◆ 拡散・希釈化する"ゲーム"
こんにち、ゲームとゲームでないものの境界線は、かなりあいまいになっています。
これには、ふたつの傾向が指摘できます。ひとつはゲームが他メディアの要素を取り込んでいる場合。例えばアドベンチャーゲーム。登場人物が発言するときも、初期のゲームではテキストだけが表示されていましたが、いつしかそのセリフの発言主のビジュアルが表示されるようになりました。やがて、発言内容により表情が変わるようになったり、ポーズが多彩になったりしました。こうなってくると、もう"デジタルコミック"となってきます。今日なら、3D化された上で声優によるボイスが入るぐらいのことはふつうです。そして、アドベンチャーゲームだけの現象でもありません。コミックやアニメの要素が、さまざまな種類のゲームに入り込んできているのです。
そしてもう一つは、ゲームではないものがゲーム的な要素を取り込んでいる場合。ケータイサイトからパチンコのCR台まで、多彩なものが指摘できるでしょう。
実際のところ、作り手としては、どんな側からのアプローチも可能です。私は(ごくたまにですが)ノベライズなどの仕事もします。このとき「文芸作品を創っている」という意識はありません。「ほとんどテキストで構成された、インタラクティブ性のない紙媒体のゲーム」を作るつもりで取り組んでいます。逆に、ノベル作家がゲームを作るとすれば、「グラフィックスやサウンドをふんだんに組み込んだ、インタラクティブ性のあるデジタル媒体の小説」のつもりで取り組んでも問題なく完成させられるでしょう。同じことがアニメやマンガなどにも言えると思います。
技術が未熟だった時代、家庭用のコンピュータはあきれるほどに貧弱な表現力しか持ち合わせていなかったため、ゲームにはゲーム固有の技が必要でした。しかし技術水準は急激に充実し、そういった個別の差を埋めていきました。ゲームの講師を初めて間もない頃グラフィックスの科目を担当したことがありますが、「256色が自由に使えるようになった今も、パフォーマンス向上のためには16色環境が使いこなせなければならない」を説き、パレット読み替えによるアニメーション処理といった技を解説していたものです。これなど今となっては、ほとんど化石のようなノウハウです。かつてゲームグラフィッカーは、そうしたゲーム専門のノウハウを知り対応しているということを存在理由にできたのですが、既にそうしたビハインドはなくなり、絵描きとしての能力だけで勝負しなければならなくなりました。同様のことが、他の職種にも言えます。
そもそもデザイナーというものは、時代の新しさに対して何かを仕掛けなければならない存在です。
20世紀の工業デザイナーたちは、プラスチックや軽金属など、新しい素材を手にするごとに、その可能性の極限を追求していきました。形態、用途、さらには製法に至るまでを考え、新たな可能性を模索したのです。結果、私たちの生活は、それ以前の時代では考えられなかったほどに、美しく多彩な工業製品に取り囲まれています。ゲーム以外のものがゲーム的な要素を取り込んでいくというのも、こうした"デザイナーのDNA"がもたらす現象でしょう。80年代以降著しく発展したメカトロニクスを取り込むことで、アミューズメントはエレメカに、パチンコは羽根ものやスロットに、変化しました。そして近年のコンピュータの躍進はデザイナーたちに新たな可能性を与え、それらをよりゲームに近いものにしていったのです。
ゲームデザイナーの場合も、やはり同じスタンスを持つべきです。新しい技術的な可能性を手にしたなら、それを活用して、人々に新たな喜びを与えるよう努めなければなりません。3Dが使えるようになれば3Dを、通信ができるようになれば通信を、「プレイヤーを楽しませる」という目的で適切に使っていくべきなのです。「新技術など導入しなくても、面白いゲームは作れる」は一面の真実ですが、これはむしろ技術屋のための言葉であって、デザイナーの役割はそう言っている技術屋を説得することです。
ともあれ、クロスオーバーな時代だからこそ、「ゲーム屋が作るべきものは何なのか」を見据えていないと、自分の居場所を見失ってしまうと思います。「何がゲームなのか」「コンピュータゲームならではの価値は何か」といったテーマは、ゲームの道を進もうとする者が各自考えなければいけない問題でしょう。