◆ ゲームデザイナーの誕生
学生時代、書店でアルバイトをしていたことがあります。担当は仕入れ。店の裏で、納品されてきた本を仕分け、返品されていく本を箱に詰めるという仕事でした。
こういう仕事をしていると、ある種の耳年増になっていきます。いろいろな分野について、妙に詳しくなっていくのです。さほど興味のない分野でも、売れているとそれだけで気になるもの。店の裏では誰の目を気にする必要もなくて、立ち読みすらしづらいような分野でも堂々と読むことができます。
そんな中、印象的だった本がありました。ハドソンから出版されていた児童向けシリーズの中にあった、「ゲームデザイナーになろう」といったタイトルのものです《*1》。内容は、ゲームデザイナーという職業を紹介し、どうしたらなれるのかを指南するというもの。大学生でありながら就職ということをさほど真剣に考えていなかった当時の私は、小学生向けの職業案内の本があることに、かなりの驚きを感じたものです。
ただ、今考えてみると、ここには別の意味で注目に値することがあります。80年代後半の当時はファミコンの全盛期。その時点で、すでにゲームデザイナーという仕事の存在が、小学生の間にも知られていたということです。
改めて考えると、その頃は、日本のゲームがこんにちあるような姿になっていく、大きな転機となった時期だといえるでしょう。
直接的には、それが、家庭用ゲーム機におけるコマンドRPGの創生期だったということ。86年に第一弾が発売された『ドラゴンクエスト』シリーズは、翌年の『Ⅱ』で爆発的ヒットとなりました。同じ年、『ウィザードリィ』『ウルティマ』という米国製RPGの双璧が、相次いでファミコンに移植されています。また、『ファイナルファンタジー』がシリーズ第一弾として登場したのもこの年です。
しかしこれは、単に一ジャンルだけの問題にはとどまりませんでした。これをきっかけに、さまざまな非アクションゲームが登場したのです。88年には『ファミコンウォーズ』(任天堂)、『桃太郎電鉄』(ハドソン)、『信長の野望』『三国志』(コーエー)などがリリースされています。特に歴史戦略シミュレーションゲームの大御所としてパソコンゲーム界に君臨していたコーエーの参入は大きく、それまで若年層中心で動いていたファミコンが大人にも拡がっていったきっかけでもありました。
そしてこうした変化は、クリエイター志望者にも、大きな影響を与えました。量と層の拡がりです。
アクションやシューティングが中心では、作り手に求められる能力はあくまでも技術優先になります。物語的なものなど、せいぜいマニュアルの1ページに書くだけの付け足しに過ぎません。ところが、コマンドRPGは違います。何らかの世界観を背負い、何らかのストーリーを負っていくという作りが基本で、本格的な物語構築が可能となります。またシミュレーションにしても、題材への理解が必要で、それはプログラミングなどとは異なった次元の問題となります。
プログラミングというスキルを獲得しない限り開かなかったゲームクリエイターへの扉は、かくして文科系の人間にも開かれました。と同時に「プログラマではない、ゲームの作者」を意味する言葉としての"ゲームデザイナー"が、にわかにスポットライトを浴びました。結果、それまでになかったタイプの人間が開発現場に参加し、日本のゲームは新しい局面を迎えるに至ったのです。