ゲームデザインエクセレント -10ページ目

第2回 ゲームデザインの客体 その1

ゲーム 【game】

  1:(勝ち負けをあらそう)遊び。遊技。「トランプー」 
  2:(スポーツの)試合。競技。また、その回数。
  3:テニス・卓球などのセットを構成する単位。
  4:ゲーム-セットの略。
               三省堂「大辞林 第二版」より


 初めてゲーム会社の人と会ったときのことを、ときどき思い出します。
 社会人4年目のその頃、ゲーム業界への転職を志すようになりました。一介のファンにすぎなかったのですが、以前から持っていたクリエイター志向と合わさることで、『ゲームデザイナー志望者』となったのです。ある日、名前をよく知っていた会社が求人広告を出しているのを見つけ、自分なりに作っていた企画書を携えて訪問しました。
 応対してくれたのは、いかにもやり手のビジネスマンといった感じの男性。しかし、私にとってこの人はまさに導師でした。業界の仕組みや仕事の種類や内容、さらには開発チーム内での実際の役割や立場といったものなど、決して本では得られないような熱い話を、2時間以上にわたって聞かせてくれたのです。このときの経験から、自身がゲーム屋となってからも、同種の相談を受けたときにはなるべく誠実に......その誠実さは、時として残酷ともなりますが......応対しようと心がけています。
  さて、その席上で、最初に言われたことがあります。持って行った企画書を一通り見た後のことです。



「ゲームの本質が何なのか、わかりますか?」

 この問いかけと回答は、今もまだ対面し続けている、ゲーム屋人生を通してのテーマとなっています。

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 第2章となる今回は、ゲームデザインにおけるデザインすべき対象、つまりゲームそのものに関する話です。前回のテーマだった「ゲームデザイン」ですが、話の前提として、それが「ゲーム」に対する何かであるという点は共通です。では、この"ゲーム"という概念は、あらためて定義する必要もないほどに自明なものでしょうか。
 クリエイター志望者は、たいていは自身もゲームファンです。そのため、自分のプレイヤー経験を元に、無言のうちに「エンターテインメントとして作られた、コンピュータソフトウェア」といった範囲に意味を絞り込んでしまっていることが多いでしょう。しかし、ゲームという言葉の意味は、想像以上に広いのです。しりとりだってハンカチ落としだって、ゲームです。そして辞書をひけば、冒頭で挙げたようなさまざまな定義が並びます。この辞書ではどうやら勝負事を中心に捉えているようですが、英語辞書で"game"を調べると、もっと広範な意味が並んでいます。こうした指摘は、ただの言葉遊びのように思えるかもしれません。しかし、実際には大きな意味を持っています。一般的なコンピュータゲームをやっていて面白いと感じるときの心のあり方は、そうした広義のゲームにおいても共通するからです。
 現実的にも、境界領域での仕事として関わってきます。一般にゲーム会社の事業範囲は多彩です。大きな会社ならコンシューマ事業とアーケード事業の両方はありますし、後者の一部として直営のゲームセンターを持っていたり、またホテルやショッピングセンターのアミューズメントコーナーにも関わっていたりと、幅広くビジネスを展開しています。また、パチンコ産業との関わりも、会社によっては濃厚です。
 では、そうした境界領域にあるもの――UFOキャッチャーやプリクラ、スロットやコイン落とし、パチンコ・パチスロなどは、ゲーム性ということと無関係なのでしょうか。そうでないことは、特に証拠を挙げるまでもなく、明白だと思います。また、今のようなゲーム業界が成立する以前から存在する「商品化された遊び」もたくさんあります。『モノポリー』や『人生ゲーム』に『野球盤』など。こうしたものにも、同じことが言えるでしょう。
 結局、ゲームにまつわること全てを漠然と対象にしてしまったのでは、最優先ですべきことがぼやけてしまいます。「ゲームの本質とは何か」という問題は、避けて通れないものなのです。

◆ 註

*1:ハドソンの児童書
 株式会社ハドソンは、当時はPCエンジンの開発元として多数のタイトルを手がけていて、メディアへの露出も玩具メーカーと肩を並べるほどの高い水準でした。出版もそうした流れのもので、こんにちよくあるような「ゲーム会社が自ら作る攻略本」とは、次元が異なっていたのです。
 ただ、肝心の本については、なにぶん昔のことなので、正確な書名などが思い出せません。内容も含め、思い違いが入り込んでいるかもしれませんが、ご容赦ください。


*2:生活と芸術の統一
 これは、英国のウィリアム・モリスの言葉です。モリスによって始められた「アーツ&クラフツ運動」が、より広い芸術運動「アールヌーボー」「アールデコ」に拡がりました。これはフランスを中心とした展開でしたが、運動は新興工業国だったドイツに伝わり、画期的なデザイン学校「バウハウス」の開設を通じて、建築までも含めたモダンデザインが確立しました。やがてナチスドイツによる迫害が始まると(ヒトラーは現代芸術が嫌いだったのです)、彼らの多くはアメリカに亡命します。そして、その地で大量生産や商業主義と融合した結果、デザインはこんにちあるような姿になったのです。
 モリスの運動は、実際には手工芸への回帰という形をとったため、コンセプトに賛同したとしても、結局裕福な層だけしか手にすることはできませんでした。その意味で、私たちの生活にまで浸透する大衆化には、モダンデザイン以降の流れが重要です。これは、デザインというものが産業との関わりを抜きしては論じられないということを物語っています。この辺り興味を持った方は、ぜひともデザイン史をひもといてみてください。ゲームデザインにもさまざまな示唆を与えてくれるものと思います。


*3:ペットボトルのデザイン
 ミネラルウォーターのペットボトルは、たいへん軽く作ってあります。ハイキングなどにも持ち歩かれるこの商品にとって、「軽い」「飲み終わったら簡単に潰せる」は、まさに"見えない機能"なのです。それでも、ボトルそのものの形状のユニークさにこだわるという点では、コカコーラにひけをとりません。商品そのものに絶対差がつけづらいため、ブランドの価値をあらゆる手で守る必要があるわけです。


*4:自動車の場合
 例えばメルセデスベンツ。大柄な車体とそれを動かす十分なパワーは"見える機能"です。そして、その結果もたらされる安定性などは、運転している人に精神的ゆとりや優越感などをもたらします。それが"見えない機能"です。一方で、あの車が持つ威圧感はいくらモデルチェンジしても全く揺るがないのですが、これは根本的な哲学として「力への信奉」があるからなのでしょう。これが"見えない美"です。
 この車を好む人は、ここに大きな共感を感じるのでしょう。会社社長やプロスポーツ選手、そして暴力団関係者 ―まさにニーチェ的価値観を感じますね。こういう人は、ほぼ同一の仕様を持っていたとしても、ジャガーやレクサスではだめなのです。また、クリエイターにベンツ嫌いが多いのも、この理由です。勝ち負けよりもオンリーワンを大切にし少数派を好むという人生観の方が主流派だからです。


*5:人材開発に携わる人間
 直接的には「企画職」の採用を行っている人事担当ということですが、学校関係者が同レベルで該当することも、言うまでもありません。また、企画志望者というバトンを受け取って育てる人として、開発部門の現場責任者やプロデューサーなども含まれます。 他には? 全体に先行する部分にいる人=「ゲームデザイナーになる」を本やWebに書いて発表している人も含まれてくるかも。私の場合、いくつもの意味で該当してしまいますね。


*6:世界シェアにおいてXbox360がPS3を超えている
 この辺の数字はのべつ変化しますので、あくまでもこの原稿を書いている時点でということです。報道された数値によると、Xbox360は2009年1月末で2800万台、一方、PS3は同年3月末で2100万台となっています。ちなみにトップはWiiで、2月時点で5000万台突破とのことです。

◆ はじめのおわりにあたって

ゲームソフトは日本人が発明したわけではありませんし、世界で初めてゲーム機が普及したのが日本だというわけでもありません。にもかかわらず、80年代以降長い期間にわたって日本のゲームが世界をリードしたのはなぜでしょうか。私は、「職人気質《かたぎ》」の伝統にあると思っています。


 洋の東西を問わず、直接手を使う仕事を卑しむ傾向を持つ文化が少なくない中、日本では昔からクラフトワークを尊敬する気風がありました。その結果、職人気質が生まれ、文化上のDNAとして広く根付いたのです。それはしばしば非合理です。必要とされる以上の手数を込めてしまったり、誰にもリクエストされないものを自分自身のこだわりだけで作ってしまったりなど、無駄にしか見えないことが多発します。ただ、それが潜在化していたニーズを捉えることにも繋がり得るのです。そもそも遊びは本来合理性だけで語れるものではありません。


 こうした職人気質を象徴する言葉として、ある経営者が語ったと言われる、こんな言葉があります。
    「我が社の納期は『完成したとき』だ。面白くなるまで作り続けるから」
 ただ、こういうスキーム(枠組)は、ゲームソフトが本格的な娯楽になっていくのと平行して通用しなくなっていきました。しかし、代わりに導入されたスタイルがもたらしたのは陳腐化と技術的停滞です。環境面の進化 ―メディアがDVDになり、3D化され、ネットワーク環境も当たり前― に対し、世界のゲーム界はどんどん先へと進んでいっています。ところが日本のゲームの多くは、それを見た目を派手にするために使っているだけで、PCエンジンにCD-ROMが付いたばかりの頃とほとんど違いがないようなゲームを平然と送り出しています。むろんセールスでは相応のシェアを持っていますが、それも結局、プラットフォームを握る優位さだけで成り立たせているようなもの。しかしこれすらも、世界シェアにおいてXbox360がPS3を超えているという現状を見ると、いつまで続くのかと不安になってきます。


 このあたりの"憂国感"は私個人の問題ではありません。企画屋やプロデューサー、さらには研究者の集まりなどにも参加するのですが、日本の立ち遅れに関する問題意識は、ほぼ共通の認識となっています。「日本のゲームは世界をリードしている」なんてことを信じているのは、ゲームをしない人たちばかり。そして、そういう人たちが脳天気な経営予測をたてたり政策を立案したりしているわけです。


 この停滞を打破するためには、本当の意味でのゲームデザイナーが活躍しなければなりません。"企画屋"が、自分自身の中に存在する二つのモードを自覚した上で、その"ゲームデザイナー"である部分が、"開発庶務"である部分を駆逐しなければならないのです。ゆえに、これから企画職を目指す人が最初に心すべきことは、デザイナーとしての自分の確立ということになるでしょう。その上で、「工学」「商品」「芸術」という3つのフェイズでゲームを作れるようになるのです。一方、開発庶務として働けないと当面の仕事ができないという現実もあり、これとの間に折り合いもつけていかなければならないのですが。


 最後に一点。ゲームデザイナー志望者にくれぐれもお願いしたいことがあります。それは、就職を目標にしないということです。


 本来それは入り口でしかありません。「ゲームデザイナーになって何を作るのか」が大事なのです。
 このことは、いわゆる就職対策とは両立できないかもしれません。何しろ、ゲーム会社は企画職に望まれるものとして「コミュニケーション能力」「柔軟な発想力」「好奇心」などと"前向きな好青年像"ばかりを並べたてているのです。しかし、ほんとうに大事なのはそんなことではなく、「創れるかどうか」です。


*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


 第1回には全体のエッセンスが詰まっています。これまで何年もの間ため込んでいた「書きたいこと」があり、今回のテキストは、それを抑え込みながら書きつづっているような感じになりました。全体の回数はまだ未定ですが、同じモチーフが今後も形を変えて何度も出てくるものと思います。

 それでは、今日はこの辺で。

◆ まがいものにご用心

以上、「デザイン」や「デザイナー」という言葉が案外重いものであることを、ここまでの話でご理解いただけたものと思います。シリーズ全体の序文で書いたように、カタカナ語は単に見栄えをよくするだけの目的で多様される傾向がありますが、真にその分野と本気で取り組みたいと思っているのなら、もっと重さを感じ取って欲しいものです。
 そもそもゲームデザイナーあるいはゲームデザインという言葉も、そうした実体のない言葉なのだとしたら、まじめに論議すること自体がナンセンスでしょう。ところが驚くべきことに、業界人の中にも、その程度の理解で済ませている人がいます。
    「ゲームデザイナー......あ、開発庶務のことね。
     まあそう言っておかないと人が集まらないからねえ」
 しかし、現代のゲームがどのようなものなのかきちんと洞察すれば、これもまた一つの戯画でしかあり得ないこともわかるでしょう。
 まずゲームはエンターテインメントで、特定の機能さえ果たせばいいというものではありません。そして、多段階の工程で作っていかなければならない工業製品で、手工芸品のようなやり方で作ることはできません。である以上、そこにデザインが不要であるはずはないのです。ゲームにおけるデザインとは何かを見極め、それを成し遂げられる人材を確保するというのが、人材開発に携わる人間《*4》のこんにちなすべき仕事です。そしてこのことを反対サイドから見れば、志望者としてのあり方になってくるわけです。


 ところで、近年教育業界で不愉快な流れが顕在化してきています。それは、一部の専門学校が、まがい物の"ゲームデザイン"コースの看板を掲げているということです。単なるグラフィックデザインのコースに「ゲームデザイン」を冠する例がしばしば見られるのです。
 こうしたコースの主宰者の言い分をまとめれば、こんなところなのでしょうか。

    ○グラフィックデザインはデザインである
    ○ゲームにはグラフィックスが使われる
    ○ゆえに、グラフィックデザインをゲームデザインと呼んでも構わない

 これは言語道断といえるでしょう。
 たとえて言うなら、ハードディスクをRAMと呼ぶようなものでしょう。「ランダムアクセスができる、記憶媒体」には違いがありませんが、だからといって「我が社のPCは、RAM500GB実装です!」なんて売り込んだらほとんど詐欺ですね。
 どんな分野でも、独自の用語があります。たとえ外部の人間から見て耳慣れない響きを持っていたとしても、それぞれの関係者たちが長い年月をかけて形成してきたものです。歴史の浅い分野ですが、ゲームだって同じです。ゲームデザインはゲームデザイン、グラフィックスはグラフィックス。全然別の意味なのです。それを「見栄えがいい」からと安易に別の意味に使うというのは、どういうつもりなのでしょうか。「ゲーム業界に人材を送り出す」などと言いながら、その実、業界への敬意などこれっぽっちも持っていないということの現れでしょう。あるいは、真剣に志望する若者たちを「騙して入学させてしまえ!」という狙いなのかも知れません。

 学校というシステムもまた「段階的に作っていかなければできあがらない複雑なもの」で、工業製品同様デザインされなければならないでしょう(個人経営の塾なら、手工芸でいいのですが)。いんちきなデザインコースを作っているような学校は、まず自身をデザインする必要がありますね。

◆ ゲームをデザインするということ

以上、デザインについてざっと述べてきましたが、このことはゲームという局面でどう反映さえるのでしょうか。
 黎明期のゲームは、マニアがひとりでごそごそ作るものでした。これは手工芸品的なものです。その後、会社のビジネスとなり、"大量生産"の時代がやってきました。いわゆるファミコンブームです。その頃のソフトを今見返してみると、あきれることが少なくありません。当時のファンは、単にゲームとして動いていれば許してくれたのです。しかし、そんなことはいつまでも続きません。単なる「遊ぶための道具」をお手軽に作っていたいくつもの会社が飽きられ淘汰される中、「生活と芸術の統一」を指向するかのようなゲームが登場、それ以前では考えられなかったような大ヒットをもたらすようになりました。
 ここから先も、デザイン一般の流れと、ぴったり一致します。文化として成熟してからは、本格的な娯楽であることが求められるようになりました。
 では、ゲームデザインにおける機能と美は、どのようになるのでしょうか。軽くまとめれば、次のようなことがいえるでしょう。


    見える機能 :ソフトウェアとして、何がどのくらいできるのか
    見えない機能:プレイヤーに感じさせる、面白さ
    見える美  :システム的にどう振る舞い、どう調和するのか
    見えない美 :そのゲームに込めた思想・哲学


 例として、『ドラクエ』を考えてみましょう。
 まず、方向キーによる移動があり、コマンド選択による操作という体系が作られています。プレイヤーはこうしたユーザーインターフェイスを通じて、世界を識り、闘ったり発見したりしながらマイキャラを成長させていきます。そして「剣と魔法の世界で冒険し、大目的を達成する」という経験を味わいます。こうした全体が、"見える美"です。一方、それを支える仕組み部分が"見える機能"となります。その世界はパラメータの集合体で、敵も味方も人・魔物も物体も、数値的に表現されるデータの固まりとして定義されています。そしてプレイヤー的に特に重要なパラメータとして「レベル」「経験値」があり、特定のルールに基づいて増加するようになっています。これらはプレイヤーに対して隠されている訳ではありません。成長といっても実際にはパラメータ処理であることを承知の上で、プレイヤーは自身のキャラの成長を楽しんでいるわけです。
 また、パラメータの微妙なバランスから「ちょうど乗り越えられる程度の試練」を次々と与えられることになり、効果的に戦うためには戦術も組み立てる必要があります。だからこそ、達成感や優越感が味わえるのです。このあたりが、"見えない機能"でしょう。では、"見えない美"とは何でしょうか。『ドラクエ』は、根本の部分が予定調和的です。ゲームが続けられる限り、魔王はいつか倒され、またそれ以外の選択肢はありません。これは細かな部分にも及んでいます。壺や樽なら壊せるのにタンスは開けるだけ。また、武器屋を襲って商品を強奪することもできません。このゲームでは、世界はなるようにしかならないのです。そして「やってはいけないこと」とあらかじめ決められていることは、やる・やらないを選ぶ選択肢そのものが存在しません。これが『ドラクエ』というゲームに込められた哲学です。受け容れられない人にとっては不満の残るゲームとなりますが、プレイヤーとしては安心につながるもので、「だからこそドラクエはいいのだ」という評価にもつながります。このあたりが、"見えない美"ということになるでしょう。

 RPGというゲームカテゴリーを選び、コマンド選択式という枠組みに絞り込んだとしても、選択空間はまだまだ広大な広がりを持っています。その中から適切なものを選んでデザイン解を導くことが、ゲームデザイナーには求められます。
 ただ、デザイナーというのは、単に構想すればいい仕事ではありません。構想した結果を目に見える形にまとめ、提案しなければならないのです。ゲームでは、それが企画書や仕様書という形になります。また、プレゼンテーションもいろいろな段階で必要です。こうしたことをこなしていける能力がなければ、デザインの力も出しようがないのです。
 そして最終的には、ゲーム本体を作りながら実体化していくことになります。
 「開発庶務」がゲームデザイナーたりうるのもこれがあるからで、雑用と見られがちな作業を通じて"機能と美"の実現を図っていくからに他なりません。
 しかし、これができるのも、その人がゲームを作るのだという自覚をもってやっている場合に限られます。単に雑用と割り切っているやっているような開発庶務はほんとうに開発庶務でしかなく、そのプロジェクトはデザイナー不在のままで作られていくことになります。
 「粗雑で画一的な道具」としてのゲームソフト。そんなものに、何の存在意義があるのでしょうか。
 扱いは低いものの、実は責任重大なのです。

◆ デザインの正体

しかし、ほんとうにこれらが「ゲームデザイン」のあるべき姿なのでしょうか。
 ひとつ言えることがあります。「今こうしている」は、「これまでこうしてきた」の時制変換に過ぎないと言うことです。歴史には相応の敬意を払うべきですが、教条化してはいけません。このような形で特定されたゲームデザイナーは、現在の仕事には的確にはまるでしょう。しかし、5年後・10年後も同じように仕事がしていけるものとは限りません。私たちにだいじなのは、過去ではなく未来です。「これからはこうする」なのです。
 言い切ってしまえば、ゲームデザインとは「ゲームのデザイン」です。そこで、まずデザインについて考えてみましょう。


 デザインという考え方は、「作る」を、段階的なプロセスとして捉えることから生まれてきました。例えば手工芸品の場合、デザインはありません。形を考え実際に作り出すまでの工程が、一人の人間が連続して行う一体の作業になっているからです。しかし、ある程度以上の複雑なものを作る場合や、複数の人間が行う場合などでは、段階的な制作が不可欠です。そして「実際に作り出す前にやっておくこと」として、デザインというプロセスを特定する必要があるのです。
 歴史的には、大量生産システムの発達とともに登場しました。英語"design"には「設計」の意味がありますが、最初の段階でのデザインはもっぱらこっちだったでしょう。産業革命以降本格化した近代的な生産システムは、「いかに低コストで大量に作るか」を追求することが基本で、そのためには合理的な設計が必要だったのです。ただ、そうした取り組みの結果、粗雑で画一的な道具が人々の生活空間を満たすようになり、物質的には一応の豊かさが得られたものの、精神的にはかえって貧困さを招いてしまいました。これへの反動として「生活と芸術の統一」《*2》が唱えられるようになりました。仕様さえ満たせればいいのではなく、美しい道具を使うことによってもたらされる精神的な豊かさの方を重視したわけです。そして、大量生産される工業製品には手工芸品とは異なる美しさを追求できるという考えから、モダンデザインという考えが生まれました。さらに技術の進歩が新しい素材をもたらし、また工作可能な形状の範囲も広げられ、多彩な造形を許すようになりました。こうした過程を経て、デザインという言葉も定義しなおされたといえるでしょう。今ではむしろ設計以外の意味の方が重要視されます。
 その根本にあるのは「使っている人の心を豊かにする」という視点です。単に便利なだけの道具では実現しません。美しさを兼ね備えているべきなのです。ただ、美しいからといって、不便さまでも甘受できるというわけではありません。


 総じていえば、行為としてのデザインは「『使う』を前提とした造形」で、機能と美の両面が価値観において重きを置かれるものだといえるでしょう。
 この二面には、見えるものと見えないものとがあります。
 たとえばコカコーラのペットボトルを考えてみましょう。お茶などで使われる六角断面のものとはだいぶ異なる形をしています。全体として円柱で、ブロック的な凹凸もありません。しかし、ウェストは少し絞り込まれ、表面に細かい突起がつけられています。
 まず、形状そのものは"見える美しさ"です。商品そのものをライバルよりも魅力的に見せる必要があるため、外観が重要な要素になってくるのです。表面の突起は"見える機能"でしょう。プレーンな円柱であることと、よく冷やしてから飲む場合が多いこと(=水滴がつきやすい)から生じる「滑りやすさ」「持ちにくさ」が対策されているわけです。ではなぜ円柱なのかというと、これは"見えない機能"です。お茶と異なり、内容物は爆発したくてうずうずしている危険な液体であるため、より高い圧力に耐える必要があるからなのです。そしてウェストの絞り込みこそが込められた哲学="見えない美しさ"です。くびれのある瓶は、19世紀から続く歴史においてコカコーラそのものと一体視されるほどの重要な象徴です。これを受け継いだ形状には、「I am Coke!」という強烈な主張が込められているのです。《*3》
 これは、より技術性の高い分野のデザインにもいえることです。例えば車の場合。パワーやスピードなど数値で表せるものやは"見える機能"、外観は"見える美しさ"で、それを使ったことで感じられるドライバビリティが"見えない機能"、そして、込められた思想・哲学が"見えない美しさ"となります。《*4》
 いいデザインとは、これら全てが高水準で調和していることを言うのです。

◆ 開発庶務としての企画屋

 一方、これとは角度の違った捉え方があります。それは、消去法で考えるというもの。つまり「他の職種がしない仕事=企画職の仕事」とするものです。
 開発チームは専門家集団です。それぞれ必要とされる技術をもつ専門家を集めて構成します。ところがプロジェクトは総合的なものなので、誰の守備範囲とも言い切れない仕事=「隙間」が、必ず生じます。例えばRPG。草原・山地・街・洞窟入り口などの地形があり、それに応じたイベント処理があります。また、モンスターとのエンカウントがあって、戦闘となれば武器防具やアイテムなどを使うことになります。これらは誰が作るのでしょうか。マップシステムや戦闘システムはプログラマの仕事です。地形やモンスターなどのグラフィックスはグラフィック・デザイナーが作るでしょうし、名称や画面に表示されるメッセージはシナリオライターの仕事でしょう。それぞれの局面で流れるBGMや効果音はサウンドクリエイターが作ります。では、マップのレイアウトは誰が? モンスターや武器防具のパラメータは? 楽曲のコンセプトは? こうした部分はどれも「誰の専門とも言い切れない」ものです。でも、誰かがやらないことには、ゲームはできません。


   「誰の専門とも言い切れないが、誰かがやらなければならない仕事がある。
    担当はだれだ? 決まってる、俺だ!」


 これは、創作の仕事だけではありません。誰もが他人に押しつけたくなるような仕事というのも、ここに入ってきてしまいます。実はスケジュール管理や文書作成、さらには経営陣や他部署との折衝なんていうのは、そういう押しつけたくなる嫌な仕事でもあるのです。他、いわゆる雑用の類も当然に紛れ込みます。お茶くみや夜食の買い出しなんていうのはあまり聞きませんが、社内決済用の書類を書いたり、連絡会議に出席したり、内線電話をとったりなど、あれこれとやらなければなりません。
 本節タイトルの"開発庶務"というのは、会社にいた頃に考えた「ゲームデザイナー」という職種名の別表現です。本気ではなくて、半ば自虐モードでのギャグとして唱えたものですが、その後同業者に披露するたびに大受けでした。


 さて、この考えに立った場合、ゲームデザイナーには、能力面で何が望まれるということになるのでしょうか。
 結局は、開発チームで発生する可能性のあるあらゆる事柄への対処能力となります。
 創作的な能力は、おそらく必要です。ただ、それは多分にボトムアップ的なものです。例えば、「物語を組み立てる」というような大きな視点に立った技術は別にいりませんが、設定書やシナリオに空いた穴をちょこちょこっと埋める技能は役に立つかもしれません。「プログラムを書く」ができないにしても、開発ツールを使った作業やスクリプティングなどはできた方がいいのです。
 これらは、あらかじめ学校で学ぶという訳にはいかず、仕事の現場で覚えていくしかないでしょう。
 また、先ほど挙げた"好ましいとされる適性"は、このような側面を重視した場合にも生きてくることになります。「コミュニケーション能力」にしても「柔軟な発想力」にしても、現場仕事を器用にこなしていく上では、大事なのです。そして、「好奇心」といったものは、憶えていく適性を裏付けるものとしてチェックされるのだと言えます。

◆ 企画職の仕事

実際のところ、職種としてのゲームデザイナーには、何が求められるのでしょうか。
 これは、次の3つになります。
 第一に、ゲーム制作の工程を仕切れるということ。ソフトウェアは、プログラミングだけで作れるものではありません。データが必要です。そしてそのデータを作るためにも、必要なものがあります。そのため、多数の人間が集まっているのですが、問題は、人さえ集まればいいという訳ではないことにあります。チームとして、有機的・効率的に仕事をしていかなければなりません。その全体を見据え、作るための手順を構想し実行していくことが、ゲームデザイナーには望まれます。
 第二に、ビジネス面での判断・評価ができるということ。ソフトを作るためには、どうしてもお金がかかりますが、"かければかける分たくさん売れる"という訳ではありません。今の時代、かけた費用を回収する見込みが立たなければ、プロジェクトは始めることすらできません。「誰がどれだけ買ってくれる」の予測も併せて、ゲームを構想し、提案していかなければならないのです。こういうことにおいてイニシアティブをとっていけることが、こんにちのゲームデザイナーには求められます。
 第三に、作品としての魅力を引き出せるということ。ゲームは「おもしろい」を持っていなければなりません。それを作り上げるのがゲームデザイナーの仕事ですが、これは身勝手にそう思っているだけではだめで、客観的な根拠によって裏付けられるものでなければなりません。また、これには他人を説得するという要素が重要です。自分一人が「おもしろい」と思っていただけではだめで、スタッフ、クライアントやスポンサー、そして購買層に対しても的確に伝えられなければなりません。


 以上のポイントをわかりやすく理解するため、私は以前から「工学」「商品」「芸術」という3つのキーワードを唱えています。ゲームにはこの3つの位相があり、どこからでもゲームを細かく論じることはできます。しかし、そのどれかだけでは"ゲームを作る"は成立しないのです。
 どれを優先的に考えるべきなのかは、職種によって異なってくるでしょう。例えばプログラマにとってのゲームは、まず工学です。プログラムは動かなくてはなりません。グラフィックデザイナーなら、芸術が優先でしょう。美しくて効果的でレスポンスのいい映像・画像を作り出すことが、最優先課題となります。このように、それぞれの仕事に、"これを優先的に考えればいい"の"これ"があるのです。しかし、因果なことに、ゲームデザイナーの場合はこうなってしまいます。


  「全部、優先!」


 もちろん人間の能力は限られています。三つ挙げた役割は、そのひとつだけをとってみても、しっかりした知識と十分な経験が必要です。学校新卒の若輩がこれらを完璧にこなせるなどと信じている脳天気な人事は(少なくともゲーム開発のなんたるかを知っているのなら)存在しません。実際には、プロの看板をかかげている現役だって疑問符付きです。ただ、問題の存在に気づいているのといないのとでは、決定的に違うのです。
 そこで新人として求める人材像を描くのなら、「そういうものであることが解っていて、早い段階で修得できそうな能力があり、加えて現時点で何か秀でた点を持つ人」ということになるでしょう。適性としてよく言われる「コミュニケーション能力」や「柔軟な発想力」「好奇心」といったものは、それを裏付けるものとしてチェックされるのだと言えるのです。

 ◆ 不可解な志望者たち

 ただ、いろいろな形でゲームデザイナーの存在が強調された結果、おかしな虚像ができあがってしまったのも確かなことです。私自身、暗中模索な思いのまま応募し、企画職としてゲーム会社に入ったのですが、さらに入社後採用選考も担当したことから、自分以外の様々な実例と向かい合うことになりました。
 冒頭に挙げた問い合わせの電話は、もちろん架空の例です。ただ、要素単位では、現実に即しているのです。「企画書ってどう書けばいいんですか?」など何度問い合わせを受けたのか数え切れないですし、
   「プログラムも絵もできないから企画にする」
   「大学進学をあきらめ就職することにしたが、
    どうせ就職するなら好きな分野がいいと思い、ゲーム会社を選んだ」
   「頭の中で次々にゲームのアイデアが沸いてくるから自分にはできるはずだ」
 なども、実際に志望者の中から出てきた言葉です。
 この背景には、クリエイター採用の難しさがあります。クリエイターは「作る」仕事なので、選考に当たっては何らかの形で実力を見せてもらう必要があります。会社によって違いはありますが、たいていは志望職種に応じた作品の提出です。具体的には、プログラマであれば自作のソフト、ゲームデザインなら新作ゲームの企画書ということです。
 そしてこれが、"彗星のごとくデビュー"を夢見るゲーム少年たちの志望を、何よりもゲームデザイナーに引き寄せる結果となったのです。志望者から見れば、「プログラマは敷居が高い」となってきます。何しろ、自分でゲームプログラミングができない限り、応募すらできないわけですから。


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 さて、"困ったお友達"は、問い合わせ段階ではともかく、その先では多数派ではありません。実際の応募に至る人たちの大半は、もっと真剣な志望です。ただ、その真剣さが必ずしも的を射ていないというところがありました。「ゲーム企画書を送ってね」と言っているのに、ゲームではないものを提案してくる志望者が、実に多かったのです。
 ざっと類型化してみましょう。

1.物語
 RPG全盛期だったという事情もありますが、実際にいちばん目立ったパターンでした。ゲームではなく、またどのようにゲームになるのかも明示しないまま、物語を送ってくる人が多かったのです。
 レベルやスタイルは千差万別です。あらすじ程度の場合もあれば、小説や映画脚本の形をとったものもあります。また、時として壮大なスケールの作品にもなってきます(センチ単位の分厚さを持つ作品も、何度か受け取ったことがあります)。そしてもう一点、完結しているかどうかという点でもまちまちでした。ゆえに、「これは、ぼくの考えた壮大な物語の第一部の序章部分をまとめたものです」と称するレポート用紙一二枚の"作品"なども、結構ありました。

2.ワールド設定、キャラクター設定
 上とは対照的に、設定だけがまとめられているような作品も少なくありませんでした。
 RPGであれば、冒険の舞台となる世界に関することがら(地名であったり文化歴史であったり)や、武器・防具・魔法のリストなど。シミュレーションゲームの場合、ユニットの種類と名称など。これには詳細なパラメータ一覧表を伴っている場合もあります。
 こちらも、規模・形式・分量はまちまちです。レポート用紙1枚で語りきっているものもあり、また大学ノートを細かい文字で埋め尽くしたようなものも、しばしば見られました。

3.改良案
 既存のゲームを前提に「ここをこう変える」という形の提案です。はっきりと「***の続編です」といってくる場合もあれば、オリジナルと称してはいるものの、内容的に既存ゲームの改良あるいは改造に過ぎないものもあります。

4.単発のアイデア
 一つだけの場合もあれば、多数を羅列してくる場合もあります。レベルはさまざまで、
   「右手と左手で別のパラメータを割り当てる。右利きと左利きで、戦闘時の有利不利を区別する」
   「『強さ』『知性』などのパラメータに、『気合い』を加える」
 など、ゲームの中で使われる断片的なアイデアや、また、
   「3本分のシナリオを序盤・中盤・終盤で3分割し、
    各ポイントで交互に分岐するように作って、1本で9本分楽しめるストーリーゲーム」
 といった、大きな枠組みに関するもの、さらには
   「テトリスのような落ちものパズルに、シューティングの要素を加える」
 なんていうゲーム構想のスタート段階でのアイデアなどもありました。

5.タイトルと特徴
 ペラ1枚でまとめられたものの中で多かったのが、この類型です。例えば、こんな感じで。
   「ザ・農村  農業シミュレーションゲーム
    このゲームは、土作りから収穫に至るまでの過程をリアルに再現した、斬新なゲームです」
 何か題材を選び、具体的なゲームシステムには言及しないまま「......のシミュレーション。......を緻密に再現する」とだけしているような企画書は、決して少なくありませんでした。題材の部分に聞き慣れないものを入れることで「ユニークなゲーム」になることを期待している場合が多いように思われます。

6.方針、目標
 上のものと同様、ペラ1枚の作品に多いパターンで、
   「猛烈に速くて、敵がいっぱい出てくるシューティング」
   「若い女性向けのゲーム」
 など、単に方針あるいは目標としか言いようのないことが堂々と書かれていたりします。
 また、5と6のコンビネーションという場合もあります。こうした企画書は、造り自体はかっこよく決められている傾向がありました。

 実は採用選考という局面では、こういったものでも可となる場合があります。なぜなら、コンテストではなくオーディションだからです。会社が"買う"のは「作品」ではなく「作品を作った人」です。緻密な設定に基づいた面白いストーリーの作れる人は、他のことをやってもうまくできる可能性が高いでしょう。単発のアイデアだって、数が出せるのなら捨てた物ではありません。
 しかし、だからといって「これらがゲームデザイン」という訳ではありませんし、ゲームデザイナーがしなければいけない仕事において、どれも本質とは言えません。

◆ ゲームデザイナーの誕生

学生時代、書店でアルバイトをしていたことがあります。担当は仕入れ。店の裏で、納品されてきた本を仕分け、返品されていく本を箱に詰めるという仕事でした。
 こういう仕事をしていると、ある種の耳年増になっていきます。いろいろな分野について、妙に詳しくなっていくのです。さほど興味のない分野でも、売れているとそれだけで気になるもの。店の裏では誰の目を気にする必要もなくて、立ち読みすらしづらいような分野でも堂々と読むことができます。
 そんな中、印象的だった本がありました。ハドソンから出版されていた児童向けシリーズの中にあった、「ゲームデザイナーになろう」といったタイトルのものです《*1》。内容は、ゲームデザイナーという職業を紹介し、どうしたらなれるのかを指南するというもの。大学生でありながら就職ということをさほど真剣に考えていなかった当時の私は、小学生向けの職業案内の本があることに、かなりの驚きを感じたものです。
 ただ、今考えてみると、ここには別の意味で注目に値することがあります。80年代後半の当時はファミコンの全盛期。その時点で、すでにゲームデザイナーという仕事の存在が、小学生の間にも知られていたということです。

 改めて考えると、その頃は、日本のゲームがこんにちあるような姿になっていく、大きな転機となった時期だといえるでしょう。
 直接的には、それが、家庭用ゲーム機におけるコマンドRPGの創生期だったということ。86年に第一弾が発売された『ドラゴンクエスト』シリーズは、翌年の『Ⅱ』で爆発的ヒットとなりました。同じ年、『ウィザードリィ』『ウルティマ』という米国製RPGの双璧が、相次いでファミコンに移植されています。また、『ファイナルファンタジー』がシリーズ第一弾として登場したのもこの年です。
 しかしこれは、単に一ジャンルだけの問題にはとどまりませんでした。これをきっかけに、さまざまな非アクションゲームが登場したのです。88年には『ファミコンウォーズ』(任天堂)、『桃太郎電鉄』(ハドソン)、『信長の野望』『三国志』(コーエー)などがリリースされています。特に歴史戦略シミュレーションゲームの大御所としてパソコンゲーム界に君臨していたコーエーの参入は大きく、それまで若年層中心で動いていたファミコンが大人にも拡がっていったきっかけでもありました。
 そしてこうした変化は、クリエイター志望者にも、大きな影響を与えました。量と層の拡がりです。
 アクションやシューティングが中心では、作り手に求められる能力はあくまでも技術優先になります。物語的なものなど、せいぜいマニュアルの1ページに書くだけの付け足しに過ぎません。ところが、コマンドRPGは違います。何らかの世界観を背負い、何らかのストーリーを負っていくという作りが基本で、本格的な物語構築が可能となります。またシミュレーションにしても、題材への理解が必要で、それはプログラミングなどとは異なった次元の問題となります。
 プログラミングというスキルを獲得しない限り開かなかったゲームクリエイターへの扉は、かくして文科系の人間にも開かれました。と同時に「プログラマではない、ゲームの作者」を意味する言葉としての"ゲームデザイナー"が、にわかにスポットライトを浴びました。結果、それまでになかったタイプの人間が開発現場に参加し、日本のゲームは新しい局面を迎えるに至ったのです。