として人気らしい。 恋の成就を願う「祈願の仕方」までが社殿脇に示されてました。
きざはし上には鎌足の正妻:鏡女王(カガミノオオキミ)の像。(元・中大兄皇子の妻と言われてます。興福寺の建立者)

社殿を時計回りに回ります。

背後にあった拝み処。

格子の奥には小さな祠。

正面へ戻ります。

これで一回り。

これを三度繰り返すよう 祈願の指南の書面には書かれてましたー。(けど もういいや)

東殿の傍にはこんな石もありました。

「むすびの岩座(イワクラ)」。
談山神社の前身「妙楽寺」の講堂を建てる時に発見された物で、 神宿る石として祀られてきたそうです。

山側の石段の上には「東宝庫」がありました。

右手の覆い屋の中には「春日神社」の祠。

左手には拝殿の壁が見えました。



続いては 石段の西側のエリアへ行ってみます。