最近、自分の中に、この2種類の人生観=ある意味全く真逆の人生観が共存してる、と感じている。


「仕返しの人生」と、「感謝の人生」である。


「仕返しの人生」っていうのは、突き詰めて言うなら、自分という存在や、存在のあり方に何らかの恨みを抱き、自分の人生を“仕返し”と位置付けて生きていく、そんな人生観だ。

 


一方、「感謝の人生」っていうのは、自分が存在していること自体を感謝と受け止めて、ありがたいなぁという思いで生きていく、そんなあり方。


言葉にすれば、いかに真逆なのかが良くわかる。


だけど、、、不思議なことに、自分の中にはこれらが両方とも、存在している。


共存、と書いたけれど、厳密にいうと、同時に存在することはないような気がする。一方が現れると他方は消え、さっきまで消えていた他方がのし上がってくると先の方はまた消える、、、といった具合に、瞬間瞬間では、このどちらかが自分の中を100%占めている。


ただ、どちらが占めているか、か、時々入れ替わる。


入れ替わると、もちろん、人が変わったようになる。


いやまあ、そうはいっても、他人の目にどれぐらい違って見えるかはわからない。ぱっと見は、案外、さほど違わないのかもしれないけど、、

 

 

自分の感覚としては、心に立ち上ってくるモノの見え方とか、感情の種類が全く変わるので、あれ、って気がつく。


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「仕返し人生」の時、どんなことが起きるかというと、例えば、、、


高速道路を車で走っているとしよう。よく知らない道なので、コースの選択はカーナビの指示が頼りだ。


インターチェンジに差し掛かり、分岐が迫ってくる。さて、どっちに進むんだろう?


なのに、カーナビ音声は、何も言わない。。

 

 

おいおい!?どっちなんだ?!


、、みたいな状況において、「仕返し人生」モードの自分は、無意識の反応で、見事に(かなり高い確率で)、間違いの方のルートを選び、そちらへ進む(笑)


推奨ルートから外れたことを検知したカーナビは、新たなルートを検索し直し、、大幅に遅れた到着予定時刻を表示する。


そうなった時、仕返しモードの自分は、勝ち誇ったようにこんなふうに呟くわけだ。

 

 

「なんだよ、お前(カーナビ)の指示が悪いから、間違えたじゃないか、予定から30分も遅れるよ、どうしてくれるんだ、全く!」


、、、はい、これはほぼ実話です。全くもう。

 

 

で、、これには後日談があって。。



後日、同じルートをまた車で走る機会があった。このときは「感謝の人生」モードで、鼻歌など歌いながら上機嫌で走っていたわけよ。


インターチェンジに差し掛かる。カーナビは何も言わない、、、


、、、けれども、僕は何事もなかったかのように、正解ルートを進んでいった。

 

 

そう、その分岐は、平常心で眺めると、「メインルート」と「細い枝分かれルート」がはっきりと区別できるようなものだったのだ。


カーナビが何も言わないんだから、安心して、メインルートを道なりに進めばいい。わざわざ細い分岐に入っていく必要は、ない。


と、、普通の感覚を持っている人ならそう判断できるような、そんな分岐だった。僕自身、感謝モードでは、なんの問題もなく正解ルートを選べた。



だが、、「仕返し人生」モードの時は、その分岐が「おい!どっちへ進むんだよ!!」っていうふうに見えたわけだ。そして、「どうして指示が出ないんだよっ!!」っていうキレた感情が、湧き出てきた。

 

 

あげく、わざわざ(無意識に)間違いの方を選んで、、「おまえのせいだどうしてくれる!!」、、というわけだ。

 

 

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当然のことだが、仕返しモードのときは、身の回りでトラブルがいろいろ起きる。特に人間関係は、なかなかうまくいかない。


ただ、このモードが、ハングリー精神的な作用として働いた場合は、成功のための努力のエネルギーになることもあるようだ。


自分は10歳ぐらいから50過ぎまで、仕返しモード中心で生きてきたような気がするんだ。


その間、進学とか、仕事の面では、それなりの成功を収めた。いい学校に行って、いい会社に就職して、けっこうな給料をもらって。フリーランスのライターになってからも、仕事にはほとんど困らなかったし、自分の著書を2冊、出版できた。

 

 

でも、人間関係はなかなかうまくいかなかった。それに、ある程度成功した場合でも(例えば自分の著書が出版されたような時でも)、それを「楽しいこと」とはあまり思えなかった(ほっとしたという気持ちはあったけど)。


50代も半ばを過ぎて、心屋で心の仕組みなどを学び、いろいろ実践するようになってから、少しずつ、感謝モードの人生観を実感できるようになってきた。


それと共に、普段の生活の中に、嬉しいこと、楽しいこと、「ありがたいなぁ」としみじみ呟くようなことが、いろいろと見られるようになってきた。

 

 

そして今は、リビングから富士山が見える家にカミさんと2人で住んで、ああ人生の中で今が一番幸せだなぁなんて言葉を交わしたりしている。5年前の自分が見たらびっくりするだろう。


、、、と、そんな日々だけど、、、長年慣れ親しんだ仕返しモードに戻っているときも、いまだによくあるんだな、これが。


そんな時は、なんだかなぁ、、って思ったりもするんだけど、、、


まあ、、ありがたいことに、窓から富士山を眺めてると、またすぐ「ありがたいなー」が湧き出てくるのよ。




ありがとう〜〜

 

さっき書いた記事
 

まあ、これ書いてたときは、めちゃ機嫌が悪かったのよ。笑
 
 
自分自身、不快なので、これなんとかならんかなぁと思いながら書いてたんだけど、、
 
 
たぶん不機嫌な波動を撒き散らしただけだったと思う。
 
 
読んだ人、気分悪くなったかもしれんね、ごめん。
 
 
 
 
で、、そのあとも、この気分の悪い感じ、なんとかならんかなぁと思いながら、いろいろやってたら、、
 
 
 
あるところで、あれ?、って感じで、いきなり気分が変わった。
 
 
それは、ギターを弾いてたとき。
 
 
ただ漠然と弾くんじゃなくて、、、
 
 
少しゆったり目のスウィンギーな曲を弾きながら、、それに合わせて体幹部でリズムをとるのが大事みたいだ。
 
 
音楽と、体の動き、呼吸のリズムまで一体化するようなイメージだ。
 
 
ヨガなどの世界でいうところの、調身、調息、調心。
 
 
そんな感じで、音楽(リズム)と一体になりながら弾いていると、、
 
 
 
いつのまにか、口元に恍惚感がにじんで、ニマニマしている。
 
 
 
気がつくと、心もすっかり晴れやかになっている。
 
 
あれーっ、さっきまでのあの「お前ら許せねー」みたいな気分はどこいったんだ? (てか、お前らって誰だよ?笑)
 
 
 
、、、というわけで、、
 
 
 
なんかよくわかんないけど、忘備録どして書き残しておこう、と思った。
 
 

さっきアップしたブログ↓で
 



「相手のことを大切にしたい」という気持ちが、自分の心の中に徐々に出てきた、という話をした。


ちょっといい話にしすぎたっぽい気がして、少し反省している。笑


いや、嘘を書いてるわけじゃないんだけど。あれはあれで、本当に自分が感じてる話だ。


ただし、、、一つ条件があって。


あれは、自分の「機嫌がいいとき」に起きること、なのだ。


そう、機嫌がいいときは、、周りにいる人のことを大切にしよう、という気持ちが、自然に溢れてくる。


そして、そういう行動をすると、さらに自分の気分が良くなり、機嫌も良くなり、、するとさらに周りのことも大切にする、、、という好循環に入る。




ところが、、である。


きっかけはよくわからないけど、、、なんか、気がついたら不機嫌になってる、ということも、実際にはままあるわけで。


そういうときは、、人を大切にする、なんて気持ちは、、正直、まず、湧いてこない。


その代わり、、、自分の不機嫌さを人のせいにする、という、さっきのとは真逆の気持ちが、出てきたりする。


だいたいあいつがあのときあんなこと言ったから、、とか、あの話を聞かされてからなんか腹の虫が治らない、、とか。


そうやって、自分の不機嫌さをどこかに責任転嫁したくなる。


まあ、、冷静に考えれば、ほとんどの場合その責任転嫁は全くの濡れ衣で、、


単に、自分はいま不機嫌だ、というそれだけの理由で、何かを(誰かを)悪く言っているだけ。


だから、そこで悪者にされている何がしかの事情について、何が問題だろう?などと検討してもほとんど意味はない。そこには、問題など、何もない。あるのは不機嫌な気分だけだ。


そして、、、そんなときは、「相手のことを大切にしたい気持ちが出てきた」とか、「生きてるだけで感謝だよね」だとか、そういう、心が満たされていることが大前提のお話などは、琴線に、かすりもしない。


上機嫌のときだったら、ジーンと心に沁みてホロリと涙がこ取れたりしたような“いい話”が、、


全く真逆の、、は?なにそれ?みたいな塩反応になっちゃう。


こういうのはねぇ、、、まあ、どっかで機嫌を直してきてよ、というしかないんだよなぁ。。





「前提」が変わると、心の動き方がまるで変わる。


同じ人とは思えないほど、実に簡単に、あっさりと、大幅に、豹変する。


もうちょっと前提が安定してくれるとありがたいんだけどな、、、って思う。


 

この、なずさんのブログ記事
 


自分で、まさにこれと同じような話をブログに書こうって思っていたところに、この記事が流れてきて、ワオってちょっと驚いた。

なんか、すごいシンクロしてるわ。




まあ、僕が書こうと思ってたのは、またちょっと視点が違うんだけど。でも本質的には同じような話。



子供の頃、親や学校の先生から、よくこんなことを言われた。

「相手の気持ちになって考えなさい」

自分勝手じゃダメよ、相手の事情や気持ちを思い測りなさい、と、そういうお話だ。



で、、、それを踏まえて、僕はどういうことをやっていたか、と振り返ると、、



相手を「怒らせない」ように、相手の「“機嫌”を損ねない」ように、と注意しながら、いろんな行動をしていたように思う。



相手の気持ちというものを、“怒られるか怒られないか”を基準にして、選んでいたわけだ。



だから、子供の頃はいつも、心の中で、親や先生の顔色を伺っていた。友達に対しても、同じような感じだったかもしれない。



大人になってからは、職場の上司や同僚。付き合っていた女性。結婚してからは、カミさんに対しても。



こういう生き方は、もちろん、息が詰まる。楽しくない。自分でストレスを作り出しているようなものだ。



だから、いつもイライラしていた。

 





で、、、心屋で心のことを学び始めて、、、「自分がやりたいことを我慢しない」という方針に切り替えた。

人の顔色を見ながら生きてきた人にとっては、そのクセを剥がすための通過ステップとして、必要なことなのだろう。

人目ばかり気にしてきた人は、「自分の気持ち」が感じにくくなってるからね。「自分ファースト」生活を通じて、自分の気持ちを感じるセンサーを、磨き直さなきゃいけない。



さて、、、そんなふうに切り替えてから、数年が経ち、、、



気持ちセンサーもかなり回復してきて、実生活でも「自分がしたいことを選ぶ」がかなり板についてきたのだろう。



と、、、そこまでくると、心の中に、面白い変化が現れてきた。



「自分の気持ち」の中に、「相手を大切にしたい」「相手と一緒に楽しみたい」というような、自分だけの楽しみにとどまらない(止まりたくない)気持ちが、自然に湧いてくるようになったのだ。



自分の楽しさや幸せにフォーカスしているのだけれど、その中に、相手の存在が入ってくる。相手が楽しんでいるから、自分も楽しい、という感覚が湧いてくる。



で、だ。



ここからがちょっとおもしろいところ。




こうなると、、、相手の希望や都合に気を配るようになるので、結果として選ぶ行動は、子供の頃からやってきた「相手の気持ちを考える」というのと、少し似てくるのだ。



「相手を怒らせない」と、「相手を大切にしたい」。



どちらも、言葉で説明すれば、「相手の気持ちを考えて行動する」になるだろう。



だけど、、、心の中身は、全然違う。



前者はいつもイライラしてるんだけど、、後者は、自分の幸せな感じがどんどん広がっていく。



前者は、相手が自分の意図からズレるとイラっとするんだけど、、後者は、相手が自分の予想から外れると、「あ、それもよさそうじゃん❣️」って面白がれる。楽しめる。



こういうのは、、自分で実感して初めてわかってきたことなんだなー。





 

今日は都内まで車で行った。目的地は五反田界隈。


横浜新道から第三京浜へと高速を走り、玉川ICで降りたあとは環八→目黒通り。1時間ほどのドライブだ。


以前、都内に住んでいた頃は、カーシェアのヘビーユーザーだった。だから都内の道もそこそこ走っていたのだけれど、、


湘南エリアに移って2年。久しぶりに乗り込んだ都内の道は、、車が多くてレーンが狭くて、、


きゃー怖😱💦💦💦


、、、って感じだった😅


人間の感覚って、環境次第でずいぶん変わるものだねぇ。


それでも今日は車だったから、目的地に直行直帰ですんだけど、、


電車で行くと、都心の駅構内とかを歩くことになるので、、、、、

 

 

周りの人のスピードが何でこんなに速いの?😱😱😱って驚かされる。


いや、実際は自分が遅くなってるんだろうけどね。笑


3年ぐらい前まで僕は、品川駅から徒歩10分のところに住んでたんだ。


新幹線にも飛行機にもアクセスが良くて、めちゃめちゃ便利な場所で、、あれはあれで気に入ってたんだけど、、、


あの頃はきっと、自分もあのペースで歩いてたんだろうな、。、、と思うと、、、遠くへ来たものだ、となかなか感慨深いわ〜〜






ビルの間から東京タワーが見えた。


 

最近、自分のギター演奏が、以前とは変わってきたなーーって思ってる。


パフォーマンスの中身というより、それ以前の、演奏に臨む姿勢の部分で。


 

 

そして、、、過去を振り返ってみると、自分の「臨む姿勢」は、ちょうど振り子が振れるように、大きくあちらに行ってまたこちらに戻ってきて、というように、振幅している気がする。

 

 

というわけで、、、今日は、自分が「ギターに臨む姿勢」の推移を、時系列で振り返ってみたい。

 

 

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僕がギターを弾き始めたのは、中学生の頃。時代は1970年台の後半だ。


当初はフォークソングの弾き語りばかりだったけど、、たしか高校生の頃に「ラグタイムギター」というソノシート付きの教則本を手に入れて、、、

 

 

ソロで弾くインストギター、特にラグタイムスタイルのギターにハマり始めた。これが1980年あたりだろう。


そこから、ステファン・グロスマンや打田十紀夫さんなどの楽曲集などを手に入れては、載っている曲を練習する、というスタイルで、ギターを弾いてきた。


あるいは、楽譜がなければ、CDで聞いた曲を耳コピしたり。


いずれにしても、誰か(プロの人)が作った既存の曲を習得する、というやり方ね。


ずーーっとそんな感じでやってたんだけど、、、


2000年前後、大きな転機がやってきた。


「Acoustic Breath」というオムニバスCDシリーズに、参加する機会をもらったのだ。


これは、アコースティックギター音楽を世に広める目的で、1999年頃に始まった音楽プロジェクト。



プロアマ問わず、多くのギタリストから自作のインスト曲を募って、それらを1枚のCDにまとめ、販売する。


最終的には2006年頃まで続いて、、6枚ほどのCDが作られた。


その第1弾が世に出て、第2弾の募集が始まったとき、、、


第1弾に参加したギター仲間から、僕にも声がかかった。「やってみない?」と。


その時点で僕は、自作曲を作るなんて、やったこともなかったんだけど、、、


何だかこれはやってみたいぞ、という衝動に駆られて、、、とにかくもえいやえいやっと曲を作り、、機材を揃えて自宅で録音し、、締め切り間際にようやく、プロデューサーに提出した。


当時はまだ会社員だったし、かなり大変なチャレンジだったけど、、、とにかくも、やり通した。


すると、、、その曲は無事に採用され、、なんと、市販の音楽CDに、僕の楽曲が収録される運びとなったのだ。


その嬉しさと達成感を支えに、僕は自作曲を作り続け、、2006年までのシリーズCDには、ほぼ毎回、1、2曲の楽曲が収録された。


さらに、収録されなかった曲もいっぱいあったので、、、この頃、なんだかんだ全部集めたら、たぶん20〜30曲ぐらいは作ったんじゃないかなぁ。


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さて、、、それで、だ。



この頃の経験を経て、、自分の中で、一つの価値観が形成されたわけだ。


「自分で作ったオリジナル曲じゃないと、演奏する価値がない」という価値観だ。


これは、アーティストとか、表現をする人たちの世界においては、わりと広く受け入れられている考え方だと思う。


人真似ではなく、自分オリジナルの作品スタイルを追求し、構築し、発表していくことが、とても大事、と。


自分も、CDに自作曲が収録されるような表現者の端くれなんだから、コピー曲とかやってないで、オリジナル曲で勝負しなきゃ。いつしか僕は、自分のギター演奏について、そんなふうに考えるようになっていた。


なので、当時、出演したライブでは、ほとんど自作曲ばかり弾いていた。


、、、まあ、表現において「自分のスタイル」が大事だ、というのは、今でもその通りだと思う。


ただしそれは、、、自分の立ち位置というか、“中心軸”がずれなければ、の話だ。


どういうことかというと、、、


表現をする人にとって、「自分のオリジナル」「自分のスタイル」といったフレーズは、とても魅力的だ。


誰もがそれを渇望している。何とかしてそれを実現しようと思う。思いたくなる。


で、、その思いのあまり、どこかから“借りもの”の「自分のスタイル」を持ってくる、というようなことが、あんがいよく起きているんじゃないか、と思うのだ。


本来、自分の体の中から湧き出てきたもので形成されていくところを、他所からの“接木”みたいな形で、手っ取り早く、見栄えよく、「これが私のスタイルでございます」などと、仕立ててしまう。


いま思えば、自分は、おそらくそんな感じのことをしらす知らずのうちにやっていた。


そうやって、「自分はオリジナルで勝負してる」というふうに、思い込んでいた。


“自分らしさ”という称号が欲しいという理由だけで作り上げた、ハリボテの自分らしさ。自分オリジナルといいながら、その中身は、他者評価への羨望、つまりは他人軸。


まあ、、、、それでも自作曲をつくり始めた当初は、自分の中からほとばしる何かを感じていたかもしれない。初めから100%ハリボテってことはなかっただろう。

 

 

でも、、、ある程度の経験を積み、周囲から「自分のスタイル」への認知や評価がある程度固まってくると、、、


やがて、自分の外側に確立され始めたその「自分のスタイル」を、自分が追いかけるようになる。さらにその後には、そのスタイルに、追いかけられるようになる。。。


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そんな表現活動は、楽しくない。自分の中のエネルギーを枯渇させる。


だって、自分の中から湧き出るものが根源ではないからね。



2006年あたりから、僕はだんだん、ギターを弾くことが嫌になっていった。


オリジナル作りも、ライブ活動も、徐々に先細りになって、、、やがて、何もしなくなった。


その後、、何回かちょっと元気が回復して少し活動しては、またやめる、、という感じのことを繰り返していたんだけど、、、


今年に入ったあたりから、つきものが取れたように、とてもスッキリした気分で、演奏できるようになったのだ。


何が変わったのかというと、、、


「オリジナルじゃなきゃダメ」という発想を、やめたのである。

 

 

音楽は、「音」を「楽」しむもの。楽しむためのどんな音楽を奏でるか、といういう点において、オリジナル曲と既存の曲に、本質的な差はないだろう。

 

 

だったら別に、いわゆるコピー曲、自分が敬愛するミュージシャンが作った曲を演奏して楽しんだって、いいじゃん。



ある時から、そんなふうにふっと気持ちが吹っ切れた。「オリジナルでなきゃ」という呪縛が、ぽこっと、外れたのだ。

 

 

そしたら、、、なんだかいろんなことが、笑っちゃうほど楽になった。


youtubeなどで「この曲弾きたい」っていうのを探して、コピーするのが楽しくなってきた。



従来、いつもひどく緊張して、重苦しい気分で臨むことが多かったライブ演奏も、素直に、楽しめるようになった。


そして、、先月、ついに、人生初のソロライブを開催するに至った。


すごく楽しかった。全時間の半分ぐらいを、喋って、笑って過ごした気がする(笑)


こんなふうにして、あたらしい世界が開けてきた気がするのだ。


あの呪縛は、、、何だったんだろうな?


そして、、、


もし自分オリジナルの音楽世界というものがあるとしたら、、、


今、自分がやっと手にした、「楽しく奏でる」という音楽体験を積み重ねた先に、いつしか生まれてくるものなんだろう、と思う。



 

 


 

9月11日(土)には、2回目のソロコンが既に決まっている。


ライブハウス「国分寺クラスタ」のスケジュールページ


とても楽しみだ。

 

 

藤沢に引っ越してきて、もうすぐ丸2年。


東京暮らしの頃とは、暮らしぶりがずいぶん変わった。


その象徴といえるだろうか、、、今年の4月から、「自家菜園」を始めた。

 

 

近所のレンタル畑でちっちゃいちっちゃい区画を借りて、野菜を育てている。




これは5月ごろ、まだ植えたばかりの頃だ。手前から3つの区画がうちのエリアね。

手前は左からピーマン、サンチュ(3株)、ナス。

その向こうはキュウリとトマト。

その向こうのネットの中には、枝豆とクウシンサイ、モロヘイヤ。






6月ごろには、まずサンチュ↑が食べられるようになった。

最盛期には連日、山盛りのサンチュが食卓に乗った。おかげでおかずは焼肉ばかりで笑





これ↑は6月のトマトとキュウリ。この時点ではまだ実はなってないけど、この後ぐんぐん育っていく。


収穫最盛期は7月頃。でもその時期、畑の写真は全然撮ってない。



畑に行けば、やらなきゃいけない作業はいろいろあるし、暑いし、虫は寄ってくるし、で、写真どころじゃなかったみたいだ笑


なので、家に戻ってから撮った、収穫した野菜をご覧ください。

 



採り立ての枝豆、うまかったなぁ〜〜〜



きゅうりはちょっと育ちすぎだね笑


というわけで、、、春夏の野菜はそろそろ終わり。ぼちぼち秋冬の作物に向けた準備を始める時期になってきた。

 

 

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「農作業」的なものが自分の生活圏の中に入ってきたのは、たぶん生まれて初めて、だと思う。


まあ、僕が子供の頃、両親が庭で畑をやってた時期があるので、ごく稀に手伝ったりはしたけど。

 


でも、自らの意思でこういうことに手を動かしたのは、今回が初めて。


こんなことをする日が来るなんて、想像もしてなかったよ笑


更地を耕して肥料を入れるところからスタートし、種や苗を植え、水をやり、雑草を取り、、


、、、と、いろんな世話は一通りするんだけど、、携わる人間の実感としては、野菜は基本的に自分の力でぐんぐん育って、実をつける、って感じだ。

 

 

必要なのは、水や土壌などの適切な環境、日光、空気、温度。そして、時間。


世話をする人間の姿勢としては、最低限の世話をしたら、あとは信頼して待つ、という感じになる。


、、、、あ、いやいや、レンタル畑で半年やっただけの人間が、何を偉そうに語るか、って感じだよね。笑


だけど、、これは、自分の中ではすごい大きな実感なんだ。信じて待てば、植物はちゃんと自分で育つんだ〜、と。


すごく大切なことを、経験させてもらっているような気がしている。

 

オリンピックが終わったらしい。


僕はもともと、スポーツを見るのは好きだ。


だから、変なゴタゴタがなくすんなり開催されていれば、たぶん普通に楽しんでいただろうけどな。




でも今回は、、、開催に漕ぎ着けるまで、ホント、笑っちゃうほどさまざまなゴタゴタが相次いだ。


コロナとの絡みでいえば、この時期に東京で開催するのが妥当か、という議論まであった(そりゃ、あって当然だわな)。


まあ、、そういった議論やゴタゴタについては、今更何も言わないけど、、、


そういうなんか面倒な感じの経緯があったせいで、、、開催前の僕は、素直にオリンピックを楽しめない、あるいはむしろ意地でも楽しみたくない、という心境だった。


で、、実際、1週間ぐらいは、1秒も見てなかったのよ。笑




1週間ぐらい経った時、、


たまたまリビングのテレビがついてて、陸上のトラック長距離種目が映ってた。


チラッと横目で見たら、、、


走ってる選手の姿が目に飛び込んできて、、


いきなり心を鷲掴みにされた。


特にアフリカ系の選手で顕著なんだけど、、走る時の、肉体が弾むような独特のリズム感。サバンナの獣たちと見紛うような全身のしなやかな動き。(トレーニングで作り上げた先進国の選手たちの動きとは全く違う)


そして最終周回に入った時のギアチェンジ。それまでの淡々とした動きが一変して、いきなり短距離ダッシュのような躍動が始まる。なんなんだこのスピード感は。

 

 

気がついたら、テレビの前でうおー〜ー!とか声が漏れてた。笑

 

 

 

 

それをきっかけに、、、、見ようかな、うん、見よう、っていう気分に切り替わってきたのね。

 




僕はスポーツを見るとき、どちらかというと、勝ち負けよりも、肉体の躍動そのものに目がいく。


いやもちろん日本を応援する気持ちはあるけど。



それ以上に、、一流アスリートの超人的な肉体から繰り出されるパフォーマンスを見ると、それだけで心が沸きたつ。

 

 

例えばバスケットやサッカーで、一瞬で相手を置き去りにするフェイントやターンの動き。


格闘技などで、間合いや呼吸を図っているときの、目に見えない駆け引き、緊迫感。
 

 

今回採用されたフリークライミングなんかは、肉体観察の宝庫だった。見ているこっちも、テレビの前でつい、腰を一緒にぐいってやったりしながら、のめり込んでいた。

 




そうだよな、スポーツってやっぱりすごいよなーー人間の体はすごいんだなーー




、、、なんて思いつつ、その最高峰の祭典であるはずのオリンピックという場が、いろんなくだらない事情の中でこんなに魅力を削がれた姿になってしまっていることに対しては、、相変わらず不愉快な思いを抱いていた。


だから、、閉会式は1秒も見てない。あれは肉体の躍動じゃないからね。そういうのは、見る気もしなかった。



といったところで。


オチも何もありませんが、今日はここで終わりです。読んでくれた方、ありがとう。



 

 

最近、オンライングループ内で、ライブトークをやっている。
 

からくり道場参加者有志で作った、からくりマルシェ(仮)というグループ。

 

まあ、クローズドのオンラインサロンみたいなものだな。

 

 

そこで僕が、メンバーの誰かをライブ動画上でお招きして、インタビュー形式で対談する。


話の中身は、その人が取り組んでいる活動(仕事)についてだったり、個人的な世界観や体験記だったり。



なんだかんだ話してると、1時間ぐらいすぐ過ぎてしまう。



僕はもともと雑誌記者やライターの仕事をしていたので、記事を書くためのインタビュー(取材)なら、業務の一環として、バリバリこなしてきた。

 

今やっているのは、それと似てるけど、ちょっと違う。


情報収集のための取材ではなく、インタビューの対話そのものを、トークショー的に披露するものだ。


しかもライブ。収録とちがって編集や修正はできない一発勝負。


うちわのオンラインサロンとはいえ、それなりの緊張感が伴う、、、、


、、、ということは、全く、ない(笑)




ただの世間話のように、のんびりゆるゆるした雰囲気で、1時間ぐらいおしゃべりする。笑ったり、驚いたり、鼻かんだり、沈黙したり、、、なんでもありだ。



何か明確な目的を掲げているとか、ここから何かを学びたいとか、、そういう感じの設定も、何もない。ただなんとなく思いついてやり始め、面白いから続けている。

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ライターの仕事をしていた頃。たまに同業者の仕事ぶりに接することがあったりして、、

一口にインタビューと言っても、ずいぶんいろんなやり方があるものだなぁ、と思いながら眺めていた。



いろんな人のやり方を眺めて、自分のアプローチと比べたりしているうちに、、、

自分はどうやら、「相手が喋りたいことを引き出す」のが上手いんだな、と気づいた。




例えば、、ジャーナリストという肩書きを背負った人の中には、喋りたくないことを喋らせるのが得意な人もいるのだけれど、、、

僕には、ああいうのは、できない。やりたくもない。


 

こちらの都合に合わせて、欲しいコメントだけちょいちょい拾っていくというやり方もある。(業界にはコレをやっている人がとても多いのだけどね)。これも、僕にとっては「あー無理無理」という感じだった。


僕がやっていたのは、こんな感じのやりとり。



こちらがいろんな角度から言葉を投げかけていくと、、


ある部分で、相手の内面に、ビリビリっていう反応が立ち上がるのが感じられる。


それをキャッチしたら、そこから水脈を辿るように、話を掘り下げていく。


事前に想定していた内容から、どんどんはみ出ていくこともしばしばあったけど、、


その方が、絶対に、面白いものができると思っていた。

 

 

ほとんどの場合、相手も面白がってくれた。「雑誌の取材で、こんなに楽しかったのは初めてだよ」なんて言われることもよくあった。

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ライター仕事の場合は、そうやって取材した情報をもとに記事を書くわけだけれど、、、


それだと、相手が取材中にビリビリっと反応していたその感じが、文字ではなかなか表現できないことも多かった。


まあ、僕が書いていたのは主に健康情報の記事だったから、一番大事なのは実用性で、インタビュー中のリアルな雰囲気とかは必要とされていなかった、という事情もある。

 

 

で、、、今やっているライブトークでは、、その部分がむしろ面白さの核心だったりするわけだ。


それが、自分にとっても、面白い。


というわけで、、しばらく続けてみたいな、と思っている。


インタビューを受けてくれた、さとちゃんのブログ
 


同じく、ふみみのブログ



 


前に「ヒモトレ」フェスでご一緒した、広島「バランスからだ塾」のやすたまさゆきさんが、Facebookでこちらの記事を紹介されていた。2、3日前のことだ。
 


こちらの廣瀬選手を、やすたさんは中学生の頃からご存知だという。おそらく、やすたさんの元で、子供の頃からからだの感性を磨いたことが、現在のプロ活動を支える基盤となっているのだろう。


この廣瀬選手、おもしろいことに、1960~70年台に作られた旧式のパターを愛用しているという。


当時のパターは、ミートポイントが非常に狭く、現代のクラブと比べたらミスヒットしやすいらしい。だから、現在のプロツアーで使う選手はほとんどいないという。

 

だが廣瀬選手は、「ミートポイントが狭いから、集中しないといけない。それがいいんです」と言って、このクラブを使っているのだそうだ。



それで、、ですね、、



この記事を読んだとき、僭越ながらワタクシは、「ああ、これは、自分も一緒だな」と思った。


 

今日は、その話をしたい。

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僕は、Gibson社の戦前もののギターを愛用している。


現在、所有するギターは9本ほど(前より少し減った)。そのうちGibsonが7本。戦前のギブソンが、5本。


まあ、ここまで偏ったラインナップを所蔵している人も、世の中、かなり珍しいと思う。


時々、「どうして戦前Gibsonなの?」と聞かれる。まあ、「音が好きだから」とかざっくりと答えるんだけど、、


自分でも、それだけじゃ、あまり的を得た答えになってないな、と思っていた。


だって、戦前のGibson以外にも、いい音がするなーって思うギターは、たくさんあるから。Martinの戦前ものだって凄まじくいい音だし、現代のギターにも、素晴らしいものはいくらでもある。


だけど、自分が弾いて、あ、これだ!って思うのは、なぜかGibsonばかり、なのである。


これ、なんなのだろう?って、自分でも少し、不思議だった。


それが、先に挙げたゴルフの記事を読んで、、「ああ、そういうことかー」って、なんとなく、腑に落ちた気がしたのだ。


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Gibsonという楽器は(特に昔のGibsonは)、先程の旧式パターとちょっと似ていて、、


いい音が出る、押弦・撥弦のミートポイントが、かなり狭い。


うまくそのポイントを抑えて弾けば、魂をくすぐられるような色っぽくもせつない素敵な音色が出る。


でも、その音が出るための許容範囲は、極めて狭い。


同じぐらい古い時代のギターでも、例えばMartinはもっと弾き手に寛容だ。少しぐらいポイントがずれても、けっこういい音で鳴ってくれる。


さらに、、最新の製造技術で作られた現代のギターは、もっともっと寛容なものが多い。


寛容な方向に性格づけされたギターが、量産されている。


極論すれば、どんな弾き方をしても、いい音で鳴ってくれる。


その方が、音色のバリエーションも、たやすく変化させられる。


道具としての操作しやすさや安定性、ミスの少なさ、といった観点から見たら、昔の楽器とは比べものにならないほど使いやすいわけだ。


それはもちろん、悪いことじゃない。


だけど、、、僕は、そういうギターを、「欲しい」とは、あまり思わないのだ。

 

 

そうではなくて、どちらかというと、ミートポイントのレンジが狭くて、一種類の音しか出ないような、、


ちょっとクセの強い楽器の方に、なぜか、惹かれる。

 

合理的に考えれば、ミートレンジは広い方が便利なのに、なぜか、狭い方が、好き。


その方が、感覚的に、“しっくりくる”。


弾いてる実感がある、というか、自分が“音楽してる”という状態に、気持ちよく入れる、そんな感じがあるのだ。


で、、、その辺の感じ方が、先の記事で紹介されていたゴルフの廣瀬選手と、似てる、と思った。


彼女は多分、鍛錬的な意図で難しい道具を無理に使っているわけじゃない、と思う(大リーグ養成ギブスじゃあるまいし)

 

そうではなく、理屈で考えたら使いこなすのが難しい道具のはずなのに、彼女にとってはおそらく、そっちの方が、しっくりくるのだ。


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ギターを弾くときは、右手の指先で弦を弾くわけだが、その時、指の皮膚や爪と、弦の間の「角度」「圧力」「リリース速度」などを変化させることで、いろいろな音色が出る。


だから演奏中は、指先に意識を集中して、弦の接触感覚や圧迫感、リリーススピードなどを、一音一音、モニタリングしている。


その感覚と、耳で聞く音の鳴り方を瞬時に比較して、弾き方をコントロールしていくわけだ。

 

 

ミートポイントのレンジが狭いというのは、角度や圧力の許容幅が狭くて、ちょっと動かすと音が敏感に変化してしまう、ということだろう。


だからコントロールが難しい、となるわけだけれど、、


実はそれは、、コントロールを楽しむには好都合、というところにもつながってる。

 

 

これは、車のハンドリングに例えると、わかりやすいかもしれない。


いわゆるスポーディーな味付けの車は、ハンドル操作やサスペンションの硬さ、ブレーキなどがダイレクトで、ドライバーの操作にキビキビと反応するように設定されている。

 

そうすることで操作が難しくなる面もあるが、、、だからこそ乗って楽しい「Fun to Drive」感も高い。


街乗り用のファミリーカーではあじわえないような、キュンキュン加速してキュキュッと曲がる感覚が、楽しめるわけだ。


それと同じようなことが、Gibsonの古いギターや、60年代の古いパターでも、言えるのではなかろうか。


操るには少し技術が必要だけれど、操作してる感がダイレクト故に、楽しいのだ。


安定的にうまく弾くことより、そっちの方が、僕にとっては大事なんだろう。


と、、、そんなふうに考えたら、自分のGibson一辺倒の嗜好が、なるほどーーっと理解できたような気がした。