ゲームデザインエクセレント -9ページ目

◆ 構想への3つの試練

これら3つのアプローチですが、実はそれ自体にはいいも悪いもありません。"ゲームの中からゲームを出す"の典型例といえる「改良型アプローチ」はあまりよくなさそうに見えますが、これも「悪いやり方でやってはいけない」ということで、絶対禁止ではないのです。
  私は、アイデアというものは、ダーウィン方式でやっていくしかないものだと考えています。つまり、どんどん出して適者生存のふるいにかけるということです。「どうすればいいアイデアが出るか」なんてことを出す前から気にするのはナンセンスでしょう。もしそんな有効な方程式があるのなら、大手メーカーがとっくに使っているはずなのですから。
  ただ、生存競争させる場は、まず自分の机の上に設定しなければなりません。人前に出す前に、まず自分自身で十分吟味し、だめなものを排除するということです。


 ここで、注意すべき点を挙げましょう。
  まず言えること。それは、ゲームソフトは経験であるということです。何らかの経験をプレイヤーにさせるためのソフトウェアであって、その経験自体が楽しめないものなら、そのゲームはつまらないゲームなのです。
  志望者から出てくるアイデア倒れのゲーム構想に、この点で難のあるものがしばしば見受けられます。
  第1回で、良くない例として挙げた"農業シミュレーション"など、その典型ですね。まず、農業そのものは(仕事としてやるのはきつそうですが)楽しみをもったものです。体を動かす爽快感や充実感があり、育ち行くものを見守る期待感、そしてその結果としての収穫は喜びいっぱいですね。でも、それをコンピュータ上でやって面白いものでしょうか。マウスで「畑」のグラフィックスをクリックし、「種」アイコンをドロップし、水や肥料を意味するパラメータのスライダーを上下させる......これには期待されるような楽しみはないでしょう。単なる作業に過ぎないのです。モチーフや目的部分がいくら面白かったとしても、経験するプレイ自体がただの作業なら、それは楽しみをもたらしてくれません。
  また、コンピュータゲームのデバイスで体験できるものになっていなければなりません。例えば、自転車のロードレース。私自身趣味として嗜んでいますが(レース出場はまだ1回だけですが)、ゲームにしようとは思いません。そのままゲーム化しても、「遅いだけのレースゲーム」になってしまうからです。自転車の、他の乗り物にはない固有の楽しさは、残念ながら今のゲーム機の入出力デバイスでは、表現できないものなのです。


 そしてもう一つ。新しくなければ、存在意義はないということです。
  新作のゲームが価値を認められるためには、オリジナルの作品といえるだけの新しさが必要です。新奇と珍奇を取り違えたようなアイデアは論外ですが、既に開発されているものをもう一度もってきてもやはり意味はないのです。
  たとえば『ドラクエ』は完成された面白さを持っています。ゆえに、それと同じシステムを持ったゲームには面白さがあるでしょう。しかし、それを新作として出していいのは、オリジナルのドラクエの作者だけです。


 というわけで、あなたが得意の方法でゲームを構想したら、次は3つの試練にかけてみましょう。
  第一に、あなたの発見した面白さは、経験としての面白さでしょうか。
  第二に、それはコンピュータゲームのデバイスで十分体験できるものでしょうか。
  第三に、ほんとうにそれは新しいものなのでしょうか。
  もし「題材として面白い」だけなら、それはゲームとしては面白くありません。経験として面白いものにしなければならないのです。そして、テレビによる視聴覚&コントローラによる入力という限定されたデバイスによって楽しめる経験でなければなりません。その上で、新しさが求められるのです。


◆ とりあえず作ってみよう

 前2章を使ってあれこれと議論を進めてきました。しかし、ゲームデザインは何よりも創作です。論議を積み重ねていても、それ自体は生産的ではありません。絵を作りたいと思ったらまず描くことがだいじなのと同じように、ゲームデザインをしたかったら、まず自分で手を動かしてみることが必要です。
  作るべきものは、直接的には企画書と呼ばれるものになります。しかし初心者にとっては、文書としての企画書の前に、一つ問題があるはずです。ゲームそのものをどう構想するかということです。
  そんなの不要だから、企画書の書式だけ教えてくれればいい......なんていう人も、結構います。
   「アイデアに悩んだことなんてないよ。
    ぼくの場合、次から次へと湧き出てきてしまうんだから」
  一方で、自分のアイデアの貧困をぼやいている人もいることでしょう。ただ、この両者が客観的にみればほとんど違いがないなどということも、実際にはよくあります。「悩んでない」は、実は「悩むレベルにすら到達していない」であるかもしれません。


 この文章を読んでいる方の多くは、ご自分なりに構想した/しているゲームがあると思います。それはどのようにして構想したものでしょうか。私自身のノウハウではあれこれ言えることや言いたくないこともあるのですが、そこから離れて広く世間一般で行われているものという意味で考えますと、代表的なスタイルとして、次の3つが挙げられるでしょう。

  1.自分の好きな既存ゲームを元に、その"オレ流"をアレンジしてみる
   2.世の中に存在する楽しさ・面白さを見つけ、
     その理由を考えて「どうしたらゲームとして再現できるのか」につなげる
   3.日常生活の中から、ふだんは見落としている面白さを発見する


 どんなに面白いゲームでも、必ず飽きが来ます。その飽きの原因を客観的に見つめれば「どこが不満なのか」になり、それを裏返しにすれば「どうすればいいのか」になります。そして、そんな改良案を集め、さらに全体に対しても"オレならこうするのに"を入れていく......そのような形で、一応ゲームの案はできあがります。1が具体的に意味するのはこういうもので、これを「改良型アプローチ」と呼ぶことができます。
  一方2の場合、ゲーム以外のものからゲームのコアアイデアを導くという点で、対象の選び方によっては高い意外性を持つものが出現してきます。実際のゲーム作品にも、いくつかの例を求めることができるでしょう。これを、「構成型アプローチ」と呼びましょう。
  では3にはどのようなものがあるでしょうか。
  例えば『塊魂』など、そうなのかもしれません。授業が退屈なとき、消しゴムのカスをあつめてボールを作ったりしていなかったでしょうか。最初は単に暇つぶしだったものが、次第に自己目的化していって、どんどん大きなボールを目指したり、あるいは変わったものを組み込んだり。そこには、言葉にしづらい楽しさがあります。ではこれをゲーム化したら......? 以上は単なる想像ですが、じゅうぶん考えられることではあります。このような方法を「発見型アプローチ」と名付けましょう。

 さて、あなたの得意のスタイルはどれでしょうか。
  このどれでもないという場合ももちろんあると思います。しかし、かなりの部分がカバーできるのではないでしょうか。

◆ それは退屈から始まった

 鉛筆は六角形断面をしています。さいころの目の数と同じなのは偶然なのでしょうが、当然これを見逃すはずがありません。子供の頃、私の手元の鉛筆にはいつも1から6個のドットが打たれていました。授業が退屈なとき、サイコロ遊びをするためです。同じような経験をしていた人も、多いことでしょう。
  さて、サイコロはただの道具で、問題はそれを使って何をするかです。私の場合たいしたことはなくて、せいぜいすごろくのようなものを作った程度でした。ところが高校の頃のクラスメートは、それよりも格段に高度な遊びを開発していました。彼は鉛筆を使って野球をしていたのです。鉛筆にはヒットとかアウトとか書いてあり、それを転がして野球の試合を再現するのですね。やがてパラメータも導入されるなどゲームシステムは本格化、そしてペナントレースまで始め、日本シリーズに至るまでの熱戦が繰り広げられるに至りました。
  彼が長じてスクウェアエニックスに入り、あの『バトエン』を開発した・・・というのは大嘘ですが、実際やっていたことは同じだったのです。


 人類史上初のコンピュータゲームは、1958年にアメリカで作られています。ウィリアム・ヒギンボーサム(William Higinbotham)という物理学者で、研究所の一般公開で見学者に楽しんで貰うための展示品として、二人のプレイヤーがドットを打ち合うテニスのようなゲームを製作したのです。この人が人類初のゲームプログラマということになるでしょう。
  一方、「人類初のゲームデザイナー」となると、これは誰にもわかりません。アナログゲームまで含めて考えなければならないため、時間スケールがいきなり数千年単位になってしまうのです《*1》。ただ、一つ言えることがあります。退屈をもてあましていた創造性豊かな誰かが自然発生的にやった、ということです。
  ゲームをデザインするということは、遊びを作るということなのですが、この辺にジレンマがつきまといます。現代を生きる私たちは、学生であると社会人であるとを問わず、そこそこに忙しい存在です。しかし、遊びというのは貴族的な優雅な生活からこそ出てくるものでもあるのです。
  とはいえ、日常生活のこまごまとした面を、道具と社会システムによってサポートされているため、古代や中世の住人に比べれば王侯貴族のように楽な生活を送っているとも言えます。臆さず、取り組んでいきましょう。

第3回 ゲームデザインの実践

どうしておもしろいソフトがつくれるのかという問いに対しては、私はいつでも言っているんですが、結局はだれもがわからないんです。実はこうしてつくります、ああしてつくれますという解答が出せるとすると、だれでもそのようにすればできるわけでしてね。それは秘密でも何でもないんです。いまの時代で秘密なんていうものは隠し切れるものでもありません。
 率直に言って、いまだにどうしておもしろいゲームソフトができるかということは、世界中の誰にもわかりません。だからこそソフトウェアという言葉が非常に重みを持ってきているのでしょうね。


  山内溥(任天堂社長;当時)
  ―『カミトバ星/山内語録』
  http://homepage2.nifty.com/kamitoba/goroku/yamauchi.html  より
  原典:中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年

◆ 代用品ではなく

ゲームというのは多彩なメディアで、デザインがとりうる選択肢は途方もなく広いものです。「そんなものゲームになるわけないだろう」という思いこみを打ち崩すことで、これまでも進化を遂げてきました。"新しさ"が常に求められるという構造が、それを支えているように思います。ゆえに、「こうでなければならない」という教条化ほどナンセンスなものもないでしょう。
  しかし、そのことは「何でもいい」を意味はしません。
 私の考えとして一つ強調したいことがあります。


「はじめから『代用品』として作られているようなゲームには、存在意義などない」

 たとえば、アニメや映画の代用品として作られているゲーム。雑誌には、「壮大なストーリー」「感動の演出」などと並び立てるばかりで、プレイヤーにどんな経験をさせるのかが全く考慮されていないようなゲームの記事なり広告なりがしばしば見受けられます。アクションゲームのようなものでも、キャラクターデザインは誰だとか、声優は誰だとか、そんな話ばかりに終わってしまうタイトルが少なくありません。 いわゆる版権ものの中には、ゲーム内容など全く考慮されていないものもあります。「キャラクター商品の代用」としてしか考えられていないからです。 そして、他ならぬ「ゲームの代用品」として作られているゲームというものも、指摘できるでしょう。典型的には、ライバル機のヒット作に対応させるために作られるゲームや、商品展開の体系に空いた穴を埋めるためだけに作られているようなゲーム。また「×××2009」といった感じでデータだけアップデートしているようなゲームや、新規プラットフォームに対応したリメイク版のゲームなども、ゲームの代用品であるゲームです。 しかし、ゲームは何よりもゲームとして豊かな可能性を持っているのではないでしょうか。
 仮にもゲームデザイナー志望であるのなら、代用品など構想しても意味はありません。他ならぬゲームを志向すべきなのです。


このことは、各分野の専門家が参加するようになった今日のゲームでは、とりわけ大きな意味を持ちます。
 業界に導いてくれた導師から授かった言葉は既に語りました。ここでもうひとつの言葉を紹介します。会社に入ってから、自分の上役である著名なプログラマから言われたことです。


「ゲーム作りから、他の職種がやる仕事を取り除いて残ったもの、それが企画の仕事だ」


本来、仕事内容への戒めとして聞かされたのですが《*4》、今の時代、より広い意味を持つようになっている言葉といえます。
 大きなプロジェクトであれば、それぞれの分野の一流どころを集めることができます。ベストセラー作家が物語を考え、売れっ子脚本家がシナリオを書き、国際映画祭に招待されるような映画監督が映像を作り、ドラマで活躍する俳優がボイスアクターを務める......こんなゲームですら、今日では現実です。
 ゲームプロダクトにおけるゲームデザイナー職種(=プランナー)の役割には、実務的には「何かの代役」的な面が大きいです。これに対応できないことには、日々の仕事が勤まりません。しかし、代役しかできない人間は、いずれは不要になります。
 むしろ、このような場合だからこそ発揮できる力を、ゲームデザイナーなら持ち合わせていなければならないでしょう。それを一言で言えば、「ゲームを生み出す力」となるのです。

◆ 拡散・希釈化する"ゲーム"

こんにち、ゲームとゲームでないものの境界線は、かなりあいまいになっています。
 これには、ふたつの傾向が指摘できます。ひとつはゲームが他メディアの要素を取り込んでいる場合。例えばアドベンチャーゲーム。登場人物が発言するときも、初期のゲームではテキストだけが表示されていましたが、いつしかそのセリフの発言主のビジュアルが表示されるようになりました。やがて、発言内容により表情が変わるようになったり、ポーズが多彩になったりしました。こうなってくると、もう"デジタルコミック"となってきます。今日なら、3D化された上で声優によるボイスが入るぐらいのことはふつうです。そして、アドベンチャーゲームだけの現象でもありません。コミックやアニメの要素が、さまざまな種類のゲームに入り込んできているのです。
 そしてもう一つは、ゲームではないものがゲーム的な要素を取り込んでいる場合。ケータイサイトからパチンコのCR台まで、多彩なものが指摘できるでしょう。


 実際のところ、作り手としては、どんな側からのアプローチも可能です。私は(ごくたまにですが)ノベライズなどの仕事もします。このとき「文芸作品を創っている」という意識はありません。「ほとんどテキストで構成された、インタラクティブ性のない紙媒体のゲーム」を作るつもりで取り組んでいます。逆に、ノベル作家がゲームを作るとすれば、「グラフィックスやサウンドをふんだんに組み込んだ、インタラクティブ性のあるデジタル媒体の小説」のつもりで取り組んでも問題なく完成させられるでしょう。同じことがアニメやマンガなどにも言えると思います。
 技術が未熟だった時代、家庭用のコンピュータはあきれるほどに貧弱な表現力しか持ち合わせていなかったため、ゲームにはゲーム固有の技が必要でした。しかし技術水準は急激に充実し、そういった個別の差を埋めていきました。ゲームの講師を初めて間もない頃グラフィックスの科目を担当したことがありますが、「256色が自由に使えるようになった今も、パフォーマンス向上のためには16色環境が使いこなせなければならない」を説き、パレット読み替えによるアニメーション処理といった技を解説していたものです。これなど今となっては、ほとんど化石のようなノウハウです。かつてゲームグラフィッカーは、そうしたゲーム専門のノウハウを知り対応しているということを存在理由にできたのですが、既にそうしたビハインドはなくなり、絵描きとしての能力だけで勝負しなければならなくなりました。同様のことが、他の職種にも言えます。


 そもそもデザイナーというものは、時代の新しさに対して何かを仕掛けなければならない存在です。
 20世紀の工業デザイナーたちは、プラスチックや軽金属など、新しい素材を手にするごとに、その可能性の極限を追求していきました。形態、用途、さらには製法に至るまでを考え、新たな可能性を模索したのです。結果、私たちの生活は、それ以前の時代では考えられなかったほどに、美しく多彩な工業製品に取り囲まれています。ゲーム以外のものがゲーム的な要素を取り込んでいくというのも、こうした"デザイナーのDNA"がもたらす現象でしょう。80年代以降著しく発展したメカトロニクスを取り込むことで、アミューズメントはエレメカに、パチンコは羽根ものやスロットに、変化しました。そして近年のコンピュータの躍進はデザイナーたちに新たな可能性を与え、それらをよりゲームに近いものにしていったのです。
 ゲームデザイナーの場合も、やはり同じスタンスを持つべきです。新しい技術的な可能性を手にしたなら、それを活用して、人々に新たな喜びを与えるよう努めなければなりません。3Dが使えるようになれば3Dを、通信ができるようになれば通信を、「プレイヤーを楽しませる」という目的で適切に使っていくべきなのです。「新技術など導入しなくても、面白いゲームは作れる」は一面の真実ですが、これはむしろ技術屋のための言葉であって、デザイナーの役割はそう言っている技術屋を説得することです。
 ともあれ、クロスオーバーな時代だからこそ、「ゲーム屋が作るべきものは何なのか」を見据えていないと、自分の居場所を見失ってしまうと思います。「何がゲームなのか」「コンピュータゲームならではの価値は何か」といったテーマは、ゲームの道を進もうとする者が各自考えなければいけない問題でしょう。


◆ ゲームデザイナーが創るもの

この、「ゲームの本質=ルール」という視点は、かなりの切れ味を持つツールです。例えば前回で取り上げた"不可解な志望者"がなぜ通用しづらいのかに関しても、明解な答えを与えてくれるでしょう。
 ただし、本質を捉えることは、必要条件ではあっても十分条件ではありません。もし「それさえあればOK」ということなら、そもそもコンピュータゲーム自体が不要だったはずです。そこで、「エンターテインメントとして作られた、コンピュータソフトウェア」に特化した意味での"本質"を考えてみる必要があります。


 先述のように、一部のゲームカテゴリーはコンピュータの前から存在します。ただ、RPGにしてもシミュレーションにしても、コンピュータ化によって獲得できた大きなメリットがあります。それは「一人でも遊べる」ということです。
 実際、これらのゲームの複雑なルールは、プレイヤーを選ぶという点で大きな問題でした。そしてルールを理解している人間が数人同じ場所に集まらないと始められなかったわけで、プレイそのものの機会が得にくいものでした。この「一人では遊べない」というのは、囲碁将棋や麻雀などテーブルゲーム/ボードゲームの一般的問題点でもあります。
 では、なぜ一人ではだめなのでしょうか。ここで指摘したいのが、私が"アクション→リアクション"関係と呼んでいるもの。つまり、「何かをすればそれに応じた何かが起きる」という状況です。娯楽として存在するためには、これは欠かせません。ルールを覚えるための過程で、一人で駒を並べて動かしてみたりすることはあっても、それはゲームにはなりません。自分のアクションに対して、何のリアクションも来ないからです。ゲームのコンピュータ化は、何よりもここの点で大きな福音をもたらしたのです。一人でも遊べるということから、まずプレイ機会自体の制限がなくなります。徹夜につきあってくれる相手がいなくても、夜通し遊び続けることができます。そしてわかりやすさにもつながります。テーブルトークRPGのルールブックを熟読したとしても、自分が正しく理解できているのかどうか保証はありません。しかしコンピュータRPGの場合、そんな心配は不要です。試しにやってみればいいのです。
 また、アクション→リアクション関係には、もっと感覚的な快感という要素もあります。例えばドラクエには、しばしばパズル的なマップが登場します。VIIの場合のカラーストーン。押して並べることで石が砕けて道が開くのですが、この「押すと動く」や「並べると割れる」がそれ自体けっこうおもしろくて、特に必要もないのに押しまくってしまったりするでしょう。他、『テトリス』におけるパネルの回転など、単に感覚的に気持ちよくて、必要ないときにもつい続けてしまうという場合があります。 
 アクションゲームの場合、この両面とも直結してくるでしょう。方向キーを入れるとその方向に進み、ボタンを押すとジャンプしたりダッシュしたりする......初期のアクションゲームはたいていそんなものでした。きわめて直感的でわかりやすい反応です。ゆえに、始めた次の瞬間からゲームに入り込むことができます。それが感覚的な快感を伴っていれば、続けてプレイし続けるでしょう。そしてその中で試行錯誤を進めていくことで、上達することができるのです。


 アクションに対してどうリアクションするのかは、直接に反応するだけではありません。間に演算を組み込むことができるということです。
 ファミコン時代、『燃えろプロテニス』というゲームがありました。それまでのテニスゲームと決定的に異なる点がありました。「反応までに時間がかかる」ということです。例えば球を追ってダッシュする場合。従来型テニスゲームでは、方向キーを入れた瞬間にトップスピードで動き始めますが、"燃えテニ"はそうではありません。加速するまでに時間がかかるのです。そして、止まるときも瞬間的には止まれません。二三歩ほど惰性で歩いてからやっと止まります。
 これは、プレイヤーへの意地悪のためではありません。シミュレーションを指向しているのです。単純に作ることもできるアクション→リアクション関係にあえて関数をひとつ設けることで、現実の人間の動きに近づけているということです。今にして思えば、処理能力の低かったあの時代によく頑張ったものですが、当時は「操作性が悪い」と断罪され、このゲームに対する評価も概ね厳しいものでした。しかし、その後のスポーツゲームを見れば、正しい方向性であったことがわかります。
 何かをモデル化してシミュレートしてみるというのも、遊びの世界では一般的です。アクション→リアクション関係という軸の中、それを高水準で実装できるのが、コンピュータゲームの強みといえるでしょう。ゲームデザイナーは、当然ながらそこまで創り上げていかなければなりません。

◆ ゲームは遊び方のルールである

さて、冒頭で触れた問題提起、「ゲームの本質とは何か」に戻ります。
 いったいそれは何だと思いますか?......と問いかけたいところですが、この答え、実は既に書いています。この節のタイトルです。
 たとえば将棋を考えてみましょう。
 これは、五角形の木でできた駒を、9×9マスのボード上に展開して遊ぶものです。駒は、可能な動きの異なる8種類、合計20枚。1ターンにつき1つだけを選んで動かすことができます。敵の駒のいる場所に自分の駒を進めた場合、先にいた敵駒は排除され、自分の手駒として盤外にキープされます。そして手駒がある場合、盤上の1コマを選んで動かす代わりに、手駒を任意の場所に配置することができます。
 このゲーム体系において重要なのは何でしょうか。例えば駒がなくてチェスのそれで代用したとしても、それが将棋であることに代わりはありません。ペットボトルのふたに「歩」とか「飛」とか書いたものでも同じです。また、盤や駒がコンピュータの画面上に表示されても、将棋が将棋であることには、全く代わりはありません。
 しかし、駒の動きを変えたらどうなるでしょうか。あるいは手駒を禁止したり、二歩を認めたり、1ターンにつき好きな数のコマを動かせるようにしたら? こうなったら、もう将棋とはいえません。
 つまり将棋というゲームの本質は、将棋ならではの遊び方のルールなのです。これが維持されていれば将棋です。一方、同じ道具を用いていてもルールが全く異なっているのなら、それは将棋ではないのです。《*2》


 コンピュータゲームの場合も、同じです。
 例えば『ドラクエ』。そこでは、キャラクターはパラメータの集合として規定されます。より具体的には......体力や素早さなどの基本能力値があり、そこから生命値や攻撃力・防御力などが決まる。戦闘とはそのやりとりで、攻撃力と防御力の差し引きでダメージが決定する。ダメージを受けると生命値が減少する。生命値には回復手段があるが、ゼロになると死亡する。相手を死亡させると、経験値が増える。経験値が一定以上になることでレベルがあがり、パラメータが上昇、戦闘力が高くなる、また、戦闘では経験値の他にゴールドを得られるが、攻撃力や防御力を補正するため武器・防具はゴールドで購入できるため、やはり戦闘力向上の重要要素となる。成長し、これまでかなわなかった強敵を倒し、近づけなかった未知の土地へ乗り込む......文章として記述すればこのようなものでしょう。これはまさにルールです。
 ルールの変更は、ゲームを別のものにしてしまいます。例えば、経験値という概念を取り去ったらどうでしょうか。もちろんその場合でも、ゲームは成立します。ただ、取り去ることで失ったものは、別の要素を導入することで補わないといけません。そして、何をどう持ってこようとも、経験値のないドラクエは、もうドラクエとは言えないでしょう。
 また、似通ったルールを持ちながらも、その実装部分に違いを付けることで、別のゲームにするということもあります。初期の『ファイナルファンタジー』は、ゲームシステムという意味ではドラクエとそれほど違いはありません。ドラクエに慣れた人なら、プレイ方法に戸惑うことはなかったでしょう。しかしそのプレイ感覚は全然別物で、大きな違和感を感じさせるものでした。これはいわば将棋になれた人がチェスをやるようなものといえるでしょう。そしてこの違和感は、慣れることによって"個性"として認識でき、そのことからシリーズタイトルとしての確立につながったのだと言えます。


 実はRPGというゲームは、コンピュータ以前から存在しています。「テーブルトークRPG」と呼ばれ、経験値や攻撃力&武器による補正といったRPGならではの"小道具"も、そうしたカテゴリーで確立したものです。これらは商品としては「ルールブック」という形で成立していました。


 コンピュータRPGの場合、プレイヤー自身が直接記録/計算する必要がないため数値類を細かくすることも可能ですし、入り組んだルールを導入することも可能です。そして、単純なルールからより複雑なルールへと、プレイヤーの習熟にあわせて小出しにグレードアップしていくことも可能です《*3》。こうした可能性が、非コンピュータ時代には限られたマニア層だけのためのマイナーな遊びを、"国民的娯楽"のひとつに押し上げたのだと言えるでしょう。

◆ 実際の呼び名

前節では、合理的な基準によって分類してみました。ただ、これは筆者の独自な取り組みで、世間一般で実際に使われているゲーム分類用語とは、多少のずれがあります。言葉は、具体的な"何か"を論じる必要によって作られるもので、抽象的概念が先にあるわけではありません。そのため、システム的な合理性とは相容れない面がどうしても出てくるのです。
 そこで、一般的に使われている用語を、ここと対照してみましょう。


アナログゲーム
"非コンピュータ"であることを強調したい場合によく使われます。ここで言う「道具式ゲーム」とほぼ同義です。

アブストラクトゲーム
「アブストラクト」="抽象"。囲碁将棋などに対してしばしば使われます。ここで言う「ボードゲーム/抽象型」とおおむね一致します。

アミューズメント
本来広い意味がある単語ですが、専ら「非ソフトウェア型/業務用」を指して言う場合があります(業界団体の『日本アミューズメントマシン工業協会』など)。また、特に一部ではパチンコ・スロットだけをそう呼ぶ場合があります。

ビデオゲーム
コンピュータゲームの総称として、世界的に使われいてます。本来「ソフトウェア型」全体を指しますが、日本では「業務用ゲーム/汎用筐体」に特化した意味で使われる場合があります。

テレビゲーム
コンピュータゲームに対する日本独自の呼び方です。通常は「家庭用ゲーム/据え置き型」を意味します。つまり、上記の(狭義の)"ビデオゲーム"と対になる概念ですね。

アーケード、コンシューマ
業務用ゲームを「アーケード」、家庭用ゲームを「コンシューマ」と呼びます。

コンソール
「家庭用ゲーム/据え置き型」を特定する場合に使われます。


 しばしば言われるように、分類は対象を理解するための手段であるのと同時に、それ自体が主張でもあります。つまり、こうして分類を行うというのは、「本シリーズではゲームをこのように観るのだ」という宣言でもあるわけです。
  本シリーズでも、特に必要な場合以外では、これらの一般的用語を使って記述していくことになります。つまり「装置型」「道具型」などという言葉は、今後の記述には原則使わないということですが、まずは考え方と基本的スタンスを理解してもらうため、独自用語による分類を先行しました。

◆ ゲームの分類

まずは、ゲームと呼ばれるものを分類してみましょう。
 突き詰めていけば深い問題があれこれあるのですが、さしあたって次のようにまとめてみます。


ゲームデザインエクセレント
この分類では、まず遊ぶために必要な本体の複雑度に注目します。「装置」レベルの複雑度を持っているのか、「道具」レベルにとどまっているのかで、2つに分けるのです。
 「装置式ゲーム」においては、さらに2種類。コンピュータソフトウェアとして作られているものと、装置そのものがゲームであるものとに分けます。そして、それぞれ業態別の分類を行います。「ソフトウェア型」の場合4区分、「非ソフトウェア型」の場合、業務用か家庭用かで2区分となります。
  「道具式ゲーム」は、遊ぶための専用ボードを必要とする「ボードゲーム」と、普通のテーブルの上で展開される「テーブルゲーム」に分け、さらにどちらにも入らないものとして、3つの分類枠を設けました。
  「ボードゲーム」は、「抽象型」と「模擬・象徴型」に二分類しています。前者の典型は、囲碁やオセロ。また、チェスや将棋も、古代の軍隊に仮託されているとはいえ実質的には記号に過ぎないことから、ここに含まれます。一方、ゲーム目的がシミュレーションであったり、特定の遊び方のみが想定されているような場合は後者です。戦術シミュレーションの他、『モノポリー』や『人生ゲーム』などが、ここに含まれます。
  「テーブルゲーム」の場合も、カードゲームにおいては同じことがいえます。トランプ・花札・麻雀などは「抽象型」で、『マジック・ザ・ギャザリング』などのトレーディングカードゲームや、(特定の遊び方のみが想定されていることから)かるたが「模擬・象徴型」となります。「立体ゲーム」は、『ジェンガ』などが入ります。
 なお、「テーブルトーク」「ゲームブック」「室内競技」の3つですが、このうち室内競技は、スポーツとゲームの中間ともいうべきもの。ビリヤードやダーツなどが典型例になります。(後の二つは昔から確立されているカテゴリーなので、興味のある方は調べてみてください。詳しいサイトがいっぱい見つかるはずです)


 なお、図中、黒いはっきりした字体で書いているものがありますが、これは本シリーズで扱う「ゲーム」の範囲を概ね示したものです。
  日本のゲーム産業はコンシューマを中心に動いていますが、世界的に見た場合には、その限りではありません。特に、3Dをフルに使った近年のハイテクゲームでは、PCの方がコンセプト上の中心です。高性能グラフィックボードの最先端の機能を使ったハイテクゲームが先行開発され、それがある程度普及してからゲーム機に移植されるという流れができあがっているのです。元々欧米では"スノッブでマニア的な大人の、書斎における娯楽"としてPCの「ゲームソフト」がありました。今日のゲームは、それが大衆化したものといえます。
  一方日本のゲームは、元々が「おもちゃ」扱いの商品で、これが高度化していって現在のようになっています。ここでのコンセプト上の中心はアーケードです。「ゲームセンターのゲームを自宅でも遊べる玩具」として、広く普及していったのです。
  "業界"と見た場合は縦割り的な構造になっているせいか、別々のものとして扱う資料も見かけます《*1》。しかし、グローバル化が進んだ今、どちらかだけを挙げるのは不適切です。「クリエイター志望者にとっての便宜」という視点から、対象範囲をこのように設定しておきたいと思います。