ゲームデザインエクセレント -8ページ目

◆ 4つのゲーム市場

一口にゲームといっても、全体をひとくくりにするわけには行きません。商品カテゴリーとしての違いを意識する必要があります。
具体的には、次の4つになります。


○アーケード:ゲームセンターのゲーム。
○コンシューマ:家庭用ゲーム機。PSPなど携帯ゲーム機も含む。
○PCゲーム:パソコンのゲーム。
○ケータイゲーム:iモードやiPhoneなどの携帯電話で動くゲーム。

まず流通面で違いがあります。
アーケードの場合、直接の顧客はゲームセンターの経営者です。そして、一般に市販されるものではなく、業者間取引で売買されています。
コンシューマとPCゲームはどちらもエンドユーザー向けに販売しますが、コンシューマは玩具、PCゲームは情報機器という形で、それぞれ母体となった産業が異なったため、同じルートでは売られませんでした。*2
ケータイゲームの場合、最初から通信キャリアが主役です。キャリアごとに一元化されたダウンロード販売で、小売店すら経由しません。

ただ、相違点は流通だけではありません。
例えば商品のあり方に、大きな違いがあります。アーケードの場合、筐体自体を企画に合わせて新たに作り上げてしまうということがしばしばあります。これがコンシューマですと、専用コントローラひとつ作ることですらたいへんです。また、プラットフォームの仕様が変更されるということは、コンシューマでは大騒動になりますが、ケータイの場合日常茶飯事です。同じiモードであっても、タッチパネルだ傾きセンサーだと、機種ごとに次々と新しい機能が実装されてしまい、画面サイズすら統一されていません。
そして、ゲーム性に"ふさわしさ"の違いが出てきます。もし『ドラクエ』がアーケードにあったらどうなるでしょうか。逆に、『戦場の絆』がケータイゲームだったら?どちらも全く違うゲームとして作り直さない限り、通用しないでしょう。やはり種類ごとにふさわしいゲームというものがあるのです。
また、遊ぶ環境の違いという面にも注目が必要です。ゲーム機は居間のテレビにつながれていますが、パソコンは個人のデスクの上です。この違いが、ふさわしい作品性にも影響を与えて来ます。*3
結局のところ、ユーザーのニーズが違っているということです。そしてこれが、市場という括りを見る場合の重要ポイントともなるわけです。


◆ 産業を知ることの重要性

さて、"活動フィールド"などというタイトルのもとに書きつづる今回は、産業としてのゲームに関する話題です。ゲーム産業の構造などを「クリエイターとして知っておくべきこと」という視点からまとめて行きます。これは、創作の講座としては、奇異な感じを受けられるかも知れません。例えば小説や漫画などの入門講座なら「どう書くか」「何を書くか」を中心に構成するわけで、「出版業界の仕組み」なんていうコマは、たぶんないでしょう。しかし、ゲームデザインを扱う以上、仕方のないことでもあるのです。


 ゲームは、大がかりな創作です。十数人もの人間が十数ヶ月もの間それだけに取り組んでようやくできるというようなものなのです。*1現実的には、ビジネスとして成立させなければなりません。同人ゲームという選択肢もありますが、その場合、内容的に限定されたものになってしまいます。「売り方の違い」に過ぎない小説や漫画の場合とは、根本から異なるわけです。そもそもデザインとは、近代工業の成立とともに登場した概念です。単なるクラフトワーク以上のことをするから成立するわけで、やっつけ仕事でできる規模のゲームには、開発者はいてもデザイナーは必要ありません。およそデザイナーを志す以上、産業への理解は不可欠なのだと言えるでしょう。

第4回 ゲームデザイナーの活動フィールド

コンピュータゲーム業界の発展は、家内工業の発展と比較される。家内制手工業は個々の職人を起源とするが、産業革命までは繁栄しなかった。しかし、機械化によって安いコストでたくさん生産するようになると、規模の経済性による利益を享受できるようになった。......(中略)......もちろん、市場には特殊な製品に関しては個人的な製造業者にもチャンスは残されるが、単価は工場方式による製造業者よりもずっと高くなる。1人の製造業者の生産は、効率よく経営されている工場の生産を単純にスケールダウンしたものにはなり得ない。


  A.ロリンズ、D.モリス著 アクロバイト監訳
  「ゲームクリエーターズバイブル」(2001、インプレス)より

◆ 註

*1:人類初のゲームデザイナー
古代エジプトには『セネト』という双六系のボードゲームがあり、なんと紀元前3500年頃の墓からも見つかっているそうです。また、われわれがなじんでいる囲碁も、前漢の皇帝の墓から出土しているそうで、二千年超の歴史です。
ちなみに、"人類初のゲームプログラマ"については、異説もあるようです。歴史の検証というのは、なかなか難しいものですね。

*2:DSのタッチペンやWiiのリモコンになったとしても・・・
「経験」を強調すると、入力デバイスの問題であるかのように勘違いされてしまうことが少なくないのですが、そうではありません。物理的に何をどう動かすのかといったことを問題にしているわけではないのです。例えば良くできたアクションゲームをプレイしているとき、私たちは「剣を振るっている」や「銃を撃っている」を"経験"しています。物理的には単にボタンを押しているだけですが、心理的にはそうなのです(そう思わせてしまえるから『良くできた』ゲームなのです)。注目しているのは、こうした心理的な経験です。
なお、既にある農業テーマのゲームですが、実は全くプレイしたことがありません。もしここで例示しているようなことが実際にそのゲームの内容だったとしたら、どうかご容赦ください。

*3:企画書あるいは提案書
「企画書」という言葉の示す意味は業界によってかなりの揺らぎがあります。ゲームの場合、作ろうとする製品の作品的な構想をまとめたものをそう呼ぶ場合が多いです。この場合、分量的な決まり事はなく、かなりの大部になることもあります。
ただ、ゲームもいまではビッグビジネスとなったため、ビジネス面での提案がなければ企画書とは呼べないという考えも成り立ちますし、他業種のように「作る製品の内容までは含まず、予算とコンセプトだけでペラ1枚または『PowerPoint』のスライドの数ページ分にまとめる」とする場合もあります。実務的には、状況に応じてあらゆる種類の"企画書"を作れるようになっていないといけません。
見本を示すのは簡単です。この仕事、長くやっていれば「使う当てのない没企画書」ぐらいいくらでもありますので。しかし本シリーズでは、あえてそれを出さずに行きたいと思います。私自身、試行錯誤によって自分のスタイルを見つけました。そして、時代や職務環境が変わっても対応していけるのは、その試行錯誤を通じて柔軟な対処能力を身につけてきたからです。サンプルの提示は、受け手の成長のチャンスを奪うことにも繋がりかねず、その意味でも慎みたいと思うのです。


*4:具体的なコンセプトにまとめた上で、テーマを導き・・・
「テーマ」「モチーフ」「コンセプト」などの用語は、文脈あるいは論者によって、さまざまな使い方がなされています。特に「テーマ」などは、"愛"とか"友情"といった大向こうウケのする紋切り型の言葉を持ってくることが多いです。
ただ、私としては、「具体的な結論を導くために役に立たないものは、制作実務上は考慮に値しない」を自分の信条にしています。そのため、テーマという言葉の意味するところも、その先を導くだけの具体性を求めるのです。
前述のような紋切りワードは、基本的に評論家のためのものだと思っていてください。

*5:近年まで教養部があった
かつて大学では、2年生までは「教養課程」=人文/社会/理数の各分野および外国語を取り混ぜて履修するコースに属することになっていました。たとえ法学部生であっても、3年になるまでは哲学だの数学だのを学んでいたのです。この仕組みは90年代以降次々と廃止されていったのですが、現在でも東大は堅持しています。入学時点では全員「教養学部」で、3年進級時に各学部に振り分けるという仕組みをとっているのです。「支配層を養成するのだ」という使命感のようなものを感じますね。


◆ 志望者としての日常を

以上、ゲームデザインの名においてやらなければならないことを、ざっと説明しました。
ただ、実践において重要なのは、まずトレーニングです。
例えば野球がうまくなりたかったら、どうするでしょうか。試合をどれだけ観ても、上達はしませんね。自分自身がやってみるしかありません。「野球」というスポーツはいくつもの要素に分解されますから、まずそれぞれの要素単位での練習が必要です。「投げる」「打つ」「受け止める」といった"ボールさばき"があり、その全体を支えるものとして「走る」があります。ただ、個別にやっていただけではだめで、ベースボールプレイとして統合する必要があります。一方、要素の中に自分固有の弱点があれば、それを個別に強化する必要もあるでしょう。
ゲームデザインを実践する上で大事なのも、こういう考えです。
これもまたいくつもの要素に分解できるもので、それぞれに対する練習は必要です。特に、表現と構成は磨いてください。文章力の貧弱な企画屋はまずいません。また、人前で話すことや人と会話することができなければ、企画という仕事は絶対に勤まりません。そしてビジュアライズ。画力は人によってまちまちですが、たとえ文字だけのスライドを作る場合も、美しく効果的に作るだけの技術は必要です。また、概念や関係性を図解する能力も必須です。ビジュアルは、極めるにはどうしても才能が必要です。しかし、企画屋に求められるものは、そのレベルではありません。勉強と練習で到達できる程度の技術なのです。
ゲームデザインという形で統合することも重要になります。しかし基礎を持たないままやっても「ごっこ」に過ぎませんし、弱点があれば個別に補強していかなければなりません。
これらは、ある日突然上手くなるということはありません。日常的な取り組みが必要です。そして、ゲームをやっているだけというのは、練習をせずに試合ばかり観ているようなものです。うまくなれるはずがありません。

加えてもう一つ。教養です。
冒頭で「遊びというのは貴族的な優雅な生活から生まれてきた」旨を述べました。ただ王侯貴族の生活には、教養という側面もあります。映画『アマデウス』の序盤部分で、主人公のサリエリが主君である皇帝にピアノのレッスンをつけているシーンがありますが、実際の宮廷には画家や学者など様々な種類の文化人が仕え、家庭教師として細かく刻んだスケジュールで教授していたのです。もちろんピアノの演奏だの錠前造りだのが国家経営という仕事に直接役に立つなどということはありません。しかし「王たるもの、世の中のことはあまねく知らねばならぬ」という価値観が、それを支えたのです。
第1回で指摘した我が国の「職人気質」の伝統ですが、ときとして悪い面が発揮されてしまいます。文化におけるタコツボ的な風土=専門家は専門バカでよしとしてしまう風潮をもたらしてしまうのです。日本でも、支配階級の場合は西洋の王侯貴族と同様に教養を重んじていました。また、大学に近年まで教養部があったことからもわかるように《*5》、エリートの育成には"殿様"同様に教養が重視されていたのだといえるでしょう。「エリートvs現場」という形で模式化されているとも言えます。
しかし、こと企画職の場合、それ一筋で打ち込めばいいと言うことにはなりません。エリート臭を漂わせているとてきめんに嫌われますが、能力的にはそういうものを持っていないといけないと思います。
このあたりも、常日頃からの心がけということになります。
実際には、眉毛つり上げて勉強する必要はありません。楽しめばいいのですから。

◆ デザインは1往復

ここで一つジレンマが出てくるでしょう。実際に私たちがゲームを構想する順番は、こうではないということです。先に3つのアプローチを上げましたが、そのどれも"まず現状分析から始めよう"なんてことは言っていません。どれも「面白い」のコアをいきなり考えるところから始めています。
では、このジレンマはどう埋めればいいのでしょうか。
その秘密が、一往復です。
まず、具体的なゲームを考えます。次に、それを考えるに至った自分の思考を客観視してみるのです。そして一般論に還元し、さらにその前提となる現状認識へとさかのぼっていくのです。つまり、現状→コンセプト→テーマ→具体的作品構想という流れを逆にたどっていくわけですね。
ここで終わらせてしまうと、ただの嘘つきになってしまいます。そこで"復路"が必要になります。自分が到達した現状把握が果たして正しいのか考え、定立した一般論から結論に至までの妥当性を検証していくということです。
この一往復の結果、全く違うゲームになってしまうこともあるかもしれません。そうしたら、今度は二往復目を始めればいいのです。


私見としていわせていただくと、テーマ先行での作品作りという手法は、意味のあるものなのか疑問です。創作法の本などでそういうものを見るたびに「あんた、ほんとにそんな順番で作品作ってるのか?」と問いただしたくなります。
ただ、一つ注意すべき点があります。今回述べているような方法でいい結果をもたらすためには、ある程度意識が高くなければならないということです。
プロの企画屋がこれをできるのは、常日頃から準備ができているからです。
今何が流行っているのか、どんなキーワードがもてはやされているのかなど、特にプロジェクトの予定がないときでも、空気を吸うように理解しているものなのです。つまり、現状分析や問題意識などはもう終わっていて、いつでも本体に入れるということです。
専門的な仕事に就いている人間というのはどれも同じようなもので、遊びだろうが日常生活だろうが、つい仕事の視点で見てしまうものです。そして企画屋の場合、その対象は発想段階だけではありません。発想は、構成した上で他人に理解してもらえなければならないため、構成の手法や理解のプロセスにも、当然関心が及びます。結果として、広告やカタログなどの作りやお笑い芸人のトークに至るまで、仕事の視点から参考にしているものなのです。
たとえアマチュアでも、意識の高い人は同じことがいえるでしょう。


逆に言えば、単なるゲーム小僧が企画者として通用しないのは、その視点がないからです。プレイヤーとしてゲームに接する経験だけでゲームを作ろうとするため、(1)仲間内でしか通用しないような概念による、(2)改良ですらない「調整」程度の案を、(3)貧弱で配慮に欠けた表現によって、提示することになってしまうのです。そして、構想し終えるところをゴールだと勘違いしているため、その先への展望がありません。どう作りどう稼ぐのかを考えないまま、何を作るのかだけに没頭してしまうわけです。
構想が次から次へとわいて出てくる人というのは、実はまとめる能力がないということの裏返しかもしれません。ゲームとしての具体性をイメージせず、結果としての面白さだけを先取りでイメージしてしまうのなら、いくらでも量産できますね。

◆ コンセプトワークの実践

では、そこでは何を書けばいいのでしょうか。
説得にあたっては重要なことがあります。それは、論理性です。提案を成就させるということは、相手と結論を共有するということ。そのためには"ぼくはこう思う"に過ぎない主観的な主張だけしていたのでは意味がありません。構想を客観化し、結論を必然的なものに見せることが重要なのです。そのためには、論理性を持たせなければなりません。
まず大目的をはっきりさせ、ついで現状認識を行って問題をはっきりさせ、それを分析して具体的なコンセプトにまとめた上で、テーマを導き、それを現実化させる案へとつなげていく......このような順番が基本となるでしょう《*4》。一連の作業の中心にあることから、これをコンセプトワークと呼びます。
企画書の導入部で展開することは、このコンセプトワークです。


これも一般論では何のことかわかりにくいので、さきほど展開した農業ゲームを例に、説明しましょう。
大目的としては「特定の層に偏らないコンシューマ向けの本格的なゲーム」ということにしてみます。では、この前提に立った上で、現状を具体的に切り取ってみましょう。


【現状認識】
○今、あらゆる分野でエコロジーが叫ばれている。
○「ロハス」「草食系」などのキーワードが注目されている。
○既存ジャンルゲームにおけるリアルすぎる表現が
青少年に有害ではないかと問題視されている。
○3Dなどの技術が飽和し、演出で差を付けるのが難しくなっている。
○コマンド選択よりも直接操作の方が、一般人には遊びやすい。
○直接操作でも難易度が高いものは、マニア以外には敬遠されがち。


現状認識と言っても、そのままでは広漠すぎます。そこでこのような形で「何をするのか」に繋がるような形での絞り込みを行うのです。次は、それらを実現するためのコンセプトの構築です。これは次のようにできるでしょう。

【コンセプト】
◎「環境」を自然体で考えられるような作品性を持たせたい。
環境には、守り慈しむものという意味合いだけではなく、
相互に影響し合う関係性という意味もある。こちらを強調したい。
◎競うことよりも、自己充足に軸足を置きたい。
◎新しい技術によって広がった表現の可能性を活かしたい。
こんにちのゲーム機は演算能力も格段に向上しているので、
ジェネリック《生成》的なゲームシステムを考慮する。
◎直接操作であっても、伝統的なアクションゲーム型は避けたい。
「走る・跳ぶ」「蹴る・殴る」「撃つ」といった従来型ではなく、
今世紀以降登場した新しいタイプのアクション性を考えていく。

以上のコンセプトから、テーマを導きます。

【テーマ】
「"育つ"と"育てる"の相互関係を軸に据えた、農業を題材にしたゲーム」
・環境モチーフならではの、重層的な多様性を実現
・独自要素を加えた植物の生長シミュレーションを導入
・音ゲー/リズムゲー要素を取り入れた、直接操作によるプレイアビリティ

ここまでやってから、具体的なゲーム案となるわけです。


【具体的なゲーム案】
プレイヤーは、農業技術者になって、とある果樹を育てます。
この果樹には、大きな特徴があります。人と心を通わせられるのです。
そのため、いい果物を実らせるためには、踊りを見せたり歌をうたったり、
時には直接話しかけてやることが必要になります。
そして、どう交流するかで、育ち方に違いをもたらします。
ユニークな果実を収穫する方法を模索することも、ゲーム目的の一つです。
実際のゲームプレイとしては、
いわゆる"音ゲー""リズムゲー"に属するものとなり、
リズミカルで楽しいプレイアビリティを実現します。

◆ 何が足りないのかを考える

さて、こうして構想がまとまったら、それをプレイしている自分をイメージしてください。それに熱中し、眠かったりトイレに行きたかったりも我慢しながらプレイし続けているような姿を想像してみるのです。
その上で、自問してみましょう。......まずあなたは、どんな画面を観ていますか?どんな音を聞いていますか?コントローラをどう操作していますか?何が楽しくてプレイし続けていますか?スタートするとき、何をどうしましたか?どんなプレイ目的を持ってやっていますか?
こうしたことが具体的に答えられなければ、そのゲームはまだ「面白い/面白くない」以前の存在です。言い方を変えれば、ゲームとして実体になっていないということなのです。そこで、これらをはっきりさせ、実体化してやる必要があります。


まず、進行を決めることが必要です。企画書という段階では、具体的なステージであったり、あるいは画面モードの遷移であったりを、事細かに書く必要はありません。しかし、どういう手順でプレイし始め、どう進めていくのかを、わかりやすくまとめておく必要があるのです。
次に、ゲーム画面の具体的な案が必要です。プレイフィールドはどのように表示されるのか、どんなインフォメーションが示されるのかといったことが決まっていないと、ゲーム画面のイメージはできません。
そして、操作方法が決まっていなければなりません。
これらは、説明にあたっては、目に見える形にする必要があります。進行は、チャートという形でまとめることになるでしょう。ゲーム画面は、図であればOKです。記号的に表現できればいいので、画力を磨く必要はありません。操作方法は、きっちりと図解した方がいいでしょう。


ここまでやって、ようやく企画書あるいは提案書をまとめる段階となります。《*3》
文書は人に読んで貰うものなので、相応の注意を払って創り上げなければなりません。そのため、いくつかの定番技法も存在します。ただ、テンプレートを探す前に、やるべきことがあります。どうしたら効果的に伝わるのかを自分なりに考えてみるということです。
まず、説明には順番が必要だと言うこと。「Aを理解するためにはBの知識が必要」というのなら、B→Aの順で説かなければなりません。また、用語にも注意が必要です。自分がよく知っていても、読み手にとっても同じとは限りません。また、細かい説明をする前に全体像をざっくりと理解しておいて貰うことも重要でしょう。
そして、文書作成に当たっていちばん重要なのが、構成です。
企画というのは、本質的に提案です。「こういうものを作りましょう」と、提案するのです。そのため、相手に聴くための準備もできていないうちから、いきなり本題に入ってはいけません。シナリオさらには物語一般の作法として、導入部、展開部、終結部の3パートで構成するというスタイルがあります。企画の場合も基本的に同様で、コアとなるゲーム本体の構想の前に、導入部分が必要です。

◆ 例えばこんなもの2

以上はシミュレーションゲームとして、間接的なアクション→リアクション関係を意識しました。もっと直接的な操作を考えるとどうでしょうか。
例えば、音ゲー的な方向性など。各地に伝わる日本の伝統芸能として、田植え歌なんてものがありますね。本来、つらい田植えの作業を乗り越えるための知恵だったわけですが、呪術的な意味合いもあるのかもしれません。
あるいは"トトロ"の一シーンのように、種の周りを踊ることでポンっと芽を出させて、さらにぐーっと背伸びをすることで生長させるとか。「ダンスで作物を育てる」という形でゲーム化してみるというのもいいかもしれません。話しかけることで植物の生長を促すなんていう試みも実際に研究されていますから、これを組み込むのも面白そうです。
こんなあれこれを組み合わせてみれば、こんなものができます。


あなたは、ニューウェイブの農業技術者。
果樹と心を通わせることで、目当ての果実を実らせる研究をしています。
踊りを見せたり歌をうたったりすることで、うまく果樹を育ててください。
また、時には直接話しかけてあげることでも、育ち方に違いをもたらします。
ユニークな果実を収穫する方法を、模索しましょう。


一方、もっと原点の部分に目を向けるということもできます。「農業」というシステムとして確立する以前の、「植物を選別し、生長させる」部分に注目するのです。
こんにち作物として知られているものも、原種を見るとあまりの違いに驚いてしまうことがあります。それだけ品種改良を進めたということですが、考えてみれば第一歩を踏み出した先人たちがいた訳ですね。その試行錯誤はたいへんだったでしょう。しかし、人間にとって、それは同時に楽しみ・喜びでもあったはずです。
そこで、こんな形にしてみます。


あなたは、100人の乗客を乗せた宇宙旅客船の船長。
事故で、見知らぬ惑星に不時着してしまいました。
救助が来るまで、なんと5年間。しかもし食料は大半が失われています。
この星には、いろいろな食べられる植物があります。
うまく栽培方法を見つけ、実を収穫して、生き延びなければなりません。
救助がくるまでの5年間、果たして何人を生還させられるでしょうか。


タマゴがあったら、何が出てくるのか気になるでしょう。種子にも同じことが言えないでしょうか。その意味で、これは「発見型アプローチ」となるわけです。

◆ 例えばこんなもの

一般論ばかりでは扱いづらいので、具体的な例を使って論じてみましょう。前述の「農業シミュレーション」という案を考えてみます。
現実問題として「農業をモチーフにしたゲーム」自体は既にあるわけですから、これをプレイしてみるという手もあるでしょう。弱点・問題点なども見つかるでしょうし、修正や改造によって一気に解決を図りうることなども考えつくかもしれません。これが改良的アプローチということになります。
一方、既存ソフトのことなど気にせず、自分独自で農業ゲームを見つけていくのが、他の2つのアプローチです。


ストレートに考えれば、ここで有効そうなのは構成型アプローチです。家庭菜園が趣味として成立していることからもわかるように、農業はエンタテインメントたりうるだけの面白さを持っているはず。その理由を考えて「どうしたらゲームとして再現できるのか」につなげるわけです。
では、プレイヤーにどんな経験をさせれば楽しんでもらえるのでしょうか。
先に"マウスで「畑」のグラフィックスをクリック"などをだめな例として挙げました。これがDSのタッチペンやWiiのリモコンになったとしても、だめという点では変わらないでしょう。《*3》
世界初!Wiiリモコンをクワに使って畑を耕す、斬新な操作感覚
なんて言われても、とても楽しめそうにありませんね。


まず、自分が直接それを行うのではなく、命令を与えることで間接的に行うという方向性が考えられます。ロボット耕作機にコマンドを与えるとか、チームのボスとして個性あるメンバーを適材適所の配置をすることで目的を達成するというようなものです。
あるいは「現代日本の方法」という固定観念からの脱却というのはどうでしょうか。焼き畑農業から大規模プランテーションまで、様々なスタイルの農業があるわけですから、そのなかの「楽しい経験」をもたらせるものを考えていくのです。(個人的には、焼き畑から始まる原始農法がちょっと楽しそうに思えます)。
また、農業そのものよりも、そのための環境を作る部分に注目するという手もあります。千枚田をみると作った先人の労力にめまいがしてきますが、同時に魅力的でもありますね。山を削り水路を築いて、全ての田んぼに十分な水を流し込めるようにする、など。そしてこの領域まで踏み込んだ以上、さらにスケールを大きくするということもあるでしょう。川をせき止め、用水路を掘削して大地をうるおす......例えばこんな感じで。

あなたは、世界的に有名な農業技術者です。
某大国の依頼を受け、手つかずの国土を開拓することになりました。
ダムや用水路を造ったり湖を干拓したりして、生産高を高めましょう。
ただし、やり過ぎは弊害をもたらしますし、
どこかでの改良が別の場所へのしわ寄せをもたらしてしまうかもしれません。
あれこれと調整しながら、大目的の達成を図っていきましょう。



この場合、経験の内容はむしろ土木なのですが、「収穫」という最終目標はそのまま残すことができます。