◆ ゲームをデザインするということ
以上、デザインについてざっと述べてきましたが、このことはゲームという局面でどう反映さえるのでしょうか。
黎明期のゲームは、マニアがひとりでごそごそ作るものでした。これは手工芸品的なものです。その後、会社のビジネスとなり、"大量生産"の時代がやってきました。いわゆるファミコンブームです。その頃のソフトを今見返してみると、あきれることが少なくありません。当時のファンは、単にゲームとして動いていれば許してくれたのです。しかし、そんなことはいつまでも続きません。単なる「遊ぶための道具」をお手軽に作っていたいくつもの会社が飽きられ淘汰される中、「生活と芸術の統一」を指向するかのようなゲームが登場、それ以前では考えられなかったような大ヒットをもたらすようになりました。
ここから先も、デザイン一般の流れと、ぴったり一致します。文化として成熟してからは、本格的な娯楽であることが求められるようになりました。
では、ゲームデザインにおける機能と美は、どのようになるのでしょうか。軽くまとめれば、次のようなことがいえるでしょう。
見える機能 :ソフトウェアとして、何がどのくらいできるのか
見えない機能:プレイヤーに感じさせる、面白さ
見える美 :システム的にどう振る舞い、どう調和するのか
見えない美 :そのゲームに込めた思想・哲学
例として、『ドラクエ』を考えてみましょう。
まず、方向キーによる移動があり、コマンド選択による操作という体系が作られています。プレイヤーはこうしたユーザーインターフェイスを通じて、世界を識り、闘ったり発見したりしながらマイキャラを成長させていきます。そして「剣と魔法の世界で冒険し、大目的を達成する」という経験を味わいます。こうした全体が、"見える美"です。一方、それを支える仕組み部分が"見える機能"となります。その世界はパラメータの集合体で、敵も味方も人・魔物も物体も、数値的に表現されるデータの固まりとして定義されています。そしてプレイヤー的に特に重要なパラメータとして「レベル」「経験値」があり、特定のルールに基づいて増加するようになっています。これらはプレイヤーに対して隠されている訳ではありません。成長といっても実際にはパラメータ処理であることを承知の上で、プレイヤーは自身のキャラの成長を楽しんでいるわけです。
また、パラメータの微妙なバランスから「ちょうど乗り越えられる程度の試練」を次々と与えられることになり、効果的に戦うためには戦術も組み立てる必要があります。だからこそ、達成感や優越感が味わえるのです。このあたりが、"見えない機能"でしょう。では、"見えない美"とは何でしょうか。『ドラクエ』は、根本の部分が予定調和的です。ゲームが続けられる限り、魔王はいつか倒され、またそれ以外の選択肢はありません。これは細かな部分にも及んでいます。壺や樽なら壊せるのにタンスは開けるだけ。また、武器屋を襲って商品を強奪することもできません。このゲームでは、世界はなるようにしかならないのです。そして「やってはいけないこと」とあらかじめ決められていることは、やる・やらないを選ぶ選択肢そのものが存在しません。これが『ドラクエ』というゲームに込められた哲学です。受け容れられない人にとっては不満の残るゲームとなりますが、プレイヤーとしては安心につながるもので、「だからこそドラクエはいいのだ」という評価にもつながります。このあたりが、"見えない美"ということになるでしょう。
RPGというゲームカテゴリーを選び、コマンド選択式という枠組みに絞り込んだとしても、選択空間はまだまだ広大な広がりを持っています。その中から適切なものを選んでデザイン解を導くことが、ゲームデザイナーには求められます。
ただ、デザイナーというのは、単に構想すればいい仕事ではありません。構想した結果を目に見える形にまとめ、提案しなければならないのです。ゲームでは、それが企画書や仕様書という形になります。また、プレゼンテーションもいろいろな段階で必要です。こうしたことをこなしていける能力がなければ、デザインの力も出しようがないのです。
そして最終的には、ゲーム本体を作りながら実体化していくことになります。
「開発庶務」がゲームデザイナーたりうるのもこれがあるからで、雑用と見られがちな作業を通じて"機能と美"の実現を図っていくからに他なりません。
しかし、これができるのも、その人がゲームを作るのだという自覚をもってやっている場合に限られます。単に雑用と割り切っているやっているような開発庶務はほんとうに開発庶務でしかなく、そのプロジェクトはデザイナー不在のままで作られていくことになります。
「粗雑で画一的な道具」としてのゲームソフト。そんなものに、何の存在意義があるのでしょうか。
扱いは低いものの、実は責任重大なのです。